檻の犬と籠の鳥 15




2年の月日が流れた。
『キャバレー グランド』は右肩上がりの成長を続け、当初は果てしなく遠いと思われていた1億がすぐ目前に迫ってきた頃、ある大きな事件が起きた。
蒼天堀から遠く離れた東京・神室町にある、『カラの一坪』。
誰の目にも触れないような場所の、猫の額以下のちっぽけなその土地を巡って、東城会の内部が激しく揺れた。
その激流の渦中には、様々な出逢いがあった。
信じられない程下品で、破天荒で、強くて、己の信念に一途な極道。
凶悪な面構えとは裏腹に、人情に篤い元・殺し屋の整体師。
そして、目の見えない一人の女。
その女を殺す事が極道に戻る為の条件だったが、殺せなかった。
殺すどころか、裏社会の男達の欲望に散々傷付けられ、絶望し、自ら見る事をやめてしまったという彼女に惹かれた。
そして、彼女の命と平穏の為に、何もかもを壊してやるつもりで、その激流の中に身を投じた。
その結果、東城会の勢力図は大きく変わった。
長らく不在だった東城会本家若頭に、『カラの一坪』を手に入れた日侠連の総裁・世良勝が就任したのだ。
一方、それまで強大な力を誇っていた堂島組は、幹部を何人も失った上、莫大な資金を投じていた神室町再開発計画を手放し、世良に引き継ぐ事を余儀なくされた。
それは事実上、それまで一強だった堂島組の衰退と組長・堂島宗兵の失脚を表しており、即ち東城会の新時代の幕開けを意味していた。
そして、嶋野から組に戻る事を許された真島吾朗は、蒼天堀を離れ、古巣の神室町に戻った。
極道として『黒』の世界で生きていく為、『白』の世界に彼女を託して。






「兄貴。失礼します。」

舎弟に呼ばれ、真島はその視線を、暇潰しに眺めていたグラビア雑誌から舎弟に向けた。


「何や?」
「親父がお呼びです。」
「・・・・分かった。」

雑誌をテーブルに放り出し、吸いかけの煙草を消して、真島は寝そべっていたソファから起き上がった。
事務所の番は大層暇だ。
折角の春本番で外は良い陽気、こんな日はつまらない仕事なんぞ放り出して、喧嘩でもしにブラッと外に出たいところだが、事務所に嶋野がいるとそうもいかない。
半分寝ぼけていた顔をキュッと引き締めて、真島は『社長室』というプレートの掛かった部屋のドアをノックした。
暫く待つと、中から野太い声の返事があった。


「失礼します。親父、お呼びですか?」
「おう、真島か。」

嶋野は、ここにいる時は大抵いつもそうしているように、特注の黒革張りの社長椅子にふんぞり返っていた。


「ちょっと頭剃ってくれや。剃り残しがあるんや。」
「すぐに支度します。」

真島は軽く頭を下げると、てきぱきと支度を始めた。
嶋野の身支度は妾の女や部屋住みの若衆の仕事なのだが、組長直々のご指名とあらば仕方がない。
巷で『嶋野の狂犬』などと呼ばれるようになってしまった身でも、唯一その飼い主には、やっぱり逆らえなかった。


「失礼します。」

真島は黒革の手袋を外し、嶋野の頭にシェービング用のクリームを塗った。
塗りながらチェックすると、なるほど、大体は剃れているが、所々剃り残しがある。
そういう所に重点を置いて、真島は剃刀で丁寧に剃毛を始めた。


「・・・今日びの若造はあかんな。根性があらへん。」

嶋野は気持ち良さそうに目を閉じながら、腹に響くような低い声でそう呟いた。


「儂の頭剃る位でビビって手ェガタガタ震えとるようでは、あら極道にはなれんのう。」
「こないだ親父んとこに入ったガキの事でっか。」
「せや。あらあかんわ。真島、吉川にあんじょうやっとくよう言うとけや。」
「はい。」

