檻の犬と籠の鳥 9




「はぁ、重た・・・・・・・!」

ずっしりと重い買い物袋を抱えて、はいつもの道を急いでいた。
きっと真島は腹を空かせて待っているだろう。
今頃、煙草ばっかりバカスカ吸いながらソワソワと貧乏ゆすりでもしていて、人の顔を見るなり、『おっそいやんけ!』とか何とか喚くに違いない。
その様子が目に浮かんで、思わず苦笑いを零しながら歩いていると、通い慣れたマンションが見えてきた。
土地柄、マンションの周りにはいつも浮浪者のような小汚い連中がうろついているが、それにももう慣れた。は気にせずその横をさっさとすり抜け、マンションに入った。
エレベーターで3Fまで上がり、302号室のチャイムを1度鳴らしてから、自分でドアの鍵を開ける。いつの間にかすっかり染み付いてしまった習慣だ。
もう随分前に鍵を真島に渡そうとしたのだが、別に行く所も金も無いから自分が一人で家を出る事はないし、万が一それが佐川に知れたらきっと色々厄介だからと断られていた。

改めて思い返してみれば、ひっちゃかめっちゃかの、嵐のような日々だった。
この部屋で初めて出会った時のあの恐怖といったらなかったし、初めてあの刺青を見た時の衝撃も忘れられない。
泊まり込みでの看病も、夜のキャバレー勤めと両立しての家事労働も、それはもう大変だった。
でも、楽しかった。
その日々はもうすぐ終わろうとしているが、しかし、代わりにまた違う日々が待っている。
真島と二人で力を合わせて、生きていく日々が。
たったの一月なんかでは終わらない、もっとずっと長く続く、幸せな日々が。
すぐ目の前にあるその幸福に胸を温めながら、は元気良く玄関のドアを開けた。


「おは・・」

いつものように大きな声で呼びかけようとしたその瞬間、玄関に真島の物ではない男物の革靴があるのに気が付いた。
その靴の持ち主は一人しか心当たりがない。の背筋を冷たい悪寒が駆け上った。
まさか、嘘がバレたのだろうか?
だが、仮にバレたとしても、彼の不利益になるような事は何もしていない。
大丈夫、きっと大丈夫だと自分を励まし、は部屋の中に入って行った。


「よう、おはようさん。」

案の定、部屋の中には佐川がいた。
ダイニングテーブルの椅子に腰掛けてTVを観ていた佐川は、を振り返って、いつものあの涼やかな笑みを見せた。


「おはようございます。いらしてたんですか、佐川さん。」

愛想笑いを浮かべて応対しながら、は必死で真島の姿や気配を探した。


「珍しいですねぇ。ここで会うの、初めてちゃいます?」
「だね。つーか、何か随分重そうな買い物袋だね。何買って来たの?」
「ああ、これですか?食材です。」

この場に真島はいなかった。
ベランダにも姿は見えないし、隣の部屋にいる気配もない。引き戸も全開になっていて、隠されている感じもしない。
トイレや風呂の水音も聞こえない。
この狭い部屋の中、もしもいるなら確実に分かるのに、どういう訳か何処にも真島の気配が無かった。


「どれどれ?キャベツに青ネギ、小麦粉、豚肉、イカ、紅ショウガに揚げ玉、ソース・・・・、あ、分かった。お好み焼きだろ?」

佐川はの胸中など知る由もなさそうに、呑気に買い物袋を覗き込んで得意げな笑みを浮かべた。


「ふふっ、正解です。」
「ここで作んの?お好み焼きを?」
「ええ。」
「へ〜え!家で作れんだぁ、お好み焼きって!てっきり店で食うもんだとばかり思ってたよ!」
「そらお店の鉄板で焼いたやつが美味しいですけどね、家のホットプレートやフライパンでも十分美味しく出来るんですよ。
家庭ごとに具や味が違ってたりして、結構奥が深いんです。」
「ふ〜ん、そうなんだぁ。ちゃんのお好み焼き、一度食べてみてぇなぁ。」
「もし今お時間があったら、是非食べていって下さい。すぐ用意しますから。」

ヘラヘラ笑ってこんな話をしている場合じゃない。
真島はどうしたのか訊きたいのに、訊ける雰囲気にならないのが歯痒い。
嫌な予感が動悸のように心臓を打ち鳴らし、次第に息が苦しくなってくる。
それを誤魔化し誤魔化し、は笑顔を張り付けたままエプロンを着け、髪をひとつに束ねた。


