檻の犬と籠の鳥 3




「おー、凄い。全部無くなった。」

空っぽになった鍋を見せて、女は目を丸くした。


「残るかな〜と思っとったけど、全然残らんかったわ。思ったよりよう食べたなぁ、あんた。」

女は何だか機嫌が良さそうに笑いながら、水の入ったグラスと共に錠剤を幾つか、真島の前に差し出した。


「はい、これ風邪薬と解熱剤。それ飲んでもう1回寝ぇ。」
「・・・・・・・」

熱が本当に風邪のせいなのかどうかは分からなかったが、真島は出された薬を全部口に放り込み、水を呷って飲み下した。


「・・・・・お前は、何も訊かんのか?」
「何もって?」
「俺の事。その様子じゃ、佐川から何も聞いとらんのやろ。」

真島は、女の顔を探るように見つめた。
すると女も、真剣な表情で真島の顔をまっすぐに見つめ返してきた。


「・・・そやな。犬としか聞いてへんかったわ。」
「ほんなら、何か聞きたいんとちゃうんか?」

一体何者なのか、何処から来たのか、何故ここにいるのか、この衰弱や身体中の怪我は一体何なのか、
そして、何故佐川が自分を『犬』扱いするのか。
この女にしてみれば、訊きたい事はきっと色々ある筈だった。


「訊いてもええの?」
「ああ。」
「じゃあ、教えて欲しい事があるねんけど。」
「何や?」

堅気の女に事情を明かす気はない。住む世界が違うのだから、理解して貰える訳もない。
だが、仕事とはいえ世話になった以上、礼儀として答えられる範囲では答える所存だった。
少なくとも、この女が仕事をする上で不安や恐怖を感じ得る事は、ちゃんと答えてその心配は無いと安心させてやるつもりでいた。


「あんたのパンツのサイズ教えて。あと服のサイズも。」

それなのに女は、大真面目な顔で訳の分からない質問をしてきた。


「は・・・、はぁ!?何やそれ!?」

完全に想定外の、それも明後日の方向にぶっ飛んだトンチンカンな質問をされ、真島は思わず面食らった。


「俺のパンツのサイズやと!?お前が今知りたいのはそんな事なんか!?」
「そうや。やから訊いてんねん。」
「何の為に!?」
「あんたの着替えを買いに行く為に決まってるやんか。」
「っ・・・・!」

これ以上ない程納得のいく回答を喰らって、真島はぐうの音も出なくなった。


「だってあんたの着替えらしき物が何も無いねんもん。そやから、下着とパジャマの替えを買いに行って来ようと思って。」

そういえば、確かに着替えが無かった。
ここに連れて来られた時に、血みどろの汚い格好で部屋に入られるのを嫌がった佐川が、手下に命じて服を一揃い買いに行かせたが、そいつが全く気の利かないボンクラで、長袖のTシャツとスウェットのズボンとトランクス、それぞれ1枚こっきりずつしか買って来なかったのである。
それからかれこれ3日。よく自分の匂いは自分では分からないというが、自分でも薄々分かる。
今着ている物も、もうそろそろ限界だった。


「・・・パンツはM、服はLLや。」
「何でそんな差があんの?」
「服はLLやないと丈が足らんのや。」
「あ、なるほど。」

女は納得したようにコクコクと頷くと、食べ終わった後の食器を片付け始めた。


「分かった。パンツがMで服がLLやな。お皿洗い終わったら行って来るから、あんたはほら、早よ寝といで。」

さっき会ったばかりの見ず知らずの女に指図されるのは気に食わない。
が、やはり身体が言う事を聞かない。
この女の言いつけに大人しく従うような形になるのは甚だ不本意だったが、真島は黙って席を立ち、ベッドへ戻る事にした。


「・・・・・・おい」

だがその前にひとつだけ、どうしてもこの女に言っておかねばならない事があった。


「何?」
「パンツはトランクスやぞ。間違って白ブリーフなんか買ってきたら、お前の頭に被せたるからな。」

そう言い置くと、真島はふらつく足取りで部屋に戻り、引き戸をピシャリと閉めた。

















昼食の片付けを終えた後、は再び買い物に出た。
スーパーや薬局を探すのには少し苦労したが、男物の衣料品店には心当たりがあった。
マンションのすぐ近くに、『オヤジの聖地』ともいうべき町があるのだ。
若い女が一人で歩くには全く不向きな場所だが、今は昼だからまだマシな筈だと自分を奮い立たせ、はそこへ出向いた。


「オネーちゃん、彼氏の服か?」

目についた服屋で適当に見ていると、店主らしき中年の男がニヤニヤと声を掛けてきた。
違いますと即座に否定しかけたが、じゃあ何なんだと返されると余計に面倒なので、適当に受け流す事に決めた。


