檻の犬と籠の鳥 19




いつもの道を歩いて自宅マンションに帰り着くと、それまでMストアMストアとやかましかった真島が急に黙り込んだ。
表情が強張っているのは、佐川の履き古しのパンツを履かされると本気で思っているからか、それとも、自分と同じように緊張しているからか。
はそれをひた隠しにしたまま、真島と共にエレベーターに乗り込んだ。
303号室、そこがの部屋だった。は鍵を開け、玄関のドアを静かに開け放った。


「どうぞ。上がって。」
「おう・・・・・、邪魔するで・・・・・・」

玄関に恐る恐る足を踏み入れる真島の背中が、のすぐ目の前にあった。
この人は一体、どういうつもりなのだろうか?
勿論、善意である事は分かっているし、それを有り難いとも思っている。
けれども、本当にそれだけなのだろうか?
純粋な親切心だけで、本当にそれ以外に他意は無いのだろうか?
何より分からないのは、自分自身の気持ちだった。
二人の道は、また重なるかも知れないという夢を見る事すら叶わない位にもう完全に離れてしまっているのに、何故拒まなかったのだろうか。
家に泊めてくれと言われた時、断るべきだと頭では思っていたのに、心は喜んでいた。今もだ。
下らない事を笑って話しながら二人で歩くのはやっぱり楽しかったし、今この瞬間にも、真島が振り返って強く抱きしめてくれるのを、内心で期待してしまっている。
は真島の広い背中に向かって、そっと手を伸ばした。


「・・・部屋、奥やねん。先行っといて。」
「おう。」

伸ばしたその手が行き着いた先は、真島の背中ではなく壁のスイッチだった。
玄関の電灯を点けると、真島は靴を脱いで先に上がっていった。
また悲しい涙を呑むのは嫌だが、かと言って、今この場でやっぱり泊められないとも言えそうになかった。
ならば、後はもうなるようにしかならない。
は静かに溜息を吐くと、戸締りをして、自分の靴と真島の靴を揃えて置いてから、真島の後を追った。
真っ暗な部屋の中で所在なげに立っている真島の横から手を伸ばして部屋の明かりを点けると、真島は狭い部屋の中を見渡して、意外そうに呟いた。


「何や・・・、思ったよりこじんまりした部屋やのう。あのオッサン、女には気前良かったやろうに・・・・・」
「ああ・・・、ふふふっ。この部屋、ちょっと前に越してきたばっかりやねん。」
「え・・・そうなんか?」
「前のマンションは佐川さんの名義やったから。亡くなったのにいつまでも住んでられへんかったし。」
「・・・・そうか、そらそやな・・・・・」
「自分で借り直そうにも、家賃もごっつい高かったしな。そやから、新しく探してここ借りてん。」

佐川の愛人だった頃を思うと、今は生活の何もかもがグレードダウンしていた。
新築マンションの広々とした3LDKの部屋から、築10年の1Kの部屋に移った。
毎日タクシー通勤していたのが、徒歩に変わった。
毎月のように新しく買い与えられていた服や靴や装飾品は、このところとんと新調していない。
けれども、悪い事や不便な事ばかりではなかった。
むしろ、そもそもが分不相応だった贅沢な暮らしを手放す辛さよりも、元々の自分らしさを取り戻した安心感の方が上回っていた。
近くのスーパーにもタイトスカートとハイヒールで行くような優雅な生活よりも、ジーンズにぺたんこのパンプスで店まで歩いて通う暮らしの方が、やっぱり自分には合っている。最近、よくよくそう思うようになっていたところだった。


「確かに、前の部屋よりめっちゃ狭くはなってんけど、そう悪くもないねんで。
店まで歩いて通える程近くなったし、掃除も楽やし、家族や友達を呼んだり泊めたりも出来るようになったしな。
何より気が楽や。あんまり広くて綺麗な部屋も、何や落ち着かんかったわ。この位が、私の身の丈には丁度合うてるみたい。」

が明るく笑うと、真島も目を細めて笑った。


「何言うとんねん、ここでも十分広うて綺麗や。
俺がグランドにおった時に住んでたアパートなんかもっと狭かったし、吹けば飛ぶようなボロやったで。
おまけに蒼天堀のど真ん前やから、夏場なんかドブ臭うて堪らんかったしな。」

