檻の犬と籠の鳥 18




本当に、今日は何という日だろう。
良い事と悪い事が、同時に起こるなんて。
客の目障りにならない程度の最速で店の中を慌ただしく動き回りながら、は必死に惨めさを堪えていた。
是非来てくれと自分から頼んでおいて席にも着かないなんて、失礼な女だと思われているだろうか?
それとも、同業でやり手だった彼の事だから、今この店に起きている異変に気付いているだろうか?
どちらにしても、情けなくて堪らなかった。
折角の、たった一度きりの機会なのに、悔しくて堪らなかった。
だが、店の中でそれを顔に出す訳にはいかない。
とにかく今夜の営業を何とか乗り切る事だけを考えろと自分に言い聞かせて、はいつものように、客ににこやかな微笑みを振り撒き続けた。
酒とグラスを客席に運び、一言二言世間話に付き合ってその場を離れれば、またすぐに別の席から声が掛かって注文を受ける。
手の空いている女の子達が手伝ってくれてはいるが、客席が埋まるにつれてその数は当然ながら減っていき、どんどん手が回らなくなってくる。
付き合いのある店に助っ人を頼みたいところだが、こんなに急ではそれも叶わない。
本格的に忙しくなるのはこれからなのに、どうすれば良いのだろうか。
絶体絶命とは、こういう事をいうのだろうか。
どうしようもない危機感を独りで噛みしめていたその時、突然、誰かがキッチンに入って来た。


「おい。ボーイの服貸せ。」

その人は、真島だった。
真島は足早にキッチンに入って来て、潜めた声で唐突にそう言った。


「ご、吾朗・・・・!な、何・・・・?どないしたん、急に・・・・?」
「ボーイおらんのやろ?俺が手伝うたるから制服貸せ。」

このカッコじゃ流石にアカンやろと付け足す彼に、愛想笑いさえ見せる事が出来なかった。
そんな事気にしなくて良いからゆっくり楽しんでいってとか、うちはいつもこうだからとか、取り繕いようは幾らでもある筈なのに、言葉が出て来ない。
呆然としていると、やがて真島は焦れたように顔を顰めた。


「何をボーッとしとんねん!早よ貸せや!」

急かされてようやく、動かなかった身体にエンジンがかかった。


「・・・・・こっち・・・・・来て・・・・・!」
「おう!」

は出来るだけ人目につかないようにして、真島を事務室へ案内した。
そして、2人の男性スタッフのうち、背の高い方のスタッフのロッカーを開けて、ボーイの制服を出した。
背が高いといっても、そのボーイより真島の方がまだ5〜6cmは高いだろうが、服は多分問題なく着られるだろうと思われた。


「これ、多分サイズいけると思うねんけど・・・・・」
「おっしゃ!」

真島はが差し出した制服一式をひったくるように受け取って傍らに置くと、の目の前で躊躇いなくジャケットを脱いだ。
あの艶やかな白蛇と般若の刺青が目に飛び込んできて、は思わず目を逸らした。
元々半裸も同然の格好だったが、こうして目の前で脱がれると、何だか妙に恥ずかしくなってしまったのだ。
しかし真島の方はそんなの胸中などまるで気付きもしていないかのように、テキパキとシャツを羽織り、ボタンを留めていっている。
事務室の片隅に男性スタッフ用の着替えスペースをカーテンで囲って作ってあるのだが、ベルトを外す音がカチャカチャ聞こえ出した今、教えるだけ時間の無駄になりそうだった。


「へ、部屋の前におるから、着替え済んだら出て来て。」
「おう!」

は真島の方を見ないようにして事務室を出た。
ドアの傍らに立って待っていると、ウイングカラーの白いワイシャツと黒のベストスーツに身を包んだ真島がすぐに出て来た。
黒革の手袋は外しているが、眼帯はそのままだ。
だが、外す方が却って奇異の視線を向けられそうなので、そのままでいて貰った方が良さそうだった。


