靴音が聞こえてくる。
いつからだろうか?それが聞こえた瞬間に、目が覚めるようになったのは。
いや、目など覚めていないのかも知れない。
本当はとっくに死んでいて、ここは所謂『地獄』という場所で、そこで責め苦を受けているだけなのかも知れない。
地獄に落ちた罪人は未来永劫苦しみ続けるというから、それならこの永い苦しみの辻褄も合う。
今が何時なのかも、何月何日かも、昭和何年かも、もう分からない。
分かるのはただ、この靴音だけだ。
この音が近付いて来れば、間もなくまた地獄の責め苦が始まり、遠ざかって行けば、そこからまた束の間解放される。
この繰り返しを、どれ程続けてきただろう。
そして今後、どれだけ続くのだろう。
終わりのないこの苦しみに、時折ふと、負けそうになる事がない訳ではない。
これまでここにぶち込まれた連中が皆そうしたというように、『殺してくれ』と思わず口走りそうになった事も、何度もある。
だがそんな時、いつも決まって目に浮かぶのは、猛虎を背負ったあの大きな背中だった。
あの男の事を思えば、自分だけ死んで楽になろうなんて、虫が好すぎる。
生きねばならないのだ。あの男の為に、自分は生きねばならない。
謝るとか、弁解するとか、そんな事の為ではない。
ただあの男の為に、生きるも死ぬも一緒だと契りを交わしておきながら裏切ってしまった兄弟の為に、何としても生き延びて、己の全てで償いをせねばならないのだ。
自分を殺せるのは、あの男だけ。
それ以外の奴には、絶対に殺されてなどやらない。
たとえここが地獄だとしても、いつか必ず這い出て、あの男にもう一度相まみえる。
その一念が、どんな苦痛にも屈辱にも耐える力に変わる。
来るなら来い、そんな気持ちで、靴音が止み、ドアが開くのを待った。
「・・・・・うひゃー。」
程なくして聞こえてきたのは、知らない男の声だった。
チャラチャラと軽薄そうな、軽い声だった。
「これはこれは。また随分酷いじゃねぇの、兄弟。」
訛りの無い綺麗な標準語で喋る男の声には、何の感情も篭っていなかった。
興奮もせず、気味悪がりもせず、只々、何処までも軽い。
まるでTVを見て独り言を呟いているかのような、呑気な声だった。
「フン、そらそうや。今日で丸1年やからなぁ。」
良く知っている野太い声に、真島は薄らと目を開けた。
だが、何とか開くのは右目だけ。抉られた左目はもう、決して開く事はない。
「・・・・・・親父・・・・・・・・」
微かに顔を上げると、真島の渡世の親にして真島をこの地獄へ叩き落したその人、東城会直系堂島組傘下嶋野組組長・嶋野太はニヤリと笑った。
「そやけど、丸1年この『穴倉』で過ごしたにしては、まだ綺麗な方やろ?」
「1年!?コイツここで1年耐えたの!?へ〜ぇ、そりゃ凄ぇ!」
いつの間にか1年という長い時間が過ぎていた事にも驚いたが、それ以上に、嶋野と対等の口を利いているこの男の事が気になった。
嶋野の隣で素っ頓狂な声を上げて驚いてみせるこの男は、何者なのだろうか。
嶋野の兄弟分のようだが、真島の知っている限り、東城会の人間ではなかった。
今度はこの男にやらせようというのだろうか。
何者かは知らないが、やるならさっさとやれば良い。
真島は残った右目にありったけの力を込めて、その男を睨みつけた。
だが男は、真島のその視線を真正面から受け止めても面白そうにニヤついているだけで、これまでの他の奴等のように、真島の身体に引っ掛けられているボロきれを取っ払おうとはしなかった。
「お前に頼みというのは、コイツの事なんや。お前んとこで面倒みたってくれへんか、兄弟?」
嶋野のその発言に大きな衝撃を受けて、真島は思わず嶋野の顔を凝視した。
「えーーー、俺要らねぇよこんな小汚ぇの〜。」
男は心底嫌そうに真島を一瞥して、顔を顰めた。
