檻の犬と籠の鳥 2




翌日、は普段より早起きして、まだ午前中の内に身支度をして家を出た。
勿論、佐川に依頼された『仕事』に取り掛かる為である。
弱っている犬が、新しい環境に馴染めず警戒心を剥き出しにしながらも腹を空かせていると思うと、ついつい『早く行ってやらねば』と気が焦ったのだ。
その犬がいるというマンションは、の家から電車を乗り継いで30分程の所にあった。
その辺り一帯は大阪市街のど真ん中にして、大阪、いや、関西で指折りのガラの悪い区域である。
は最寄りの国鉄の駅を降りると、佐川に教えられた住所を地図で調べて道順を書いたメモを手に、辺りを恐々見回しながら歩いた。
都会のど真ん中なだけあって、ビルやマンションが沢山建っているが、この町には蒼天堀のような活気は無かった。
どの建物も薄暗く、何となく煤けて見える。
通行人は殆どおらず、公園のベンチは酔っ払いや乞食が陣取ってコップ酒などを呷っていて、小さな子供と母親が楽しそうに遊んでいるというような微笑ましい光景は無い。
マンションの前までタクシーで行けば良かったかと一瞬後悔したが、取り分を少しでも増やす為に余計な経費はかけたくなかったし、一応は調べてきた道も絶対に正しいかどうか自信が無かったので、やはり歩くしかなかった。


「うぅ、重た・・・・・・」

の腕には、既に買い物袋がぶら下がっていた。
中には鶏肉が1パックと牛乳が1本、それにドッグフードが1袋入っている。
あまり馴染みのない町で買い物をするのは難しいし、その犬に一刻も早く何か食べさせなければならないと思って、電車に乗る前に自分の地元のスーパーやペットショップで買い物を済ませてきたのだ。
持ち歩いている時間は精々30分程だが、買い物袋に加えて、念の為に地図もバッグに入れてきたので、そろそろ腕が痛くなってきている。
目的地は確かこの辺りの筈なので、は腕の痛みを辛抱しつつ、これまで以上に注意深く周囲を観察した。


「・・・ロイヤルパレス大黒町・・・、あった、ここや・・・・・!」

辿り着いたマンションは、確かに佐川の言っていた通り、ごくありふれた規模のマンションだった。
マンションの前に浮浪者のような小汚い身なりの老人が立っていて煙草を吸っていたが、と目が合うと、煙草を吹かしながらフラフラと何処かへ歩いて行った。
はその老人の事をさっさと忘れると、再びマンションに目を向けて、外観から中の様子を想像してみた。
やはり、どう考えても広くはない。ここの1DKなら、掃除も大変ではないだろう。
はひとまず安心すると、マンションの中に入った。
佐川の部屋は302号室だとの事だったが、エントランスの集合ポストに表札は無かった。
尤もあの佐川の自宅が、こんな薄汚れた狭小マンションであるとは到底思えない。
ここは多分本宅ではなく、佐川が幾つも持っている部屋のうちのひとつなのだろう。
は棺桶みたいな狭苦しいエレベーターに乗って3Fに上がり、302号室の前に立った。
一応チャイムを鳴らそうかどうか少し迷ったが、このまま自分で鍵を開けて入る事にした。
平日の昼前という時間帯に佐川がここにいるとはやっぱり思えなかったし、そうである以上、チャイムを鳴らしても、只でさえ警戒している犬を余計に怖がらせて吠えさせるだけになると思ったのだ。


カチャ・・・・・、キィ・・・・・・


は静かに鍵を開け、用心深くそっとドアを開けた。
犬が飛び出して来て、万が一にもドアの隙間から脱走したら大変だと思い、荷物と自分の身体とでドアの隙間を塞ぐようにして玄関に入ったが、意外にも中は静かなもので、何の物音も気配もしなかった。


「・・・・ゴローちゃ〜ん・・・・・?」

はごくごく小さな声で呼びかけた。
ゴロー、それが犬の名前だった。


「ゴロー・・・・?ゴローちゃん・・・・・・?」

少し声を大きくして何度か呼んでも、やはり反応は無かった。
聞こえないのだろうか?
いやしかし、相手は犬だ。聴覚は人間より遥かに優れている筈である。


「ゴロー?チッチッチ・・・、ゴロー?チッチッチッチ・・・・・」

舌を鳴らして呼んでも、やっぱり反応が無い。
眠っているのだろうか?
いやしかし、何も食べない程警戒している筈なのだ。この声や音が聞こえない程眠りこけている筈がない。