グランドで会ったあの日以降、佐川の口から真島の話を聞く事はなかった。
だから、自分の知らなかった頃の彼の話を聞けるのは、何だか失くした時間を取り戻しているような気がして嬉しかった。


「うわー何それー!何でそんなとこ住んでたん!?」
「知らんがな!佐川のオッサンが勝手に決めよってんから!」

真島は心底嫌そうに顔を顰めてそう言うと、思い出したようにハッと息を呑んだ。


「・・・・って、そや、佐川のオッサンで思い出したわ。お前、俺の着替えあるってどういう事やねん?いやホンマに、冗談抜きで。」

確かにその言葉通り、冗談抜きの顔をしている。
嫌がっているというよりも、もはや怖がっているというべき表情だ。
真島のその顔を見て、またぞろ悪戯心が沸き起こってきそうになったが、これ以上からかってやるのも少々気の毒だった。


「・・・ちょっと待って。今出すから。」

戦々恐々としている真島に笑いかけて、は押入れを開けた。
まずは手前を塞いでいる客用の布団を引っ張り出すと、その奥に仕舞ってある物が見えた。
黒い縦長の紙袋と、某高級ブランドのロゴが入った大きな紙箱。
普段は目につかないし、取り出す事もないが、しかしその存在を忘れた事はない。
にとって、これらはお守りのようなものになっていた。
じわりと熱くなる目頭を誤魔化して、は紙箱の方を引っ張り出した。
そして、緊張ここに極まれりという顔になっている真島の目の前で、その箱を開けた。


「うん?・・・・何やこの服、見覚えが・・・・・あっ!お前これ・・・!」
「ふふっ、思い出した?そうや。正真正銘、あんたの服やで。」
「はっ・・・・・」

真島は苦笑いしながら、箱の中に入っていた赤いTシャツを手に取った。
それは離れ離れになったあの日、真島があのマンションの部屋に置いていったTシャツだった。
スウェットのズボンも、下着も、あの日あの部屋に残されていた彼の衣類が全て、この箱に入っていた。
真島はそれらを次々と手に取っては、泣き出しそうにも見える顔で笑った。


「な?だから言うたやろ、あんたの着替えならあるでって。まさかまた使う日が来るとは思わんかったけどな、ふふふっ。」
「お前なぁ・・・・・!それならそうと早よ言わんかい!はははっ・・・・・!」

声を上げて笑っていた真島が、突然ふと押し黙った。


「・・・まさか、まだ残っとったとは思わんかったわ・・・・・」
「あんたがおらんようになった日にな、あの部屋から持って出てん。」

全てはもう終わった事だと、よくよく、よくよく、理解している。
それなのに、あの日の事が鮮烈に蘇ってくる。
眩しすぎる夕陽の中で、残されていた真島の服を罪の意識と共に抱きしめて、涙が枯れるまで泣いた事も。
それらをどうしても諦めきれず、夜の闇で隠すようにして、こっそりと部屋から持ち出した事も。


「持って帰ったって余計辛くなるだけやって分かっとったけど、どうしても、置いて出られへんかった・・・・・・」

こんな事を言えば、未練が断ち切れていないと言っているも同然なのは分かっているが、止められなかった。
は真島の顔を見つめて、彼の反応を待った。


・・・・・・」

その切なげな眼差しに、胸が疼く。
早く抱きしめて欲しいと、焦れて騒いでいる。
いっそ自分の方から行動に出ようかと動きかけた瞬間、真島の表情が変わった。
何がどうという訳ではない、ごくごく些細な変化だ。
しかし、何だか罪悪感を抱いているように見えるその曇った表情は、失くした恋にのぼせ上がりかけていたに冷や水をぶっかけて、我に返らせるのに十分だった。


