檻の犬と籠の鳥 11




更に数時間が経ち、今日もまた蒼天堀が黄昏に染まり始めた頃。


「な・・・、何やて!?」

改めて訪ねたキャバレー『VIP』で、真島は驚くべき事実を聞かされた。


「昨日で辞めたやと!?」

思わず訊き返すと、昨日と同じフロントマンは、平然とした顔で『はい』と答えた。


「おのれ、どういう事やねん!そんな事昨日は言うてへんかったやんけ!」
「ひっ・・・・!」

カウンターに拳を叩き付けると、フロントマンは顔を引き攣らせて身震いしたが、負けじと真島を睨みつけてきた。


「そ、そんな事言われたって知りませんよ!僕も知らんかったんですから!」
「何やと!?そらどういう事や!?」
「僕もさっき聞かされたとこなんですわ!女の子らのシフト確認してたら、うちの店長に、ちゃんは昨日で辞めたからなて突然言われて・・・・!」

店長を呼んで来いと怒鳴りかけたが、無駄な事だと思い、やめておいた。


「・・・・嘘ちゃうやろな?」

真島は持てる全ての殺気を右目に込め、獣の唸りのような低い声でフロントマンに念を押した。


「ちゃいますて・・・・!!」

フロントマンは脂汗を浮かべて怯えながらも、それでも目を逸らさずに即答した。
残念ながら、この男は嘘を吐いていないようだった。
もしも嘘を吐いて隠していたのなら、もう少し態度に動揺が現れるだろうし、何より、昨日の今日で平然と白状するような間抜けな事はしないだろう。
ならばこれ以上、この男を問い詰めても無駄だった。
嘘を吐いているのなら白状させれば良いだけだが、どれだけ痛めつけたところで、知らないものはどうしたって聞き出せないのだから。


「・・・・もうええ」

もはやこの店に用は無い。真島は踵を返し、早々に店を出た。
店を出たその足で、真島は近くにあった公衆電話に立ち寄り、の家に電話をかけた。


『はい、もしもし?』
「あ・・・・・!あの・・・、さんのお宅でっか?」

何度目かの呼び出し音の後に電話に出たのは若い女、いや、女の子だった。
声が良く似ているので、一瞬かと思ったが、恐らくこの子はの妹だった。


『はい、そうですけど?』
「ああ・・・・、あの、真島っちゅうモンやけど、姉ちゃん、いてる?」
『お姉ちゃんですか?お姉ちゃんなら出かけてますけど・・・・・』
「どこ行ったか分かるかなぁ?」
『さぁ・・・・・』
「いつ戻る?」
『それも・・・ちょっと・・・・・』

まだ小学生だというこの子に、これ以上しつこく問い質すのは気の毒というものだった。


「そうか・・・・、分かった。ほな、姉ちゃんが帰って来たら、真島から電話があったって伝えといてくれるか?」
『はい・・・・』
「おおきにな。ほな。」

受話器を置くと、悪い予感が吐き気のようにこみ上げてきた。


「・・・・・・・・・」

突然連れ出されてしまった自分を捜す為に、あちこち出歩いて行き違いになっているのだとばかり思っていた。
だが、これだけ連絡しているのに、丸一日以上連絡がつかないのは明らかに変だった。
急病や事故に遭ったという様子でもないのに、突然店を辞めて音信不通になるなんて、只事ではない。
多分、の身に何かが起きている。
だとすれば、もうこの街でじっと待っていたって仕方がなかった。


― 無事でおれよ、・・・・!

の居所としてまず考えられるのは、やはりあのマンションしかなかった。
この蒼天堀からあの町までの道は詳しく覚えていないが、マンションの近くにあった国鉄の駅までタクシーで行けば、そこからなら歩いて戻れる。
まずはあのマンションに戻ってみて、もしもいなければ、次はの家へ行く。
そうして、しらみつぶしに捜していくより他にない。
真島は足早に歩き、道沿いに停まっていたタクシーに乗り込もうとした。
その時。


「何処へ行く?」

何者かが真島の肩を掴んで、タクシーに乗り込もうとするのを阻んだ。


「あ?」

振り返ると、佐川の手下が3人程、真島を取り囲むようにして立っていた。
連中はすかさず、怯えている運転手に『行け』と指示をし、タクシーを追い払ってしまった。


「・・・お前ら、まだ俺の周りをウロついとったんか。」
「勝手にこの街を出るな。親父の命令だ。」
「お前らの、な。俺の親父やない。ましてお前らに命令される筋合いなんぞ無いわ。」