「う〜ん、ちょっと。」
「何探しとんの?」
「長袖のTシャツと、スウェットのズボンと、下着。」
「サイズは?言うてくれたら出すで〜。」
「うん、ありがと。」

たかが寝間着なのだから別に何でも良い・・・筈なのだが、ついつい色やデザインを見てしまうのは女の性だ。
は真島の顔を思い浮かべながら、頭の中でその顔と服とを次々に組み合わせていった。


「う〜ん・・・・・」

面長で目が鋭く、彫りの深いあの顔に似合うのは。


「・・・・・う〜ん・・・・・」

無難に黒や茶色?
黒は既に着ているし、無難といえば白が一番だが、あの凄まじい刺青が透けてしまいそうだ。
青や紺、緑は?
悪くはないだろうが、何だかピンとこない。
ならば思い切ってピンク?
そんな茶目っ気のある奴には見えないし、ボロカスに文句を言われそうな気がする。


「・・・・・あ、これ似合いそうやん・・・・・・・」

少し暗めの、深い赤。
この色は、あの精悍な顔立ちに良く似合いそうだった。


― ・・・って何考えてんの私!ちゃうちゃう、怖い顔の間違いやから!


は一瞬頭を過ぎった妙な考えを全力で否定しながら、その赤いTシャツを手に取った。
プリントのデザインは英文字が主体のシンプルなもので、無難な感じだった。
サイズがあればこれにしようと決めて、は店主に声を掛けた。


「おっちゃん、これLLある?」
「おお、確かあったと思うわ。ちょお待っててや。」

店主はすぐに、店の奥からビニール袋に包まれた真新しいTシャツを出してきた。


「ほれ。これがそのシャツのLLや。」
「じゃあそれ下さい。あとは・・・・・・・」

は更に、ダークグレーのTシャツと黒いスウェットのズボンを選び出した。


「それから・・・・、パンツやな。」

問題はパンツだ。
パンツのコーナーを前に、は暫し悩んだ。
白ブリーフなんか買って来るなよとわざわざ強調して言っていたが、あれは買って来いという『フリ』だったのだろうか。
いやまさか、あんな衰弱した状態で、ギャグをかます気力なんて無いだろう。
それに何より、あの男に白いブリーフは、きっと絶対に似合わない。
経費の無駄遣いも避けたいし、やはりここは無難にトランクスにしておくのが上策だという結論を出したは、これまた無難な黒系の色合いのトランクスを2枚選び、レジに出した。

















着替えを買ってマンションに戻ると、真島はベッドに横になっていたが、眠ってはいなかった。


「着替え買うて来たで。それ洗濯するし、着替えたら?」
「・・・・・おう・・・・・・」
「ちょっと待ってて。用意するから。」

は着替えの下着と服を用意した後、熱いお湯でタオルを絞った。
そして、それらを持って、もう一度真島のいる部屋に入った。


「はいこれ、着替え。その前に身体拭いたら?
その熱やからお風呂はあかんけど、身体拭くだけでもちょっとはさっぱりするやろ。」

真島は着替えとタオルを受け取ると、無言のままをジロリと一瞥した。


「・・・何よその目。まさか私に拭けとか言わんといてや。それ位自分でやって。」

は毅然と言い放つと、部屋を出てピシャリと戸を閉めた。


「・・・・・・〜〜〜っ・・・・・!」

今なら分かる。
昨夜、何故佐川があんなに笑い転げたり、妙に思わせぶりな事を言ったのか。
知らなかったとはいえ、とんでもない事を口走ってしまっていたのだ。
あの男を、『お風呂に入れてあげる』なんて。


― ち、ちゃうちゃう、ちゃうから!佐川さんが犬とか言うから・・・・!

自分に対して必死で言い訳をしていると、引き戸が少しだけ開いて、向こう側から白い腕がニュッと伸びてきた。


「な、何っ!?」
「タオル。もっかい絞ってくれ・・・・・」
「わ、分かった・・・・・、ちょっと待ってて・・・・・」

真島の持っているタオルを受け取ると、は戸の向こう側を見ないようにしてもう一度台所でタオルを絞り直し、伸びたままの手に持たせてやった。
タオルを掴むと、真島はまた腕を引っ込め、引き戸をピシャリと閉めた。


