檻の犬と籠の鳥 13




「どうぞ、こちらのお席に。」

案内されたのは、佐川の所からふたつ隣のテーブルだった。


「はい・・・・・・・」

は促されるまま、おずおずとソファに腰を下ろした。
柔らかすぎず、固すぎず、絶妙な座り心地のソファだった。
の店の内装にもかなりの額を掛けて貰っているが、この『グランド』はその何倍も上を行っているようだった。


「・・・私も、失礼致します。」

目の前にいる『支配人』は、がずっと逢いたいと願っていた人とはまるで別人だった。
スラリとした長身に漆黒のタキシードを着こなし、艶やかな長い黒髪を一つに束ねて、まるで城のようなこの店の中を颯爽と歩く彼は正に一国一城の主で、の知っている真島吾朗ではなかった。
けれど、黒革の眼帯で左目を覆ったその精悍な顔は、紛れもなく彼の顔。
黒い名刺に銀の文字で記されているのも、彼の名前。
今、の目の前に座っているのは、間違いなく、の愛したあの人だった。


「・・・・・・・・」
「・・・・・・・・」

半年前のあの日から、こうして逢えるのを夢にまで見てきたのに、いざ実現すると、何から話せば良いのか分からなかった。
あまりに突然だったせいもあるし、まるで別人のように変わっているからというのもあるが、とにかく頭がついて来なくて、只々戸惑うばかりだった。
まずは無難に挨拶すれば良いのだろうか?それとも、笑えば良いだろうか?
だが、何か言おうと口を開きかけた瞬間、言おうとしていた言葉が消えてしまう。
それを何度か繰り返していると、真島がテーブルの上のキャンドルの灯りに視線を落としながら、小さく呟いた。


「・・・当店の方針上、お客様にはどなたにも決して失礼の無いよう、皆様に等しい態度で接客致しております。その事をまず、悪しからずご了承下さい。」

丁寧で、少し冷たくも聞こえるその言葉は、彼に出来る精一杯の気遣いなのだとすぐに分かった。


「オーナーから貴女のお顔は見えません。ですが、どうかお気を抜かずに、お願い致します。」

幾ら空席をひとつ挟んでいるとはいえ、馴れ合ったり感情のままに振舞ったりすれば、背後の佐川にすぐ気付かれてしまう。
だから、泣いたらあかん。
真島にそう言われたような気がして、はぐっと歯を食い縛った。


「・・・・・・はい。」

女の涙が嫌いな佐川に合わせている内に、涙を呑み込む事は得意になっていた。
コツを掴んだのだ。
お腹に力を入れて、視点を変えて、そして、笑う。
何なら全然違う事を考えたって良い。
夢にまで見たこの時がようやく来たというのに、どうでも良い、例えば天気の話なんかをしたって。


「今夜は冷えますねぇ。来週からはいよいよ冬本番って今朝の天気予報でやってましたけど、今日も十分寒いわ。」

真島が目を丸くしている。
あらゆる言葉をすっ飛ばして開口一番言う事がそれかと、きっと思っているのだろう。自身、言いながらそう思っていた。
だが、こうでもしないと泣いてしまいそうになるのだから、仕方がなかった。


「・・・そうですね、あと1週間でもう12月ですから。そういえばここ最近急に、当店のクロークルームが狭く感じられるようになって参りました。」

やがて、真島は優しく目元を綻ばせてそう応えた。
自然なその微笑みは、の胸に詰まっていた感情の塊を溶かすのを手伝ってくれるようだった。


「お飲み物は如何致しましょうか?」
「そうですね・・・・・」

本当は、何一つ喉を通る気がしなかった。
しかし、かと言って何も頼まないという訳にはいかない。


「・・・支配人・・・、真島さんにお任せしても良いですか?」

少し考えてからそう答えると、真島はまた小さく微笑んで、畏まりましたと答えた。
そして、ボーイを呼び、飲み物とフルーツを頼んだ。
涙を呑み込む為にも有効なので、は真島のスマートな所作や従業員への的確な指示の仕方を、同業者としての目で純粋に観察した。
程なくして運ばれてきたのは、見栄えのする華やかなフルーツ盛りと、ピンクのドンペリだった。
真島の手で洒落たシャンパングラスに注ぎ分けられる淡いピンクの液体を見ていると、それだけで何だか幸せな気分になってくるから不思議だった。


