檻の犬と籠の鳥 12




半年後。


「え〜っと、グラス・食器代がこんだけで、お絞りのリース代は、と・・・・・」

リビングのテーブルに帳簿や領収書の束を広げて、は今夜も一人、間もなくオープンを控えている店の経費の勘定に勤しんでいた。
初めは果てしなく長い道のりに思えていたが、がむしゃらに没頭している内に、気が付けば開店準備はもう大詰めを迎えていた。


「よっしゃ、終わった・・・・・!」

帳簿をつけ終えてペンを置くと、は両腕を上げて大きく伸びをした。
それから、傍らの煙草に手を伸ばし、1本咥えて火を点けた。
吸い始めた頃は気分が悪くなったりもしたが、最近は少し慣れてきて、こうして頭を使う仕事をした後などには、この苦い煙を欲しいと思うまでになってきている。
煙草を燻らせながら、はペンを持って壁のカレンダーの前に立った。
一日の終わりに、その日のマスに×印を付けるのが、開店準備を始めた頃からの日課だった。


「あと1週間か・・・・・」

オープンの12月1日まで、あと1週間。
あと1週間で新しい暮らしが始まる。一国一城の主としての、新しい人生が。
けれどもそれは、あくまでも大きな翼の庇護の下でだ。佐川の力なくしては、到底実現し得ない事だった。
佐川は、優しかった。
愛人稼業などをするのはこれが初めてだから比較対象となる者がいないのだが、それでも恐らく、佐川はパトロンとして一流の部類に入るだろうと思っていた。
お金も、愛情表現も、一切出し惜しみをせず、蝶よ花よと愛でてくれる。
従順な、彼の『籠の鳥』でいる限りは。
は煙草を灰皿に押し付け、テーブルの上を片付けると、バスルームへ行った。
湯船に湯を張りながら、その間に化粧を落として、歯を磨いた。
今日はもう、風呂に入って寝るつもりだった。
佐川は、今夜は来ない。
仕事が忙しいのかも知れないし、他の『鳥籠』にいるのかも知れない。
だが、それを詮索したり、まして文句などを言う権利は無いし、またその気も無かった。
只々佐川に従順で在り続ける事だけが、今のの全てだった。

女らしい装いが好みの佐川の為に、部屋着さえもワンピースやスカートになり、ジーンズはめっきり履かなくなった。
彼がいつ来ても大丈夫なように、毎日朝からきちんとメイクをするようになったし、下着や寝間着も、上品で色気のあるデザインのものばかりになった。
髪も少し伸ばして緩くパーマをかけ、煙草も覚えた。

鏡に映る自分が、どんどん変わっていく。
女らしく、大人っぽく、まるで別人のように。
そんな自分からそっと目を逸らして、はバスルームに入った。
湯船の湯を止め、温かいシャワーに頭から打たれる。
今日はもうこれで終わりだと思うと、何だかホッとする。
一人の夜は静かで、寂しくて、優しかった。
たった半年前の、けれどもう何年も経ってしまったかのように感じられる遠い記憶に、包まれる事が出来るから。
ほんの束の間の、幻のようだった、あの甘くて温かい記憶に。


― おう、

― 腹減ったわ、早よ何か作ってくれ〜!


記憶をそっと呼び起こすと、あの人の言葉が蘇った。
けれども、その声のトーンは、日々少しずつ曖昧になっていく。
確かこんな声だったと思い起こそうとすればする程、本当にそうだったのか分からなくなっていく。
忘れたくないのに、少しずつ少しずつ、霞んで消えてゆく。
心の中に刻まれているこの記憶と同じように、あの人の声音や肌の温もりも、身体に染み付かせてずっと残しておきたいのに。
あの人も今頃、同じようになっているだろうか。
それとも、もうとっくに何もかも綺麗さっぱり消えてしまっているだろうか。
声も、顔も、愛し合った時があったという記憶さえも。