極道に憧れる不良上がりの若者は、この神室町には星の数程いる。
だが、その全てが極道になれる訳ではない。
入る時には勇ましく意気込んでいても、いざ本物の極道者を目の前にすると、大抵が怯んで竦み上がる。
自分に都合の良い想像しかしていないからだ。
現実を知れば、一変して尻尾を巻いて逃げようとするが、それが簡単に許される程極道の世界は甘くない。
筋を通さず逃げようとする者は容赦なく制裁を加えられるし、そいつを連れてきた者も面目を失い、上からの信用を回復させる為に四苦八苦する破目になる。


「つまらんのう。今はお前のような根性のある奴がなかなか見つからん。
あそこで1年生き延びられる奴が、果たして今の極道の中にどれ程おるかのう?フッフッ。」

もう4年も前の事だが、『穴倉』の記憶は、真島の中からまだ消えてはいなかった。
それだけの体験をしたのだ。
しかし、手元が狂って嶋野の頭に切り傷をつけてしまう程の恐怖は、もう残っていない。
真島は返事をせず、淡々と嶋野の頭を剃り上げていった。


「どや?こっちでの生活も落ち着いてきたか?」
「はい、お陰さまで。」

冬の初めに起きたあの事件の後、嶋野組に戻った真島を待っていたのは、若頭の椅子だった。
待ったなしの就任式から否応なしに始まった新しい日々は、目まぐるしすぎてあまり覚えていなかった。
元いた街、元いた組に戻ってきただけの筈なのに、若頭という地位に就いた為か、それとも嶋野組自体が真島の不在の間に直系に昇格していた為か、単なる若衆の一人だった頃には無縁だった煩雑な付き合いや仕事が増えて、何かと忙しかったのだ。
そして、その合間を縫って、個人的な用事を片付けるのにも奔走していた。
『グランド』の事はオーナーの佐川に一任したきりだったが、『サンシャイン』の陽田や『竜虎飯店』のフェイフウ・ロンファ夫妻に蒼天堀を離れた連絡を入れて、住んでいたアパートの後始末を頼んだり、今後の取引の仕方を相談したり、靖子の事も気になって、冴島兄妹の住んでいたアパートをはじめ、彼等と関わりのあった人や場所を知っている限り訪ねて回った。
しかし、靖子はとっくの昔に遠い親戚を頼って何処かに引っ越して行ったとの事で、居所を知る事は遂に出来なかった。
昔のアパートはとっくに引き払われてしまっていたので、新しくマンションを借りて、生活環境も一から作り直さねばならなかったし、彼女の、マコトの残していった腕時計を修理してくれる店を見つけるのにも、あちこち走り回った。
そんな調子で、この数ヶ月は只々毎日に忙殺されていたのだが、それも何とかようやく落ち着いてきたところだった。


「そうか、そら何よりや。お前も色々あって大変やったからのう。」
「どうも。」
「ところでのう、お前にいっこ報せがあるんや。」
「何でっか?」
「佐川が死んだらしいわ。」

その言葉に、思わず手が止まった。


「・・・・そら、お気の毒様です。」

だが真島は、すぐに気を取り直すと、再び手を動かし始めた。


「いつの事でっか?」
「何やもう暫く経つらしいわ。四十九日はとうに過ぎとるみたいやで。」
「・・・・そうでっか」
「あいつは色々と立ち回るのが巧いよって、そないな下手打つとは思わんかったんやがのう。」

嶋野のその口ぶりと、TVでも新聞でもそんなニュースは報道されていなかった点から察するに、やはり病死や事故死ではなさそうだった。
嶋野は、どこまで本気でそれを言っているのだろう。
あの事件の折に、土壇場で近江の本部長を撃ち殺したのは嶋野なのに。
佐川が死に追いやられた原因のひとつは確実に、その殺しだと言えるのに。


