檻の犬と籠の鳥 5




それからも、は毎日のようにマンションに通って来た。
はいつも昼頃にやって来て、昼食から始まり、洗濯、掃除、買い物、夕食と翌日の朝食の用意を済ませ、夕方6時を過ぎると店に出勤していく。
勤め先のキャバレー『VIP』がある蒼天堀はこの近くで、一度家に帰るよりここから出勤する方が楽なのだそうだ。
大阪の土地勘が無い真島には、それが本当なのかどうかは分からなかったが、真島はのその話を信じる事にしていた。
の来訪を、と過ごす時間を、密かに心待ちにしている自分の為に。
がいる時は、部屋の空気が優しく、温かくなる。
かつて入り浸っていた、冴島兄妹の部屋にとても良く似た空気だ。
3食全ての手料理だが、一人の朝食や夕食よりも、と一緒に食べる昼食の方が断然美味い。
それに気付くのに、時間は掛からなかった。
きっとに無理をさせているだろうと知りつつも、そこから敢えて目を背けて自分を誤魔化し、そんな自分を酷い奴だと思いつつも、知らない振りをしての厚意に甘えるようになっていた。


「ジャーン!今日のお昼はさん特製チャーハンやで!」
「どれどれ・・・・・、うん、うん・・・・・、おお、美味いやないか!」
「ふふふ〜。」
「うん、美味い。ホンマ惜しいわ。」
「そやろそや・・・え?お、惜しい?『美味しい』じゃなくて?」
「そや。これであとしとやかさと色気があればなぁ、嫁に貰たろっちゅう男もおるやろになぁと思って。」
「うっさいわドチンピラ!もうええ、あんたにはやらん!あんたはそこのドッグフードでも食べとき!」
「ああーウソウソ!冗談やんけ!」

と過ごす時間は、楽しかった。
同じテーブルで同じ物を食べ、洗い物をするの隣で皿を拭き、テキパキと働くの姿を何となく眺めてみたり、時々ちょっかいを出して邪魔してみたり。
そして、天気の良い日には、荷物持ちとして買い物に付き合い、二人でぶらりと外を歩く。
何という事もないその一時が、今の真島にはとても大切なものだった。

何もかもを失くしてしまった、今の真島にとっては。




「・・・あんた、家族は?」

公園のベンチに腰を落ち着けて煙草を吸っていると、隣に座ってジュースを飲んでいるが、不意にそんな事を訊いてきた。
買い物の帰りにこの公園に立ち寄り、ベンチに座って一服するのがいつの間にか習慣になっていて、そんな時、はいつも真島の事を訊いた。
血液型や、学歴や、極道の世界に入った時や刺青を入れた時の年齢、そんな他愛もない事ばかりではあったが。


「おらん。物心ついた時には施設に放り込まれとったわ。ほんで中学出るまでずっとそこの厄介モンや。ま、こっちも他に行くとこ無かったから、嫌々しゃーなしにおっただけやけどな。」
「そうなんや・・・・。両親共亡くなりはったとかで?親戚の人も全然おらんの?」
「おらんのちゃうか。親とか親戚とか、そんなような連中にはホンマ全然、いっぺんも会うた事ないよってな。
院長のオッサンに後から聞かされたとこによると、お袋は何や、何処ぞの偉いさんの妾やったらしいけど、そいつに捨てられて自殺しよったらしいわ。」
「その偉いさんが、あんたの実のお父さん?」
「さあ、知らん。俺は私生児やったからな。今となっちゃあ知りようもないし、興味も無いわ。お前こそ家族は?」

だから真島も、の事を訊いた。
血液型や、学歴や、勤め先の店の事や、勤めてどれ位になるかなど、他愛もない事ばかりを。


「母親と、弟2人と妹1人。まあ、上の弟は去年高校辞めて家飛び出して、どっか行ってもうたけど。」
「残りの弟妹は?」
「弟が中1で、妹が小5。」
「ほ〜。えらい幼いやんけ。」
「私と上の弟と、下の2人は、父親が違うねん。」
「なるほどなぁ・・・・・、ほなその親父さんは?」
「そんなモン、どっちもとっくにどっか行ったわ。」
「えらいリズミカルで雑な説明やのう。これやから大雑把なO型は。」
「変人のAB型に言われたないわ。」

