檻の犬と籠の鳥 23




騒々しいテンションで軽口を叩き合っていたのは、タクシーを拾うまでの事だった。
タクシーに乗り込んでからは何となくお互い口数が減ってゆき、のマンションに着く頃にはほぼ無言になっていた。
だが、言葉はなくとも、心は通じていた。
ずっとそれぞれの胸の内に秘めてきた思いが今、もう隠せない情熱となって二人を結び付けていた。
タクシーを降りて部屋に入るまでの僅かな距離と時間さえもどかしいと感じる程に、強く、強く。
脈打つようなその熱い想いは、鍵を開けて玄関に入った瞬間、抑えきれなくなった。
どちらから先に動いたのかは分からない。それが分からない位に限りなく同じタイミングで、真島はを抱き寄せ、は真島の胸に飛び込んでいた。
まだ灯りも点けていない暗い玄関で、二人は固く抱き合い、唇を重ねた。
大金の入ったバッグも、何となく持って帰って来てしまった般若の面も、全部無造作に落として、互いを強く抱きしめ、何度も何度も口付けを交わした。
そして、唇を離さないまま互いに靴を脱ぎ捨てて、どちらからともなく奥の部屋に向かって歩き出した。


「んっ・・・・・・」

舌を絡ませ合いながら、真島はのジャケットを脱がせ、ワンピースの項を留めている小さなホックを外して、背中のファスナーを下げた。
が身じろいで腕を抜くと、掌を滑るようにしなやかな生地で出来たワンピースが、微かな衣擦れの音を立てての足元に落ちた。
もまた、真島の着ているベストとシャツのボタンを外していった。
ボタンが全部外れると、真島は忙しなくそれらを一纏めに脱ぎ捨てた。
もうこれ以上待ちきれなくて、一刻も早く触れ合いたくて、のスリップも一思いに脱がせて、滑らかな項に吸い付いた。


「ぁっ・・・・・・」

の唇から零れ落ちた微かな声は、真島の記憶を瞬時に呼び覚ました。
熱に浮かされたように夢中で互いを求め合っていた、あのほんの束の間の幸せな日々を。
の甘い声は、あの頃と同じだった。
頭で考えずとも、真島の身体がを覚えていた。
声も、香りも、温もりも、何処をどうすれば悦ぶのかも。
真島はおもむろにの両脚を掬って、横抱きに抱え上げた。


「きゃっ・・・・・・」

突然抱き上げられて、は反射的に真島の首にしがみ付いた。
そこを完全に覆い隠す程長かった髪は、今はもう耳の上までバッサリと切られて、襟足が大胆に刈り上げられてしまっている。
本当に、会う度に印象の変わる男だ。
ボロボロに傷付き、哀しげな目を不揃いに伸びた髪で隠していた真島。
長い髪を一つに束ねて黒革の眼帯と漆黒のタキシードに身を包み、さながら夜の街に君臨する帝王の如くだった真島。
テクノカットとド派手な服装で突然訪ねてきた真島。
一体どれが本来の彼なのだろうか?無言のまま歩いていく真島に身を任せながら、はふとそんな事を考えた。
だが、ベッドに横たえられ、カーテンの隙間から射し込んでいる外灯のぼんやりした光に照らし出された真島の顔を見た途端、何となく分かった気がした。
まるで別人のようにコロコロと変わっても、それは表面的な事だけなのだと。
3年前も、2年半前も、数日前も、を見る真島の目はずっと同じだった。
今、を見下ろしている優しく真摯なその眼差しは、出逢った時からずっと、何も変わっていなかった。


「ん・・・・・・・」

ベッドに横たえたに口付け、その先へ進もうとして、真島はふとの腕に目を止めた。
最初は目の錯覚かと思ったが、違う。
少しばかり射し込んでいる外の電光を頼りによく目を凝らして見てみると、の腕には確かに何かが描かれていた。
気になって、ベッドのランプを点けてから改めて見てみると、それはクマだった。
間抜けな顔に不釣り合いな黒い眼帯で左目を覆った、何だか妙な愛嬌のあるクマの絵だった。


「何やこれ?」
「え・・・?」
「この、腕に描いてあるやつ。何でこんなん描いとんねん。」
「ああ・・・・・」

は気恥ずかしそうに、小さな笑い声を上げた。


「ふふっ・・・・・、御守りのつもりやったんや。」
「御守り?」
「名前はな、『シロー』っていうねん。」
「シロー?」

落書きに名前を付けるなんてまるで子供みたいだと笑いかけた瞬間、また他愛もない思い出が浮かび上がってきた。
いつかもは、こうして名前を付けた。
真島の身体に刻まれている刺青に対して、持ち主が『ゴロー』だからと、随分適当な名前を。
3年近く経ってもお互いまだ忘れていなかった、小さな小さな、大切な思い出だ。
あの時の甘い記憶を丁寧に辿ってみると、の言うその名前に心当たりがあった。


「・・・ひひっ、何やこのブッサイクなクマ。」
「ブッサないわ、可愛いやんか。」
「描く場所も間違うとるし。腕やのうて乳に描かなあかんやろが。」

は一瞬ポカンと目を丸くしてから、擽ったそうな笑顔になった。


「ふふっ・・・・・、覚えてたん?」
「ったりまえじゃ。」
「じゃああんたのお腹にも描かんとな?」
「いらんわそんなブッサイクなやつ。」
「ブッサないし。可愛いし。」