「・・・・出来ましたで、親父。」

綺麗に剃り上げた頭を磨き終え、真島は嶋野に手鏡を渡した。
嶋野はそれで自分の頭を角度を変えながらしげしげと眺め、満足そうに唇を吊り上げた。


「やっぱり、お前に剃って貰うんが一番綺麗に仕上がるわ。」

自分の兄弟を裏切った事を、嶋野はどう捉えているのか、真島にはまるで読めなかった。
















世の中はいつの間にか『昭和』が終わり、『平成』という新しい時代になっていた。
だが実際には何も、取り立てて変わり映えはしない。
新時代だ新時代だと、その言葉にただ踊らされているだけで、中身は何一つ変わっていない。
そんな相変わらずの神室町の中を、真島は足早に歩いていた。
目指すのは千両通りのとある雑居ビル、佐川の隠れアジトだった。
行ったところで何も無いのは承知しているのだが、何となく、行ってみたくなったのだ。
そこに着くと、真島はアジトだった部屋に行ってみた。
だが、部屋には鍵が掛かっており、中にも誰もいそうになかった。


「当然か・・・・・・・」

がらんどうのビルの中にいたって仕方がない。
真島は外に出て、佐川と最後に会った、ビルの横の細い路地に入って行った。


「佐川はん、こないだのお返しや。」

煙草に火を点け、一度吸ってしっかりと火を熾してから、そっと地面に置いた。
それからもう1本、自分の為に火を点けた。
ここで佐川に貰い煙草をして、少しの間話をしたのがつい昨日の事のようだと思うのは、只の感傷だろうか。
真島は煙草を吸いながら、佐川に呼び出された時の事を思い起こした。
あれは、『カラの一坪』を巡る抗争に決着がついて一月ばかりが経った後、東城会の新しい勢力図が発表された幹部会が開かれて間もないある日の事だった。
あの日、まだ日も高い時間に、佐川は突然嶋野組の事務所に電話を掛けてきて、真島をここへ呼び出した。
聞けば、佐川はあの事件が収束した後も、大阪には帰っていなかった。
かと言って兄弟分である嶋野の元に身を寄せてもおらず、一月もの間、一体何処で何をしていたのか、聞いてものらりくらりとはぐらかすばかりで、遂に詳細を知る事は叶わなかった。
あれからずっと一人でいた事と、この隠れアジトに戻って来たのはその前夜だったという事だけは何とか聞き出せたが、他の事は何も教えてはくれなかった。


― は?何だそのヘンテコなジャケットは。グランドで働いてた頃の控えめさはどこ行ったんだ?

髪を切り、ヘビ柄のジャケットと黒い革パンツに身を包んだ真島を見て、佐川は開口一番、鼻で笑ってこき下ろしてくれた。
高級で気取ったファッションを好む佐川には、このハイセンスは理解出来なかったのだろう。
何が正しくて、何が悪いか分からないこの街で、誰よりも楽しく、誰よりも狂った生き方をしてやると決めた真島を、佐川は小馬鹿にしながらも、それも悪くないと認めてくれた。
あの男に煙草を貰い、火を点けて貰ったのは、あれが初めてだった。
その逆は、散々、散々、やってきたが。


― まぁお前とは妙な体験しちまったが、これからは同業として陰ながら応援するぜ。

確かに、あの2年は妙な体験の連続だった。
しかも、嫌な意味での『妙』だ。
あの男には一体どれだけの目に遭わされてきただろう。思い出すだに腹が立つ。
あの男に対する怒りは、たとえ向こうが死んだと言われても、こちらが死ぬまで一生治まる気がしない。
全く、酷い目に遭った2年間だった。
『躾』と称して殴られ蹴られ、次から次へと無理難題を吹っ掛けられ。
人が苦労して軌道に乗せた店を手前勝手にひっかき回され、容赦なく金を巻き上げられ、かと思うと、気まぐれにそこら辺を連れ回されて、酒や飯に付き合わされたりもした。
偶のそんな仏心で懐柔されるとでも思っていたのだろうか。
こちらは本気で惚れていた女まで寝取られたというのに。


― ま、お互い敵も多い身だ。精々死なないように頑張ろうぜ。

あの時佐川は、こうなる事を覚悟していたのだろうか。
あんな極悪非道を絵に描いたような男が、死んだって死ぬ訳がないと、あの時は鼻で笑い飛ばしてやったが。
何があっても諦めない、執着心の塊のような男だから、大人しく殺されてやるようなタマではないと思いたかったが。