「・・・・・・・」

沈黙が重苦しい。
その重みに耐えきれず、は何とか会話の糸口を探した。


「・・・・・あ・・・・・パンツ、それで良かった?」
「・・・・・おう」

少しの間を置いて、引き戸越しに返事があった。


「ホンマ?白ブリーフとどっちにしよか迷ってんけど、それなら良かったわ。」
「何でやねん・・・・・・。お前ホンマに被せて欲しかったんか・・・・・?」
「何でやねん。普通あんな言い方されたら、『買って来い』っちゅーフリかと思うやんか。
でも、そんな熱出てしんどい時にギャグも出来へんやろうしと思って・・・・・」
「普通て・・・・・。流石、関西人やのう・・・・・・」

引き戸越しに下らない会話をしていると、やがて引き戸が大きく開き、服を着替えた真島がふらつきながら出て来た。


「あ・・・・・」

よう似合うやん、という言葉が思わず出掛かり、慌てて飲み込んだ。
必要に迫られたから買ってきただけであって、別に誉めてやる必要までは無いのだから。
だが、の見立てた赤いTシャツは、やはり真島に良く似合っていた。


「サイズどう?きつかったり緩すぎたりせぇへん?」
「大丈夫や・・・・・・」

真島はタオルと脱いだ服を抱えていた。
それを持って行く先を探しているような素振りを見せたので、は手を差し出した。


「貰ろとくわ。ええからあんたは寝ぇ。」
「・・・・・おぅ・・・・・」

真島はの手にそれらを預けると、大人しく踵を返した。


「・・・・・お前なかなか気が利くやんけ、・・・って言いたかっただけじゃ。」
「え・・・・?」
「さっきや。別にお前に拭かせようとか思っとらんかったわい。勘違いすんな。」
「な・・・」
「しかしまぁ、お陰でちょっとさっぱりしたわ。」
「・・・・へ・・・・・・?」

背中越しに一方的に投げつけられた言葉、特に最後の感謝の言葉らしき一言に、は思わずポカンとした。


「寝る。起こすなよ。」

真島はぶっきらぼうにそう言い捨てて、ピシャンと戸を閉めてしまった。


「な・・・・・何やねんな、感じ悪・・・・・・」

真島吾朗。
依然として怪しい奴ではあるが、もしかしたら、根はそんなに悪い奴ではないのかも知れない。
・・・と考えるのは、些か早合点だろうか。


「・・・・・・くさっ。はよ洗濯しよ・・・・・」

一瞬ほだされかけた自分を、は腕の中の真島の抜け殻から漂ってくる異臭で誤魔化したのだった。














バイトはあくまでも副業、店を休むという選択肢はには無かった。
少しでも多く、金が要るからだ。
苦しそうな息をしながら眠っている真島を一人にするのは心配だったが、ずっと付きっきりでいる訳にもいかない。
万が一、大丈夫じゃなくなれば、本人が佐川にでも助けを求めるだろうし、佐川だってきっと何とかするだろう。
だって、真島を死なせる気は、佐川には無いのだから。
だから、この男の事なら大丈夫だ。
は何度も自分にそう言い聞かせて、いつも通りの時間に出勤した。
だが、身支度をしている時も、接客中も、片時も真島の事が頭から離れなかった。

酷い傷だった。
酷い熱だった。
酷く痩せこけて、身体中ボロボロだった。
元々の真島を知っている訳ではないが、あれは絶対に尋常な状態ではないと断言出来る。


― ・・・・あかん、やっぱり気になるわ・・・・!


夜の11時を回った頃、の忍耐は限界を超えた。
は店を早退すると、タクシーに乗り込んで再び佐川のマンションに向かった。
真島や佐川が何を考え、どんなつもりでいるのかは知らないが、本人達の思惑に反して大変な事になる可能性が無い訳ではないのだ。
こうしている今も、下手をすれば命の危機に陥っているかも知れない、そう思うと気が気でなかった。
マンションの周辺は、夜ともなると一層ダーティーで危なげな雰囲気を醸し出していた。
電柱にもたれてぼんやり煙草を吸っている浮浪者も、何とも不気味で嫌な感じだった。
はどうにか恐怖を抑え込んでタクシーを降りると、逃げるようにして一目散にマンションへ駆け込んだ。
エレベーターのボタンも連打して3Fまで大急ぎで上がり、無事に302号室に辿り着くと、ドアの鍵を静かに開けた。
もしかしたら佐川が来ているかも知れないと思ったが、玄関に靴は無く、室内も真っ暗だった。
は息を殺して廊下を通り過ぎ、台所に入った。
天井の電気の紐を静かに引いて灯りを点けると、シンクに鍋と食べ終わった後の食器が置いてあるのが見えた。
夕飯はちゃんと全部食べたのだ。少しだけ安心して、はそっと引き戸を開けた。