「まぁそう言うなや。儂とお前の仲やないか、なぁ?佐川よぉ。」
嶋野はニヤつきながら、その男、佐川とやらの肩を叩いた。
「コイツはもう、極道としてはあかん。せやけど、腕っぷしは儂が保証する。番犬ぐらいにはなるやろ。」
「番犬、ねぇ・・・・・・」
「おう。」
嶋野の一声で、後ろに控えていた若衆が二人、短く返事をしてサッと前に出て来た。
二人は真島の手枷と足枷を外すと、また嶋野の影のように消えていった。
「っ・・・・・・」
支えるものが無くなった途端、真島の身体は冷たいコンクリートの床に崩れ落ちた。
自分で自分の身体を支える力すらも、もう残っていなかった。
倒れ込んだまま動けない真島に、嶋野が悠然と歩み寄って来た。
「真島。今日からお前は、この佐川に預ける。まあ言うなれば、お前の『親代わり』や。しっかり尽くすんやで。」
「・・・・親父・・・・・・」
何を言われているのか、まだ理解出来なかった。
真島が親子の盃を交わしたのは、この嶋野ただ一人。
なのに、今初めて会ったばかりの胡散臭い男を親代わりと思えと言われても、すんなり承知出来るものではなかった。
「ど・・・・、どういう・・・・事ですか・・・・、それは・・・、どういう・・・・」
掠れて出ない声をどうにか絞り出して、真島は必死に説明を乞うた。
しかし嶋野は、ただ小さく鼻を鳴らして笑っただけだった。
「こいつは近江連合直参、佐川組の組長や。何や色々と手広う商売しとる奴でな、きっとええ勉強になるで。お前の今後の人生にとってな。」
「ま・・・・待って下さい、親父・・・・・・!」
嶋野の話は、真島にとっては、『絶望』としか思いようのない話だった。
ただ生きているだけでは、意味が無いのに。
極道の世界から離れて、ただのうのうと生きさらばえるのでは、何の意味も無いのに。
「俺は・・・・、俺は・・・・!親父の下で・・・・、極道として・・・・・!」
近江連合では話にならない。
あくまでも東城会でなければならないのだ。
何としても東城会でのし上がり、自ら監獄へ入ったという兄弟がいつかそこから出て来た時の為に、立派な席を作っておかねばならないのだ。
親の為、組の為、組織の為に、一人で重い重い罪を背負った兄弟がいつか自分を殺しに来た時に、この命と共に引き渡す為に。
その労苦に見合うだけの高い地位を、この裏切りの代償となり得るだけの最高の居場所を、何としてでも。
「もう忘れろや、真島。」
だが嶋野は、そんな真島の切実な思いを分かっていながら、軽く一笑に付した。
「もう忘れるんや。極道の世界でのし上がりたいっちゅう夢も、お前の兄弟分・・・あの冴島のガキの事も。何もかも、な。」
「っ・・・・・!」
「折角拾ろた命や。生まれ変わったつもりで、堅気としてこの佐川の下で新しく出直せや。な?」
嶋野は真島の前にしゃがみ込み、その大きな手で真島の頭をポンポンと叩いた。
妙に優しいその仕草に、真島は、今自分は完全にこの人に見捨てられたのだと悟った。
「ほな兄弟、後は頼んだで。」
嶋野は立ち上がると、一人で出て行った。
「・・・・・うぅ・・・・・!」
涙など、とうに枯れ果てたとばかり思っていた。
だがそれは今、確かに真島の頬を伝い落ちていた。
こんな見ず知らずの、胡散臭い男の前で。
「・・・・あ〜あ、可哀想になぁ。」
嶋野の靴音が完全に消えてしまうと、佐川は煙草に火を点けた。
「何だってこんな事になっちまったのか・・・・・。全く、ツイてねぇよなぁ。」
確かに絶望のどん底に叩き落されはしたが、こんな奴に同情される筋合いは無い。
真島は涙に濡れた目で、佐川の顔を睨み上げた。
すると佐川は、少し芝居がかったような仕草で、小さく肩を竦めてみせた。
「ああ、言っとくけど、可哀想って言ったの、これ俺の事だからね?
