檻の犬と籠の鳥 16




「ホンマ吃驚したわ〜!いきなり来んねんもん!そら卵も割れるっちゅーねん!どうぞ〜!」
「おう、邪魔するで。」

は笑いながらドアの鍵を開けて、真島を店の中に招き入れた。


「ほぉ〜!ええ店やんけ!」

真島は店の中をしげしげと見回し、感嘆の声を上げた。
その両腕にぶら下がっている買い物袋の重みには、全く意識が向いていないようだった。


「そう?ありがとう。あ、それこっちに持って来てくれる?」
「おう。」

キッチンに呼び寄せると、真島はそれを調理台の上に置いた。
は手を洗い、袋の中から買った物を次々と取り出して、手早く片付けていった。


「卵どないや?」
「あちゃ〜、3ついってもうてる。でも大丈夫、使える使える。」

割れた卵は器に入れて、ラップを張って冷蔵庫にしまい込んだ。
そのついでに中をチェックしたが、今すぐ出せる物は無かった。
今日の分の材料は買い込んできたが、作るのはこれからなのだ。
今すぐ出せそうなものといえば、常備している乾き物やチーズ位だった。


「運んでくれてありがと。あっちで座ってて。何飲みたい?」
「せやな、ビールあるか?」
「ビールでええの?」
「おお。喉乾いとんねん。」
「分かった。ちょっと待っててな。」

真島がキッチンから出て行くと、はジョッキクーラーからよく冷えたビールグラスをふたつ取り出して、生ビールを注いだ。
そして、小皿にミックスナッツやジャーキーを適量盛り付け、トレーに載せた。
用意をしながら、2年半前の事を思い出していた。
あの時、真島はとても素敵なもてなしをしてくれたのに、こんなのでは釣り合いが取れない。
何だか情けないが、今日の仕込みはこれからなのだから仕方がない。
諦めをつけると、はトレーを持ってキッチンを出た。


「お待たせ〜!」
「おう。」

真島はカウンター席に腰を下ろして、煙草を吸っていた。
相変わらずの、ハイライトだった。


「どうぞ。」

カウンターの内側から、ビールとおつまみ、それに灰皿を差し出すと、真島は小さく笑って『おおきに』と呟いた。
は自分のグラスを真島の方に掲げ、笑いかけた。
すると真島も、その意図を理解してグラスを持ち上げた。


「改めて、お久しぶり。」
「おう。久しぶり。」

グラスの触れ合う音が、小さく鳴った。
真島はグラスの半分程を一気に飲んで、大きく息を吐いた。


「ぷはぁっ!美味いっ!」

も同じように、冷たいビールを幾らか一気に喉に流し込んで、溜息を吐いた。


「はぁっ・・・・・!美味し!今日はちょっと暑い位やから、喉乾くなぁ。」
「そやなぁ。」
「ごめんな。折角来てくれたのに、今こんなんしかなくて。」
「構へん。開店前なん百も承知で来とんねん。こんで十分上等や。」
「そう言うて貰えると助かるけど。どうせやったら営業時間中に来てくれたら良かったのに。」

苦笑しながら煙草を咥えると、真島が少し身を乗り出して火を差し出してくれた。
見覚えのある、ブラックメタルのジッポの火を。
は小さく笑って礼を言い、その火を貰った。


「ふふっ・・・・・、まだ持ってたんや、それ。」
「使い易うて気に入っとんねん。」
「そない言うて貰えたら、そのライターも本望やわ。」

本望なのは、自身の方だった。
もう二度と会う事は無いだろうと思っていた人が、会いに来てくれた。
あの時の、焦がれるような恋慕の情はもう無くても、気に掛けて来てくれた。
その事が何より嬉しく、それだけで報われる思いだった。


「ちゅーか、そのけったいな格好は何なん!?」

懐かしい痛みに切なく疼く心を誤魔化したくて、は真島の奇抜なファッションを笑い飛ばした。


「あんた見る度にガラッと印象変わるなぁ!またえらい派手になって〜!あはは!」
「ほっとけや。そういうお前は髪長なっただけで相変わらず色気足らんやんけ。ひひっ。」
「よう言うわあんた・・・!」

あの夜、毛皮のコートを着せてくれた時に、『とても美しい』なんて歯の浮くような甘い言葉を掛けてくれたのはどこの誰よと言いかけて、はその言葉を呑み込んだ。
悲しい涙に濡れたあの夜の事を口にするのは、何だかやけに気恥ずかしくて。


「『グランド』は?景気どう?」

代わりに何気なく口にした社交辞令に、真島は一瞬、視線を落として黙り込んだ。


「・・・あそこは去年いっぱいで辞めたんや。今は東京におる。」
「東京・・・・・」

真島の事は、まだ全て覚えていた。
彼は元々東京の出身で、関東最大の極道組織である東城会に属していた。
そこを追放されて大阪に来ていた彼が、再び東京に戻ったという事は。