「しかし昼間のちゃんって、夜とはまた雰囲気違うねぇ。」
「そうですか?」

手を洗う素振りで佐川から逃れて、は曖昧に微笑んだ。


「何かさ、そんな格好してると若奥さんみてぇだな。」
「ふふっ、そうですか?」
「うん、ホントホント。すっかり様になってるよ。相当楽しかったみたいだもんね、真島ちゃんとの新婚ごっこ。」

一瞬、呼吸が止まった。


「・・・・何の事ですか?」
「へへっ、またまたぁ〜。照れなくったって良いじゃ〜ん!」
「何の事か、私にはさっぱり・・・」
「そりゃちょっと無理があるんじゃねぇの?ベッドの所に堂々とゴム置きっぱなしにしといてさぁ。」
「っ・・・・!」

顔がカッと熱くなるのが、自分でも分かった。
だが、事実は事実で、否定のしようがなかった。
たとえしらを切ったところで、隣の部屋をもう一度覗けばすぐに分かる事なのだから。


「聞いてるよ。いつも二人で仲良く連れ立って、近くのスーパーに買い物に行ってたって。アツアツの新婚夫婦以外の何物にも見えなかったってよ。」
「・・・・聞いてるって・・・・、誰にですか・・・・?」

佐川の口ぶりは、まるで第三者からの報告を聞いたかのようだった。
だがそんな心当たりは、には無かった。


「アイツはあれでも一応、人からの預かりものだからね。勝手に逃げられたりしちゃあ困るんだよ。だから見張りをつけてる。」
「見張・・り・・・・・」

その言葉に恐怖すると共に、は頭の中で必死にそれらしい者を探し始めた。
このマンションの住人か、いつものスーパーの店員か、よくたこ焼きを買うあの公園近くの駄菓子屋のおばちゃんか、それとも、公園で飲んだくれているような酔っ払いや浮浪者か。
そこまで考えて、は小さく息を呑んだ。


「・・・・まさか・・・・、表によういてる人ら、あれまさか・・・・!」

いつも所在なげに表をうろついている連中の存在を思い出し、はベランダに走り出た。
下を覗き込んでみると、さっきいた老人がまだマンションの側に立っていて、に気付いて見上げてきた。
いつもは目が合うと先に逸らすのに、今はじっとを見つめている。
気味が悪くて、は部屋の中に逃げ戻り、サッシをピシャリと閉めて鍵を掛けた。
心臓が早鐘を打ち、冷や汗が噴き出てくる。
それを必死で隠そうとしているに、佐川は優しい微笑みを向け、TVの電源を切った。
その途端、張り詰めたような緊張感が、静けさと共に一気に部屋の中に満ちた。


「殆ど毎日通ってたんだってね。最初の1週間は泊まり込みまでしてた。そんだけ自分に負担が掛かって、取り分も減るってのにさ。
やっぱり最初の印象通り、情が深い娘だね。そんなにアイツに惚れちゃった?」

もはや隠す意味もない、隠せてもいないのに、それでもは頑なに口を噤んだ。
この人に喋ったら何もかも終わりだと、そんな気がして。
にしてみれば必死の抵抗だったが、しかし佐川はそれを楽しげな声で笑い飛ばした。


「はははっ!そんな怖がらないでよ〜!別に俺、怒ってねぇよ?アイツとネンゴロになるななんて言った覚えねぇし。
つーかむしろ、君さえ良いんなら寝るなり何なり好きにして良いよとまで言ってたと思うんだけど。」
「・・・・あの人は・・・・?」

は震える唇をどうにか励まして、やっとの思いで声を絞り出した。


「うん?」
「あの人・・・・、どこへやったんですか・・・・?」
「どこへやったって・・・、あれ、何かもしかして俺、悪者になっちゃってる?」
「あの人はどこ・・・・!?あの人に会わせて下さい・・・・!」

嫌な想像が、次から次へと脳裏に浮かび上がってきた。
また何処かに閉じ込められて、暴行されているのではないか。
指か、腕か、足か、或いはもう片方の目をも、失くしてしまっているのではないか。
考えたくもないのに頭が勝手にそんな事を考えて、崩れ落ちてしまいそうな恐怖に縛られた。


「悪いが、それは出来ねぇ。」

しかし佐川は、の必死の懇願を冷たく拒絶した。
その瞬間、は自分でも驚く位の憤りを感じた。


「何でですか!?あの人はもう堅気なんでしょ!?じゃあもう関係無いやないですか!
お金は全額お返しします、そやから私らの事はもうほっといて下さい!」
「そうはいかねぇよ。アイツはこれから俺の下で働かせるんだから。」
「働かせるって、何させる気ですか・・・・、あの人に一体何させる気ですか!?」

