檻の犬と籠の鳥 8




「よっしゃ、終了っと!」

綺麗に片付いた台所を一瞥して、真島は一息ついた。
別に掃除や片付けが好きな訳ではないのだが、幼い頃に放り込まれていた施設でも部屋住み時代にも散々やらされてきていて慣れているし、やればやったでそれなりの達成感や爽快感がある事も否めない。
それに、の負担を減らして二人で睦み合う時間を増やせるのだから、尚更嫌な気はしなかった。
ささやかな喜びに気を良くしながら、真島は髪を束ねていたピンク色のヘアゴムを外した。
長い髪は風呂に入る時や何かの作業をする時に邪魔になるからと、もう随分前にがくれた物だ。
『穴倉』にぶち込まれていた時には分からなかったが、こうして普通の暮らしをしてみると、なるほど、の言う通りだった。
長い髪は何かにつけて邪魔になる上に、手入れも面倒くさい。


「そろそろ散髪行かんとなぁ・・・・・」

煙草を吸いながら、真島は自分の髪の一房を手に取ってしげしげと眺めた。
こんな事が出来る位に髪を伸ばしたのはこれが人生初だが、切ってしまう事に躊躇いは無かった。
気が付いたら勝手に伸びていただけで、自分の意思で伸ばした訳ではないからだ。
むしろこんな邪魔なものは、さっさと切り捨ててしまいたかった。
と暮らす目途が立ったらすぐにでも仕事を探すつもりでいるから、少なくともそれまでには。


― 仕事探し、か・・・・・

シノギの口ではなく、仕事探しだなんて、何だかむず痒い響きだった。
だが、間もなく始まる新しい生活を、真島は心待ちにしていた。
ここへ来たばかりの息も絶え絶えだった頃はともかく、身体がすっかり回復してきた今、暇は暇以外の何物でもない。
只々が来てくれるのを待つばかりの毎日には、もうすっかり飽きている。今は一刻も早く金を稼ぎたかった。
佐川に借りを返す為だけではなく、の水商売を辞めさせる為にも。
あの仕事を、は決して好き好んでしている訳ではない。
それに何より、真島自身が嫌だった。
には、自分の『女』を商売道具にして欲しくない。
たとえ仕事だとしても、他の男達に愛想を振り撒いたりしな垂れかかったりしないで欲しいし、見境のない酔客に身体を触られたり口説かれたりするのも許せない。
が真島を極道から抜けさせたがっているように、真島もまた、を夜の世界から抜けさせたかった。
家族の暮らしが立ち行かないというのなら、その分も自分が稼げば済む話なのだから。
尤も、で、同じような事をしてくれようとしている。
互いに己の身を削ってでも相手の足を洗わせたがっている事が何だか可笑しくて、真島は小さく吹き出した。
男と女なんて基本気が合うから惚れ合うものだが、それにしてもこんな事まで考えが一致するなんて、我ながら妙なカップルだった。


「散髪、何やったら今日にでも行ったろか?」

善は急げと言うし、そうするのが良いかも知れない、いや、良い。
そんな事を考えた瞬間、部屋のチャイムが鳴った。


「え?」

早い時間にこの部屋を訪ねて来る者は、位しか心当たりはなかった。
しかし、それにしても今日は一段と早い。まだ朝の9時過ぎだ。
いつもは幾ら何でももう少し遅いし、今日は買い物をしてから来ると言っていたから、昼頃になるだろうと思っていたのに。
首を捻っていると、またチャイムが鳴った。


「・・・うん?」

はいつもチャイムを1回鳴らしてから、自分で鍵を開けて入って来る。
今日はどうしたのだろうか?
怪訝に思いながらも、真島は玄関へ出て行った。


「おう、どないしたんや、こんな早くか・・」

鍵を開け、ドアを開け放つその時まで、だと思い込んでいた。


「よう、おはようさん。」
「・・・・佐川の・・・・叔父貴・・・・・」

だが、そこに立っていたのはではなく、佐川だった。














目の笑っていないそのにやけ顔を見た瞬間に、猛烈に嫌な予感がした。
だが真島は、それを欠片程も面に出さないよう、己の心をしっかりと固めた。


「・・・おはようございます。珍しいでんなぁ、こない早い時間からどないしはったんですか。」
「何だ、まだあんまり調子良くねぇって聞いてたけど、思ったよりも元気そうじゃねぇの。痩せぎすもちったぁマシになったみてぇだし。」

