檻の犬と籠の鳥 7




それからの日々は、目くるめくような歓びに満ちていた。
は、泊まり込んだり店を休んだりする事こそないが、1分1秒を惜しむかのように出来るだけ早い時間にやって来て、出勤ギリギリの時間まで真島と共に過ごすようになった。
真島もまた、少しでもの負担を減らして、少しでも長く一緒に過ごせるように、のいない間に片付けや掃除を済ませておくようになった。
お互い、刻一刻と迫ってくる『終わり』を分かっていながらも、それでもそれを面には出さずに、ただ毎日を笑い合って、愛し合って、過ごしていた。



「なぁ、この蛇って2匹おる?」
「おう、そやで。」
「あんたの刺青、最初は『怖っ!』って思ってたけど、見慣れてきたら何や可愛らしくなってきたわ。」

情事の余韻に二人して包まっていると、が笑いながら真島の刺青を指で撫でてきた。
肩や二の腕を滑る細い指先の感覚が擽ったくて、真島も笑いながら身を捩った。


「ひひひっ!やめろや、こしょばいやろが。」
「良い事考えた!名前付けたろ♪この子が『イチロー』で、そっちの子が『ジロー』や。」

この瞬間、真島の左胸と右腕の蛇に、それぞれ名前が授けられた。
何だか随分適当な名前が。


「ちょう待てや、何でイチローとジローやねん?何の捻りもないやんけ。」
「だってあんたが『ゴロー』やねんからしゃーないやろ。で、背中の般若が『サブロー』や。」
「何やそれ!めっちゃテキトーやんけ!ちゅーかお前、般若って男ちゃうんやぞ?」
「え、そうなん?」
「あれは嫉妬に狂って鬼になった女の顔なんや。」
「へ〜、怖っ!」
「お前も嫉妬したらこんな顔になるんちゃうか?お〜こわ。ひひひっ。」

真島がふざけての方へ背中をすり寄せていくと、は『ならへんわ!』と怒って、真島の背中をグイッと押し返した。


「別に男か女かなんて関係ないねん。あんたがゴローやねんから、イチロー、ジロー、サブローでええねんて。
それとも、女の子やからサブ子にして欲しい?」
「何やねんサブ子て!もっと変やんけ!」

真島のツッコミを完全に聞き流して、は『あ!』と声を張り上げた。


「そう言えば『シロー』がおらんやん。ちょっとぉ、何でおらんの?こんだけ彫ってんのに、何でシローがおらんねん。」
「何でって言われても。」
「しゃーないなぁ、ほな私がマジックでお腹にクマちゃんでも描いたろか?ふふふっ!」
「うひゃひゃっ!」

の指が、今度は腹の上でクルクルと踊り始めた。
その擽ったさは肩や腕の比ではなく、思わず甲高く上擦った笑い声が出てしまった。


「・・・上等やんけ、お前の乳にも描いたらぁっ!」
「きゃーっ!あははははっ!ちょっと!やめてやぁっ!」

真島は笑い転げるの華奢な手首を片手で一纏めに掴んで押さえ付け、わざと擽るようにその白い乳房に指を滑らせた。


「やぁんっ!こしょばいっ!」
「ひへへ、仕返しや♪オラオラ、どやぁ?」
「やはははは!やめっ・・・・・!あかんて・・・・・!もぉっ・・・・!あぁんっ・・・・・!」

頬を赤らめて笑いながら身悶えるは、無邪気で、魅惑的だった。
最初はふざけていただけなのに、あっという間にまた身体が熱くなってくる。
もはや真島は、それを我慢しようとは思わなくなっていた。


「あ、ん・・・・・・」

心のままにの乳房に口付けると、の声もすぐさま甘く濡れた。


「ぁん・・・・、ちょっと・・・・・、あかんって・・・・・・」

口では駄目と言いつつも、身体はそうは言っていない。
真島の舌に当たっているの胸の先端は、既に固く立ち上がっていた。


「なぁって・・・・・、買い物、行くんとちゃうの・・・・・?」
「後でええ。まだ時間あるやろ・・・・・」

二人で外を歩くのも楽しいが、何よりもこうして抱き合っていたいというのが本音だった。
愛する女と何をしている時が一番幸せかなんて、男ならきっと皆同じだ。


「あん・・・・・」

胸の頂を舌で転がしながらの秘部に手を滑らせると、また新たな蜜が滲み出してきていた。
ついさっきまで真島を受け入れていた其処は、少し弄っただけですぐに口を開いて、再びそうされるのを今か今かと待ち侘びている。
それはだけではなく、真島自身もまた、早くの温もりに包まれたいと脈打っていた。