真島は連中の間をすり抜け、大通りを走るタクシーを捕まえようとした。
しかし連中は真島の前に壁のように立ちはだかり、それを阻んだ。


「・・・・何や。俺は用事があるんじゃ。お前等に構ってる暇は無いねん。」

相手も極道の端くれ、ひと睨みした位で怯まない事は分かっていた。


「今すぐグランドへ戻れ。そうしたら見逃してやる。」
「別に見逃してくれんでええ。」

を捜しに行こうとした途端に邪魔をしてくるという事は、やはり佐川が絡んでいる。
この瞬間、真島はそう確信した。


「お前らぶっ殺したら終いの話やからなぁ!!」

真島は拳を固め、目の前の男の顔面に思い切り叩き付けた。


「ぐはぁっ!!」
「っの野郎!」
「ナメやがってぇっ!」

1人が再起不能に陥ると、残り2人がサッと周囲に目を向けた。
すると、野次馬や通行人の人波の中から、ゾロゾロと仲間が湧いて出て来た。
佐川の手下は一体何人、この街に潜んでいるのだろうか。
薄気味悪さを感じながらも、しかし真島は一歩も退かず、襲い掛かってくる連中を次から次へとぶちのめしていった。


「てぃぃやぁっ!!」
「ぐはぁっ!!」
「がはっ・・・・・!」

拳で、蹴りで、敵を屠っていく。
その辺の自転車や電飾看板を振り回し、ゴミ山の中にあった骨の折れたコウモリ傘さえ凶器に変えて。


「何やコイツ・・・・・!」
「この強さ、バケモンか・・・・・!?」

邪魔をするというのなら、何十人だろうと何百人だろうとぶち殺してやる。
に危害を加えるというのなら、
先の見えない地獄の中でたった一つ手に入れた光を奪うというのなら、


「でぇぇりゃあああっ!!!」

どいつもこいつも皆、ぶち殺してやる。


「おっ、おいっ、押さえろ!」
「数で押さえるんや!!」
「放せぇっ!!放せボケぇっ!!」

悪鬼羅刹の如く暴れ狂う真島の身体を、何人もの男達が取り囲み、押さえ付けてきた。
あの『穴倉』での、地獄の宴の始まりのように。


「がっ・・・ぁぁぁぁっ・・・・・!!」

首筋に冷たくて固い金属のような物が押し当てられた瞬間、身体が弾け飛びそうな位に痺れた。
それがスタンガンによる一撃だと気付いた時には、真島はもう、灰色のアスファルトに向かって倒れ込んでいた。


「・・・・・・・・・」

無事だろうか?
今、何処にいるのだろうか?
逢いたい。


― ・・・・・・・


お前に逢いたい。


「はぁっ、はぁっ・・・・・!何て奴だ・・・・・!」
「早よ連れてけ!」
「へいっ・・・・!」

真島の声は誰にも届く事なく、意識と共に深い闇の中へと吸い込まれていった・・・・。
















「・・・ぅ・・・・・」

気が付くと、『穴倉』にいた。
両腕を吊られていて、湿った冷たい空気が肌に直接纏わりついている。
何もかも夢だったのだろうか。
全ては、ここから出たいという己の願望が見せた、うたかたの夢だったのか。
ふとそんな事を考えた瞬間、急速に意識が明瞭になり、脳の回路が一気に繋がった。


「はっ・・・・!!」

夢などではない。ここは『穴倉』ではなかった。
あそこにいた時と良く似た格好で拘束されてはいるが知らない場所で、そして何より、目の前にこの男がいた。


「おう、起きたか。」
「・・・・・佐川はん・・・・・」

真島は目の前に立っている佐川をじっと睨みながら、自分と周りの状況を密かに探った。
両腕両脚を縛られていて、上半身の服が脱がされている。
だが、痛めつけられたり何かされたような形跡は無く、まだ身体に少し痺れは残っているが、深刻なダメージは負っていなかった。
部屋の中は配管だらけで、ビルのボイラー室か何かのようだが、場所が分かりそうな特徴は何も無かった。