口裏を合わせておかなければ、が嘘を吐いた事がバレてしまう。
だけは何としても守らねばならない、その一心で、真島は気だるげな笑みを作って見せた。


「はぁ・・・、まあ、まだリハビリ中ってとこですわ。」
「フン、上等だよ。じゃ、行くとするかね。」
「何処へでっか?」
「お前のヤサだよ。」

もっと悪い答えを想像していた真島は、一瞬、思わず拍子抜けした。
だが次の瞬間には、すぐにまた嫌な予感が戻ってきた。


「俺の・・・・?どういう事でっか?」
「どうもこうも、ここはお前、俺の部屋だぜ?家賃も払わずにいつまでも住んでられると思ってたのかよ?厚かましい奴だな。」

せせら笑う佐川に食って掛かる気は無かった。
この程度の嫌味で、そんな事は出来ない。
嫌な予感は消えるどころか、強まる一方なのだから。


「お前の為に、わざわざこの俺が新しいねぐらを用意してやったんだよ。さっさとついて来い。」

堅気は他人に己の人生を指図される筋合いは無いとは言ったが、やはり真島に断る権利は無かった。
もしそれをすれば、佐川の後ろにゾロゾロと付き従っている組員達が、この狭い場所で力に任せて暴れ狂うのだろう。
それは別に怖くない、むしろリハビリにもってこいのラッキーハプニングなのだが、怖いのはの身に及ぶ危険だった。


「・・・・分かりました。」

下手にの事を気にする素振りなど見せたら、それを逆手に取られてどうなるか分かったものではない。
真島は大人しく、佐川の言う事に従う体を装った。


「今、戸締りしてきますよってに、ちょっと待っとって下さい。」
「フン、早くしろよ。」

稼げた時間は、ごくごく僅かだった。
電話を掛ける暇もない位に。


― ・・・・・・・

ひとまず部屋に戻った真島は、戸締りしているふりをしながら、必死で考えを巡らせた。
今のこの状況を、どうすればに伝える事が出来るか。
どうすれば、に会えるか。


「おい何しとんや、早よ来んかい!」
「まさか妙な気ィ起こしとんとちゃうやろな?」

だが、見張りのつもりか、佐川の手下達が何人か部屋の中に入って来た。
これではたったの一言、自分の無事を伝える書き置きを残す事さえ出来ない。
出来るのはもはや、大切な物をそれと気付かれないように持ち出す事だけだ。
真島は電話の横に置いてあったの名刺を、サッとズボンのポケットに滑り込ませた。
これさえあれば、に連絡が出来る。
今すぐには無理そうだが、後で頃合いを見て電話をすれば良い。


「・・・そんな訳あるかい。今行くわ。」

寝室を出た真島は、テーブルの上に置いてあった僅かばかりの現金と、煙草とライターもズボンのポケットに突っ込み、佐川の手下達に従って部屋を出た。













ここへ連れて来られた時と同じ、黒塗りベンツの後部座席に乗せられて、真島は何処かへと連行されていた。
ここが何処なのか、土地勘が無いからまるで分からない。
不安を悟られないよう努めて平静を装いながら、真島は佐川に尋ねた。


「俺のヤサって何処にあるんですか?まさか東京っちゅう訳やないんでっしゃろ?」
「まさか。なに、すぐ近くだ。もうすぐ着く。」
「・・・ホンマでっか?」

思ったよりも悪い答えではなかったが、だからこそ一層不信感が募る。
それがしっかり伝わったのだろう、佐川は紫煙を吐き出しながら苦笑いした。


「ははっ、そんな疑わなくても良いだろ〜?ホントだってば。心配すんなって、ちゃあ〜んと良いとこ探してやったから。
バスルーム・トイレ付き、フローリングで日当たり抜群の良い犬小屋へやだ。おまけに職場まで徒歩1分以下。最高だろ?」
「職場?」

聞き捨てならない言葉だった。
この男は、一体何をさせようというのだろうか?


