佐川がの店に来たのは、がマンションを引き揚げたその夜だった。
「こんばんは、佐川さん。ご指名有り難うございます。」
佐川は今夜、一人を指名していた。
理由の見当はついている。ただ、他のホステス達は勿論そんな事など知る由もないので、皆酷く驚いていた。
特に、いつも佐川の相手をしているNo.1嬢などは、驚きを通り越して明らかな敵意の視線をに向けてきていた。
「おおー、来たかちゃん。ささ、こっち座んなよ。」
そんな裏事情を知らない、或いは知っていても意に介していない佐川は、ニヒルな笑みを浮かべてを隣に座らせた。
「失礼します。お飲み物は水割りで?」
「うーん・・・、とりあえずそうしようかな。」
「はい。」
は佐川のキープボトルで水割りを作り始めた。
「・・・で、どう?犬、ちょっとは元気になった?」
その言葉に、は一瞬手を止めた。
この期に及んでまだ『犬』と言い張るなんて一体どういうつもりなのか、佐川の考えている事はまるで読めなかった。
だが、こういう時は下手に策を弄さず、事実だけを正直に言うべきだと考えたは、再び手を動かしながら答えた。
「・・・はい。最初は熱が高くて衰弱していましたけど、今朝ようやく下がりました。」
「へ〜。あそう。そりゃ大変だったねぇ。」
「あんまり熱が高いから、死んでしもたら大変やと思って病院に連れて行こうとしたんですけど、嫌がって行ってくれなくて。」
「ああそう。そりゃあ面倒かけて悪かったねぇ。ワガママ言うようなら、遠慮なくボカッとやっちゃって良いんだよ、ハハハ。」
「あの犬、そんなに我儘なんですか?」
「うん?」
「大分遠慮なくボカボカやられてたみたいでしたから。」
含みを持たせたその言葉と共に、は佐川の前に水割りのグラスを差し出した。
すると、佐川は一瞬、笑みを消した。
しかしそれはほんの束の間の事で、次の瞬間には愉快そうに笑い出した。
「ハハハッ!良いねぇ〜。いや、良いよ君。反応が新鮮。」
「そうですか?」
「そう来るとは思わなかったなぁ。てっきり『話が違う!』って怒られると思ってたからさ。」
「え?」
「俺、今日はちゃんに怒られに来たつもりだったんだよ?」
佐川は涼しげな笑みを浮かべて、の手にさり気なく自分の手を重ねた。
その手はそのままに、視線だけを僅かに逸らして、も笑い返した。
「まさか。怒るなんてとんでもないです。」
「ホント?じゃああのバイト、まさか続けてくれちゃったりする気?」
「はい、そのつもりです。」
「何でよ?」
答え難い事に限って、間髪入れずに訊いてくる。多分、本音を聞き出そうとしているからだ。
「頂いたお金、返したくないからです。」
だからは、佐川の目をまっすぐ見つめてそう答えた。
この人を相手に嘘を吐く自信は無いが、本音を半分隠す事位は出来る。
嘘ではないのだから、話を作ったり辻褄を合わせる必要も無いし、堂々としていれば良いだけなのだから。
「・・・・・・なるほど。」
何処まで本気かは知らないが、佐川はその答えで納得したかのように小さく笑って、の作った水割りを一口飲んだ。
「じゃ、せめてものお詫びに、何でも頼んでよ!キャビアのカナッペでもドンペリでも、何でも好きなだけ!」
「え・・・・・」
が唖然としている内に、佐川は早速にもボーイを呼ぼうとした。
「あ、ちょちょ、ちょっと、佐川さん・・・・・・!」
間一髪のところで、はそれを阻んだ。
「何?」
「お、お詫びなんてそんなお気遣いはどうか・・・・・!」
「えぇ?何でよ?」
「報酬ならもう十分過ぎる額を頂いていますから・・・・!」
今度は佐川が呆れたように、唖然とを見つめた。
「あのさぁ。俺のテーブルに着いて水割りしか勧めてこない娘、ちゃん以外いないよ?」
「え・・・・・・・」
「場末のスナックじゃないんだからさぁ、もっとリッチにいこうよ。」
「し・・失礼しました、そんなつもりでは・・・・・・!」
としては遠慮して辞退したつもりだったが、それが佐川のプライドを傷付けた事になるのなら、平謝りするより他になかった。
だが、佐川の申し出を受ける事自体は、やはりどうしても出来なかった。
「では、佐川さんのご贔屓の女の子と交代しますので、少々お待ち下さい・・・・・!」