「綺麗・・・・・」
「ほんの心ばかりではありますが、こちらは私からご馳走させて頂きます。」

真島の方に目を向けると、真島はまた微笑んだ。
その微笑みを見た瞬間、反射的にまた例のアレだと思い、もうずっと会っていなかったのに、打てば響くように一瞬でそんな事を考えた自分が可笑しくて、は思わず吹き出した。


「ぷっ・・・・・・」
「・・・何か?」
「いえ・・・・・、ふふっ・・・・・」

俯いて笑いを堪えながら、チラリと様子を窺うと、真島の顔から『敏腕支配人』の仮面が少しだけ剥がれかけていた。
普通に喋れる状況だったらきっと、『男のプライドを笑うなや!』とか何とか、ガーガー吼えているに違いない。
やっぱり、あの人だ。
そう確信した途端、胸の中がじんわりと温まっていった。


「・・・失礼しました。じゃあ、有り難くご馳走になります。」

は穏やかに微笑み、シャンパングラスを真島の方に掲げた。
すると真島も、同じようにグラスを掲げた。


「『グランド』の、益々のご発展に。」
「ご開店、おめでとうございます。」
「「・・・乾杯。」」

同じデザインのシャンパングラスが、触れ合えない二人に代わって、微かに触れ合った。
上品な甘さのそのシャンパンを、はゆっくりと味わいながら飲んだ。


「美味しい・・・・・!」
「お気に召して頂けたようで何よりです。」

の反応を見届けるのを待っていたかのように、真島もグラスを傾けた。
真島は覚えているだろうか。
あの部屋の小さなダイニングテーブルで、こうして差し向かいでワインを飲んだ日の事を。
このシャンパン程高いお酒ではなかったけれども、二人で酌をし合って、笑いながら飲んだ事を。


「先程、来週と伺いましたが、お店のオープンは何日ですか?」

思わず感傷に浸ってしまっていると、不意に真島の声がして、は現実に引き戻された。


「あ・・・、1日です、12月1日。あ、そうそう・・・・・!」

はハンドバッグを開け、薄い封筒を1通取り出した。
それは、このところいつも何通か持ち歩くようにしている、店のオープン記念パーティーの招待状だった。


「これ、オープン記念パーティーの招待状なんです。もし宜しければ、是非いらして下さい。」
「ありがとうございます。」

封筒を差し出すと、真島は丁寧にそれを開いて、中の招待状を読んだ。


「・・・・・様、ひとつお訊きしたい事があるのですが。」

既に何度もそう呼ばれてしまっているが、様付けはどうにも落ち着かず、何より寂しかった。


「あの・・・、その、『様』っていうの、やめて頂けますか?」

高級なこの店の雰囲気を壊さぬように、お互い自分の立場を忘れぬように、他人行儀に取り澄ましていなければならない事は分かっているが、余所余所しいその呼び方は、二人の距離を益々遠ざけてしまうようで悲しかった。
あの時のようにと呼んで貰う事は叶わないとしても、せめてもう少しだけでも、距離を縮めたかった。


「はい?」
「あ、の・・・・、すみません、慣れていませんもので・・・・・。」

がぎこちなく笑いながらそう答えると、真島も微かに笑った。


「失礼致しました。それではさん、・・・これで宜しいでしょうか?」
「ええ。」
「ひとつ、お教え頂きたい事があるのです。」
「何でしょう?」
「お店の名前、これは何とお読みするのでしょうか?
お恥ずかしながら学が無いもので、先程名刺を頂いた時から、読めずに気になっていたのです。」