「どういう事でっか、それは?」
「まぁそれはおいおい説明してやるよ。」

おいおいなんて呑気な事を言われては困る、今すぐにはっきりさせて貰いたいというのに、佐川はこれ以上喋る気が無さそうに、窓の外を眺めながら煙草を吹かしている。
その胸倉を掴んで揺さぶってやりたくなるのをぐっと堪えて、真島も黙り込んだ。
すると、車が何やらゴチャゴチャした通りに入っていき、すぐに停まった。


「お、着いたぜ。降りろよ。」
「何処でっか、ここは?」
「ここか?ここは蒼天堀、大阪の不夜城だよ。」

佐川はそう答えて、唇を愉しげに吊り上げた。
促されるまま車を降りて見てみれば、ゴチャゴチャと賑やかで、ゴミだらけの薄汚い通りだった。
汚いのはあのマンションの周辺も同じだが、人の気配の少ないマンションやアパートばかりのあの町とは違って、ここはもっと店が多かった。それも、風俗店や飲み屋が。


「ここが、蒼天堀・・・・・・・」

蒼天堀と言えば、の勤める店がある街だ。
その事は、真島に安心感を与えてくれた。
どうなるか分からない状況ではあるが、はここへ毎日のように来るのだから、必ず会える。
遅くても、今日の夕方か夜には必ず。
そう思うと少し緊張が解れて、辺りを見回す余裕が出来た。
神室町のような歓楽街である事は一目見て分かったが、神室町よりも規模は小さそうなのに、インパクトがもっと強かった。


「またえらい派手なとこでんなぁ。」
「はは、そうだろ?それがここの良さなんだよ。
ミナミと呼ばれるこの辺りはこんな感じだが、キタの辺りはまた違う。
上品でお高くとまったような感じの、そうさな、東京で言やぁ銀座みてぇなもんか。
この辺りはさしずめ神室町ってとこだな。ちょいと懐かしさなんか感じるんじゃねぇか、えぇ?」

その他愛もない質問に、真島は曖昧な笑みで応えた。
初めて来た街に、懐かしさも何もあったものではない。
強いて言えば、すぐ斜め前にドンと店を構えているドン・キホーテを見て、中道通りを思い出した位だった。
そんな事はどうでも良い。
そんな事より、佐川が一体何を考えているのかを知るのが重要だった。


「それより叔父貴・・・・」
「おお、そうだそうだ。部屋はすぐそこなんだけど、その前にそのだらしねぇ見てくれをどうにかしてぇな。ここの床屋で良いや、入るぞ。」

車で乗り付けたすぐ前に、『あしたば』という名前の、ちょっと古臭い感じの床屋があった。


「何してんだ、とっとと入れよ。」
「ちょっ・・・・」

背中を押されるようにして店内に入ると、店主らしき小太りの中年男が、愛想の良い笑顔で『いらっしゃいませー!』と声を張り上げた。
その笑顔が一瞬ギョッと強張ったのを見て、そういえば眼帯を忘れてきたのに気付いたのだが、店主はまた元通りの愛想笑いに戻って、真島と佐川を迎え入れた。



「いらっしゃいませ!今日はどないしましょ?」
「ああ、俺は良いんだ。コイツのこのざんばら頭をどうにか体裁良く整えてやってくれ。」
「へぇ!どうぞお客さん、こちらへ。」

ニコニコと促されるまま、真島は椅子に腰掛けた。


「どんな感じにしましょ?」

真島の首に黒いケープを巻きながら、店主が尋ねてきた。
何が何だか分からないが、散髪してくれるというのだから取り敢えずはさっぱりさせて貰えば良いかと口を開きかけたその時、真島よりも先に佐川が口を出した。


「んー、そうだなぁ。ちょっとこう、高級感があるというかエレガントというか、そんな感じで見栄え良くしてやってくれよ。客商売なもんでよ。」
「あ、なるほどなるほど!了解しました!」


― 客商売って何やねん!?