「ったく、めんどくせぇ奴だなぁ。来た早々大騒動を起こしやがって。」
「大騒動にしたんはそっちやろ。」

真島は即座にそう言い返し、佐川の背後に控えている手下共に目を向けた。


「俺はただ、ちょっとそこまで出掛けようとしただけや。」
「出掛けるって、何処にだよ?」
「それはこっちが訊きたい。あの娘を何処へ隠した?」
「あの娘?」
「とぼけんな。」

一触即発の緊張感が、真島と佐川の間を走り抜けた。
だが次の瞬間、佐川は事も無げに薄い笑みを浮かべた。


「・・・ちょいと入れ込みすぎだぜ、真島ちゃん。
お前も男だ、女抱くなとは言わねぇが、見境なくなる程うつつを抜かすのは頂けねぇなぁ。」

佐川はおもむろに、ジャケットのポケットから淡い桃色のカードを取り出した。
それが自分のジャケットのポケットに大事に入れていた筈のの名刺だと気付いた時には、既にライターの火が点いていた。


「ああっ!!や、やめろ!!何すんねん!!消せや、早よ消せーっ!!」
「あっちちっ!」

床の上に放り出された名刺は、真島の目の前であっという間に燃え尽き、真っ黒な燃えカスと化した。


「あぁ・・・・・・!」

との繋がりは、今、完全に断たれてしまった。
その黒焦げの残骸を、真島は呆然と見つめた。


「これで綺麗さっぱり諦めもついただろ?これ以上余計な事は考えんな。お前は当面、あの店を立て直す事だけ考えてりゃあ良いんだよ。」
「ふざけんな!!おどれを何処へやったんじゃあっ!!」

人の心を土足で踏み荒らすような佐川の言動に腸が煮えくり返り、真島は噛み付かんばかりの勢いで佐川を問い詰めた。
しかし佐川は眉一つ動かさず、平然と煙草に火を点けた。


「そんな事、聞いてどうすんだ?」
「おどれに関係無いわ!」
「口の利き方には気をつけろ。俺はテメェの親代わりだぜ?」
「親代わり!?そんなもん知った事か!」

真島は何もかもを捨てる覚悟で佐川に啖呵を切った。
極道のやり口はそのままに、人を都合良く堅気扱いする佐川には、もう我慢ならなかった。
このままこの男の良いように生殺しにされる位なら、いっそ本当に綺麗さっぱり諦めてやる気だった。
嶋野や佐川の意向に大人しく従ったところで、冴島への償いは、どのみち夢のまた夢となってしまうのだから。


「今の俺は堅気なんやろ!?堅気に極道の掟は通用せん!
堅気なら、おどれに服従せなあかん理由なんぞ無いわ!
何処に行こうが、何の仕事しようが、誰と好き合おうが、俺の勝手じゃ!」

ならばせめて、だけは諦めたくない。
こんな馬鹿な男に、自分の身を削ってでも尽くしてくれた彼女を、諦めたくはない。


は何処や!?に会わせろ!!」

真島は燃え滾るようなその執念を、佐川に叩き付けた。
しかし佐川は、まるで子供の戯言を聞き流すが如く、しれっとした顔で紫煙を吐いた。


「やれやれ、何の力も無ぇ青二才の癖に、威勢だきゃあ一丁前だなぁ。」
「俺を従わせる為に、人質にでもしたつもりか!は関係ないやろが!」
「ああ関係ねぇよ?俺がプライベートで誰を口説こうが、俺の勝手だろ?」

その瞬間、激しい衝撃が真島の身体を駆け抜けた。


「・・・・何・・・・やと・・・・?」
は俺の女だ。ちょっかい出す気なら許さねぇぞ?」

芝居がかった調子でわざとらしく凄んでみせる佐川の目は、明らかに笑っていた。
勝ち誇り、勝利の高みから負け犬を見下して、嘲笑っていた。


「・・・・そや・・・・・」

そんな筈はない。
佐川が本気でを愛している筈がない。
只々自分を服従させる為だけに、人質のようにして奪い取ったに違いない。


「お前は若ぇからまだ分かってねぇんだろうけどな、女ってのは、お前が思ってるより欲張りでしたたかな生き物なんだよ。
若さと勢いでガツガツくるだけの、金も包容力もテクニックも無い男には感じねぇんだよ。感じてるふりはしててもな。」
「・・・・嘘や・・・・」

はそんな女じゃない。
ほんの束の間だったが、笑い合い、愛し合って過ごしたあの日々が、嘘だった筈はない。
佐川の言葉を、真島は必死に否定し続けた。
しかし佐川は、とどめとばかりに更に残酷な追い討ちをかけた。