真島は小さく笑っての方に招待状を向け、『club panier』の文字を指差した。


「ああ、これ。これは『パニエ』と読みます。」
「クラブパニエ・・・、綺麗な響きですね。」
「フランス語なんです。私も学はありませんけど、無いなりに何とか調べて付けました。」
「それは素晴らしい。どんな意味ですか?」

決して感心されるような理由から、そう名付けた訳ではなかった。


「・・・・・籠、です。」
「籠?・・・と仰いますと、あの、物を入れる・・・?」
「ええ。鳥籠の『籠』。」

その名を付けたのは、それが最も自分に相応しいと思ったからだった。
佐川の籠の鳥である自分にとって。

















『クラブ パニエ』。
佐川の庇護の下、はどんな心境で、『籠』という名の店を開くのだろうか。
その物悲しげな微笑みを、真島はとても直視出来なかった。
一目見て分かる位に、は大切にされている。
美しいドレスと高価な宝石で飾られ、ぐんと綺麗になり、大人の女らしく洗練された。
この様子なら、きっと家族の面倒もちゃんとみて貰えている事だろう。
それなのに、は悲しそうな瞳をしていた。
黙り込んだに、真島はやめてくれと内心で願った。
悲しい目をするのはやめて欲しかった。
そんな目をされたら、必死で抑えている自分が、抑えきれなくなりそうで。
何か話題を変えようと口を開きかけたその時、がバッグから煙草を取り出した。
品の良い色のルージュが引かれた唇に思わず見惚れてしまったが、間一髪で我に返って、真島は自分のライターの火を差し出した。


「あ・・・・・、それ・・・・・・・!」

このブラックメタルのジッポを、はまだ覚えていたようだった。


「どうぞ。」
「・・・・・ありがとうございます・・・・・・・」

は嬉しそうな、泣き出しそうな顔で笑って、煙草の先端を火に近付けた。
煙草にしっかりと火が点いてから、真島はジッポの蓋を閉め、ジャケットのポケットにしまった。
視線を落とし、細身の煙草を燻らせているを、真島は暫し黙って見つめた。


「・・・・・煙草、吸われるようになったのですね。」
「あの人に言われて。仮にもキタのクラブのママが、煙草のひとつも吸えないんじゃ格好がつかないって。」

薄荷の香りのする煙を細く吹き出しながら、は力なく笑った。


「・・・・・・実は最初、ハイライトを試したんです。」
「え・・・・・?」
「でもあれ、私にはきつすぎて、よう吸えませんでした。」

そんな事を言うのはやめて欲しかった。
そんな事を言われたら、何もかも捨ててでも、今すぐこの場からを攫って逃げてしまいたくなるから。
己のものだけでなく、の大切なものまで、全部捨てさせて。


「・・・無理はなさらないで下さい。決して身体に良いものではありませんので。」
「はい。真島さんこそ、程々になさって下さいね。あれ、物凄くきついですから。」
「お気遣い、ありがとうございます・・・・・」

すぐ目の前にがいるのに、抱きしめる事はおろか、手を触れる事も出来ない。
、元気やったか?』と、名前を呼んでただ普通に話をする事すら叶わない。
他人行儀に畏まったやり取りしか許されないこんな茶番で、約束を守ってやったと恩を着せる気なのであろう佐川に改めて怒りが湧き、テーブルの下で思わず拳を握り締めたその時、が口を開いた。


「あの」
「・・・はい・・・・・」
「あの、私もひとつ・・・、お訊きしても良いですか・・・・?」
「何でしょう?」

はもう一口煙草を吸い、言い難そうに再び口を開いた。


「私、昨日あの人から聞いたんです。あの人、真島さんに随分無理をさせたんじゃないんでしょうか?」
「無理?何の事ですか?」
「その・・・・、お金の事で・・・・・」
「お金?」
「あの人、チラッと言ってたんです。このお店の新しい支配人さんは、最初の借金200万をすぐに返した、って・・・・・。
それを聞いた時は、まさか貴方の事だとは知らなかったので何とも思っていなかったんですけど、こうしてお会いしたら、あの話がどうしても気になって・・・・」