「・・・・・ほな、もしかして、元の組に戻れたん?」
「ああ。」
「そう・・・・・。良かったやん。おめでとう。」

祝福の言葉が、素直に口をついて出た。
すると真島は、何だか決まりが悪そうに小さく笑った。


「・・・おおきに。」
「まあ、ヤクザ復帰おめでとうなんて、あんまり言わんような気ィもするけどな、ふふふっ。」
「ははっ、ま、普通はそうやわな。」

真島は笑った後、ハッとする程真剣な眼差しになって、をまっすぐに見つめた。


「・・・・・せやけど俺は、俺の生き方を貫くと決めたんや。」
「・・・・・うん。」

はそれに、微笑んで頷いた。
かつての彼の悲願を、恐らく今も変わっていないであろうそれを知っているから、素直に祝福したかった。
尤も、悪い事や危ない事は極力しないで欲しいし、命を失うような事にもならないで欲しいと願わずにはいられないけれども。


「っちゅーか、何でジャケットの下何も着てへんの?」

派手なヘビ柄のジャケットの下が裸である事を指摘すると、真島は心外そうに唇を尖らせた。


「何でって、ファッションやがな!」
「ファッションて、『イチローさん』と『ジローさん』が丸見えやん!
いやぁどうもご無沙汰してますぅ〜お元気でしたぁ〜?って挨拶出来るやん!
なんぼ極道や言うても、ガラ悪いにも程があるやろ!ホンマ何ちゅー格好してんねん!アホちゃうか!」
「うっさいわ、ほっとけ!『サブロー』は隠れとるからまだマイルドやろが!」

気付けばお互い、自然と昔の思い出が口をついて出ていた。


「どこがマイルドやねん!どぎついわ!おまけにヘビ柄て!」
「大阪のオバハンかてヒョウ柄とか着とるやんけ!極道ちゃうのに!
紫色のパンチパーマに、ヒョウの顔描いてあるヒョウ柄の服やぞ!?
何やねんあのファッションセンスは!流石の俺もアレには負けるわ!」
「あー、あはは!確かに、時々そういうオバちゃん見かけるなぁ!」

それを交えて、自然と笑い合っていた。
こんな風に、真島とまた下らない話をして笑い合える日が来るなんて、ついさっきまで思ってもみなかった事だった。
だが、偶然の再会ではない。真島は会いに来てくれたのだ。
その理由の心当たりは、ひとつしかなかった。


「・・・・で?今日はまた、わざわざ東京から何で急に来てくれたん?」
「あぁ、それはやな・・・」
「もしかせんでも、佐川さんの事やろ?」

心当たりはやはり的中していたようだった。


「・・・・・ホンマはもっと早う来れたら良かったんやろうけど、俺も聞かされたばっかりでな。」
「そう。もう暫く経つねんで。」
「らしいな。」

佐川の死を、はこれまで誰とも共有する事がなかった。
あの人の事を話せる相手が、周りにいなかったからだ。
だが、真島ならば、この人にならば、話す事が出来る。
そう思うと、何となくずっと重たかった心が、少し楽になるようだった。


「あの人に最後に会うたんは、去年の12月やった。
この店の2周年記念パーティーに顔出してくれて、その時は別に変わった様子も無かったんやけど、それから色々忙しい言うて、店にも家にも来てくれへんようになってな。
クリスマス前に、今仕事で東京来てるって電話があってからは、もう連絡すらもつかんようになって。
あの人の多忙や気まぐれはいつもの事やったけど、流石に様子がおかしいわと思って心配しとったら、年明けて暫くしてから、またひょっこり電話掛けてきてな。
その時も東京におるって言うてたんやけど、その後何日かして、こっちの山の中であの人の遺体が見つかった。
頭1発撃たれて即死やったみたい。体と右掌にも、銃弾が貫通した傷と手当てした痕跡があったけど。」
「・・・・・そうか・・・・・・・」

は話しながら、ああ、私はずっと、誰かにあの人の話を聞いて貰いたかったのだと思った。


「組の人が声掛けてくれて、葬儀には一応出られたんやけど、そのお葬式も何か思ったよりこじんまりしとったわ。
近江連合の直参の組長で、あんなに稼いではったのになぁ。」

佐川の葬儀は、何だか寂しい位に質素だった。
あれだけ派手に稼ぎ、派手に遊んでいた人だったのに。
思ったより弔問客も少ない静かな葬儀に、あの時は少なからず佐川を憐れに思ったものだった。
しかし、それはほんの少しの間に過ぎなかった。
寂しい雰囲気の中、粛々と進んでいくかと思われた葬儀は、ある瞬間に一変して、大変な大騒動へと変わったのだ。