「佐川はん・・・・・・・」

腹の底から嫌いな男だった。自分の人生において一番嫌いな奴かも知れない。
だが、それでも不思議と、今は憎いと思えなかった。
昔は本気で殺してやりたいと憎んだのに。


「人の大事なモン取るだけ取って、勝手にコロッと死によって、どないしてくれるんじゃ。
それともまさか、とっくに捨てたとか言うんやないやろな?」

佐川が死んだと聞いた今、遠い記憶の中に埋もれていた女が気になって仕方がなかった。


「・・・・・・・・・・・」

久しぶりに口にしたその名前は、真島にあの苦い記憶の数々を思い出させた。

2年、いや、丁度もうすぐ3年経つ。
『穴倉』から出されたばかりの失意のどん底で、と出逢ったあの日から。
己の命一つを辛うじて拾っただけの負け犬を、は深く愛してくれた。
もしあの時、佐川に引き裂かれていなければ、は今でも側にいただろうか。
健気だった彼女と寄り添って、二人で一つの人生を生きていただろうか。


― ・・・・・何を考えとるんや、俺は・・・・・・・・

とうの昔に終わった恋だった。
マコトの事さえ過去と吹っ切ったのに、2年も3年も前に終わった女と、今更どうもこうも無い。
ただ、純粋に心配になっただけだ。
佐川が死んだ、それも、組織の制裁を受ける形で始末されたと聞かされたから。


「・・・・・チッ・・・・・・」

の事はあれから以降何も聞かされていなかったが、二人の関係はまだ続いていたのだろうか?
続いていたとして、佐川がもしも自分が殺される事を予期していたのなら、は巻き添えにしないように、万が一自分の身に何かあってもが路頭に迷う事のないように、きっと何らかの手を打ってくれていた筈だと思いたかった。
しかし、自分が生きるか死ぬかの瀬戸際に、女一人の事にまで気を割いていられるだろうか?
それが出来る程、果たして佐川はを愛していただろうか?


「・・・・・ホンマ、腹の立つオッサンやで。アンタっちゅう男は、死んでからも俺に面倒かけやがってからに・・・・・。」

真島は煙草を一吸いして地べたに捨てると、近くの電話BOXに行った。
今日は土曜日、『グランド』は営業している筈だった。
電話番号はまだ覚えている。店長の木村が出勤してくる時間帯も。
腕時計を見て、財布の中の小銭を適当に何枚か突っ込んで、真島は指に染み付いているその番号を押した。


『・・・はい、キャバレーグランドでございます。』

何度かのコール音の後、予想通り、木村が電話に出た。
声を聞くのは何ヶ月ぶりだったが、聞き間違えたりはしなかった。


「あ、もしもし?木村ちゃんか?俺や、真島や。」
『え・・・、し、支配人ですか!?うわー!お久しぶりですー!』

木村は大層驚きながらも、嬉しそうな声を出した。


『お元気でしたか!?もうー、随分心配したんですよ!?突然辞めてしまわれたから!』
「おう、元気や。すまんかったな。ちょっと色々あってな。」
『オーナーに支配人が辞めたって言われた時は、ホント吃驚したんですよ!
支配人はそれまで辞めてった他の方達とは違いましたからね、何かあったんじゃないかって本当心配したんですよ!?連絡も下さらないし!』
「いや、ホンマにすまんかった。そっちはどうや?皆変わりないか?」
『ええ。僕ら下々の者は相変わらずです。でも・・・・』

木村は少しの間口籠ると、やがて言い難そうに再び喋り出した。


『・・・・オーナーが、その・・・・、亡くなったのは・・・・・、ご存知で?』
「知っとる。聞いたばっかりやけどな。それで、そっちが気になって電話したんや。」
『そうでしたか、ありがとうございます・・・・・。もう暫く前になるんですよ。
去年の暮れに、支配人が今月いっぱいで辞める事になったからって電話があって、それが最後でした。
吃驚しててんやわんやしている最中に近江の方が来られて、オーナーが現れたり何か連絡が入ったら知らせろと言われたんですけど、その時にはもうオーナーとは全く連絡が取れなくなっていて・・・・。
そしたらその後暫くして、またその方が来られて、オーナーが亡くなったと・・・・・。』
「そうか・・・・・・」
『今はその方が新しいオーナーです。新しい支配人も、その方が連れて来られました。』