真島は一瞬、向こうでホステス達と楽しそうに飲んでいる佐川を睨みつけた。
要らん事をペラペラ喋るなと怒鳴ってやりたいのは山々だが、もう今更遅かった。


「あの時私、あの人から桁違いの報酬を頂いていました。まさかあの人はそれを、貴方に借金として背負わせたんじゃないですか?」
「・・・さん、その事は・・・・・」
「それもしかして私の・・・!」
さん。」

大きくなりかけたの声を、真島は咄嗟に遮った。


「・・・良いのです。貴女が気にする事ではありません。
それは私自身が生きていくのに必要な費用でしたし、それも含まれていたというだけで、借金の全額がそれだった訳でもありません。
何より、もうとっくに済んだ事です。
貴女は何も気にする必要はありません。その事はもう、どうか綺麗さっぱりお忘れ下さい。」
「・・・・ごめんなさい・・・・」

謝るなやと、喉まで出かかった。
そう言って、今にも泣き出しそうなを、今すぐ強く抱きしめたかった。


「いつか、貴方に逢えたら・・・・、謝りたいと、ずっと思ってたんです・・・・・」
「・・・・何を・・・・ですか・・・・・?」
「私・・・・、自分の事しか考えてなかったんです・・・・」

は小さな声で、罪を告白するかのようにそう言った。


「自分の価値観を一方的に押し付けて、貴方の望みなんてまるで無視しようとしていました。
自分では考えていたつもりでも、実際には全く考えられてなかった。
只の独りよがりに貴方を付き合わせようとしてただけやのに、それが貴方の為になる事やと本気で思ってた。
貴方のそれまでの人生を、何も知らん私が勝手に否定する権利なんか無いのに、そんな事にも気付かんと・・・・・」
「・・・・・さん・・・・・」
「それをいつか、貴方に謝りたいと思ってたんです。
それと、散々好き勝手な事を言っておいて、結局は自分の家族の方を取って、貴方を裏切った事も・・・・。」

はこの半年、ずっとそうやって自分を責めてきたのだろうか。
そう思うと、胸が苦しくて堪らなかった。
が自分を責めなければならない事など、何も無いのに。


「・・・・・謝らないで下さい。全て、当然の事です。」

今のの苦しみを、真島は嫌という程知っていた。
何故がこんな思いをしなければならないのかと思うと歯痒くて、どうにかしてをその苦しみから解放してやりたかった。


「もし私が貴女でも、きっと同じ選択をしたでしょう。
私の兄弟の事を、いつか貴女にお話しした筈です。覚えておいでですか?」
「・・・・・はい・・・・・・」
「貴女は、私が兄弟にしたのと同じ事をしたと思っておられるのかも知れませんが、そうではありません。
貴女と私は違います。貴女は何一つ悪い事はしていないし、私はご覧の通り、自由に生きております。」

蒼天堀という限られた場所の中だけの話ではあるが、それなりの自由はあった。
その日の気分で飯を食う店を好きに選べるし、酒も飲みに行ける。
この店の外でさえあれば喧嘩も出来るし、その気になれば女だって抱ける。
同じ『檻』でも、冴島のいる処と比べれば、ここはまるで天国のように眩しく輝いていた。


「だから、貴女は違うのです。私は貴女に裏切られたとは、一度も思った事はありません。あの時からずっと。」

思わずの手を取ってしまいそうになるのを、真島はぐっと堪えた。


「あの時貴女が考えて下さっていた事は、私にとっても眩しい夢でした。決して貴女の独りよがりなどではありません。
ただ私には、その夢はあまりにも綺麗すぎた。
私はそれに憧れ、貴女と共に生きていく事を望みながらも、一方で、ずっと持ち続けていた自分の望みも捨ててはおりませんでした。
自分の事ばかり考えていたというのは、私も同じです。
私はあの時、貴女の好意に甘えて、何一つ諦める気が無かったのです。」