「喪主はな、あの人の昔別れた奥さんとの間の息子さんが務めはってん。」
「あのオッサン、息子がおったんか・・・・」
「そやねん。私もお葬式の時に初めて知って吃驚したわ。」
「どんな奴や?」
「多分、私らと同じ位の歳ちゃうかなぁ?そやから、丁度あんたみたいな感じ?まあ尤も、その人は堅気みたいやったけど。
ほんで、その息子さんと前妻さんと、私みたいな愛人連中が何人か来とってな。
その内の一人が、お葬式の最中に、何と佐川さんの子を妊娠してるて言い出して!」
「マジでか・・・・・!」

案の定、この話には真島も大層驚いたようだった。


「愛人の方は、お腹の赤ちゃんにも相続権があるんやから財産よこせ言うし、前妻さんと息子さんの方は、佐川さんの子やていう証拠がどこにあるねん言うて、もうどえらい騒ぎや!
しまいに前妻さんと愛人で、祭壇の前で取っ組み合いの大喧嘩やで!」

その凄まじかった修羅場を思い出して、もつい笑ってしまったが、真島も真島で、憚る事なく手を叩いて大笑いをした。


「うひゃひゃひゃひゃ!!あんのオッサンだけはホンマどうしようもないのう!」
「ホンマやで!いかにもあの人らしい置き土産やわと思ったら、腹立ちすぎて何かもう笑けてきてなぁ!」
「あぁー分かるわその感じ!それや、ホンマそれ!」

真島は心の底から嫌そうに顔を顰めた。


「こうやろ?ちょっとこう、口の端っこを腹立つ感じにニヤッとさせて、『良いぞ、やれやれ、もっと騒げよほら』とか言うてる気ィするやろ!?」
「あぁぁーそれそれ!ホンマそれ!『ハン、みっともねぇなぁオイ、バカじゃねーかお前ら全員』みたいな!?」
「うあぁぁーー!!むっちゃ似てるやんけお前!!腹立つわー!!ぶはははは!!」
「あんたもムカつく位よう似てんで!あははははは!」

いつの間にか、互いに佐川の物真似を披露し合って、大笑いしていた。


「ホンッマ腹立つオッサンやったわーー!!自己中やわ理不尽やわ、やる事なす事ムチャクチャやわ!!」
「ホンマやで!!カッコつけやわいい加減やわ女たらしやわ!!」
「俺、何遍あのオッサン殺したると思った事か!!」
「私もや!!何遍寝てるあの人の顔見て『刺したろか!?』思た事か!!」

二人で爆笑しながら、好き放題に佐川の悪口を大声でぶち撒けた。


「「ホンッッマにムカつくオッサンやった!!」」

そして、二人同時に全く同じ言葉を叫んで互いに驚き、顔を見合わせてまたひとしきり笑った。


「あー、スッとした!今まであの人の悪口、言うに言われへんかったから!」
「分かるわー!俺も似たようなもんやったからな!ホンマ、スッとしたわ!」

死んだ佐川には悪い気もするが、何とも言えない爽快感があった。
真島もきっと同じなのだろう、清々しそうな顔をして笑っていた。


「ふふっ、おっきい声で悪口言うて笑ろたら、また喉乾いたわ。ビールのお替りどう?」
「おう、要る要る!」

空になった2つのグラスを持って、はまたキッチンに入った。
一人になると、昔の事が色々と思い出された。
もしもあの時真島と別れていなければ、今頃どんな人生になっていただろうかなんて、考えても仕方のない事をつい考えてしまう。
一度失った人はもう取り戻せないし、この3年も、そう悪い事ばかりではなかったのに。
散々世話になっておきながらこんな事を考えるなんて、恩知らずな女だと佐川が草葉の陰で怒っている事だろう。
は自嘲の笑みを浮かべながら新しいグラスにビールを注ぎ、真島の元に運んだ。


「・・・・・私な、あの人の事、まだ恨んでるねん。」

真島の手元にビールのグラスを差し出してから、は話を再開させた。


「そら、あの人の愛人になる事を決めたんは私やったけど、あの人の事を好きになってそうしたんじゃなかったから。」
「・・・分かっとる。」

ビールを呷る真島は、寂しげな翳りを帯びた表情をしていた。
この人も私と同じ事を考えてくれているのだろうかと思わず期待してしまうのが、我ながらばかみたいだった。


「・・・・今更やけど、あの時の事、言い訳しても良い?」

出来れば、そんなん今更ええわと笑い飛ばさずにいて欲しい。
のそんな願いが通じたかのように、真島は小さくああ、と呟いた。


「あの日、いつも通りマンションに行ったらあんたがおらんようになってて、代わりに佐川さんがおってん。
あんたに会わせて欲しいて頼んだら、あの人、それに条件をつけてきたんや。それが・・」
「やっぱりな。どうせそんな事やろうと思っとったわ。」