「・・・・・お風呂、支度してくるわ・・・・・!」

は明るい笑顔を装って、その場から逃げ出した。
浴室に閉じ籠り、鏡を見ると、情けない作り笑いを浮かべた女が映っていた。


「・・・・何してんの・・・・・」


真島の方には、やっぱりその気は無いのだ。
心配になったから大阪に来て、親切で店を手伝ってくれて、泊まる所が見つからなくて困っていたからやむなく家に来た、只それだけなのだ。
やはり東京に恋人がいて、その人に後ろめたさを感じているから、あんな顔をしたに違いない。
それなのに、一人で勝手に時間を巻き戻し、すっかりのぼせ上がりかけていた自分が、恥ずかしくて堪らなかった。
だが同時に、少しだけ安心もしていた。
彼が昔言っていた、俺は一途やという言葉が、本当だったとこれで証明されたのだから。
良い男と恋をした、自分の見る目は確かだったと、証明されたのだから。


「アホ・・・・・・」

それでもまだ、未練たらしく寂しい顔をしている鏡の中の自分が、ばかみたいだった。
















真っ暗な部屋の中で、真島は一人、天井を見つめていた。
そこに何がある訳ではない、ただ、目を閉じていても全く眠気を催さないのだ。
布団の寝心地は悪くない、枕が変わると寝付けないというタイプでもない。
グランドにいた頃はあまり眠れない日々が続いていたが、このところはそれなりに眠れるようになってきている。
それが今夜は、全く眠れる気がしなかった。
尤も、今のこの状況でグウグウ熟睡出来る男など、まずいないだろうが。
真島は顔を少しだけ横に向けて、壁際のベッドに目を向けた。
はもう寝付いただろうか?ここからでは顔が見えないから分からない。
確かめたいのは山々で、さっきからずっと呼びかけようとは思っているが、いざとなるとどうしても声が出なかった。


― 何をしとんのや、俺は・・・・・

我ながら馬鹿だとしか思いようがない。
ひとつ屋根の下に男と女が一緒にいて、どちらもその気だったのに、土壇場で別の女の事を思い出すなんて、とんだ大馬鹿野郎だ。
未練ではない、と思う。
マコトをあの医者に託した事を、悔やんでいる訳ではない。
彼女を散々に傷付けてきた連中と同じ、裏社会の極道者では彼女を幸せにする事は出来ない、そう思ったからこそ、あの誠実だが奥手そうだった医者に強引にハッパをかけてまでして、マコトを託したのだ。
それが、ならば抱けるというのはどういう事だ?
堅気の男と幸せになって貰いたいと願ったのはに対しても同じだった筈なのに、が今も一人でいる事を内心で喜び、安堵しているなんて、非道く勝手ではなかろうか?
元は堅気の娘だったのが、こんな男と関わったばかりに人生を狂わされて、ヤクザの情婦にまでなってしまったのに。
はそれこそ、己のこの手でめちゃくちゃにしてしまったようなものなのに。
そう思った瞬間、を抱き寄せようとしていた手が止まってしまったのだ。
あれから交代で風呂に入り、すぐに床に就いたが、その間は取り留めもない会話をしていただけで、二人の間には何事も起きなかった。
その間、はずっと、あっけらかんとした調子で笑っていた。
だが、ああ見えても意外と繊細な所のある女だ。傷付けてしまっただろうかと思うと、それはそれで胸が痛んだ。
こんな大馬鹿野郎との思い出を、は密かにずっと大切に持ち続けてくれていたというのに、どうする事も出来ない。どうすれば良いのか分からない。


― どうすりゃいいねん、俺は・・・・・

考えれば考える程に答えは遠ざかり、目も冴える一方だった。

















良い匂いがする。
温かくて、優しくて、安心する匂いだ。
その匂いにそっと揺すり起こされて目を開くと、ほぼ同じタイミングで部屋のドアも開いた。


「ああ、起きた?おはよう。」
「・・・おう・・・、おはようさん・・・・・」
「丁度良かったわ。今起こそうと思っててん。そろそろご飯にしようや。」

がカーテンを開けると、明るい陽射しが部屋の中に差し込んできた。
カジュアルなシャツとジーンズにエプロン姿できびきびと動くを見ていると、まるであのマンションのあの部屋にいるかのような気になった。