「嘘なもんか。は俺とお前を天秤にかけて、俺を選んだ。あの娘は自分から俺の前で服を脱いだんだぜ。」
「嘘を吐くなーーーーっっ!!!」

身体中の血が、瞬時に煮え滾った。


「何したんや!!!に何したんやお前ぇぇーーっっ!!!」

真島は力の限りにもがき、喉が張り裂けんばかりに吼えた。
両腕両脚を拘束しているこの縛めを引き千切り、佐川の喉笛に喰らい付いて、殺してやりたかった。
しかし、真島を捕らえている縛めは、ジャラジャラと耳障りな金属音を響かせるばかりで、千切れるどころかほんの僅かの緩みさえも生じなかった。


「・・・真島ちゃんよぉ。テメェの身に置き換えて、よく考えてみろよ?」

怒り狂う真島の目の前に、佐川は自ら悠々と進み出てきた。


「もしもお前があの娘だったら、どっちの男が良い?
テメェの事ばかり考えて、あの娘の望む幸せを与えてやる力も、その気さえも無い野郎と、あの娘が大事にしているものを、何もかも守ってやれる男と。
お前が女だったらどっちに惚れる?」

佐川のその言葉が、真島の胸に突き刺さった。


「っ・・・・・・!」

一瞬、不覚にも佐川の言う通りだと思ってしまった。
極道から足を洗い、完全に堅気として生きていく事がの望みだと分かっていて、それを叶えてやろうとは、結局思い切れなかったのだから。
冴島もも、どちらも諦めたくないと自分ばかりが欲を張り、どれだけ待っても恐らく望みは叶わないであろうの気持ちは、考えていなかったのだから。


「お前じゃあの娘はイかせられねぇんだよ、真島ちゃん。」

だが、それでも。


「・・・・じひん・・・・・」
「あ?」
「・・・・信じひんぞ、俺は・・・・・」

それでもを、との間に芽生えていた愛を、信じたかった。


なんて女は知らん・・・・、お前の言う事なんぞ信じひん・・・・。
俺が信じとるんは『』や・・・・・!」

二人で過ごしたあの時間は、真島との、二人だけのものだった。
交わした言葉も、温もりも、他の誰にも分かりはしない。
佐川の言う事がたとえ本当だとしても、他人の言葉を鵜呑みにして諦める事なんて出来なかった。


に会わせろ・・・・・!」

たとえ本当の事だとしても、本人の口から直接聞くまでは、絶対に諦めない。
確固たる意志を込めて、真島は佐川を睨み据えた。


「俺に何の得も無ぇ頼み事を、何で俺が聞いてやらなきゃいけねぇ?
お前は俺の頼みを聞く気ねぇんだろ?俺に服従する理由なんぞ無いって、さっきテメェで言ってたもんなぁ?」
「ぐっ・・・・!」

しかし佐川は、それすらも軽く一笑に付した。
この男には、何一つ通用しないのだろうか?
叩きのめしてやる事はおろか、ほんの僅かに退かせる事すらも。
まるで子供同然の己の無力さに、真島は歯を食い縛った。


「でもよぉ、本当にそうなのかなぁ?本当に、俺に服従する理由なんて無いのかねぇ?」
「何・・・・!?」
「確かに今のお前は堅気だ。だがよぉ、だったら何故、嶋野はお前を俺に預けた?
何か理由があるとは思わねぇか?うん?」

いやに持って回った言い方だった。
まるで、犬の鼻先に餌をぶら下げるが如く。


「嶋野は本当にお前を見捨てたのかねぇ?ええ?」
「・・・・何が言いたい・・・・!?」
「余地はあると見たね、俺は。お前が東城会へ戻り、極道に返り咲く余地がな。」

只の甘言だ、騙されるなと、自分で自分に言い聞かせたが、長くはもたなかった。
己が心底から望むものを鼻先にチラつかされて我慢し続けられる奴が、果たしているだろうか?