と見つめ合って笑い合いながら、真島は暫し、過去に思いを馳せていた。
そんな事を覚えていたのなら、はきっと、グランドでの夜の事も覚えている筈だった。
この身に刻んだ刺青を己の用心棒だと言って笑い合った、あの時の事をも。
どちらもガラスの欠片みたいな、キラキラと美しくて脆い、小さな思い出だ。
とっくに砕け散ってしまっていてもおかしくないようなそれを心の支えにして、たった一人で岩下の事務所へ乗り込んでいったが、改めて危なっかしく、そしていじらしく思えて堪らなかった。
真島はその心のままに、の唇を深いキスで塞いだ。


「んっ・・・・・!」

一度失った人はもう取り戻せないと、これまでずっと思っていた。
ただの一遍たりとも、取り戻せた試しが無かったからだ。
だから、24年間生きてきて初めてのこの経験は、真島にとっては奇跡にも等しかった。




「はっ・・・・・・ん・・・・・・」

甘いキスがの唇を離れて、喉元や鎖骨の辺りに下りてきた。
ベッドと身体の間の無いに等しい僅かな隙間に入り込もうとする大きな手の為に背を逸らして胸を浮かせると、ブラジャーのホックが外され、スルリと取り払われた。


「あ・・・・・・!」

胸の先端に吸い付かれた瞬間、甘い痺れがの身体を駆け抜けた。
自分の身体が悦んでいる事が、はっきりと分かった。
深く激しいその悦びのままに、は真島の頭をかき抱いた。


「あっ・・、あぁっ・・・・・!」

の求めに応じるように、真島の舌が巧みに動き出した。
吸われて、転がされて、胸の頂があっという間に熱を持ったように疼く。
真島の髪の手触りに、肌の温もりに、匂いに、心が昂って頭の中まで痺れてくる。
その感覚に翻弄されながら、は今ようやく、自分の本当の気持ちを素直に感じて受け入れる事が出来ていた。
ずっと、この人を求めていたのだ。
突然に失ってしまったあの時から、ずっと。
どうにもならない事情やしがらみに囚われて、もう叶わぬ事だと諦めたつもりでいながらも、心の奥底でずっとずっと。
私はずっと、この人を求め続けていたのだ、と。


「あん・・・・・、あっ・・・・・!」

の甘い声は、真島をどうしようもなく昂らせていた。
黒服のスラックスは、革パンよりはゆったりとしているが、それでももういい加減に窮屈で鬱陶しい。
真島は一度身体を起こすと、ベルトを外し、残る半身の衣服全てを脱ぎ捨てた。
それから、のストッキングにも手をかけ、下着ごと引き下ろした。
久しぶりに見るの一糸纏わぬ姿を前に、真島は思わず生唾を飲み込んだ。


「あっ・・・・・」

屈み込んでなだらかな白い下腹部に唇を寄せると、擽ったかったのか、の腰が微かに震えた。
更にそのすぐ下の楚々とした茂みを撫でてから、まだ殆ど閉じたままの太腿の間に手を滑り込ませていくと、指の先がすぐさま濡れた。
真島は中指の先をの花芯にごく軽く食い込ませ、そのままゆっくりと秘裂を撫で上げていった。
程なくして突き当たった花芽を優しく弾くと、がまた身体を震わせて一段と甘い声を上げた。
もっと、もっとを悦ばせたい。
真島はその一心で、の膝の下辺りに絡まったままだったショーツとストッキングを完全に脱がせ、脚を大きく開かせた。


「あ、ん・・・・・、あぁっ・・・・・・!」

小さく突き出した花芽を舌先でそっと擽り、の中にじわじわと指を沈めていく。
指に吸い付いてくる柔らかくて温かい内壁の感触が、ひとつになった時の快感を思い起こさせて、早くも堪らなくなる。
腰の疼きをどうにかやり過ごしながら、真島は挿入した指でゆっくりとの中を突き始めた。


「あぁんっ・・・・!あぁっ・・・・・・!」

真島の指の動きに合わせて、自分が恥ずかしい位の音を立てているのが分かる。
しかしにはもう、そんな自分を止める事は出来なかった。
敏感な花芽を舌先で弄られながら、まるでそこだと分かっているかのように切なく疼く処を何度も的確に突き上げられて、は今にも絶頂の波に攫われようとしていた。


「やっ・・・・、あぁぁっ・・・・・・!」

一際奥を突かれ、花芽を吸い上げられた瞬間、強い快感がの中を駆け抜けた。
身体がひとりでに跳ねて、あられもない声が抑えられずに迸る。
大きな波に呑まれて、攫われて、流され果てて。
その後の余韻にぼんやり漂っていると、身体を起こした真島がをそっと組み敷いた。
まっすぐ見つめてくる真剣なその眼差しに、の胸は熱くなった。
初めて真島に抱かれた時の事が、つい昨日の事のように思い出された。
あれから色んな、本当に色んな事があったが、今またあの時に戻ってきたような気がしてならなかった。


、ええな・・・・・?」

般若と白蛇をその身に棲まわせるこの人には、平凡な生き方は出来ない。望めない。
愛しているというだけで、知った顔をしてこの人の生き様を否定する権利は、自分には無い。
それでも本当にこの人の側にいたいかと、あの時の自分が問いかけてくるようだった。