「え、何で?」
一見華やかで美しい夜の蝶達は、水面下で熾烈な客取り合戦を繰り広げている。
それに巻き込まれるのは、としてはどうしても御免被りたかった。
他のホステス達から余計な恨みや妬みを買って店にいられなくなったりしたら、家はたちまち生活が立ち行かなくなるのだから。
「い・・・、嫌やわ佐川さん。そういうのはお気に入りの娘にしてあげやんと。浮気はダメですよ?うふふっ。」
はどうにかこうにかの演技で、愛嬌を振り撒いた。
「私なんかをわざわざご指名下さらなくても、今後何かお話がある時は、私の方からすぐにお伺いしますので。
お手洗いに立たれる時にでも、ボーイにお声掛け下さい。すぐにすっ飛んでお伺いします。」
「・・・そう。分かったよ。」
佐川は相変わらず涼しげな微笑みを浮かべたまま、の手を放した。
その微笑みにどんな感情が隠れているのかを量ろうとするのは、怖くてとても出来なかった。
この部屋に連れて来られた時以来、何の音沙汰も無かった佐川が突然訪ねて来たのは、久しぶりに一人になったその夜の事だった。
「いよぉ真島ちゃん。調子どう?」
玄関のドアを開けるなり、佐川はあの飄々とした笑みを浮かべて、白々しくそんな事をのたまった。
夜中の2時過ぎに人をチャイムの連打音で叩き起こしておいて、『調子どう?』も何もないものだ。
「・・・ぼちぼちですわ。」
「ふーん。」
苛立ちを抑えて無難な答えを返すと、佐川は気の無い返事をしながらズカズカと上がり込んで来た。
「あー喉乾いた。おい、水。」
佐川は台所の椅子にどっかりと腰を下ろすと、水を要求してきた。
こういう事には慣れている。
真島は黙ってグラスに水を汲み、灰皿と一緒に佐川の前に並べて出した。
「っかーーーっ!!」
佐川は水を一気に飲み干すと、煙草を咥えた。
真島は黙ったままその煙草に火を点け、空になったグラスにもう一度水を汲んだ。
こういう事は極道の世界に足を踏み入れたばかりの頃に散々やらされてすっかり身に染み付いてしまっているので、何も考えなくても身体が勝手に動くのだ。
「寿司ってよぉ、食ってる時は分かんねぇけど、後から凄ぇ喉乾くのが難点だよな。あ、コレ真島ちゃんにお土産。食えよ。」
佐川は紫煙を吐き出しながら、テーブルの上の折詰を真島の方にズイと差し出した。
「わざわざ気ィ遣こて貰いましてすんまへん、佐川の叔父貴。」
「それだけ?」
「それだけ、とは?」
「いや、食えっつってんだよ俺は。」
相変わらずのニヤケ面に、寒気のする威圧感を覚える。
だが大人しく言いなりになる気はなく、真島は口元に微かな笑みを湛えて形ばかり頭を下げた。
「えらいすんまへん。折角ですけど、今は腹減っとらんのですわ。明日の朝に頂きますよって。」
「・・・ふ〜ん・・・・」
佐川はシンクにチラリと目を向けた。夕食の後の食器や鍋が置いてあるそこに。
「女神様の美味しい手料理でお腹いっぱいなんですボク・・・・ってか。」
佐川は挑発めいた笑みを浮かべて、側に立っている真島を見上げた。
「大分肌ツヤ良くなったじゃないの。ついこないだまで死人みてぇな酷ぇ顔色してたのに。
こりゃちゃん、相当手厚く看病してくれたんだな。」
「ちゃん?」
「ああ、そりゃ源氏名だったな。本名は何つったか、確か・・・」
「・・・・・」
「あそうそう、ソレ。ちゃん。」
佐川はまた一口水を飲み、ヘラヘラと笑った。
「今日さぁ、彼女の店で飲んでたんだよ。いやぁ全く、面白い娘だよあの娘。全然怯んでねぇの。
ペットの可愛いワンちゃんのお世話だと思って行ったら、片目のいかついヤクザ者だったなんて、堅気の女の子だったら普通即逃げるよ?」
「・・・そうでっしゃろな。」
真島は、初めてこの部屋に来た時のを思い出していた。
さぞかし驚き、怖かっただろうに、すぐさま真島の看病を始めたあの時のを。
「話が違うっつって断られるかと思ったけど、彼女、引き続きお前の面倒看てくれるってよ。良かったな。」
佐川はそう言って、ニヤついた目で真島を見た。
「もう抱いたの?彼女。」
予想通りの下衆な質問に呆れて、真島は小さく溜息を吐いた。
この男は、少なからず恩義を感じている女を、少しばかり元気が出てきた途端にホイホイ抱けるのだろうか?