「・・・・全部・・・・、アンタ次第って事か・・・・?」
「いいや違うね。お前次第だよ。」

佐川は、真島が心から望むものを、どちらも持っていた。
極道へ戻る為の足掛かりと、
どちらもがこの男の手の中にあって、欲しいならくれてやるよと言わんばかりにチラチラと見えている状態だった。


「お前の行動次第で、俺の行動も変わる。人ってのは合わせ鏡みてぇなもんだからな。
お前が俺に協力してくれるんなら、俺もお前に協力してやる。
嶋野んとこへ帰りたいってんなら口添えしてやるし、に会いたいってんなら会わせてやろうじゃねぇの。
だが、お前が俺への協力を拒むんなら、俺もそうする。それだけの話だ。」

この男に服従する事でしか手に入らないというのなら、そうするより仕方がなかった。
佐川の『犬』となって、鼻先にぶら下げられた餌に敢えて飛び付くしか。


「・・・・条件は何や・・・・?」
「グランドの現状は、木村ちゃんにもう聞いてるだろ?ひとまずはあのでっけぇ不良債権を、稼げる店にして貰おうか。」
「そんなぼやかした言い方はやめろや・・・・!具体的にはっきり言え・・・・!」

ひとまず服従はするが、佐川の事を信用した訳ではない。
何の取り決めもなく狡猾なこの男の言いなりになるのは、あまりにも危険だった。
犬になってやるからには、何としても確約が欲しかった。
でなければ、極道に戻れる日も、に会える日も、きっと永遠に来ないから。


「フン、そうだな・・・・、んじゃあ1億だ。1億、利益を上げてみろ。」

定められた目標は、とてつもなく高かった。


「いち・・・!そんなもん、ケタが違うやないか!」
「1億稼げたら、お前が東城会に戻れるよう、嶋野にナシつけてやるぞ。どうだ?」
「っ・・・・!」

目標はとてつもなく高く、道のりは果てしなく遠い。
けれど、弱音を吐けばそれすらもまた見失うと思うと、嫌だとは言えなかった。


「・・・・は・・・・?いつ会わせてくれるんや・・・・?」
「人の女を気安く呼び捨てすんじゃねぇよ。俺結構そういうの気にするタチだからよ。今後は気ぃ付けろ。」

佐川はまたわざとらしく眉を潜めて、煙草の煙を吐き出した。


「まあ、そりゃ流石に1億とは言わねぇよ。適当に折見て会わせてやる。
だが今は駄目だ。今のお前は、まだ何の成果も出していない。
何の成果も出さない内から、『ご褒美』を与える算段だけ立てる甘々な飼い主が何処にいるよ?」

散々冗談めかしてヘラヘラ笑っていた佐川の目から、不意にその薄ら笑いが消えた。
そこにはまた、あのゾッとするような冷たい恐怖があった。


「俺はな、真島ちゃん。犬に愛玩性は求めてねぇ。
嶋野の兄弟はどうだか知らねぇが、俺は座敷犬を飼う気は無ぇ。番犬も間に合ってる。
俺が飼っても良いと思えるのは、俺んとこに獲物、つまり金を運んで来る『猟犬』だ。」
「・・・・・猟犬・・・・・」
「真島、お前は『猟犬』だ。俺に仕え、俺に利益をもたらさなきゃいけねぇ。
お前がその役割を果たせていると俺が認められたら、『ご褒美』としてに会わせてやるよ。」

その恐怖に密かに気圧されている事をこの男に知られたくなくて、真島は殊更に声を荒げて捲し立てた。


「だから具体的に言えや!一体幾ら稼げばええんや!?」
「この件に関しちゃあ、一口には言えねぇなぁ。何せお前だけの問題じゃねぇ、あの娘も絡む話だからな。」
「どういう事や!?」
「俺さぁ、鳥派なんだよね〜。」

佐川は唐突に、まるで訳の分からない話にすり替えた。


「・・・・・は?」
「犬でも猫でもねぇ、鳥なんだよ。綺麗な籠に入って、俺の手から餌を啄む、可愛らしい『小鳥』が好きなの。」
「何の話や・・・・!?」

本気で訳が分からなかった。
今、この瞬間までは。


「でもあの娘は、まだ俺の手から餌を食べるまでには至っていない。
そうなるように、これからうんと可愛がって、餌付けして、懐かせなきゃならねぇんだ。
どっかに飛んで行っちまわねぇように、羽も切らなきゃいけねぇしな。」
「なっ・・・・!」

の事を言っているのだと分かった瞬間、戦慄が真島の背筋を一気に駆け上った。
この男は、を籠の鳥にしようとしている。
奪おうとしているのは、の自由か、それともが帰りたいと願う場所か、それともまさか、身体を傷付けて、物理的な自由まで奪おうというつもりなのか。
そんな最悪の想像をした真島を見て、佐川はまた愉しげに声を上げて笑った。