の話を遮るようにして、真島が俯きがちにボソリと呟いた。


「それにあの人、私の家族の事も調べ上げとって、あの日、私が出掛けた後に家族全員を連れ出してたんや。」

顔を上げた真島と目が合った。
他人事、それも3年も前の事なのに、今自分が危機に瀕しているかのような目をしてくれる彼の気持ちが嬉しかった。


「別に何されたって訳やないねん。ただあの人が経営してたレストランに招待されてご馳走になってただけや。
そやけどあの時の私には、家族が人質に取られたようにしか思われへんかった。
あの人の愛人になったら、家族の面倒全部みたるしあんたにも会わせたるって言われたけど、逆を返すとそれは、私があの人の女にならんかったら、家族もあんたも皆どうなるか分からへんって事やと思って、それで私・・・・」
「・・・前に、グランドで会うた時にも言うたやろ。」

真島は優しく微笑んで、静かにグラスを傾けた。


「お前は何も間違っとらん。俺がお前でも、同じ選択をしたわ。
何せ相手は極道、しかもあの佐川はんや。決して考え過ぎとちゃう。
もしそん時お前が断わっとったら、お前の家族はともかくも、俺なんぞとっくのとんまに消されて、今頃蒼天堀にでも沈んどったやろ。
あのオッサンの狙った獲物に対する執着心ときたら、そらもう凄まじいもんがあったからな。」

軽口を叩き、何でもない事のように飄々と笑う真島に救われる思いだった。
何もかもが今更の話で、過ぎ去った時はもうどうしたって巻き戻せないが、それでも救われた気がした。


「ふふふっ・・・・・、ホンマや。それ私もめっちゃ心当たりあるわ。
言われてみればあの人、商売でもプライベートでも、自分が欲しいと思ったもんは必ず手に入れとったわ。」
「せやろ?」

真島と顔を見合わせて、また少しの間、笑い合った。
それは佐川司という男をよく知る者同士の、言わば同病相憐れむような、妙な仲間意識から出た笑いだった。


「・・・何であれ、結局決めたんは私や。あんたを裏切ったんは佐川さんやのうて、私自身や。
そやから、私が悲劇のヒロインぶって引きずる筋合いなんか無い、そう思ってあんたからの連絡を無視して、腹括ってあの人の女になった。そのつもりやった。
でも、頭では分かってても、心の中ではどっか割り切られへんまんまやった。
何から何まであの人の好みに合わせて、いつもニコニコ愛想振り撒いて、あの人の愛人になりきろうとしてたけど、気持ちはついて来ぇへんかった。
特に、あんたとグランドで再会して別れた後は、ホンマにあの人の事を恨んだわ。
いっそあの人殺して、私も死んだろかとまで思った位や。だから、あの人が死んでも正直、そこまで悲しくならんかった。
でもな、恨んではおるけど、不思議と憎んではないねん。」

こんな事を言えば、真島は気を悪くするだろうか。
自分達二人を無理矢理に引き裂いた男の事を憎んでいないなんて、それこそ裏切りだと憤るだろうか。
それともやっぱり、もうあの時の事自体、何とも思わないようになっただろうか。
真島がどう思うかは気になるが、しかし、これが今のの正直な気持ちだった。
失くした恋を惜しむ気持ちとはまた別に、佐川に対する情も、確かに胸の内にあった。


「あの人、ムチャクチャやったけど、私との約束は全部守ってくれた。
お母ちゃんの借金全部返してくれたし、上の弟の居所も探してくれてな。昔言わんかったっけ?上の弟が高校辞めて家出したって。」
「覚えとる。見つかったんか?」
「うん。名古屋でヤクザ紛いの街金の使いっ走りにされとったのを、あの人が足抜けさせてくれたんや。あの人が話つけてくれへんかったら、絶対無理やった。」
「そうか・・・・・」
「最期に東京から電話してきた時もな、私の口座にお金入れといたって言うたんや。
暫くほったらかして、クリスマスも正月も何もしたらんかったから、その穴埋めとか言うて笑ろとったけど、それにしては額が大きすぎた。
今から思ったらあれ、うちの弟妹達の進学費用のつもりやったんやと思う。」
「・・・そうか・・・・・・」
「あの人には確かに、返しても返しきれへん大きな恩がある。
あんたとの事では散々傷付けられたけど、でも、あの人はあの人なりに私の事を想ってくれとったんやろかと思ったら、何か憎まれへんねん。」

恨んでいるけれども、憎んではいない。
大嫌いだけど、感謝している。
佐川司という男は、いつの間にか、にとってそんな不思議な存在となっていた。
こんな話を聞かされて真島がどう思ったか気になったが、真島はの話に耳を傾けながらビールを飲んでいるだけで、自分からは何も話そうとしなかった。