それとも只の軽口か、いずれにせよまともに取り合う話ではなかった。
「そないな元気があるように見えまっか?」
真島は事も無げに一言そう返した。
「ヘッ、若ぇのに何情けねぇ事言ってんだよ。男だろ?あぁでも・・・」
佐川は束の間、無言で真島を眺めた。
まるでねっとりと肌を舐めるような、嫌な視線だった。
「・・・・あそこで『雌』の悦びを覚えちまったから、もう女にゃ興味無くなったか?」
「・・・・何やと・・・・・?」
瞬間、激しい怒りが真島を揺さぶった。
表面上だけでも大人しく従わねばならない相手だとは百も承知だったが、拳に力が籠るのを抑えられなかった。
「誤魔化しは通じねぇよ?『穴倉』に送られた奴の『穴』が無事だったって話は、未だかつて一度も聞いた事ねぇんだから。
真島ちゃんもかなり可愛がられたんだろ?上は嶋野から、下は誰だか分かんねぇチンピラにまでよ。
この業界、意外とソッチもイケる好き者が多いし、お前は男をそそるツラしてっからなぁ。
何つーの?こう、メチャクチャに汚してやりたくなるっつーか、そのご立派な面魂を粉々に砕いて、よがり狂う雌みてぇに蕩けさせてやりたくなるっつーかよ。」
「・・・・・・・!」
思わず殴りかかりそうになった瞬間、真島は逆に、佐川に掴みかかられていた。
「うぐっ・・・・!何すんねん・・・・・!」
腕を掴まれ、後ろ手に捻り上げられて、真島はいとも容易くテーブルに押さえ付けられた。
本来、こんな細身の中年男に力で負ける筈は無いのだが、身体がいう事を聞かなかった。
弱っているせいばかりではない。
『穴倉』の後遺症が、あの屈辱と苦痛の記憶が、真島の心を恐怖で雁字搦めに縛り付けていた。
「う、うぅ・・・・・!」
無防備に突き出す格好になっている尻に、佐川の手が掛かった。
真島は恐怖と絶望の内に、佐川のその手が衣服を掴んで引き摺り下ろすのを覚悟していた。
「・・・・・・な〜んてな。」
しかし、そうはならなかった。
「冗談だよ冗談。俺はソッチの趣味は無ぇの。金積まれたってご免だよ、こんな固いケツ。」
佐川は鼻で笑いながら真島の尻をバシッと叩くと、まるで何事も無かったかのように、実にあっさりと真島を解放した。
「・・・アンタなぁ・・・・・!」
「ハハッ、何だよ真島ちゃ〜ん、もしかして泣いてんの?只の冗談なのに、何もそんな泣く程怖がんなくても良いじゃん。」
「誰がじゃ・・・・・・!」
精一杯虚勢を張ってみせても、身体は震えていた。
それはきっと、佐川にも見透かされている筈だった。
「ご主人様と飼い犬との、他愛もない遊びじゃん、ア・ソ・ビ。
こちとら何の見返りも無くこんな駄犬飼わなきゃいけねぇんだから、せめてこん位の楽しみはねぇとさぁ。俺、心折れちゃうよ。」
佐川は煙草をもう一吸いしてから、灰皿に押し付けて揉み消した。
「けど俺、真島ちゃんとは仲良くやっていけそうな気がしてきたよ。」
燃え盛るような怒りを必死で抑え込んでいる真島を嘲笑うかのように、佐川は唇の端を吊り上げた。
「俺さぁ、俺の事嫌いな奴が好きなんだよね。だって、虐め甲斐があって楽しいだろ?
俺の事嫌いな奴が、俺の足元に平伏す姿なんて、もう最高じゃん?」
「・・・・・エエ趣味しとるわ、アンタ・・・・・・」
報復代わりのせめてもの皮肉を、佐川は満足げに受け取った。
「じゃあな、真島ちゃん。また来るわ。しっかり養生して、早く元気になれよ。」
真島の肩をポンポンと気安く叩いてから、佐川は出て行った。
玄関のドアが閉まる音が聞こえた途端、真島はテーブルの上の折詰を掴み、力任せにゴミ箱に叩き込んだ。
靴音が聞こえる。
地獄の宴の始まりを告げる、あの音が。
「オラオラー!今日もたっぷり可愛がってやんぜぇ!?」
「オラッ、暴れるんじゃねぇっ!いい加減観念しろよ!」
「ケツこっちに向けろ、オラ!」
手枷と足枷に繋がれて、完全に自由を奪われている身体に、薄汚い野郎共がたちまち群がって来る。
否応無しに股を開き、本来そうするようには出来ていない器官に無骨な指を何本も捻じ込み、無理矢理拡げようとする。
冷や汗が噴き出るようなその苦痛と嫌悪感に、抗う術は無い。只々歯を食い縛って耐える他には、何も。
「何辛抱してんだよ!?さっさと声出せよホラ!」
「意地張るんじゃねーよ!いつもどうせ最後にゃアンアン喘いでんじゃねーかよ女みてーによぉ!」
こんな行為で、誰が快楽など感じるものか。
男としての尊厳を徹底的に踏み躙られている状況ではあるが、それでもそれを捨てた覚えはない。
どれだけ穢されようとも、ズタボロにされようとも、絶対に捨てる気はない。
「・・・何だよ、その反抗的な目は。」
また一人、招かれざる客が現れた。
「真島ちゃんさぁ、いつまでそんなやせ我慢すんの?そんな事したって何にもならないって、分かってるだろ?」
分かっている?