こんな所まで呼びつけられて、何かと思えばこんな汚ぇ犬ッコロ押し付けられてさ。
俺、餌代も貰ってねぇんだぜ?全額自腹でお前の面倒みなきゃなんねぇんだぜ?あんまりだと思わねぇ?」
余りの言い草に、真島は一瞬唖然とした。
だが次の瞬間、猛烈な腹立たしさと虚しさとが、一緒に押し寄せてきた。
「・・・・だったら・・・・・、殺せや・・・・・・」
真島はとうとう、これまで決して言わずにきた言葉を口にした。
半分は自棄だったが、もう半分は本気だった。
極道の世界から追放されてしまっては、冴島への償いなど夢のまた夢になってしまう。
それならもう、生きている意味も無いのだから。
「そうしたいのは山々だけどさ、そうして良いんなら、最初からお前、とっくに消されてるよ。」
しかし佐川は、厄介者以外の何者でもない真島を殺そうとはしなかった。
そして、嶋野も。
ここまでしておきながらとどめを刺さずに、代紋違いのこんな男に堅気として預けるなんて、一体何を考えているのだろうか。
「・・・・どういう、意味や・・・・?」
「知らねぇよ。俺は嶋野じゃねぇんだからさ。アイツの頭ん中の事が分かる訳ねぇだろ。」
佐川は飄々とした口調で言うと、吸っていた煙草を落として踏みつけた。
「ま、いつまでもこんな所でウダウダしてても仕方ねぇ。出るか。」
ここから出る日を、どれだけ待ち望んでいただろうか。
しかし今はもう、何の希望も無かった。
失意と丸1年に及んだ監禁・拷問による身体的な衰弱とが相まって、真島はもう立ち上がる事はおろか、佐川の眼前に無様に曝け出している自分の痩せこけた裸体を隠す事さえ出来なかった。
「おい、立てよ。つーかお前、服は?まさかフルチンで俺の車に乗る気?冗談じゃねぇよ?」
「ぅ・・・・・・」
肉の削げた真島の固い尻を、佐川は容赦なく硬い革靴の爪先で蹴りつけた。
服はと訊かれても、知らないものは答えようがなかった。
そんな物はとっくの昔に上も下も全部剥ぎ取られて、それっきりだった。
答えずにいると、隅っこに控えていたらしい若衆がそそくさと動いて、『叔父貴、これです』と呟いた。
「おお、あったじゃねぇの。良かった良かった。ほら、とっとと着ろよ。」
佐川は若衆から受け取った衣類と靴を、そっくりそのまま真島の上に放り出した。
それらは確かに、あの日身に着けていたものだった。
白いワイシャツに、あの日の痕が残っている。
1年前の昭和60年4月21日、忘れもしないあの日、柴田組の奴にドスで左目を抉られた時の出血が、もう二度と取れそうにない真っ黒な染みとなってこびりついている。
『白』を穢すその『黒』は、たった一人の兄弟を裏切った己の罪そのもののようだった。
「う・・・・・ぅ・・・・・・・・・」
真島は床にのたうち回るようにして下着を履き、礼服のスラックスに脚を通し、シャツを羽織った。
力の入らない手は思うように動かず、スラックスのホックを引っ掛けてファスナーを上げるのが精一杯で、もしもの時は親にも自分にも恥じない死に様をと覚悟を決めていたあの日のように、きちんと着込む事は出来なかった。
そこで力尽きてしまった事が見て取れたのか、佐川は呆れたように鼻を鳴らすと、若衆に『おい』と命じた。
すると若衆が真島の腕を掴んで引っ張り上げ、強引に立たせた。
「・・・ぅ・・・・・・」
立ち上がった途端、スラックスがずり落ち、辛うじて腰骨に引っ掛かって止まった。
だが、それを引っ張り上げる力は出なかった。
「何だよだらしねぇなぁ。しっかり歩けよ、真島ちゃん。」
先を行きかけていた佐川は、不本意ながらも若衆の腕に身を預けざるを得ない真島を振り返り、小馬鹿にしたように笑った。