「・・・・・なぁ、訊いてもええ?」
「何や?」
「あの人は、何を下手打ったん?」

敵を討ってやりたいとか何とか、そういう事ではない。
ただ、佐川が何故死ななければならなかったのか、知れるものなら知りたいだけだった。


「・・・・・佐川はんに、そない言われたんか?」

真島は何か知っているような気がしていたが、やはり、図星のようだった。


「ちゃう。ちょっと人から聞いただけや。あの人、何かえらい失敗をしたんやて。
それに、連絡が取れへんようになってからあの人が見つかるまでの間、私見張られとったんや。
大方、佐川さんが私んとこに来るかも知らんと思って、張り込んでたんやろな。
そやから多分、ホンマに何かそれなりの大事が起きたんやろうなぁとは思っててん。
あんたも同じ頃に東京におったんやったら、もしかしたら何か知ってるかなぁと思って、ちょっと訊いてみただけ。」

真島はビールをもう一口飲むと、自分の手元に視線を落としながら、ボソボソと喋り出した。


「・・・・・東京の、神室町に、とてつもなくデカい利権の絡む、土地があったんや。」
「土地?」
「せや。たった1坪の、せっまい土地や。そやけどそこには、10億からの値打ちがあった。」
「10億て・・・・・・!」
「それを巡って、俺のおる東城会が揉めに揉めた。殆ど戦争や。
それに乗じて、佐川はんとこの近江連合が東京進出を図ってきた。
その指揮を執ってたんが佐川はんで、近江の東京進出は・・・・・、失敗に終わった。」
「・・・・・そう・・・・・・・」

真島の哀しそうな顔を、はじっと見つめた。
恐らく彼は、その『戦争』とやらにどっぷりと関わっていたのだろう。
だが、そこから暫く待ってみても、真島は黙って煙草を燻らせているばかりで、話は続かなかった。
彼がその争いにどう関わり、どんな経験をしたのか、この様子では詳しく聞かせてくれそうになかった。


「じゃああの人は、その責任を取らされて・・・・・・?」

佐川の死の原因だけを端的に聞かせて、あとは黙ったきりだった真島が、その時突然、に向かって深々と頭を下げた。


「な、何よ急に・・・・!?」
「すまん、。」
「え・・・・・?」
「佐川はんが始末された決定的な理由は、多分、俺の親父にある。」

その言葉に、は小さく息を呑んだ。


「・・・・・どういう・・・・事・・・・・?」
「俺の親父と佐川はんが兄弟分やったんは言うたやろ?勿論、その時も佐川はんは親父と結託しとった。
そやけど、東城会の中で自分の立場が危うくなった親父は、佐川はんを裏切って、使者として来とった近江の本部長を殺した。
あの時、親父が裏切らんかったら、佐川はんはもしかしたら死なずに済んどったかも知れん。
そやけど、佐川はんに義理を通したら、親父は自分が死ななあかんかった。そやから・・・」
「ええんよ。」

は、まるで懺悔のような真島の話を遮った。


「もう済んだ事やわ。それに、何もあんたが謝る事ない。あんたがあの人殺したんとちゃうんやから。」
・・・・・・」

その話が本当だったとして、真島が罪の意識を感じなければならない道理は無かった。
まして、に頭を下げて詫びねばならない筋合いなど、ある筈もなかった。
正式に結婚していた妻ならばまだしも、は単なる愛人の一人に過ぎなかったのだから。


「お前・・・・・、大丈夫か?」

あの頃と何も変わらない真島のその優しい眼差しに一瞬、心が揺れた。
しかしは、それを抑え込んで笑ってみせた。


「大丈夫って、何が?見ての通り元気やけど?」
「グランドは近江の他の奴が取りよった。他の店も多分同じようになっとるやろう。ここもそうなっとるんとちゃうんか?」

付き合いのある数軒の話しか知らないが、真島の言う通りだった。
佐川の持っていた店は、既に近江連合の他の幹部達の手に渡っていた。
『引継ぎ』『代替わり』などと言えば聞こえは良いが、の知る限り、彼等は実質、まるで死肉に群がり食い千切っていくハゲタカの如く、佐川の遺した店を思い思いに乗っ取っていた。


「お前、佐川はんが下手打ったって事、人から聞いたて言うたな?誰やそいつ?近江の奴なんやろ?」

金銭ずくで関係を結んでいただけの情婦の事など、佐川が死んだ今となっては、誰も気に留めない。
佐川組の組員達も、佐川の葬儀以降会う事はなくなったし、そもそも佐川組それ自体がもう存在していない。
今のの周りにいるのは、その『ハゲタカ』だけだった。


「・・・・・まぁ、そんなとこ。」

は笑って、ビールを一口飲んだ。
却って不審に思われるのが嫌で肯定はしたが、かと言って、そのハゲタカの話をするのも嫌だった。
折角また会えたのに、そんな無粋な話はしたくない。
どうせなら、あの頃のように楽しく笑っていたかった。