は商業科の高校を卒業して、一度は事務員として商社に就職したらしいが、2年程勤めて退職し、それから水商売一本になったとの事だった。
今の店は勤め出して丁度1年程だが、2年間の会社勤めの内の1年間は、別のスナックで週に2〜3日のアルバイトをしていたとも言っていた。


「・・・・・ほんなら、もしかしてお前んちは、お前が大黒柱なんか?」

今聞いたばかりの家族構成と、これまで聞いてきた話を組み合わせて考えると、そういう答えに行き着いた。


「まあ、そういう事になるかな。うちの母親も一応パートはしてんねんけど、あんまり稼がれへんから。」
「そうか・・・・・・」

だから、ヤクザの組長と知りつつ佐川の依頼を受け、得体の知れないヤクザ者の世話と知りつつせっせと通って来るのだ。
近江連合直参の組長ともあろう男が、女を相手にケチるとは思えないし、きっと報酬が良いのだろう。
それはそれで合点がいったし、の立場を考えれば当然だとも思うが、ならば、この一抹の寂しさは何なのか。
優しさも、温もりも、笑顔も、こうして二人で過ごす時間も、にしてみれば全部仕事、何もかもが全て金の為だというのは分かっているのに。


「・・・そやけど、俺が言うのも何やけど、程々にしとけや。そない忙しかったら、彼氏とデートする暇もあらへんがな。」

その筋違いの寂しさを、真島は紫煙に乗せて笑い飛ばした。
その気もない堅気の女相手に、分不相応な恋慕の情を抱いたところでどうなるものでもないだろうと、自分に思い知らせたくて。


「その心配なら要らんわ。そんな人おらんし。」

ところがは、真島の思っていたような反応を見せなかった。


「ほ、ほ〜・・・・」

彼氏とまでは言わなくても、好きな男がいるような素振り位、せめて見せてくれたらさっぱり諦めもつくのに、そんなに無防備に隙を見せられると、ついつい往生際が悪くなる。
真島は気のないふりを装いながら、更に探りを入れる事にした。


「何や、えらいあっさりしとんのう。お前位の女は皆、おってもおらんでも彼氏彼氏て騒いどるのに。欲しいと思わんのか?」
「別に。」
「ひひっ、モテへん負け惜しみか?」
「ちゃうわ!」

他愛もない軽口に反応して怒るところまでは、いつもと同じだった。
しかし次の瞬間、その負けん気の強い瞳にふと、寂しそうな翳りが差した。


「・・・・・これでも、1年前まではおったんや。」

聞いた瞬間、心の片隅がチクリと痛んだ。これもまた、筋違いな痛みだった。
別にに恋愛経験が無い事を望んでいた訳でもないのに、聞いたら聞いたで、内心穏やかではいられなかった。
にこんな目をさせる男は一体どんな野郎なのだと思うと、筋違いな悔しさが胸の内にモヤモヤと立ち込めてきて。


「・・・・へぇ・・・・、どんな奴や?」
「会社の先輩。10歳年上の大人な人で、優しくて、男前で、仕事も出来て、社内の人望も厚くて。ホンマ憧れの人やった。」

それは、真島とは縁の無い、遥か遠い世界の話だった。
同じ時、同じ街の中で、ひしめき合って生きているのに、それでも決して交わる事はない、近くて遠い世界。
『堅気』の世界は、真島にとってはそういう処だった。


「こないだ言うたやろ?私、会社勤めと掛け持ちして、副業でスナックのバイトやってたって。
その人と付き合い出したのは、丁度その最中やってん。」
「ほう。」
「恥ずかしい話やけど、うち昔からホンマ貧乏でな。最初のオトンは無責任な夢追い人、2番目のオトンは話になれへん借金大王で、どっちも散々好き勝手した挙句に、女作って出て行きよった。
ほんでその尻拭いばっかりしとったら、いつの間にかお母ちゃんまで借金ダルマや。
若い頃は水商売してた時期もあったんやけど、トシいってそれももう出来ひんし、手に職もないし、時給の安いパートじゃなんぼも稼がれへんしな。そやから私が仕事掛け持ちするようになったんや。」
「そやったんか・・・・・」
「これ以上無理されて、お母ちゃんに病気でもされたら、そっちの方が却って大変やからな。
でも、そないして納得はしてても、やっぱりしんどいもんはしんどかったわ。
まだ向いとったら楽しめたかも知らんけど、私あんま上手いことお世辞言うたり愛想振り撒いたり出来ひんし、お酒も別に強ないから。
かと言って辞める訳にもいかんやろ?そやから毎日辛かったんや。家の中も、上の弟が荒れて学校辞めたりして、メチャクチャやったしな。
そんな時に、その人だけが優しい言葉掛けてくれてん。」