「服、きつくない?」
「丈は気持ち足らんけど、幅は大丈夫や。」

真島は喉元の蝶ネクタイの位置を直し、『どや、似合うやろ』とばかりに得意げな笑みを浮かべた。
その時、客席から何やら剣呑な大声が上がった。


「おぉーい!!いつまで待たせんねん!!注文聞く気ないんかぁこの店はぁ!!」

吃驚して目を向けると、さっき入店したばかりの新規の客が一人、声を荒げていた。
席に着いている女の子も、困った顔をしてオロオロしている。
早くとりなしに行かねばと足を踏み出しかけたが、それより先に真島が動いた。
たった今、借り物の制服を身に纏ったばかりなのに、あたかもずっとこの店で働いていたかのように、いや、まるでこの店の主かのように見えるから不思議だ。
落ち着いた足取りでフロアを堂々と歩いていくその後ろ姿を、は思わずぼうっと見つめた。


「お待たせ致しまして大変申し訳ございませんでした、お客様。」

真島が丁寧な一礼と共に詫びると、つい今の今まで息巻いていた客が急に口を噤んだ。
理由は大方察しがつく。
しかし、そのまま完全に大人しく引き下がるような客なら、最初から声を荒げたりはしない。
客は横に座っている女の子を弾き飛ばすようにして立ち上がり、真島と対峙した。


「な、何や、感じ悪い店やのう!やっと注文取りに来よったかと思たら、ケツモチ出してきよって!」
「よく間違われます。ですが、違います。」

店内はいつの間にか静まり返っており、客も従業員も、この場にいる全ての者が、この騒動を興味津々に見守っている。
人々の注目を一身に浴びながら、真島は対峙する客に向かって、また折り目正しく一礼した。


「私は、当店ボーイの真島と申します。」
「ボ・・、ボーイ・・・!?」
「はい。遅くなりまして誠に申し訳ございません。ご注文を承ります。」
「あ・・・・・、えっと、じゃあ、ビールと枝豆を・・・」

女の子がまだ半分訳の分かっていないような表情でオーダーを通すと、他の客席からチラホラと微かな笑い声が上がった。
それに混じって、『居酒屋か』という、小馬鹿にしたようなツッコミも聞こえてくる。
女の子はただ普通にオーダーしただけなのだが、皆が黙ってこの席を注目している状態だったので、オーダーの内容が丸聞こえになってしまったのだ。
すると、客は顔色だけみるみる内に泥酔したようになり、また声を荒げた。


「ちゃ、ちゃうわ!俺はそんなん頼んでへんやろ!」
「え?でも・・」
「俺が頼んだんはシ・・、シャンパンやろが!シャンパン・ブラック!と、フルーツ盛り!早よ持ってこんかーい!!」

まるで自棄を起こしたような、一際大きな声でそう叫んだ客に向かって、真島はまた完璧な角度でお辞儀をし、畏まりましたと答えた。
そして、にチラリと目配せをして、悠然と歩いて行った。
つい呆気に取られてしまっていたが、呆けている場合ではない。
この場を取りなすのは自分の役目だという事を思い出して、は真島と入れ替わりに、足早にその席へと向かった。


「お客様、長らくお待たせ致しまして大変申し訳ございませんでした。
また、他のお客様方には、当店の不手際によりお騒がせ致しました事を深くお詫び申し上げます。どうぞ引き続き、ごゆっくりお楽しみ下さいませ。」

全てのテーブルに向かって頭を下げて回ると、方々から労いの声が掛かった。
顔を上げると、キッチンの入り口の所に立っている真島と目が合った。
微かに笑って親指を立てて見せる真島に、も微笑みで応えた。


