微かに揺れるキャンドルの炎を見つめながら、真島も打ち明けた。
別れてから気付いたのではない、あの時からずっと頭の片隅にあった、自分勝手な想いを。


「時間さえかければどうにかなると自分に思い込ませて、単に目先の自分の気持ちしか考えていませんでした。
貴女はご自分の人生を犠牲にしてでも、出来る限り私の望みに沿おうとして下さっていたのに、私は貴女のご家族の事どころか、貴女の先々の事さえ何も考えず、ただ貴女の好意に甘え、貴女を縛り付けて側に置きながら、いつ出て来られるか分からない兄弟を待とうとしておりました。
貴女はご自分を責めますが、私はそれ以上に手前勝手な酷い男です。
ですから、もうご自分を責めないで下さい。謝らなければならないのは、私の方なのですから。」

からの返事は無かった。
視線を少しだけ上げて様子を窺うと、はステージ上のバンドを眺めながら、煙草を吸っていた。
ムード重視の薄暗い照明でも隠し切れない程、その瞳は潤んでいた。
しまったと、真島は内心で少し後悔した。
言葉に偽りは無く、伝えられて良かったとも思っているが、もしここでが感情のままに泣き、それを佐川に気付かれてしまったら、その時点できっと引き離されてしまうだろう。
この日が来るのをずっと待ち焦がれていたのに、たったこれっぽっちの時間で終わらされるのは辛すぎる。
この再会は限りある一時の事に過ぎないのは最初から分かっているが、それでも、いや、だからこそ、1分1秒でも長く一緒にいたかった。
その為にはやはり、お互いの感情を出来る限り揺らさないように気を付けなければならなかった。


「・・・申し訳ございませんでした。もうこんな辛気臭い話はよしましょう。
宜しければフルーツもどうぞ。そのシャンパンは、フルーツと良く合います。」

真島はクリスタルの小皿にフルーツを少し取り分け、銀のフォークを添えての前に差し出した。
するとは、天井のシャンデリアを仰ぎ見て、何度も目を瞬かせた。


「・・・・・ホンマ・・・・、素敵なお店ですね・・・・・・。シャンデリアもすっごく豪華やわ・・・・・・」
「ありがとうございます。」

の声が、危なっかしく震えている。
内心でハラハラしながら、頑張れ、頑張れと念じていると、やがてが静かに息を吐いて前を向いた。
瞳はまだ潤んでいるが、その顔には何とか、微笑みが戻っていた。


「・・・・フルーツも美味しそう。頂きます。」
「どうぞ。」
「どれから食べよかな?迷うわぁ。」

は煙草を消すと、フォークを取って少しの間迷ってから、取り分けた物の中でも一番大きい苺に刺した。
それいくんかいと思わず突っ込みそうになった瞬間、あっと言う暇もなく、は大口を開けてそれを一口で丸ごとパクリと食べた。
それを取り分けたのは他ならぬ真島自身なのだが、他にももっとおしとやかに食べられるサイズの物があるのに、何故よりによって一番大口を開けないといけない物を選ぶのかと、思わず唖然とした。
まるで別人のように色っぽくなったと思っていたが、こうして何か食べている姿は、やっぱりあの時のままだ。
のまま、何も変わっていない。


「んん・・・・・!めっちゃ美味しい・・・・!」
「・・・良かった。」

満面の笑顔になったに釣られて、真島も静かに笑った。



















それから暫くは、店の経営話に花を咲かせた。
元々の名目でもあったし、何よりお互い、それが一番感情が揺れずに済む話だったのだろう。
だけではなく真島の方も、話題を変えようとはしなかった。