「ゴホッ、ゴホッ・・・・、ハァ・・・・、ハッ・・・・・」

真島は相変わらず、苦しそうに眠っていた。
昼間は無かった咳まで出ている。
熱はどうだろうかと思って汗ばんだ額に掌をそっと当てると、真島の右目がゆっくりと開いた。


「・・・・何や、お前・・・・・、また・・・・来たんか・・・・・」
「案の定やわ。熱、めちゃめちゃ高いやんか・・・・」

こんなに熱があるのに、真島は無頓着に、ただ寝ているだけだった。
頭も冷やさず、水分を摂っている形跡も無かった。


「晩の分の薬、飲んだんか?」
「・・・あぁ・・・・・」
「佐川さんは?来てへんの?」
「・・・あぁ・・・・・」
「電話は?」

真島は無言のまま、ごくごく僅かに首を横に振った。
多分、佐川も組員も、誰一人来ていないのだろう。
夕方にが帰ってから以降、この男はずっと独りで苦しんでいたのだと思うと、本来その必要は無いであろう罪悪感を覚えると共に、何だか腹が据わったような気になった。


「とにかく、熱計って。ほら。」
「ぅ、ぅ・・・・・・・」
「今、頭冷やすもん持って来るから。」

は真島の腋に体温計を挟み込むと、肩にかかる髪をひとつにひっつめながら台所に立った。
こんな状態の人を、知らん顔して放っておく事はやっぱり出来ない。
少なくとも熱が下がるまでは、出来るだけ側にいて看病してやろうと決めたのだ。
は手を洗い、急いでタオルを絞り、白湯を用意して真島の元に運んだ。


「ちょっと水分摂らなあかんわ。ちょっとだけ頭起こせる?」
「う・・・・うぅ・・・・・・」

真島は朦朧としながらも、の言う通りに頭を持ち上げた。


「ほら、お白湯。」

は真島の頭を支えながら、コップを真島の唇に押し当ててゆっくりと傾けた。
ゴク、ゴク、と喉の鳴る音がして、やがて真島は人心地ついたような溜息を吐いた。
また元の通りに寝かせてやり、体温計を取り出すと、熱は40度まで上がっていた。


「なぁ。薬、何時頃飲んだ?」
「・・・・・分からん・・・・・・。多分・・・・、9時頃・・・・・・」
「9時か・・・・・・」

今は夜中の11時半、解熱剤を再度服用するにはまだ早すぎた。


「なぁ、やっぱり病院行こ?夜間の救急やったら開いてるから・・・・」

堪りかねたは、再度真島の説得を試みた。
真島が一般人でない事は承知しているが、こうなってはどうしようもない。
ヤクザだろうが何だろうが、病人は病人なのだから、医者だって無下にはしない筈だ。


「・・・せやから・・・・、平気やて・・・・言うとるやろ・・・・・。大袈裟な・・・・やっちゃな・・・・・」
「大袈裟とちゃうわ・・・・!こんなになって、死んでもうたらどうすんねん・・・・!」

しかし、当の真島は高熱に浮かされながらも、心配しているを見て、無精髭の伸びた口元を薄らと綻ばせた。


「・・・・それならそれで・・・・、構へんわ・・・・・」
「構へんてあんた・・・・・・」
「色々・・・・・世話かけたな・・・・・・」

初めて会うなりいきなり締め上げて、怖い顔で睨んで、憎まれ口を叩いて、悪態を吐いて。
初めて笑ったと思ったら、まるでこれから死にに行くかのように諦めきった哀しい微笑みだなんて。


「・・・アホ・・・・・!何言うてんのや・・・・・!」

は堪らず、真島の大きな手を両手でギュッと握り締めた。


「大袈裟はどっちや・・・・・!こんなんで死なんわ・・・・・!」
「・・・ヘッ・・・・、何やねん・・・・・。お前が先に・・・・言うたんやろが・・・・・」
「何言うてんねん、晩ご飯ペロッと完食してる奴が、そんな簡単に死ぬか・・・・・!」

この男にしてあげられる事など、何も無かった。
ただ、側にいて、手を握って、凍えているかのように小刻みに震えている身体を擦ってあげる事位しか。
















翌日の日中、真島の体調が少し落ち着いている時を見計らって、はひとまず一度家に帰った。
本腰を入れて看病するに当たって色々と必要な物があったし、母親に事情も説明しておかねばならなかったからだ。
家に帰ると、は急いで風呂に入って着替えをし、マンションに泊まり込む為に必要な荷物を手早く纏めた。
母親には、店の得意客に頼まれてペットの面倒を看るバイトを始めたと、事実をそのまま報告した。
ただ、その『ペット』が人間の男であるという点だけを伏せて。
の母親は、破格の報酬を前金で受け取っているという点で一も二も無く大喜びして、家の事は心配しなくて良いから安心してその仕事に精を出せと、を快く送り出した。
それからは、腰を据えて真島の看病に専念する事となった。
店を休み、栄養バランスと消化の良い食事を3度3度作って食べさせ、薬を飲ませて、食料品の買い出しなど必要最小限の用事以外では外出もせず、ほぼ付きっきりで細やかに面倒を看た。
その甲斐あってか、真島の熱は少しずつ下がっていき、が泊まり込みを始めて4日目の朝、ようやく平熱になった。