「・・・うん・・・・・・・」

だが、答えは変わらなかった。
たとえこのまま普通の女の人生に戻れず、平凡で穏やかな女の幸せを掴めないとしても、この人と一緒にいたい。
は改めてそう願いながら、真島に微笑みかけた。
すると、真島も口元を微かに綻ばせてから、いくで、と呟いた。



「ぁっ・・・・・・・」

真島が硬く猛り立った自身を擦り付けると、は小さく息を呑んで、そっと瞼を閉じた。
恥じらいと期待を感じ取れるその仕草にまた一層煽られながらも、真島はゆっくりと慎重に、の中を貫いていった。


「はっ・・・・、ああっ・・・・・・!」

声を震わせるをしっかりと抱きしめながら、奥深くへと沈んでいく。
自身を包み込む心地良い温もりと圧迫感に、真島も自然と深い溜息を洩らした。


「ああっ・・・・・・!」

固く目を瞑っているの目尻に小さな涙の粒が盛り上がり、やがて音もなく流れた。
こめかみの辺りを伝い落ちていくそれを、真島は唇を押し当てて吸い取った。
すると、はゆるゆると目を開き、潤んだ瞳で真島を見つめた。
熱を帯びたその瞳は明らかに真島を求めていて、真島の中の情欲を激しく煽った。


・・・・・・!」
「んんっ・・・・・!」

真島はに深く口付けながら、律動を始めた。
小さな舌を絡め取って吸い上げ、一層熱く締まっていく中を穿つようにして腰を突き上げると、それに合わせるようにの声も弾む。
真島の腕の中で、真島の刻むリズムの通りに揺れるは、真島のものだった。
己が目で、身体で、認識するその事実は、只でさえ強い快感を何倍にも膨れ上がらせた。
無理矢理に涙を呑んで、もう二度とこの手に戻る事はないと諦めた大切なものを取り戻せた歓びは、自分でも驚く位に深く、激しかった。


「あっ!あぁっ・・・・・・!」

もまた、身体の芯から頭の先まで突き抜けていくような快感に、只々翻弄されていた。
それに抗おうとする事も、それに呑まれていく自分を頭の片隅で蔑む事もない。
心を開いて、与えられるそれをただ素直に受け止めれば良い。
そう出来る事がどんなにどんなに幸せか、は今、ひしひしと感じていた。


「あぁっ!あぁんっ・・・・・!」

胸の頂を弾かれる刺激に思わず身を捩れば、今度は無防備に剥き出しになっている花芽を擦られて腰がくねり、中に入っている真島の楔がそれまでとは違う部分に当たって、また高い声が出る。
隣の部屋の住人に自分のこの声が聞こえるかも知れない事を気にして歯を食い縛るが、小刻みに突かれながら敏感な突起を優しく弄られるじわじわとした快感に勝てず、すぐにまた声が洩れてくる。
身体のあちこちが甘く疼いて、息も苦しいのに、それでももっと、もっと欲しくて堪らない。
は無我夢中で真島の腕を掴んで縋りついた。


「あ、ぁぁん・・・・!あ、んっ・・・・・!」

甘く蕩けた声で喘ぎながら身を捩るを、真島は熱を帯びた隻眼で見つめていた。
さっきからずっともどかしそうに揺れている腰が何を求めているのかは分かっているし、勿論自分も同じものを求めているのだが、この視覚的な快感をもう少しだけ味わっていたいが為に、今にも暴れ出しそうな己の腰を無理矢理抑え込んでわざと応えずにいた。
日頃は勝気で、ちょっとガサツな所もあって、あんまり色気を感じさせるようなタイプじゃない癖に、抱かれている時にはハッとする程『女』になる。
も変わっていないが、自分も変わらない。
3年前もこのギャップに興奮していた自分を思い出して、に気付かれないよう微かに笑った。


「あ、ぁぁ・・・・・!やぁんっ・・・・・!」

腕を掴んでいるの手に、力が篭ってきた。
ずっと弄っていたせいですっかり硬くしこり立ってしまった胸の先端に食いついて少し強く吸い上げると、はまた身を捩って声を高らかに震わせた。


「あぁっ・・・・・!吾朗ぉ・・・・・・!」

ずっとを蕩けさせる事に専念してきたが、泣いて懇願するような甘い声で名前を呼ばれては、もう限界だった。
真島はの首筋に顔を埋めてそのしなやかな身体を抱きしめ、の中の感じ易いポイントを目掛けて、一度腰を引いてから力強く貫いた。


「あぁぁっ!」

それでまた達したのか、の身体が大きく波打った。
丁度般若の顔の辺りにの爪が食い込む痛みが走ったが、そんな事に気を回している余裕は無かった。


・・・・・、好きや・・・・・・!」

真島はの首筋に吸い付き、柔らかい耳朶を甘く噛みながら、抑えきれない想いを囁きかけた。
もっと深く繋がれるようにの腰を少し抱え上げて猛然と腰を振り、勢い余って結合が解けるとまた一思いに奥まで捻じ込んで、尚も激しく打ち付けた。