「でもうちは別に大丈夫やから、心配せんといて。
あ、そや!お腹空いてへん?良かったら、久しぶりにさん特製オムレツ食べる?」
「おっ、ええのう・・・って、さっき割れた卵の処理とちゃうんかそれ?」
「まぁまぁ、そんな細かい事気にしなや!大丈夫やて、さっき買うてきてさっき割れたとこやねんから、あはは!」

があっけらかんと笑ってみせると、真島は苦笑した。


「何やねんそれ。これやから大雑把なO型は。」
「変人のAB型に言われたないわ。」

懐かしさと嬉しさと切なさが混じって、思わず胸が震えた。
あの時二人の間にあった情熱は、もうとっくに消えて無くなっている筈なのに、心が失くした恋の記憶をなぞりたがっていた。
今更そんな事をしたって、何になる訳でもないのに。
きっと、単なる感傷なのだろう。
もう二度と逢えないと思っていた人と、思いがけず逢えたから。
だからつい、そんな事を考えてしまうのだ。
複雑に考えず、単純に再会を喜んで、この束の間の一時を楽しめば良い。真島もきっとそれを望んでいる筈だ。
は自分にそう言い聞かせ、密かに疼く心を鎮めると、明るい笑顔を真島に向けた。


「ちょっと待ってて、すぐ作ってくるから!」
「おう。」

カウンターを離れ、キッチンへ行きかけたその時、突然、入口のドアが開いた。
入って来た小太りの中年男の顔を見て、は一瞬硬直した。




「おう、ママ。」

今月もそろそろ来る頃だとは思っていたが、よりにもよって今来るなんて、何と間の悪い事か。
は思わず溜息を吐きそうになるのを堪えて、商売用のスマイルを浮かべた。


「岩下さん。いらっしゃいませ。」

かつての佐川組より規模は小さいようだが、この男も直参の組を持つ、近江連合の幹部だった。
岩下は真島を一瞥し、聞こえよがしに鼻を鳴らして笑った。


「何や、もうお客はん入っとんか。いつから開店時間早めたんや?」
「昔のお得意さんなんです。久しぶりに寄ってくれはって。」
「ほ〜う、そうかぁ。それはそれは。」
「すみませんけど、ちょっとお待ち頂けますか?丁度今、お見送りするところやったので。」

一瞬、真島が驚いたような視線をに向けた。
当然だ。こんな風に、いきなり追い返される事になっては。
しかし、としては他にどうしようもなかった。
真島には悪いが、このままここにいられるのは大層都合が悪かったのだ。


「構へんで。ワシは急げへんさかい、ゆっくりお見送りしたり。」

岩下が真島の隣の椅子にどっかりと腰を下ろすと、真島は反対に席を立った。
挑発的な岩下に反応する事もなく、何故俺が追い出されないといけないんだと怒る事もせずに、ただ黙って立ち上がり、煙草とライターをジャケットのポケットにしまい込んだ。
まるで、の事情を理解しているかのように。


「折角来て頂いたのに、何のお構いも出来ませんですみません。」

勝ち誇ったような顔で煙草を吸い始めた岩下から目を背け、は真島に頭を下げた。


「いや。こっちこそ開店前に邪魔したな。」
「今度は是非、夜にいらして下さい。改めておもてなしさせて頂きますので。」
「ああ、そないさせて貰うわ。ほなな。」

真島は微かに笑って、カウンターの上に3万円を置いた。
反射的に素の反応を返しかけたは、それをどうにか踏み止まって一旦そのお金を受け取り、カウンターから出た。


「すみません、どうもありがとうございました。どうぞ。」
「おお、おおきに。」

ドアを開け、真島を先に外へ出してから、も見送りを装って後について出た。
そこまでは商売用の優雅な所作を保っていたが、ドアが完全に閉まった瞬間、は真島の袖を掴み、小走りで店から少し離れた。


「な、何やねん?」
「これは受け取られへん。」

お金を返すと、真島は思いっきり眉間に皺を寄せた。


「何でやねん。ええから取っとけや。」
「そういう訳にはいかん。」

は真島の手を掴み、その大きな掌にねじり込むようにして強引にお金を握らせた。


「ちょっ・・・、何すんねん!?」
「家に遊びに来てくれた友達に、お茶代請求する人がおるか?それと同じ事や。」

真島の手を握り締めたまま、皺の刻まれた眉間をじっと見つめていると、真島は根負けしたように溜息を吐いた。


「何で怒んねん。可愛げない女やのう。」
「あんたも散々こないして怒ったやろ。女にかてプライドはあるんや。」
「何言うとんねん、男と女はちゃうやろが!」
「ほな経営者としてのプライドや。それならあんたと同じやろ?」
「ぐっ・・・・!お前はまたそういう減らず口を・・・・!」