「あっ・・・・・・」

の中から指を引き抜いて一度身体を起こし、ベッドの棚に置いてあるコンドームの箱を手に取った時、がモゾモゾと身を起こした。
いつもは負けん気の強い瞳に睫毛のヴェールを被せて、少し恥じらうようなその表情に、『女』を感じて内心でドキリとする。
その内にの細い指先が、真島の先端をそっと撫でた。
の意図が分かって身を任せてみると、は真島の前に小さく蹲り、はち切れそうになっているそれにそっと口付けてきた。


「っ・・・・・・」

小さな舌が健気に動いて、真島を愛撫し始めた。
先端の割れ目を擽り、腹に着きそうな程反り返っているその裏側を、根元から先端にかけて何度も往復する。
焦らされるような快感に腰が甘く疼いて、すぐさま組み敷きたくなったが、しかし真島はそれをぐっと堪えて、の頭を撫でるに留めた。


「んぅ・・・・んっ・・・・・・」

は少し苦しそうに息を詰まらせながら、硬く張り詰めた真島の楔をその口内に受け入れていった。
そして、深々と咥え込んでから、柔らかい唇と舌で優しく扱き始めた。
セックスに限りなく近い快感を覚えるその前戯に、自ずと真島の息も上がっていく。
このまま身を任せていれば、やがて気持ち良く果てる事が出来るだろうが、それはやはり、と一緒が良い。
昂っていく一方の快感をどうにかやり過ごす為、真島も夢中での頭を撫で続けた。


「・・・・・・・・・・・」

の髪は、滑らかで繊細な手触りだった。
しなやかな背中も、腰や尻の曲線も、女の色香に満ち溢れて、真島の中の『男』を惹き付けてやまない。
真島は横向きに寝そべると、の尻の方から手を伸ばし、蜜を絡ませた指先で花芽を優しく擦った。


「あぁんっ!」

姿勢を崩したの脚を開かせて、溢れている蜜を舐め取ると、形勢はすぐさま逆転した。


「あぁっ・・・・・!やっ、ぁんっ・・・・・!」

戦慄く白い太腿を持ち上げて、伸ばした舌で花芽を転がすと、の声が蕩けるように甘くなった。
だが、まだ完全に真島に主導権が渡った訳ではなかった。
特に敏感な部分を攻められて甘い声で啼きながらも、はまた真島の分身を咥え込んで、一生懸命に扱き始めた。


「くっ・・・・・・」

嬉しさと同時に、何だかよく分からない妙な競争心が湧いてくるのは何故だろうか。
男のプライドか、それとも、一段と近付いてきた絶頂の予感に抗っているのか。
自分でもよく分からないまま、真島もに対抗するようにして、より一層甘く激しくを攻め立てた。


「あっ・・・・・!あぁんっ・・・・・!やんっ・・・・・、あぁっ・・・・・!」

何度も花芽を転がした後、中に舌を入れて蜜を啜りながら、真島はコンドームを取り出した。


・・・・・、もう・・・・・・」

もうこれ以上、1秒たりとも待てない。
早くとひとつに繋がりたい。
真島はやんわりとを離し、封を切ったコンドームを手早く自身に被せた。
そして、を腹這いにさせると、腰を高く持ち上げた。


「いくで・・・・・・?」
「ぁ・・・・、あぁんんっっ・・・・・・!」

真島は、すっかり蕩けきったの花芯に猛り狂った己を宛がい、ゆっくりと腰を沈めていった。


「あ・・ぁぁっ・・・・・!」

逃げるように引けていくの腰を逃がさないようやんわりと固定して、絡み付いてくる内壁を押し分けて、ゆっくり、ゆっくり、貫いていく。
そうして自身の大部分が包み込まれたところで、真島は深く息を吐き、僅かに弾みをつけての中を軽く突いた。


「あっ・・・・・!」

切なげな高い声が上がって、丸い尻がビクンと震えた。
上から見下ろすと、繋がっている部分が丸見えで、どうしようもなく欲情する。
真島はぎこちなく強張っているの腰をしっかりと掴んで、腰を動かし始めた。


「あっ!あっ!あぁっ・・・・・!」

いきなり最奥までは叩かないように加減しているが、それでもは啜り泣くような声を上げてよがった。
玉の肌がじっとりと汗ばんできて、真島の手を湿らせる。
尤もそれはお互い様で、真島の方も滾るような情熱が汗となって噴き出し始めていた。