「好きや・・・・・・・!」

今まで一体どれだけ抑え込んできた事だろう。
佐川に奪われた時も、グランドで突然引き合わされた時も、そして、この1週間も。
抑えて、抑えて、抑え込んできたこの想いはもはや爆ぜる寸前で、自分でも止められなかった。


「あぁっ!やぁっ・・・!ぁっ・・・たしも・・・っ・・・・!」

下腹部を突き上げるリズムがどんどん激しくなり、終わりが近付いているのが直感的に分かった。
貪るように自分を抱く愛しい男を、は夢中で抱きしめ返した。


「好き・・・・・、好きや・・・・、ぁぁっ・・・・・!」
、もう・・・っ・・・・、くっ・・・・・!」
「あっ、あぁぁぁっ・・・・・!」

もう決して、離したくない。
同じ想いを抱きながら、やがて二人はひとつに融け合っていった。















迸るような激しい情熱がひとまず凪いだ頃には、更に夜が更けていた。
遅い夕食を有り物で簡単に済ませた後、二人は交代で風呂に入った。
が入浴を終えて部屋に戻ると、先に上がっていた真島が、まだ上半身裸のまま床に胡座をかいて一服していた。
TVも点けず、何か飲んでいる様子もない。
の方を向いている般若は相変わらず憤怒の形相をしていて、そこから宿主の表情を推し量る事は出来なかった。
は一度引き返して、冷蔵庫からよく冷えた缶ビールを1本取り出してきた。
それを背後でプシュッと開けてやると、真島はようやく振り返って顔を見せた。
何となく、何となく、少し感傷的になっているように見えるその顔を眺めながら、は冷たいビールを一口だけ飲んだ。


「ふぅっ・・・・!もうええわ、あとあげる。」
「何やねん、飲みくさしかい。」

が差し出した飲みかけの缶ビールを、真島は苦笑しながら受け取って豪快に呷った。
そして、大きな溜息を吐くと、またさっきの表情に戻った。


「・・・・・
「ん?」
「すまんな。」
「何が?」
「お前はええ女や。ホンマやったら今頃とうに、誰ぞちゃんとした堅気の男の女房になっとったやろう。
それが俺に関わったばっかりに、ヤクザのオンナになる破目になってもた。お前の人生を狂わせたんは佐川はんやのうて、この俺や。」

咄嗟に返す言葉が思いつかなかった。
が黙ったままでいると、真島はふと苦笑を洩らした。


「初めてここへ来た夜なぁ、ホンマはそれなりの下心があったんや。
嫌いになって別れたんとちゃうし、家に泊めてくれるっちゅう事は、お前も少なからずその気なんちゃうか?なんて思ってな。
そやけど、フッと思ったんや。お前にはいつかちゃんとした堅気の男と幸せになって欲しいと願ってたのに、何でまた俺が抱こうとしてるんや?ってな。
佐川はんが死んで、お前はようやく普通の女の人生に戻れるのに、また俺がお前の人生に首突っ込んでその邪魔をするんかと思ったら、何や、どないしてええかどんどん分からんようになってったんや。
せやけど結局、辛抱しきれんかったわ。お前の先々の幸せより、今の俺の気持ちを優先してしもた。3年前と何も変わっとらん。アホな男や。」

苦い香りの煙に自嘲めいた小さな笑い声を乗せて吐き出す真島の顔を、はじっと見つめた。
グランドで再会した夜にも、似た事を言われた覚えがある。
言われて、どうしようもなく泣きたくなった覚えが。
は真島の隣に座り込み、その手から吸いかけの煙草を奪い取って一口吸った。
生まれて初めて試した煙草もこれだった。とても重くて、ちょっと吸っただけでも肺にズシンと響いて咳込んでしまい、たったの一口で挫折してしまったが。


「やっぱりハイライトはあかんなぁ。きつすぎるわ。」

煙草のフィルター部分を真島の口に突っ込んで返すと、真島は不明瞭な声を上げてから、何すんねんと文句を言った。
この苦くて恋しい香りにむせながら真島を想って泣いた事を思い出しつつ、は真島の肩に頭を預けた。


「なぁ。さっき言うてた、ちょっと前まで好きやった人。その人諦めた事、ホンマは後悔してんのやろ?」

ズバリと訊いても、真島は眉ひとつ動かさず、淡々と煙草を燻らせていた。


「後悔なんかしとらん。あれはあれで良かったんや。」
「ホンマに?」
「ホンマや。」
「ホンマのホンマに?ちぃーーーっとも後悔してへんの?」

間近で顔を覗き込んでやると、眉ひとつ動かなかった真島の顔が、ようやく僅かばかり気まずそうに顰められた。


「・・・・何を言わしたいんやお前は・・・・・」

別に何を言わせたいという訳ではない。つまらない女心が口走らせた只の戯言だった。
自ら身を引いた時の真島の辛さを思うと苦しかったし、彼にそこまで深く想われたその女性が羨ましくもある、ただそれだけだった。
真島と、自分ではない別の女性との間にあったロマンスに多少のジェラシーは漠然と感じても、自分とは関係のない、知り様もないところで起きていたそれに対して、生々しい感情は湧いてこなかった。


「そらぁな?綺麗で優しくて料理上手なさんは、その気になったらモテモテやでぇ?」
「えらい自己評価高いやんけ。」
「けど、幸せの形は人それぞれや。私は、あんたがさっき口説いてくれた時、幸せ掴んだと思ったんやで?」

