檻の犬と籠の鳥 10




汚い犬小屋が、汚いなりにどうにか必要最低限の機能を果たしそうな位に整った頃には、もう夕方になっていた。
真島は窓辺に立ち、煙草に火を点けた。
夕方にまた来ると言った佐川は、まだ戻って来ていない。
ここに閉じ込められて、もう何時間が経つだろうか。


「腹、減ったなぁ・・・・・・」

今日は朝飯を食べたきりだった。
何か食べに行こうにも、部屋のドアの前に佐川の手下達が居座っていて、外に出して貰えないのだ。
連中は佐川が出掛けて行ってすぐから、真島にびっちりと付き纏っていた。
近くのドン・キホーテに僅かばかりの家財道具と日用品を買いに行く時には周りを囲まれ、水光熱の申し込みの電話を掛けに公衆電話へ行けば、すぐ隣で露骨に聞き耳を立てる始末である。
そして、以降はドアの前に立ち塞がり、用があれば代わりに行ってやるの一点張りだ。
そう言うからには頼めば何か食い物を買って来てはくれるのだろうが、奴等に頼む位なら、空腹を我慢する方が余程マシだった。
勿論、蹴散らしてやりたいと心の底から思っている。出来るものならとっくにやっている。
だが、今下手に暴れたりすれば、一層と連絡が取り難い状況に陥りかねない。
一刻も早く確実にと会う為には、甚だ不愉快だがここで大人しくしているのが上策だった。


「お好み、食いたいなぁ・・・・・」

ソースの香りを思い出すと、空っぽの胃が物欲しげに鳴いた。
1日1食以下なんてこれまでの人生ではザラだったのに、このところは毎日きっちり3食食べていたからか、やけに腹が減る。


「・・・・・・・・・・・」

は今頃、何をしているだろうか。きっと随分心配をかけてしまっている事だろう。
本当はもっと早くに電話をするつもりだったのに、出来ないまま夕方になってしまった。
は今日も出勤だろうか。もうすぐこの街に来るだろうか。
オレンジ色の夕陽に煌めく蒼天堀に架かる橋の上を行き交う人の群れの中に、真島はあの愛しい面影を捜さずにはいられなかった。


「おう、待たせたな。」

突然にドアが開いて、佐川がズカズカと入って来た。


「叔父貴・・・・・」

その飄々とした顔を見た瞬間、猛烈な苛立ちがこみ上げてきたが、真島はそれをどうにか抑え込んで、睨みつけるだけに留めた。


「・・・何処行ってはったんですか。」
「何で俺がお前にいちいち報告しなきゃなんねぇんだよ。
それよりお前、部屋ガラッガラじゃねぇの!ちゃぶ台とラジカセと布団と灰皿って・・・・、所帯道具たったこんだけ!?」

佐川は声を張り上げて、大袈裟に驚いてみせた。


「何だよお前、冷蔵庫は!?テレビは!?おいおい、原始時代に戻る気かよ!?
照明も裸電球のまんまだしっつーかちょっと待て・・・、うわっ、やっぱり!
やけにかさが低いと思ったら、この布団、掛け布団だけじゃねぇの!敷きは!?なぁ!?」

真島は聞えよがしな溜息を吐いて、ギャーギャーとやかましい佐川の声を遮った。


「何せ200万も借金抱えとるもんですさかい、節約せんとあかんのですわ。」
「へっ、何だよそれっぽっちでケチケチしやがって、小せぇ野郎だなぁ。」

せめてもの反撃でチクリと皮肉ってやったが、佐川はそれを涼しい笑みで受け流してしまった。


「まあ良い、住むのはお前だ。じゃまあ、取り敢えず家は片付いたって事で、次は職場だ。」
「ようやっと教えてくれるんでっか。随分勿体つけてくれたんやから、さぞかしええとこでっしゃろな。」

懲りずに皮肉ってやると、佐川はいやに愉しそうな、不吉な含み笑いを浮かべた。


「勿論。この蒼天堀・・・、いや、関西で一番の店だ。ついて来い。」

随分大きく出たものだ。
真島は小さく鼻を鳴らし、佐川の後について部屋を出た。















アパートは通り抜けが出来るようになっていて、1階の部屋の横の狭い通路から、蒼天堀のほとりに出る事が出来た。
側で見ると一層汚いそのドブ川を尻目に階段を上がると、毘沙門橋という橋の上に出た。
その橋を渡りきると、右手に一層派手な世界が広がっていた。
まるで街全体がお祭り騒ぎでもしているかのような、ゴテゴテとけばけばしい景色だった。
自分の右側に広がっている、度肝を抜かれるようなその景色に思わず圧倒されていたが、しかしどうやら、目的の『職場』はそっちの方角ではないようだった。