佐川の持っていたものは、恐らく何もかも他の幹部達に根こそぎ奪われたのだろう。
組も、シマも、表の稼業も。
特にグランドは、佐川の持っていた物件の中でも一・二を争う儲け口だった筈だから、一番力のある奴が真っ先に乗っ取ったに違いなかった。


「皆あんじょうやれてるか?ヤイヤイうるさい事言われたりしてへんか?」
『大丈夫です。うちの利益率は凄いですからね。ほっといても儲かると思われてるみたいで、特に口出しされたりとかは無いです。
今のところは自由にやらせて貰ってますよ。新しい支配人も、お世辞にもあまり仕事熱心な方ではありませんし。』
「ヘッ・・・、そうか。」
『全部支配人の努力の賜物だったのに、美味い汁だけ吸われてるみたいで、ちょっと悔しいですけどね。』

不義理な辞め方をしてなおそんな事を言ってくれる木村は、本当に良い奴だった。
決して好き好んでやっていた仕事ではなかったが、あれはあれで得たものもあったと、今は心から思う事が出来た。


「俺の事はどうでもええんや。お前らがあんじょうやれとったら、それでええ。
俺がおった頃のやり方に囚われんでも、今の状況に応じてやり易いようにやってくれ。
実際に働いとるお前らが、『グランド』を動かしとるんやからな。」
『支配人・・・・、ありがとうございます。』

グランドの事も確かに心配ではあったが、本題はあくまでの事だった。
佐川の商売が他の幹部達に乗っ取られているのなら、の店がやはり心配だった。


「・・・それとな、話は変わるねんけど、ちょっと訊きたい事があるんや。」
『はい、何でしょう?』
「佐川はんが女にやらせとったクラブがキタにあったやろ。覚えとらんか?」

真島は意識して平然とした声を作り、ごくさり気なく尋ねた。


『え?キタのクラブ・・・ですか?』
「あったやろ、ほら。2年前の冬に、佐川はんがそこのママ連れて来て紹介しよったやろ。
ほんで、そこの店のオープン記念に、木村ちゃんに行って貰ったやんけ。」
『・・・あーあー!あの時の!支配人がお土産に張り込んでロマネ・コンティ渡した!』
「そ、そや。それそれ。」

そうやって人にズバッと言われると何だか居た堪れないのだが、とにかく思い出しては貰えたようだった。


『はいはい、ありましたね!それがどうかしましたか?』
「あそこが今どないなっとるか、知らんか?」
『いやぁ、ちょっと分からないですねぇ。行き来したのもあの時1回きりでしたし。』
「そ、そうやんなぁ・・・・・。もう、店の連絡先分かるようなもんも、残っとらん、よなぁ・・・・?」

ちょっと無いですね、とか何とか、すぐに返される事を覚悟していた。
しかし木村は暫く黙り込んだ後、何か思い当たったかのように、あ、と呟いた。


『いや、ちょっと待って下さい。確かママさんに貰った名刺があったような・・・・』
「ほ、ホンマか・・・・・?」
『少々お待ち下さい。今確認してみますので。』

電話が保留になり、メロディーが流れ始めた。
真島は小銭を追加しながら、そわそわとそのメロディーが止まるのを待った。


『お待たせしました。』

暫くして、再び木村が電話に出た。


『ありましたありました!』
「ホンマか・・・・・!」
『クラブパ・・・、あれ、何て読むんだったかな、これ?』
「パニエや!」
『あ、そうそう、それそれ!クラブパニエのママ、これですよね?』