「そうですね。やはり一番苦労するのは、従業員の采配でしょうか。
酒癖の悪いお客様のあしらいよりも、そちらの方が余程難しい。私も未だに毎日四苦八苦しております。」
「そっかぁ、やっぱりそうですよね・・・・・。出来るかなぁ私に・・・・・。」

話は十分に弾んでおり、いつしかは恋慕の苦しみも一時忘れて、来週オープンする自分の店についての悩みや心配事を、純粋に真島に相談していた。


「私、雇われホステスしてた時も、女同士のトラブルがホンマ苦手やったんですよね・・・・・。
ほらあの、派閥だの客の取り合いだの・・・・・、あるでしょう?」
「ありますね。」
「アレがもうホンマにダメで・・・・・。そんなんに巻き込まれて毎日毎日ネチネチドロドロやり合う位なら、ずっと一匹狼のヘルプ要員でいいわとか本気で思ってた位で。」
「はは、お気持ちは良く分かりますよ。ですが、さんならきっと大丈夫です。貴女はなかなか根性の据わったお方ですから。」
「そうでしょうか?そうやと良いんですけど・・・・・・」

真島への想いとはまた別に、自分の店への想いも、それはそれで真剣だった。
佐川の力を借りるどころか、丸っきり佐川に作って貰った『鳥籠』ではあるが、そこに自分と自分の家族の食い扶持が懸かっているのだ。
それに、これまで佐川に甘えてきた分も、出来るだけ早い内に返していきたいと思っている。
その為には、店を何としても軌道に乗せなければならなかった。


「あ、そうやわ、今までそういった従業員の人間関係で一番困った問題って、どんなんでしたか?」
「一番困った問題ですか?正直、色々ありすぎてどれを選べば良いか悩みますが・・・」
「え、そんなに・・・・?」
「そうですね・・・・、では、売上を持ち逃げされた話でも致しましょうか。」
「はい・・・え!?」

真島の口調が余りにサラッとしていたので一瞬分からなかったが、それは死活問題レベルの特大のトラブルだった。


「も、持ち逃げ!?」
「はい。」
「いつの事ですか!?」
「確か、先々月だったかと。」
「その・・・・、大変失礼ですけど・・・・・、お幾ら程・・・・・?」

は真島の方に少しだけ顔を寄せ、声を潜めて尋ねた。
すると、真島も少しだけの方に身を乗り出し、低い声でボソリと呟いた。


「・・・800万ほど。」
「はっ・・・・!」

思わず大きな声を出しそうになって、は慌てて自分の手で口を塞いだ。


「・・・・ホンマですか、それ・・・・!?」

再び声を潜めると、真島はシャンパンを一口飲んで小さく頷いた。


「犯人はうちのボーイでした。油断していたこちらも悪かったのですが、ほんの少しの時間、金庫の鍵を閉め忘れていた間に、そこに入っていた金を根こそぎ持って消えてしまったのです。」
「そんな・・・・・!それ大問題ですよね・・・・・!?」
「勿論。それが無ければ、利益どころか従業員の給料から何から、一切の支払いが出来ませんから。」
「それで、どうなったんですか・・・・?」

この店はついこの間まで赤字続きだったというのだから、売上金が根こそぎ無くなるというのは致命傷の筈である。
は固唾を呑んで真島の話の続きを待ったが、しかし真島はその涼しげな表情を些かも変えなかった。


「実は私には、そういった厄介事を解決する為の、専属の用心棒のような者が3人程おりまして。」
「あぁ・・・、なるほど・・・・・!」

そう言えば、そうだった。
直接関わる事は無かったが、前に勤めていた店にもその手の仕事を請け負う、所謂『ケツモチ』と呼ばれる連中が出入りしていた事を思い出し、は大いに納得して何度も頷いた。