真島がこの佐川に殺されてしまうような気さえしてきて、は必死の形相で佐川に詰め寄った。
すると佐川は、流石に幾らか気を悪くしたように眉を潜めた。


「そんな言い方しないでよ、人聞き悪ぃなぁ。堅気のちゃんとした商売に決まってんだろ?何せ今のアイツは『堅気』なんだから。」
「商売って何ですか!?教えて下さい!」
「何って、客商売に決まってんじゃん、飲食関係のね。」
「え・・・・!?」
「俺ねぇ、レストランやキャバレーなんかの飲食店を色々経営してんの。知らなかった?」

言われてみれば、店のホステス達がそんなような事を話していた覚えがある。
ならば、その話はひとまず嘘ではないという事なのだろう。
だが、佐川があくまでも極道である以上、決して安心は出来なかった。


「アイツには全くその気が無ぇ。けど、こっちとしてはやって貰わなきゃあ困る。
預かりものとはいえ、何の役にも立たねぇ駄犬を客扱いして無駄飯食わせる訳にはいかねぇんでな。
アイツは今が大事な時だ。これ以上、新婚ごっこにうつつを抜かして骨抜きになられちゃあ困る。
それに、これ以上君と関わらせていると、どうも危なっかしくてね。」
「・・・どういう・・・・意味ですか・・・・・?」

が尋ねると、佐川は呆れたように溜息を吐きながら、をまじまじと見つめた。


「どうもこうも、その言いよう、その食って掛かりよう・・・・、ホント危なっかしいよ。
このままほっといたらあの野郎、そのうち君とどっかに消えちまいそうでさ。」

何もかもを見透かしているかのようなその言葉に、また背筋が寒くなった。
すると佐川は、また得意げに口の端を吊り上げた。


「・・・やっぱ図星なんだ。ねぇちゃん、俺が頼んだ2つの事、覚えてる?」
「・・・・死なさず・・・・逃がさず・・・・」

勿論、覚えている。
呟くように答えると、佐川はわざとらしく拍手をした。


「そう。よく出来ました。ちゃんと覚えてんじゃない。えらいえらい。」

佐川の前では、はまるで子供同然だった。
しかしそれでも、は必死だった。


「逃げるつもりなんてありません!ちゃんと居所はお知らせします!
定期的に連絡したり顔を見せろというなら、それもします!だけどあの人の事はもうほっといてあげて下さい!
あの人を堅気にしたんは、あの人の親分さんなんでしょう!?じゃあもうホンマに堅気にしたって下さいお願いします!」

自分の気持ちを、真島への想いを、どうにか佐川に分かって欲しい。認めて欲しい。
その一念で、は佐川の足元に平伏し、頭を床に擦り付けた。


「何の真似だよ、ちゃん。」

怒っているような厳しい声が、の頭の上に降ってきた。
これ以上重ねて言えば、多分、もっと怒らせる事になるのだろう。
だが、それでも構わない。
は捨て身の覚悟で、頭を伏せたまま静かに口を開いた。


「・・・・失礼を承知で言います。もうこれ以上あの人に関わらんといて下さい。
私、あの人にはこのままホンマに堅気になって欲しいと思ってるんです。
いっぱい傷付いて、片目まで失くしてしもて、もうあんな酷い目に遭って欲しくないんです・・・・、そやから・・・」

ずっと堪えていた涙がこみ上げてきそうになったその時、おもむろに佐川がの前にしゃがみ込み、やんわりとの頭を上げさせた。


「結構色々知ってるみたいだねぇ・・・、思ってたよりもさ。
あの野郎、意外とお喋りなんだな。それとも、君だから口を滑らせたのかな?」

ぼやけて滲んでいる佐川の顔からは、さっきまでの茶化したような笑みが消えていた。
何も言えずにただその顔を見つめていると、佐川は優しくの腕を取って立ち上がらせ、ハンカチを差し出してきた。
はそれを受け取らず、自分の手の甲で滲んだ涙を拭った。
すると佐川は小さく溜息を吐き、ハンカチをスラックスのポケットにしまい込んだ。


「君の気持ちは分かるよ。けど、肝心のアイツはそれを望んでるのかな?」

佐川はから少し離れて、煙草を咥えて火を点けた。


「俺もアイツの親にチラッと聞いただけだけどよ、アイツはテメェの兄弟分の為に、東城会でのし上がりてぇんだとよ。その為だけに生きてるようなもんなんだって。」
「・・・・どういう・・・・事ですか・・・・?」
「組織の大物を殺りゃあ、そいつも一躍大物だ。周りの見る目や扱いも天と地程も変わる。基本、下克上だからね、極道の世界ってのは。」