「ウボロロロロ・・・・・・!」
あの独特の不明瞭な声と共に、テーブルの上に大量の吐瀉物が迸った。
ことは、諦めの境地でそっと目を逸らしていた。
嫌な飲み方をする客で、時間が経つにつれてだんだん嫌な予感がしていたのだ。
こういう事をやらかす客に当たる事は時々あって、そういう時はいつも、今日は運の悪い日だと思うようにしていた。
「・・・大丈夫ですか?」
「あぁ〜、らいじょぶらいじょぶ・・・・・・・」
吐くだけ吐いてヘラヘラしている客に、はひとまず手元にあったお絞りを差し出した。
黒服のボーイが大量のお絞りやら掃除道具やらを持って、静かに、かつ素早く飛んで来たので、掃除を手伝いつつ、新しいお絞りで客の汚れた服を拭いてやった。
勿論、気分は最悪だ。
だがは、他のホステス達のように怒ったり逃げたりする事が出来る立場ではなかった。
売れっ子なら、怒って逃げて、自分のドレスの心配だけをしていれば良い。
掌を返したような態度にその客一人が幻滅して離れていったとしても、固定客も新規の客も他に幾らでもいる。
しかしは、残念ながら決して売れている方ではなかった。
ここ蒼天堀のキャバレー『VIP』に勤め始めて1年になるが、未だに大した固定客も無く、
取り柄といえば身体が丈夫で連勤が出来るという事ぐらいのもので、売れっ子のヘルプや一見の客で細々と地味に稼いでいる状態だった。
酒も別に強くないし、愛想と色気を振り撒くのも下手だからか、その慣れていない感じが良いというタイプの客以外にはあまり受けが良くないのだ。
それは自身、はっきりと自覚していた。だが、これは持って生まれた性分なので、どうしようもない。
仕事を始めて間もない頃は色々と悩んで葛藤したりもしたが、今はもう開き直っていた。
売れっ子の引き立て役でも、水割り1杯飲んだきり二度と来ない客でも、何でも良い。ここにいる間の時間給は貰えるのだから。
大して客がつかなくても、それでもやはり事務員の給料よりは遥かに高いのだから。
「と、トイレ。ちょとトイレ行くわ・・・・・」
「あ、ちょっと・・・・・・!」
客がよろけながら立ち上がり、フラフラと歩いて行く。はその後を慌てて追いかけ、肩を貸した。
「しっかりして下さい。お手洗いはあっち、あっちですよ。」
「うぃ〜、おぅおぅ・・・」
「まだ吐きそうですか?大丈夫?お手洗いまで我慢出来ますか?」
「おぉ、らいじょぶらいじょぶ、ははは・・・・・・」
客はどろどろに酔いどれた目でを見ると、だらしなく顔を緩ませた。
「何やアンタ、優しいなぁ・・・・・・。エエ子やなぁ〜・・・・・・。」
「そんな事。」
は微かに笑って、小さく首を振った。
「さ、お手洗い着きましたよ。お口ゆすいで、お顔と手を洗って来て下さい。その間私、タクシー呼んでおきますから。」
「え〜、もっかい飲み直そやないか〜!」
「もうダメです。今日はもうお開きにしましょ。あんまり飲み過ぎたら体に悪いですから。ね?」
は優しく微笑んで、やんわりと客を男性用トイレの中に押し込めた。
別に優しくしたくてしているのではない。
好き勝手にフラフラ歩き回られて、そこら辺でもう一度『事』に及ばれでもしたら、後で他のホステス達から文句を言われるのはこちらなのだ。
女の職場というのは、華やかなのは表側だけで、一皮剥けば女同士のドロドロしたイザコザが絶えない。
そういう事が人一倍苦手な性格のとしては、他のホステスに迷惑をかけたり借りを作るような真似は、極力避けておきたいところだった。
それに、こういう気遣いや優しさにほだされてくれる客も、全くいないではない。