先々の幸せ、普通の女の人生、それらと真島を秤にかけたら、彼が勝った。
ならばそれこそが自分の幸せというものなのだ。


・・・・・・」
「私は、誰ぞちゃんとした堅気の男の奥さんや彼女になるよりも、真島吾朗っていうバリバリガラ悪い筋金入りのヤクザのオンナになりたいんや。」

それを手に入れた自分は、幸せ者以外の何者でもない。
真島に身をすり寄せて笑いながら、は今、心からそう思っていた。


「・・・誰がバリバリガラ悪い筋金入りのヤクザやねん。ボロカス言いよってからに、ホンマ口の悪いやっちゃで。ひひっ。」
「だってホンマの事やろ?ふふふっ。」

けれども、幸せというものは、ひとつではない。
真島と出逢って恋に落ちたあの時には知らなかったそれを、今のはもう、知ってしまっていた。



「・・・・・でも、あんたの方こそホンマにええの?」
「ええのって何がや?あの娘の事やったらホンマにもうええんや。あの娘にはちゃんと幸せにしてくれるええ男がおるんやから。」
「そうやったんや・・・・・、って、ちゃうねん。その人の事じゃなくて。」

今度はの顔が、次第に気弱な翳りを帯びていった。
マコトの事ではないとすれば、他に心当たりはひとつしかなかった。


「・・・あんたさっき、怒ってたやろ?私の店の事。佐川さんの遺したもんなんか大事にして、って・・・・・」

やっぱり思った通りだった。
溜息の代わりに煙草の煙を吐き出しながら、真島はの顔を見つめた。


「今が多分、ええタイミングなんやろうなぁ。あんだけ荒らされて、あれ全部改装しようと思ったら、また凄いお金かかるし。
そんなんやったら今スパッと辞めてもうた方が無駄なお金も使わんで済むし、ええんやろうなぁ。それは分かってんねん。」
「ほな、店畳んで東京来いや。」

心の底の方に少しだけあった勝手な思いを口に出してみると、が小さく息を呑むのが見て取れた。


「・・・って言うたら、お前どないする?」

不安げなの瞳をじっと見つめて、真島はそう問いかけた。
は暫く黙り込んでいたが、やがて意を決したようにまっすぐ真島の目を見つめ返してきた。


「・・・こないだ言うた通り、最初はただ、囲われ女の生活が嫌で始めただけやったんや。あの人の機嫌取って、あの人に身体売ったお金で生活して家族養うのが嫌でな。
それに、毎日毎日独りぼっちの部屋で、籠の鳥みたいにあの人が来るのをぼんやり待ってるだけの暮らしにも耐えられへんかった。
あの人の女になるって自分で決めた癖に、あんたの事ばっかり考えて、毎日悲しくて悲しくて堪らんかったから。
それから、がむしゃらにやってきたわ。グランドであんたに教えて貰った事を支えにして、必死にやってきた。
そうしてる内にな、気が付いたら何や楽しくなっとって、あの店が自分の大切なもんになってた。
佐川さんの事もあんたの事も関係なしに、私の大切なもんになってたんや。」

一生懸命に言葉を尽くすを見ていると、改めて人の縁とか運命とかいうものの不思議さを感じずにはいられなかった。
辛い別れの先に、それぞれまた別の大切なものを手に入れたのだから。
あの時、と一緒に歩こうとしていた道を失った代わりに、極道の世界へ戻る道を歩き始め、遂に悲願が叶った。忘れられない出逢いもあった。
それらを無かった事にする気は、真島には無かった。それはへの気持ちとは全く別のものだった。
それなのに、には無かった事にしろなどと、どうして言えるだろうか。


「お店の子らに対しても雇い主としての責任があるし、家族の生活もある。弟と妹もまだ学生やから、せめて高校出るまでは面倒みたらなあかん。
あんたからしたら、佐川さんの遺したもんを後生大事に守ってるように見えて不愉快かも知らんけど、私は・・」
「分かっとる。」

真島は短くなった煙草を灰皿に押し付けて、まだまだ続きそうなその不器用な言い訳を遮った。


「この1週間、ずっと一緒におって見とったんや。お前があの店をどんだけ大事に思てるか位、とっくに分かっとるわ。
そんなん本気で言うたんとちゃう。真に受けんなや、アホ。」

真島が笑うと、は呆然となった。
そのポカンとした表情がおかしくて、愛しくて、また笑ってしまう。


「ええやんけ、それで。何もベッタリ一緒におらなあかんと決まったもんでもないやろ。
俺は俺の場所で、お前はお前の場所で、それぞれやっていったらええやないか。
ほれ、最近よう聞くやろ?『遠距離恋愛』ってやっちゃ。トレンディードラマの主人公みたいで、何やちょっとカッコええやろ。」

やせ我慢などではなかった。
本当のやせ我慢というのは、こんなものではない。
血の涙を流すような思いでを諦めたあの時の事を思えば、東京と大阪で離れて暮らす事など、我慢の内にも入らなかった。


「心さえ通い合っとったら、距離なんぞ大した問題やない。無理矢理別れさせられたあん時の辛さを思たら、尚更どって事ないわ。そやろ?」
「・・・ふふっ・・・、こんなガラ悪いトレンディードラマの主人公がおるかいな。」
「何言うてんねん。こんな男前の主人公、他におるかいな。」