「おい、こっちだ。」

左から佐川に呼ばれ、真島は左側に顔を向けた。
完全に失明している左側は全くの死角なので、こうして呼ばれるまで全然気付かなかったが、そこには大きな建物があった。


「関西No.1大型キャバレー、GRAND・・・・・」

グラマラスな女の絵が描かれた看板を何となく読み上げると、佐川はまた含み笑いを浮かべた。


「そう。看板に偽りなし、見ての通りの関西一デカいキャバレーだ。今日からここがお前の職場だ。」
「はぁ・・・・・・」

正直、肩透かしだった。
てっきり賭場か風俗店か、最悪、薬の取引の隠れ蓑になっているような店に立たされ、佐川や近江の連中の身代わりとなって逮捕→懲役という筋書きなんじゃないだろうかと思っていたからだ。
肩透かしを喰らって拍子抜けすると同時に、真島は内心で大きく安堵していた。
まんまと他所の連中のスケープゴートにされてムショ勤めなんて、嶋野にも冴島にも顔向けが出来ない。
そんな死ぬより辛い生き恥を晒す事にならずに済んで良かったと心の底から安堵しつつ、それを顔には出さないようにして、真島は佐川の後について店に入った。
『グランド』は、確かに大きな店だった。只でさえフロアが広いのに、2階席まである。
この中を安い給料で(下手をすればタダ働き同然かも知れない)走り回らされるのかと思うとウンザリするが、見た感じ、やはり想像していたような危険は無さそうだった。


― しっかし誰もおらんやんけ、この店・・・・・

ただひとつ不可解なのは、人っ子一人見当たらない事だった。
店のドアは開いていたのだから、開店準備中である事は確かな筈なのに、フロアには掃除をするボーイ一人いない。
立派なグランドピアノの置かれたフロア中央のステージにも、リハーサルをするバンドマンの姿もない。


― どうなっとるんや、この店は?

まさか俺がこの店のたった一人の男衆って訳じゃないだろうな、などと考えながら佐川について2階フロアに上がっていくと、佐川はフロアの隅にある目立たないドアを開けた。
そこは事務所のようだった。壁一面のロッカーや帳簿などの詰まった棚に囲まれるようにして、事務机が何台か固めて置かれてある。
その内のひとつに男が一人座っていて、帳簿と睨めっこをしていた。
その男は佐川と真島に気付くと、弾かれるようにして立ち上がり、小走りに迎え出てきた。


「オーナー!おはようございます!」
「よう、木村ちゃん。おはようさん。」

佐川は挨拶もそこそこに、木村というらしいその男の前に、真島をグイと突き出した。


「コイツがこないだ言っといた新しいヤツだ。真島吾朗ってんだ。今日から宜しく頼むよ。」

木村は真島の左目を見てやはり一瞬驚いた顔をしたが、すぐに人の好さそうな笑顔を浮かべて頭を下げた。


「あぁ、どうも、初めまして!この店の店長を任されております、木村と申します!どうぞ宜しくお願い致します!」
「あぁ・・・、真島です、こちらこそ、よろしゅうに・・・・・」

仮にも店長なのに、随分腰の低い男だ。
歳の頃だって同じ位か、何ならこいつの方が少し上な位だろうに、新米のボーイ相手にこんなにペコペコする奴など見た事がない。
不思議に思っていると、次の瞬間、木村の口からとんでもない爆弾発言が飛び出した。


「ようやく新しい支配人さんが来て下さると聞いて、今か今かとお待ちしていたんですよ!」
「・・・はぁ!?」

驚きのあまり、真島は素っ頓狂な程の大声を出した。


「支配人!?アンタ今『支配人』つった!?」
「え?ええ。え?そうなんです、よね?」
「どういう事やねん!?」

木村と真島の視線を一身に浴びた佐川は、憎たらしくすかした笑みを浮かべて肩を竦めてみせた。


「どうもこうも、そういう事だよ真島ちゃん。お前は今日からここの支配人だ。この木村ちゃんに色々習って、しっかり稼げよ。」
「そんな事聞いとらんぞ!!」
「今言っただろうが。」
「〜〜〜っ・・・・!こんのオッサン・・・・!」