― やれやれ、やっと熱下がったわ。


は買い物袋を腕にぶら下げ、マンションまでの道を歩いていた。
真島の熱が完全に下がったのは、まずひとつ、大きな安心であった。
だが、まだまだ本調子ではない。
痩せこけた頬はまだ全く肉がついてきたようには見えないし、眠り自体は浅いようだが、ウトウトと一日中まどろんでばかりいる。
ひとまず熱は下がったが、体力がまだまだ戻っていないという事なのだろう。
それに、気掛かりなのは身体ばかりではなかった。
真島は時々、酷く虚ろな目をしていた。
の前では絶対にしないが、一人になると時々、抜け殻のような表情をしていた。
相変わらず何の事情も聞いていないが、そろそろ訊いてみても良いだろうか。
その哀しい表情の理由を。


― ・・・って、そんな事別に私に関係ないやん・・・・!


は小さく頭を振って、一瞬過ぎった考えを振り落とした。
真島が心に何か辛いものを抱えていたとして、それをどうにかしてやってくれとは頼まれていない。
頼まれているのは、あくまでも彼の身の回りの世話なのだ。
丁度マンションに着いた事もあって、はそれ以上、真島の抱える事情に思いを馳せるのをやめた。
これからすぐ、昼食の支度に取り掛からなくてはならなかった。
生きているのがやっとみたいな衰弱ぶりの割に、真島は意外と良く食べる。
尤も、食欲があるという事は、おいおい身体も回復していくという証なので、喜ばしい事ではある。
本日の昼食の献立は、豆腐ハンバーグと具沢山の味噌汁だった。
今朝までずっとおかゆや雑炊やうどんばかりだったので、熱も下がった事だし、そろそろ普通のメニューを出してやれば、少しは気分も上がって元気になるんじゃないかと考えたのだ。
まずは炊飯器を仕掛けねば、などと考えながら、は鍵を開けて玄関のドアを開けた。


「あ・・・・・・」
「お」

そしてそこで、真島と出くわした。
濡れ髪で、身に着けているものと言えば金のネックレスだけの、全裸の真島と。
まともに真正面からかち合ったのではなく横からだったが、それでもしっかりバッチリ、腰にぶら下がっているモノの側面図が見えた。


「ぎやーーーーっ!!」

は叫び声を上げ、物凄い勢いでドアを閉めた。
突然の事にすっかり動揺し、その場で硬直していると、ややあって中からドアが開き、真島が髭を当たってこざっぱりとした顔を覗かせた。


「おい、中入れや。」
「ふ、服着た!?」
「まだやけど、タオル巻いといたったから。こないなとこで女が叫び声上げたら、近所に何事か思われて通報されるやろが。」
「ま、巻いといたったって、何でそんな恩着せがましい言い方やねん・・・・。
っていうか何で人が帰って来た途端に素っ裸でおんねん、ビックリするやろ・・・・!」

まだ心臓はバクバクしているが、通報されるのは確かに困る。
は真島を睨みながら、恐る恐る中に入った。


「アホか。風呂上がった途端にいきなりドア開いた思たらデカい声で叫ばれて、ビックリしたのはこっちや。」

ブツブツ言っている真島の腰には、確かにタオルが巻かれていた。
だが、はまたも驚かされていた。


「起きたら頭ギトギトやわ身体ベタベタやわで、限界やったから風呂入ってただけやっちゅーねん。」

真島の背中には、憤怒の形相をした般若が棲んでいた。
そして、肩や胸、二の腕に入っているのと同じ濃紺の波と紅い椿の花がそれを彩り、太腿にまで達していた。


「・・・何やねん?」

喋らないを不審に思ったのか、真島は後ろを振り返り、の顔を見て、合点がいったように口の端を吊り上げた。


「そういや、紋々全部見せたん初めてやったか。どや、見事なもんやろう。」
「・・・・・・まあ・・・・・・」

そうとしか言い様が無かった。
真島は誇らしげだが、ごく普通の娘であるにとって、ほぼ全身にびっしりと入っている刺青というのは、決して良い意味で『凄い』ものではなかった。


