夜の町を、油断なく見張っている男がいた。
男は灯りも点けない真っ暗な建物の中から、双眼鏡でじっと外を観察していた。
『SPW』、男のジャケットの背中のロゴマークは、世界有数の大財閥・スピードワゴン財団の印である。彼はその巨大な財団で暗躍する、特殊諜報工作部隊の一員だった。
彼を含むその部隊の隊員達は今、エジプト各地に散らばっていた。
彼等を統率・指揮しているのは財団のトップや上層部の役員達ではなく、財団の特別顧問にしてN.Y.の不動産王、ジョセフ・ジョースター氏だった。
ジョースター氏は、血の繋がりこそないが、生涯独身を貫いた財団創設者のロバート・E・O・スピードワゴン氏の唯一の身内であり、財団のトップすらも持ち得ないような特権を持つ人物である。
そのジョースター氏の指示の下、彼等はエジプト中に張り込み、めぼしい町という町の監視を行っていた。
その目的は、『DIO』のアジトを突き止める事だった。
「・・・・・うん?あれは・・・・」
その男、スピードワゴン財団の密偵は、闇の中で目を凝らした。
双眼鏡の向こうに、動く人影が見えたのだ。
それは目の錯覚ではなかった。
フードのついた黒衣を着た人間達が、闇に溶け込むようにして、彼の見張っていた建物の中に入って行こうとしていた。
その様子はまるで、黒ミサに参列しようとしている邪教の信徒の如くであった。
「1、2、3・・・・・・・9人・・・・!9人の、男女・・・・!?」
遠目からでも、闇の中でも、彼は正確に見抜く事が出来た。
そのずば抜けた視力と識別能力が、彼の売りなのだ。
闇に蠢く人間の数は全部で9人、女や子供もいた。
「っ・・・・・・・・!」
不意に、後ろから水音がした。
今の今まで何の気配も無かったのに、急にゴポゴポと、水の流れるような音が。
彼はハッと息を呑み、後ろを振り返った。
「うっ・・・・、うおわぁぁぁぁぁ・・・・・!!!」
彼の目に、一瞬、水が見えた。
だがそれは、ほんの一瞬だった。
「・・・・・あれ?何も・・・・・・・・・、あれ・・・・・・・?」
やっぱり何もない。
そう思った瞬間、彼の首はゆっくりと胴体からずれ始めていた。
彼の命は、彼が一瞬見た水と共に、闇の中に消えていった。
部隊の仲間達の誰も成功しなかったこのミッションに、たった今、自分が成功した事を知る事もなく。
「・・・・・・・・」
やがて闇の中から、一人の男が現れた。
男は密偵の躯を引き摺り、闇に紛れてある建物の中へと入って行った。
それは、たった今まで密偵が見張っていた建物だった。
建物の内部は、外よりも深い闇が立ち込めていたが、男には何の妨げにもならなかった。建物の奥へ奥へと進んでいくと、やがて男は広い部屋に出た。
そこに『彼』はいた。
男が密偵の躯を床に下ろすと、彼は甘く蕩けるような声で、男に話し掛けてきた。
「・・・・近所をうろつく『蝿』は始末したか・・・・?
スピードワゴン財団・・・・、油断も隙もないなぁ、全く・・・・・。フフフフッ・・・・・フッフッフッフッフ・・・・」
紙の捲れる微かな音が、男の耳に届いた。
彼は壁際の大きな書棚の前に立ち、いつものように書物を読んでいるようだった。
彼は密偵の躯の横を歩き去り、また別の書棚の前へと移動した。
「・・・・この身体も大分馴染んできた・・・・。感じるか?ジョナサン・・・・」
彼はベッドの中で女に囁くような声でその名を囁き、自身の項に触れた。そこには星の形をした痣があるが、それは男には見えなかった。
部屋の中が暗いからではない。
男の世界それ自体が、元々闇に閉ざされているからだ。
「お前の子孫共が近付いて来ているのを・・・・・。つくづく残酷だなぁ、この世界というものは・・・・・・。」
彼は愉しげにそう呟いた。
「ンドゥール、頼もしき我が友よ。私の為に、お前のその力を貸してくれるな?」
「私の全ては貴方のものです。私の力も、命も、DIO様、全て貴方の・・・・」
男がそう答えると、DIOは満足げに喉の奥で笑い、また書物を読み始めた。
男はDIOに敬意を示すと、その建物、DIOの館を後にした。
ここを嗅ぎつけたスピードワゴン財団の密偵は始末した。後はジョースター達一行を殲滅すれば、DIOを脅かすものはこの世から全て消え去る。それこそがこの男、ンドゥールの望みだった。
ンドゥールが密偵を始末している間に、他の連中は一足先にそれぞれの『持ち場』へ出向いたようだった。
その連中を、DIOはンドゥールと同じく『友』と呼ぶが、ンドゥールは連中を仲間だとは思っていなかった。
かと言って、憎んでいる訳でも、妬んでいる訳でもなかった。
ンドゥールの闇に閉ざされた目には、DIO一人しか映っていなかった。他の『友人』連中が何処で何をしようが、自分の邪魔さえしなければそれで良かった。
いや、そもそも、邪魔など出来よう筈もない。
このエジプトに上陸してくるジョースター一行を最前線で待ち受け、始末するのは、他ならぬンドゥールの役目だからだ。
ンドゥールは微かな笑みを口元に湛え、夜の町を歩き出した。
目の代わりの杖の先で、石畳をコツコツと鳴らしながら。
その時、前方横手の細い路地に、妙な気配を感じた。
ジョースター達ではなかった。
彼等は今、紅海の小さな無人島でジャッジメントのカメオを撃破したところだと聞いている。更に間髪入れず、ハイプリエステスのミドラーがこれから奇襲を仕掛けるとも。彼等が今、ここにいられる筈はない。
さっきの密偵の仲間かとも思ったが、それも違う。夜の町に湧いて出る愚かなダニ共でもない。
気配が禍々しいのだ。
良く似た気配をさせている奴が、確かDIOの『友人』達の中に何人かいた事を、ンドゥールは思い出した。
「・・・・・・・・誰だ」
問答無用に始末しようかどうしようか少し考えてから、ンドゥールはその気配の持ち主に呼び掛けた。
「そこに隠れている奴、出て来い。」
相手の出方次第では、それがたとえDIOの『友人』であっても、殺してしまうつもりで。
「・・・・フフ。そんなに怖い声を出さないで。」