上手くすればこれで気に入られて、今後固定客になってくれる事だってある。
「・・・・・あ〜あ、しんど。」
つまりは、金の為だ。
これで稼げる金が増えると思えば、酔っ払い相手に優しい女を演じる位、訳も無い。
は小さく溜息を吐くと、タクシーを呼ぶ為に電話を掛けに行った。
前後不覚に酔っぱらった客をタクシーに押し込めて送り出して、一区切りがついたところでようやく我が身を顧みると、ドレスがさっきの客の吐瀉物で汚れていた。
今日は本当に、最悪の日だ。
は思わず重苦しい溜息を吐いた。ドレスは店からの借り物だが、クリーニングは自腹なのだ。
ともかく、一度控室に戻って着替えねばならない。夜はまだまだ長いのだから。
この汚い格好が他の客の目に留まらないよう、はフロア脇の通路をそそくさと早足で歩いていた。
その時だった。
「ちょっとちょっと、そこの君!」
その客に、声を掛けられたのは。
「はい?」
立ち止まって振り返り、声を掛けてきた客の顔を見て、はすぐに気が付いた。
齢の頃は四十半ば、スラリとした細身の長身に薄茶色のピンストライプのスーツを着こなしているこの男は、この店でも一・二を争う上得意の佐川だった。
尤も、佐川の相手は専ら売れっ子達が務めているので、はこの男のテーブルに着いた事は、今まで一度も無かった。
「何か御用でしょうか?」
「見てたよぉ。いやぁ〜大変だったね〜。」
「あ・・・・・!」
佐川が何の事を言っているのかは考えるまでもなく、は深々と頭を下げた。
「すみませんでした、折角お楽しみのところを、ご気分を害しまして・・・・・!」
「ハハッ、謝んなくたって良いよ。君が悪かったんじゃないんだから。つーか君が一番の被害者じゃない。あぁーっと、名前何てぇの?」
「と申します。」
「へ〜え、ちゃん。可愛い名前だね。それ本名?」
「源氏名です。」
「ふーん。本名は?」
「と申します。」
「へ〜。これまた可愛いじゃない。上品で、君にぴったりだ。」
「いえいえそんな・・・・・・」
「しかし本当に、大したもんだよちゃんは。
酒の飲み方も知らない下品な酔っ払いにゲロ引っ掛けられて、怒るどころか甲斐甲斐しく介抱までしてやってさ。
そんなのなかなか出来る事じゃないよ。立派立派、うんうん。」
「いえ、そんな・・・・・」
「俺もこの店来るようになって暫く経つけど、こんな女神様みてぇな娘いたんだね〜。いやぁ〜、もっと早く知り合いたかったなぁ〜。」
流石、No.1をはじめとする売れっ子ホステス達が騒ぐだけあって、佐川は大層口が巧かった。
淀みなく次々と出てくる誉め言葉の数々に、照れを通り越して動揺しながらも、はどうにか営業用スマイルを形作った。
「ふふっ、お世辞がお上手ですね、佐川さん。流石です。」
「あれ?俺の事知ってんの?」
「そりゃあもう。佐川さんはうちの一番の上得意様ですから。いつも店の女の子達が皆キャアキャア言ってるんですよ。」
「またまたそんな事言っちゃってぇ。お世辞が上手いのはちゃんの方だろ〜?」
佐川は満更でもなさそうにニヤついていたが、ほんの一瞬、探るような目をに向けた。
「・・・でさ。そんな女神様みてぇなちゃんに、ちょっと頼みたい事があるんだけど。」
「え・・・・?」
「アンタ、バイトする気ない?」
「バイト・・・・・ですか?」
ポカンとしているに、佐川は微笑んで頷いた。
「そ。犬を1匹、面倒看て貰いてぇんだ。」
「犬?」
「つい最近さぁ、人から押し付けられて飼う破目になったんだけど、俺も何かと忙しいから、んな細けぇ面倒とかいちいち看てらんねぇじゃん?