全く、目まぐるしい一日だった。
取り急ぎ書き上げた『ボーイ急募』の張り紙を店の外壁に貼り終わると、自然と大きな溜息が零れ落ちた。
今夜は何とか凌ぐ事が出来た。が、それはあくまでも急場凌ぎだ。
明日、いや、今夜にはまたたちまち困る事になるのが、今の時点でもう分かっている。
No.1の千秋と同じく、2人のボーイも今日を限りに店を辞めてしまったのだ。
どちらからも、営業の合間を縫って掛けた電話で突然の退職を告げられたが、理由が明確だった千秋とは違い、彼等の退職理由ははっきりしなかった。
しかし、何かを恐れているかのような口ぶりだったので、何となく察しはついた。
千秋の事は『自分の店』という餌を使って釣り上げたが、男2人は手っ取り早く脅しでもかけて追っ払ったのだろう。
だとすれば、これもまたやはり引き止める事は出来なかった。
仮に説得して引き止めたところで、には彼等の身の安全を保証してやる事は出来ないのだから。
この3人を失うのは相当な痛手だが、ここは一旦諦めるしかなかった。
姑息な手を使って嫌がらせをしてきた岩下の事は勿論腹立たしいが、かと言ってすぐさま怒鳴り込みに行けば、効いていると思われて却って足元を見られかねない。
むしろ完全に無視を決め込んで、こんな嫌がらせではこの店はビクともしないという事を知らしめてやる方が良さそうだった。
そんな事より、今考えねばならないのは明日からの事だ。
一番の花形と裏方を失って、クラブパニエは今、未だかつてない窮地に立たされている。
明日からどのようにして店を回すか、それを早急に考えねばならない。
はまた重い溜息を吐いて、店の中に戻った。
閉店時間を過ぎた店内に客の姿はなく、女の子達も皆もう帰っており、今この場にいるのはと真島の二人だけだった。
は、客席の片付けをしている真島に歩み寄って行った。


「・・・今日は、ありがとう・・・・・、ホンマ助かった・・・・・。」

が礼を言うと、真島はテーブルを拭く手を止めて小さく笑った。


「何をガラにもなくしおらしい事言うとんねん。」
「ホンマにごめん・・・・。佐川さんの事でわざわざ気に掛けて来て貰っただけでも悪いのに、こんな迷惑まで掛けてしもて・・・・・」

こんな事をさせる為に、来てくれと頼んだのではないのに。
情けなくて、申し訳なくて、真島の顔をまともに見られず、は視線を床に落とした。


「組の方でよっぽど何か起きひん限りは、1週間程こっちにおれる。その間、店は俺が手伝うたるから心配すんな。」

真島の接客は完璧だった。
『キャバレー グランド』に行ったのはあの1回きりだが、流石はあれだけの店を立て直し、切り盛りしてきただけの事はある。
彼が手伝ってくれるのなら、どんなに、どんなに、心強い事だろう。
しかしその有り難い申し出は、の心を励ますと同時に、優しく締め付けもした。


「その間に新しいボーイは見つかるやろ。問題は抜けたNo.1の穴埋めやな。
俺の場合はライバル店と話つけて女の子らをトレードしたんやけど、お前んとこは・・」

思わず滲みそうになっていた涙が、その話を聞いて引っ込んだ。


「ちょ、ちょっと待って!?」
「何や?」
「何でそんな話・・・」
「何でって、No.1の娘を引き抜かれてもうたんやろ?ボーイもそうとちゃうんか?」
「いや、そ、そやから、何でそんな事知ってんの!?」

一体、どこまで知られているのだろうか。いつから知っていたのだろうか。
何もかもを全部見透かされていたような気がして、居た堪れなかった。


「店入った時から何かおかしいと思ってたんや。変やと思って店の様子見とったら、すぐ察しがついたわ。俺も佐川はんに同じような嫌がらせされた事あるからな。」

真島はふと遠い目をしたが、それはほんの少しの間だった。


「あの岩下とかいうオッサンが関係しとんとちゃうんか?」
「え・・・・・?」
「あのオッサン、昼間俺に、この店もお前も自分のモンやと言いよったぞ。」

いつそんな話をしたのだろうかと驚く前に、咄嗟に焦りが先走った。
佐川の次はあんな男の情婦になったのかと、真島に思われるのが嫌で。


「ちっ、違う!そんなん向こうが勝手に言うただけや!確かにあの人はうちの新しいオーナーやけど、個人的な付き合いなんか一切・・」
「分かっとる。」

必死に否定しようとしたを、真島は静かに制した。


「お前がホンマにあのオッサンのオンナやったら、こういう事にはなっとらん。
お前が思い通りにならん上に、俺とおるとこ見たから、カッとなってこんな嫌がらせしてきよったんやろ。」
「あ・・・・」