真島は見開いた右目で、鏡越しに佐川を凝視した。
そんな商売を始めた覚えは更々無い。しかも、高級感だのエレガントだの、一体何だというのか。
しかし佐川は相変わらずニヤついているだけで、何も答えようとはしなかった。


「ほんじゃ、失礼しますね〜。」

そうこうしている内に、店主が真島の髪を霧吹きで湿らせ、ブラッシングし始めた。


「ん〜・・・・・、しかしお客さん、綺麗な髪してはりまんなぁ。」
「あ?」

綺麗な髪だなんて、女じゃあるまいし、誉め言葉にもならない。
ムッとして鏡越しに店主を睨んだが、店主の方は真島の顔など見てはおらず、真剣そのものな顔付きで真島の髪を梳いていた。


「いやホンマに。癖は無いし、硬さや毛量も絶妙ですわ。
僕もそれなりに長い事この商売やっとりますけど、なかなかこんな見事な髪にはお目にかかれませんねぇ。」
「っ・・・・・・」

オッサンに真顔で髪を誉められても、何だか気持ち悪い。
気を悪くするのも通り越してしまって黙り込んでいると、ふと思い立ったように店主が佐川の方を振り向いた。


「これ、敢えてバッサリいかんと、このままにしときはったらどないでっしゃろ?」
「そのまま?」
「毛先だけ綺麗に揃えといたら、あとは下ろすも良し、結わえるも良しですわ。
まあ強いて言うたら、結わえた方がきっちりして上品な感じはしますけどなぁ。」

店主は、真島と佐川の力関係をもう理解しているかのようだった。
神室町も同じだが、こんな場所で商売をしていたら、何となく察しがつくというか、色々と慣れてくるのだろう。


「ふーん。んじゃ任せるから、やってみてよ。」
「へぇ!」

佐川の了承を得た店主は、何だかいきいきとした様子で真島の髪を整え始めた。
ややあって。


「出来ました。どないでっか?」

鏡の中の自分の姿に、真島は思わず絶句した。
そこには、長い髪を黒い髪ゴムでポニーテールに結わえた自分がいた。


「これやったらゴムでひとつに括るだけやから、ご自分でも出来まっしゃろ?
これでパリッとしたスーツでも着はったら、なかなかハクがつきまっせ。」
「フン・・・・、なかなか良いんじゃねぇの。」

店主と佐川は満更でもなさそうにしげしげと眺めてきたが、真島にはそうは思えなかった。
こんな風にきっちり結ってしまったら顔が丸出しになるというのに、何故そんな事に気付かないのだろうか。
百歩譲って客商売だというのなら、こんなみっともなく潰れた片目を晒す事などご法度だろうに。


― ホンマ何考えとんのやこのオッサン、アホちゃうか?

口に出せない悪態を心の中で吐きながら、真島はうんざりとそっぽを向いたのだった。














床屋を出ると、佐川は組員が差し出してきた大判の茶封筒を持って、その脇の細い路地に入って行った。
ついて来いというので仕方なくついて行くと、その路地を抜けた所に2階建てのアパートがあった。
『エスポワール中之島』という小洒落た名前の看板が掛かってはいるが、そのアパートはどう見ても名前負けしていた。
吹けば飛ぶようなボロボロの古臭い建物に、部屋数は1階・2階共に各1戸ずつ、そして、とてつもなく小さい。
鉄錆が浮いて塗装が剥がれ落ちてしまっている階段を上っていく佐川の姿を呆然と見ていると、佐川が振り返って『何してんだ』と顎をしゃくった。
またもや仕方なく後をついて行くと、佐川はスーツのポケットから鍵を出し、2階の部屋のドアを開けて中に入った。