イヒヒと笑ってやると、も笑顔になった。瞳が少しだけ潤んでいるが、明るい、楽しそうな笑顔だった。
そう、この笑顔だ。あの時も今も、やっぱりこの笑顔に惚れているのだ。
だから、愛しいこの笑顔を曇らせてまでを自分の側に縛りつける気は、真島には無かった。
己は何も捨てずだけに全てを捨てさせるのは筋が通らないし、それを強いてまで側にいなければ気持ちが途切れてしまう程、二人の縁は薄っぺらくないと信じている。
何よりもう二度と、に辛い選択をさせたくなかった。
それではまるで何処かの誰かさんと同じになってしまうから、絶対に、絶対に、させたくなかった。
誰かさんのあの憎たらしいニヒルな笑みを思い浮かべ、俺はアンタと同類なんぞ御免やと、真島は心の中で舌を出した。


「遠いったって、たかが知れとる。新幹線でたった3時間の距離や。いつでも飛んで来たる。俺はお前の店のケツモチなんやからな。」
「え・・・、あれ本気やったん?」
「ったりまえじゃあ。俺は嘘が嫌いやて昔言うたやろ。」

が驚くと、真島は憮然とそう言い返した。


「まずは店の権利問題を早いとこスッキリさせんとな。勿論、それが片付いた後もちゃんと面倒見ていくよってに、安心せぇや。」
「・・・・・ありがと・・・・・・。」

真島の好意を、今はもう素直に受け取る事が出来た。後が辛くなる事も、無理に自分を諦めさせる必要もなくなったからだ。
別に、定期的に店に立って欲しいとか、まして佐川のようなパトロンになって欲しいなどと思っている訳ではない。
無理にならない範囲で店の事を気に掛けてくれるのなら、それだけで十分過ぎる程に有り難かった。
しかし、そうは言っても遠距離恋愛、東京と大阪はやはり遠い。
真島はきっと本心からそう申し出てくれているのだろうが、今の彼を取り巻く状況が本当にそれを許すのかどうかが心配だった。


「でも、ホンマに大丈夫なん?あんたはあんたで、東京で仕事があるやろうに・・・・・」
「そらまぁ、な。」

真島は飄々と呟いた。


「お前と出逢った頃は、お前の言う通り、下っ端のドチンピラやった。せやけど、今の俺は東城会直系嶋野組の若頭や。」
「えっ!?若頭てあんた・・・!」

佐川に『本業』の話をされる事はあまりなかったが、若頭という地位がどういうものなのか分かる位の知識はつけられていた。
思わず驚くと、真島は自慢げに唇を吊り上げた。


「どや?前に佐川はんに、極道に戻れたとしても最高に良くて元の立ち位置やぞて言われたけど、なかなかの出世やろ?
けどな、下っ端も若頭も、シノギのやり方は基本同じや。儲け口を探して西へ東へどこへでも!ってな。
前は兄貴らや親父の使いっ走りで一日中こき使われとったし、実入りも少のうて、そうそう遠くへ出掛ける暇も金も無かったけど、今は背負とるもんの重さと面倒事が各段に増えてしもた代わりに、色んな融通も利くようになった。
こっちに住み着く事は出来んけど、都合つけてちょいちょい来る位の事は出来るわ。」

組員の私生活に、嶋野がいちいち口を出す事はない。そんなものに興味は無いのだ。
嶋野が関心を持ち気にかけるのは、自分や組にとっての益と不利益だけ。
だから、組の若頭が度々神室町を空けるという不都合を上回る利益を差し出してさえいれば、何も問題は無い筈だった。
その為には、金だ。今後また、この大阪で金を稼いでいかなければならなかった。


「グランドにおった頃に付き合いしとった連中の中に、今でも取り引きしとる奴がおるんや。
その商売の事もあるし、どうせやからついでに他にも、こっちの方でシノギを広げてみよかと思とんねん。」
「こっちって、大阪でって事?」
「まぁそやな。大阪を中心に、関西全域を視野に入れるっちゅう感じか。」

まず真っ先に思い浮かんだのは、蒼天堀の竜虎飯店だった。
今は神室町の支店を介しての細々とした付き合いになってしまっているが、それをまた復活させる、いや、以前よりもっと太くするのだ。
武器に並々ならぬ情熱と美学を持つフェイフウの事だから顧客は慎重に選ばなければならないが、きっと良い商売が出来るという確信が真島にはあった。
他にも、歌とギターは下手クソで女にもモテないが金の運用に関しては抜群のセンスを持つ金持ちの谷岡、腕の良い贋作師のファン、胡散臭い治験をやっていたあの団体、大道芸人のトコ吉なんて奴もいた。
もしかしたらそんな連中とも、何か面白い事が出来るかも知れない。


「そらあんたがちょくちょくこっちに来てくれるのは嬉しいけど、でもそんな事して大丈夫なん?
佐川さんの組は、あの人が死んで解散になったけど、近江連合はホンマに大きい組織やねんで?
岩下さんのとこだけやない、他にもぎょうさん組がある。直参とその傘下の組まで入れたら、一体どんだけの数があるか・・・・。
その中でも佐川組はかなり大きい方やったみたいやけど、それと同じか、何やったらそれ以上に大きい組かて他にも・・・」
「分かっとる。」

