檻の犬と籠の鳥 14




僅かな歓びは、却って毒になる。
その苦しみを顔に出さないように堪えながら、真島はをエスコートし、ロビーまで案内した。
カウンターに立っている店長の木村がこちらに気付いて頭を下げ、クロークルームに入って行った。


「こちらで少々お待ち下さい。」
「はい。」

真島はロビーの隅のソファにを座らせると、木村を追ってクロークルームに入った。
中では、木村がハンガーに掛かった白い毛皮のコートを取り出していたところだった。


「上着それか?」
「はい。」
「他に荷物は?」
「ありません。」
「ほなそれは俺が預かる。それより、大至急頼みたい事があるんや。」
「何でしょう?」
「土産を用意して欲しいんや。いつものお得意さん用の菓子やのうて。」
「はい。何をお包みすれば宜しいですか?」

このままを手ぶらで帰す訳にはいかなかった。
前もって会えると分かっていたら、もっと相応しい物を考えて用意する事が出来たのだが、今更それを言っても仕方がない。
今ここにある物で、最も自分の気持ちを表せそうな物を選ぶしかなかった。


「・・・酒や。」
「はい、どのお酒を?」
「アレ出してきてくれ。」
「アレ?」
「こないだ仕入れた、アレや。」

その言葉に、木村が目を見開いた。


「ほ・・・本気ですか支配人!?」
「当たり前や。オーナーがわざわざ紹介しに連れて来た女やぞ。察しがつくやろが。」
「それはまあ・・・・・、でも、それにしたって・・・・・」
「ええから早よ。頼むわ、大急ぎでな。」
「わ、分かりました・・・・・!」

木村は真島にコートを託すと、小走りに出て行った。
一歩遅れて、真島もクロークルームを出た。
所在なげにソファに腰掛けていたは、真島の顔を見ると少しだけ微笑んで立ち上がった。


「お待たせ致しました。お預かりしていたコートは、こちらで間違いございませんでしょうか?」
「はい。」
「どうぞ。」
「あぁ、すみません・・・・・」

のバッグを預かってテーブルの上に置き、肩にコートを羽織らせると、黒いレースの袖に包まれたしなやかな腕が、するりとコートの袖を通っていった。続いて、反対側の腕も。
すぐ間近から見下ろすの華奢な項に、どうしようもなく未練が疼いた。
そこに触れたい。口付けたい。
それは本当は、俺のものだったのに。
そうした時の感触も、の甘い声も、まだはっきりと覚えているのに。
叶わぬ願いに歯を食い縛っていると、が肩越しに少しだけ振り返り、小さな笑い声を上げた。


「・・・似合ってないでしょ。何か、服に着られてるみたいで。」
「そんな事。」

真島は小さく首を振り、にバッグを手渡しながら微笑み返した。


「良くお似合いです。とてもお美しいですよ。もっと自信をお持ち下さい。」

叶わないのならせめて、言葉をかけるしかなかった。
心から湧いてくる賛辞を、出来るだけ、沢山。


「・・・・・チンチクリンて・・・・・笑ろてくれへんのやね・・・・・」

だがは、また悲しそうに笑ってそう呟いた。


― チンチクリン女!

― うっさいわドチンピラ!


そんな子供じみた悪口の応酬をしていた時が、どんなに幸せだった事だろう。
何がどうなったって、もうどうでも良い。
あの時に帰りたい。


「・・・・・・・っ・・」

思わず『』と呼びそうになったその時、黒い縦長の紙袋を抱えた木村が急ぎ足で戻って来た。


「お待たせ致しました。」
「あ、ああ・・・・・・」

木村は紙袋を真島に渡すと、に一礼をしてフロントカウンターの向こうへ戻って行った。


「・・・さん、是非こちらをお持ち帰り下さい。」
「・・・・ぁ・・・・・」

はまたあらぬ方向を向いて何度も目を瞬かせると、ぎこちない微笑みを浮かべた。


「すみません、お気を遣わせまして・・・・・。そんなつもりじゃなかったんですけど・・・・・」
「私からの、せめてものお祝いの気持ちです。遠慮なくお受け取り下さい。」
「ありがとうございます・・・・・。それでは、お言葉に甘えまして・・・・・」