「今日からここがお前の家だ。」

部屋の中もまた、外観通りのみすぼらしさを呈していた。
せいぜい片面の新聞紙程度の面積しかない玄関たたきはまだ良いとしても、古い教室のような床板と、便器のひび割れた和式便所と、目一杯小さくならなければ入れなさそうな湯船と水道栓のみの風呂場を、『フローリング』『トイレ』『バスルーム』と呼んで良いと思っているのだろうか。
唯一正しいのは、日当たりの良さ位のものだ。
真島は溜息を吐くと、窓を開けた。建付けが悪くなっていて開けるのに少し手こずったが、開けてみると目の前が川だった。


「川や・・・・・・」
「それが蒼天堀だよ。」

川と言っても、綺麗な川ではない。どんよりと濁った、ただデカいだけのドブ川だった。
さっきからそこはかとなく漂っている生臭い臭いの原因は、まず間違いなくコレだろう。


「どうだ、新しい犬小屋へやは。気に入ったか?」
「・・・・ご親切、痛み入ります、佐川の叔父貴。」

真島は極めて機械的に、型通りの礼を口にした。
すると佐川は、満足げに口の端を吊り上げて、煙草を咥えた。
条件反射でその口元にライターを差し出しかけたが、真島が今持っているライターは、に貰ったジッポである。佐川に目をつけられて根掘り葉掘り訊かれるのが嫌で、真島は敢えて知らん顔をした。


「家賃は共益費込みで月4万、毎月月末払いだ。」

佐川は自分で煙草に火を点けながら、一方的に喋り出した。


「今月の日割り分と来月分はもう払ってあるが、以降は自分で払え。振込用紙が郵便で届くらしいからよ。
ああこれ、この部屋の鍵と、賃貸契約の書類一式。管理会社の名刺も入ってっから。何か分かんねぇ事があったら電話して聞けよ。」

真島は、足元にポイと投げられた鍵と茶封筒を拾い上げた。
中には確かに何やら書類の束が入っていたが、取り出して目を通す気は起きなかった。


「ここの管理会社は、俺の知り合いがやってる。家賃滞納なんかして、俺に恥かかすんじゃねぇぞ?」

という事は、恐らくヤクザのフロント会社という事だ。
結局は極道に周りを固められる事になるのに何が堅気だと呆れて、真島は小さく鼻を鳴らした。


「電気・ガス・水道は、表のドアノブに何か紙がぶら下がってただろ?あれで申し込め。
それから、必要な物もテメェで買え。洗濯機だけは前の住人が置いてったやつがあるけど、あとは見ての通り、何も無ぇからよ。」

自分で買えと言われても、今現在の持ち合わせは3千円ちょっとしかない。
こんな状態で何をどうしろというんだと目で訴えかけてやると、佐川は懐からまた別の封筒を取り出し、再び真島の足元に投げた。


「50万入ってる。支度金と当座の生活費だ。」

野郎の一人暮らしに所帯道具なんて殆ど必要無い。その割に随分な大盤振る舞いだ。
これはきっと、純然たる温情や厚意などではない。
そうと分かってはいるが、背に腹は代えられず、ひとまず真島はその封筒を拾い上げた。


「・・・ありがとうございます。」
「おいおい、勘違いすんじゃねぇぞ?くれてやった訳じゃねぇからな。」

そらきたと、真島は内心で身構えた。


「その50万と、この部屋借りる時に払った初期費用の50万、それに先月1ヶ月分のテメェの飼育代100万で、しめて200万。全額テメェの借金として持って貰うぜ。」

薄々予感はしていた事だったが、やはり衝撃は小さくなかった。
文無しでシノギの口も無いところに、200万の借金だけを背負うなんて、とても楽観視出来る状況ではない。
しかし、だからと言って、慌てふためいてみっともなくこの男に泣きついて許しを乞うなど、死んでも御免だった。