「今何時や・・・・・?」
「もうお昼の1時やで。」
「えぇ・・・!?もうそんな時間か・・・・・!」

身体を起こして時計を見ると、確かに午後1時を回っていた。
ずっと悶々と考え込んでいた筈が、どうやらいつの間にか眠り込んでいたようだった。


「よう寝てたなぁ、ふふふっ。」

からかうように笑われて、とんでもない、こっちがどんな思いで夜を明かしたと思ってるんだと言いそうになったが、言えた義理ではない事を思い出して、真島は溜息を吐いた。


「お陰さんでな。流石に昨日は疲れたわ。」
「だから悪いと思ってご飯奮発したんやん。近所のめっちゃ美味しいパン屋さんのバゲットと、さん特製ポテトサラダに具沢山のコンソメスープ、メインは特上サーロインのステーキやで!」

献立を聞いた瞬間、思い出したように腹が減った。


「起き抜けからまたえらいコッテリやのう。」
「あかんかった?」
「イケるに決まっとるやろ。」

真島がそう返すと、は嬉しそうに笑い、すぐお肉焼くわと言い残して部屋を出て行った。
が元気溌剌なのは知っているが、それにしても元気過ぎる。一体いつから起きて活動していたのだろうか。
いや、早起きというより、殆ど寝ていないのかも知れない。考えてみれば当たり前の事だが、何も思い悩まずにいられる筈がないのだ。
は今、どう思っているだろうか?
例えばもしも、東京へ来ないかと誘ったら、は応じるだろうか?
店を手放し、家族と別れ、生まれ育った大阪を離れて、かつて彼女が望んだような生き方は出来ないと分かっていて、それでもなお。
そして自分は、それに値するだけのものをに返してやれるのだろうか?
また考え込んでしまっていると、肉の焼ける音と香ばしい匂いが部屋に流れ込んできた。
ともかく、まずは飯だ。
折角が腕を振るってくれたのに、味が分からなくなるような話題をわざわざ振る事はない。
真島はそれ以上考えるのをやめると、布団を畳んで部屋の隅へやった。
代わりに、ローテーブルを昨夜あった位置に戻していると、がまたひょっこりと顔を出した。


「あぁ、テーブル出してくれたん?ありがと!じゃあもう運ぶわ!」
「おう。」

真島はを手伝って料理や食器を運び、テーブルの上に並べた。
全てが出揃うと、がようやく真島の差し向かいに腰を落ち着けた。
それを見計らってから、真島はナイフとフォークを手に取った。


「いただきまーす!」

目を惹くのは、やはり肉だった。
一切れ切って、ソースをたっぷりと絡めて頬張ると、舌を責める熱さを押し退ける程の旨味が、口の中いっぱいに広がった。


「んんっ!美味いっ!」
「ホンマ?良かったぁ。私も食−べよっと!いただきまーす!」

は嬉しそうに笑って、自分も食べ始めた。
元気良くモリモリと食べるその姿もまた、3年前と何も変わっていなかった。


「お前、相変わらずよう食うなぁ。」
「何言うてんの。ご飯しっかり食べやな身体もたへんやん。」

そういえば、初めて会った時にも同じような事を言われた覚えがある。
否応なしに三度三度きっちり食べさせられたお陰で、瀕死の状態からあれだけの早さで回復する事が出来たのだ。
それを思うと、改めてに感謝の気持ちが湧くと同時に、男は胃袋を掴まれるとイチコロだという馬鹿馬鹿しい通説があながち嘘でもない事を実感して、真島は笑いを零した。


「しっかし、昨夜のカレーには驚いたわ。晩飯出てくるクラブなんて初めて聞いたぞ。」
「ああ、あれな。ふふふっ。」

は水を飲むと、にんまりと微笑んだ。


「初めはな、佐川さんの意向通りに、上品で高級な路線で営業しててん。
でもそんなお店は他にもぎょうさんある、っていうかあの辺はそんなお店ばっかりやから、勝ち残っていこうと思ったら、どれだけリッチな店に出来るかの競争や。
高いお酒、綺麗な女の子、豪華なインテリア・・・、そんなん、経費がなんぼあったって足らんわ。」
「確かにのう。」