だから、飯とか掃除とか洗濯とか、一通りの世話をしてやって欲しいんだよ。駄目?」
動物は嫌いじゃない、むしろ大好きだ。
子供の頃には、捨て犬や野良猫によく餌をやったりしたものだった。
しかし、今のは子供ではなく、21歳の大人だった。
動物、それも他人のペットの世話をするというのがどれ程の責任を伴う事か、理解はしているつもりである。
少なくとも、給食の残りのパンをこっそり与えるという程度で済む話ではない。
好きだからと言って、興味や好奇心だけで軽はずみに引き受けて良い事でもない。
二つ返事ですぐに飛び付く訳にもいかず、はひとまず曖昧に笑ってみせた。
「いえ、駄目って事は・・・・・。でも、生き物のお世話ですから、責任重大やと思って・・・・・」
「いやいや、そんな生真面目に考えなくて良いんだよ。気楽に、テキトーで良いんだ。」
「え・・・・・・?」
「2〜3日にいっぺんでも、ソイツのいる部屋へ行って、世話してくれりゃあ良いんだよ。
夜は時間ねぇだろうから、朝でも昼でも、ちゃんの都合の良い時にさ。
期間は多分そんなに長くはならねぇと思うけど、まあとりあえず一月って事で。」
「・・・はぁ・・・・・」
仮にも生き物の世話なのに、そんないい加減な感じで本当に良いのだろうかと疑問に思ったが、その疑問は次の瞬間、綺麗さっぱり消し飛んだ。
「で、報酬は経費込みでコレで・・・、どうかな?」
そう言って佐川がの目の前に差し出したのは、帯の付いた壱万円札の札束だった。
つまりは、百万円である。
は思わず瞬きも忘れて、呆然と札束を見つめた。
「領収書出せとか何とか、細けぇ事を言う気はねぇよ。全額アンタの采配で好きに使ってくれて良い。もし足りなかったら言ってくれ。」
「いえ、そんな・・・・・」
たとえ半分を経費とするにしても、1ヶ月で50万。
たとえ毎日通ったとしても、1日あたり約1万6千円の日当になる。
「こんなに頂けるなんて・・・・・!」
「それは、引き受けてくれるって事?」
「そ、それはもう、わ、私で宜しいんでしたら・・・・・!あ、でも・・・・!」
破格の待遇に舞い上がり、今度こそ飛び付きそうになったが、しかし大抵の場合、美味い話には裏がある。
は自分に急ブレーキをかけ、有り得そうな落とし穴を必死で考えた。
「何?」
「えと・・・・、あ、そうや・・・・・!そのワンちゃんにはどんな餌をあげてるんですか!?
高級な牛肉とか、高いドッグフードとかだったり・・・しますか・・・・・?」
経費込みでというところが、まず怪しい。
もしその犬の主食が、グラム何千円もする高級肉だったりした場合、下手をすれば自分の取り分はゼロという事にもなりかねない。
返答に少しでも引っ掛かる所があれば断ろうと、は密かに身構えた。
「ぶっ・・・・・、くっくっく・・・・・!」
しかし佐川は、何故か急に吹き出した。
「あ、あの・・・・・?私、何か変な事言いましたか・・・・・?」
「ああ・・・、悪い悪い。気にしねぇでくれ。
いや別に、何でも良いんだよ。何なら冷や飯に味噌汁ぶっかけたやつとかでも構わねぇぐらい。」
佐川はどうにか笑うのをやめると、の質問に対して、想像もしていなかった答えを返してきた。
「え・・・・!?そ、そうなんですか・・・・!?ほ、ホンマに・・・・!?」
「ああ、本当に何でも良いよ。つーか今、何も食わねぇし。」
「え・・・・・?ど、どういう事ですか?」
「いや最初はさ、うちの若い連中に世話させようとしたんだよ。
けどすんげぇ警戒しちゃってさぁ、何出しても一口も食わねぇんだよ。」
「ああ・・・・・、貰われてきたばっかりで、まだ新しい環境に慣れてないんですね。」
は大真面目にそう返した。それなのに、佐川はまた吹き出した。