「ケツにも入ってるで。見るか?」
「いい!!いい!!見せんでいい!!」

が盛大に頭を振ると、真島は愉しげに喉の奥で笑った。


「ま、お前みたいなチンチクリン女には、ちぃとばかし刺激が強すぎるわな。」
「なっ・・・・、ま、また言うた!誰がチンチクリン女や!」

は、バスタオルで頭をガシガシ拭きながら奥に歩いて行く真島を追いかける形で部屋の中に入り、台所のテーブルの上に重い買い物袋をドサリと下ろした。


「お前やお前。色気はないわチビやわ、チンチクリンやんけ。」
「ホンマ失礼な男やなあんた!色気・・・はともかく、私チビちゃうで!160cmギリギリあるんやから!」
「ほー。186cmの俺からしたらチビやけどなぁ。」
「ぐぅっ・・・・・!」

をからかうだけからかって、真島はズンズンと寝室に入って行った。


「そっ・・・、それは私が小さいんじゃなくてあんたがデカすぎ・・、やっ・・・・!」

言い返してやろうとその後を追いかけたは、真島がこちらに背を向けて腰のタオルを解くところを目撃し、慌てて台所にすっ込んだ。


「何や、やっぱりケツの紋々見たなったんか?」
「ちゃ、ちゃうわ!!何言うてんねんアホ!!」

は悪態を吐いて、昼食の支度を始める事にした。
もうこれ以上この下らない言い合いをするのはアホらしい。
だからこれは負けたのではない、やめただけだ、忙しく働く大人の女として退いてやっただけだ、
などと自分に言い訳しながら買ってきた物を袋から出していると、寝室から真島の出て来る気配がした。


「そやけどお前、ほんなら何て呼んだらええねん?」
「え・・・・・・?」

振り返ると、ちゃんと服を着てきた真島が、割と真剣な顔をして立っていた。


「こっちからしたら、チンチクリン女としか呼び様がないやろが。お前の名前、まだ聞いてへんねんから。」
「・・・・・あ・・・・・」

言われて初めて、は自分が真島に対してまだ名乗っていなかった事に気が付いた。
思わず唖然としていると、真島はを軽く睨みつけた。


「ホンマ、失礼はどっちやねん。人の事は散々犬呼ばわりした挙句に名乗らせといて、自分はいつまでも名乗らずか。
えらい勿体つけてくれるやんけ。これ以上チンチクリンて呼ばれたなかったら、ええ加減名前ぐらい名乗ったれや。」
「う゛・・・、わ、忘れてただけやんか・・・・・。や。」

高熱にうなされていてそれどころじゃなかったくせに、という言い訳は飲み込んでおいた。


「ほ〜ん、『チャン』かぁ・・・・・」

真島は大して気が無さそうな声で名前を復唱した後、の顔をまじまじと見つめた。


「な、何やの・・・・?」
「お前、確かキャバレーのホステスや言うてたけど、ホンマかそれ?
顔はガキみたいにおぼこいわ、格好は洒落っ気もへったくれもあらへんわで、とてもそうは見えんけど。」
「なっ・・・・!」

ちょっと元気になった途端に、随分なご挨拶である。
確かに昼間は面倒で着飾らないし化粧も手抜きだが、店に出る時にはちゃんと化粧をして、ハイヒールにタイトミニだって履く。
こんな奴に馬鹿にされる筋合いはない。


「重ね重ね失礼やなあんたー!ガキちゃうわ!21やし!」

が憤慨すると、真島は本気で驚いたような顔をした。


「マジでか。お前そのツラで俺と同い年か。」
「・・・・・・・・・マジで?」

本気で驚いたのは、も同じだった。


「あんたこそその顔で私と同い年なん?ホンマに?え、誕生日いつ?」
「5月14日。」
「え・・・・、じゃあもうすぐ22?」
「おう。お前は?」
「3月7日。信じられへんわ、あんたと同級生やなんて。絶対もっとオッサンやと思ってた。」
「お前も重ね重ね失礼やな。誰がオッサンじゃ。」

お互い真顔でテンション低く驚き合い、どちらからともなく溜息を吐いてやめた。


「・・・・・まあ、何や・・・、その・・・・・、お陰で大分楽になったわ・・・・・」
「・・・・・そら・・・良かったわ・・・・・・」

考えてみれば、この男とこんなに長く喋ったのは、これが初めてだった。
一度意識すると何だか途端に居た堪れなくなって、は真島に背を向け、必要以上に忙しげな動作で料理を始めた。


「そ・・そやけど、まだ全然本調子とちゃうからな。あんま調子乗りなや。」
「別に調子になんか乗っとらんがな。」
「と、とにかく、ご飯今から作るから!まだまだ出来ひんから!出来るまであんたは横になっとき!
湯冷めしたらまた熱ぶり返すで!ほらっ、ハウスッ!」
「あぁ?犬扱いすんなや。」