「・・・・・まさか・・・・・・」

ゴローは虐待を受けてきたせいで、痩せて弱っている。
少なくとも、佐川に引き取られてからはまだ何も食べていない。
となると。


「まさか・・・・、ゴロー!?」

は荷物を放り出し、スニーカーを脱ぎ飛ばして部屋の中に駆け込んだ。
この部屋の中のどこかに、可哀想な犬の死骸が転がっている事を覚悟しながら。


「ゴローッ!」

トイレや洗面所らしきドアが続いている廊下を駆け抜け、台所を抜けて、隣の部屋を覗こうとしたその時。


「ゴ・・、きゃあっ!!」

急に何か物凄い力がの腕を引っ張り、気が付くとは、誰かにガッチリと抱え込まれていた。


「静かにせぇ・・・・・!」

を抱き竦めたのは、長い黒髪の、背の高い男だった。
男はガッシリした大きな手での口を塞ぎ、ドスの利いた掠れ声でを脅した。


「誰やお前・・・・!?佐川のオンナか・・・・・!?」
「うぅっ・・・・・!うぅぅっ・・・・・・!」

誰やと訊かれても、口を塞がれているのに返事なんか出来る訳がない。
などと頭の片隅の1%で考えはしたものの、残り99%は恐怖に囚われていた。
は震えながら、必死に頭を振った。


「ほんなら佐川組の奴等のオンナか・・・・・!?」
「うぅぅっ・・・・・・!」

この男はどうしてもをヤクザのオンナに仕立て上げたいようだが、とんでもない。
は正真正銘、堅気の女である。
今、その事をこの男に伝える術はアイコンタクトしかなく、は必死で恐怖と闘いながら、男の顔を見上げた。


「っ・・・・・・・・・!」

乱れた長い黒髪越しに見えた男の左目は、惨たらしい傷痕が塞いでいた。
それが一番酷い傷で、あとは小さな擦り傷や切り傷が幾つもあり、無精髭の伸びた口元や頬には殴られた痕のような酷い色の痣があった。
は一瞬、思わず恐怖も忘れて、呆然と男の顔を見つめた。
すると男は、つい今しがたまでの張り詰めるような殺気と緊張感を幾らか緩めて、を放した。


「・・・・何やねん・・・・、ほんなら自分、何モンや・・・・・?」
「そ・・・・・・、それはこっちの台詞です・・・・・・・・・!」

怖いやら腹立たしいやらで、は思わず声を荒げた。


「そっちこそ一体誰なんですか!?犬は!?おらんようやけど、犬どこへやったんですか!?」
「犬・・・・・・・・?何の事や・・・・・・?」
「とぼけんといて!ゴローの事です!ゴローをどこへやったんですか!?
ハッ・・・・あんたまさか、ゴローの元の飼い主!?ゴローを取り返しに来たん!?」

このどう見ても堅気ではない極悪な風貌、間違いない。
見ず知らずの女をいきなり力ずくで脅すようなこの男なら、動物虐待もやりかねない。
そう思うと、恐怖が一瞬で全て怒りに変わった。


「あんた、最低やなぁ!動物を虐めた挙句に人に押し付けておいて、今更どのツラ下げて取り返しに来たん!?
言うとくけど、あんたにゴローは渡さへんで!」
「おい、お前・・」
「動かんといて!そこでじっとして!」

は動きかけた男を一喝して制し、すぐ側のチェストの上にあった電話の受話器を取り上げた。


「私はゴローの事を佐川さんに頼まれてるねん!妙な真似したら佐川さん呼ぶで!
あの人・・・・、ヤクザの組長さんやねんからな・・・・・!」

昨夜あの後佐川に貰った名刺が、バッグに入っている。
今のを守るものは、その紙切れ1枚だった。
しかし、その紙切れをバッグから取り出す前に、この男ならどうとでも出来るだろう。
次にこの男に捕まったら、逃げられる自信は無い。