「・・・・・・ご・・」

シャワーの音に紛れさせて、あの人の名前を声に出そうとしたその瞬間、バスルームの扉が開いた。


「きゃあっ!」
「おお、悪ぃ悪ぃ。驚かせたか。」
「佐川さん・・・・・!」

今夜は来ない筈だった佐川が、いつもの涼しい笑みを浮かべてバスルームに入って来た。
は慌てて感傷を振り払い、頬を膨らませて佐川の腕を軽く叩いた。


「もう!吃驚したわぁ!オバケかと思ったやんか!」
「はは、悪ぃ悪ぃ。物音で気が付いてると思ってたんだけど。」
「シャワー出してたから、全然気付かへんかったわ。」

は風呂椅子に佐川を座らせ、その身体に温かいシャワーを浴びせながら、彼に話し掛けた。


「どうしたんですか?今夜は来られへんて言うてはったのに。」
「ん〜?別にぃ。ただ気が変わっただけだよ。やっぱりお前に会いたくなっちまってさ。」
「またそんな上手いこと言うて。ホンマはお目当ての人にフラれて暇になったからでしょ?」
「またそんな意地悪言う。」

鏡越しに佐川と笑い合う自分の笑顔が、我ながら板についてきていると思う。
一緒に風呂に入り、佐川の頭や身体を洗うのも、最初はかなり恥ずかしくて抵抗があったが、今はもうすっかり慣れた。
は淡々と、丁寧に、佐川の頭を洗い、シャンプーの泡を流した。
それからシャワーを止め、タオルに石鹸を擦り付けて、今度は佐川の身体を洗い始めた。


「・・・なぁ。明日、飲みに行こうか。」
「え?」
「良い店があるんだ。」

あの日、籠の鳥になる覚悟が出来るかなんて訊かれたから、てっきりこの部屋に閉じ込められるものだとばかり思っていたが、そうではなかった。
この半年、は佐川に連れられて、あちこち出掛けていた。
その殆どが飲食店で、佐川の表稼業が絡んでいる事は、もはやわざわざ訊くまでもない大前提だった。


「ホンマ?嬉しい!楽しみやわぁ。」

こうして誘われた時は、ただ喜べば良い。
変に遠慮したり、値段を気にすると、却って佐川の機嫌を損ねてしまうのだ。
そして勿論、断るという選択肢は無い。
ただ喜んで、素直に楽しむのが、唯一にして最善の答えだった。


「どんなお店?」
「キャバレーなんだけどな、面白ぇ店なんだよ。ついこないだまでずっと赤字続きの不良債権中の不良債権だったんだけどよ、今は俺の持ってる物件の中でも一番の注目株だ。
まだ大して儲かってるとは言えねぇが、右肩上がりに着々と売り上げを伸ばしてきている。その成長っぷりが面白くてな。」
「へ〜、それは凄いわぁ。何でそんな急に儲かるようになったん?」
「ん〜・・・・・、新しい支配人、かな?」
「支配人さん?そんなやり手の人なん?」
「最初の借金200万を利息含めて3ヶ月で完済させて、その上で着実に利益を積んでいる。
最初はあんま期待してなかったけど、ありゃあなかなか、大した拾いモンだったかも知らねぇな。」
「へ〜、凄い!」

今夜の佐川は、随分機嫌が良さそうだった。
この関係になって半年、彼の心の内が、幾らかは分かるようになってきていた。
佐川は、その支配人とやらを少なからず気に入っているようだった。


「佐川さんのお眼鏡に適うなんて、大した人やねぇ!」
「はは、どうだかな。」

あの人の事を忘れた日はないが、全てはもう終わった事だった。
佐川の愛人になったあの日、自分の心を守る為、男の言う『嘘は大嫌いだ』という言葉はもう信用しないと決めたのだ。
その結果、の心はずっと守られ続けている。
あれから数え切れない程の飲食店へ連れて行って貰っているが、案の定、その何処にもあの人はいなかった。
やっぱり、男のその台詞はあてにならない。結局、自分を守れるのは自分だけなのだ。
最初から期待しなければ、これ以上傷付く事も、悲しくなる事もない。


「ま、新米ママにとって、経営の良い勉強になるのは確かだろうぜ。そいつから色々話を聞くと良いよ。」
「良いの?是非聞きたいわぁ!あ、ついでにお店の宣伝もして良い?」
「当然!」
「うっふふっ!ありがとう!」