誤解を受けずに済んで良かったと安堵したら、ずっと張り詰めていた気が何だか急に抜けたような感じがした。


「事情話してくれや。な?」

ここまで知られていて、散々手伝って貰っておいて、もう今更取り繕いようもなかった。


「・・・・・岩下さんは、あの人も佐川さんと同じ、近江連合の直参の組長さんやねん。
私が知ってる限り、佐川さんの持ってたお店は、あんたが言うてた通り、近江の幹部の人達の手にバラバラに渡ってな。
この店は、岩下さんが引き継いだ。
あの人は、佐川さんのお葬式が済んですぐうちに来て、私に自分のオンナになれへんかって言い寄ってきたんや。
あの人、佐川さんの事をライバル視っちゅうか敵対視っちゅうか、そんな風に思ってるみたいでな。私に粉かけてきたのも、要は私が佐川さんの愛人やったからやと思う。」
「なるほどのう・・・・・」
「勿論断ったわ。私にはそんな気更々無いし。そしたら突然その月から、向こうの取り分が跳ね上がった。」
「どれ位上がったんや?」

踏み込んだ質問だったが、それを訊く真島に躊躇いは無かった。
かと言って下世話な興味本位から訊いた訳でもないのは、その真剣な表情を見れば一目瞭然だった。


「元々は、佐川さんの取り分が4で、私の取り分が6やってん。
そこからこの店の開店資金を分割で返済してて、実質はほぼ五分五分ってとこやったんやけど。」

正直に答えると、真島は驚いたように目を見開いた。


「お前、開店資金を佐川はんに返しとったんか?」
「私がどうしてもってお願いしたんや。全額返せたら、この店を私の名義にして欲しいって。」

それを頼んだのは、この店をオープンさせたその日だった。
オープン記念のパーティーの後、佐川と二人きりになったこの店の中で、彼に頭を下げて頼んだのだ。


「何でお前、そんな事・・・・・」

あの時の佐川も、今の真島と同じように、困惑したような表情をしていた。
そして、素直に甘えときゃ良いのに、何でそんな無駄な苦労したがるのかねぇと呟いていた。
多分今、真島も同じ事を思っているのだろう。
愛人関係にありながら、その一番のメリットである部分を放棄するなんて何の意味も無いのに、と。


「だって、私にはこの店しかないもん。」

確かに、それに意味は無いのだろう。
だがにとって、意味は別段重要ではなかった。
大切なのは意味ではなく、意地だった。


「別に元々自分の店が欲しかった訳とちゃう。単にあの人の囲われ女ってだけの生活が嫌で始めた店や。
そやけど、この店があったから、私どうにかやってこれたんや。もしこの店が無かったら私は・・・・・」

あの時、もし何も持っていなかったら、
佐川の鳥籠の中で、ただ餌を与えられるだけの日々だったならば、
私はきっと、あんたを失った悲しみを乗り越えられへんかった。
真島の顔を見つめながら、は心の中でそう呟いた。


「・・・・まあ、そういう事やったんやけどな、それが今は7:3や。開店資金の返済分は勿論別やから、実質はほぼ8:2ってとこかな。」
「8:2てお前、ムチャクチャやんけ!」

そう、無茶苦茶だ。
極道なんて皆、どいつもこいつも無茶苦茶だ。
それを、ヘビ柄のジャケットに黒い革パンと眼帯なんて誰よりも極道然とした格好でやって来たこの男が驚くのが、何だか可笑しかった。