その時、その男が何を考えていたのか、真島には手に取るように分かった。
女を落とすには弱っているところを突く、所謂『定石』というやつだ。女癖の悪い兄貴分達がよく使っていた手だった。


「憧れの人と付き合うようになって、ホンマ幸せやった。
私にはその人が何もかも初めてやったし、お前の事真剣や、将来も考えてるとか言われて、私もようやく幸せ掴めたと思って、完全に舞い上がっとった。・・・ちょっとの間はな。」
「ちょっとの間?」
「その人なぁ、奥さんも子供もおってん。」

オチもまた、良くあるパターンだった。


「後から、その人はそうやってちょいちょい社内の若い女の子をつまみ食いしてるって聞いた。
実際、最後別れる頃には、もう私の後輩の女の子とデキとったわ。」
「会社辞めたんは、そのせいか?」
「しょうがないわ。こっちはお茶汲みコピー取りのOL、向こうは社内のエースやもん。私が辞めるしかないやん。
でも、そればっかりでもないねんで。半分はお金の問題。
借金もあるし、家族全員で食べて、弟と妹を学校へやらなあかんし、OLの給料じゃとてもやっていかれへんもん。
昼夜の掛け持ちはしんどかったし、それならいっそ給料の良い夜の商売一本でやったろと思ってな。」

あっけらかんと笑っているは、もう吹っ切れているように見えた。
本人が吹っ切っている過去を、他人が傍からどうこう言う訳にもいかず、真島は黙って煙草を吹かしていた。


「・・・・・そういうあんたは?」
「・・・へ?な、何がや?」
「彼女。おらんの?」

すると今度は、が同じ質問を返してきた。
キャバレーや風俗の女なら馴染みが何人かいたが、商売抜きの本命の女はいなかった。
1年前のあの時は、清算する関係も無ければ引かれる後ろ髪も無い事を少しばかり虚しくも思ったが、今となっては何も無くて良かったとつくづく思う。
もしもあの時、未練になるような女がいたら、きっと巻き添えを喰わせて滅茶苦茶にされていただろうから。


「おるように見えるか?」

真島は斜に構えて、煙を吐き出しながら薄く笑った。
するとは、まるで取り調べ中の刑事のような目付きで、真島をじぃっと見つめた。


「ん〜・・・・・、『見えへん』と言うてやりたいとこやけど、どうやろなぁ?
彼女はおらんけど、嫁さん子供はおるんですぅ〜とかいうオチかも知らんしなぁ?」
「だっ・・・・・!お前なぁ、俺をそんなカスと一緒にすんな!」
「え?ちゃうの?」
「ちゃうわ!俺はこない見えて一途やし、大体嘘が大嫌いなんじゃ!
そんな卑怯な嘘吐いてチマチマセコく引っ掛ける位なら、気に入った女片っ端から口説き落として皆まとめて囲ったるわ!」

その男があまりにも己の主義と相容れない輩だからか、真島は思わずムキになってを相手に息巻いていた。
するとは、キョトンとした目で真島を見つめてから、思いっきり笑い出した。


「あっははは!何それー!ハーレムやん!あははははっ!」

軽やかな声で、本当におかしそうに、楽しそうに。


「下っ端のくせに生意気〜!あはははっ!」
「だっ、誰が下っ端じゃ!」

思わず夢を抱かずにはいられなかった。
こうして無邪気に笑い転げるを、この先もずっと見ていたいと。
のこの先どころか、自分の明日さえも見えないのに。
















気が付けば、初めて会ってから3週間が経とうとしていた。
今日は5月14日、真島の誕生日だった。
本人は全く意識していなさそうだったが、はそれをしっかり覚えていた。
それどころか、祝おうとさえしている。
誕生祝いに用意したあれこれの大荷物を抱えてマンションまでの道を歩きながら、は真島の反応を想像した。
喜んでくれるだろうか?
それとも、変に思われるだろうか?
単なるバイトの世話係が誕生日を祝うなんて、やっぱりおかしいだろうか?
マンションが近くなるにつれて、弱気になってくる。
だが、今更やめるとなると、買い込んできた物が無駄になる。
折角買ってきた物をゴミ捨て場に直行させるなんてそんな勿体無い事は出来ないのだからと、は何とか自分を奮い立たせ、いつもの通りチャイムを鳴らしてから鍵を開けた。