は満面の笑顔になって、鳳凰の羽ばたく背中に優しく泡を擦り付けた。














翌晩、佐川に連れて行かれたのは蒼天堀だった。
蒼天堀に来るのも、実に半年ぶりだった。
毎日のようにここへ通っていた事を思い出すと、ついまたあの人の事が頭に浮かんで来そうになったが、佐川と一緒にいる時にあの人の事は考えられない。
は努めて頭を切り替え、佐川のエスコートで久しぶりの蒼天堀を歩いた。


「着いたぞ。」
「え、ここ?面白いお店って、ここの事やったん?」

入口の前でその店、『キャバレー グランド』を見上げながら、は佐川に尋ねた。


「そう。知ってた?」
「そらだって、私の勤めてた店すぐそこやし。でも来た事は無いし、ここが佐川さんのお店やっていうのも知らんかったわ。」

夜の蒼天堀に君臨するが如く、一際煌びやかなこの外観は、半年前と何も変わっていなかった。
だがこの店は、『見掛け倒し』と評判の筈だった。


「へ〜、ここそんな流行りだしたんやねぇ!うちに来るお客さんらがようここの事、ホンマ見た目だけで今にも潰れそうやて・・あ・・・・!」

驚きの余り、ついうっかり口が滑ってしまった。
無表情の佐川に見下ろされ、は肩を小さく竦ませた。


「ご、ごめんなさい・・・・」
「・・・変な気ィ遣うな。」
「んっ!」

佐川はの唇を指で摘まむと、楽しげな笑みを浮かべた。


「だから面白ぇんじゃねぇか。だろ?」
「・・・・・確かに・・・・・」

うっかりやらかしてしまった粗相を許して貰えた安心感も相まって、この店の支配人に対する興味が一層湧いた。
悪い意味で定評のあった店をそこまで急成長させるなんて、どんな人物なのだろうか。
高校で取った簿記の資格と経理の実務経験は少々あれども、実のところ店の経営というものに対して多大な不安のある自分にとって、その人の話はきっと心強く有益なものになるに違いないと思うと、もう居ても立ってもいられなかった。


「佐川さん、早く早く!」
「おーいおい、そんな焦んなよ!逃げやしねぇって!」

は佐川の腕を引っ張って、意気揚々と店に入って行った。


「わぁ・・・・・!」

初めて入った『キャバレー グランド』の中は、外観に違わずゴージャスだった。
豪華なシャンデリアにゆったりと広いフロアと客席、2階席はVIPエリアだろうか。
深紅のカーペットが敷き詰められた通路を辿ってみれば立派なステージがあり、バンドが生演奏で快いジャズを奏でている。
元勤めていたキャバレーも、それなりに客の目を惹くような趣向は凝らされていたが、これ程のクオリティではなかった。


「素敵なお店・・・・・・!」
「フフン、だろ?さ、行くぞ。」
「はい。」

佐川の腕に程良くしな垂れ掛かりながらエントランスの僅かな段数の階段を下りると、ロビーにフロントカウンターがあり、そこにいた黒服の男性が柔和な笑顔を浮かべかけて、ハッとしたように飛び出してきた。


「オーナー!いらっしゃいませ!」

その男性は佐川に向かって、殆ど直角になりそうな位に深々と腰を折った。


「よっ。景気はどう?」
「あ、それはもう、お陰様で・・・・・!」
「ん、みたいだね。何よりだ。」

佐川が客席の方をチラリと一瞥してそう言うと、男性は心からホッとしたような顔になった。


「あの、今日は事務所の方へは・・・・・?」
「ああ、違う違う。今日は客として飲みに来たんだ。」
「左様でございましたか、ありがとうございます。それでは、すぐにお席をご用意致します。」
「ああその前に。」

佐川はすぐさま行きかけた男性を引き止めると、と引き合わせた。


「彼女、今度キタでクラブをオープンするんだ。ちょいと挨拶させてやってくれ。」
「それはそれは、恐れ入ります!」
。こちら、この店の店長の木村ちゃん。」
「あ、どうも・・・・・・!」