この男に、佐川に何が分かるというのだろう。
「この『穴倉』ん中で、意地張って耐え続けてたって無駄無駄。そんな事するよりさ、もっと他に方法があるだろ?」
靴音が近付いて来る。
「本気で嶋野のとこに戻りたいんならさぁ、この身体使うしかないっしょ。」
顎を持ち上げられて、目が合った。人を見下して嘲笑う、嫌な目だった。
「お前はさぁ、もう極道じゃない。それどころか、男ですらない。いい塩梅に仕込まれた『雌犬』なんだよ。」
その言葉が、只でさえ傷だらけのプライドに、一際大きなヒビを入れた。
「分かんねぇかなぁ?嶋野はさぁ、待ってんだよ。お前が自分から尻尾振ってアイツのナニをねだるのをさ。
一丁前なプライドとか、小生意気な野心とか、暑苦しい兄弟への仁義とか、そんなモン全部捨てちまってさぁ、只々アイツに可愛がられるだけの『オンナ』として生きる事を望んでんだよ。」
冗談じゃない。
確かに、かつて嶋野の絶対的な強さに憧れ、その背中を追って極道の世界に入った。
嶋野の為に命をも捧げる覚悟で、親子の盃を交わした。
だが、一人の人間としての誇りをかなぐり捨てて、愛玩動物のようにただ愛でられるだけの存在になどなる気は無い。
「お前だって本当は満更でもねぇんだろ?『オンナ』の快感、知ってる癖によぉ。
ブチ込まれる良さに目覚めて、女抱く事も出来なくなってる癖によぉ。」
違う。
違う。
言葉にならない激しい憤りが身体を突き動かし、無駄と知りつつ枷の嵌められた手足をもがかせる。
「何だ?違うとでも言いたげだなぁ?だったら証拠を見せてみろよ。」
佐川の背後に、華奢な人影が見えた。
「どうだ、この娘?ちゃんってんだ。なかなかのカワイ子チャンだろ?」
現れた女を見て、真島は息を呑んだ。
それは、だった。
「お前の為に、この俺がわざわざ用意してやったんだぜ?自分は男だと言い張るんならお前、今ここでこの娘抱いてみせろよ?」
いや、違う。
最初はかと思ったが、やはり別人のようだった。
その証拠に、は全く真島の事を知らない様子だった。
「さ、ちゃん。」
「はい。」
は佐川から枷の鍵を与えられると、微笑みながら真島に近付いて来た。
ひとつずつ枷が外され、やがて真島は自由になった。
だが、この隙を突いてこの場を逃げ出そうという気は、何故だか微塵も起こらなかった。
「どうしたの?」
小首を傾げて、妙に色っぽい上目遣いで見つめてくるを、真島は呆然と凝視していた。
別人だ。
それなのに、やっぱりに見える。
肩までの長さの艶やかな栗色の髪も、気丈そうな瞳も、そのものだ。
「抱かないの?私の事・・・・」
だが、違う。
声も同じだが、やはりではない。
「ねぇ・・・・・」
の手が、焦れて誘うように真島の肩を揺さぶる。
この女がなのかなのか、考えれば考える程分からなくなっていく。
「何だよ、だらしねぇなぁ真島ちゃ〜ん。」
佐川の嘲笑が、頭の中をメチャクチャに掻き乱す。
どうしようもない苛立ちが、凶暴な衝動へと変わっていく。
「・・・・・っ・・・・・・・・・!」
やってやろうじゃないか。
俺は男に抱かれて悦ぶ『雌犬』なんかじゃない。
何もかも捨てて、親父の『オンナ』になどなりたくない。
俺は、女じゃない。
「・・・・ぅあああああーーーーッッ!!」
真島は叫び声を上げながら、目の前の女のか細い手首を掴み、強引に引き寄せた。
「きゃあっ・・・・・!」
「ふぅッ、ふぅぅッ・・・・・・!」
「ちょっ・・・・、とっ・・・・!いやっ・・・・・!」
さっきまでの媚びた態度とはうって変わって抵抗し始めた女を腕の中に無理矢理抱き竦め、床の上に押し倒して圧し掛かり、小さな唇を貪った。
「んぅっ・・・・・!んんっ・・・・・・!」
柔らかい唇の感触と仄かな良い香りに、頭がクラクラする。
久しぶりに抱く『女』に、身体はすぐさま熱く反応している。
そう、俺は女じゃない。
男だ。
男なんだ。
「んんんっ・・・・!?」
真島は呪文のようにそう繰り返しながら、女の服の裾から強引に手を突っ込み、絶妙な弾力のある乳房を鷲掴みにした。
「ぐっ・・・!」
その瞬間、鋭い痛みが舌に走った。
反射的に唇を離すと、真島の下で、が息を切らせながら震えていた。
頬を紅潮させ、涙に潤んだ瞳で睨み上げてくるを認識した瞬間、真島はようやく我に返った。