「おはよー。起きてる?」
「おお・・・って、何やその大荷物?」

部屋から出てきた真島は、案の定、の抱えている荷物を見て目を丸くした。


「何や、今日は先に買い物行って来たんか。それにしてもえらい荷物やな。何買うて来てん?」
「んー?まあ色々。食材とか、ワインとか、・・・ケーキとか?」
「ワイン?ケーキ??」

やっぱり、まだ気付いていない。
真島が自ら気付いてくれれば気が楽だったのだが、もうこうなった以上、腹を括って皆まで言うしかなかった。


「あんた今日、誕生日やろ?そやからお祝いしよと思って。」

は意識して、出来るだけ軽く聞こえるようにそう告げた。


「今日のご飯はご馳走やで〜!大奮発して、何と特上サーロインのステーキや!すぐ支度するから、待っとって!」

別に変な風には聞こえなかっただろう。多分、恐らく。
だが、真島の反応をそのまま待つ勇気は無くて、は忙しい振りをしてそそくさと真島に背を向け、料理を始めた。


「・・・・・・分からんもんやな。」

少しの間を置いて、煙草の匂いと共に、真島の呟く声がに届いた。


「ここに連れて来られた時は、もう生きとる意味も無いわと思っとったけど、人間、何処でどないなるか分からんもんやな。」
「・・・・・え・・・・・・?」
「おおきにな。」

振り返ると、真島が微笑んでいた。
少し寂しそうにも見えるような、はにかんだ顔で。


「・・・・・っ・・・・・・」

その寂しげな微笑みとこのまま向き合っていたらどうなってしまうか、自分でも分からなかった。


「な・・・・・何それ〜!どの口がそんなしおらしい事言うてんの〜!?気色わる〜!」

だからは、揺れる心を抑え込んで、明るい声で笑い飛ばした。
その甲斐あって、真島はすぐにいつもの表情に戻った。


「んなっ・・・、何やとぉ!?人が折角礼言うとるのに!ホンマ口の悪い女やで!」
「もうええからほら、あんたこれ、レタス千切って洗って!早よ早よっ!」
「く〜〜っ・・・・!口悪い上に人使いまで荒いとか、お前最悪やな!」
「ちょっと!咥え煙草で料理せんといてや!」

真島にどんな事情があるのかは知らない。
けれど、人間、何処でどうなるか分からないというのなら、ここで生まれ変わって新しくやり直す事だってあるかも知れない。
それが、彼がこの街に連れて来られた理由でありますように。
どうか、そうでありますように。
憎まれ口を叩きながら隣に立ってサラダを作っている真島の横顔に、はそう祈らずにはいられなかった。















小さなダイニングテーブルは、2人分の料理とケーキを並べると、花を一輪飾るスペースも無い位になった。
食器は不揃い、フォークはあるがナイフはなく、折角のステーキは最初から切り分けられている始末だ。
どう贔屓目に見ても、お洒落な雰囲気とは程遠い。
だが、温かかった。
自然と笑顔が零れてしまうような、擽ったいような、そんな温もりに満ちていた。


「どう?開きそう?」
「ん・・・・・、もうちょっとや・・・・・・、よっしゃ!」

ポン、と小気味良い音を立てて、ワインのコルク栓が抜けた。


「ほれ。」
「あ、ありがと。」

が自分のグラスを差し出すと、真島はそこにワインを注いだ。
こっくりと深い色合いの赤ワインがグラスに溜まっていくのを見ていると何だか幸せで、気恥ずかしかった。


「じゃあ、交代。」
「おう、おおきに。」

真島からワインのボトルを受け取り、今度はが彼のグラスにワインを注いだ。
商売柄、男に酌をするのは日常茶飯事で慣れっこの筈なのに、妙に照れくさくてドキドキしてしまう。
それを真島に気付かれないように隠しながら、はどうにかワインを注ぎ終えた。