「あぁんっ・・・・・!んんっ・・・・、あぁっ・・・・・!」
「はっ・・・・・・!はっ・・・・・、はぁっ・・・・・・!」
「あぁんっ!やぁぁっ・・・・・!」

の嬌態は堪らなく魅力的で、その姿をもっと見たくて、真島は夢中での感じる部分を探した。
こまめに角度を変えて突きながら、揺れる乳房を捕まえて先端を捏ね、いじらしく膨らんでいる花芽を指先で擦りながら、狭い胎内を拡げるようにかき回して。
そうしている内に、気が付くとはすっかり崩れ落ちてしまっていて、殆どベッドに伏せたような状態で、息も絶え絶えにシーツを握り締めてぐったりとしていた。


「ぁっ・・・・・、はっ・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・!」

愛しくて堪らなくて、真島は思わずの背中に圧し掛かり、その身体を強く抱きしめた。
良い香りのする髪に顔を埋め、首筋のあちこちに唇を押し当てると、がまたか細い嬌声を上げ始めた。


「あぁ・・・・!や・・・ぁん・・・・、吾朗ぉ・・・・・!」

甘く濡れた声で名前を呼ばれて、また一段と高みに上った。
ここまで上ってしまうと、もう歯止めは利かない。
一緒に果てたくて、真島はの最奥を力強く突き上げた。


「あぁぁっ・・・・・!!」

揺れる栗色の髪をかき分けて、耳朶を優しく啄むと、の中がきつく締まった。


「やぁぁぁ・・・・・!ぁぁぁんっ・・・・・!」
「くっ・・・、ぅ・・・・!」

の甘い声と温もりが、急速に真島を追い立てた。


「はぁっ・・・・!はぁっ・・・・!はっ・・・・!」
「あんっ!ぅっ・・・んんっ・・・・・!」

の顔を振り向かせて唇を深く重ねながら、真島は夢中で腰を振った。


「んん゛ーーーっ・・・・・!!」
「っ・・・・・・!!」

やがて、昂りきった情熱がの中で弾けると、二人して崩れ落ちた。
力尽きて、お互いに息を切らせながら、それでも重ねた唇は離さなかった。













佐川が店にやって来てを呼び出したのは、あの契約をした日からきっちり1ヶ月が経つ日の事だった。


「失礼します。さん、こちらご確認お願いします。」
「はい。」

接客中に黒服のボーイがさり気なく置いていったメモに目を通して、は微かに息を呑んだ。
その小さな紙切れには、佐川が店の外で待っている事が書かれていた。
勿論、想定していた事だった。
ただいよいよその時が来たというだけの事で、心はもう決まっている。何も怖がる事はない。
は自分にそう言い聞かせて気持ちを落ち着けると、客に断りを入れて席を立ち、店を出た。


「よぉ、ちゃん。」

店を出ると、ドアから少し離れた所で煙草を吸っていた佐川が声を掛けてきた。
は営業用のスマイルを形作ると、務めて平静を装って会釈をし、彼に歩み寄った。


「こんばんは、佐川さん。いらっしゃいませ。」
「悪いね、外に呼び出したりなんかして。でも幾ら何でも便所の前じゃあんまりアレかな〜と思ってさぁ。
酔い醒ましに外の風に当たって来るわっつって、ちょっと抜けて来たんだよ。」
「いいえ。私がこうして下さいと頼んだ事ですから。」

佐川のテーブルには、今夜もNo.1を始めとする売れっ子達が着いている筈だった。
彼女らが如何に佐川の関心を惹こうと必死か、は無論知っていた。
あまり長く中座していると、その内誰かが様子を見に来て、こうして二人で話し込んでいるところを見られるかも知れない。
回りくどい事を言わず、ストレートにさっさと話をつけた方が良さそうだと考えた瞬間、佐川の方から早速本題を振ってきた。


「で、どう?あいつは?」
「ええ、まあ何とか。でも・・・・・」
「でも?」

いよいよ本番だ。
は覚悟を決めて、静かに口を開いた。


「まだあんまり調子良くないみたいです。」
「へ〜、あそう。そりゃあ困ったねぇ。」
「これは私の素人考えですけど、もう少し療養させた方が良いんじゃないかと思います。
なので、良かったらこのバイト、もう少し続けさせて貰えたらと思ってるんですけど。」