聞いた覚えのない話だった。
ようやく事情を打ち明けてくれたあの時にはもうとっくに、真島は償いの方法を決めていたというのだろうか。
組織の中でのし上がって大物になり、冴島の為の手柄首となろうと。
あくまでも、極道として償おうと。


「けど、バカだよなぁアイツも。百歩譲ってアイツが東城会でのし上がれたとしてもさ、肝心のアイツの兄弟分が、アイツのタマ取りに来る事なんて金輪際ないのにさ。」
「え・・・・!?ど、どういう事ですか、それは・・・・!?」
「だってアイツの兄弟分がやらかしたのって、殺しだぜ?それも18人も。」

その言葉に、は思わず目を見開いた。


「あれ?知らなかった?そっか・・・・、そこまでは聞いてなかったんだ。」
「・・・・何が・・・・あったんですか・・・・?何でその人は、そんな事・・・・」
「去年の4月に東京で起きた上野誠和会襲撃事件っての、知らねぇ?
組長と組員合わせて18人が、ラーメン屋で襲撃されて射殺されたってやつ。結構全国的に騒がれたんだけど。」

そういう事なら多分、TVのニュースなどでチラッと見たりはしたのだろうが、の記憶には残っていなかった。


「まだ名も通ってねぇ一介の若衆がたった一人でそれだけの事をやらかしたってんで、うちの方でも随分騒いでたけどさ、まぁ詳しいところは俺も知らねぇよ。何せこちとら代紋違いだからな。
けど、その上野誠和会ってとこは、アイツらんとこと敵対関係にある組織だから、その頭のタマ取りゃあ手柄になる。まあ多分、そんなところだったんだろうよ。
でもアイツは行かせて貰えず、アイツの兄弟はたった一人で18人もの極道を殺した。
幾ら何でもそんだけ殺りゃあ、まずシャバには出て来れねぇだろうよ。普通に考えりゃ死刑、最高に良くて無期懲ってとこだな。」

何と言えば良いのか分からなかった。
真島の言っていた『大仕事』というのが、世間的には良くない事、恐らく何らかの犯罪であろうとは薄々分かっていたが、そんな大事件だったとは全く想像もしていなかった。
そして、彼の兄弟分の事も。
何も知らずに好き勝手な事を言い、独りよがりな夢を語ってしまった自分のめでたさが、泣きたくなる程腹立たしかった。


「・・・・これで分かっただろ?」

俯いて唇を噛んでいると、佐川は紫煙を吐き出すと共に、侘しい声でそう呟いた。


「君が思う程、極道の世界ってのは、簡単に出たり入ったり出来る処じゃないんだよ。
それに、そこで生きてる男にもそれなりの意地がある。それは堅気の女には分かりっこねぇ事だ。
君には酷な事を言うようだけど、アイツは極道を辞める気なんてきっと無ぇよ?
俺も何度か経験あるんだけどさぁ、足洗ってくれって女に言われた事。でもあれ、ヤイヤイ言われる男の方は結構ヤなもんだよ。
だってさ、お前に俺の何が分かるって話だろ?
何度か寝たってだけで、知った顔してこれまでの俺の生き様を否定する権利が、お前にあんのかって話だろ?」

佐川のその言葉に胸を深く貫かれ、は思わず顔を跳ね上げた。
まるで真島に言われたような、そんな気がして。
私は彼の何を知っていたのだろう、何を知ったつもりになっていたのだろう。
そんな自問に答える事が出来なくて、は呆然とした。


「アイツに惚れるのは君の勝手だけど、じゃあ君の家族はどうなる?お袋さんの借金はどうすんの?まだ幼い弟や妹の面倒は?」

何故、佐川がそんな事を知っているのだろう?
知られている筈のない事を知られている恐怖に、は凍りついた。


「な・・・・、何でそんな事・・・・!?」
「悪いけど、君の事が気になって、ちょっと調べさせて貰ったんだ。
まだそんなに若いのに、随分苦労しているみたいだね。お袋さんや弟妹も実に不憫だ。」

別に声を荒げられた訳じゃない。
手を上げられた訳でも、襲われそうになっている訳でもない。
なのに、この身動きひとつ取れないような恐怖は何なのだろう。


「アイツの心の支えは、元々他にいる。
だけど君の家族の支えは、君しかいない。君の家族は、君がいないと生きていけない。
その大事な家族を捨ててまで、テメェの兄弟分の事しか眼中にないあの野郎に、報われないのを承知で只々ひたすら尽くす道を、本当に選ぶ気かい?」