「下手な事したらあんた・・・・・、殺されるで・・・・・・・・!」

殺されるかも知れないという恐怖心を必死で抑え込みながら、は目の前の男に精一杯虚勢を張ってみせた。


「・・・・・頼まれてるって・・・・・、どういう事や・・・・・?」
「面倒看たってくれって頼まれたんや。」

は男を憎しみの目で睨みつけながら、吐き捨てるように答えた。


「可哀想に、酷い扱いされてたせいで、痩せて怪我して、人間不信にまでなってるって。
佐川さんとこの人らには警戒して、何にも食べへんって。
そやから私に、ゴローの世話してくれって頼んできはったんや。」
「・・・自分のオンナでもないのにか?」
「そんなんちゃうわ。私は佐川さんに雇われた只のバイトや。」
「バイト?」
「そうや。これはれっきとした仕事やねんから、ヤクザのオンナなんかと勘違いせんといて。」
「ほなお前は何者やねん?」
「私は蒼天堀のキャバレーのホステスや。佐川さんはうちの店のお得意さんで、昨夜店で頼まれたんや。」

の話を聞くと、男はグッタリとした表情で目を閉じ、疲れ果てたような溜息を吐いた。


「な、何やの・・・・・?」
「・・・・・・・あんのオッサン、余計な世話を・・・・・・・」
「な・・・、何が余計な世話なん!?元はと言えばあんたが酷い事するからゴローが弱ったんやろ!?
何の罪も無い犬を虐待しといて、ようそんな事言う・・・」
「あのなあネーちゃん。」

男は少し声を大きくして息巻くの声を遮ると、その鋭い右目でを睨み下ろした。


「さっきから何を怒り狂っとんか知らんけど、自分で自分を痛めつけるアホがどこにおんねん?」
「・・・・・・へ・・・・・・?」
「人が寝てたら、知らん女がいきなりやって来てゴローちゃんゴローちゃんて気安う呼ぶから、何事かと思ったやんけ・・・・・」
「・・・・・・・・・は?」
「は?とちゃうわ。ゴローは俺じゃ。犬ちゃうわ、アホ。」

呆れ果てたような声でそう言った男を、は呆然と見つめた。


「・・・・・・・・・」

よく見ると、確かに痩せている。痩せすぎている。頬なんてベッコリこけてしまっている。
怪我もしている。それも、『ちょっと』というレベルではないし、左目なんて開かなくなってしまっている。
雰囲気は抜き身のナイフのように危うくて、とても人を信用するような感じではないし、
更によく見てみると、台所のテーブルの上に、菓子パンや折詰の弁当が幾つも放置されている。


「・・・・え・・・・・・?ご、ゴロー・・・ちゃん・・・・・?」

が恐る恐る指を指すと、男は苦虫を噛み潰したような顔でまた溜息を吐いた。


「・・・真島。」
「へ・・・・・・?」
「真島吾朗や。ゴローちゃん言うな。」
「・・・・・・・・・・」

今この瞬間、の頭の中で回路が全て繋がり、断片的な情報が一つに纏まった。


「えーーーーーーー!!!!!!!」

その衝撃に、は思わず絶叫した。
その声が響いたのか、ゴロー改め真島吾朗は、思い切り顔を顰めた。


「っ・・・・・・!じゃかあしぃわ!デカい声出すな!」
「あんた人間やんか!!犬ちゃうやん!!」
「そうや!見ての通りのな!それをいきなりやって来て人の事を犬呼ばわりしよってからに、けったくそ悪い女やな!」
「だ、だって犬やって・・・・!佐川さん、確かに犬って言うてたもん!人間の男やなんて一言も言うてへんかったもん!!」

が必死にそう訴えると、真島は更に苦々しい顔で心の底から嫌そうに呟いた。


「ぁんのオッサン〜・・・・・、上等やないか・・・・・・!」

そしてその直後、突然よろめいてに圧し掛かってきた。


「ちょっ・・・・・!」

襲われると思って叫びかけた瞬間、は気付いた。
真島の身体が、やけに熱い事に。







「ちょっ・・・・・、ちょっと・・・・・・!」
「・・・・あかん・・・・・、デカい声・・・・、出し過ぎた・・・・・」
「まさかあんた・・・・・・!」

そういえば、さっき捕まえられていた時も熱かったような気がする。
嫌な予感がして、は真島の額に掌を当てた。


「熱っ!!あんた熱あるやん!」

触った限り、微熱のレベルではなかった。
つい今しがたまでガラの悪い口調で憎まれ口を捲し立てていた筈の真島は、今はもうの肩にその大きな身体を預けるようにして、浅い呼吸を繰り返している。
その弱りきった姿を目にした途端、あらゆる事がどこかに飛んで行った。