「ケーキのろうそく、火ィ点けよっか。」
「おう。」

真島は当然のように、いつも使っている100円ライターを手に取った。


「あ・・・、ちょっと待って。」
「何やねん?」

はそれを制して、ハンドバッグの中から小さなプレゼントの箱を取り出し、真島に差し出した。


「・・・その前にこれ。」
「何やねんこれ・・・・俺に?」
「まあ・・・一応?誕生日やし?」

緊張は密かにピークを迎えていた。
平静を装いつつも、自分が挙動不審になっていないか、内心、気が気でなかった。


「開けてええんか?」
「どうぞ?」

内心大いに緊張しているの前で、真島はプレゼントの包みを開けた。
中身はジッポである。
落ち着いたブラックメタルのボディに、シンプルな地模様の入ったこのライターは、色んな意味で『無難』の一言に尽きるプレゼントだった。
恋人でもなければ友達でもない女からのプレゼントとして相応しい、当たり障りのない物だった。


「おわ・・・・!ええライターやんけ・・・・・!」

しかし、それを見た真島は、まるで少年のように目を輝かせた。
別に洒落たデザインでも高級品という訳でもない、どこにでも売っている程度の物なのに。


「そ、そう・・・・・?」
「ホンマに貰ろてええんか?」
「も、勿論・・・・・!そない喜んで貰えたんなら良かったわ。」
「ほな折角やから、これで点けるわ。」

真島は何だか子供みたいな無邪気な顔になって、嬉しそうにジッポの蓋を親指で撥ね開けると、ろうそくに1本ずつ火を灯していった。


「・・・・・ハッピーバースデー・トゥー・ユー・・・・・・・」

静かに揺らめく小さな火に促されるようにして、は歌を歌い始めた。


「ハッピーバースデー・トゥー・ユー。ハッピーバースデー・ディア・・・・・」

ここへきて、そういえば最初に会った時以来、名前を呼んでいなかった事に気付いた。


「・・・・・・・」

何と呼べば良いだろう?
真島さん?
真島君?
真島ちゃん?
吾朗さん?
吾朗君?


「・・・・ゴローちゃ〜ん。」

色々考えたが、やっぱりこれが一番しっくりきた。


「ハッピーバースデー・トゥー・ユー。・・・お誕生日おめでと〜っ!」
「・・・ゴローちゃん言うな。」

笑顔で拍手を送るに、真島は苦笑いで応えた。
そして、大きく息を吸い込んで、ろうそくの火を吹き消した。


「・・・・・おおきにな。」

細くかき消えていく白い煙の向こうで、真島が微笑んだ。
もそれに微笑みで応えた。


「さっ!乾杯して、食べよ食べよ!冷めたら折角のお肉が固くなるわ!」
「おう!」

感謝なんて要らない。
ただ、その身に付き纏うような暗い影を振り払ってくれれば。
ただこうして、笑っていてくれれば。
楽しげに笑っている真島に、は心の中でそう願った。

















狭いベランダから見る町は、汚い灰色に煤けていた。
自分に似合いなのは、この景色の方なのだと分かっている。
だがそれでも、憧れて、求めずにはいられなかった。
明るい色をした、愛する人との幸せで温かい暮らしの風景を。


― なぁ兄弟、俺、誕生日祝われてしもたわ・・・・・・・

真島は暗い曇天を見上げて、そこに冴島の面影を見ようとした。
だが冴島は、どんなに記憶を辿ろうとも、振り返ってその顔を見せてはくれなかった。
こんな事が知れたら、冴島はきっと許さないだろう。
彼一人に罪を着せて、自分はのうのうと女に誕生日を祝われているなんて。


― 見てみぃやこれ、プレゼントまで貰ろてもうたんやで・・・・・

真島はに貰ったジッポで、煙草に火を点けた。
誕生日のプレゼントを貰ったのは、これで2度目だった。
初めての誕生日プレゼントは、いつも身に着けている金のネックレス、20歳の誕生日に冴島がくれた物だ。
極道の世界に飛び込んで数年、俺もようやく少し金が回り出したと言って。
お前も昨日今日この世界に入ったばかりのガキやあるまいし、ええ加減これ位の見栄は必要やと言って。
自分は己の身なりになど全く構わず、いつでも着たきりだった癖に。
あの男と出会ってようやく、幼い頃からずっと憧れ求め続けてきたものが手に入ったと思っていた。
かけがえのない家族だと、生きるも死ぬも共にするのだと、心から思っていた。
あの頃には、こんな未来が待ち受けているなんて思いもしなかった。
よりにもよって、こんな別れが待っているなんて。