真島は思わず拳を握ってガッツポーズを決めた。


「せや!それや!」
『連絡先教えますよ、良いですか?え〜っと・・・』
「あ、ちょっ・・・!ちょお待て!待ってくれ!」

慌てて周りを見回してみたが、公衆電話BOXの中にメモ用紙やペンなど、まさかある筈もない。
そして勿論、真島もそのような物を持ち歩く習慣は無かった。


「あかん、今書くもん無いんや!ちょっ、すまんがいっぺん切るわ!5分、いや、3分後にかけ直すから!待っとってくれ!頼んだで!!」

真島は電話を一方的に叩き切ると、戻ってきた小銭も取らずに電話BOXを飛び出した。
そして、一目散に嶋野組の事務所へと駆け戻って行ったのであった。



それから約30分後。



「ハァ・・・・・・・・・」

『クラブ パニエ』の連絡先を控えたメモを傍らに、真島は電話の前で溜息を吐いていた。
今すぐかけたい。気になって気になって仕方がない。
だから受話器を取るのだが、いざダイヤルを回そうとすると、手が止まる。
いつまでもそのままでいても仕方がないので、一旦受話器を置く。


「・・・・・・・・・ハァ」

だけどやっぱり、気になって気になって仕方がない。
だからもう一度受話器を上げ、今度こそダイヤルを回すが、1回2回回した辺りでやっぱり手が止まる。
そしてまた、受話器を置く。


「ハァッ・・・・・・・!」

そんな事ばかりしていても仕方がないのだから、さっさとかけろと自分を奮い立たせ、もう一度受話器を上げる。
その勢いのままダイヤルを回すが、ふと時間が気になり、そもそもは今店にいるんだろうかという根本的な問題にぶち当たって、手が止まる。
更に突き詰めれば、店自体がまだ残っているかどうかも分かっていない事にまで思い至り、益々勢いを失ってしまう。


「・・・ハァ・・・・・・」

この堂々巡りを、一体何度繰り返しただろうか。
何年か前に流行った歌謡曲みたいだと、真島はぼんやり考えた。
『ダイヤル回して手を止めた』というフレーズが、今の自分にまんまピッタリで、我ながらばかみたいだ。
ばかみたいと言えば、冴島の十八番がそれだったな、などと、考えがどんどん横に逸れていく。
飲み始めの内はカラオケなんぞ俺のガラやないとか言ってそっぽを向いているくせに、酔いが回ってくると満更でもなさそうに歌い出して、しかも結構上手かった。
だからそんな事を考えている場合ではないというのに、歌う冴島を見るスナックのホステスのうっとりした顔まで思い出してしまって、そんな自分が益々ばかみたいだった。
たかが電話位さっさとかけてしまえば良いのに、こんなに弱腰になって、こんなに臆病風に吹かれて、本当にばかみたいだ。


「ハァ・・・・・・・・・」

どれだけ強いお酒でも 歪まない思い出が ばかみたい。
それも本当に、そのまんまだった。
心を鬼にして未練を振り切り、極道に戻る事だけを考えてがむしゃらに突っ走ってきたのに、今こうして思い出してみると、まだはっきりと蘇ってくる。

あの溌剌とした明るい笑顔も、
悲しい涙も、
傘の中に隠れてした、最後のキスも。


― ホンマに勝手な男やなぁ、俺は・・・・・・

つい何ヶ月か前までマコトに惚れていたのに、あたかもずっと想い続けていたかのようにとの思い出を持ち続けているなんて、本当にろくな男じゃないと自分でも思う。
こんな自分勝手な野郎など、向こうだって今更用は無いだろうとも思う。
けれども、後ろ盾の佐川を失って、今頃一人で窮地に立たされているかも知れないと思うと、胸が締め付けられるように苦しかった。


「・・・・・・ハァ〜・・・・・・・・」
「あの・・・、兄貴?さっきからずっと何してるんスか?ハァハァ溜息吐きながら、受話器上げたり下げたり・・・・・」
「・・・あ?」

舎弟の無粋なツッコミで、真島は我に返った。
この胸苦しさを1ミリも理解出来なさそうなそのマヌケ面にムカッ腹が立って、真島は思い切り舌打ちした。


「何って、体操に決まっとるやろがい。見て分からんのかボケカスが。」
「そ、それ体操なんスか?」
「せや、腕の体操じゃ。知らんのかお前、アホかホンマに。何も物知らんのやな。」
「す、すいません・・・・・・」