相手は敵意を表さず、言われた通り、ンドゥールの前に出て来た。
「杖をついた盲の男・・・、アンタがエジプト九栄神の一人、ゲブ神のスタンド使い、ンドゥールだね。」
「・・・そういうお前は?」
「僕はラビッシュ。残念ながら僕は何者でもない。」
「どういう意味だ。」
「アンタらのような能力は、僕には無いという事だよ。
僕の名前はラビッシュ、この名の通りの、生まれながらの『クズ』さ。」
ラビッシュと名乗った人物は、不思議な声をしていた。
若者である事は間違いないが、男とも女ともつかない声をしていた。
無理やり外科手術で性転換をする者が時々いるが、そんな連中の声とも違っていた。
「・・・・・お前のその気配、良く似た奴を知っているぞ。確か、二人ばかり。」
「それは僕の母さまと兄さまだよ。ジャスティスのエンヤと・・」
「ハングドマンのJ・ガイル・・・だったか。」
「・・・フフ。そう、その通りさ。」
エンヤ婆とJ・ガイルの親子に、もう一人身内がいた事を、ンドゥールは知らなかった。だが、独特のこの禍々しい気配は、ラビッシュの言っている事が嘘ではないという何よりの証だった。
「・・・・・それで?私に一体何の用だ?」
「手を組まないか?」
少しの沈黙の後、ンドゥールは小さく笑った。
ラビッシュの申し出が、滑稽な位に厚かましかったからだ。
「能力のない『クズ』と手を組んで、私に一体何の得があるというのだ。」
「確実にジョースター共をブチ殺せるよ。」
「それは私一人でも出来る。お前の助けは必要無い。それに、私は誰とも組まない主義なのだ。群れるのは嫌いでね。仲間探しなら他を当たってくれ。」
ンドゥールは再び歩き始めた。
だが、横をすれ違う瞬間、ラビッシュがおもむろに口を開いた。
「みーんな最初は似たような事を言うんだよねー。で、結局負ける。」
「・・・・・・・・・・」
ンドゥールは足を止めた。
「俺一人で十分、アタシが始末する、皆同じような事を言って、自信満々に出て行く。手柄を独り占めしようとね。滑稽な位、みぃ〜んな、お・ん・な・じ。」
「・・・・・・・・・・・」
「尤も、見返りに求めるものは人によるけど。金だったり、DIO様の愛だったり。
見たところ、アンタもそのクチよね?DIO様に抱かれたくて仕方ないんでしょ?」
「汚らわしい事を口にするな。あの方を愚弄すると命はないぞ・・・・」
ンドゥールがスタンドを発動しようとした瞬間、ラビッシュは若い娘のような無邪気な声で笑った。
「アハハッ!愚弄なんてしないわよ。だって僕もそうだもの。
あの方の手で、優しく頭を撫でて貰いたい。あの方の腕に抱きしめられたい。
私にはお前が必要だ、お前の居場所はここだよって、あの方に囁かれたい。」
その言葉に、ンドゥールは心の奥底で僅かに動揺した。
それは正しく、ンドゥール自身が望んでいる事と同じだったからだ。
「汚らわしい?男のアンタにはそう思えるんだろうね。
だけど、僕にとってはそうじゃあない。
だって、ネーナだって、ミドラーだって、マライアだって、あの方の毎日の『食事』だって、同じ事を望んでいるじゃあないか。皆、あの方に抱かれたがっている。心も身体も全部、全部、あの方に求められたいとね。
あの女共と同じ事を僕も望んで、何が悪いのさ?」
「・・・・・・・・お前は、男ではないのか?」
「男さ。だけど女でもある。僕はアンドロギュヌスでね。」
その言葉で合点がいった。
男であると同時に女であり、逆を返せばどちらでもない。
この世の摂理の隙間に生まれ落ちたような孤独で不安定な存在、それがこのラビッシュという若者のようだった。
「・・・・・・確実にジョースター共を殺せると言ったが、お前はスタンド使いではないのだろう?能力を持たないお前が、何故そうまで自信満々に言い切れる?」
「確かに僕はスタンドを使えない。だけど僕だって魔女の息子さ。古文書を読み解いて、ちょっとしたアイテムを作る位の事は出来る。」
「アイテム?」
「ジョースターの一行を、奴等の絆を、内側からズタズタに出来る素敵なお薬さ。」
ラビッシュは誇らしげな声でそう答えた。
「アンタは確かに、群れる必要など無い位に強いだろうよ。
だけど向こうも、決して侮れない曲者揃いさ。特にあの承太郎はね。
だけど、僕の作ったその薬があれば、奴等の信頼関係は脆く崩れ去る。
そうなれば君は、奴等を確実に仕留める事が出来るって訳さ。
チーム内の信頼関係が壊れれば、チームの戦力も激減するというのは、この世のセオリーだからね。野球だろうがアメフトだろうがジョースター御一行だろうが、例外は無い。」
その薬とはどういう物か、ジョースター達の信頼関係を壊すというのはどういう事か、いずれも具体的な内容は、この話からは分からなかった。
全く気にならないではなかったが、しかしンドゥールはそれを訊かずにおいた。
「・・・・下らん与太話だ。何の事だか分からんが、勝手にやるが良い。さっきも言った通り、私は誰とも手を組む気はない。」
「じゃあ、勝手にやって、成功したら、アンタは僕を認めてくれるかい?」
「認める?」
「ジョースター達を倒すのに僕の協力があった事を、DIO様に報告して欲しい。
そして、僕をあの方に会わせて欲しい。僕があの方の『友達』になれるように、協力してくれ。」
ラビッシュの声には、ある種の逼迫感があった。
DIOのスタンド能力を導き育てたという、魔女エンヤのもう一人の息子。
『クズ』と名付けられた、スタンド能力を持たない両性具有者。
そう考えると、察しはついた。
誰にも受け入れられない、何処にも居場所のない半端者が、居場所を作ろうと必死なのだ。
その気持ちは、ンドゥールにも良く理解出来た。
「・・・・・・・良いだろう。」
「本当かい?」
「ああ。本当にお前が役に立ったのならば、その時はお前をDIO様の元へ連れて行き、お前の手柄をDIO様に報告する。
但し、私に出来るのはそこまでだ。
それをしたところで、あの方がお前を『友達』になさるかどうかは保証出来ん。ついでに、命の保証もな。」