― 兄弟・・・・・・

本当なら今頃は、冴島と同じ罪を背負って、一緒に刑務所にいる筈だった。
本当なら今頃は、とっくに死んで、闇から闇に葬られていてもおかしくなかった。
本当なら、こんな所に来る事もなく、と出逢う事もなかった。


― 赦してくれ、兄弟・・・・・・

赦してくれ。
赦してくれ。
何度も心の中でそう繰り返した。それが冴島に届く事など、ある筈もないのに。
冴島はきっと、怒り狂うだろう。
たった一人の兄弟分を裏切ったその先で、一人の女と出逢い、その女に惚れたと知ったら。
身一つで極道の世界から弾き出され、何もかもを見失っている今の自分にとってその女が、だけが、たった一つの心の拠り所になっていると知ったら。
我ながら何と最低な男だろうかと思う。冴島に対しても、そして、に対しても。
真島は背後をチラリと振り返り、ガラスサッシ越しにを見た。
真島の夕食を作っている、の後ろ姿を。
は綺麗な女だ。何ら人に恥じる所なく、自分の力でまっすぐに生きている。
そんな女に、こんな風に尽くして貰う資格など、自分には無い。
惚れる資格も、愛されたいと願う資格も。
そう分かっているのに、それでもの存在が日に日に大きくなっていく。
ずっと俺の側にいてくれと、なりふり構わず懇願したくなる。


― ホンマに俺は最低の男やな。なぁ、冴島・・・・・・

堪え切れなくなった涙のように、暗い空から透明の雫がポツリと落ちてきた。
最初は1粒2粒だったそれは、瞬く間に数を増やし、灰色の町全体を濡らす雨へと変わっていった。


「・・・・・雨・・・・・・・」

あの日も、こんな雨だった。
灰色の倉庫の中で、雨に濡れながらたった独りで闘っている冴島の姿を潰れた左目に思い浮かべ、血の涙を流した。
押し潰されそうな不安と罪悪感の中で、ただ冴島の無事を祈る事しか出来なかった。
目玉でも命でも、何でも引き換えにするから、頼むから生きていてくれ、と。


「・・・・・っ・・・・・・・・」

灰色に濡れる景色が、寂しい雨音が、あの日の事を否応無しに思い出させる。
あの時の不安と罪の意識が蘇って胸につかえ、息が苦しくなる。
怖くて怖くて堪らなくて、大声で叫び出したいのに、声が出ない。
『赦してくれ』と声の限りに叫びたいのに、その叫びは、誰にも、何処にも、届かない。


「あれ、雨?」

不意にの声がした。
振り返ると、がガラスサッシを開けて空を見上げていた。


「いやぁ、もう降って来たやん。天気予報では夜からやて言うてたのに。」

何も知らないは、この雨を眺めて、ただ煩わしそうにそう言った。


「どないしたん?」
「・・・・・ぁ・・・・・・?」
「ボーッとして。煙草、殆ど燃え尽きてんで?」

指摘されて初めて、指に挟んでいた煙草が既に短く燃え尽きている事に気が付いた。
そしてその拍子に、長く伸びていた灰が音も無く崩れ落ちた。


「まさか具合でも悪いん?」
「・・・・・いや、別に。」

真島は殆どフィルターだけになった煙草を灰皿に押し付けると、部屋の中に戻った。
ガラスサッシを閉めると、雨音は遠くなったが、胸のつかえはまだ取れないままだった。


「晩ご飯用意しといたからな。お祝い第2弾で鰻やで!お吸い物と鰻巻きもあるからな!」

ほら、と誇らしげに見せられた皿には、出来たての鰻巻きが載っていた。


「冷蔵庫に鰻の蒲焼き切ったやつ入れてあるから、食べる時にフライパンで弱火で少し焼いて温めてな。
ホンマは網で炙り焼きにした方が美味しいねんけど、まあそこは勘弁しといて。
ほんでタレと粉山椒もそこに置いてあるから。」

コンロの上にはお吸い物の鍋があり、炊飯器も仕掛けられている。
きっとどれも美味いに違いない。そんな事は分かっている。
の作ってくれた物で不味かった物など、今まで只の一つとして無かったのだから。
だが今は、全く食べたいと思わなかった。
狭い部屋の中に優しく満ちている美味しい匂いも、ただ切なさを募らせるだけだった。