はハンドバッグからカードケースを取り出し、刷り上がったばかりの新しい自分の名刺を、木村というその男に差し出した。


と申します。どうぞ宜しくお願い致します。」
「これはどうも、ご丁寧に!私、木村と申します。こちらこそ、どうぞ宜しくお願い致します。」

向こうから差し出された名刺には、キャバレーグランドの店長という肩書が記されてあった。
最初は、佐川が紹介したがっていた人はこの人の事だと思っていたのだが、肩書を見る限りはどうも違う。
この人とは違う人なのだろうかと考えていると、名刺をしまい込んだ木村が、に向かってさり気なく手を差し出した。


「宜しければ、コートをお預かり致しましょうか?」
「あ・・、ありがとうございます。」

は着ていた白い毛皮のハーフコートを脱ぎ、木村に預けた。


「お願いします。」
「確かにお預かり致しました。少々お待ち下さい、只今お席にご案内致します。」

木村は人当たりの良い笑顔でに頭を下げると、コートを持って行こうとした。
その背中に、佐川が再び呼びかけた。


「ああ、それからさ木村ちゃん、席に支配人呼んでよ。」
「畏まりました。」

やって来た若いボーイに指示を与えると、木村はのコートを持って、カウンター奥のクロークルームに入って行った。


「どうぞ、こちらへ。」
「行こうか、。」
「はい。」

店長もかなり感じの良い人だった。
ではその支配人というのは、一体どれ程の人なのだろうか。
膨らむ一方の期待に胸を躍らせながら、は2階席へと続く階段をしずしずと上っていった。

















煙草に火を点けて、一吸いしてから、受話器を取り上げる。
手元の名簿とシフト表を照らし合わせて、まず最初の番号をプッシュした。


「ああ、もしもし?キヨちゃん?グランドの真島やけど。今日8時からシフト入ってたん、覚えてる?・・・・やっぱりな。・・・・もうええからすぐ来て。頼むでホンマに。はい、はい。」

電話を切って、すぐに次の番号をプッシュする。


「もしもし?えっちゃん?グランドの真島やけど。今日8時からシフ・・ちょっ・・・・!切りよった!何ちゅーやっちゃ!」

思わず受話器を叩き置いて、またすぐに持ち上げ、更に次の番号をプッシュした。


「・・・・・・・。あかん、やっぱり出よれへん。あんのボケカスが。」

気が付くと、指に挟んでいた煙草が、殆ど吸わない内にフィルターだけと化していた。
真島は深々と溜息を吐き、既に吸い殻で一杯の灰皿の隙間に、そのフィルターを突っ込んだ。
本日の不届き者はホステス2名にボーイ1名、うち無言の内の退職宣言が1名、クビ決定が1名だった。


「・・・・ホンッマに毎日毎日・・・・」

腹の底からウンザリする日々だった。
愉快な事は何一つ無く、面倒な事ばかりが次から次へと起こってくれる。
そんな最悪の日々に追われている内に、いつの間にかもう半年が経っていた。
目の前に湧いて出てくる面倒事を片付け、それを少しでも減らそうと無い知恵を振り絞って考え、行動に移している内に、何とか客が増えてきて、ようやく純益が辛うじてそれと呼べる位の額になってきた。
だが、目標にはまだまだ手が届かない。いや、手を伸ばそうとする事すらおこがましい。
今ようやっとスタートラインに立てた位の程度なのだから。
目標を見据えて走り出すのは、ここからだった。


「支配人、失礼します。」

事務所にボーイが入って来て、真島はすぐさま現実に立ち返った。


「何や。」
「支配人を呼んで来てくれと言われまして。お願いします。」

目標を見据える暇すら無い。
真島は吸い損ねた煙草の代わりに、全く新鮮ではない空気を胸一杯に吸い込んで、盛大に吐き出した。


「誰にや?」
「川本さんに。」
「何の用で?」
「さあ、ただそう言われただけなんで。多分お客さんに頼まれたんやと思いますけど。」

川本というのもボーイである。
用件は皆目分からないが、問題点はまた一つ分かった。
ボーイ同士の連携が全く取れていないという点だ。


「・・・今度から粗方の用件ぐらい聞いとけ。どこや?案内せぇ。」
「はい・・・・」

大層不服そうな顔で踵を返したボーイについて、真島は事務所を出た。
彼は入ったばかりのアルバイトの大学生だが、その膨れっ面が何だか小学生みたいだ。
どちらに非があるかはさておき、この様子ではこいつも続くかどうか怪しいものだと、真島はまた溜息を吐いた。
連れて行かれたのは、2階のVIP席だった。
そこに件の川本というボーイがいて、接客中の様子だった。
立ったままステージのバンド演奏を眺めているその客の姿を見て、真島は本日最大の溜息を吐いた。