佐川の視線を真っ向から受け止めながら、は続けた。


「あ、でも、これ以上お金を頂こうとは思っていませんので、安心して下さい。」
「へ〜、何でまた?」
「最初が貰いすぎやったんですよ。だから、何か佐川さんに悪くって。
なんぼ経費込みの報酬やって言われてても、あんまり経費が少ないと、まるで私が悪い事してちょろまかしてるみたいな気ィになって、良心が咎めてしもて。」

探るような目をしている佐川に向かって、は屈託なく笑って見せた。


「でも、お返しするのはイヤなんです。だから、頂き過ぎている分、もう少し働かせて頂きたいと思って。」
「ふ〜ん・・・・・・、で、どれ位?」
「そうですね・・・・、あと、一月位は。」

それも予め考えておいた期間だった。
それ以上に長くてもそれ以下に短くても、口実が通用しなくなると考えた末での答えだった。
一月なんてあっという間で、またじきに終わりが来てしまうのは分かっているが、それでも結ばれて心が通じ合った今、その一月の間に出来る事は沢山ある筈だった。
二人のこれからの為に出来る事、しておかなければならない事が、沢山。
それに、もうすっかり元気になったなどと言えば、それを良い事に佐川が真島に何をやらせるか分かったものではない。
危険な目に遭わせたり、犯罪に手を染めさせたりする事だって、十分に考えられる。
幾ら建前上は堅気だと言い張ったところで、真島も佐川も極道である以上、決して楽観も信用も出来なかった。
だから、少しでも時間を稼いでおきたかったのだ。
真島が佐川の走狗とされてしまう前に、彼を逃がす為の時間を。


「・・・・そう、分かったよ。そういう事なら、君の好きにしたら良いよ。」

すんなり承諾された事につい大喜びしかけたが、間違ってもそれをしてはいけなかった。
佐川の意図が読めない以上、真島と恋仲になった事を彼に知られるのは、決して得策ではなかった。
上に盾突けないのは極道も堅気も同じだとは言ったものの、堅気の世界では有り得ないような暴力と恐怖が、極道の世界には蔓延っている。
制裁を受けたという真島のあの無惨な姿が、その何よりの証だった。
はもう二度と、真島をあんな目に遭わせたくなかった。
これ以上傷付く前に、取り返しのつかないものを失う前に、彼を極道の世界から抜けさせたかった。
元いた東城会という組織は勿論、今目の前にいる佐川とも、関わらせたくなかった。


「ありがとうございます。じゃあそういう事で、引き続き宜しくお願いします。」

はわざとあっさりした態度を取り、話を終わらせた。


「そろそろ戻りましょうか。何か冷えません?」
「ああ、そうだな。」
「もうちょっとで梅雨やのに、夜はまだ何やかんやで寒いですよね〜。」

他愛もない世間話を仕掛けて誤魔化しながら、はドアを開けて佐川に先を譲った。


「お先にどうぞ。」
「おお、悪いね。はは、これじゃレディファーストじゃなくてオッサンファーストだ。面目ねぇな、全く。」
「うふふっ、お気になさらず。早くお席に戻ってあげて下さい。
女の子達皆、佐川さんが戻って来はるのを首長くして待ってるんですから。」

我ながらなかなかうまく出来たリップサービスだと思っていた。
水商売を本職にして1年、落ちこぼれなりにまあまあ成長してきたと、この瞬間までは思っていた。


「フフ・・・、そんなに他の娘達に妬かれるの、嫌?」

しかし佐川は、巧妙に隠していたつもりのの本音を、いとも容易く見抜いた。


「まあ確かに、女の嫉妬ってのは空恐ろしいもんがあるけどね。
そういやさ、般若ってあるだろ?あれは嫉妬に狂った女の生霊なんだと。」

突然聞かされたその言葉に、は一瞬、呼吸を止めた。


ちゃん、知ってた?」
「・・・へ・・・へぇ〜、そうなんですか、知りませんでした。」

否が応にも真島を連想させる言葉を不意打ちのように聞かされた動揺は、決して小さくなかった。
だがは、それをどうにか隠して笑顔を作った。
佐川は、何気ない与太話を装って鎌をかけてきているのだ。
それにまんまと引っ掛かっては、折角考えた口実も、これから先の予定も、全部台無しになってしまう。
そんな下手を打つ訳にはいかないという一念で、は必死に笑顔を保ち続けた。
すると、佐川はふと、思わせぶりな流し目をに向けた。


「・・・しかしさぁ、人目を盗んでコソコソ外で逢引きなんて、俺達何だか、不倫の恋でもしてるみたいだな。」

そして、すれ違いざまにの腰をスルリと抱いてから、一人で店の中に入って行った。


「っ・・・・・・・!」

一瞬、心臓が高鳴ったのは、恋をしたからではない。
佐川のあのスマートな微笑みに、底知れぬ恐怖を感じたからだった。


― 吾朗・・・・・・・!