「・・・とにかく、ベッドに横になって。」

一体この男は何者なんだとか、佐川はどうしてこの男の事を犬扱いするのかとか、気になる事は色々ある。
しかし兎にも角にも、まずは身体を治すのが先決だった。


「要らん・・・・、ほっとけや・・・・・」
「ええから早よ。」

有無を言わさず突き飛ばすようにして傍らのベッドの方へ押しやると、真島はいとも簡単にベッドに尻をついた。
さっきの馬鹿力が嘘のように、儚く、弱々しく。


「さあ、寝転んで。」
「ほっとけて・・・・、言うとるやろが・・・・・」
「布団かけるから、ちょっとだけ腰浮かせて。ほら。」

きっと、さっきの騒動で力を使い果たしたのだろう。真島は憎まれ口を叩きながらも、本気で抵抗しようとはしなかった。
は、ひとまず大人しく布団の中に収まった真島を見下ろした。


「病院行った方がええと思うけど、あんた、保険証は?」
「・・・・・・そんなモン、持っとるように見えるか・・・・・・?」
「見えへん。」

は即答した。
自分で訊いておいて何だが、ちゃんと保険証を持っているような人ならば、見ず知らずの女の世話になる前に、とっくに自分で病院に行っている。
となると、手段は一つしかなかった。


「じゃあ、しゃーないけど実費で行こか。」
「アホか・・・・・・!そないな大金、誰が出すんじゃ・・・・・!?」
「私。っていうか佐川さん。経費として預かってるお金があるから、お金の事は気にせんでええで。」

こんな見るからに衰弱した病人を前に、自分の取り分の事を考えるのは、流石に気が引けた。
しかし真島は、それでも首を縦に振らなかった。


「要らん・・・・!余計な世話じゃ・・・・・!」
「何言うてんの、そんなに熱あるのに。病院行ってちゃんと診て貰わんと・・」
「只の風邪や、こんなんすぐ治る・・・・!」
「仮に熱が無くたって、そんなに痩せてるし、傷だらけやし、いっぺんちゃんと診て貰った方が良いと思うねんけど。
佐川さんといいあんたといい、何でそんな病院嫌がるん?まさか病院怖いとか嫌いとか、子供みたいな事言うんとちゃうやろな?」

が正論で厳しく問い詰めると、真島はまた苦々しい表情で呟いた。


「・・・・・・・色々面倒なんじゃ・・・・・・・」
「色々って何が?」
「チッ・・・、しつこいなぁ・・・・・。俺の服捲れや・・・・・」
「は?」
「俺の服捲れっつってんねん・・・・・・」

真島は突拍子もなく、投げやりにそう指示した。


「な・・・、何やのいきなり?」
「早よせぇや・・・・・・」
「何その言い方、感じ悪・・・・・・」

は文句を言いながらも、真島にかけた布団をもう一度捲り、彼の着ている黒いTシャツを恐る恐る捲り上げた。


「うわっ・・・・・!!」

真島の腹は、顔以上に傷だらけだった。
痣も酷く、青黒いものや黄色いもの、赤紫のものなど、色とりどりに混在していた。
腹筋が割れて贅肉の全く無い、見事な体つきをしているが、それに感心する以上にこの傷痕の酷さに衝撃を受けた。


「何これ・・・・!?何でこんな・・・・・!」
「腹やない・・・・・・。もっと上まで捲れ・・・・・・・」
「え・・・・・!?う、上・・・・・!?こ、こう・・・・・・?」