は心配そうな顔をしているが、真島の心境はその逆だった。


「確かに関西は近江連合の膝元で、一歩間違えたら大変な事になる。だからこそ価値も大きいんやないか。
敵のシマで自分とこのシマを拡げておいたら、いざっちゅう時の切り札になるやろ?
それに、今はこの好景気で皆浮かれ騒いどるけど、なんぼ何でもちょっと異常や。俺はあんまりこんな時代は長く続かんと思とる。
この好景気がいつかひっくり返った時、儲け口はちょっとでも多い方がええ。そうは思わんか?」
「それは・・・・・確かに・・・・・・」
「ひとまずはこのキタの街で、また『夜の帝王』目指してみるかいのう!
何せ佐川はんにずっと監視されとって、蒼天堀からほぼ出た事が無かったからな。実は大阪の事、殆ど何も知らんままなんや。
そやから、これからまた、イチからスタートや!」

真島はこれから始まる新しい生活が、楽しみで仕方がなかった。
心待ちにしながらも、先が見えない事への不安を密かに抱えていた3年前とは違って、今はそれさえも楽しみに思えていた。
どうなるか分からないという事は、裏を返せば、どのようにでもしていけるという事なのだから。
何にも囚われず、己の思うままに、好きなように未来を作っていけるという事なのだから。


「・・・俺らはもう、檻の犬でも籠の鳥でもない。」

真島のその言葉に、はハッと胸を突かれた。


「俺はもう佐川はんの檻から出た。今の俺は、犬は犬でも『嶋野の狂犬』や。
飼い主に服従してせっせと働く猟犬と違ごて、狂犬は何も辛抱なんかせぇへん。気に入らんけりゃ、たとえ飼い主にでも噛み付く。
神室町は離れられへん処やが、俺を閉じ込める『檻』とちゃう。俺はもう俺の意思で、いつでも何処へでも行ける。」
「吾朗・・・・・・」
、お前もや。佐川はんの鳥籠はもう壊れた。だからお前も、お前の思う通りにやったらええ。
あの店はもうお前を閉じ込める『籠』やのうて、お前の城や。それを大事に守るんは当たり前の事や。
心配は要らん。お互い何処にいようが、俺らはもう離れへん。俺らを引き離して閉じ込めるもんは、もう何も無いんやからな。」

始まりと同じく突然に訪れた別れから数ヶ月。今ようやくあの人の手から飛び立つ事が出来る、そんな気がした。
これからはもう自由なのだ。
無理に自分を作らず、好きに笑って好きに泣いて。
扉の壊れた籠を自分の城にして、心のままに好きな人と逢って。
大切なものを何一つ捨てずに、全部抱えて好きに飛び回る。
そんな楽しい人生がこれから始まるのだと思うと、胸がワクワクと躍った。


「・・・うん・・・・・!」

何て欲深くて我儘勝手な女なんだと苦い顔をしていそうな誰かさんの顔をチラリと思い浮かべて、は笑った。
欲深いのも我儘勝手もお互い様やと、笑って心の中で舌を出してやった。


「なぁ、明日お好みせぇへん?」
「お好み?」
「うん。あ、明日じゃなくて、もう『今日』になってもうたけど。」

時間を巻き戻す事は出来なくても、たとえ形ばかりでも、あの時をやり直したかった。
真島が覚えていなくてもいい、自分一人の心の内だけで構わないから、あそこからもう一度やり直して、ずっと尾を引いていた悲しい記憶にも、佐川との日々にも、きっぱりとピリオドを打ちたかった。


「・・・ええのう。あん時は食いそびれてしもたからなぁ。」
「うそ・・・・・、それも覚えてたん?」
「ったり前じゃあ。むちゃくちゃ悔しかったんやからな。食い物の恨みは怖いんやぞ?」

真島は優しく笑って、を抱き寄せた。
湯冷めしつつあるその素肌は少しひんやりしているが、愛しい人の胸の中に抱きしめられる幸福感はじんわりと温かく、胸の中だけには抱えきれない程に大きく、微かな笑い声となって溢れ出た。


「・・・冷えてきてるやん。イチローとジローとサブローが風邪引くんちゃう?」
「大丈夫や。コイツらはそんなヤワやない。それより、お前のブッサイクなクマこそ大丈夫かいな?もう消えとんとちゃうか?」
「まだ消えてへんし、私のシローちゃんはブッサイクちゃうし。ふふふっ・・・・・」

唇を重ね合わせて、真島と共にゆっくりと倒れ込んでいっても、それはまだ暫く止まる事はなかった。



















今日も春らしい、暖かい陽気だった。
網戸にした窓から、午後の穏やかな日差しと爽やかな微風が入り込んでくるのが心地良い。
そこに香ばしい匂いが重なり始めた頃、が真剣な面持ちでテーブルに向かって居住まいを正した。


「・・・よっ・・・・・しゃっ!」

の操る2本のテコで、お好み焼きは見事綺麗にひっくり返り、ジュウウウ・・・と良い音を鳴らした。
続いて2枚目も同じようにひっくり返すと、は緊張を解き、一仕事終えたような清々しい笑顔になった。