「何言うてんのあんた。極道がムチャクチャなんは当たり前やろ。」
「それは・・・・・!そう、かも、知らんけど・・・・・」

が笑うと、真島はバツが悪そうにモゴモゴと言葉を濁したが、またキッと眉を吊り上げた。


「そやけど、ムチャクチャなりに筋はきちっと通すんがホンマもんの極道や!そんなもん、筋もへったくれもあらへんやんけ!」

真島は目を吊り上げてガーガーと怒鳴った後、不意に黙り込んだ。


「・・・・・そんなんでお前、やってけんのか?」

真島が真剣に心配してくれているのが、見て分かった。


「今んとこはな。幸い、うちは良いお客さんに恵まれてるし、今のこのバブル景気のお陰もあるから。
もうこうなったら、やれるだけやったろと思ってんねん!諦めるのはいつでも出来るやろ?」

だからこそ、余計な心配をかける訳にはいかなかった。
今の真島には、今の暮らしがある。
遠い街で、違う人生を生きている。
恋人もいたっておかしくない。もしかしたら、結婚だって。
元の組に戻れたという事以外に何も分からない真島の『現在』に、が踏み込む隙は無かった。
折角戻れた組を捨てて、彼が貫くと決めた生き方を捨てて、またこの大阪に戻って来て、側にいて欲しいと願う事は出来ない。
未練がましく疼く心を押し込めて、は明るく笑った。


「とにかく、今日はホンマ助かったわ!せめてものお礼に、バイト代は弾むわな!とりあえず今日の分、すぐ精算してくるから・・・」
「そんなモン要らん。」

真島はまるで、街角で配っているポケットティッシュを断るが如く、あっさりとそう言い切った。
あまりにあっさり淡々としているので、一瞬唖然としてしまったが、そうですかと引き下がる訳にはいかなかった。
真島にしてみれば昔のよしみのつもりなのだろうが、それとこれとは話が違う。
確かに色々と格好の悪い所を見せてしまったが、憐れまれるのは御免だった。


「な・・・、何言うてんの!そういう訳にはいかんわ!」
「金は要らんから、代わりに宿と飯を提供してくれ。」
「タダ働きなんてそんな事絶対・・・・・え?」

タダ働きなど断固として認められない、報酬は何が何でも受け取って貰うと息巻きかけたその時、ワンテンポもツーテンポも遅れて、真島の言葉が頭に届いた。


「実はなぁ、ホテル取れんかったんや。どこ当たっても満室ですって言いよるんや。
嘘に決まっとるやろそんなもん。ホンマ失礼な話やで、人を見た目で判断しよってからに。
まあそういう訳でな、来たはええが、泊まる所のうて困っとったんや。そやからこっちおる間、バイト料の代わりにお前んち泊めてくれや。」

真島と過ごした時を、は未だ忘れられずにいた。
訳も分からないまま看病に明け暮れた日々も、愛し合った甘い一時も。
突然に引き裂かれたあの初夏の夕暮れの事も、グランドで束の間の再会を果たし、涙雨に濡れて別れたあの冬の夜の事も。
何もかも、まだはっきりと覚えていた。
涙の味がした最後のキスも、泣き笑いの真島の顔も、今でもまだ、思い返すと胸が詰まりそうになる。
それなのに、真島は何故平然とそんな事を言うのだろうか?
終電を逃して友達の家に泊めて貰う時のような気安い口調で、一体どういうつもりなのだろうか?
こっちはあれからからずっと、まるで時が止まってしまったかのような気持ちでいたのに。
今日、思いがけずまた逢えて、それがようやく進み出してくれるような気がしたのに。


「・・・・・・はぁ!?」

いや、確かに、進む事には進み始めたのだ。
但し、予想外の方向に向かって。

















の自宅は、店から歩いて15分位の所にあるとの事だった。
簡単に店の片付けをすると、真島はについての家に向かった。
店の近辺は眩いばかりのネオン街だが、そこを抜けて大通りを渡ると、意外にも暗くて静かなものだった。
聞こえるのは互いの靴音ばかりで、二人の間に会話は無かった。
はずっと怒っているような顔をしていて、話しかけるのが躊躇われたのだ。