完全な言いがかりなのだが、小さくなって頭を下げるその素直な馬鹿さに余計苛々して、真島は勢い良く椅子を引いて立ち上がった。

「だーっ!!もうやめじゃ、やめ!!」
「お、お疲れ様でした・・・!」
「アホか!!黙っとれボケ!!」
「あいたっ!」

舎弟の頭をどつき倒して、真島はメモをポケットに捻じ込んだ。


「兄貴、どこ行くんですか!?」
「野暮用じゃ、ついて来んな!!」

いつまでもこんな事を繰り返していたって、埒が明かない。
真島は決心を固めると、ズンズンと大股で歩いて事務所を出て行った。















― ・・・き、来てもうた、とうとう来てもうたで・・・・・・

翌週の月曜日、真島は一人、大阪の地に降り立っていた。
あの後、外に嶋野を捜しに行き、愛人のクラブで飲んでいたところを捕まえ、頼み込んで暇を貰って、こうしてやって来たのだ。
馴染みだった女に会いに行って来るという理由を茶化しも疑いもせず、嶋野はすんなりと数日間の暇をくれた。
ようやくほとぼりが冷めてきつつある時に、わざわざ近江連合の膝元に行くなと言われるかと思ったが、それも特には咎められなかった。
ただ、『プライベートを』楽しんで来いと釘を刺されはしたので、代紋を出さねばならないような事態を起こしてはならないようだった。
勿論、近江の連中に喧嘩を売りに来たのではない。
あくまでも、の現状を知りたいだけだった。


「ここがキタか・・・・・・・」

初めて歩くキタの街は、蒼天堀とはまた違っていた。
『夜の帝王』などと呼ばれてはいたが、それはあのエリアに限っての事だったのを、真島は改めて実感していた。
どこがどこやら、土地勘が無いからさっぱり分からない。
初めて大阪に連れて来られた3年前の事が思い起こされて、またの事が気になった。


― ・・・・・・・

結局、一度も電話を掛ける事なく直接来てしまった事を、またもや我ながらばかみたいだと思いつつも、後悔はしていなかった。
もしも会えなくても、最悪、店が無くなっていても、それならその方が綺麗さっぱり諦めがつくと思ったからだ。
がいた場所をこの目で見て、気持ちに区切りをつけた方が、心おきなく新しい人生を歩んでいく事が出来る、そんな気がしたからだ。

だが、もしも会えたら?

その時どうすれば良いのかは、実のところ、まるで分かっていなかった。
無事を確認して、何か困っている事がないか聞いて、それで、そこからどうする?
そんな自問に、真島はまだ答える事が出来ていなかった。


― ・・・えぇい、ここまで来てグダグダ考えとってもしゃーないわい!なるようになるわ!

深く考え込む事は性に合わなかった。
大体、相手あっての話なのだから、自分の主観でばかり考えていたって仕方がないのだ。
もしかしたら既に新しい男でもいて、『どちら様?』なんて白けた顔をされるかも知れないのだから。


「・・・うぐっ・・・・・・!」

それはちょっと、流石に本気で落ち込む。
そこはせめて、『今頃何の用?』と睨まれたい。
あれこれと想像しては葛藤し、心が張り裂けそうになりながら、メモに書いてある所在地を探して歩いていると、やがて目的の場所らしきビルが見えてきた。


「・・・あった・・・・・・・!」

白くて少し洒落た外観のビルに、『club panier』の看板が掛かっているのを見つけた。
足早に歩いてそのビルの前まで行くと、目の前のドアに同じ文字が書かれていた。


「あったで・・・・・・・・!」

まだ昼の3時過ぎで、勿論オープンはしていないだろうが、潰れていそうな気配は無かった。


「・・・・・よっしゃ・・・・・・・!」

真島は腹を括ると、恐る恐る入口のドアに手を掛けた。



















「ふぅ、重た・・・・・・・!」

パンパンに膨らんだスーパーの買い物袋を両腕にひとつずつぶら下げて、はいつもの道を歩いていた。
ふと見ると、まだ昼の3時半だというのに、店の前に男が一人、開店を待っているかのようにドアに向かって立っていた。
風変わりな服装をした、背の高い男だった。
ド派手なヘビ柄のジャケットに黒い革パンツを履いて、同じく黒い革の手袋もしている。
そして髪型は、頭の下半分を刈り上げたテクノカットだ。