は真島に頭を下げると、おずおずと手を差し出した。
しかし、今この場で渡す気はなかった。
木箱入りのワインは、女の細腕には少し重過ぎるから。


「お車までお持ち致します。」
「・・・・・ご丁寧に、恐れ入ります・・・・・。」

そのやり取りを聞きつけた木村が、店の黒い傘を2本持ってやって来た。


「今、少し雨が降っていますので、こちらをどうぞお持ち下さい。
様、本日はご来店誠にありがとうございました。また是非お越し下さいませ。」
「こちらこそ、ありがとうございました。支配人様に開店記念パーティーの招待状をお渡ししておりますので、木村様も是非いらして下さい。
次は私がこちら様を見習って、誠心誠意サービスさせて頂きますので。」
「やあ、それは楽しみだなぁ!是非お伺いさせて頂きます!」
「お待ちしております。」

木村とがにこやかに挨拶を交わす姿を、真島は何処か遠くに眺めていた。
オーナーを同じくする店同士、今後付き合いをしていこうとするのは、別段不自然な事ではない。
『業務提携』なる大義名分の下、ちょくちょく交流があったって、誰も変には思わないだろう。
だが、他人は何とも思わなくても、真島自身が耐えられそうになかった。
が籠の鳥ならば、真島は檻の犬だった。
飼い主の可愛がっている小鳥を、籠を壊して攫って行く事は、檻の中で飼われている犬には許されない。
飼い主に愛でられるその姿を、ただ檻の中から指を咥えて見ている事しか出来ないのなら、もう二度と会わない方が良かった。


「すみません真島さん、お待たせしました。」
「では、参りましょうか。」

胸を焦がすようなその苦しみを、真島は些かも顔に出さなかった。
















木村の言った通り、外は少し雨が降っていた。
真島は傘を広げるとまずに差し出し、それから自分の分を広げた。


「お車はどちらに?」
「車はあの人が使いますので、私はタクシーで帰ります。」
「左様でございますか。でしたら、タクシーを拾いましょう。」

店を出てほんの少し左に歩けば、大通りがある。
二人はどちらからともなく、そこへ向かって歩き始めた。


「・・・・・・」

店の外へ一歩出れば、そこからはもう『グランドの支配人』ではなくなる。
店の中では、酒をぶっかけられてもにこやかに笑って頭を下げねばならないが、外でならば、因縁をつけてきた輩を路地裏に引き摺り込んで半殺しにしたって構わない。つまり、行動の自由がある。
しかし、を相手に限っては、その自由は無かった。
佐川の配下の者達が、つかず離れずの位置から、歩く二人をじっと監視している。
仕事熱心で結構な事だと、真島は内心で連中を皮肉った。
そんな事をしなくても、を攫って逃げようなんていう気は無いのに。


「・・・・・・」

一方で、の方も監視の者達の存在に気付いていた。
真島は気付いているだろうかと、傘を少し傾けて顔を見上げると、真島はに目を向けて微かに首を振った。
も小さく頷き返し、溜息を吐いた。
折角店の外に出て佐川の側を離れられたというのに、これではさっきまでと何も変わらない。
折角、本音で話せる最後のチャンスだと思ったのに。
だが、そう、最後なのだ。
佐川との約束は、『真島に会わせる』というものだった。
再び真島の元に帰してやるとは、一言も言われていない。
だったら少しでも後悔が少なくなるよう、出来るだけ多くの言葉を交わしたくて、はふとまた蘇ってきた思い出を口にした。


「・・・・・いつかも・・・・・、こんな風に、タクシーに乗るまで送って貰いましたね・・・・・」
「そんな事も・・・・・ありましたか・・・・・・・」
「あの時もこんな、ほんのちょっとの距離でしたよね・・・・・・。」

それを真島が覚えていてくれた事を嬉しくは思ったが、それ以上は話せなかった。
楽しかった頃の思い出話をもっとしたいのに、それをしようとすると、涙が出てきそうで。
そうこうしている内にあっという間に着いてしまった大通りに、空車のタクシーは走っていなかった。
は内心でそれを喜んだ。
そして、うっかりタクシーを見つけてしまわない内に真島の方を向いて、とにかく話題を探した。
真島も話に気を取られてくれれば、タクシーの1台や2台、見過ごしてくれるかも知れないと期待を込めて。