目の前にいる優しげなこの紳士が、心の底から怖いと思った。
この時初めて、はそう思った。


「・・・俺なら、君の全てを引き受けてあげられるよ。」

佐川は煙草を灰皿に押し付けると、立ち尽くしているの肩をそっと抱いた。


「君のこの細い肩に圧し掛かっているもの、何もかも全部ね。」

この先に起こり得る事態を分かっていながらも、動く事が出来なかった。
自分の意思に反してそうなってしまう事を、は絶望の内に覚悟した。
しかし佐川はの肩をスルリとひと撫でしただけで、から離れて寝室へ入って行った。


「・・・・ああ、俺だ。例のお客は?・・・・ん、そうか。じゃあ繋いでくれ。」

程なくして、佐川が誰かと電話をしている声が聞こえてきた。
何なのだろうと思っていると、佐川がひょっこりと顔を出して手招きをした。


ちゃん、こっちへおいで。」

もしかしたら、電話の相手は真島かも知れない。
息が詰まるような不安と緊張を感じながらも、は呼ばれるままに寝室へ入った。
寝室に入ると、すぐに佐川が受話器を差し出してきた。話せという事だ。
相手はやっぱり真島なのだろうか。無事なのだろうか。
は震える手で受話器を受け取り、耳に押し当てた。


「・・・・もしもし・・・・?」

痛めつけられてボロボロになった、苦しげな真島の声が聞こえてくる事を、内心で覚悟していた。
そして、これ以上真島を足抜けさせようとする気なら、真島を殺すと脅される覚悟も。


『もしもし?ああ、!』

だが、電話の向こうから聞こえてきたのは、よくよく知っている女の声、の母親の声だった。


「お・・・・、お母ちゃん!?」

それだけでも十二分に驚くべき事なのに、その喋り方も、およそこの状況に合っていなかった。
全くもって普通な感じの、何ならむしろ機嫌が良いとさえ思えるような、そんな呑気な口調だったのだ。
とても監禁されて脅されているような雰囲気ではない。これはどういう事なのだろうか。


「お母ちゃん、今どこにおんの!?大丈夫!?」

状況が分からなさすぎてパニックになりながら、は電話に詰め寄るようにして喋った。


『キタの何ちゃらっちゅう綺麗なビルの中の、どえらい高そうなレストランや。
大丈夫って、大丈夫に決まってるやん。ご飯よばれてるだけやねんから。』
「な・・・何で!?誰に!?」
『あんたのバイトの雇い主さんやん。あのほら、例のペットの世話の。アレの飼い主の、佐川さんて人。』
「えぇっ・・・・!?」

思わず佐川に目を向けると、佐川は微かに口の端を吊り上げて、小さく肩を竦めてみせた。


『さっきあんたが出掛けて行った後、家にその人から電話があってな。
もうバイトの契約は終了するんやけど、あんたにはえらい世話になったから是非お礼がしたいって。
せやけどあんた、それ辞退したんやろ?でもそれじゃあどうしても気が済まんから、良かったら私らに食事でも言うて。』
「私らって・・・・、待って、そこに皆おんの!?」
『おるよぉ。だって家族全員で招待されたもん。是非にって。
最初は半信半疑やってんけどなぁ、そっから30分程で、ホンマに迎えが来たんや。それもごっつい高そうな車で!ほんで連れて来られたんがここやねん。』

には全く身に覚えの無い話だった。
だがどうであれ、今、の家族は全員、佐川の手の内にある。
電話の向こうからは、母親の声の他に、弟と妹の楽しそうな声までが確かに聞こえてきていた。


『・・・・、あんた何かお母ちゃんに隠してるやろ。』

呆然としていると、の母親は声を潜めて、問い質すようにそう訊いてきた。


『なんぼ割の良いバイトにしたかて、やけに張り切りすぎてたし、店もちょいちょい早退して帰って来ちゃあ、朝早うから起きて出掛けて行くようになったし。
そもそもあの桁違いのバイト代からして、何かおかしいなと思っとったんや。』
「・・・・お母ちゃん、私・・」
『ええ。別に聞きとうない。どうせもう今更遅いんやろ。』

真島の事を、もっと早くに打ち明けていれば良かった。
だが、今更そんな後悔をしても、もう遅かった。


『お母ちゃんがとやかく言えた事やないのは分かってるわ。大体、そもそも全部お母ちゃんのせいやねんからな。
お母ちゃんがこんな人生なばっかりに、あんたには散々苦労かけてしもた。
ホンマやったら今頃、前に勤めとった会社で社内恋愛でもして、結婚話でも出てたかてええ頃やったのに、嫁入りどころかお妾さんやなんて、ホンマに自分が情けないわ。
せやけどな、敢えて反対せぇへん理由は、それだけやないんやで。』
「・・・・え・・・・?」
『愛だの情だの、そんなモンはすぐに冷める。人生、結局のところはお金や。』
「お母ちゃん・・・・!」