「何やのアレ?ガラわっる・・・・・」

商売柄、筋者は見慣れていて、それこそド派手な赤だの青だの黄色だののスーツを着ているような連中も別に珍しいと思わないが、その男はちょっと見かけない、斬新なタイプだった。
だが、何にせよ、どう見ても堅気ではない。
は警戒しつつも商売用のスマイルを浮かべて、その男に歩み寄って行った。


「こんにちは。いらっしゃいませ。」

はその男の背中に向かって、にこやかに声を掛けた。


「すみませんが、オープンは7時からなんですよ。もう暫くお待ち・・」

振り返った男の顔を見た瞬間、は思わず息を呑んだ。
黒革の眼帯で左目を覆ったその顔を見るのは、ほぼ2年半ぶりだった。


「・・・・・おう。久しぶりやな、。」

その男、真島吾朗は、を見て少し気後れしているようにはにかんだ。
良く似た別人などではない、紛れもなく彼だった。


「・・・・・吾朗・・・・・・・」

その名を呟いたきり、言葉が出てこなかった。
真島もまた、何も言わなかった。
互いに黙ったまま見つめ合っていると、ふと、腕が急に軽くなった。
そして次の瞬間、グシャッという音が聞こえた。


「・・・・何か・・・・、あかん音したで・・・・・?」

真島がおずおずと下の方に指を指したのが、何となく見えはした。
だが、視点を変える事は出来なかった。


「・・・・・多分・・・・・卵割れたんやと思う・・・・・・」

は呆然と真島の顔を見つめたまま、そう答えた。
取り落としてしまった買い物袋を早く拾い上げなければいけない事は分かっているのだが、身体が動かなかった。


「・・・・・ハッ・・・・・、何をやっとんねん。どんくさいのう。」

すると真島は、目元を綻ばせて笑った。
服装や髪型はえらく様変わりしているが、その笑った顔は何ひとつ変わっていなかった。
あの頃のままの、真島の顔だった。


「・・・・・ふふっ・・・・・・!」

止まっていた時が、今また動き出したような気がした。




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後書き

『檻の犬と籠の鳥』後半スタートです!
0から数ヶ月経った、1989年春という設定です。
嶋野に裏切られてから自分の最期の時まで、佐川はんは何処でどうしていたのか。これまた妄想が止まりません。


別にあのハゲを恨んじゃいねぇ。逆の立場なら俺も迷う事なく同じ事をした。
奴を頼らなかったのは、恨んでいるからでも、迷惑をかけたくないからでもなく、そこへ逃げ込んだとて俺の生き残れる確率は限りなく低かったからだ。
遅かれ早かれ本家から追手が差し向けられてくるのは、火を見るより明らかだった。
そうなれば、神室町に身を潜めていても、じきに炙り出されてしまう。
だからすぐに神室町を離れ、あちこち転々としていた。
ただ逃げ回るだけじゃなくて、この窮地を巧く切り抜ける術を必死に模索しながら、日本全国、津々浦々。
昔世話になった人達や世話をしてやった連中、ありとあらゆるツテを辿って、何かしら活路を見出そうと、恥も外聞もかなぐり捨てて。
そう簡単にくたばって堪るか。必ず何か道はある。
昔潜った修羅場の数々を思い出しては、あの時はどうしたこうしたと考えて色々と手を尽くしちゃあみたけれども、運命の女神様は、今回ばかりは微笑んでくれなかった。
とうとう愛想を尽かされちまったって訳だ。
さんざ好き勝手やってきて、泣かせてばっかだったから、きっとその報いなんだろう。
腹を括って神室町に戻ってみたら、俺の飼っていた中でもずば抜けて優秀だった『猟犬』は、随分イカれた『狂犬』になっちまってた。
けど、悪趣味極まりねぇのに、不思議と悪くはなかった。
あばよ真島ちゃん。楽しかったぜ。
俺みたいに運命の女神様に愛想尽かされちまわねぇように、気をつけろよ。

バァーン!


・・・・みたいな。


そんな『佐川 愛の小劇場(?)』から始まりました後半戦、どうぞ宜しくお願い致します!