真島は不機嫌そうに唸りながらも、大人しく寝室に引き揚げて行った。
ドスの利いたその低い唸り声は、正しく『犬』のようだった。

















「ほんなら、私帰るから。」

まだ夕方には少し早いという時間に、チンチクリン女改めは、荷物を手に立ち上がった。
初めて会ったその日から問答無用に住み込まれ、突然の同居生活が否応無しに始まったが、終わる時もまた随分と突然だった。


「えらい大荷物やな。」
「だって、ここ泊まり込む為に家から色々持って来たもん。」

の荷物は、呆れる位に多かった。
一体何が入っているのか、大きなボストンバッグを肩に掛け、小さいハンドバッグを手に持ち、とどめには布団の詰まった布団袋まで足元に鎮座している。
女一人でよくもまあこれだけの荷物を持って来られたものだと、ある意味感心でもあった。


「晩ご飯、お味噌汁の残りと、フライパンにオムレツ作ってあるから、食べる時に弱火で蓋してもう1回加熱して。」
「おう」
「晩ご飯食べたら、薬もちゃんと飲むんやで。」
「おう」
「明日の朝ご飯にサンドイッチ作って、冷蔵庫に入れてあるから。それ食べて薬飲むんやで。分かった?」
「分かっとるわい。」

はまるで母親のように、いちいち小煩かった。
尤も、真島に母親はなく、その記憶さえも無かったが。


「ほんじゃまた明日、昼頃来るわ。お昼ご飯はそれから作るから。
それまでお腹もたへんかったら、おやつにバナナとかプリンとか買ってあるから、食べててええで。」
「ガキか。バナナとかプリンて何やねん。」
「何言うてんの。バナナもプリンも栄養価高いんやで。
あんたガリガリに痩せ細ってんねんから、栄養のあるもんぎょーさん食べて肉付けやんと、いつまでも元通りになれへんで。まぁ元のあんた知らんけど。」

母親はなかったが、こんな風に母親みたいな小言をクドクド言ってくれる妹分ならいた。
彼女は、靖子は今、どうしているだろうか。
たった一人の家族である兄の冴島が殺人の罪で刑務所に入れられ、たった独りで、彼女は今頃どうしているだろうか。


「何やの?どしたん?」
「いや・・・・、別に何もない。」

我に返った真島は、半ば無理矢理彼女の事を頭から追い出した。
極道の世界を追われ、東京から遠く離れた場所で犬のようにおめおめと飼われている今の自分に出来る事など何も無いから、考えたって無駄に辛くなるだけだった。


「ほな私行くわ。ちゃんと寝ぇや。夜更かし禁止やで。」
「お前はオカンか。」

今出来るのは、この5日間付きっきりで看病してくれたの大荷物を持ってやる事位だ。
真島はその辺に置いてあったライターをズボンのポケットに入れると、の肩からボストンバッグを引き取り、足元の布団袋を担ぎ上げた。


「・・・何よ?」

猫のように気の強そうな瞳が、少し驚いたように真島を見上げた。
まっすぐで、綺麗な瞳だった。
きっとその心根が表れているのだろうと思った。


「煙草買いに行くついでに、そこまで持ってったるわ。タクシー乗るんやろ?」
「・・・ふ〜ん・・・、そらどうも。あんた煙草吸うんや。何も言わんから吸わん人やと思ってたわ。」
「アホ。無いからずっと辛抱しとっただけじゃ。身体動かへんから買いにも行かれへんかったし、どっかの誰かさんは気ィ利かへんから、全然買うて来てくれへんしな。」
「アホはそっちや。こっちはあんたの看病とご飯の世話で精一杯で、煙草なんかに気ィ回せる余裕あれへんかったんや。
大体、高熱出してウンウン言うてる奴に、誰が『あ、そや、煙草買うたろ♪』とか思うねんな。ほんまアホちゃうか。」
「アホアホ言うなや。」
「そっちが言うからやろ。」

と子供の口喧嘩みたいなやり取りをしながら、真島は下駄箱から自分の黒い革靴を出して履いた。
自分の靴がそこに仕舞われている事を知ったのは、ついさっきの事だった。
風呂に入ろうとしてふと玄関を見たら、ある筈の自分の靴が無く、焦って探したら下駄箱の中にあったのを見つけたのだ。
血みどろになってしまっていた服は佐川の一存で全部処分されてしまったが、どうやら靴だけは残しておいてくれたらしかった。