「いいよ、それで構わない。」
「フン・・・・、精々頑張る事だな。」
ンドゥールは、今度こそラビッシュの横を歩き去って行った。
柄にもなく他人に肩入れしてしまった自分の甘さに、少しだけ苦笑して。
遂に辿り着いたエジプト。
この国の何処かに、DIOがいる。
手掛かりは、ジョースターが念写したDIOの背景に写っていた、アスワンウエウエバエ。その蝿が生息しているというナイル川流域、ひとまずはアスワンの町が、一行の次なる目的地だった。
「・・・・・・・承太郎。ひとつ訊きたい事がある。」
黄砂を踏み締めて歩きながら、花京院が厳かに呟いた。
「何だ?」
「これ・・・・、どこへ向かって歩いているんだ?」
花京院のその質問に、全員が足を止めた。
「・・・・・・・」
「・・・・・ちょっと、承太郎さん。何で答えないんですか?」
江里子がせっつくと、承太郎はようやく口を開いた。
「方角は間違ってねぇぜ。ナイル川はここから西だろ。」
確かに今、一行は西へ向かって歩いていた。
昇ったばかりの朝日に背を向けているので、それは間違いなかった。
だが、問題はそこではなかった。
「そういう問題じゃないでしょ!?ここ紅海ですよ!?ナイル川まで歩いて行く気ですか!?信じられない、あっきれた・・・!」
江里子は目を吊り上げて、承太郎に詰め寄っていった。
「『俺について来い』みたいに堂々と先頭切って歩き出すから信じてついて来てみたら、まさか適当!?」
「ギャーギャーうるせぇぞ、ブス。」
「ほらまた!都合が悪くなるとすぐそうやって悪口言って誤魔化すんだから!ほんっとこの、顔だけ男!!」
またぞろ口喧嘩を始めた江里子と承太郎を遠巻きに眺めながら、ポルナレフは花京院に尋ねた。
「なぁ、アイツら何て言ってんの?」
「まあ、他愛のない小競り合いですよ。」
「ふーん・・・・・」
「フフ。しかし考えてみれば、承太郎に目を吊り上げて怒鳴りつける女性も、エリーぐらいのものだな。他は皆、軒並み目がハート型になる。」
アヴドゥルが小さく笑うと、ポルナレフはしみじみと溜息を吐いた。
「確かに、アイツのモテっぷりには腹立つもんがあるよな。
何が腹立つって、すれ違う女という女をみーんな惚れさせておいて、テメェは目もくれないってとこだよな。」
「それでこそ承太郎なんですよ。それが彼のキャラクターなんです。
大体、彼が君みたいに片っ端から女性に色目を使っていたら、今頃ここまで辿り着けていませんよ。」
「だからそれがムカつくんだっつーの・・・・・」
「いやはや、困ったもんじゃあ。アイツの女にほっといて貰えんところは、儂の若い頃そっくりじゃ。
まあ尤も、儂の若い頃の方がもっと大変だったがな。
何せ町をワンブロック歩く毎にこう、女の子が軍団でワラワラ〜ッと、ゾロゾロ〜ッと・・」
「ジョースターさん!!」
江里子の怒鳴り声が突然自分の方へ飛んできて、ジョースターは思わず肩をビクッとさせた。
「呑気にお喋りしている場合じゃありませんよ!早く近くの町を探して下さい!私達、飲み水すら持ってないんですよ!?こんな状態で砂漠をウロウロしていたら、今度こそ死にますよ!」
「う、わ、分かった、分かったからそう怖い顔をせんでくれよ・・・・」
ジョースターはすごすごと会話の輪の中から抜けていった。
「分かったぞ、江里子さんが何故カリカリしてるのか。トラウマだ。」
「あ〜・・・・・・、そういう事ね。」
何やら訳知り顔の花京院とポルナレフに、アヴドゥルは首を傾げた。
「トラウマ?何の?」
「アラブの砂漠で太陽のスタンド使いと遭遇した時、暑さでやられかけましてね。
我々はともかく、江里子さんは結構本気で危なかったんです。」
「で、翌朝から高熱を出してダウンしたってわけ。」
「な、なるほど・・・・・・;」
珍しくジョースターにまできつい態度に出ているのはそういう事かと納得しながら、アヴドゥルは目を吊り上げている江里子を見守ったのだった。
ジョースターのハーミットパープルで調べたところ、現在地は、本来の上陸予定地から随分と南の方だった。
予定では、上陸ポイントのすぐ目と鼻の先にあるベレニスという大きな町で車を調達し、そこからすぐさまアスワンを目指してまっすぐ西へと突き進む予定だったのだが、今となっては、その予定通りに進む事は不可能だった。
何しろ、殆どの荷物は沈没した潜水艦の中なのだ。
その中には、着替えや野営の道具類は勿論、ジョースターの義手のスペアも含まれていた。
ここからアスワンまでは、車なら約2日程かかるらしく、こんな状態ではとても先を急げない。まずは最低限の物資の補給が先決だった。
不幸中の幸いで、すぐ近くに人の住む集落があり、一行は取り敢えずそこに向かった。ところが。
「な・・・・、何かこじんまりしすぎじゃねぇ?」
到着してみれば、その集落は、ポルナレフの言う通り、実にこじんまりとしていた。
良く言えば長閑だが、悪く言えば寂れている。
建物はポツポツとあるだけで、どれが店でどれが民家なのか区別はつかず、夜明け直後という時間帯のせいもあるだろうが、人気もなかった。
「せめて公衆電話があればのう・・・。取り急ぎ、スピードワゴン財団にだけでも連絡を入れたいのだが・・・。」
ジョースターは、義手の取れた左手を難儀そうに見た。
彼の義手は財団の科学研究所で作られている特殊な義手で、新しい義手は勿論、財団に運んで来て貰うしかないのである。
「潜水艦が沈没したのが痛手でしたね・・・・・。」
花京院がしみじみと呟いた。
野営の道具やジョースターの義手が無くなったのも大打撃だが、彼は内心、自分のスケッチブックを、ここまでの旅の風景を描き込み続けてきた大切なスケッチブックを失くした事が、かなりショックな筈だった。
同じように、旅の記録を綴ってきた手帳を失くした江里子には、彼の気持ちが良く分かった。
「あの荷物はもう・・・・・、諦めるしかないんです、よね・・・・・」
「いや、そうでもないぞ。」
「・・・え!?」