「・・・・信じられへんわあんた・・・・、問答無用か・・・・・」

ようやくが口を開いたと思ったら、やはり文句だった。
は多分、この男は昔のよしみでこのままなし崩し的に関係を持とうとしているのだと思って、怒っているのだろう。
尤も、そう思われても仕方のない事ではあるし、実際、その気ゼロという訳ではないので、誤解だと否定する事は出来ないのだが。
の横顔にチラリと目を向けてから、真島は煙草の煙に溜息を乗せて吐き出した。


「お前も昔、問答無用で泊まり込んだやろが。あん時のお前の方がよっぽど信じられへんわ。
初めて会うたその日やぞ。お前、知らん男とよう同じ部屋に寝泊まり出来たなぁ。」
「なっ・・・・!」

言い返してやると、は狼狽して立ち止まり、声を詰まらせた。
当然だ。心身共にボロボロだったあの当時はそこまで考えが回らなかったが、今思うとあの時のはどう考えても軽率で、無謀で、命知らずな、大馬鹿以外の何者でもなかったのだから。


「ひ、人聞き悪い事言わんといて!あん時はしょーがなかったやろ!?あんた死にかけとったんやから!ほんならほっとって死なせたら良かったんか!?」
「良うない。」
「そやろ!?」
「それと一緒や。あん時のお前と今の俺は、多分同じ心境や。」
「うぅっ・・・・・!」

だが、バカが付く位親切なその大馬鹿のお陰で、命拾いをした。
また狼狽して言葉を詰まらせたの面白い表情を見つめて、真島は小さく笑った。
今度は真島がの窮地を救う番だった。
部屋に泊めろと要求したのも、の用心棒となる為だった。
極道の恐ろしさと汚さは、同じ極道が一番よく分かっている。
なかなか思い通りにならない女に本気で痺れを切らせばどんな手段に出るか、それを考えると、を一人にする事は出来なかった。
しかし、それは理由の半分であって、もう半分はの気持ちを確かめたいが為だった。
もしも好きな男がいるのなら、昔の男を部屋に泊めたりなどしない。
断られたらそういう事、でもそうじゃなければ・・・・・、そんな賭けるような気持ちで言った事だった。
そして結果、その賭けに勝った・・・、と言えるのだろう。多分、恐らく、ひとまずは。
だが、二人で一つの人生を歩いて行こうとしていたあの頃とは、もう違う。
東城会に返り咲き、神室町に戻った今、の側で、に寄り添って生きていく事は、もう出来ないのだ。
それなのに、一体自分は何をしようとしているのだろうか。
に男の影が無さそうな事に安堵して、あわよくば・・・なんて下心を多少なりとも隠し持って、どうしようというのか。
の部屋に転がり込んで、あの頃の思い出をなぞってみたところで、一緒にいられるのはあの頃よりももっと短い時間なのに。
二人の道が一つになる事など、もう無いのに。


「・・・まあ、『夜の帝王』と呼ばれたこの真島吾朗がついとる限りは大丈夫や。大船に乗ったつもりでおれや。」

感傷を振り払い、真島はに笑いかけた。
するとも、まだぎこちなくはあるが、ようやく笑顔を見せた。


「ふふっ・・・、何それ。あんたそんな風に呼ばれとったん?」
「せや。自慢やないけど、蒼天堀の界隈では結構な有名人やったんやで。」
「よう言うわ、めっちゃ自慢やん。」