「支配人?どうかしはりましたか?」
「・・・・いいや、何もない。もう分かったから、行ってええわ。」
「はい。」

案内してきたボーイをフロアに帰して、真島は一人でその客の方へと歩いて行った。
横顔とはいえ、あのスカしたニヤケ面を見誤りはしない。
偉大なる『オーナー様』だ。
いつもは事務所にズカズカ乗り込んでくるのを、今日はまた何を思って客席に案内させたんだかと内心で毒づきながら、真島は商売用の微笑みを顔に張り付けた。
どうせ抜き打ちの接客テストとか何とか、クソッ腹の立つ事を言うのだろう。
上等だ、そっちがそのつもりなら、こっちも徹底的にやってやる。
真島は息巻きながら、佐川に向かってズンズンと歩いて行った。


「いらっしゃいませ。キャバレーグランドへようこそ、お客さ・・」

そこまで言いかけて、真島は言葉を失った。
佐川の隣にいた黒いドレスの女を、店のホステスだとばかり思っていたその女を、まともに見た瞬間に。


「・・・・・・・・!」

その女もまた、言葉を失ったように呆然と真島を見ていた。


― ・・・・・・・

髪を綺麗に結い上げ、黒いレースの上品なデザインのドレスを纏って、まるで別人のように華やかな装いをしているが、間違いない。
その女は、だった。
半年前に別れたきりの、だった。


「よう、支配人。」

沈黙を破ったのは、佐川の飄々とした声だった。


「今日は客として来てやったぜ。俺も偶には身銭切って売上に貢献してやろうと思ってな。」
「・・・・・・・」
「支配人さ〜ん?お〜い?」

目の前で手を振られて、真島はようやく我に返った。


「・・・は、はい・・・・・、ありがとう、ございます・・・・・・」

一瞬、佐川が唇の端を僅かに吊り上げたのが見えた。
愉しんでいる。
無理矢理引き裂いた二人を、突然こんな形で再会させて、その反応を愉しんでいるのだ。
思わず怒りがこみ上げたが、店の中で面に出す訳にはいかず、真島はぐっとそれを抑えた。


「『ちゃん』だ。彼女、近くキタにクラブをオープンさせるんだよ。
、こちらがこの店の『支配人さん』だ。挨拶しとけよ。」
「・・・・・はい・・・・・」

は明らかに強張った顔をしながらも、ハンドバッグからカードケースを取り出して、真島に名刺を差し出した。


「・・・・・と・・・・・申します・・・・・・」

の声は消え入りそうにか細く、その手は微かに震えていた。
受け取った名刺を見てみると、真珠のような光沢のある白いカードに流麗な金色の文字で、『club panier』という店名と、その所在地や電話番号が記されてあった。
』は、その店のママという肩書だった。
名刺の裏を今この場で見る事は出来ないが、当然、何も書かれていないに違いない。
半年前の、あの時とは違うのだ。
美しいその名刺を束の間苦い思いで見つめてから、真島は懐から自分の名刺を取り出した。


「当店支配人の、真島・・・と、申します・・・・・・」

真島は視線を落とし、差し出した黒い名刺をおずおずと受け取るの細い指先を見つめていた。
あの部屋で初めて出逢った時の、あの酷い自己紹介を、はまだ覚えているだろうか。