は真島に言われるがまま、Tシャツを更に胸の辺りまで捲り上げた。
するとそこに、また肌の色とは違う色が見えた。
最初は痣かと思ったが、違う。
それは。


「いっ・・・・、刺青・・・・・!?」

濃紺の波のような地模様の上に幾つも散らばる紅椿、そして、牙を剥き出した白蛇。
鮮やかで緻密なそれらの模様が、真島の肩から胸にかけてを妖艶に彩っていた。


「分かったか・・・・・。只でさえコレなのに、こんなズタボロの状態で病院なんか行ってみろ。あれこれ色々めんどい事になるんじゃ・・・・・」

やはり、この真島吾朗という男は只者ではないようだった。


「・・・・・ホンマに、病院行かんでも大丈夫やねんな?」
「ああ・・・・・」

はもう、この男を病院に連れて行こうとするのを諦めた。
真島の服を元通りに下ろして布団をかけてやってから、は改めて真島を見下ろした。


「分かった。じゃあ、薬飲んで、ご飯食べて栄養つけて、寝るしかないな。」
「だから・・・・・、要らん世話やっちゅーてるやろがぃ・・・・・・」

真島はぐったりと目を閉じながら、掠れた声で呟いた。


「もうええから・・・・、帰ってくれや・・・・・・」
「そうはいかんわ。私は佐川さんに頼まれて、あんたの面倒を看に来てるねん。
私にお給料払ろてくれてるのも佐川さんや。あんたとちゃう。」
「話がちゃうて・・・・、断ったらええやんけ・・・・・」
「そんな事、今更出来ひんわ。」

真島の出してきた案を、は一言の下に却下した。
確かに話は違う。犬と人間の男、それもヤクザでは、話が大違いだ。
だが、こんなに傷だらけになって弱って、誰も寄せ付けずに一人で苦しんでいる人を、今更見捨てる事は出来なかった。
それに、折角貰った大金をみすみす返すのも惜しいし、佐川も怖い。


「あの人、何や大きい規模の暴力団の組長さんやねんで?まさかあんた、あの人より上の立場なんか?」
「くっ・・・・・・!」

がズバリと訊いてやると、真島は悔しそうに言葉を詰まらせた。


「ほら見ぃや。あんたみたいな下っ端のドチンピラの言う事聞いて、組長さんとの契約を反故にしますなんて言うたら、私がどうなると思ってんの?
ソープに叩き売られるか、外国に叩き売られるか、下手したら大阪湾に沈められるかも知らんやんか。
そないなったらどないしてくれんの?あんた責任取って助けてくれんの?」
「・・・・くそっ・・・・、誰が下っ端のドチンピラじゃ、ボロカス言いよって、口の悪い女やな・・・・・」

真島は悔しそうに憎まれ口を叩きはしたものの、それ以上、に帰れとは言わなくなった。


「よっしゃ。じゃあまずは体温計らんとな。この家、体温計ある?」
「俺が知るか・・・・・・・!」
「ほな、何か薬は?」
「だから知らんて・・・・・・・!」

真島は反抗期の男子中学生のような口調で、ぶっきらぼうにそう答えた。


「あんた、いつからここ住んでんの?」
「・・・・・住んでへん・・・・・・。連れて来られただけや・・・・・」
「いつ?」
「確か・・・・・・、3日位前・・・・・・・・」

それ以前は何処にいて、どんな目に遭っていたのか、気にならないではない。
だが今は、そんな詮索をするべき時ではなかった。


「ふーん、そっか・・・・・・。じゃあ探してみるわ。」

は片っ端からそこら中を漁って回った。
チェストや食器棚、TV台の引き出し、ベッドの周り、押入れも開けてみたが、体温計や薬の類は見つからなかった。


「あ、良かった。毛布があったわ。」

暫く使われていなさそうな毛布を押入れから出し、ひとまずベランダへ持って行ってバサバサと叩いて埃を落としてから、はそれを問答無用で真島に被せた。
それから、チェストから出てきたタオルを水で絞って、真島の額に乗せてやった。


「後は何にも無いから、今から買い物に行って来るわ。大人しく寝といてな。」
「・・・・・・フン・・・・・・・」

真島は微かに鼻を鳴らした。
はそれを、承知したという意味に受け取った。
佐川から逃がすなと言い付かってはいるが、特に何かする必要は無さそうだった。
縛り付けられて監禁されている訳じゃなし、ここは逃げようと思えば幾らでも逃げられる環境なのに、この男はそれをしていない。
大体、これだけ弱っていたら、逃げる気も起きないだろう。
赤く腫れぼったい顔をして臥せっている真島を一瞥して、はそう判断したのだった。













良い匂いがする。
温かくて、優しくて、安心する匂いだ。


― お兄ちゃん。もうすぐご飯出来るから、そろそろ真島さん起こして。

柔らかく澄んだ、女の子の声がする。


― おう、兄弟。おい、飯やぞ。起きろや。

野太くて、いかつい声もする。
起きたくなくて無視していると、大きな手が伸びてきて、無遠慮に肩を揺すった。


― おい、早よ起きんかい。飯出来たぞ。食わんのか?