と笑い合っていたその時、真島はふと、ある事を思い出した。
東京を出て来る時には取るに足りない事だと気にもしていなかった事だが、今となっては割と重要な問題を。


「しもた。なぁ、この辺Mストアとかないんか?」
「え?何で?」
「俺、着替えも歯ブラシも何も持っとらんねん。」

真島は現在、財布と煙草とライター、それにいつも持ち歩いている愛用の鬼炎のドス以外、何も持っていなかった。
に会いに行くとは決めたものの、本当に会えるかどうか分からなかったし、ましてやこんな事になるとは思ってもみなかったので、旅支度をする必要性を全く感じていなかったのだ。
しかし、これから1週間程滞在し、堅気の店に立つとなると、流石にこのままではまずい。
服はの店の黒服をこのまま借りておくとしても、せめて下着の替えと歯ブラシ位は取り急ぎ調達しなければならなかった。


「・・・もしかして、ホンマはすぐ帰らなあかんかったんとちゃうの?」

見上げてくるの眼差しが、何だかしおらしくなっていた。
さっき謝っていた時も、こんな目をしていた。
どうせまた水臭い事を考えているのだろうと思うと、可笑しくもあり、同時に少し寂しくもあった。


「そうやない。ここまで来といて何やけど、ホンマにお前に会えるとはあんま思っとらんかったんや。
そやから、すぐとんぼ返りになるんちゃうかと思って、何も持って来やんかったんや。」

そう答えると、は唖然とした顔で真島を凝視した後、クスクスと笑い出した。


「信じられへんわあんた。そんな行き当たりばったりで東京から来るか普通。先に電話するとか、何かやり方あるやろ。」
「ええやんけ別に。」

それが結局出来なかった繊細な男心は伏せて平然と笑ってみせると、はふと真顔になった。


「っていうかちょっと待って?ホンマに会えるとは思ってなかったってどういう意味?」
「決まっとるやろ。とっくに店潰れてもうてんちゃうかな〜と思ってたんや。」
「しっつれいやなあんた!潰れるどころか繁盛してるっちゅーねん!」
「いっった!」

は真島の腕を結構な力でバシッと叩いた後、吊り上げていた目元をまた優しく和らげた。


「・・・・まぁ、そういう事なら心配ないわ。あんたの着替えならあるから。」
「え?ど、どういう事や?」

何故、行った事もないの家に自分の着替えがあるのだろうか?
そんな物がある筈はないのだ。だとすれば、一体どういう意味なのだろうか?
それを考えていると、真島の脳裏にふとある恐ろしい考えが浮かんだ。


「・・・・・おい。まさかお前、佐川はんの形見のパンツを俺に履けとか言うんちゃうやろな?」

の家に存在し得る男物の着替えと言えば、佐川の物ぐらいしか心当たりは無い。
そんな縁起でもない物を身に着けねばならないなんて、考えただけでゾッとした。
死んだ者の形見だからではない、たとえ生きている内のお下がりだったとしても同じ事、『あの佐川の物』というだけで、真島にとっては呪いのアイテム級に縁起でもない代物なのだ。


「・・・・まあまあ、ええからええから。歯ブラシも買い置きあるし、取り敢えずまっすぐ家来ぃや、な?」

それなのには、まともに取り合わなかった。
いつの間にか、柔らかかった微笑みがニヤニヤと愉しげな笑みに変わっている。
のその怪しい表情が、真島の不安と恐怖を一層煽り立てた。


「おい、ちょお待てよホンマに。オッサンの履き古しのパンツとかホンマ勘弁してくれや。なぁ、Mストアどこやねん?教えてくれや。」
「さ、早よ帰ろ帰ろ。」
「ちょお無視すんなや。なぁ、Mストアどこやねん、教えてくれや!」
「う〜っ、さむさむ。夜中はまだ寒いなぁ。」
、Mストアは!?教えろや!いや教えて下さい!なぁてちゃんてぇっ・・・!」

追い縋って必死に懇願するも、はその笑みを些かも崩さないまま、決して答えてはくれなかった。




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後書き

支配人 ああ支配人 支配人。
やっぱりね、何やかんや言うて支配人ですわ。
支配人サイコー!
でもボーイですけど(笑)。
『夜の帝王』1周目クリア後、ボーイで2周目スタートという事で。
支配人感に満ち満ちたボーイという事で(笑)。