その場に立ち尽くしながら、は真島の事を強く想った。
寒々しい恐怖に凍りついたこの身を今すぐ、あの温かい腕の中に抱きしめて貰いたかった。
















真島は煙草を吸いながら、壁のカレンダーを見つめていた。
と出逢って、今日で丁度1ヶ月だった。
は今日もいつも通りに来ると言っていたが、本当だろうか。
本当に来るだろうか、来られるだろうか。


― ・・・・・・・

今までは、が直接この部屋に来る事以外に、二人が連絡を取り合う手段は無かった。
部屋に電話がある事にはあるのだが、二人共その番号を知らず、どうしようもなかったのだ。
これまでは別段それでも不自由を感じなかったのだが、こうなってみると、一方的に待たされるしかない己の境遇が、大層もどかしくて苛立った。
だが、と連絡が取れない訳ではない。今、真島の手元には、1枚の名刺があった。
淡い桃色のその名刺には、の源氏名である『』という名前と、店の住所や電話番号が印字されてあり、その裏にはの手書きの字で、の自宅の住所と電話番号が書かれている。
これだけあれば、いずれかで必ず連絡はつくから大丈夫だとは笑っていたし、真島自身もそう思っていた。
一方通行ではあるが、この通り、ちゃんと連絡は取れるのだから、心配する事はない。
そうと分かっているのに、気が落ち着かない。
きっと、神経質になり過ぎているのだ。煙草の煙を深々と吸い込みながら、真島は自分を宥めた。
嶋野の意図が分からないから、佐川の考えが読めないから、神経質に警戒し過ぎているだけなのだ。
あの二人が何を思っているのかは知らないが、個人的な色事に干渉されたり、まして禁じられるなんて、下っ端のチンピラでさえ無い事なのだから。
そんな事を延々と考えていると、部屋のチャイムが鳴って、ドアの鍵が開く音がした。


「おはよ〜っ!」

いつも通りにやって来たの顔を見て、真島は心底安堵した。
やはり只の気にしすぎ、取り越し苦労だったのだと。


「おう、おはようさん!」

真島は煙草を揉み消すと、殊更に明るい声を出した。


「あ〜腹減ったわ〜!お前来んのずっと待っとってん!早よ何か作ってくれ!」
「私もや〜!ちょっと待ってて、すぐ作るから!」

はいつものようにチャキチャキと身支度をし、冷蔵庫を開けて食材を出し始めた。
かと思うと、ふと手を止めて、真島の方を向いた。


「そう言えば、昨夜佐川さん、店に来たで。」

何だか思ったよりも軽い感じだった。
切り出し方が唐突だった事もあって、一瞬何の話か分からなかった位だった。


「・・・ほ・・・・ほんで何て?」
「1ヶ月延長や。」

はにんまりと笑って、そう答えた。
そのチャーミングな笑顔を、真島は暫し呆然と見つめた。
その笑顔に思わず見惚れた為でもあるが、それ以上に、聞かされた話が信じられなくて。


「・・・・ホンマかそれ?」
「ホンマホンマ!結構あっさりOKしてくれたで。言うてみるもんやなぁ。」
「ようOK出たなぁ・・・・・。なんぼで言うたんや?」

別にの懐事情を詮索するつもりはないが、訊かずにはいられなかった。
とにかくの身が心配だったのだ。
あの優男の外見だけで判断して甘く見ていたら、とんでもない目に遭う。
佐川は只の遊び人じゃない、あの近江連合の幹部なのだから。


「・・・タダ」

するとは、真島に背を向けて料理を始めながら、その音に紛れさせるようにしてボソリとそんな事を呟いた。
タダと聞こえたが、空耳だろうか?