勿論、食べるに決まっている。
ただ、こうしていると、堪らなく幸せなのだ。
温かい空気、美味しい匂い、穏やかな人の声と気配。
それを感じているのが、大好きだった。


― 兄弟、おい兄弟て。

― 真島さん、まだ起きひんの?ご飯出来たよ〜。早よ起きて〜。

たった一人の兄弟。健気で可愛い妹。
生まれて初めて出来た、大切な家族。
この温もりに包まれているのが、何よりの幸せだった。


― おい、兄弟・・・・・・・

分かっている。
もう起きる。
すぐに起きて、一緒に食卓を囲もう。
だから。


「・・・・・・・兄・・・・弟・・・・・・・・・」

だから兄弟。
目が覚めたら、どうか。
どうか、そこにいてくれ。



「・・・・っ・・・・・・」

夢が静かに弾けると、目が開いた。
ここが相変わらず佐川の部屋だと分かると、やっぱり何もかも夢だったのだと思いかけたが、ただひとつ、漂ってくる美味そうな匂いだけは本物だった。


「ぅ・・・・ぅぅ・・・・・・・」

軋む身体をどうにか起こすと、頭の辺りから何かが落ちてきた。
何かと思えば、額に乗せられていた濡れタオルだった。
もうすっかり温まってしまったそれを手に取ってぼんやりしていると、引き戸が開いて、台所から女が顔を覗かせた。
さっきいきなり乗り込んで来て、人を犬ッコロ扱いしてくれた、あの女だった。


「あれ、起きてたん?気分はどう?」

初対面の女を相手に『泣きたい気分だ』などと弱音を吐く訳にはいかず、真島は小さく鼻を鳴らした。
すると女は、真島の寝ているベッドに歩み寄って来た。


「よう寝てたなぁ。ちょっとは楽になった?」
「・・・・・・なるか・・・・・・」
「そっか。まぁそらそうやな。熱が38.9℃もあったらな。」
「何でそんな具体的に分かんねん・・・・・?」
「計ったから。」

女はベッドの棚から体温計を取り上げて、真島に見せた。


「ほら、これで。まぁあんた寝てたから、勝手に計ったんやけど。」
「・・・・・いつの間にそんな事しとんねん・・・・・・」

体温を計られた覚えもなければ、体温計それ自体も無かった筈だった。
それがあるという事は、この女が何処かで買って来たという事なのだろう。


「丁度ご飯出来たから食べて。ほんで薬も買って来たから、食べたら飲んでや。」

体温計だの薬だの食料だのを買い回り、飯を作ってとなれば、20分や30分ではきくまい。
今何時なのだろうと思って、ベッドの棚に置いてある目覚まし時計に目をやると、午後1時を少し回っていた。


「起きれる?あっちのテーブルで食べれそうやったらその方が安定良いけど、ここまで持って来て欲しい?」
「・・・・要らんわ・・・・・・」

真島はぶっきらぼうに返答すると、ベッドから出た。
少し寝たからか、ちょっと起き上がる位の体力は戻っていた。
引き戸1枚を隔てた台所に入ると、テーブルの上に湯気の立つ雑炊が2人分、既に並べられてあった。