本当にもう、遅かった。


『お金の事さえちゃんとして貰えるんやったら、あの人に面倒みて貰うのもあながち悪い話とちゃうわ。
このままダラダラ水商売続けて身体壊すよりは、なんぼかマシや。
あの佐川さんて人、何とかグループの会長やて名乗ってたし、このごっついレストランも自分とこの店やねんて。えらい羽振りのええ人やんか。
それに、わざわざ私らを出迎えて、自分で席にまで案内してくれはってな。
私らにまでこんな気ィ遣こてくれる人やねんから、きっとあんたの事大事にしてくれるやろ。
金の無いろくでなしに尽くしてバカ見たお母ちゃんと同じ人生、あんたまで歩む事ない。
それにあんた、その人と付き合うてる内にうまい事いったら、玉の輿に乗るかもしらんやんか!そしたらもう万々歳やん!
歳はそら離れすぎやけど、その分お金持ってはるし、見た目も歳の割にシュッとしてて男前やしなぁ!』

真島との恋は、その存在すら認めて貰えないまま、人知れず流れていってしまった。
言い様のない喪失感に打ちひしがれて、はもうこれ以上、何も喋る気も、聞く気もなくなった。


「・・・・分かった・・・・、もう切るで・・・・・」
『あんたも今からこっち来たら?料理めっちゃ豪華で美味しいで!
部屋もここ貴賓室やねんて!お母ちゃんこんな凄いとこ初めて来たわ〜!
あんたも今からでも遅ないし、おいでぇや!場所はな、えーとなぁ・・』
「いい。食べ終わったら、ようお礼言うて帰って。」

電話を切ると、不意に佐川がの髪を撫でた。
その手を払い除ける気力さえも、もう湧いてこなかった。


「・・・・卑怯です・・・・、佐川さん・・・・・」
「卑怯?何でよ?」
「私の家族を・・・・・、人質に取って・・・・・」

力なく呟くと、佐川は溜息を吐いた。


「・・・そんなつもりじゃないんだけど。俺、これでも結構マジで君に惚れてるんだけどなぁ?じゃなきゃこんなめんどくさい事しないよ?」
「・・・・そんな事・・・・、信用出来ません・・・・」

顔を背けると、佐川の手から逃れ出る事が出来た。
すると佐川は諦めたようにから離れて、ベッドに腰を下ろした。


「・・・まあ、それならそれでも別に良いけどさ。
あーっと、頼むから泣かないでよ?俺さぁ、女に泣かれんの嫌いなんだよね〜。どんなに可愛い子でもさぁ、メソメソビービー泣かれっとさぁ、だんだんイライラしてきちゃうの。
ヒステリーなんか起こされたらもう最悪だね。百年の恋も冷めちまう。
だから俺、女は泣かさない主義なんだよ。決して怒らず、殴らず、嫌がる事は無理強いせず、ってね。」

佐川は形の良い唇に余裕の笑みを浮かべると、に向かって指を指した。


「決めるのはちゃんだよ。自分で決めて、その選択の結果を自分で受け入れるんだ。
真島を取るんなら、今すぐここを出て、奴を捜しに行けば良い。
勿論、邪魔なんかしないよ。協力もしないけど。」

行けば良いと言われても、何処にいるのか皆目見当もつかないのに、どうやって捜せというのだろうか。
真島の居所を知る為の唯一の手掛かりはこの佐川だけなのに、どうして彼から離れられるだろうか。


「でも、俺の女になるってんなら、君も君の家族も、全部俺が面倒をみてあげる。
それに、真島とも折を見て必ず会わせてやる。」

家族も、真島も、大切なものは全てこの人が握っている。
その上でこんな選択肢を突きつけるなんて、この人は何と残酷な人なのだろう。
極道は皆こうなのだろうか。
真島もこんな風にして、決断を迫られたのだろうか。
彼に聞かされた話を思い出して、は真島の事を想った。


「・・・・折って・・・・、いつですか・・・・?」
「そうさねぇ・・・・、君がいい子にしていて、アイツがちゃんと俺の犬になったら・・・・、ってとこかな?」

自分はこの人に従う事が出来る。
しかし真島は、あの誇り高い男は、それが出来るだろうか。


「全ては君次第だよ、ちゃん。君が俺の籠の鳥になる覚悟が出来るかどうかだ。
もしも出来るというのなら、今ここで、自分で服を脱げ。」

自分はこの人の籠の鳥にでも、足元に跪く犬にでもなれる。
けれどあの人には、それが出来るだろうか。


「・・・・本当に、家族の面倒まで・・・・みてくれるんですか・・・・?」
「ああ。お袋さんの借金もすぐに肩代わりしてやるし、ちゃんと君に月々のお手当もやるよ。キャバレーのホステスなんかしなくても、家族全員食わせていけるだけの十分な額をね。
弟や妹の学費も出すし、家を飛び出した上の弟の居所も調べてあげよう。」