思わず口が滑ったが、佐川は真島の事を完全に無視して、木村の方に話し掛けた。


「服、用意しといてくれた?」
「あ、はい、少々お待ちを・・・・・!」

木村はいそいそとロッカーを開けると、ハンガーに掛かった黒いスーツと白いシャツを出してきた。


「どうぞ。サイズは多分合うと思うんですけど・・・・」
「早速着てみろよ、真島ちゃん。」
「はぁ!?ちょっ・・・、何でこんな堅っ苦しいモン着やなあかんねん!?」
「すみません、うちは一応、支配人さんはタキシードって決まってまして・・・・・。」
「手間掛けさすんじゃねぇよ、良いからとっとと着替えろ、ほら!」

佐川は木村の手からひったくったタキシード一式を、真島に押し付けた。


「そこの衝立の向こう、使って下さい。僕もいつもそこで着替えてるんです。
女の子用の更衣室は向こうに別室があるんですけど、男のスタッフ用の更衣室は無いので。」
「あ、あぁ・・・・」

木村に促されるまま部屋の奥へ行くと、衝立の向こう側が休憩所を兼ねた応接スペースのようになっていて、TVやガラステーブル、海老茶色の革張りのソファが置いてあった。


「・・・タキシードて・・・・・」

普通のスーツや礼服とどう違うのだろうか。
夜の色をしたその衣装を暫し眺めてから、真島は仕方なく着替え始めた。


数分後。


「あ!良かったー!ピッタリですね!」

着替えを済ませて出てきた真島を見て、木村は嬉しそうな声を上げた。


「着心地はどうですか?緩かったり苦しかったりしませんか?」
「いや、大丈夫や・・・・」
「じゃあ、このサイズで洗い替えの分ももう一揃い、大至急注文しておきますね!明日・明後日の内には届けて貰えますんで!」
「お、おおきに・・・・」

木村のお人好しな笑顔につい流されて、うっかり礼など言っていると、佐川がニヤつきながら歩み寄ってきた。
思ったよりもまともな店で、思ったよりも良さそうな奴に会って、つい調子が狂ってしまっていたが、真島は一瞬の内に警戒心を取り戻し、佐川を真正面から睨み据えた。


「・・・フン。なかなか似合ってるじゃねぇの。」
「・・・・・・」
「ほれ、仕上げだ。」

差し出されたのは、黒革の眼帯だった。


「土地柄、筋者も良く来るんでな。その位のハクはついてた方がむしろ都合が良いんだが、流石にその醜い傷痕を丸出しってのは良くねぇからな。」

真島は聞こえよがしに鼻を鳴らし、ひったくるようにして眼帯を受け取った。


「・・・・コレでええですか?佐川の叔父貴。」

眼帯で覆った左目を見せつけるように軽く首を傾げて睨み付けてやると、佐川は愉しげに唇の片側を吊り上げた。


「・・・上等だ。」

佐川は真島の頬を掌でピタピタと叩き、喉元の蝶ネクタイの位置を直した。


「お前はたった今からこの『キャバレー グランド』の支配人、堅気の商売人だ。いつまでも極道引き摺ってんじゃねぇ。
俺はテメェの叔父貴でも何でもない、『オーナー様』だって事を忘れんな。」

俺はお前の犬にはならない。
お前に服従などしない。
その意思を込めて、真島は佐川の顔をじっと見据えた。


「・・・・分かりました、佐川『はん』。」

佐川は皮肉めいた笑みを浮かべたまま、真島と対峙していたが、やがて先に踵を返して真島に背を向けた。


「じゃ、あと頼むわ木村ちゃん。」
「は、はい!どうも、お疲れ様でした・・・・!」

木村は殆ど直角になる程腰を折り曲げて佐川を見送ったが、ドアが閉まると身を起こし、真島の方を見て、何だか気が抜けたような溜息を吐いた。


「・・・まぁ、取り敢えず・・・・、ちょっと休憩しませんか?」
「へ・・・・・?」
「どうぞ、そこ座って下さい。」

木村は人の好さそうな笑みを浮かべて、真島に事務椅子を勧めたのだった。

















真島は木村と並んで事務椅子に座り、振舞われた缶コーヒーを黙って飲んでいた。
何を喋って良いのか分からなかったのだ。
チラリと様子を伺うと、木村も途方に暮れたような顔をして、真島を盗み見ていた。