「っ・・・・・!す、すまん・・・・・!!」
慌てて退くと、は警戒に満ちた目を真島に向けながら、ゆっくりとベッドの上に起き上がった。
「夢見てて、寝ぼけてもうた・・・・。ホンマにすまんかった・・・・。」
最初は何が何だか分からなかったが、つまり、そういう事だった。
だがにしてみれば、これはこれで最低の言い訳だろう。
これ以上言い様もなくて黙っていると、は乱れた髪や服を整えて出て行ってしまった。
しかしは、帰っていった訳ではなかった。
すぐに台所から、水を流す音やビニール袋を開ける音が聞こえてきたのだ。
真島は身体の火照りが鎮まるのを待ってから台所に入り、恐る恐るの背中に声を掛けた。
「・・・・・・・何・・・・してるんや?」
「・・・・見たら分かるやろ、お昼ご飯の支度や。」
「それは分かっとるけど・・・・、そないな事を訊いとるんやなくてやな・・・・」
側に行って、の表情を確かめたい。
だが、まっすぐピンと伸びたその美しい背筋が近寄り難い雰囲気を醸し出していて、近付く事が出来なかった。
「・・・・怒っとらんのか・・・・?」
悩んだ挙句、真島は直球で訊いた。
「怒ってるわ、どアホ。いきなり何すんねん。」
「うぅ・・・・・!だ、だからそれはやなぁ・・・」
「でも・・・、別に疑ってはないけど。」
は不機嫌そうな声で、小さくそう呟いた。
「あんた、えらいうなされてたから。そやから起こそうとしたんや。」
「そ、そうか・・・・・・」
「何の夢見てたん?」
「え・・・・・?」
「寝言であんた、『俺は女やない』って言うてたで。」
答える事は出来なかった。
あれは夢であって夢でない、ほんの少し前までの現実なのだから。
それに加えて、お前を抱くように佐川に挑発されたなんて、口が裂けてもには言えない事だった。
「さ・・・・さぁ、何やったかな。忘れてもうたわ。」
「何やそれ。」
は鼻を鳴らすと、ようやく真島の方を向いた。
その顔は、多少厳しくはあるものの、何故かそう決定的に怒っていそうではなかった。
「部屋に閉じ籠って寝っぱなしやから、訳の分からん夢見てうなされるんとちゃう?」
「う・・・・ん・・・・、まぁ、そうなんかもな・・・・・」
「良い事思い付いたわ。」
「な、何や?」
何を言い出すのか少し身構えながら待っていると、は真島ににんまりと笑いかけた。
「後でちょっと散歩行こ!今日良い天気で外気持ち良いし!」
「は・・・はぁ!?」
「熱も下がったんやし、いつまでも食っちゃ寝してたらあかんわ。軽い運動でもして、ある程度身体動かさな。
犬かてお散歩連れて行かな、運動不足で欲求不満になるやろ?」
「だ、誰が欲求不満じゃ!つーか犬ちゃうて何回言わせたら・・」
「え?文句?まさか文句?そんなんどの口が言う気?」
「うっ・・・ぐ・・・・・!あ、あれへんがな、別に文句なんか・・・・・・」
文句など確かに言えた義理ではないし、言う気もない。
睨みつけてくるの瞳に嫌悪や軽蔑が無さそうな事を、真島は内心で安堵していた。
昼食を済ませた後、は真島を外に連れ出した。
昨日はタクシーを拾うまでのごく僅かな距離だったが、今日は特に目的もない、気ままな『散歩』である。
真島の身体に負担が掛からない程度に、のんびりブラブラ歩こうと思っていたのだが。
― うわ、めっちゃ見られてる・・・・・・・
今、は想定外の事態に困惑していた。
道行く人が皆、真島を物珍しげにジロジロ見るのだ。
原因は分かりきっている。真島の風貌、特に惨たらしい傷で塞がれたその左目である。
考えてみればこんな目立つ傷、否応なく人目を惹いて当然なのだが、はもう見慣れてしまっていて、こうなるまでその事に全く考えが及んでいなかったのだった。
「おう兄ちゃん、ごっつい目ェしとんのう!」
「チャラチャラ長い髪しよって、女連れてイキっとんとちゃうぞ〜!」
ジロジロ見るだけならまだしも、真昼間からコップ酒片手に千鳥足で歩いているような薄汚い連中などは、野次まで飛ばす始末である。
こんな連中と殴り合いの喧嘩でもされたら大変だと、は真島の袖を軽く引っ張った。
「無視無視。気にしたらあかんで。」
「分かっとる。」
脊髄反射でブチ切れているんじゃないかと思っていたが、真島は意外にも平然としていた。