いつかあの人に、また会えるだろうか。
いつか会って、謝る事が出来るだろうか。
自分と自分の家族の為に、あの人を切り捨ててしまった事を。
あの人にとって絶対に幸せな筈だと考えていた事は、結局は自分だけの幸せにしか過ぎず、本当はあの人の事など何も考えていなかったのだという事を。
初めは自分が何もかもを捨てる気でいた筈なのに、いつの間にかあの人に何もかもを捨てさせようとしていた事を。


「・・・・本当に・・・・、あの人に会わせてくれるんですか・・・・?」
「必ず会わせる。約束する。」

いつかあの人に会って、ありがとうと言えるだろうか。
きっとあの人の心を無神経に傷付けただろうに、笑って聞いて、調子を合わせてくれた事を。
嘘が大嫌いと言った癖に、その嘘を吐いてまで、傷付けまいとしてくれた事を。

そんな優しい嘘を吐く位、愛してくれた事を。


「あの人を絶対に・・・・、危ない目には遭わせないんですね・・・・?
ちゃんとした堅気の飲食店の仕事って、それ、本当に信用して良いんですね・・・・?」
「俺、嘘は大嫌いなんだ。吐くのも、吐かれるのもね。」

男の言う『嘘は大嫌いだ』という言葉は、もう金輪際信用しない。
そう心に決めて、は寝室の引き戸を閉め、カーテンを引いた。
薄闇になった部屋の中で、は髪を解き、服を脱いでいった。
ベッドに腰掛けてじっと見つめてくる佐川の目をまっすぐ見つめ返し、彼の言った、自分の選択の結果を自分で受け入れるんだという言葉を噛みしめながら。


「全部だよ。」

下着姿になったところで一度手を止めると、佐川は容赦なくそう命じた。


「・・・・もしも・・・・、どれかひとつでも嘘を吐いたら・・・・」

佐川の目の前で、残った僅かばかりの薄布を取り払いながら、は真島の顔を思い浮かべた。


「吐いたら?」

今なら、兄弟を裏切ったと言い切った彼の気持ちが分かる。
彼もきっと、『結果』を受け入れていたのだろう。


「私・・・・、貴方の事・・・・、殺しますから。」

も今、それを受け入れていた。
自分の気持ちがどうであれ結果は結果、それが変わる事は決して無い。
たとえ身を引き裂かれんばかりの思いでいたとしても、相手にとっては『裏切られた』という事実ひとつしか残らない。
真島にとって、という女はもはや、簡単に別の男に鞍替えした最低の女でしかない。
そんな女に、悲劇のヒロインになる資格はなかった。


「・・・・・やっぱり、反応が新鮮だ。そういうとこに惚れたんだ。」

最後の1枚を足元に落とすと、佐川は微笑んでベッドから立ち上がり、一糸纏わぬ姿のを腕の中に抱き竦めた。


「いい子だ。可愛いよ、・・・・・」

佐川の腕の中で、はひっそりと目を閉じた。
そして、瞼の裏で笑っている真島に、さよならを告げた。


















煙草を揉み消すと、佐川は先にベッドを抜け出していった。
その背中に入っている刺青を、は横になったまま、ぼんやりと眺めていた。
今にも飛び立ちそうに羽ばたいている絢爛な鳳凰が、仕立ての良いワイシャツの中に閉じ込められていくのは、何だか不思議な光景だった。
これはこれで、まるで籠の鳥のようで。


「この部屋にはもう来るな。店にももう出るな。店には俺から、お前は今日限りで辞めると連絡を入れておく。分かったな?」

服を着終わると、佐川はを振り返り、そう言いつけた。


「・・・・はい・・・・」
「今日のところは家に帰んな。で、お袋さんに一応ちゃんと断っとけ。
明日の朝に迎えを寄越すから、帰ったらすぐに荷物をまとめとけよ。
つっても、大層な支度は要らねぇ。最低限必要な物だけで良い。あとは服でも何でも、全部新しく買ってやるよ。」
「え・・・・・?」