の言う通りだった。
グランドも正にその熾烈な競争の繰り返しでのし上がっていったのだ。


「同じ路線で延々と競争を続けてたって、経費がかさむばっかりで大して売上は伸びひんし、何かうちだけにしか出来ん事はないやろかって考えたんや。
ほんで思い付いたんが晩ご飯やねん。
お客さんも女の子も、空きっ腹でお酒ばっかり飲んでたら身体に悪い。
それに、人と一緒にご飯食べたら、美味しいしホッとするやろ?そう思って、毎日ご飯作って出すようになってん。
食事を口実にして、店の女の子をすぐアフターに連れ出したがる困ったお客さんの牽制にもなるしな。
まあ、そんな凝った料理は出来ひんからなるべく簡単に出来るもんばっかりやし、品数も量も限られてるねんけど、でもそうやってたら、その内だんだんお得意さんが増えてきてん。
それに、お店のスタッフの雰囲気も何となく良くなってきて。そら何にも問題が無い訳やないけど、でも結構まとまりのある店になってきたと思ってる。」

照れ臭そうなの笑顔は綺麗だった。まるで我が子を誇る母親のように見えた。
そんな顔をされたら、東京へ来いなんて益々言えなくなる。
が単に金を稼ぐ手段としてしか考えていないのなら幾らでもつけ込む隙はあったが、あの店は今やにとって、家族も同然なのだろう。
ひたむきにあの店を育てていくを、佐川はどんな気持ちで見守っていたのだろうか。
あの鼻持ちならないスカした親父が苦笑いしている様をふと思い浮かべて、真島は小さく吹き出した。


「なるほどのう、何やお前らしいわ。それは俺には無かった発想や。
そやけど、お前が毎日作っとんのやろ?他にも金の計算やら色々やらなあかん仕事があるやろうに、大変とちゃうんか?」
「そらもう!」

は声を大きくして、大袈裟な位の動作で頷いた。


「下拵えは男の子らに手伝って貰ってるけど、献立考えて、買い物行って、何やかんやで開店準備に時間かかるねん。
そやから、休みの日以外は、いつも大体お昼2時位から店に行ってるわ。」
「昼の2時!?」

真島も思わず声が大きくなった。


「そしたらお前、12時間ぐらい店におる事になるやんけ!長すぎやろ!」
「佐川さんにもよう小言言われたわ。もっと効率良くしなきゃ儲けが増えねぇぞとか、利益率ってもんを考えろ、とか。
でも、私にはこれしか出来ひんから。」

グランドにいた頃は自分も大概仕事漬けの毎日を送っていたが、もかなり重度だ。
真島は感心半分呆れ半分で、の顔を呆然と見つめた。
微笑んでいるその顔が幸せそうで、何だか負けたような気分になる。
ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ面白くないけれども、それでもやはり、の笑った顔を見られるのは嬉しかった。


「・・・で?今日の献立は何や?」
「今日はかやくご飯や。材料もさっき買うて来た。
いつもは店のすぐ近くのスーパーで買うねんけど、便利な代わりにちょっと高いのが難点でな。
今日はあんたがいてくれてるから、チャリでひとっ走りして市場で買うて来てん。ちゅー訳で、荷物持ってな?」

ににんまりと微笑みかけられて、真島は大きく溜息を吐いた。
そう、その笑顔に弱かったのだ。
それを別れ際につい涙と共に白状してしまったあの時の自分を思い返すと、こっ恥ずかしくて堪らない。
あの事を、はまだ覚えているのだろうか?だからこんな顔をして頼むのだろうか?
尤も、それでなくても荷物持ちぐらいお安い御用だが。


「・・・畏まりました、ママ。」

真島はおもむろに姿勢を正し、接客用の態度でに一礼をして見せた。
それからナイフとフォークを取り直し、改めて食卓に目を向けた。


「っしゃ!ほなガッツリ食うて、今日もバリバリ稼ぐでぇ!」

まずは腹ごしらえだ。
きょとんとしていたが楽しそうにクスクスと笑い出す声を聞きながら、真島は本腰を入れて食べ始めた。



















今夜も店は盛況だった。
抜けてしまった3人はやはり戻ってきていなかったが、真島と、が付き合いをしている近隣の店からのヘルプとで、何とかカバーする事は出来ていた。
しかし、問題の根本は何も解決していない。
それを改めて思い知らされる事件が起きたのは、満席状態となった忙しい最中だった。