「あ・・・、その中身、何なのかお訊きしても良いですか?」

真島の持っている黒い紙袋が目に留まり、は咄嗟にそれを指差した。


「これですか?ワインです。」

真島はそう答えると、紙袋の口を開いて中を少しだけ見せてくれた。
それを覗き込み、木箱に刻印されている文字に目を走らせた瞬間、は思わず驚いた。


「ちょっ・・・、ちょっと待って下さい、これもしかして・・・・」

は自分の手で紙袋の口をもっと大きく開くと、木箱の文字をもう一度しっかりと読んだ。
行儀が悪いという事にも思い至らない程、は本気で驚いていた。
いや、驚くというよりも、これはもうパニックとさえ言えるレベルだった。


「これ・・・・・!ロマネ・コンティじゃないですか・・・・・・!」

以前、佐川に連れて行かれたフレンチレストランで、一度だけ飲ませて貰った事がある。
これは最低でも1本100万から150万以上はする、超高級ワインだった。
は大きく見開いた目で、真島の顔を見上げた。


「・・・・・貴女の生まれ年、1965年の物です。」

らしい、いきいきとしたその表情が愛しくて、真島は目を細めて微笑んだ。


「こんな高価なもの・・・・・!駄目です、折角ですけど受け取れません!」

は必死な顔で、ブンブンと首を振った。
澄ましている時は何とかレディに見えるが、少しつつかれるとたちまちボロが出るなんて、まだまだ駄目だ。
しっかりせぇよと内心でをからかいながら、真島は笑いを零した。


「どうかお気になさらず、受け取って下さい。貴女には随分とお世話になりましたから、そのせめてものお礼と、貴女の新しい門出に対するお祝いです。」
「でも・・・・!」
「ですが、出来ればこれは、お店では出さないで下さい。」
「え・・・・・?」
「これは、いつか貴女に、心から大切に想い合える方が出来た時に、その方とお飲み頂きたく存じます。」

には、絶対に幸せになって欲しかった。
自分でもなく、佐川でもない、本当の本当にを幸せに出来る男が現れてくれる事を、真島は切に願った。


「・・・・・・・・」

真島のその言葉が、の胸を貫いた。
この男は、何と酷い事を言うのだろうか。
そのワインを一緒に飲みたい相手が誰なのか、分かっている癖に。
さっきからずっと、絶対に泣かないように必死で頑張っているのに、人の気も知らずに。


「・・・・・そんな・・・・・事・・・・・・・」

真島の顔を見ていられなくて、傘の角度を変えると、黒いドームの中に閉じ籠る事が出来た。
一人になれたらつい気が緩んで、堪え切れなくなった涙が何粒か落ちてきた。


「・・・・・そんな事・・・・・言われたら・・・・・・、めんどくさって・・・・・笑えへんやんか・・・・・・」

安物のジッポのお返しにしては高すぎる。
如何にも真島らしい、『男のプライド』だった。
からかって笑い飛ばしてやりたいのに、幸せなんか願われてしまっては、それも出来ない。


「いいえ、笑って下さい。単なる『例のアレ』ですから。」

いつもガーガー怒っていた癖に、今に限ってそんな風に返すなんて卑怯だ。
しかも、綺麗な標準語で、まだ店の中にいるみたいに気取って澄ました口調で。
そんな調子で喋られたら、笑いに変える隙も無いのが分からないのだろうかと思うと、だんだんと苛々してきた。


「・・・・・何やの、いつまでも気取って東京弁なんか喋って・・・・・」

さっきまでしおらしかったの声の感じが、何だか急に変わった。
いつも聞いていた、本来のの声だ。
嬉しくて、真島の顔に自然と笑みが広がった。


「もうそろそろ普通に喋ってくれたってええやんか・・・・・。小さい声やったら見張りの人にもバレへんやろ・・・・・?」
「申し訳ございません。何分、東京者ですので、本来これが普通の喋り方なのです。」
「あの下手クソな関西弁はもう忘れたんか・・・・!?」
「下手クソとは手厳しいですね。」
「名前すら呼んでくれへんで・・・・・。誰がやねん・・・・・!」
「貴女がご自分でそう名乗られましたので。名刺にもそう書かれておりましたし。」
「屁理屈言わんといて!ドチンピラのくせに敬語上手とか生意気やわ・・・・!」
「お褒め頂き光栄です。」
「大体その黒い眼帯なに!?めっちゃ怖いねんけど!支配人っちゅーかケツモチにしか見えへんで!」
「よく間違われます。それより、女性がそのような下品な専門用語を口にするのは如何なものかと。」
「うっさいわ!ホンマけったくそ悪いなぁっ!」
「女性がそのような乱暴な言葉遣いをしてはいけません。」