「・・・・何か・・・・、何もご存知なかったみたい、ですね、その様子だと・・・・」
「・・・・そら多分、お互い様やろ・・・・・」
「僕はまぁ、ちょっとは慣れてますんで・・・・。オーナーがああいう人だというのは、分かってますから・・・・」

何だか奥歯に物が挟まったような言い方だった。
缶コーヒーを一口飲んだきり、躊躇いがちに閉じたり開いたりしている木村の口元は、明らかに何か言いたい事や隠している事がある感じだった。


「・・・店長さん、アンタここ長いんか?」
「僕は、2年程です・・・・。」
「ほ〜・・・・・」
「でも・・・・、その間に、支配人は3度替わりました。」
「何やて?」

2年の内に3代も代替わりとは、かなりの頻度である。
別にこの店自体に興味は無いのだが、自分が置かれている状況を知りたくて、真島は更に詳しく聞いてみる事にした。


「どういう事なんやそれは?」
「うーん、まぁ・・・・、平たく言うと、売上が上がらないから・・・、ってとこです。」
「儲かっとらんのか?こんなデカくて目立つ店やのに?」
「それがどうも裏目に出てるみたいで・・・・。こんな一等地にこれだけの敷地で、これだけ豪華な店ですからね、それなりに料金も上げないと採算が取れないんです。
でも、それがお客さんにとっては、やっぱりちょっと高すぎるみたいで・・・・」

大きく儲ける為に金に飽かせて作ったものが、大きすぎたという事なのだろう。
あの鼻持ちならない佐川の失敗だと思うと、腹を抱えて笑ってやりたいところだったが、しかし、その失敗を押し付けられている己の立場を考えると、笑っている場合ではなかった。


「売上が上がらないから、他所に比べるとあまりお給料が出せなくて、従業員も少ないし、続かないんです。
店が広くて重労働だからボーイも長続きしませんし、女の子達にも、お客さんの気を惹けるようにサービスしてやって欲しいなんて言ったら、やってられるかってすぐ辞められちゃいますし・・・・・。
特に女の子不足が深刻なんです。只でさえ客の入りが悪いのに、満足に回せるだけの人数がいないから、余計に客足が遠のいてしまって。」
「そらまた見事なまでの悪循環やのう・・・・」
「そうなんですよ。だから、僕が知っている限りの歴代の支配人さん達も、皆すぐに辞めていかれました。っていうか、飛んだっていうか・・・・」
「飛んだ?」

訊き返すと、木村は気まずそうに真島を見ながら、歯切れの悪い喋り方で話し始めた。


「僕はまだ辛うじて責任は取らされずに済む立場なんですけど、支配人さんはやっぱり、そういう訳にはいかないみたいなので・・・・」

それはそうだろう。責任を負う立場だから、『支配人』という肩書がついているのだ。
だが、都合良くそれを放棄して逃げ出す事を、極道社会でそれなりの地位に就いている佐川がおいそれと許すとはとても思えない。
飛んだというその3人は、今頃きっと。
その連中の末路を何となく想像していると、木村は慌てた顔になった。


「あ、す、すみません、嫌な事言って・・・・・!」
「いや、別に構へん。それよりアンタこそ、そんな事俺にベラベラ喋って大丈夫なんかいな?」
「あ、いや、それが・・・・」

木村は益々決まりが悪そうに口籠り、頭をポリポリと掻いた。


「実は僕も・・・・、もう辞めようかなと思っていまして・・・・・」
「え・・・、そうなんかい・・・・・」
「はい・・・・。何かもう、僕じゃどうしようもないなって・・・・・。
でも、調子良い事を無責任に言って一人だけ一抜けするのも、後味悪いじゃないですか。
だから、うちの現状を、支配人にちゃんと知っておいて頂きたくて。」
「店長さん、アンタ・・・・」

何だか、この男は信用出来る、そんな気がした。


「アンタ、佐川はんの組のモンっちゅう訳やなさそうやな。」
「僕はしがない雇われの身です。あっちの世界とはもう全く無関係で。
そういう支配人こそ、オーナーの組の方や、同じ近江連合の方って訳でもなさそうですよね?」
「ああ。」
「はは、やっぱり・・・・・。何か様子が変だなと思ってたんですよ。」

人の好い顔で笑う木村を見ている内に、ある閃きが真島の頭に浮かんだ。


「・・・・・なぁ、ところで、話全然変わんねんけど、ちょっと訊きたい事があるんやけどな。」
「何ですか?」
「この辺に、『VIP』ってキャバレーがあるやろ?」
「『VIP』?・・・ああ、はいはい、ありますねぇ。このすぐ近くですよ。」
「っしゃっ!」