思いがけないジョースターの返答に、思わず声が上擦った。
「あの潜水艦は、スピードワゴン財団に頼んで、すぐにでも引き上げて貰う。
爆発でもして綺麗さっぱり無くなってしまったならともかく、あのまま放っておいたら、ダイバーや地元の漁師に通報されて大騒ぎになるからな。出来るだけ早い内に引き上げて、内々に処理して貰わんと面倒なのじゃ。」
「じゃあ・・・・・・」
「中に残してきた荷物も、明日にでも儂の新しい義手と共に届けて貰うとしよう。」
「ああ・・・・・・!」
江里子と花京院は、思わず浮かべた笑顔を見合わせた。
「その為にも、出来るだけ早く電話をしたいのじゃが・・・・・・」
問題は再び振り出しに戻った。
手当たり次第にそこらのドアをノックして回ろうにも、時間が時間だけに出来ない。
「どうする?この集落の住人共が起きてくるまであと1時間か2時間、ここで煙草でも吸ってろってのかぁ?っていうか吸える煙草もねーんだけど。海に浸かっちまって完全アウトなんだけどコレ。」
ポルナレフはサイドポケットから取り出したずぶ濡れの煙草を、仏頂面で握り潰した。その時、前方の建物から男が一人出てきた。
「おおおっ!人じゃ!」
「私が訊いてきましょう。」
「おお、頼んだぞ、アヴドゥル!」
同じエジプト人のアヴドゥルが、その男に声を掛けにいった。
アヴドゥルが何事かを話すと、彼はギョッとした様子でこちらを振り返った。
そしてすぐさまアヴドゥルと共に、一行の元にやって来た。
「何だいアンタ達!?あの人にチラッと聞いたけど、潜水艦が事故ったって!?」
男の後ろで、アヴドゥルが意味ありげに頷いた。
ジョースターはそれに小さく頷き返すと、男に話し始めた。
「そうなんじゃ。孫と友人達と旅行に来て、紅海の海底ツアーを楽しんでいたら、突然、潜水艦が故障してなぁ。
幸い怪我人は出とらんのだが、如何せんこの状態だから、どうにも出来なくて困っておるのだよ。」
ジョースターは完全に道楽好きの金持ちを装って喋っていた。
要らぬ警戒をされぬよう、義手の取れた左手も、ズボンのポケットに突っ込んでさり気なく隠している。
「すまないが、電話を貸して貰えないだろうか?
それから、着替えと車、出来れば食料やキャンプの道具も買いたいのだが、この村に店はあるかね?」
「残念だがそりゃあ無理だあ。ここには電話は1台も無いんだ。電話線が来ていないから。」
「何じゃと!?」
「店も無いねぇ。あるのは小さい宿屋ぐらいのもんさ。何しろここは、マリンスポーツをしに来る観光客の為の休憩所みたいな所だから。」
「むぅぅ・・・・・・」
「だけどこのすぐ近くに、もっと拓けている町がある。そこに行けば色々と店もあるし、車も売って貰える。そこまでだったら送って行ってあげるよ。」
「本当か!?そいつは有り難い!」
かくして一行は、この親切な男のトラックの荷台に乗せて貰い、無事に町の中央部へと辿り着いた。
「いやぁ、ありがとう!助かったよ!」
「なぁに、どうせ俺も用事があったからな。ついでだよ。」
「すっかり濡れてしまっておるが、これはお礼だ。本当にどうもありがとう。」
ジョースターは、ズボンのポケットから出した紙幣を差し出した。
義手の取れた手を見られないよう、トラックの荷台にいた時に、財布から出して準備しておいたのである。
「えぇっ!?良いのかい!?いやあ、そんなつもりじゃなかったのに・・・・、すまないなぁ。」
「いやいや、気にせずに受け取ってくれ。」
「そうかい?それじゃあ・・・ありがたく!」
男は恐縮しながらも嬉しそうな笑みを浮かべて、それをポケットに仕舞い込んだ。
「ああ、そうだ。事故った潜水艦の事、代わりに通報しておこうかい?」
純粋な親切心からの申し出である事は明らかだったが、それは一行にとってはありがた迷惑というものだった。
「いやいや、それには及ばん。儂の方できちんと処理しておく。
今から電話して、速やかに引き揚げ作業にかからせるつもりだ。燃料漏れなども起こしておらんから、海も汚しておらん。潜水艦の事は心配しないでくれ。」
ジョースターの話に、男は感心したような口笛を吹いた。
「いやぁ凄いねぇ!金持ちの観光客は珍しくないけど、アンタ程の人は流石に珍しいよ!もしかしてアンタ、相当な立場の人なんじゃあないかい!?」
「いやいや、フフン、まあ、それ程でもあるかのう。」
鼻高々なジョースターを、承太郎が『何言ってやがんだ』とばかりの冷ややかな目で一瞥した。
「ま、ともかく助かったよ!」
「いやいや、良いって事だよ!そんじゃあ気をつけて!良い旅を!」
男がトラックに乗って走り去ると、ジョースターは大きな溜息を吐いた。
「ふぅーっ、何とか誤魔化せたわい・・・・・。
ともかく、スピードワゴン財団に電話をして、取り急ぎ物資の補給と潜水艦の引き揚げを頼まねば。公衆電話は・・・・、おおっ、向こうだな。じゃ、ちょっと行ってくる!」
ジョースターは忙しげに通りの向こうへ走っていき、電話をかけ始めた。
すぐに喋り始めたところを見ると、電話が繋がったのだろう。
その様子を眺めながら、江里子は思わず呟いた。
「凄いなぁ。スピードワゴン財団って、24時間電話受付してるんですね・・・。」
「いや、そういう訳じゃあないと思いますけどね。ジョースターさんが特別なんですよ、きっと。」
花京院がそれに応えると、ポルナレフが今更のようにしみじみと呟いた。
「そーいやホント、何者なんだよジョースターさんって。よく考えたら、俺もあんま知らねぇんだけど。」
「ジョースターさんはN.Y.で手広く不動産業を営んでおられる、不動産王と呼ばれるアメリカ経済界の実力者だ。
そして、スピードワゴン財団の特別顧問でもある。財団内において、色々と特権を持っておられるのだ。何しろ財団創設者のスピードワゴン氏のたった一人の身内、孫同然の人だからな。」
「ほへぇ〜ッ・・・・・!!」
アヴドゥルの話に、ポルナレフは目を真ん丸にして感嘆した。
「道理で金の使い方が半端じゃねぇと思ったぜ!