「へ?な、何て?」
「タダや。」

訊き返すと、はきっぱりはっきりした声で、そう言い切った。


「・・・・・・はぁ!?」

もう空耳でも勘違いでもない。
ははっきり『タダ』と、つまり無給だと、そう言い切ったのだ。
こんなとんでもない話を、黙って聞き過ごす訳にはいかなかった。


「アホかお前!1ヶ月タダ働きする気か!?」
「何であんたがそんなガーガー言うねんな。別にあんたに関係ないやろ。」

は何だか不貞腐れたように唇を尖らせて、反抗期の女子中学生みたいな台詞を吐いた。
タダ働きなんて無茶な契約を勝手にしてきた事自体腹が立つのに、更にこの言い草である。
こんな事で喧嘩している場合ではないと分かってはいるが、頭では分かっていても、気持ちの治まりがつかなかった。


「アホ!関係ない事あるか!ほんなら何か?俺は今からの1ヶ月、お前に養われるんかい!?」
「また出た。も〜、めんどくさいなぁ。」
「めんどくさいとは何じゃ!男の健気なプライドを何やと思っとんねん!」
「ちゃうねんて!ちょっと落ち着いて聞いてぇや!」

ついヒートアップして大きな声が出た途端、の手が伸びてきて、真島の口をやかましいとばかりに塞いだ。


「元々貰ろてた額が多すぎやってん。佐川さんも内心では見栄張り過ぎたと思ってたんちゃう?そやからすんなり延長してくれたんやろ。」
「・・・・・むぅ・・・・・」

それはそれで納得のいく答えではあった。
あの男なら確かに、女に必要以上の見栄を張りそうではある。
そんな事をじっと考え込んでいると、真島の口を封じていたの手が、安心したように離れていった。


「とにかく、そういう事になったから、あんたももう暫くは『病人』やで。佐川さん、あんたには何も言うてきてないの?」
「ああ。」
「ほな、次何か言うてきた時には、それっぽく振舞っといて。」
「・・・分かった。」

男のプライドの問題はまた改めて論じるとして、あと一月の猶予が出来たらしい事それ自体は勿論嬉しかった。
が危険な目に遭わずに、明日も、明後日も、今まで通りに会えるのなら、それだけで十分だった。
だがの話は、まだ終わった訳ではなかった。


「・・・私な、近いうち家出よかと思って。どっかに部屋借りるから、一緒に住もうや。」

とても重く、大きな決断の筈なのに、はそれを随分あっさりした言い方で告げた。
その簡単な一言がどれ程の重みを持つのか、勿論分かっているだろうに。


「・・・・・お前、俺との事、お袋さんに話したんか?」
「まだちゃんとは話してない。でも察しはついてると思う。」

天涯孤独の身であれば、いつ何処へ行こうと己の勝手、誰にも気兼ねする必要は無いし、誰にも心配されない。
だが、家族のいるは違う。
まして相手がこんな無一文の筋者とくれば、賛成する親などいる筈がない。
それに、家の大黒柱である。
家族の生活が懸かっている以上、家を出るというのは、口で言う程容易い事ではない筈だった。


「・・・・そやけどお前、俺が一文無しなんは知っとるやろ?急に部屋借りるって言われても、俺にはそんな金はあらへん。
それに、そもそも出来んのかそんな事?お前の家は、お前がおらな立ち行かんのやろ?」
「お金の事は心配せんといて。綺麗なマンションっちゅう訳にはいかんけど、安いアパート借りる位は何とかなるから。
大丈夫、立て替えとくだけや。後からちゃんと半分返して貰うから。それやったらええやろ?
それに、うちの事も大丈夫や。店に通い易いとこで探すつもりやから、家出るったって近いもんやし。
うちの事は、それこそあんたが気にする事とちゃう。それも大丈夫やから、心配せんといて。」

は気丈にそう言い切った後、そっと真島の手を握った。


「・・・・・そしたら、もう誰に遠慮する事もなくなる。
佐川さんには、その時ちゃんと報告して連絡先教えといたら、それで良いやろ?
後はどないしようが私らの勝手や。そやろ?」

の言う通りだった。
親代わりとは一方的に決めつけられた事、佐川とは代紋も違えば盃を交わしてもいない。
このところ世話になった借りを返し、最低限の筋さえ通しておけば、その他の事まで指図される筋合いは無い。
いやそもそも、堅気だというのなら、極道としての筋を通す必要さえ無い筈だった。


「あんたはあの人の子分やない。あんたはもう堅気や。向こうがそない言うたんや。
誰と何処に住もうが、何の仕事しようが、もうあんたの勝手や。
迷惑さえかけへんかったら、なんぼ上の人とはいえ、他人に自分の人生指図される筋合いは無い。それが堅気っちゅうもんや。」