真島は思わず拳を握った。
この男に協力を求めれば、今なら佐川に知られずに会える。
そう思うと居ても立ってもいられず、真島は椅子ごと木村に思いっきり詰め寄った。


「こっからどう行ったらええか、教えてくれへんやろか!?」
「え?えぇ、良い、ですけど・・・」
「あぁそや、あとこの店の電話番号も教えて欲しいんや!」
「は、はい・・・・・」
「あとすまん!入ったばっかで何やけど、もうちょっとしたら少しだけ抜けさせてくれ!すぐ戻って来るから!」
「はぁ、別に構いませんけど・・・・・」
「あ、それと、これ全部佐川はんには絶対内緒やで!な、頼むわ!」
「え、ええ、分かりました・・・・・。」
「おおきに!!アンタやっぱええ人や!!」

全てをことごとく快諾してくれた木村は、真島にとっては神も同然だった。
















グランドの電話番号を書いたメモと、グランドからの店までの道順を書いたメモを手に、真島は黄昏に染まる蒼天堀の街をひた走った。
いつもが出掛けて行く時間から考えると、そろそろ店に出勤している頃だった。
場所もグランドから本当に近く、真島は無事、迷う事なくの勤めるキャバレー『VIP』に辿り着いた。


「いらっしゃいませ。」

入口のドアを躊躇いなく開け放つと、真島と同じような黒服を着込んだフロントマンが、にこやかに応対に出てきた。


「大変申し訳ございませんが、只今準備中でございまして。
開店時刻は夜7時となっております。恐れ入りますが、もう暫くお待ちを・・」
「えらいすんまへん!客やないんですわ!」
「はぁ?」

客ではないと分かると、フロントマンは明らかに怪訝な顔で真島を見た。
しかし、そんな事は全く気にならなかった。
誰からどんな風に見られようが、どうでも良い。今の真島の頭の中は、の事でいっぱいだった。


「ここにちゃんって娘おるやろ!?」
「はぁ・・・、それが何か?」
「取り次いで貰いたいんや!もう来とるか!?」
「失礼ですが、どちら様で?」
「真島っちゅうモンや!」
「少々お待ちを。確認して参ります。」

必死で頼み込むと、フロントマンは益々怪訝な顔をしながらも、真島をその場に残して店の奥へと引っ込んで行った。
真島は一人、が来るのをソワソワと待った。
だが、少しして戻ってきたのはフロントマン一人だった。


「すみません。さんは、今日はまだ出勤していないようですね。」
「・・・・・そうでっか・・・・・」

落胆したが、覚悟はしていた事だった。
何しろ、黙って消えたのは真島の方なのだ。
驚いて心配したが、店を遅刻したり休んででも探し回ってくれている可能性は十分に考えられた。


「そやったら、伝言頼めまっか!?」
「はぁ、何でしょう?」
「真島が、ここの電話番号にすぐ電話してくれと言うとったって・・ちゃんに伝えて欲しいんや!何時でも構へんからって!頼むわ!」

深々と頭を下げてメモを差し出すと、フロントマンはそれを受け取った。


「畏まりました。必ずお伝え致します。」
「おおきに!頼んまっせ!」

ダメ押しに拝み倒して、真島は後ろ髪を引かれつつ、の店を後にした。
出来る事なら、店の前に張り付いてが来るのを待っていたい。
しかし、それをすれば営業妨害と思われてトラブルになるだろうし、あの人の好いグランドの店長にも迷惑を掛けてしまう事になる。
伝えるべき事は伝えたのだし、後はずっとグランドにいれば、その内必ずから連絡がある。
そう自分に言い聞かせて、真島はグランドへと戻って行った。

















木村から聞かされた通り、グランドはその立派な外観に反して、吃驚する位客の入りが悪かった。
最初の内は、これならいつから連絡が来てもすぐに抜け出せると喜んでいたのだが、結果としてそれは大きな思い違いとなった。

― 電話、とうとう無かったな・・・・・

ふと顔を上げて時計を見ると、ようやく朝の7時を回ったところだった。
店はとっくに閉店していて、店長の木村を含めた数少ないスタッフやホステス達は皆、既に何時間も前に帰っている。
だが真島は一人、この事務所に居残ってまんじりともせずに夜を明かし、からの電話を待っていた。
しかし結局、電話は遂に無かった。
ろくにする事もないまま、只々電話を待つだけの長い長い夜は、じわじわと責められる拷問のような時間だった。