「利息はトイチ・・・と言ってやりたいのは山々だが、そりゃあ流石にキツいだろうから、月1割で勘弁しといてやる。
お前、俺の商売が金貸しじゃなくてラッキーだったな。金貸しだったら容赦なくトイチで取ってたぜ。」
「・・・・恩に着ます。」

月1割でも大概なものだが、下手なツッコミは藪蛇だ。真島は眉一つ動かさず、また形式的に礼を言った。


「その代わり、お前にはある事をやって貰う。」

ようやく聞きたかった話が出た。
回りくどいのは嫌いな性質の真島は、佐川をじっと見据えて単刀直入に訊いた。


「・・・・さっきチラッと言うてはった、『客商売』ってやつでっか?」
「そうだ。」
「お言葉ですけど叔父貴、俺は客商売には向きまへんで。何せこの目ェや。この目ェ見たら、客が皆怯えて逃げてしもて、商売上がったりでっせ。」

真島は斜に構えて笑ってみせた。
佐川がどんな腹積もりをしていようが、それに従う気など更々無い。
大切なのは佐川の意向ではなく、己の意思だった。
しかし佐川は、真島のその明らかな反逆を、表情一つ変えずに受け止めた。


「安心しな。お前程度の奴はこの辺にも幾らでもいる。そう卑屈になる事ぁねぇよ。」

この傷の意味も知らない癖に、軽くあしらって見くびるようなその言い草に、血が沸騰しそうになったその瞬間。


「・・・その見てくれも含めて、言い訳は一切聞かねぇよ、俺は。」

認めたくはないが、ゾッとした。
相変わらずのにやけた面に、一瞬、殺されるんじゃないかと思うような恐怖を感じて、真島は思わず息を呑んだ。
かと思うと、佐川はフイと視線を逸らし、真島の横をすり抜けて行った。


「ちょ・・・、どこ行くんや!?」
「俺ぁ忙しいんだよ。また夕方に来るからよ、それまで精々家ん中でも綺麗にしとけ。」
「商売って何や!?アンタ俺に何させようっちゅうんや!?なあって!答えろや!」

どれだけ声を張り上げようが、佐川は振り返らず、悠々とした足取りで出て行った。
狭苦しい犬小屋に、真島を一人、置き去りにして。




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後書き

初めて兄さんのアパートを見た時の衝撃は、忘れられません。
桐生ちゃんちの方がよっぽどリッチですよね。汚部屋度も遥かに高いですけど(笑)。
桐生ちゃんは、あの部屋でそれなりにちゃんと生活してるんでしょうね。
TVで野球中継観ながらビール飲んでカップラー食べてるだけだとしても、それなりに幸せ感じて寛いでそう。錦も遊びに来るし。
対して兄さんは、自分の部屋に何の思い入れも無いのかな、と。
寛ぐどころか、そこが自宅という認識すら持っておらず、ただ雨露を凌いで(凌げてるかどうかは怪しいけれども 笑)束の間うたた寝する為だけの場所。野良犬にとっての軒先や縁の下みたいなもの。
だから部屋の中はろくに何もなく、何もないから散らかる事もない。
唯一ある物といえばラジカセ、兄弟のその後に関するニュースが何か聞けはしないかと、儚い望みを託して買ったそれだけ。
・・・・なんて妄想を炸裂させてみたり(笑)。
でもさ兄さん、せめて敷布団ぐらいは買おう!風邪引くし!腰痛なるし!

ちなみに、錦んちはちょっと小洒落てて、フローリングのお部屋のワンルームマンションだったりする気がします。
まあまあ片付いてて、ガラステーブルとベッドとソファまであって、桐生ちゃんに「狭い部屋にあれこれゴチャゴチャ家具置くなよ」とか呆れ気味に言われて、「汚部屋の住人がなに上から目線で人んちのインテリアに口出ししてんだー!」とかキレてそう(笑)。
ああ、妄想が止まらない。