・・・・つー事はだよ、何か?
その孫に当たるコイツも、相当なオボッチャマって事じゃあねぇの!?」
「やめろ。」
ふざけたポルナレフに脇腹を肘で小突かれ、承太郎は不快そうに顔を顰めた。
「そうですよ。承太郎さんってお坊ちゃまなんですよ。ね?坊・ちゃ・ま。」
「江里、テメェまた・・・・・」
「ふふっ。そういえば承太郎は、『坊ちゃま』と呼ばれるのが嫌なんだったな。」
「何かね、温室育ちのモヤシっ子みたいに聞こえるから嫌なんですって。心配しなくても、こんないかつくてガラの悪い人をモヤシっ子と思う人なんていませんのにね。ぷぷっ。」
「あはは、確かに。」
江里子と花京院が笑っていると、ポルナレフが何か思い出したように江里子を見た。
「そういやエリーって、承太郎んちのメイドなんだよな!?
って事は、何か?
こーんなフリフリつけてよぉ、毎朝承太郎を起こしたり、着替えを手伝ったりとかしてんのかよ!?」
ポルナレフは一体何を想像しているのか、妙に興奮気味だった。
そんな彼と、居心地の悪そうな承太郎の様子が面白くて、江里子はそのまま悪ノリを続ける事にした。
「そうですよ?ミニスカートのフリフリのエプロンドレスを着て、おはようございますお坊ちゃま、お召し変えの時間です・・・、とかやってますよ?」
「うおーーーッ!!マジかよぉ!!!」
「江里テメェ、テキトーこいてんじゃねぇぞ!俺がいつテメェに着替えを手伝わせた!?大体、テメェがフリフリのミニスカなんぞいつ着てた!?テメェはいつもババくせぇドブネズミ色のトックリだろうが!いい加減にしねぇと力ずくで黙らせるぞ!」
「きゃーっ!アヴドゥルさん助けてぇ!」
「こらこら、上着の中に潜るんじゃあない;」
下らない馬鹿騒ぎだが、何だかいつもの日常に戻ったようで、とても楽しかった。
ほんの束の間だったが、一瞬、心は日本に戻っていた。
「お前ら、何をギャースカ騒いどるんだ!おい、行くぞ!」
だがそれも、ジョースターが戻ってくるまでの事だった。
「ああ、ジョースターさん。それで、どうなりましたか?」
アヴドゥルがいち早く表情を引き締め、戻ってきたジョースターに状況を尋ねた。
「うむ。潜水艦の引き揚げ作業はすぐにでも当たってくれるそうだが、儂の義手の準備に少し時間がかかるそうで、潜水艦の中の荷物と共に、引き渡しは明日の午前中になった。
場所はアスワン東部の砂漠地帯。・・・・・、おい誰か、これを広げてくれ。」
「はい。」
ジョースターは、シャツの胸ポケットから濡れてクシャクシャになった地図を取り出した。江里子がそれを受け取り、千切れないよう細心の注意を払って、そっと皆の前に広げた。
「ああ、ありがとうよエリー。引き渡し場所は丁度・・・・この辺りじゃ。」
ジョースターが指し示したのはアスワン東部の砂漠地帯、ベレニスからアスワンへと続く大きな道から幾らか逸れた場所だった。
「無関係な人々を巻き込まぬよう、また、敵の襲撃があればすぐに分かるよう、敢えてこうした。
いよいよエジプトに上陸し、DIOの膝元へと迫って来た今、敵の襲撃は益々激化するだろう。今後は今まで以上に注意を払わねばならん。皆も心してくれ。」
その一言に、それまでのおふざけムードは一気に吹き飛び、皆、緊張を帯びた表情で頷いた。
「では早速出発・・・といきたいところだが、まだ時間が早すぎて車も買えんし、服もズブ濡れで、怪我もしとる。それにまだもう1件、電話の用がある。その電話が、夕方近くにならんと掛けられん。
そこでだ、この町に夕方まで滞在し、それから出発しようと思う。
そして日が暮れる前にこの町に向かい、そこで今夜の宿を取る。
ここからなら、財団との待ち合わせの場所まで一本道だ。」
ジョースターが次に示したのは、ベレニス近くの町だった。
「今後は益々激しい戦闘になるだろうからこそ、過剰な気負いは禁物だ。いつ何時、無理を強いる事になるやも知れんから、休める時はしっかり休んでおこう。」
そう言って、ジョースターは温かい微笑みを浮かべたのだった。
早速宿を取った一行は、昼を過ぎるまで、各々の部屋で暫し休息の一時を過ごした。
濡れて汚れた服をクリーニングに出し、風呂に入り、数時間も昼寝をすると、随分と身体が楽になっていた。
そして午後3時、ホテルのロビーで再び集結した一行は、簡単に昼食を済ませると、二手に別れていよいよ出発の準備に取り掛かったのだった。
「私はそこの修理工場で、車を調達してくる。」
「俺もアヴドゥルについてくぜ。」
「じゃあ僕は、この辺の店で水と食料でも見てきます。」
「私も花京院さんと一緒に。」
二組のうちの一組、アヴドゥル・ポルナレフ・花京院・そして江里子は、更に二組に分かれると、それぞれ目的の物を調達しに向かった。
と言っても、同じ通りの中にそれぞれの目当ての場所が全て点在していたので、心配はなかった。アヴドゥル・ポルナレフ組に笑顔で手を振ると、江里子は花京院と共に、すぐ側にあった店を覗いた。
「次の目的地まで車で1時間半程のようですし、水はともかく、食料は多分必要無いでしょうけどね。」
「でも、この旅は何があるか分かりませんからね。万一の備えはしておかないと。」
「確かに。一応、缶詰でも買っておきましょう。」
花京院はそう言って、積み上げられている缶詰を手に取り、品定めを始めた。
その場は彼に任せ、江里子は店の軒先に何枚も吊るされている綺麗な色の布切れを見始めた。色が綺麗だったので、さっきから少し気になっていたのだ。
手に取って見てみると、それは衣類ではなく、ランチョンマットやテーブルセンターに使えそうなサイズの、インテリア用の敷布のようだった。色とりどりのビビッドカラーの布の束は、見ているだけでも楽しかった。
「さ〜、見てってよ〜。綺麗な宝石だよぉ〜。」
呼び込みの声が聞こえて、江里子はふと、隣の露店に目を向けた。
小さなその露店はアクセサリー屋で、古ぼけた木箱の上に広げられた黒いビロードの布の上に、ブレスレットやペンダントが幾つも並べられてあった。
江里子と目が合うと、アクセサリー屋は人懐っこい笑顔になって、おいでおいでと手招きした。
「そこの可愛いオネーサン!ちょっと見ていかない?手作りのアクセサリーだよ。全部本物の宝石なんだから!」
「へぇ〜・・・」
「ほらほら!ちょっと見に来てよ!大丈夫、無理に売りつけたりなんてしないから!さっきから全然売れなくて、一人で退屈してたんだ!ちょっとお喋りしてってよ!」
アクセサリー屋は、とても感じの良い若者だった。江里子と年の頃も近そうだった。
間違いなく初対面の筈なのだが、何処かで会った事があるような気がして、江里子はその若者に対し、親近感のようなものを何となく抱いた。
だが同時に、異質な印象を受けてもいた。