「毎度〜っ!寿司正でーっす!出前お持ちしましたぁっ!」
「うん?」

勝手口のドアを開けてキッチンに入ってきた若い板前の姿を見て、真島は首を捻った。
寿司の出前を取った覚えもなければ、からそれらしい事を聞かされた記憶もなかったからだ。
だが、忙しくて言い忘れていただけなのかも知れないし、客の要望で女の子達の内の誰かが注文したのかも知れない。
ともかく受け取ろうと、真島は板前に歩み寄って行った。


「おう、ご苦労さん。」
「毎度どうも!全部こっちへ運ばせて貰ろて宜しいでっか?」
「全部?」

何だか妙な違和感のある話だった。真島は再び首を捻り、板前に尋ねた。


「全部ってどういうこっちゃねん?どんだけあんねや?」
「どんだけって、特上握り100人前てご注文でしたよね?」
「100ぅ!?!?」

現在店は満席だが、従業員と合わせても100人前の寿司を捌ける程の人数はいない。
どう考えても、そんな量の出前を取っている筈がなかった。


「100人前て何やねん!?そんなもん知らんぞ!他所と間違うてんちゃうか!?」
「いえ、確かにクラブパニエさんからのご注文の品で。」
「ホンマかいな!?そんな事聞いとらんぞ!?」
「いやいや、確かにご注文頂きましたよ!?」
「いつ!?」
「昼の1時位に、お電話で・・・・!」

その時間ならばまだの部屋にいた頃であるし、従業員の女の子達が勝手にそんな事をする訳もない。
大体、量が突拍子もない。
考えられる線はただ一つ、悪戯、いや、営業妨害だった。
そしてその首謀者の心当たりも、たった一人しかいなかった。


「・・・・兄ちゃん、すまんけどそれは受け取れんわ。」
「えぇぇ!?ちょっ・・・、ど、どういう事でっか!?」
「それはうちが注文したんとちゃう、悪戯や。せやから、悪いけどそれは持って帰ってくれ。」
「そんなぁ!!」

真島が毅然と断ると、板前は大層困った顔になって抗議を始めた。


「そんな事言われても、うちかて困りますわぁ!!ほなこの100人前の寿司、どないせえっちゅうんでっか!?」
「うぅっ・・・・!そ、それは・・・・・」
「こんな大量の出前、うちかて急に言われても困りますのに、そちらさんがどないしてもて言わはるから、うちもかなり無理して都合しましたんやで!!」

寿司屋側の事情も勿論理解出来る。同情もする。
しかし、だからと言って身に覚えのない金を、それも大金を、ホイホイと払う訳にはいかなかった。


「そう言われても、うちも覚えのない事なんや。悪う思わんといてくれ。」
「ちょう待って下さいよ!ホンマ困るんですって!」

お互い一歩も退けず、殆ど小競り合いのようなやり取りをしていると、がキッチンへ入って来た。
すぐに只ならぬ様子を察したらしく、は眉を潜めて真島の元へやって来た。


「何やの?どないしたん?」
「いや、それがやな・・・」
「あぁ、ママさん!どないなってるんでっか!?」

真島の声と板前の声がほぼ完全に重なり、は益々怪訝な顔になった。


「ちょ、ちょっと待って、寿司正さん、どないしはったんですか?」
「出前のお届けに上がったんですけど、こちらの兄さんが、それは悪戯やから受け取れんて言わはるんですわ!ホンマでっか!?」
「悪戯?」
「特上寿司100人前やと。どない考えても悪戯やろ。」

もその見当がついたのだろう、不安げな眼差しで真島を見上げた。
しかしそれはほんの束の間の事で、はすぐに板前に愛想の良い笑顔を向けた。


「すみません、えらいご迷惑おかけしまして。お幾らですか?」
「あ・・、お、お願いします・・・・!」

板前が差し出してきた請求書の金額は、やはり相当に大きかった。
敢えて被るにはあまりにも手痛い出費で、思わず止めかけたが、しかし真島はそれをどうにか堪えた。
元同業者として、の考えている事が大体読めたからだ。
が事務室へ金を取りに行き、分厚く膨らんだ封筒を板前に手渡すのを、真島は黙って見守っていた。
キッチンが大量の寿司桶でいっぱいになり、板前が安堵した顔で帰るまで、ずっと黙っていた。