「え?ま、また私、何か変な事言いました・・・・?」
「ゴホンッ、・・・・いやいや、何でも。おまけにソイツ、ちょっと弱ってるんだよね。」
佐川は何気なくサラッと言ってのけたが、それは聞き流せない重要ポイントだった。
「え・・・病気って事ですか?」
「いや、病気じゃねぇんだ。至って健康。命に別状はねぇんだよ。
ただ、つい最近まで酷ぇ所にいたせいで、ちょっと痩せてて、ちょっと人間不信っつーか、そんな感じ?怪我もちょっとしてるし。」
「・・・・・そうですか・・・・・・」
動物虐待という言葉が、の脳裏を過ぎった。
その犬はきっと、そんな目に遭っていたのだろう。
とすると、佐川の言っている事が益々理解出来なかった。
可哀想な犬を引き取って、100万円もの大金をかけてまで面倒を看ようとしているのだから、その犬の事をそれなりに想っている筈なのに、愛着も何も無さそうな言い方をするのはどうしてなのだろう。
「じゃ、じゃあ、病院に連れて行ったりとか・・・・」
「ああ、要らねぇ要らねぇ。暫くの間、ちゃんと飯食わせて養生させときゃ大丈夫だ。」
「そう・・・ですか・・・・?」
佐川のその無頓着な返答に、内心では安堵していた。
動物病院の診察代は健康保険が利かないので、人間のそれより遥かに高い。
その高額な診察代を報酬の中から払わなければならないとなると、正直なところ、困るからだ。
犬の健康状態は勿論心配ではあるが、他人のペットよりも自分と自分の家族の方が、にとっては余程大切だった。
「じゃあ、餌やりと、お部屋のお掃除と、お洗濯・・・・だけで良いんですか?」
「まあそうね。そういった事をテキトーにやってくれりゃあOKだよ。」
「お家は広いんですか?部屋数が沢山あったりとか、お庭が広いとか・・・・」
「いんや。よくある普通の1DKのマンションだよ。狭いし庭も無ぇ。」
何だか妙な話だった。
この佐川という男がへそ曲がりな性格をしていて、単に口と本心が真逆というだけの事なのだろうか?
しかし何であれ、今目の前に差し出されている札束は本物で、これがあれば借金の返済に日々の暮らしに、どれだけ役立つ事か。
金銭的な損にはならないと分かった以上、その事実だけでには十分だった。
「・・・・・分かりました。喜んでお引き受けさせて頂きます。」
は深々と頭を下げ、百万円の札束を受け取った。
この瞬間、契約は成立した。
この佐川という男が、優男な見かけとは裏腹にヤクザの組長なのだという事は、他のホステス達の話を聞いて知っている。
一度契約が成立した以上、話を覆したり、何か不手際をやらかしてしまえば、只では済まないだろう。
自分が危険な相手と取引をしたという事は、ちゃんと自覚していた。
「良かった、引き受けてくれて。アンタになら安心して任せられると思ったんだ。」
「ありがとうございます。精一杯務めさせて頂きます。」
「んじゃ、宜しく頼むよ。ああこれ、部屋の鍵ね。それからこっちのメモは、マンションの住所。」
「確かにお預かりしました。それから、もう少しお訊きしたい事があるんですけど。」
危険な相手だからこそ、誠意を尽くさねばならない。
無事に務めを終える為には、この破格の報酬に見合うだけの誠意と意欲をもって仕事に当たる必要があるとは考えていた。
「何?」
「お散歩はしなくて良いんですか?勿論、ワンちゃんの体調次第ですけれども。」
「ブフーッ!」
だから勿論、は大真面目だった。
それなのに、何がそんなに可笑しいのか、佐川はとうとう盛大に吹き出した。
「あ、あの・・・・・?」
「ぎゃっはっはっは!!お、お散歩・・・・・・!お散歩って・・・・・・!!」
「な、何でそんなに笑うんですか・・・・!?」