「この度は、ご開店おめでとうございます・・・・・」
「・・・・・ありがとう、ございます・・・・・」

真島は、昨日の事のように覚えていた。
あの時は、本気で犬と勘違いして『ゴロー、ゴロー』と連呼するに、脅すように名乗ってしまった。
いや、あの時の事ばかりではない。
と過ごした1ヶ月の事が、今こうして再会した瞬間、一瞬で鮮やかさを取り戻していた。
まるで、別れてから止まっていた時が、再び動き出したかのように。
だが、今のこの状況で、どうやってそれをと共有する事が出来るだろうか。
お互い佐川に首根っこを押さえられた状態で、人目だらけの、一言たりとも本音を話せない場所で再会したって、あの時失った恋は取り戻せない。
だが、それが佐川の狙いなのだろうと思えば納得がいった。
よく考えてみれば、なるほど、如何にも佐川の考えそうなやり口だった。
これでもちゃんと半年前のあの約束を、『守った』事にはなるのだから。
には、確かに『会えた』のだから。


「・・・・・佐川様、様、本日は当店へようこそお越し下さいました。」

思ったよりも早く、の元気そうな姿を見られたのだからそれで十分だと、真島は己に言い聞かせた。
失っていたこの半年を取り戻せなくても、たとえ話すら出来なくても、が元気で幸せならそれで良い、と。


「ささやかながら開店のお祝いも兼ねまして、精一杯のおもてなしをさせて頂きますので、どうぞ、ごゆっくりお楽しみ下さい。」

真島は二人に深く頭を下げ、踵を返そうとした。
だがそれを、佐川が呼び止めた。


「おぉーい、ちょっと待った待った。勝手に帰るんじゃねぇよ。」

まさか、給仕でもしてずっと横で二人がイチャつくのを見ていろとでも言う気なのだろうか。
今のこの状況が、精一杯の我慢の限界なのに。
真島は密かに奥歯を噛みしめてから、営業用の微笑みを作り直して振り返った。


「・・・・・何でしょうか?」
「いやさぁ、彼女、店のオープンを来週に控えて緊張してんだよね。何せ経営は初めてだからさぁ。
そこで真島ちゃん・・・、いや、『グランド』の敏腕支配人に、一肌脱いで貰いたいと思ってさぁ。」

の為に何か出来る事があるのなら、勿論、幾らでも協力する気はある。
だが、具体的に一体何をさせようというのだろう。


「それはもう、私に出来る事でしたら・・・・・。しかし、一体何を?」
「この店をたった半年で急成長させたそのノウハウを、いっちょ教えてやって欲しいんだよ。
俺はこっちで飲んでっからさ、二人でその辺の席にでも座って。な?」
「佐川さん、やっぱり支配人さんにご迷惑やわ。色々お忙しいでしょうし、ね・・・・?」

が堪りかねたように、佐川に縋った。
そのぎこちない作り笑いは、泣き出す寸前のようにしか見えなかった。


「・・・畏まりました。それでは僭越ながら、様は私がお相手させて頂きます。」

一礼と共にそう告げると、はハッとしたような顔で硬直した。
その潤んだ瞳を、真島は一瞬、まっすぐに見つめた。


「行って来い、。『先輩』の貴重な経験談、色々聞いて来いよ。
支配人もな。これも勉強のつもりで、経営の先輩として可愛い『後輩』に色々教えてやってくれよ。な?」
「畏まりました。」
「・・・・・・はい・・・・・・」

男二人の間で話が纏まると、は諦めたように俯き、従順に返事をした。
こんなは、見た事が無かった。


― 吾朗〜!ご飯出来たで〜!食べよ食べよ!

― ほなまた明日!行ってきまーす!


記憶の中のは、溌剌と明るかった。
しとやかさや色気が足りないなどとからかったりもしたが、そこがまた可愛くもあった。
女は付き合う男で変わるとよく言うが、今のは本当に、まるで別人のようだった。
だがそれでも、紛れもなく本人なのだ。


「・・・それでは様、どうぞ、こちらへ・・・・・・・」
「・・・はい・・・・・・・」

今のは、本当にあの時の彼女のままなのだろうか。
それとも、という名の、全く別の女になってしまったのだろうか。
胸が締め付けられるような不安を隠して、真島はを客席へと導いていった。




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後書き

支配人 ああ支配人 支配人。
支配人良いですよね、支配人。
嶋野の狂犬になった後も、偶にはチラッと支配人に戻って欲しい!
組とは関係ないところで、人知れずコソッと支配人になったりして欲しい!
支配人サイコー!
さあ皆さん、ご一緒に!
支配人 ああ支配人 支配人。(←分かったて)