「・・・・・もう、店行くんか・・・・・?」
「うん。ホンマ最悪やわぁ。何で人が今から出勤って時に降ってくるかなぁ?あと30分、いや20分待ってくれたら良かったのに。」

はエプロンを外し、食器棚のガラス戸を鏡代わりにして、一つに束ねていた髪を解いて手櫛で整えている。
忙しそうなその仕草を見ていると、己の孤独が一層際立った。


「ほな、そろそろ行くわ。」

皆、離れていく。


「あ、ワインの残り、ガブ飲みしたらあかんで!あんたは酒よりご飯やからな!?ちゃんとしっかりご飯食べや!?」

冴島も、靖子も。
大切な人は皆、この手をすり抜けて行ってしまった。
大切に、大切に、失くさないように、離さないように、掴んでいた筈なのに。


「ほなまた。」

そして今また、も離れていこうとしている。


「っ・・・・・・・!」

何かに背中を押されるような気がした瞬間、真島は踵を返したの腕を掴み、そのしなやかな背中を抱き竦めていた。


「・・・・・な・・・・・・・」

驚いて立ち尽くしているを、真島は更に強く抱きしめた。


「・・・・・何よ・・・・・、どしたん・・・・・?」

は戸惑いながらも、抵抗しようとはしなかった。


「・・・・・くれ・・・・・・」

殆ど声になっていない掠れた声が、ひとりでに唇から零れ落ちた。


「え・・・・・・?」
「行かんとってくれ・・・・・・」

頼むから、俺を独りにしないでくれ。


「・・・・・・行かんとってくれ・・・・・・」

孤独と罪の意識に喘ぐ己を噛み殺して、真島はの柔らかな髪に顔を埋めた。


「・・・・・・放して・・・・・・」

暫くして、は微かに震える声で小さくそう呟いた。
そう言われるのは当然だった。
もはや極道ですらなくなった只の負け犬を、のような真っ当な堅気の女がどうして受け入れてくれるものか。
一方的に与えられるばかりで、何も与えてやれない情けない男を、どうして愛してくれるものか。
そんな事は最初から分かっていた。だから、傷付くなんて間違っている。


「・・・・・すまん・・・・・・」

真島は腕を緩めて、をそっと解放した。
いつぞやも、悪夢にうなされていたせいとはいえ、似たような事をやらかしている。
振り返ったはきっと、今度こそ、嫌悪や軽蔑の目を向けるだろう。
真島は覚悟を決めて、が振り返るのを待った。


「・・・・・店に・・・・・、電話入れやな・・・・・・」

だがは、真島が思っていたような反応を示さなかった。


「・・・・・・え・・・・・・?」
「無断欠勤は・・・・・、流石にあかんから・・・・・・」

肩越しに振り返ったは、おずおずと真島を見上げてそう呟いた。
いじらしく潤んだその瞳は確かに、情けない負け犬を優しく見つめていた。


「・・・・・ええんか・・・・・・?」

思いもかけないその反応に驚いて、真島は思わず念押ししてしまった。
言ってしまった後で我ながら何て格好悪いんだと悔やんだが、は恥じらうようにはにかんで僅かに頷くと、本当に電話を掛け始めた。
そのまっすぐな背中を、真島は呆然と見つめていた。
真っ当に生きているが、極道でも堅気でもない、このどうしようもない半端者を受け入れてくれるなんて、まだ信じられなくて。




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後書き

妄想捏造設定が爆裂した回でした!
兄さんの生い立ちから何から妄想しまくり。もう時間が幾らあっても足りません!(←人はそれを時間の浪費と言う)
見栄も金もない、野良犬のようなみすぼらしいチンピラが(←暴言)、
やがて巨大な極道組織の大幹部になっていくサクセスストーリーを考えると、もう止まらない・・・・!
でも、他に何も持っていない、ただギラギラした若さだけがあるという状態って、美しくて眩しいなと思います。
なので、若い兄さんを書くのが凄く楽しいです。
これがいわゆるトシ食ったという現象なんでしょうか(笑)。
龍5の兄さんも老化を匂わせていましたが、龍7(未プレイ・真島&冴島登場の動画だけ見た 笑)ではまた弾けてくれてて、ちょっと安心しました!
ハッピーバースデー兄さん!腹も出ず、弛みもせず、驚異の56歳!
これからもハデハデ&イケイケで、お願いしゃーす!