はにんまりと笑って、真島の手を放した。
久しぶりに触れたその手を、出来る事ならまだ放したくはなかったが。


「東京にはいつ帰んの?」
「いつ・・・・とは、まだはっきり決めとらんのやけど、まあ、数日中ってとこか。」
「ほな絶対また来て。東京帰る前に、ほんのちょっとの時間でも良いから。」
「・・・・・・・・」
「『グランド』の支配人さんには敵わんかも知らんけど、この2年半、私も私なりにこの店切り盛りしてきたんやってとこ、見せたいねん。」

笑いかけると、真島も目元を柔らかく綻ばせた。


「分かった。約束する。」
「絶対やで?」
「おう。」

その優しい微笑みに、ふと翳りが差した。


「なぁ、・・・」
「ん?」
「・・・何もない。呼んだだけや。」

しかしそれはほんの束の間の事で、真島はすぐにニッと口元を笑わせた。


「ほな、また来るわ。」

大好きだったその笑顔に、胸が切なく締め付けられた。


「・・・うん、待ってる。ありがとうな。」

お互い、もうあの頃とは違うのだ。
二人で一つの人生を歩いて行こうとしていたあの頃とは、もう違う。
歩いて行く真島の背中を見送ると、は溜息を吐いて店の中に戻った。
戻って来たの顔を見た途端、岩下は煙草の煙を吐きながら、また勝ち誇ったような笑みを浮かべた。



「すみません、お待たせしまして。いつもので宜しいですか?」
「おう。」

は岩下のキープボトルを出し、水割りを作って出した。
だがこの男の目的は、断じて1杯の酒などではない。
は岩下に軽く頭を下げてその場を離れ、事務室の金庫からパンパンに膨らんでいる封筒を出してきた。


「・・・これ、今月分です。どうぞお改め下さい。」

はその封筒を岩下の手元に差し出した。
すると、岩下はすかさずそれを取り上げ、の目の前で中身の紙幣の枚数を数えた。


「ん、確かに。ご苦労さん。」

このお金は元来、佐川に対して支払っていたものだった。
だが、その頃と比べると、今は封筒の厚みが格段に増している。
しかしは、この店を守る為に、敢えてその激変を受け入れていた。


「いつも来て頂いてすみません。ちゃんとこちらからお届けに上がりますから、本当にもうこのようなお気遣いは・・」
「水臭い事言うなや。それとも何か?ワシはこの店に来たらあかんのか?」

岩下は封筒を上着の内ポケットに納めながら、下卑た笑みをに向けてきた。
舐めるようなその視線に思わず嫌悪感を催しながらも、は曖昧に笑ってそれを誤魔化した。


「いえ、そんな事は・・・・」
「さっきの眼帯、アンタの男か?」
「昔のお得意さんです。」
「ほな、佐川の前の男っちゅう事か?」

図星を突かれて、思わず言葉を失った。
しかし岩下は、一瞬の間を置いて鼻で笑った。


「ちゃうか。あない跳ねっ返りの若造に、女囲う甲斐性なんぞある訳ないわなぁ。」

言い返すべき事など何も無いので返事をしないでいると、岩下はまた舐めるような視線をに向けながら猫撫で声を出した。


「なぁママ。もうええ加減、意地張んのはやめたらどないや?
ワシかてなぁ、こないにキツい取り立てしとうないんや。
せやけど世の中っちゅうのは世知辛いもんで、何でもかんでも高うつきよる。
女手一つで頑張っとるアンタの力になってやりたいのは山々やけど、こっちもビジネスやでな。」

その『ビジネス』というのは、人によってやり方が様々だった。
以前と変わらず営業していける店もあれば、高額な上納金を要求されて払いきれず、泣く泣く明け渡された店もある。
全ては、『ハゲタカ』個々の考え次第のようだった。


「分かってます。お気遣いはいつも感謝してます。」
「分かっとんのやったら、もうええ加減『うん』言うたらどないや?ええ?
ワシのオンナになりさえすれば、月々の支払いをこれまで通り、いや、何やったら無しにしたってもええんやで?
ワシは佐川みたいな守銭奴とちゃうからな。自分のオンナから容赦なく金取り立てるようないけずはようせんわ。」

岩下はこの店だけではなく、個人をも狙っていた。
佐川の元愛人達がその後どうなったのか知る由はないが、彼女達もこのような目に遭っているのだろうか。
もしそうだとしたら、どう対処しているのだろうか。
口説かれるままに鞍替えをしたのか、それとも、佐川に対してまだ操を立てているのか。