ヤクザの癖に、意外と平和主義者なのだろうか。
眉間に皺1本入れていない真島の顔をそっと盗み見ていると、不意に誰かがの腕を掴んだ。
「きゃっ!な、何っ!?」
「ネーちゃん、こんな一つ目小僧のどこがエエねん?こんな奴フッてもうて、ワシと飲まんか?おぉ?」
「ちょっ・・・・・!」
酔っ払いの一人に腕を掴んで引っ張られて、は身を捩って抵抗した。
「ちょっと!!やめてやこの酔っ払い!!触らんとって!!」
「こんな目ん玉片っぽ無いような奴、下の玉も片っぽ無いんとちゃうか!?ネーちゃんも物足りんやろう!?えぇ、どやねん!?ガッハハ・・」
その時、の腕を掴んでいる酔っ払いの腕を、真島が掴んだ。
「・・・放せや、オッサン。」
「ぐ、ぐぐ・・・・ぅ・・・・・!」
真島はただ、酔っ払いの手首を掴んでいるだけだった。
それなのに、ただそれだけで酔っ払いの顔色がみるみる内に変わっていく。
「ひっ、ひぃぃっ・・・・、す、すまんかった・・・・!」
「おっ、おいっ、待ってくれや・・・・!」
それからものの数秒とかからぬ内に、酔っ払いは手首を庇いながら情けなく逃げて行った。
「大丈夫か?」
「大丈夫、やけど・・・・・・」
一人の時だったら怖いと思っていただろうが、不思議と今はさほど怖いと思っていなかった。
真島が隣にいるからだろうか。
しかしそんな事よりも、今は他に考えねばならない事があった。
「けど、何やねん?」
「ちょっと考えなあかんな。」
「何をや?」
は暫し、真島の顔をじっと見つめて考えを練った。
「な、何やねん?人の顔じっと見てからに・・・・」
「ん〜・・・・・・」
程なくして、『アレ』しかないという結論が出た。
「よっしゃ。最初の目的地決定や。」
「は?何やそれ?どこ行くねん?」
「最初は薬局や!ダッシュで行くで!」
首を捻っている真島に向かって、はそう言い放ったのだった。
「・・・・・・なぁ、これどうしてもせなあかんのか?」
「あかん。」
「うっとしいねんけど。」
「我慢し。」
諦めたような溜息が聞こえて、は隣を歩く真島の顔を見上げた。
その左目には、医療用の白い眼帯が装着されている。
そう、最初の目的地を薬局にしたのは、これを買う為だった。
「ほら。それのお陰で、人の視線が全然ちゃうやろ?」
眼帯を着けた途端、通行人達の反応が随分マシになった。
それは真島も実感しているのだろう、反論はしなかった。
「しかし、ちぃとダサないか?どうせやったらサングラスが良かったわ。」
「あんた只でさえガラ悪いのに、そんなん掛けたら凶悪すぎて警察呼ばれんで。」
「そこまで言うか。」
「とにかく、これから外出る時はそれするんやで。分かった?」
「へいへい。」
「へいは1回。」
「うーい。」
下らない掛け合いをしながら歩いていると、誰もいない小さな公園が見えてきた。
いつもは買い物の行き帰りに素通りするだけだが、真島を日向ぼっこさせるには丁度良い場所である。
この公園の側には、確かたこ焼きののぼりを出している駄菓子屋があった筈だと辺りを見回すと、うまい具合に今日は開いていて、鉄板の前でお婆さんがたこ焼きを焼いているのが見えた。
「おばちゃーん、たこ焼き6個のやつ、2つちょうだい。」
「はいよ〜、ちょっと待ってなぁ。」
一足先に行って注文を済ませると、後からやって来た真島が少し困ったような顔での腕をつついた。
「お前、何勝手に買うてんねん。」
「何って、たこ焼きやん。小腹空いたやろ。」
「空かへんわ。昼飯でまだ腹一杯やねんけど俺。」
「何情けない事言うてんの。男やろ。こん位食べぇや。」
が真島を叱ると、お婆さんもたこ焼きにソースを塗りながら同調した。
「せやせや。兄ちゃんアンタ、もっと食べなあかん。そないに痩せとったら折角の男前が台無しや。」
「ほら、おばちゃんもこない言うてはるやん。」
「おまけしといたるから、食べ食べ。」
お婆さんは6個入りのたこ焼きの舟に、1個ずつおまけを入れてくれた。
それを見た真島は一層困惑したような顔になったが、やがて小さく溜息を吐き、ズボンのポケットから千円札を出した。
「・・・おおきに、おばちゃん。勘定これで頼むわ。」
「はいよおおきに〜。」
例の、男のプライドというやつだろうか。