短く刈り込んだ坊主頭から、見た瞬間に男だと判断したが、時間が経てば経つ程、男なのか女なのか分からなくなる感じだった。
顔形も、身体つきも、声音も、男のようでもあり、女のようでもある。
考えれば考える程性別不明になっていくこの若者を、江里子は、同性愛者かも知れないと判断した。
この奇妙な冒険に出て来てから江里子は、日本では見た事のなかった強烈な個性を放つ人々を何人も見てきた。その中には、同性同士でベッタリとくっついて睦み合う人々もいた。強いて言えば、その類の人と雰囲気が似ていたのだ。
「・・・じゃあ、ちょっとだけ。ちょっと、連れに断ってきますね。」
江里子は笑顔で頷くと、一旦、花京院の元に戻った。
「すみません、花京院さん。隣のアクセサリー屋さんを覗いていても良いですか?」
「どうぞどうぞ、構いませんよ。でも、用心は怠らないで下さいね。
少しでも妙な事があったら、大声を出して下さい。」
「分かっています。」
「買い物を済ませて、僕もすぐ行きますから。」
「はい。」
花京院に断りを入れると、江里子はアクセサリー屋へ出向いた。
すると店の若者は、フレンドリーな笑顔で江里子にヒラヒラと手を振った。
「ハァイ♪」
「は、ハァイ・・・・。」
「素敵でしょ?どれも本物の宝石よ。尤も、原石だけどね。」
「原石・・・・・」
「ひとつひとつ、全部ボクがデザインして、手作りしてるのよ。どう?綺麗でしょう?」
「ええ、本当・・・・・・」
江里子は曖昧な笑みを浮かべて適当に相槌を打ちながら、商品を眺めた。
大きさの不揃いな石を連ねたブレスレットや、ゴロンとした大きめの石を革紐で縛って提げてあるペンダントばかりで、これはこれで確かに素敵だと言えたが、所謂『ジュエリー』ではなかった。
全部本物の宝石の原石だと言うが、果たして本当だろうか。
観光客向けの土産物屋は、皆すべからく誇張して売りつけようとするものだから。
決して買わされないように気をつけようと密かに警戒しつつ、江里子は形ばかり、目についたペンダントを手に取った。
「オネーサン、お目が高いね!それ、ダイヤの原石よ!」
「え?」
確かにそのペンダントには、やや曇りはあるが透明な石がついていた。
てっきり水晶か、何ならガラスかも知れないと思っていたものが、まさかダイヤだったとは。
思わず驚いていると、若者はここぞとばかりにセールストークを畳みかけてきた。
「大きくて良い石でしょ?それ一点物よ!それひとつしか作れなかった!そんな良い石、滅多に手に入らないよ。そういうの、普通は全部高級宝石店に買い占められてしまうから。そんで、うちの100倍の値段のジュエリーにしちゃう。」
「へ、へぇ〜・・・・・・」
「このペンダント、オネーサンの雰囲気にピッタリよ。かして。」
「あ・・・!」
彼は有無を言わさず、江里子の手からペンダントを攫った。
これをまた有無を言わさず首に巻かれて、何だかんだで買わされてしまうのだ。
江里子は慌てて断ろうとしたが。
「ほら、見て・・・・」
「え・・・・・・・?」
彼は、それを江里子の首に巻こうとはしなかった。
その代わりに、ペンダントを江里子の目の前でユラユラと揺らし始めた。
「よぉく見て・・・・」
「あの・・・」
「素敵なペンダントでしょう・・・・?」
「・・・・・・・・・」
何なのだろうと怪訝に思った瞬間、江里子の意識はそこで静かに、プツリと途切れた。
「・・・・・・・ええ・・・・・・、素敵・・・・・・・・」
「欲しいでしょう、コレ・・・・?」
「・・・・・・・欲しい・・・・・・・・」
「そう、アンタはコレが欲しくなったから買ったのよ・・・・。
さあ、かけてあげるわ。はい、どうぞ・・・・。」
「・・・・ありがとう・・・・・・」
「それからこれは、ちょっとしたサービス・・・・。美味しいチョコレートだよ・・・・。それもボクが作ったんだよ・・・・。甘ぁい甘ぁい、身も心も蕩けてしまうチョコレートだよ・・・・。」
「チョコ・・・レート・・・・・」
「さあ、早く食べて・・・・」
江里子の手に、ピンク色のセロファン紙に包まれた一口サイズのチョコレートが渡された。江里子は無意識の内にその包みを解き、中のチョコレートを躊躇いなく口の中に入れた。
舌の上に乗った刹那、それは雪が融けるかのように、一瞬で融けて無くなった。
その瞬間。
「よおエリー!何してんだ?」
「っ・・・・!!」
誰かに肩を叩かれて、江里子は意識を取り戻した。
「あん?お前、何食ってんだよ?」
「・・・・・・え・・・・・・?」
肩を叩いたのは、ポルナレフだった。
いつの間にかポルナレフが隣にいて、怪訝そうな目で江里子を見ていた。
江里子はその時初めて、自分が何かを食べている事と、口の中いっぱいに広がっている甘さに気付いた。
「え・・・っと・・・・・・、チョコレート・・・・・・?」
その味は、確かにチョコレートだった。
だが、何故自分がチョコレートなどを食べているのか、そこのところが今ひとつよく分からなかった。
「買ってくれた人へのサービスねー!美味しいよー!オニイサンも欲しいー?」
アクセサリー屋の若者は、陽気な口調でポルナレフに話しかけた。
「アクセサリー買ってくれたらあげるよー!」
「いらねーよ!」
ポルナレフはバッサリ断ると、江里子がしているペンダントを見て、素っ頓狂な声を上げた。
「ハァ!?何だこれ!?単なる石ころを紐でぶら下げてるだけじゃねーか!何がアクセサリーだ!こんなモン、そこら辺のガキだって作れるぜー!」
「失礼ねオニイサンー!石ころじゃないよー!それダイヤの原石ねー!」
「嘘こけー!」
「どれ、見せてみろ。」
突然、アヴドゥルの声がして、江里子とポルナレフは背後を振り返った。
すると、後ろにアヴドゥルと花京院が立っていた。
アヴドゥルはペンダントの石をじっと凝視すると、微かに首を振った。
「いや、嘘じゃあないな。それは確かにダイヤの原石だ。
まあ尤も、そのままの状態では宝石としての価値は無いし、素人の手では研磨もカットも出来ん。それをして貰おうと思えば、それこそ高くつく。
つまりそれは、そのまま使うしかないという事だ。」
「良いじゃありませんか。ダイヤの原石なんて、それこそ日本では手に入りませんよ。エジプトまで来た良い記念になるんじゃあないですか?」
「・・・で、ですよね・・・・・。」
アヴドゥルと花京院に、江里子は笑って頷いて見せた。
しかし、何かが腑に落ちなかった。
― うん、買った・・・・。私、このペンダントを買ったわ、確かに・・・・・。
買ったから身に着けているし、サービスのチョコレートも食べているのだ。
― でも・・・・、本当に・・・・?ううん、確かに買ったわ、買ったけど・・・・、でも私・・・・、お金、払った・・・、っけ・・・・?