「・・・寿司正さんはな、うちがオープンした時からお世話になってるお店やねん。
たとえ悪戯でも、そんなん向こうさんには関係のない事やし、迷惑かけられへんわ。」
「・・・まあ、そんな事やろうとは思ったけどな。」

だから、止めるに止められなかったのだ。
この店の経営者はであって、そのやり方について部外者の自分に口を挟む権利はない。そう思ったから何も言えなかったのだ。
真島は溜息を吐いて、に目を向けた。
多少なりとも堪えてはいるだろうが、そう酷く動揺したり落ち込んでいる様子はなく、意外と平気そうだった。


「・・・そやけど、このまま黙っとる気か?誰の仕業か、お前も分かっとるんやろ?」
「証拠は無いわ。文句言いに行ったかて、すっとぼけられておしまいや。
それに、そんな事したら、困ってますって自分からバラしに行くようなもんやろ。
大丈夫。こんな位、何て事ないわ。女相手にチマチマ姑息な嫌がらせするようなチンピラがなんぼのもんや。佐川さんの方がよっぽど怖かったわ。」

まっすぐで快活な瞳が、真島を見上げて笑った。
あの頃よりも、また一段と肝が据わって逞しくなっている。
仮にも近江連合直参の組長を相手に一歩も退く気の無いその気骨は、女だてらに大したものだった。
言い換えればそれは命知らずとも表現出来て、決して感心してばかりいられる訳ではないのだが、それでも、その気丈な微笑みに釣られて笑わずにはいられなかった。


「ひひっ、流石でんなぁ、姐さん。」
「やめてや。人を極道の女みたいに。」

の思うようにすれば良い。
その結果、もしもその身に火の粉が降りかかるような事があれば、俺がそれを払ってやる。
その為に俺は今、ここにいるのだから。
苦笑いするに、真島は心の中でそう告げた。


「そやけど、この量どないすんねん?」

ここはの意思に従って、甘んじて引き下がるとしても、まだ問題は残っていた。
このおびただしい量の寿司の処理である。


「今おる全員にたとえタダで振舞ったとしても、こんなに捌ききれんぞ。」

今いる客は、大半が既に食事中か、食事を終えてしまっている。そのテーブルに着いている女の子達も同じくだ。
たとえ特別サービスだと言って振舞ったところで、そんなに減らせるとは思えなかった。


「・・・・・しゃーない。配ろか。」

暫く黙り込んでいたが、ポツリとそう呟いた。


「は?」
「配るねん。その為には、まず詰めんとな!」
「はぁ!?」

はドレスの上からエプロンを着けると、物入れの戸を開けて大量の折箱を出した。


「お、おい、まさかお前、今から100人前の折詰作る気か!?」
「100は流石に要らんと思う。取り敢えず50や。あとの50はお店で出すわ。
1人前全部は多くても、1貫2貫ずつやったら食べて貰えるやろ。悪いけど、お店の方はあんたに任せて良い?」
「お、おう、それは構へんけど・・・」
「ほな、頼むわな!」