の口がどんどん悪くなっていく。
最初はいじらしく寂しさを訴えていたのが、しまいに只の悪口になってきた。
だが、こんな下らない会話がまるであの時に戻ったようで楽しくて仕方がなくて、つい悪戯心が湧いて、真島もしつこく言い返し続けた。


「もうっ!」

すると、の傘が再び大きく傾いた。
は涙の浮かんだ瞳で、真島を勝気に睨み上げていた。
ずっと逢いたかった、の瞳だった。


「・・・・・ひひっ」
「ふふっ・・・・・」

真島が笑いかけると、も釣られるようにして笑った。
涙の粒が幾つかポロポロと零れ落ち、口元も震えているが、それでもどうにか、笑顔になっていった。


「・・・ああ言えばこう言うとこ、あんた全然変わってないな・・・・・!」
「・・・お互い様です。」

真島のその笑顔が、大好きだった。
口元を大きくニッと笑わせた、悪ガキみたいなヤンチャな笑顔が。
しかしそれでも真島は、あくまでキャバレーグランドの支配人としての姿勢を崩していなかった。
あれから佐川との間でどんな事があって今に至るのか、知る由は無い。
だが彼は、あの店の支配人である事を頑なに守ろうとしている、それだけはにも分かった。
その一途な姿は、に手本を示してくれているようだった。
自分の選択の結果を、自分で受け入れるという事の手本を、その身をもって。


「っ・・・・・・!」

籠の鳥にも意地はある。この涙は自分で拭わなければならない。
は自らの手で、頬を濡らす涙を払い去った。
丁度こちらを向いて走って来ているタクシーに気付いたので、決心が鈍らない内にさっさと手を挙げて停めた。
そのタクシーが目の前に停まってドアが開くと、は乗り込む前に、まっすぐ背筋を伸ばして真島に向き直った。


「・・・・今夜は、本当にありがとうございました。」
「こちらこそ、ご来店誠にありがとうございました。」

『クラブパニエのママ』として、礼を尽くして挨拶をすると、真島もまた『キャバレーグランドの支配人』として、礼を尽くして挨拶を返した。
は借りていた傘を畳み、真島に返した。


「傘もありがとうございました。濡れたままですみません。」
「宜しければ、ご自宅までお持ち帰り下さい。」
「いえ、大丈夫ですから。」
「左様でございますか。」

車に乗り込む間、濡れないように、真島が車の乗降口に自分の傘を掲げてくれた。
立派なタキシードが濡れてしまうのも構わずに。
そして、が完全に後部座席のシートに腰を落ち着けると、ワインの紙袋をそっと差し入れてきた。
艶消しの黒地に、店名と王冠のロゴが金色に染め抜かれているグランドの紙袋を、は真島の代わりに大切に胸に抱きしめた。


「重いので、お気をつけ下さい。」
「ありがとうございます。では、失礼します。」

のその言葉で、タクシーの運転手が、いいですか?と事務的に声を掛けてきた。
二人の間の感傷など、この人には何の関係も無い。
外は雨だし、さっさとしてくれと思っているに違いない。
だから、こちらが『はい』と言った瞬間に、この人は躊躇いなくドアを閉めてしまうだろう。
そう思った途端、感情がいきなり急激に昂って、止められなくなった。
真島と同じ一国一城の主として、彼に立派なところを見せて別れたいと思っていたのに、涙が後から後からボロボロ零れ落ちてきて、取り澄ました女主人の顔など、とても保っていられなかった。


「・・・・・・うぅっ・・・・・・!」

今日は何度も何度も涙を呑んで、もうこれ以上、1滴たりとも呑めなかった。


「・・・・・吾朗・・・・・・・!」

の表情が、突然、一気に変わった。
澄ました微笑みが跡形も無く崩れ去り、ボロボロと大粒の涙を零して、悲しい泣き顔になった。


「っ・・・・・・・!」

か細く震えるの悲しい声に名前を呼ばれた瞬間、真島の忍耐もまた、一気に崩れ落ちた。
身体が勝手に動き、傘に隠れるようにして、腰を屈めての方に顔を寄せた。
それと殆ど同時に、も同じく弾かれるようにして、真島の傘の中に身を乗り出してきた。