「あーっはっはっは!は〜おっかしい・・・・!腹痛ぇ・・・・・・・!」
佐川は散々に笑い倒した後、どうにかこうにか笑いを引っ込めた。
「ん〜・・・・・、フフッ・・・・・お散歩ねぇ。そうだねぇ。別にしても良いよ。アイツが行きたがるんならね。」
「は、はい・・・・・」
「でもさ、逃がさないでね?」
この瞬間の佐川の目に、は射竦められた。
犬の散歩の話をしているだけなのに、何だか脅されているような、妙な恐ろしさを感じた。
「別に何でも好きにやってくれて構わないんだけど、2つだけ、約束して欲しいんだよ。
逃がさない事と、死なせない事。その2つだけ、頼むよ。」
「は・・・・はい・・・・・・・・」
一瞬感じた恐怖は、きっと気のせいだ。
逃がさない・死なせないなんて、考えてみれば飼い主として当然の要求だ。
わざわざ約束するまでもない、大前提ではないか。
は自分にそう言い聞かせて気を紛らわせると、質問を続ける事にした。
予め確認しておかねばならない大事な事は、まだあるのだ。
「あ・・・・・、あと、それから・・・・・」
「まだ何かあるの?」
話が長引いている為か、佐川は少し煩わしそうな空気を出している。
しかし、ここで怯んで『やっぱりいいです』などと言う方が、余計に彼を苛々させてしまいそうだし、出来る限りの仕事をする為の質問なのだから何も悪い事はしていないと、は自分を奮い立たせた。
「お風呂は入れてあげなくて良いんですか?これも体調が良くなってからの話ですけども。
そんな事情のワンちゃんなら、シャンプーもして貰ってなかったでしょうし、ノミの駆除なんかも・・・」
「ブッフォッ!!」
しかし佐川はまた派手に吹き出し、とうとう通路に蹲るまでに至った。
「さ、佐川さん・・・・・!?」
「ちょ・・・ちゃん・・・・・!アンタ俺を笑い殺す気か・・・・・!?」
「そ、そんなつもりじゃ・・・・!佐川さんこそ、さっきから何でそんなに笑ってばっかりなんですか・・・・!?」
「ヒー・・・・!ヒー・・・・!もうダメだ・・・・!もー無理・・・・!」
困惑するをよそに、佐川は暫く腹を抱えて蹲っていた。
その笑いが落ち着くまでにどれだけの時間を要しただろうか、少なくともの主観では長かった。
随分待った後、佐川はようやく涙を拭き拭き立ち上がった。
「・・・言ったっしょ?逃がさず・死なさずだけ守ってくれたら、後は何でもアンタの好きにしてくれって。」
「は、はぁ・・・・・・・」
「風呂でもベッドでも、入りたきゃ入れば良いよ。アンタが良いんなら・・・・、ね。」
妙な流し目を送られて、は自分の顔がカッと熱くなるのを感じた。
犬の話の筈なのに、まるで色恋の話をされているかのように聞こえたのだ。
ベッドに入るなんて妙な一言がいきなり出てきたせいだろうが、一瞬そんな風に受け取った自分が恥ずかしかった。
「・・・・は・・・はぃ・・・・・」
「んじゃ、頼んだよ。」
こんな一言で動揺する程恥ずかしがってしまったのが佐川にバレただろうかと気が気でなかったのだが、
当の佐川はそんなの胸中など全く気付きもしていないかのように、さっさと踵を返した。
「あ・・・・・!佐川さん、あの・・・・・!」
は、その背中をもう一度呼び止めた。
「・・・何?」
「す、すみません、何度もしつこく・・・・・!でもあの、最後にあと一つだけ、聞かせて下さい・・・・・!」
これ以上佐川を苛つかせるのは駄目だと分かっているが、それでも最後にもう一つだけ、どうしても確認しておきたい事があったのだ。
「何を?」
「ワンちゃんのお名前!何ていうんですか?」
「・・・・・・・・・」
佐川は一瞬唖然とした後、その場に崩れ落ちて悶絶した。