どうせ元の出処は同じ金なのに、いちいち面倒くさい。
だが真島はそのプライドだか漢気だかを大事にしているようなので、それは尊重してやった方が良さそうだった。特に、こういった人前では。
「はいよ、お待たせ。ほなお釣り800円な。おおきに。」
「ありがとおばちゃん!あそこのベンチに座って食べよか。」
「おう。」
たこ焼きを受け取ると、は真島を公園のベンチに誘った。
がベンチの端に腰を下ろすと、真島はまるで躊躇うかのような間を少し置いてから、反対側の端に座った。
「さっ、食べよ食べよ!熱い内に食べな美味しないで!」
ものには何でも『食べ時』というものがある。
熱いものは熱いうちに、冷たいものは冷たいうちに食べるべきだ。
たこ焼きはそれが顕著な一品で、冷めるにつれて味が格段に落ちていく。
熱々のたこ焼きを少し冷まそうとしている真島に、は早く食べるよう促した。
勿論、真島が猫舌だという事を知った上での事である。
「俺、猫舌やて言うとるやろが。」
「そんなもん、根性入れたら何とかなる。」
「ムチャクチャ言いよんなお前・・・・・」
真島は恨めしげにを一瞥してから、熱々のたこ焼きに何度も息を吹きかけつつ、恐る恐る口に入れた。
「あっづぃったっ・・・・・・!」
案の定、真島は不明瞭な声を上げてのたうち回り始めた。
熱さにもやられているのだろうが、さっきが噛んだ舌の傷にも滲みるのだろう。
幾ら何でも少しやり過ぎただろうかと思いながら見守っていると、暫くしてどうにか峠を越えたらしく、真島は口の中の物をしっかりと咀嚼して飲み込んだ。
「・・・・・これが本場のたこ焼きか・・・・・・」
前々から思っていた事があった。
独り言のような真島のその呟きが、にその事に対する確証を与えた。
「・・・・・なぁ、あんた関西の人とちゃうやろ。」
「俺は東京モンや。こっちに来たのはこれが初めてや。」
「やっぱりな。実は前々からあんたの関西弁の発音変やな〜と思っててん。」
「うっさい。ほっとけ。」
「ほな、親御さんが関西出身とか?」
が尋ねると、真島はふと、何処か遠くを見るような目をした。
「・・・・・親父と兄弟が関西の出や。せやから言葉が移ってしもた。」
「お父さんと兄弟?え、どういう事?」
「血の繋がっとる実の親兄弟っちゅう訳やない。盃交わした、親分と兄弟分や。」
そう答えた真島の横顔が、酷く哀しげに見えた。
は、真島と初めて会った日の事を思い出していた。
死んだら死んだで構わないと呟いた、あの時の諦めたような哀しい微笑みを。
「・・・・・なぁ、訊いてもええ?」
「ん?」
「あんた、何があったん?」
訊かずにはいられなかった。
佐川に頼まれた仕事をするのに必要な情報だという訳ではないが、それでも知りたかった。
この男の抱えている事情を、過去を、『真島吾朗』という男の事を、一つでも多く。
「初めて会うた時、あんた、3日位前に連れて来られたって言うてたやろ。
それって東京からって事やろ?何で?何であんなボロボロの状態で、そんな遠くから連れて来られたん?」
「・・・・・・色々や。」
「え・・・・・?」
「色々あった。お前のような、綺麗な人間には分からん事が・・・・・色々な。」
不意に向けられた眼差しは、一瞬言葉を失ってしまう程に真剣で、優しかった。
「・・・・・な・・・によ、それ・・・・・・」
今まで散々アホだのチンチクリンだの憎まれ口ばかり叩いていた癖に、急にそんな目をしてそんな事を言われたら、調子が狂ってしまう。
真島の顔をまともに見られなくて、は彼の足元に視線を落とした。
「そんなん、全然答えになってへんやん・・・・・・。」
「ま、別にええやんけそんな事は。大した話とちゃうんや。
追われて逃げて来たとか、そういうのとちゃうから、誰かに襲われるとかいう事は無い。
お前が危ない目に遭う事は絶対無いから、心配せんでも大丈夫や。な?」
真島は大きな勘違いをしていた。
自身は、自分の身に危険が迫るかも知れないとは、全く考えてみた事もなかった。
「そっ・・・・、そうじゃなくて・・・・・!」
が心配しているのは、只々、真島の事だけだった。
だが、それを素直に口に出す事は、どうしても出来なかった。
「だ・・大体、私にしてみたら何もかも訳が分からんねん!あんたもやけど、佐川さんもや!