の言う事は正論だった。
理屈の上では、そうだった。


「・・・冴島さんの事は、今すぐどうこう出来る事とちゃう。時間が要るわ。
私も出来る限り手伝うから、だから、焦らんとコツコツ頑張ろ・・・・?」
「・・・、お前・・・・・」
「せやけど、佐川さんとは出来るだけ早く手ェ切って。別にあんたにとって大切な人って訳やないんやろ?
それやったら、何もわざわざこれ以上関わる事ない。
今世話になってる分は、私もあの人から貰ろてるお金全部出すから、さっさと清算しよ。
何もあの人の世話にならんかったって、私ら十分やっていけるわ。そやろ・・・・・?」

に言われずとも、大人しく佐川の犬になる気などは元々無い。
こんな所、今すぐにでも飛び出して、と何処かで暮らしたいと心から思っている。
のお陰で、身体はもうすっかり良くなった。
当座の仕事や金なんてどうとでもなる。土方でも客引きでも何でもして、やっていける。


・・・・・」

しかし、そこから先の事となると、やはり何も見えないままだった。
みすみす佐川に飼われてやるつもりもないが、の願っている通りにこの先の人生を生きていく事も、恐らくきっと出来ないだろう。
冴島も、自分も、この血生臭い世界でしか生きていけないような、どうしようもない男だから。
だが、声を詰まらせて俯いたに、どうしてそんな事が言えようか。
縋り付くように握り締めてくる小さな手を、どうして振り解く事が出来ようか。


「・・・・・分かっとる・・・・・・」

きっと、時間が必要だった。
見えないものを見ようと幾ら躍起になったって、見えないものは見えないのだから。


「分かっとるから、泣くなや。」

真島はの手をそっと引いて、胸の中に抱き入れた。


「・・・・泣いてへんわ、アホ・・・・・」

真島の胸に顔を埋めて、は小さな声でそう呟いた。
かと思うと、突然ガバッと離れて、真島の腕の中から飛び出した。


「あーっ!お腹空いた!はよご飯作ろっ!」

ほんの一瞬チラリと見えた目は、少し潤んで赤くなっていた・・・、ように思えた。
しかし、本当にそうなのかを確かめる前に、は背を向けて忙しそうに料理を始めてしまった。
いつも通りの、凛としたまっすぐな背中。今、顔を覗き込むのは、きっと無粋だ。
に分からないように苦笑してから、真島はまた明るい声で話題を変えた。


「今日は何や?」
「もやし炒め。」
「ショボっ!」
「嫌ならドッグフードや。」
「いや何でその2択やねんっちゅーか何でドッグフードがメニュー扱いされとんねん選ぶ余地ないやろがソレ。せめてキャベツも入れて野菜炒めにしてくれや〜!」
「ふふふっ!ウソウソ、冗談やて。誰ももやししか出さんとは言うてへんやろ。わかめのスープと卵焼きも作るから。」
「ホンマか!?やったー!」

時間が必要なのだ。
冴島の事もの事も、どちらも諦めずに済む道を見つける為には、それなりの時間が要る。
この穏やかで幸せな日々の向こうにそれが見つかる事を、真島は何よりも強く、心の中で願った。
















と過ごす半日は、いつもあっという間に過ぎてしまう。
一緒にいる時間がキラキラと輝いているように思える分、夕方になって出勤していくを見送る時は、いつも内心寂しかった。


「ほな、行って来るわ。」
「おう。あんま飲み過ぎんなや。」
「大丈夫、飲み過ぎる程飲まれへんから。ふふふっ。」

出勤していく女を玄関で見送っている自分の姿を客観的に考えて、真島は思わず苦笑いを洩らした。


「何やの?」
「いや、何や俺、お前のヒモみたいやなぁと思って。」

それを聞くと、は心底おかしそうに無邪気な声で笑った。


「あはははっ!何それ、また例のアレ?」
「例のアレとか言うなや。」
「心配せんでも、そんなんになれへんわ。私、ヒモ飼えるような身分とちゃうし。
一緒に暮らすようになったら、嫌でも働いて貰うからな?」

茶目っ気のあるその笑顔が、いつもの寂しさをじんわりと溶かしてくれた。
そう、もうすぐ、ずっと一緒にいられるようになるのだ。
を見送る度に、これが最後かも知れないと不安になる事も、もう無い。
明日も、明後日も、その先もずっと、一緒にいられるのだから。