「ハハハ、冗談だよ冗談!んな怖ぇ顔しなくても良いだろぉ?
大体お前、あれって神経の通ってねぇほんの先っぽの部分だけの話だぜ?しかも、切ってもまた伸びてくるし。」
「知るかそんな事!!」

軽口ばかり叩くこのふざけた男と嶋野が兄弟だなんて、ずっと信じられなかった。
あの剛猛な嶋野が、何故こんなふざけた優男と兄弟盃を交わしたのか、ずっと理解出来なかった。
しかし今、真島はようやく納得する事が出来ていた。
嶋野と佐川は、ある点ではとても良く似ているのだ。
ゾッとするような冷たさと残酷さを持っているという点で。


「・・・・分かった、猟犬でも何でもなったる。アンタの言う通り、あの店を立て直して1億稼いだるわ。
その代わり、約束せぇ。俺が極道に戻れるよう嶋野の親父にナシつける事と、に会わせる事、それと、に絶対酷い事せぇへんと、約束せぇ・・・・!!」

佐川の犬にでも何でもなってやる。
望みを果たすその日までは、己の何を犠牲にしてでも。
真島は己にそう誓い、佐川に迫った。


「だからそりゃ冗談だっつってんだろ。する訳ねぇだろ酷い事なんて。愛してんだからよ?」

もう佐川の軽口にいちいち振り回され、心を掻き乱されはしない。
大切なのはプライドや嫉妬心ではなく、の平穏と、己の望みなのだから。
黙ったままじっと佐川を見据えていると、佐川は興醒めしたようにニヤついた笑みを消し、煙草をもう一吸いした。


「・・・分かってるよ、約束する。お前の望みは叶えてやるよ。だからお前も、俺の望みを叶えろ。」
「・・・・ああ・・・・」
「いい子だ。」

佐川は煙草を床に捨て、踏みつけた。
そしておもむろに、真島の腹に拳をめり込ませた。


「ぐはっ・・・・!!」

やけに効くのは、きっと不意を突かれたせいに違いなかった。
でなければ、こんな非力そうな男の何処にこんな力があるのか、説明がつかなかった。


「さーて。んじゃ、記念すべき1発目の『躾』といこうかね。」
「フン・・・・、上等じゃ・・・・・!」

真島は佐川を挑発するように、不敵な笑みを浮かべてみせた。
今後、決して噛み付いてはならないというのなら、せめて思い知らせてやる所存だった。
生憎とこんな歳を食った優男の手で簡単に『躾』られる程、俺は楽に飼える『犬』ではない、と。














「外してやれ。」

その一声が掛かった途端に、あれだけ頑丈だった縛めが、いとも容易く解けた。


「改めて言っておく。お前は今後、俺の許可なく蒼天堀を出るな。毎日店に出て、毎日家に帰れ。
もう分かっているだろうが、誤魔化せるとは思わねぇ事だ。お前の行動を、俺はちゃんと見ているからな。」

わざわざ言われなくても、もうそんな事をする気も、意味も無かった。


「さっさと服着て店へ出ろ。その死にそうなツラのまま出るんじゃねぇぞ。笑顔だぜ、笑顔。客商売は、一にも二にも笑顔が大事だ。」

やられたのは腹や胸ばかりで、顔は無傷だった。
こういう魂胆だったから顔は狙わなかったのかと思うと腹が立ったが、佐川が背中を向けながら顔を顰めて右手を痛そうに振っているのが見えたので、多少溜飲が下がった。
こっちは若いから回復も早いが、あっちは中年、暫くは痛むだろうと思うと良い気味で、思わず笑みが浮かんだ。


「・・・・お、そうだ。大事な事言い忘れてた。」

出て行きかけていた佐川がふと足を止めたので、慌てて口元を引き締めると、絶妙なタイミングで佐川が振り返った。


「お前、靴が汚れてんぞ。いつも綺麗に磨いとけよ。服や靴の手入れは身だしなみの一環だぜ。
あと、腕時計無しってのも頂けねぇな。ガキじゃねぇんだからよ。
靴と腕時計は男のステータスを表す物だ。無理してでも良い物身に着けるようにしとけ。客商売なんだからな。」