だが、買ったというその事実が、確かな筈なのに、何故か靄に包まれたようにはっきりしなかった。
「さあ、行くぞ。ジョースターさんと承太郎を迎えに行って、出発だ。」
「おう!エリー、行くぜ。」
「さあ、行きましょう、江里子さん。」
「は、はーい・・・・・・・」
訳も分からないまま、江里子はアヴドゥル達について行こうとした。
するとアクセサリー屋の若者が、またあの人懐っこい笑顔を浮かべてヒラヒラと手を振ってきた。
「ありがとねーオネーサンー!バァーイ♪」
「バ、バァーイ・・・・・・」
江里子も取り繕うように微笑みを浮かべて手を振り返し、アヴドゥル達の後を追った。その後ろ姿を、アクセサリー屋の若者が粘るような目でじっと見ている事に、気付きもせずに。
その頃、ジョースターは承太郎を伴い、通りの公衆電話からN.Y.の自宅へ電話を入れていた。
『ハロー?』
「ああ、スージーか?儂じゃ。」
『ジョセフ!!あなたなのね!昨夜は一体どうしたの!?何があったの!?何故、電話に出られなかったの!?何故、電話が突然不通になってしまったの!?日本にいる筈の承太郎が、何故出張に行っているあなたと一緒にいるの!?』
覚悟はしていたが、やはりスージー・Qは矢継ぎ早に質問を飛ばしてきた。
いや、質問というより、これはもはや尋問である。
ジョースターはうんざりと溜息を吐き、大きく息を吸い込んだ。
「あーもうッ、そうポンポン言うんじゃあないッ!説明出来るもんも出来んだろうが!」
『あら・・・、それは失礼。』
「まず、昨夜の事は別に何でもない。ちいっと辺鄙な場所まで来ておる上に、色々とドタバタしておってな。それで電話に出られなかったんだ。
そして、そうこうしている内に電話が壊れた。それだけだ。」
『あ〜ら・・・・・・・・そうだったの・・・・・。』
「承太郎の奴は、良い社会勉強になると思って儂が連れて来た。
ホリィが話しとった通り、すっかりロクでもない不良になっとったからな。
生ぬるい日本のハイスクールで甘やかすより、儂の仕事を手伝わせて世界の荒波に揉まれた方が、余程アイツの為になると思ってな。」
ふと見ると、承太郎が『ふざけんなよテメェ』とでも言いたげな目付きで睨んでいた。ジョースターは肩を竦め、見なかったふりをして承太郎から目を逸らした。
『へ〜、そうなのぉ!承太郎があなたの仕事の手伝いを・・・・。グーよ、グー!』
「ッフン!儂に比べればまだまだじゃがな。」
『で?そのお仕事ってそんなに大事なの?』
妻のその何気ない質問が、ジョースターの胸に深く沈んだ。
「・・・ああ、とても大事な務めだ。決して失敗など出来ん。だが、儂らが力を合わせれば、必ず成し遂げられる。」
何が何でも、必ず。
その決意を胸に秘め、ジョースターはそう答えた。
『ふ〜ん・・・・、ねぇジョセフ、ちょっと承太郎に代わって!』
「っ・・・・、構わんが、何の話が?」
『別にぃ〜。可愛い孫の声を聞きたくなっちゃあ悪い?』
「む・・・・・、いやぁ・・・・・・承太郎!」
ジョースターは承太郎を呼び寄せ、電話を代わった。
「代わったぜ。」
『聞いたわ。承太郎、しっかりね。お祖父ちゃんを宜しく頼むわよ。』
「ああ。」
『・・・あなた達ジョースター家の男達が力を合わせれば、きっとどんな困難も乗り越えられます。』
「っ・・・・」
スージー・Qのその真摯な口ぶりに、承太郎はハッとした。
祖母はもしかしたら、気付いているのではないだろうか。そう思わずにはいられなかった。
『私はそう信じているの・・・・。』
「スージー祖母ちゃん、アンタ・・・・・」
本当の事を知っているのか?