「何でや、・・・・・・」

店には昨夜、暇に飽かせて何度も電話を入れた。
念の為に自宅にも電話をした。
だがは店を休み、電話をした時点ではまだ家にも帰っていなかった。
勿論、店にも家にもそれぞれ伝言を頼んでいる。
それなのに、何故は連絡をくれないのだろうか。


「っ・・・・・!」

今なら家にいるだろうか、もう一度かけてみようか。
そう考えて思わず受話器を取り上げたが、朝の7時という時間帯を考えると、プッシュボタンを押す指が止まった。
の家には、他に家族が何人も一緒に住んでいる。
幾ら早く会いたくて気が逸っているからと言っても、電話をかけるには常識というものを弁える必要があった。


「・・・・・・・・・・・」

頭も身体も、もうくたびれ果てていた。
受話器を置いた途端に、急にその限界が来たようになって、真島はぐったりと机に突っ伏した。
そしてそのまま、気絶するように眠り込んだ。
環境的にも心境的にも、とても安眠出来るような状態ではなかったのだが、それでもそれなりに眠っていたらしく、目を覚ました時にはもう昼になるところだった。
すぐさまの家に電話を入れたが、何度かけても誰も出なかった。
真島は一度店を出て、再びの店へ向かった。
真昼間のキャバレーへ行ったところで恐らく誰もいないだろうとは思っていたが、もしかしたら支配人か誰かがいて、の事を聞けるかも知れないという一縷の希望に縋らずにはいられなかったのだ。
しかしその希望も、僅か数分で敢え無く潰えてしまった。
店のドアは入口も通用口もがっちりとロックが掛かっていて、何度インターホンを鳴らしても、応答は無かった。
途中、公衆電話からまた何度かの家へ電話をしたが、やはり誰も出る事はなかった。


― のどアホ!お前どこで何しとんねん!?

会いたさと恋しさが募りすぎて、次第に焦りや苛立ちへと変わってきていた。
会って顔を見たら、ギャンギャン喚き散らして大喧嘩してしまう自信があった。
しかし、それはきっとお互い様だろう。会って顔を見たら、喚かれるどころかブン殴られるような気がする。


― のアホ!バカ!おたんこなす!チンチクリン!

心の内でに対して悪口雑言の限りを尽くしながら通りを歩いていると、向こうから歩いてくる数人のチンピラが、明らかに因縁をつけたそうな顔で真島に近付いて来た。


「おうコラそこの眼帯!ワレどこの組のモンじゃあ!?」
「人のシマでイキッて歩いとんとちゃうぞー!?」

こんなカスを相手にしている暇は無いと分かってはいるが、絡まれた瞬間、ガソリンに引火するが如く、やり場のなかった苛立ちが一瞬で爆発してしまった。


「・・・じゃかあしゃーっ!!」

真島は一番近くにいた奴の横っ面を、渾身の力を込めた拳でぶち抜いた。


「う・・・うへぇっ!?ぐぇぇぇっ・・・・・!」
「ひっ、ひえぇっ、ひえぇぇっ・・・・・!ぶべっ!!」

そのまま次の奴の鳩尾を突き上げ、逃げようとした奴の襟首を掴んで地べたに引きずり倒し、顔面を力任せに踏み潰した。


「・・・・・・・・・」

久しぶりの喧嘩だったのに、文字通り、瞬殺だった。
相手が弱すぎたせいもあるし、今は喧嘩を楽しめる心境でもないのだが、それにしても本当に全く楽しくなかった。
とはいえ、と大喧嘩するのに使われる予定だったガソリンがこれで幾らか減った気がしたので、そういった観点から見れば、有意義な喧嘩ではあった。
血祭りに上げたチンピラ達に一瞥をくれて、真島はまた歩き出した。


― どこにおんねん、・・・・・・

喧嘩でも何でも構わない。
何でも良いから、早くに会って、この腕に抱きしめたかった。




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後書き

グランドの中に入る機会って少ないですよね。一度出たらもう二度と戻れなかったりして。
初プレイ時に「えー!?もう入られへんの!?」と思ったので、2周目やった時はじっくりゆっくり、店中を無意味に歩き回りました(笑)。
サンシャインのように出入り自由だと良いのになー。