っ・・・・・・!」

唇が触れ合うと、涙の味がした。
一瞬、何もかもを忘れて夢中で舌を絡ませ、深く深く、口付けた。


「・・・・っく・・・・、ひっ・・・、うぅぅっ・・・・・!」

低い声がようやく名前を呼んでくれた瞬間、天にも昇る心地がした。
息が止まりそうな程の深い口付けに、震える程の幸せを感じた。
だが、それは無情にもほんの一瞬の事で、真島の唇はすぐにから離れていった。
その瞬間、とてつもない悲しみと寂しさに襲われて、は耐え切れずに声を上げて泣き出した。


「嫌や・・・・!嫌やこんなん・・・・!やっと会えたのに・・・・・!」

こんな形での再会など、望んでいなかった。
半年前に味わった、心を引き裂かれるような痛みが、やっと最近少し和らいできたところだったというのに、これでは心を二度殺されるようなものだ。
こんな辛い思いをする為に、佐川の女になった訳じゃない。
心の中でそう叫びながら、は咽び泣いた。


「泣くなや・・・・・!笑え・・・・・!」

真島は笑いながら、の涙を拭った。
その柔らかい頬に熱い涙の雫が次から次へと伝い落ちてくるのを、何度も何度も拭った。


「お前の笑ろた顔・・・・・、可愛いから好きなんや・・・・・。な・・・・・?頼むわ・・・・・」

笑いながら、真島も涙を流した。
するとは、子供みたいにしゃくり上げて何度も息を詰まらせながらも、それでもどうにか微笑みを浮かべてみせた。


「・・・・・お前に出逢えて良かった。おおきにな、・・・・・・・」
「吾朗・・・・・・!」

縋るように伸ばしてくるの細い指先に少しだけ触れて、真島は一歩身を引いた。


「・・・・・私も・・・・・、吾朗に出逢えて良かった・・・・・・!」
、元気でな・・・・・・」
「吾朗もな・・・・・。ありがとう・・・・・、バイバイ・・・・・」

涙に濡れた顔を一生懸命微笑ませて手を振るが、やがて車のドアに隠された。
走り去る車を見送って、真島は暫し、傘の下で固く目を瞑った。
そして、まだ頬を伝う涙を掌で拭い去ると、足早にグランドへと戻って行った。















「あ、お帰りなさい支配人。お疲れ様です。」

フロントカウンターの向こうから、店長の木村が声を掛けてきた。
それには応えず、真島はジャケットのポケットからに貰った招待状を取り出し、カウンターの上に置いた。


「木村ちゃん、これ、さっきのお客から貰ろた招待状や。」
「ああ、はいはい。仰ってましたね。」
「12月1日らしいわ。その日店休んでええから、ボーイの中で誰かマシな振舞い出来る奴を1人2人見繕って、祝いに行ったってくれ。」
「はい。でも支配人は?」
「俺は店空ける訳にはいかんからな。祝いは弾んでくれ。他のどこより豪華な花、贈ったってくれよ。」

真島は言い終わるが早いかフロアの階段を上がり、佐川のテーブルへ行った。
だが、そこには既に誰もおらず、ボーイが片付けを始めていたので、真島は仕方なく事務所に戻った。


「よぉ、お帰り真島ちゃん。」

佐川は、そこにいた。
事務椅子に腰を掛けて、プカプカと美味そうに煙草を燻らせるこの男の頬を、力いっぱい殴り飛ばしてやりたかった。


「えらく早かったじゃねぇの。てっきり攫ってどっかに逃げると思ってたけど。」
「そんな事する訳ないやろ。」
「へっ、何だよだらしねぇなぁ。俺ならせめてホテルにしけ込む位の事はするけどね。」
「アンタと一緒にすな。」

真島は拳を固く握り締め、大股で佐川に歩み寄って行った。
そして、鋼鉄よりも硬いその拳を、佐川の目の前のデスクに思い切り叩き付けた。


「へへ・・・・・・」

それでも佐川は、その薄ら笑いを些かも崩さなかった。


「・・・・2つめの約束を守ってくれた事は、感謝する。」
「3つめもちゃ〜んと守ってるぜ?大事に可愛がってるから、イイ女になってただろ?」
「1つめの約束も、絶対に忘れんな。」