そう言い放つと、佐川は今度こそ出て行き、数人いた手下共もその後を追って行った。
遠ざかっていく靴音は、少しすると完全に聞こえなくなり、そうなって初めて真島は緊張を解いた。


「・・・・・うっさいわ・・・・・、何がステータスじゃ、オッサン・・・・・・」

もうとっくに出て行ったであろう佐川に対して毒づきながら、真島は身を起こした。
そうする為にほんの僅か腹に力を込めただけで吐きそうになる程気分は最悪だったが、そうすると佐川に負けた事になるみたいで癪に障るので、殆ど意地だけで堪えて立ち上がった。


「ぅ・・ぐっ・・・・・!」

軋む身体に鞭を打って、堅苦しい御仕着せを元の通りに着込み、真島は足を引き摺るようにして佐川達の後を追った。
部屋を出て、近くにあった階段を下りていくと、外に出る事が出来た。
道幅は狭いが、石畳の敷き詰められた何だか小奇麗な通りで、寿司屋だのラーメン屋だのが点々と並んでいる。全く知らない場所だった。
ここは一体何処なのだろうか?
さっさと店に出ろと言われたが、果たして店に辿り着けるのだろうかと心配しながら取り敢えずその通りを歩いて行くと、横に抜ける路地の先に、知っている景色が見えた。


「・・・・・ドンキや・・・・・」

路地の向こうに、ドン・キホーテがあった。
という事は、この路地を抜けると、ドン・キホーテや床屋の前の道に出るという事だ。
それなら迷う事もないと安心したら何だか気が抜けて、真島は路地に入り、建物の壁に背中を預けた。
気分は悪いのだが、何となく口が寂しくて、煙草を求めてジャケットのポケットに手を突っ込んだ。


「あ・・・・・」

煙草とライターは、無事にポケットの中にあった。
不幸中の幸いというやつだ。
流石の佐川も、このライターにまでは考えが及ばなかったらしい。或いはどうでも良かったのか。
どちらにせよ取られずに済んで良かったと思いながら、真島は煙草を咥え、ライターで火を点けた。


― ・・・・・・・・・・

今となってはもう、これしか残っていなかった。
このライターだけが、と共に過ごし、愛し合った時があったという、たった一つの証だった。
には、何も残してやれなかった。
最初から最後まで一方的に与えられてばかりで、結局、には何一つ与えてやれなかった。
思い出す物が何も無ければ、こんな行きずりのような男との恋など、はじきに忘れてしまうだろうか。


― ・・・・・

最後に見たの笑顔が、忘れられなかった。
出掛けて行くをあの時、どうして引き止めなかったのだろう。
こんな事になるのなら、我慢などせずに心のままに抱き寄せて、キスすれば良かった。
いや、もっと早くにを攫って、何処かへ行ってしまえば良かった。
そんな取り留めも無い後悔ばかりが、次から次へと湧いて出てくる。
だが一方で、もしも本当にそうしようとしていたら、はきっと応じなかったであろうとも思っていた。
もしもに家族を捨てる事が出来るのなら、は佐川の女になどなってはいない。
さっきの佐川の言葉が蘇ってきて、真島は悔しさに拳を握り締めた。

の望む幸せを与えてやる力も、その気さえも無かった自分と、の家族を丸ごと全部抱える事の出来る力を持つ佐川。
どちらがの為になるかなんて、言われるまでもない。

だがそれでも、愛している。


「・・・・・・・・・・」

逢いたい。


「・・・・っ・・・・」

吸い慣れている筈の煙草の煙が、やけに目に沁みた。
汚い灰色のアスファルトに煙草を捨て、真島は独り、雑踏の中に溶け込んでいった。
まるで負け犬のように、ズタボロの心と身体を引き摺って。




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後書き

0のバトルモード、どれもそれぞれ好きなんですが、一番好きなのは喧嘩師です。
一番バランスが良いというか闘りやすいなと思うのは堂島の龍ですが、それでもダントツ1位は兄さんの喧嘩師!
あのカッコ良さを文章で表すとなると、うーん、難しい・・・・!
この先々にも各スタイルで喧嘩する場面を盛り込んでいますので、またおいおいお目にかける事になると思います。こんな感じで迫力の無い戦闘シーンを(笑)。
ちなみに嶋野の狂犬は、動きが速すぎて肝心の兄さんを鑑賞しにくいので(笑)、私はあまり使わない派です。