「丁度ええ感じや!後はこのまま暫く置いといたらええわ。」

2枚のお好み焼きが載っているホットプレートの向こう側で、が笑っている。
3年越しに見る事の叶った光景は、あの日想像していた通りに温かくて、幸せだった。
真島は目を閉じ、大きく息を吸って、漂ってくる美味しい匂いをしみじみと味わった。


「ん〜!ええ匂いしてきたのう!待ちきれへんわ!」
「そろそろワイン開ける?」
「おう、そやな。」

真島は自分の傍らに置いておいたワインクーラーから、ワインのボトルを取り上げた。
の生まれ年、1965年のロマネ・コンティ。
断腸の思いで未練を断ち切り、の幸せな未来を願って贈ったそれを、結局自分が飲む事になるなんて、何だかむず痒いオチだ。
咽び泣くに釣られてボロ泣きしてしまったあの夜の自分をまたうっかり思い出して軽く悶絶しそうになりながら、真島はワインの封を切り、栓を抜いた。
それを揃いのワイングラスに注ぎ分けると、は感慨に浸るような溜息を吐いて、ガーネットの色をしたその液体を嬉しそうに見つめた。


「なあ、乾杯しよ!」
「おう!」

はワイングラスを持ち上げ、真島の方に突き出した。
真島も笑って、同じように自分のグラスを掲げた。


「何に乾杯しよか?」
「何でもええやろ別に。」
「あかんわそんなん!折角のワインが勿体ないやんか!」
「ほんなら何がええねん?」

それは正にが聞きたい事だった。
二人の想いが詰まった大切な大切なワインだから、きちんと誓いを立てて飲みたいのだが、それに相応しい言葉が思いつかないのだ。
は眉を顰めて、大きな溜息を吐いた。


「そこやねん。何て言うたらええんかずっと考えててんけど、うまい言葉がどうしても思いつかんねん。
何て言うたらええと思う?たとえば、やり直せる事に乾杯・・・・・とか?」
「何か微妙やのう。」
「そやろ?ほな何て言うたらええの?」
「何て言うたらええかって?何て言うたら?・・・・・うぅ〜むむ、何て言うたらええかってか・・・・・・」

真島も思いっきり顰めっ面になって、皺の寄った眉間を人差し指でグリグリと揉み始めた。
かと思うと、そのうち瞼が閉じられ、指も止まってしまった。
まさか居眠りだろうか?あと何秒か待って目が開かなかったらどやしてやろうかと思っていると、真島はまたパッと目を開けた。


「今ちょっと思ったんやけどな?」
「何?」
「よう考えてみたら俺ら、何も始まっとらんかったんとちゃうか?」
「え?」
「これから始めようとしてた時に、あのクソ親父にワヤクチャにされてしもた。ちゃうか?」

出逢って、だんだん好きになっていって、その気持ちを交わして。
それからどうだったかとよく考えてみれば、真島の言う通りだった。
一緒に暮らして店をやろうなんて夢を語ってはいたが、それに向けての具体的な行動は何一つ取っていなかった。
アパートを探しに不動産屋へ足を運ぶ事さえも、まだこれからというところだったのだ。


「・・・・・ホンマや。言われてみれば・・・・・」
「な?」

ポカンとした顔を見合わせてから、二人はどちらからともなく笑った。


「だから、やり直しっちゅうか、始まりやろ。こっからが俺らの、ホンマの始まりや。」

真島は改めてグラスを掲げた。


「『始まり』かぁ・・・・・、うん、それがええわ!ピッタリや!」

もそれに応えた。


「ええか?ほないくで。俺らの始まりに・・・・・」
「乾杯・・・・・・!」

触れ合ったワイングラスが、美しく澄んだ音を響かせた。
の涙と真島の願いが溶け込んでいた芳しいワインに互いへの想いを浮かべて、二人はゆっくりとそれを飲み干し、また笑い合った。
先が見えないのは3年前も今も変わらない。それどころか、一層見通しが利き難くなっている。
それでも今の方が、あの時よりももっと晴れ晴れとした希望に満ちていて、大きな幸福感に包まれていた。
今の方が、あの時よりももっと強く、心から信じていられた。


「なぁ、お好みまだ?」
「まだまだ。さっきひっくり返したとこやろ?」
「あかんもう辛抱堪らん、むっちゃ腹減った!ちょっとぐらい焼き足らんでも俺は構へんで!?」
「あかんあかん!待てやで、待て!お預けっ!」
「あぁ!?犬扱いすんなや!」

今、自分達が歩き出した道は、ずっとずっと長く伸びている、と。




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後書き

『檻の犬と籠の鳥』、これにて完結です!
最後までお付き合い下さり、ありがとうございました!
お楽しみ頂けていれば幸いです。
長い時間をかけて書いてきた(妄想が膨らみまくって収拾がつかない為 笑)ものが無事に纏まると、何とも言えない爽快感があります。
それと共に、ちょっと気が抜けるというか、何かがポッカリと抜け落ちたような寂しさも感じます。
そしてそれを埋める為に、また妄想を始める、と(笑)。
終わらんやないかーい!みたいな(笑)。
この作品はこれでひとまず完結しましたが、私の妄想は終わりません。
ええ、終わりませんとも。フフフフフ。

ともかく、無事に区切りがつきました。
最後までご覧下さいまして、本当にありがとうございました!