「・・・ヘッ、分かっとるわい。贅沢させたるから、楽しみにしとけや?」
「う〜わ大っきいおクチ!ほな精々頑張って貰おかな?」
「おう、任せとけや!」

軽口を叩いて笑い合うと、は愛用のスニーカーを履いた。
チェックのシャツとブルージーンズとスニーカーでこれからキャバレーに出勤だなんて、誰が見てもそうは思わないだろう。
こんなだからうだつが上がらないのだ、別に上がって欲しくもないが。


「しっかし相変わらず色気のない格好やのう。店で怒られへんのか?」
「別に。っていうか私服にイチャモンつけられる筋合いないわ。」
「そらそうやけど、客にアフター誘われたらどないしてんねん?まさかその格好で行くんか?」
「そういう時は仕事着のまま行くんや。でも私のお客さん、あんまり気前のええ人おらんから、そんな誘いあんま無いけどな、あはは。」

あっけらかんと笑うに釣られて、真島もまた苦笑した。


「何じゃそりゃ。安心なような情けないような、複雑な気分やわ。」
「ほんなら私がジャンジャンお客さんに口説かれて、毎晩毎晩アフターに誘われるようになったらどないすんの?」
「あかんそんなもん。」

その光景を想像した途端、自分でも吃驚する位腹が立って、つい反射的に喧嘩する時のようなドスの利いた声が出た。
客に嫉妬なんて相当重症だと自分で自分が恥ずかしくなったが、はきょとんとした後、クスクス笑い始めた。
擽ったそうな、何だか少し嬉しそうに見えなくもないその笑い顔を、どうしたものかと困惑しながら眺めていると、がふと思い立ったように『あ!』と大きな声を上げた。


「なぁ、明日のお昼、お好みせぇへん?」
「お好み?・・・って、お好み焼きの事か?」
「そうそう!」

全く同じ台詞を、靖子からも何度か聞いた事があった。
彼女が弾むような声でそう言い出したら、冴島があの不愛想な顔を嬉しそうに笑わせてすぐに返事をしていた。
関西出身のあの兄妹は粉ものが好きで、あの二人の作るお好み焼きは、それはそれは美味かった。


「ええのう。」

真島は笑って、その時の冴島と同じ返事を口にした。
と二人で作るお好み焼きも、味は違うだろうが、きっと、とても美味いだろう。
香ばしいソースの香り、楽しい笑い声、大切な人の温もり。
想像するだけで、早速にも明日が待ち遠しくなった。


「楽しみにしとるわ。」
「じゃあ、明日は買い物してから来るわ。」
「おう。」
「行ってきまーす!」

溌剌とした笑顔で手を振ったは、真島に背を向けて玄関のドアを開けた。
その後ろ姿をいつものように笑って見送ろうとした時、不意に猛烈な恋しさが真島の心を揺さぶった。


「・・・!」

その衝動のままに呼びかけると、はすぐに真島を振り返った。


「何?」

今すぐを抱きしめて、キスしたい。
そんな激情に突き動かされて思わず呼び止めてしまったが、きょとんとしているの顔を見ていると、とても出来なかった。
暇を持て余している自分とは違って、はこれから仕事なのだ。
それに、つまらない事で嫉妬したりやたらとベタベタしたがる、独占欲の強いチンケな男だと思われるのも嫌だった。
だから真島は、己の心を無理矢理に捩じ伏せて、平然とした笑みを作った。


「・・・何もない。呼んだだけや。」
「何やねんな。」

はわざとらしく肩をガクリと落として、無邪気に笑った。


「気ィつけて行けよ。」
「うん!」

軽く手を挙げてみせると、もまた手を振って、軽やかな足取りで今度こそ行ってしまった。


「・・・・大分重症やな、俺・・・・・・」

真島は苦笑いしながら、玄関のドアを閉めて鍵をかけた。
こんなにのめり込んでいる自分が恥ずかしかった。
只でさえ毎日会って毎日抱いているというのに、帰り際までこうだなんて、全く始末に負えない。


「明日はお好みか、楽しみやなぁ・・・・。」

明日になれば、また会える。
あと一月の内には、一緒に暮らす事にもなる。
離れ離れになる寂しさを感じるのも、あとほんの僅かな間の事なのだ。
真島は自分にそう言い聞かせ、TVのコメディ番組でも観て、一時の寂しさを忘れてしまう事にした。




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後書き

これでもかっっっ!!!・・・という位の甘々を書いてみた、つもりです。
バカップルっぽくてアレですけれども(笑)。
この時点で既にラブラブ(死語?)ですが、まだ終わりません。
終わりはまだまだ遠いのです、フフフフ・・・・(怪)