思わず訊き返すと、佐川は目を細めて小さく笑った。


「当然だろ?実家住まいの愛人なんて聞いた事ねぇよ。
心配すんな。こことは比べもんにならねぇ程の、広くて綺麗なマンションだよ、お前の鳥籠へやは。」

佐川は笑ってジャケットの内ポケットから黒い革の長財布を取り出すと、万札を1枚抜き取り、ベッドの棚の上に置いた。


「タクシー代だ。ちょっと用があってな、悪いが俺は先に行くよ。気ィつけて帰れ。」

労いの言葉と共に、軽いキスが唇に与えられた。
愛人ならばやはり、出掛けていく主人の見送りには出ないといけないだろうかと思って起き上がろうとしたが、佐川はそれをやんわりと制した。


「ああ、いい、いい。ゆっくり休んでろ。ちょいと無茶させすぎちまったからな。
あんまりお前の具合が良いもんだから、つい年甲斐もなく夢中になっちまった。ははは。」

佐川は店で遊んでいる時のように軽やかな声で笑うと、じゃあなと言い残して出て行った。
玄関ドアの閉まる音が聞こえると、部屋の中には誰の気配もなくなった。
いるのはただ、一人だった。


「・・・・・・・」

はのろのろと起き上がり、ベッドから抜け出した。
佐川が寝室の引き戸を開けっ放して行ったので、部屋の中には鮮やかな夕陽が差し込んでおり、灯りには困らなかった。


「もう行くんか?」

ショーツとブラジャーを拾って身に着け、キャミソールを被ったところで、そんな声が聞こえた気がして、はふとベッドを振り返った。
昨日までそこにいた人の声が、聞こえた気がして。
しかし、そこには誰もいなかった。当たり前だ。
は小さく笑い、寝乱れてクシャクシャになったシーツの皺を撫で付け、枕と掛け布団を綺麗に整えた。
このシーツは、洗濯しておいた方が良いだろうか?
でももうここには来るなと言われたから、洗濯していったところで、取り込む事が出来ない。
じゃあ洗濯はしないにしても、掃除機ぐらいはかけていった方が良いだろうか?台所は大丈夫だろうか?
そんな事を考えると何だか妙に気になって、は寝室から台所を覗いた。
だが、シンクは綺麗に片付いており、コップひとつ残っていなかった。
調理台の上に自身が買い物袋から引っ張り出していたキャベツだの豚肉だのが散らかっているだけで、あとは実に綺麗なものだった。


「あーあー、出しっぱなしにして!これやから大雑把なO型は!」

また、声が聞こえた気がした。
でも、その人の姿はやはり無かった。
変人のAB型に言われたくないと、言い返してやりたいのに。
そう、変人だった。
妙に几帳面で、いつの間にやら掃除と片付けは自分でするようになっていて、よく考えてみれば、このところはついぞ掃除機をかけていなかった事に気が付いた。
床は今日も綺麗だった。これならかける必要は無いだろう。この部屋で、もうする事は何も無い。
さっさと服を着て帰ろうと、は脱ぎ捨ててあった服を手に取りかけた。
その時ふと、チェストが目に留まった。
正確には、チェストの上に畳んで置いてあった、洗濯物が。


「・・・・・・・・」

はフラフラと惹かれるようにして、チェストの前に立った。
そこには、どうやっているのかよく分からない畳み方でやけにコンパクトにきっちり畳まれたトランクスと、まるで洋服屋の売り場のように綺麗に畳まれた赤いTシャツと黒いスウェットのズボンがあった。
は微かに震える手で、その赤いTシャツを取り上げた。
顔を埋めて匂いを嗅いでみると、洗剤の柔らかな香りに混じって、少しだけ、苦い煙草の香りがした。
佐川の吸っているものではなく、あの人の吸っていた煙草の香りだった。


「・・・・・・ぅぅっ・・・・・・」

禁じられていた涙が、今頃になって溢れてきた。


「うぅぅっ・・・・・・、ふぅっ・・・・・・」

今なら、彼の気持ちが痛い程分かった。
憎んでくれて良い。
殺しに来て欲しい。
それで良いから、もう一度あの人に逢いたい。


「うううっ・・・・・・・・・!」

逢いたい。


「うぅぅぅっ・・・・・・・・・!」

鮮烈なオレンジ色の夕陽の中、真島の残していった抜け殻を胸に抱きしめて、は咽び泣いた。
その場に崩れ落ちて、涙が枯れ果てるまで。




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後書き

まるで諸悪の根源のように書いちゃっていますが(汗)、佐川さんていいキャラですよね〜!
もっと活躍して欲しかったです、誉ちゃん共々。
0の極とか出たら良いですのにね。
1周した後のクリアデータで、好きなイベント戦を選んで闘れるモードとかないですかね〜。
今日は椿園で暴れたい気分☆とか、今日は堂島組にカチコミに行きたいキ・ブ・ン♪とか(笑)