思わずそう訊きかけた瞬間、スージー・Qはいつものようなキャピキャピした声に戻った。
『お?どうしたの?そんなに声を固くして!』
「・・・いや。」
『あ!そうだわ!ねぇ承太郎、もしかしてそこに、あの子がいるかしら?』
「あの子?」
『エリーよ。あなたのお家の可愛いメイドさん。』
「っ・・・・・・!」
承太郎は再び、言葉に詰まった。
『ねぇ、いるの?いないの?』
「・・・・・・・・・何故、そんな事を訊く?」
『んだってぇ、この1ケ月程、いつ電話しても出ないんだもの。
いつもなら、ホリィとフィフティ・フィフティ位の割合で電話に出ていたのに。』
「・・・・・・・・」
『昨夜の電話であなたと話して、もしかして彼女も一緒にそこにいるんじゃないかと思ったのだけれど。』
祖母の思わぬ勘の鋭さに、承太郎は驚かされていた。
「・・・・・今はいねぇ。」
そして気が付くと、何故か正直に白状してしまっていた。
すっ呆けようと思えばそう出来た筈なのに。
『あらそうなの?残念ねぇ。
まあ良いわ。それならあなた、彼女に伝えてちょうだい。』
「何をだ?」
『あなたとジョセフ、うちの男共を宜しくね♪って。
それと、スマーイルッ!!ってね♪
どんな時でも女が明るく笑っていれば、何とかなるものなのよ♪オホホホホッ!』
「なっ・・・・・・」
『じゃあ切るわよ!良い知らせを待ってるわ!チャオ!』
スージー・Qは故郷のイタリア語で陽気に挨拶をすると、一方的に電話を切ってしまった。
「・・・・・・・・」
「うん?どうした承太郎?」
「・・・何でもねぇ。」
承太郎は、受話器を戻したきりだった手を離した。
「よし!では行くぞ!!100年に及ぶDIOとの因縁に、我々ジョースターの手でケリをつける!!」
祖父・ジョセフがポーズを決めた瞬間、承太郎の視界の隅に、1台の車が見えた。
「俺達だけじゃねぇぜ。」
承太郎は微かに笑い、その車の方を顎で示した。
「おぉ?」
カーキ色のオープンタイプのオフロードカーが、軽いクラクションを響かせてゆっくりと近付いて来た。
「おーい、ジョースターさーん!!車が調達出来ましたーっ!!」
後部座席に立ち上がっている花京院が、ジョースターと承太郎に向かって手を振った。
「早く行こうぜぇ!!」
運転席のポルナレフが、二人を促すようにまたクラクションを鳴らした。
「日が暮れぬ内に、次の目的地へ急ぎましょう!!」
呼び掛けてくる花京院の隣では江里子が、助手席からはアヴドゥルが、それぞれ笑って手を振っていた。
「ジジイ・・・・」
「・・・フン。確かに、頼もしいなあ。」
時にうるさく、時にお節介な連中だが、これ程心強い仲間は他にいない。
ジョースターと承太郎はこの時同時に、心の中でそう思った。
「早く来ないと、置いてっちまうぞー!」
「分かった!!今行くよ!!」
大声を張り上げるポルナレフに返事をして、ジョースターと承太郎は車へと歩いて行った。
二人が行くと、助手席のアヴドゥルが一旦車を降りた。
「ジョースターさん、場所を代わりましょう。助手席へどうぞ。」
「おお、すまんな。」
運転席にポルナレフ、助手席にはジョースターが座り、後部座席に花京院、江里子、承太郎、アヴドゥルが乗り込んだ。
― 彼女に伝えてちょうだい。うちの男共を宜しくね♪って。
江里子の隣に座った瞬間、承太郎は祖母から預かった伝言を思い出した。
だが。
「?・・・どうしたんですか、承太郎さん?」
― 言えるか、んな事・・・・・!
「私の顔に何かついてますか?」
「・・・ああ、ついてるぜ。ブサイクな目と鼻と口がな。」
「んなっ・・・・!?なーにいきなり!?喧嘩売ってるんですかー!?」
「俺は事実を言っただけだぜ。」
「目と鼻と口なんて、そんな当たり前の事をわざわざ言う必要ないでしょー!?しかも何でそこに余計なひと言を付け加えるかなぁ!?」
「こらこら、やめないか二人共!狭いんだから暴れるんじゃあない・・・・・!」
「江里子さん、落ち着いて・・・・!承太郎、今のは完全に君が悪い。江里子さんに謝れ。」
「だからオメーら、日本語で喧嘩すんなよー!俺がさっぱり分かんねぇじゃねーかよーッ!」
「あーもうッ、やかましいわいッ!ポルナレフ、いいからさっさと出しちまえ!」
「わ、分かったよ!行くぞオラッ!ちゃんと座ってろよ!」
時にやかましく、時にうざったくて、時に面倒な連中だが、彼等と巡り会えたこの縁に、今、心から感謝している。
この旅がいつまでも終わらず、この時がずっとずっと続けば良い。
そんな不謹慎な思いが、ふと承太郎の胸を過ぎった。
「奥様!!」
電話を切ると、ローゼスが何やら切羽詰まった表情で迫ってきた。
「ん?」
「僭越ながら、私、このジョースター家にお仕えしてもう30年になりますが、こ、このような事態、長年の経験でも初めて・・・・!」
「おやおや、大袈裟ねぇ!只の『出張』でしょ。違うの?」
「っ・・・・・!!い、いえ・・・・・!」
スージー・Qがわざと探るような目を向けると、ローゼスは言葉を詰まらせて黙り込んだ。
「男連中の勝手には困ったものだけど・・・・・・」
スージー・Qは軽い溜息を吐くと、窓辺に歩いて行った。
そこの飾棚には、娘一家の写真がフレームに入れて何枚も飾ってあった。
「・・・ま、こんなの慣れっこよ。ジョースター家の者なら、100年この方・・・、ね。」
スージー・Qはその中から、1枚の写真を手に取った。
10歳位の承太郎と、まだ四十路にも満たないホリィが写っている写真を。
最愛の娘親子の写真を撫でながら、スージー・Qは遠く日本で病に伏している娘を想った。
「あの子もきっとそう言って、笑い飛ばすと思うわ・・・・・。」
スージー・Qは次に、別の写真立てを手に取った。
そこには、咥え煙草でそっぽを向いている承太郎を中心に、無邪気な笑顔でピースをしているホリィ、そして、遠慮がちなはにかみ笑いを浮かべている黒髪の少女が写っていた。
「勝手してくる男連中を笑って出迎えてあげるのが、ジョースター家の女の役目なのだから・・・・・」
スージー・Qはそう呟いて、写真の中のホリィと黒髪の少女、江里子の姿を優しく撫でた。
その時、N.Y.から遥か遠い日本の空条邸で床に伏しているホリィが、人知れず少しだけ、嬉しそうな微笑みを浮かべた。
まるで母親に頭を撫でられた幼い娘のように、安心しきった、嬉しそうな微笑みを。