「やっぱり、そういう方にお願いしないと駄目なんでしょうか?
あの人もその・・・、本職が本職ですから、言えば誰か寄越してはくれるんでしょうけど、私が個人的に、そういうのにはちょっと抵抗があって・・・・・。」
「ええ。分かります。」
「確かにあの人には資金をはじめ、全面的に支えて貰っていますけど、実際の営業の方は何とか一人でやっていきたいと思っているんです。
少なくとも、あの人のその・・・、『本職』の方にはお世話にならないようにしたいと思っていて・・・・・。
でも、そんな物騒なトラブルが起きるのでしたら、そうも言っていられないんでしょうね・・・・・。」

真島でもそんな人達を雇わないとやっていけないのだと思うと、女一人でクリーンにやっていこうとしていた自分が只の馬鹿だったように思えてきて、急に不安が強くなってきた。
そもそも、色々と巧く立ち回れる方でもないし、経営の事だって何も分かっていないのだ。
厄介事に対するスペシャリスト位、やはり雇っておいた方が良いのかも知れない。


「あの、真島さん、その方達はやっぱりその・・・・、『本職』の方なんでしょうか?」
「いえ。堅気の者です。」
「ほ・・・・、本当に・・・・・?」

駄目元で訊いた事に思いがけない返事を貰って、の胸に一縷の希望が宿った。


「近江の関係者とか、その筋の方じゃなくて?」
「ええ。全く無関係です。3人共、私が個人的に付き合いをしている者ですので。」
「あぁ・・・・!あの、こんな事を頼むのはご迷惑かも知れませんが、是非私にもご紹介頂けませんか!?」

無知なりに出来るだけ守りを固めておきたくて、は藁にも縋る思いで真島に頼み込んだ。


「・・・うちの者達は、貴女とも面識がありますよ。」

すると真島は、ごく当たり前のような口調でそんな事を言った。


「えっ?」

しかしには、全く心当たりは無かった。


「いえ、生憎と私にそんな知り合いは・・・・・。前に勤めていた店のボーイさんとかでしょうか?」
「いいえ。」
「まさか、昔の会社の人達でも・・・・・ないですよね・・・・・?」
「ええ。」
「え・・・・学校の同級生とか?」

言えば言う程、顔も名前も出てこない程遠ざかっていく。


「それも違います。」
「じゃ、じゃあ誰なんですか?教えて下さい。」
「イチローと、ジローと、サブローです。」
「え?」

真島の答えた名前が全く思い当たらず、はきょとんとした。
すると真島は、唇の端を吊り上げて笑った。


「貴女が付けて下さった名前です。お忘れですか?」
「私が・・・・・・・?」

思い出の小さな欠片が、ふと転がり出てきた。
他愛もない、けれどとても甘くて温かい、小さな小さな恋の記憶が。


「・・・・・・・あ・・・・・・・!」


― 名前付けたろ♪この子が『イチロー』で、そっちの子が『ジロー』や。で、背中の般若が『サブロー』や。


― 何やそれ!めっちゃテキトーやんけ!


「あれ・・・・・!あの時の・・・・・!」

ベッドの中でじゃれ合って遊んでいた自分達二人の声が蘇り、は呆然と真島の顔を見つめた。


「思い出して頂けましたか。」
「・・・・・うっそぉ・・・・・!あっはは・・・・・!」

その甘い記憶が堪らなく楽しくて、懐かしくて、は思わず声を出して笑った。


「いややもう・・・・・!あははは・・・・・・!」
「・・・フフフッ・・・・・!」

笑っていると、真島も釣られたように小さく笑い声を上げた。


「えぇ・・・・・!?そういう事ぉ・・・・・!?」
「フフッ・・・・・、はい。そういう事です。」
「もうっ・・・・・!信じられへん・・・・・!ふふふふふっ・・・・・!」