あんた、佐川さんとどういう関係なん!?あの人何であんたの事犬扱いするん!?
あの人もあんたもヤクザなんは分かってるけど、『犬』ってどういう事!?子分とは違うの!?」
口に出せないもどかしさに突き動かされて、は真島を問い詰めた。
この人は何故、こんな惨い目に遭わされたのか。
この人を『犬』と呼ぶ佐川は、この人をどうする気なのか。
この人は、これからどうなるのか。
どうしても、知りたかった。
「昨夜あの人、うちの店に来はってん。あんたの面倒を頼まれた時以来や。
そやから私、それとなくあんたの事を訊いてみたんやけど、あの人何にも答えてくれへんかった。笑ってはぐらかされて、それっきり・・・・」
何か答えてくれと念を込めて真島の顔をじっと見つめていると、真島はの視線から逃げるように、そっと目を逸らした。
「・・・佐川は、俺の親父の代紋違いの兄弟分や。俺もここ来る時に初めて会うた。そやから俺も、あのオッサンの事は殆ど何も知らんのや。」
「・・・・・そう・・・・・・」
返ってきたのは、残念ながら無いに等しい答えだった。
だが多分、嘘ではなかった。
途方に暮れたような覇気のない声で呟く真島は、嘘を吐いて誤魔化そうとしているようにはどうしても見えなかった。
それ以上言い様もなくて押し黙っていると、今度は真島が何か訊きたげな目を向けてきた。
「・・・・お前昨夜・・・・・、佐川と一緒におったんやろ?」
「え?」
唐突で、意図の分からない質問だった。
「何それ?どういう意味?」
「いや、だからその・・・・、店済んだ後に、一緒に寿司食いに行ったんやろ、って・・・・」
「ううん、そんなん行ってへんで。指名はされたけど、ちょっと話しただけで、私すぐに佐川さんの贔屓の子と代わったから。」
「へ・・・・・・?な、何でや?」
「だって、その子に客盗ったとか勘違いされたら嫌やし。
佐川さんは特に羽振りがええ太客やから、絶対面倒くさい事になるに決まってるもん。」
「・・・・・そやったんか・・・・・・」
一瞬、真島が心なしか安心したように見えたのは、気のせいだろうか。
その真意を測りかねていると、真島が再び口を開いた。
「・・・実は俺んとこにも、昨夜遅うに来よったんや。」
「え?ホンマ?」
「聞いたで。お前、このバイト続ける気ィらしいな。」
探るような真島の目に、は一瞬動揺した。
「・・・・・うん。」
「何でや?昼も夜も働きづめやったら、休む暇も無いやろ?そないに金に困っとんのか?」
確かに、金には困っている。
だが、それだけならば、こうして毎日毎日通う必要は無い。
経費込みの報酬なのだから、この男に使う分をもっと削って自分の取り分に回す事だって出来る。
けれども。
「・・・そうや。だから何やの?」
「なっ、何っちゅー訳でもないけど・・・・・。そない堂々と肯定されると、何も言い返されへんがな・・・・・」
放っておくと今にも消えてしまいそうな目をするこの男を、一人にしておけない。
「・・・・そやけど、その・・・・、嫌やないんか・・・・・?」
「え?」
「いや、だからその・・・・、またさっきみたいな事されたらどないしよ、とか・・・・」
さっきのアクシデントが、の脳裏に蘇ってきた。
物凄い力で、獣のように獰猛に襲い掛かってきたさっきの真島が、怖くなかった訳ではない。
しかし今後、彼がまた同じ事をしてくるかも知れないとは、どうしても思えなかった。
「え?またやる気なん?」
「いっ、いや!やらんがな!やらんけどやな!」
女を欲望の捌け口としか見なさない男は、こんな風に格好悪くあたふたしない。
もっと思わせぶりな態度を取って、惜しみなく甘い言葉を囁いて、愛や情で縛り付けておいてから、女の身も心も食い散らかす。
およそこの男に出来る芸当ではない。
「・・・・ふふっ・・・・・!」
焦っている真島を見ていると、思わず笑いが込み上げてきた。
「次やったらベロ噛み千切ったるからな。次はたこ焼きが滲みる位じゃ済まへんで。」
「ぅぐっ・・・・!何ちゅー女や・・・・・!」
「ほら、早よ食べやな冷めるで!」
この先がどうなっているのかは、まるで分からない。
ただ確かなのは、佐川と契約した一月という期間と、そして、今こうしている時間を楽しいと思っている、自分の本心だけだった。