真島は執念に燃える目で佐川を睨みつけ、獣の唸り声のような低い声で念を押した。


「嶋野の親父への口利きも、必ずして貰うぞ。必ずな。」
「そんなに念を押さなくても分かってるけどさぁ、何か勿体無ぇなぁ。お前なかなか商才あるのによぉ。
お前、分かってんのか?極道に戻れたところで、最高に良くて元の立ち位置だぜ?
『穴倉』にブチ込まれる前は、どうせシノギに四苦八苦してたクチだろ?
それに引き換え今のお前は、雇われとはいえ、一国一城の主だ。
このままこっちの道を突き進んで成功を掴む方が、お前にとってよっぽど良いと思うけどねぇ。」
「余計な世話や。それは俺には何の価値も無い。」

たとえ食うに困ろうが、たとえ元の立場どころか三下にまで落とされようが、構わない。
とにかく極道に戻る事しか考えられなかった。


「約束は必ず守って貰う。誤魔化しも冗談も、一切通じひんぞ。」
「・・・なら、俺の目の前に早く1億積んでみせるこったな。こんなチマチマした儲けじゃあ、先は果てしなく長ぇぞ。」

佐川は机の上の帳簿を指でつつき、灰皿に煙草を押し付けると、ヘラヘラとした笑みを真島に投げかけて出て行った。


「・・・・・・分かっとるわ・・・・・・」

こんな処に長々と居座る気など無い。
いつまでも『檻』の中で飼われ続けて堪るか。
必ず、必ず、望みは果たしてみせる。
こんなにも苦い涙を、敢えて呑んだのだから。


― 、堪忍や・・・・・・

真島はジャケットの内ポケットから、に貰った名刺を取り出した。
そしてそれをじっと見つめた後、心を殺してゴミ箱に捨てた。


― 堪忍やで・・・・・・・

固く固く握り込んだ拳から、血が1滴、また1滴と、静かに滴り落ちていった。


















行って下さいと呟き、行先を告げると、車のドアが静かに閉まった。
はまた、窓ガラスの向こう側にいる真島に向かって笑いかけた。
泣きながら見送ってくれている彼に、最後まで精一杯の笑顔を見せていたくて、お腹に思いきり力を込めて、笑いながら手を振り続けた。
しかし、長くはもたなかった。
傘を差した真島の姿がだんだん遠くなり、やがて完全に見えなくなってしまうと、最後の力を振り絞って作っていた笑顔は崩れ、突き上げるような嗚咽がまた洩れ出した。
運転手がきっと気まずい思いをしているであろうとは思ったが、出来る限り声を押し殺す事が精一杯で、どうしても涙を止める事は出来なかった。
真島に貰ったワインを抱きしめて、自宅マンションに帰り着くまで、は泣いて、泣いて、泣き続けた。
そうして、タクシーを降り立つ頃にはもう、抜け殻のようになってしまっていた。
デザイン重視の華奢なハイヒールは、気力がないと歩けやしない。は足を引き摺るようにして、どうにか自分の部屋に帰り着いた。
広くて、綺麗で、贅沢で、独りぼっちの真っ暗な『鳥籠』に。

半年前のあの初夏の日よりも、一層酷い喪失感だった。
心が粉々に砕け散ったような感じがして、何の力も湧いてこなかった。
それなのに、身体はのろのろとでもちゃんと動いて、コートを脱いでアクセサリーを外し、部屋着に着替えている。
ワインの入った紙袋を自分専用のクローゼットの隅にしまい込んで、佐川の目に絶対触れないよう、バッグや洋服で隠している。
そして、重たいゴルフセットを玄関まで運び出し、ウェアやシューズを用意している。
明日朝からゴルフだなんて、ただ二人を引き離す為だけの口実だったかも知れないのに、もしも本当だったら大変だからなんて考えて、まともに準備している自分が可笑しかった。
精も魂も尽き果てているのに、キッチンに立ち、佐川の夜食の用意を始める自分が滑稽だった。
たったの半年ですっかり佐川の情婦になってしまっている自分が、死にたくなる程許せなかった。


「・・・・ごめんな・・・・、吾朗・・・・・」

彼の名前を声に出して呟くと、また涙がこみ上げてきた。
嗚咽する体力ももう残っていなくて、それはただ静かにの頬を伝い落ちた。
ついさっきあの大きな優しい手で拭って貰ったのに、まだその感触が頬に残っているのに、もう二度と叶わない。
泣きながら笑っていた真島の顔を思い出して、はほとほとと涙を零した。
その時、玄関のドアがガチャガチャと音を立てた。
鍵が開いて、ドアの開く音がする。佐川が帰って来たのだ。
もっと遅いか、何なら帰らないかも知れないとさえ思っていたのに、予想外に早い帰宅だった。
驚いたは急いで涙を拭い、出来る限り平静を装って、そのまま夜食の準備を続けた。
女の涙が嫌いな佐川に泣き腫らしたこの顔を真正面から見られるのはまずいし、たとえ演技でも気が乗らなくて、玄関まで迎えに出る事は出来なかった。