「あ、あんたの靴そこにあったんや。っちゅーかスウェットに革靴って変やで。」
「うっさい、ほっとけ。これしか無いねんからしゃーないやろ。」

見た目など別にどうだって良い、履ければそれで問題無かった。特別、何処へ行く訳でもないのだから。
に続いて玄関を出ると、青空が見えた。外に出るのは、ここに連れて来られて初めての事だった。
棺桶みたいな狭苦しいエレベーターで下に下り、マンションの外に出てみると、何だか胸がスッとするような気がした。
たかだか部屋から一歩外に出た程度なのに、こんなにも気分が変わるものなのだろうか。
『穴倉』から出された時には全く無かった解放感を密かに噛み締めながらについて歩いていると、マンションから程近い所に煙草の自動販売機を見つけた。
これでようやく一服出来ると喜んで立ち寄ったまでは良かったが、考えてみると、真島は文無しだった。
それはもう見事なまでに、たったの1円たりとも持ち合わせていなかった。


「・・・・・おい、あんま言いたないねんけど、金くれ。」
「はいはい。」

恥を忍んで小声で頼むと、は平然と自販機に小銭を何枚か入れた。
屈辱的な気分でハイライトのボタンを押し、出てきた釣り銭をに返すと、何だか超えてはいけないラインを超えてしまったような、妙な強迫観念のようなものを感じた。


「おい、これ佐川から預かってる経費やんな?」

真島は真剣に念押しをした。
金の出処は個人の財布ではなく、あくまでもあのいけ好かない羽振りの良さそうな男なのだと改めて認識する事で、せめてプライドの完全壊滅だけは避けたかったのだ。


「そうや。やから別に気にせんで良いで。何もそんなバツの悪そうな顔せんでも。」

なのには、おかしそうに笑うだけだった。
女には分からないのだろう、男の矜持というものが。


「たとえあのオッサンの金やと分かっとっても、女に金たかるような真似してる自分が情けないんや。
女のお前には分からんかも知らんけど、男には己の矜持に対する意地っちゅうもんがあるんや。」
「ふーん、めんどくさ。何やよう分からんけど、要は男の見栄ってやつやろ?」
「めんどくさいとは何じゃ。見栄ちゃう、プライドと言え。それか漢気。」
「はいはい、分かった分かった。」

は心底どうでも良さそうに気の無い返事をすると、もう一度財布を開いた。


「ほんなら煙草代に少しまとめて渡しとくわ。そういう事なら毎度毎度小銭ねだりたくないやろ?はい。
煙草屋さんなら、そこまっすぐ行って、1本目の筋を左に曲がったとこにあったで。」

はそう言って、千円札を5枚差し出した。
額は多すぎず少なすぎず、何処にあるか分からない煙草屋を探して彷徨い歩かなくても済むように場所まで教えてくれるなんて、ぐうの音も出ない程完璧だった。


「お金無くなったらまた言うて。あ、でもあんまり吸いすぎなや。」
「・・・・・・おおきに」
「お礼なら佐川さんに言うて。あ、タクシーや。」

真島の気持ちも知らずに、はさっさと手を挙げてタクシーを呼び止めた。
程なくしてタクシーが二人の前に停まり、運転手が出て来てトランクをあけてくれたので、真島はそこに布団とボストンバッグを積み込んだ。


「荷物持ってくれてありがと。ほなまた明日。」

車に乗り込む直前、は真島を振り返り、素直な微笑みを浮かべて軽く手を振った。
タクシーが走り去ると、真島は早速煙草のビニールを剥がし取り、1本咥えて火を点けた。
煙草は『穴倉』にいた頃、偶に来る嶋野が、事が済んだ後に気まぐれで吸わせてくれたが、ここ暫くは全く吸っていなかったし、考えてみれば、いつの間にか吸いたいとも思わなくなっていた。


「ゴホッ!ゲッホゲホッ・・・・・!」

久しぶりの煙草は喉と肺に酷く堪え、頭がクラクラした。
だが、騙し騙し何度か吹かしている内に、身体が少しずつこの煙の味を思い出してきた。


「・・・・・ゴホッ・・・・・・」

食欲も、軽口を叩く余裕も、煙草を吸いたいという欲求さえも無くなっていた。
冴島への思いが辛うじて命を繋いでくれていただけで、本当に死ぬ寸前だったのだろう。
その今にも消えそうだった命の灯を護り、再び燃やそうとしてくれているのは、『親代わり』となったあの男ではない。


「・・・アホか。俺が感謝してんのは、佐川やのうてお前や。」

どんどん遠ざかっていくタクシーを見つめて、真島はそう呟いていた。




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後書き

通天閣の周辺は、近年でこそ観光客向けに随分明るく拓けましたが、昔は相当デンジャーなゾーンでした。
今でもまだデンジャーな映画館があります。
非常に気になります。入ってみたい。
ホンマに入る勇気は流石にないけれども(笑)。