「さ、食べよ食べよ。冷めへん内に。」
「お前も食うんかい・・・・・」
「何や、私は食べたらあかんのか?」
「ぅぐっ・・・・・・」

据わった目で睨まれ、真島は思わず口を噤んだ。


「私もお腹ペコペコやねん。猛ダッシュであっちこっち駆けずり回って買い物して来たんやから。」
「そんな事してくれなんて誰も頼んでへ・・」
「佐川さんに頼まれた。」

女は強調するようにゆっくりした口調でそう言い放つと、涼しい顔で席に着いた。


「さ、食べよ。早よ座りぃや。」
「・・・・・くっそ・・・・・・・」

佐川の名前を出されると、もうどうしようもない。
真島は苛立ちを何とか堪えて、空いている椅子にドッカリと腰を下ろした。


「いただきまーす。」

女は真島を待たずに、一人でさっさと食べ始めた。
盛大に湯気が立ち昇っている雑炊を、フーフー吹きながらも結構な勢いでパクパク食べている。
猫舌な真島には、到底真似の出来る芸当ではなかった。


「・・・・・私の事も警戒してるん?」

女は食べながら、何気ない口調でそう訊いてきた。


「・・・も、って何やねん?」
「佐川さんの組の人らが持って来た物は、何も食べへんかったんやろ?だから『も』って訊いたんやけど。
ああそうそう、あれ悪いけど、全部捨てさせて貰ったで。パンは賞味期限切れてたし、お弁当も何か変な臭いし始めてたから。」
「・・・・・構へん」

どうせ元々食べる気が無くて放っておいた物だ。それが傷んだとあらば、益々要らない。
だから断りなどいちいち必要無いのに、変に律儀な女だ。
いや、変というなら、この女そのものが変だった。
佐川の悪ふざけを真に受けて、間抜けにも騙されてしまったところまではまだ理解出来るが、状況を正しく把握した今もまだ世話を続けようだなんて、おかしいとしか思えない。
堅気の若い娘が、こんな明らかに訳有りの、手負いのヤクザ者の世話を続けようだなんて。


「・・・そんな怖がらんでも大丈夫や。確かに私は佐川さんに雇われてるけど、ヤクザでもヤクザのオンナでもないから、あんたに乱暴な事はせぇへん。
この雑炊かて、変なモンなんか何も入れてへんで。
あんた、何があったか知らんけど、とにかく食べなあかん。食べへんかったら治るもんも治らんで。」

つっけんどんな、可愛げのない言い方だった。冴島の妹の靖子とは大違いだ。


「・・・・・フン、アホか。何で俺がお前みたいなチンチクリン女を怖がらなあかんねん。」

だが、不思議と少しだけ、救われたような気がした。


「はぁ!?誰がチンチクリン女や!?」
「お前やお前。手ェつけてへんのは、少し冷めるのを待っとっただけや。」

真島はスプーンを取ると、まだ湯気の立っている雑炊をひとさじ掬って何度も息を吹きかけ、一口で頬張った。


「あっつ・・・・・・・!」

馬鹿みたいに熱い。
だが、美味かった。
とろとろに柔らかく煮えた大根と人参と白菜と、細かく刻まれた鶏肉が良い出汁を出していて、卵がふんわりと絡み、小口ネギと刻み海苔の香りが堪らない。
一口食べた瞬間、胃が急に思い出したかのように、激しく空腹を主張し出した。


「フゥッ、フゥッ・・・・・!あっつ・・・・・・!」

そんなにも腹が減っていたのかと、自分でも驚く程だった。
あの『穴倉』の中でも、握り飯やパンなどが一応与えられていたのに、真島は今、自分でも吃驚する位に飢えていた。


「・・・・くっそ・・・・・・!あっついわ・・・・・・・!」

温かい食事に。
人の温もりに。


「・・・・・・・・・くっそ・・・・・・・・・・・!」

思わず震えたこの声が聞こえなかった筈はないのに、女はそれを笑わなかった。
笑わず、何も言わず、ただ黙って、真島の側で真島と同じ物を食べていた。




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後書き

物語は、0以前の地点からの始まりです。
ご多分に漏れず、私も真島×マコトにやられたクチです(笑)。
何でやねーーーん!!!と身悶えするラストでしたが、あれはあれが一番なのかもとも思いました。悲しいけれども。
それに、あそこでハッピーエンドになっちゃったら、朴社長の話が・・・・(汗)
まあ結局、私は夢ばっかり書いてるので、毎度こじつけにこじつけを重ねて、無理やり夢ヒロインを作り出すんですけれども(笑)。
あ、ユキちゃんも大好きです☆
ユキちゃんだけ明らかに別格扱いなのがまた何というか、露骨な感じで面白い(笑)