「ただいまぁ〜、俺の可愛い小鳥ちゃん。」

程なくして、佐川がリビングに入って来た。


「・・・・・お帰りなさい。」

漬物を切りながら、は淡々とした声で佐川の呼びかけに応えた。


「もう準備済ませといてくれたんだぁ。ホントお前はテキパキよく働くねぇ〜。良い子良い子。」

その子供じみた誉め言葉に、虫唾が走った。
包丁を握る手に、思わず力が篭った。
こんなにも誰かを恨んだ事が、今までにあっただろうか。
鈍い光を放つ包丁の刃を見ていると、これを佐川の胸に突き立てる想像が、ふとの頭を過ぎった。
これを佐川の胸に深々と突き立ててやった後、自分にも同じ事をして、痛い程のこの悲しみを今すぐ終わらせようか、と。
は包丁を握り締めて、キッチンカウンターの向こうにいる佐川をじっと見据えた。
ダイニングテーブルの椅子に腰かけてヘラヘラとTVを観ている佐川は今、完全に油断している。
今ならやれそうな気がする、やるなら今だ、頭の片隅でそんな自分の声がしている。
は手が震える程に包丁を強く握り締めてから、やがてそっと力を抜いた。

そんな事、出来る訳がない。
後に残される家族の事を思えば、出来る訳がない。
その家族ごと丸抱えで面倒をみて貰っている分際で、出来る訳が。

は薄く自嘲の笑みを零してから、切った漬物を小皿に盛り付け、包丁とまな板を綺麗に洗った。


「お夜食にお茶漬け用意したけど、食べる?」

キッチンから声を掛けると、佐川は少し驚いたような目をに向けた。
殺意まで抱いておきながら意外と落ち着いた声が出た事に、自身も内心で驚いていた。


「・・・おう、そだな。食おっかな。」
「すぐ持って行くわ。」

はお茶漬けの用意をトレーの上に整えて、佐川の元へ運んだ。
配膳し、海苔や薬味を乗せたご飯の上に熱い緑茶を注ぐと、ふわりと良い香りが立った。
後は食べるばかりになるところまで整えるのが、情婦の仕事なのだ。
自分の務めを果たし終えて、はどうぞ、と言いかけた。
だがその時、ほんの僅かに早く、佐川の方が先に口を開いた。


「どうだった?」
「え・・・・?」
「見違えるようになってただろ、あの野郎。」

何だか自慢げにも見えるその顔にチラリとだけ目を向けて、は微かに笑った。
この人は、一体どんな答えが聞きたいのだろうか。何と答えれば満足するのだろうか。
一度ならず二度までも人の心を引き裂いて殺しておきながら、この上まだ何がしたいというのだろうか。


「・・・・・そうやね。」
「つい半年前までは死にかけの小汚ぇ野良犬みてぇだったのになぁ。今じゃあの通り、立派な『飼い犬』だ。変われば変わるもんだと思わねぇか?」
「お風呂も入るでしょ?支度してくるわ。」

薄い笑みを口元に凍りつかせたまま、は佐川の側を離れてバスルームへ行った。
そして、シャワーを全開にし、湯船の掃除を始めた。
佐川から逃げられない事は分かっているが、それでも今は出来るだけ離れていたかった。
もう何も聞きたくなかった。何も言いたくなかった。
涙を見せる事を許さないというのならそうするから、せめてこのまま静かに放っておいて欲しかった。今夜ぐらいは、せめて。


「・・・・・怒ってんのか?」

それなのに佐川は、の後を追ってバスルームに入って来た。
ドアの前を立ち塞がれていては逃げられず、はシャワーの音で聞こえなかったふりをして掃除を続けた。
すると佐川はの手からシャワーを奪い取り、壁のフックに引っ掛けた。