はすぐさま手を洗い、凄い勢いで寿司を折箱に詰め始めたのだった。


















今夜もまた、怒涛のような夜だった。
身体に纏わり付いていた甘ったるい夜の匂いを熱いシャワーで洗い落とすと、ようやく人心地ついた気がして、真島は安堵の溜息を吐いた。
営業中ずっと密かに警戒はしていたが、結局、出前事件以外は何事も起きず、あの膨大な量の寿司も何とか無事に捌ききれた。
が、付き合いのある店に片っ端から配り歩いたのだ。
届け先は同業のクラブだけではなく、いつも買い物をしているというスーパーや花屋にまで及んでいた。
華やかに装いながらも水面下では何かとドタバタしているのはどこの店も同じだが、それにしても今夜のクラブパニエはドタバタしていた。
いや、は、と言った方が正しいだろうか。
山程の折詰を作っては店を出たり入ったり、かと思いきや、客席からお呼びが掛かればすっ飛んで行って会話に付き合い・・・と、見ている方の目が回りそうな程の多忙ぶりだったのだ。
そして真島もまた、のべつまくなしに動き回るの身を案じて、どっと気疲れしていた。
心配だから付き合おうにも、それより店を頼むと言われてはどうしようもなく、どれ程気を揉んだか。
確かに食い物を粗末にするのは良くないが、それよりも我が身の安全の方が余程大事なのに。
ああいう無防備なところも相変わらずやなと内心でぼやきつつ、真島は身体を拭いて服を着た。
風呂上がりの火照った身体にすぐさま服を着込むのは暑くて鬱陶しいのだが、裸で出ていく訳にはいかない。
知らぬ仲ではないのだが、いや、だからこそだろうか、妙に気にしてしまうのだ。
Tシャツの裾をパタパタ振って発生させた僅かばかりの風で涼みながら、真島は部屋に戻って行った。


〜、風呂空いたでぇ〜・・・・・って寝とるがな。」

部屋に戻ってみると、さっきまで起きていた筈のが眠っていた。
横にすらならずに、座ったまま力尽きたようにベッドにもたれて眠っているの寝顔を、真島はじっと見つめた。


「よう寝とんなぁ・・・・・」

きっととても疲れていたのだろう、はぐっすりと寝入っていた。
柔らかいウェーブのかかったロングヘアがぐっと女らしくなったように見せているが、寝顔は相変わらずあどけない。
真島は声を出さずに笑うと、の側にしゃがみ込んだ。
こうしての寝顔を間近で見ていると、昼間から狭いベッドで身を寄せ合っていた事を思い出さずにはいられなかった。
組を追われ、全てを見失っていたあの頃、といる時だけが心安らいだ。
もしもあの時、佐川にを奪われていなければ、今頃はこんな生活が当たり前の日常になっていたのだろうか。
二人で店をして、同じ部屋に帰って、一つのベッドで一緒に眠って、あの時が描いてくれた夢の通りの暮らしをしていたのだろうか。


「・・・・・・・・・」

真島は引き寄せられるようにして、に顔を近付けていった。
まだルージュの残っている唇に自分の唇を重ねかけて、そして、触れ合わせる寸前で思い留まった。
そんな事をする資格があるのだろうか?
普通の女の幸せを望んでいたの人生を大きく狂わせた上に、今またそれを遠ざけてしまう権利があるのか?
そう思うと、己の感情のままに口付けてしまう事はやはり出来なかった。
真島は再び立ち上がり、の肩を軽く叩いた。


。」
「・・・・・ん・・・・・・」

はぼんやりと目を開けたが、余程眠いのだろう、またすぐに瞼を閉じてしまった。


、寝るならせめて着替えて化粧だけでも落とせや。肌荒れるで。」

肩を軽く揺さぶっていると、暫くして、重そうなの瞼がまたどうにか開いた。


「ぅん・・・・・、そうする・・・・・・・」

まだ殆ど寝ている顔を力なく笑わせると、は立ち上がって、覚束ない足取りで部屋を出て行った。
そのフラフラな後ろ姿は警戒心ゼロで、隙だらけで、簡単に捕まえて抱き竦めてしまえそうだった。
いやむしろ、それを望まれているかのようにさえ思えてきてしまうのは、心がどんどん時間を遡っていっているからだろうか。


「・・・・・気ィ許しすぎや、アホ・・・・・」

あまり隙を見せないで欲しかった。
でなければ、の幸せな未来を願う気持ちより、己が過去に失ったものを取り返したい気持ちの方が強くなってしまいそうで。




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後書き

龍が如くシリーズって、実在の俳優さんが沢山出演されているのも特徴の一つですよね!
龍0にハマりすぎて、以降、鶴見辰吾を『佐川はん』と呼ぶようになったり、小沢仁志を『久瀬の兄貴』と呼ぶようになった人は、きっと私だけじゃない筈だと信じています。
でも竹内力は阿波野じゃなくて『萬田はん』なのです(笑)。それもきっと私だけじゃない筈!