久しぶりに笑った気がした。
毎日笑っていたあの頃に戻って、は今、久しぶりに心から笑っていた。


「・・・・・で、そのお金と、持ち逃げしたボーイさんは・・・・・?」

ひとしきり笑い合うと、話の結末が気になった。
思いがけず蘇った甘い記憶につい浸ってしまったが、そういう事なら、真島はその問題に自分の身一つで挑んだ事になる。
彼がそれをどう解決したのか、是非とも知りたかった。


「勿論、持ち逃げされた金は全て取り戻しました。」
「そうですか・・・・・!それなら良かった・・・・・!」
「そのボーイは、今もここで働いております。ああ、丁度あそこにいますね。あの彼です。」
「え?」

真島が指を指した方を見てみると、1階のフロアできびきびと働いている一人のボーイの姿があった。


「彼は博打の借金の返済に困っていました。タチの悪い所から借りてしまい、利子が膨れ上がってどうしようもなくなっていた。
だからその金貸しの所に、私がイチローとジローとサブローを派遣した次第なのです。」
「派遣って・・・」

要するに、そのタチの悪い金貸しの所に単身乗り込んでいったというだけの話じゃないかとまた笑いかけたその時、真島は不意に真剣な表情になった。


「お金はお金です。無くなればまた稼げば良い。
けれども、人は違います。人は、いなくなればもうそれまでです。一度失ってしまったら、もう取り戻せない・・・・・」

をまっすぐに見つめるその真剣で優しい目も、あの時のままだった。


「・・・・・本当に、仰る通りですね・・・・・」

真島の言う通りだった。
一度放してしまった手は、もう二度と掴めない。
同じテーブルの上で、ほんの少しだけ手を伸ばせば届く距離にあるのに、決して触れられない。
その大きくて力強い手が、とてもとても、好きだったのに。
今でもまだ、その手で触れて欲しいと、こんなにも強く想っているのに。


「・・・でも、イチローさん達に、あんまり無茶しないようにとお伝え下さいね。」
「はい。ありがとうございます。」

今のに出来る事は、籠の中から祈る事だけだった。
真島がいつか佐川の檻から出て、自分の思うままに生きていけるように、と。



「どう?良い話聞けた?」

その時突然、佐川がひょっこりと顔を出した。


「何か随分熱心に話し込んでるねぇ。」

は頭の中のスイッチを即座に切り替え、佐川に笑いかけた。


「うん。色々勉強になるお話ばっかりやから。」
「そうか、そりゃ良かった。ところで俺さ、明日朝からゴルフだったのすっかり忘れてたんだよ。お前、先帰って支度しといてくれ。」
「はい。」

素直に返事をすると、佐川は満足げに目を細めての頬を優しく撫でた。


「頼んだぜ。」
「あんまり飲み過ぎんといてね〜。」
「あいよ。」

背中越しに軽く手を挙げてまた自分のテーブルに戻っていく佐川を見送って、は微かな溜息を吐いた。
あまりゆっくりさせて貰えないだろうとは最初から予感していたので、諦めるのはそんなに難しくなかった。


「・・・・・もう、帰らんと。」

そう、最初から分かっていた事だ。
いつか再び逢えたとしても、愛し合っていたあの時に戻れる訳ではない事は。


「今夜は本当にありがとうございました。貴方のお話全て、肝に銘じておきます。」
「・・・・こちらこそ、誠に・・・・ありがとうございました・・・・」

だから、そんな泣きそうな顔せんといて。
心の中でそう呟いて、は真島に微笑みかけた。




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後書き

この作品において、最も爆書きしたのが、このグランドでの再会の部分です。
前回の第12話〜次の第14話までがそれに当たります。お楽しみ頂ければ幸いです。
支配人熱に浮かされて、ついでにインフルの熱にも浮かされながら、夜となく昼となく夢中で書いたあのめくるめくような日々(←隔離闘病中の数日間)が、つい昨日の事のようです。
インフルの熱は予防接種を受けていたので微熱&ソッコー下がりましたが、支配人熱はあれから2年近く経つ今もまだ下がりません。重症ですわコレ。