「無視すんなよ。」
「・・・・無視なんか・・・・。聞こえへんかっただけやん・・・・。」
「嘘吐くな。」
「あっ・・・・!」

曖昧に笑って誤魔化そうとしたを、佐川はバスルームの壁に押し付けるようにして追い詰めた。
その拍子に、フックに掛けられたシャワーの向きが変わって、と佐川の頭上に温かい雨が激しく降り注いだ。


「俺が憎いか?」
「・・・・・・・・・」
「だんまり決め込んだって無駄だぜ?顔に出てる。俺を殺してぇってな。」
「っ・・・・・・!」

顎を持ち上げられて、強引に目を合わせられた。
その頬を、思いきり引っ叩いてやりたい。
鬼、悪魔と、罵ってやりたい。
あの人の所に帰してと、ヒステリックに泣き叫んでやりたい。


「・・・・そんな事・・・・思ってないわ・・・・・、今のところはな・・・・・」

自分の中で激しく揺れている感情を、は意地だけで無理矢理抑え込んだ。


「今のところ?」
「約束通り、あの人に会わせてくれてありがとう・・・・・。ホンマにちゃんとした堅気のお店で、安心したわ・・・・・。」

今夜逢った真島は、初めて出逢った時とは別人のように立派になっていた。
佐川に飼われている以上、決して自由の身ではない筈だが、食うに困っていたり怪我や病気をしている様子は無かった。
今となってはもう、それが分かっただけでも良かったと思うしかなかった。


「これからも、約束全部、守ってな・・・・。殺されたくなかったら・・・・。」

降りしきるシャワーの雨に打たれながら、は佐川を睨みつけた。
佐川もまた、鋭い眼差しでを睨み据えた。
しかしそれはほんの少しの間で、佐川はすぐに唇の片側を吊り上げて笑った。


「・・・・ベッド行こうか。」
「ここでええわ、ここで抱いて・・・・」

そう呟いた途端、噛みつくようなキスがの唇を塞いだ。
固く閉じた瞼から、堪え切れなくなった涙が溢れ出るのを感じたが、佐川は気付いていないようだった。
だから、ここが都合が良かったのだ。
ここでならば、涙を流してしまっても、シャワーに紛れて気付かれずに済むから。










朝になると、佐川は本当にゴルフに行った。
佐川が出掛けて行った後、は昨夜クローゼットの中に隠したワインをもう一度出した。
ずっしりと重い木箱を紙袋から慎重に取り出して、蓋をそっと開けてみると、紛れもなく本物のロマネ・コンティがそこに納まっていた。


「・・・・・アホやなぁ、こんな高いもん・・・・・」

男のプライドに拘る真島の顔を思い出して、は力なく笑った。


「私が持ってたって、宝の持ち腐れやのに・・・・・・」

大変に価値のあるワインだが、残念ながらこれはこのままずっと眠り続ける事になる。
誰の舌も喜ばせる事なく、ただずっとこうして眠り続けるのだ、真島への想いと共に。
は昨夜使っていたバッグの中からカードケースを出し、そこにしまっていた真島の名刺を取り出して見つめた。
来週のオープン記念のパーティーに、あの人は来てくれるだろうか?
この期に及んで諦め悪くまだそんな事を考えてしまう自分に、苦笑を零した。

きっとあの人は来ない。
万に一つ、もしも来てくれたとしても、また辛い思いを重ねるだけだ。
たとえば提携とか何とかそれらしい名目をつけて、あの人との繋がりを持ったとしても、あの人に会う度に心が殺されるだけなのは目に見えている。
だからきっと、もう二度とあの人に会う事はないだろう。

はワインのボトルをそっと撫で、真島の名刺を添えた。
そして、木箱の蓋をしっかりと閉めた。


― 私やるわ、吾朗・・・・・

どれだけ流しても涙は尽きないが、籠の中でただ嘆いてばかりいる訳にはいかなかった。
間もなくオープンするクラブ。あの人と引き換えのようにして手に入れた、自分の店。
家族と生きていく為に、何としてもそれを軌道に乗せなければならなかった。


― あんたに教えて貰った事、私、絶対忘れへんから・・・・・

お前の新しい門出だと祝ってくれた、真島の想いに報いる為にも。




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後書き

これで、真島との恋は終わりました。
ここまでお付き合い下さり、有り難うございました。

『檻の犬と籠の鳥』前半・完。



・・・・・え?
はい。
前半です。
後半、ございます。
餅(モチ)の龍(ロン)です。
後半戦も引き続きどうぞお楽しみに!