「・・・すみませんけど、そろそろ準備せんとあかんのです。お引き取り願えますか。」

尤も、他人がどうであれ、の意思は固まっていた。


「・・・・・いつまでも強情な女やのう。」

岩下は、佐川とは違うタイプの男だった。
見た目も、長身でスマートだった彼とはまるで正反対にずんぐりむっくりしているが、何よりも女に対する態度がまるで違う。
この男は、女相手にも極道の顔で凄むクチのようだった。


「いつまで佐川に操立てるつもりや?とっくに死んだ負け犬やぞ?」
「そんなんとちゃいます。」
「ほなさっきの眼帯にか?」

が操を立てているのは、佐川でも真島でもない。心血を注いで大切に大切に育んできた、この店だった。
別に元々自分の店を持つのが夢だった訳ではない。
佐川の愛人としてだけの人生を送り、佐川に身を売った金で家族を食わせていくのが、ただ嫌なだけだった。
来る日も来る日も真島の事を考えては悲しみに暮れるばかりの日々から、ただ逃げ出したいだけだった。
最初の動機は只々それだけで、やるからには失敗出来ない、何としても軌道に乗せなければという責任感やプレッシャーを力にして始めた店だった。
そこに自分の店を持つ喜びや満足感のようなものは、全くと言って良い程無かった。
しかし、店の経営というのは思った以上に大変で、やり甲斐があって、いつしか仕事に没頭する事に楽しみや喜びを感じるようになっていた。
この店があったから、あの悲しみをどうにか乗り越える事が出来たのだ。
それを、こんな男に易々と奪われては堪らなかった。


「ふふっ。嫌やわ岩下さん、そんな買い被ってくれはって。私そんな一途な女に見えます?」

は些かも微笑みを崩さず、カウンターから出てドアを開け放った。


「どうもお世話様でした。お気を付けて。」

ドアの横で深々と頭を下げると、岩下は苛立ったように鼻を鳴らして煙草の吸殻を灰皿に押し潰し、席を立った。


「その強がりがいつまで続くか見ものやな。言うとくけど、ワシは佐川みたいな生っちょろい男やないで。欲しいもんは必ず手に入れる。覚えとれや。」

岩下はすれ違いざま、にそう吐き捨てて出て行った。
顔を上げ、ドアを閉めてから、は溜息を吐いた。
分かり易く威嚇して脅す岩下よりも、優しく甘やかしてくれた佐川の方がやはり恐ろしかった。
だから、岩下を拒み続ける事は難しくない。
ただそうする以上、この先どんどん追い詰められていくであろう事は間違いなかった。
この先、果たしてどこまで持ち堪えられるだろうか。


― 吾朗・・・・・・

真島のグラスと灰皿を片付けながら、はさっき交わした約束を思い返していた。
東京へ帰る前にまた必ず来ると約束してくれた、さっきの真島の優しい眼差しを。
いつ来てくれるだろうか?
明日か、それとも明後日だろうか?
その約束だけは、必ず守って欲しかった。
あの人を失った代わりに手に入れたこの店を、今の自分の全てを、どうしてもあの人に見て欲しかった。


― 絶対来てや、絶対・・・・・

これがきっと、最初で最後の機会となるだろう。
今を逃せば、もう恐らく、次は無いだろうから。




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後書き

佐川さんにバツイチ息子持ち設定を加味したのには、理由があります。
と言っても、まあ要するにいつもの妄想&捏造癖なんですけれども。
0の冒頭とエンディングの佐川さんにね、私は父性を感じたのですよ。
冒頭の佐川さんはひたすら前シリーズの解説係でしたが、その長々とした解説の間にチョイチョイ挟まってくる、堅気ゴリ押し攻撃。
料亭での「楽しかったな」の時の、あの微笑み。
最期の瞬間の、去っていく真島ちゃんを見送る時の、あの慈しみの目。
何かね、もうね、『親父』じゃなくて『父親』やなと。
(冒頭とラスト以外は組長全開ですけど 笑)


若い頃、堅気の女と所帯を持って、息子を一人設けた。
けど、ヤクザ稼業にほとほと嫌気の差した女房は、息子を連れて出て行っちまった。もう随分昔の事だ。
きっと今会っても顔も分からねぇだろう息子を、あいつに重ねて見るようになったのは、いつからだっただろうか。
出会った頃は、只々厄介なだけのきったねぇ犬ッコロとしか思ってなかったのにな。
いつしか俺は、テメェが昔失くしたものを、あいつに重ねて見るようになっちまった。
この稼業でそんな甘々な事を考えてたら、命取りにもなりかねねぇってのにな。
けど、後悔はしてねぇよ。
束の間、楽しい夢を見られた。
仕事教えて、一緒に酒飲んで、父親の真似事、楽しませて貰ったよ。
ありがとよ、真島ちゃん。お前もお前の思う通りに生きな、バカ息子。


佐川 愛の小劇場 PART2・完


みたいな。(←またか)