「おーいちょっと、しっかり持っててくれよ。」
「ああ。」
どうにかこうにか赤ん坊に巻き付けたおしめを安全ピンで留めようとしていたその時、両隣から唸り声が聞えた。
「うっ・・・・・、うぅぅ・・・・、うぅぅぅ・・・・・・!」
「うぅっ・・・・・・・・、うぅぅ・・・・・!」
花京院と江里子が、ポルナレフの両側でそれぞれにうなされていた。
何だ、どうしたんだこいつら、と口にしかけたその途端。
「うわあぁぁぁぁッッ!!!やめろぉッッ!!やめてくれぇぇーーーッッッ!!!」
花京院が突如、絶叫して暴れ始めた。
「どうした、花京院!?」
「お、おいッ・・・・!!」
「何だ何だ!?」
承太郎にも、ポルナレフにも、そして運転席のジョースターにも、何が起きているのかさっぱり分からなかった。
「やめてーーっ!!やめてっ・・・・、殺さないでぇっ・・・・・!」
「ちょっ・・・!エリー、どうしたんだよ!?」
江里子も何かを押したり引いたりするような仕草で暴れ出したが、それは大した事ではなかった。
幾ら暴れようが、江里子の力ではポルナレフを押し退ける事など出来ないのだから。
「ああっ・・・・!やめろッ、やめろぉッ!うわぁぁっ・・・・、やめろーーッ!」
「うおおーーーッッ!!」
問題は花京院の方だった。
思いきり蹴り出した彼の脚がジョースターの顔面にクリティカルヒットし、その拍子に操縦桿が思いっきりぶれてしまったのだ。
「し、しまったぁッッ!!」
飛行機は、きりもみ回転しながら急降下を始めた。
「軌道修正が出来んッッ!!」
「おいっ、ひょっとして墜落するのか!?」
「やめろぉーーーーーッッッ!!!!」
「あぅっ!!!」
承太郎、花京院、そして江里子の声が、殆ど同時に発せられた。
「花京院、一体どうしたんだ!?今朝もこうだったんだッ・・・・!」
ともかく、赤ん坊を護ってやらなければならない。
ポルナレフは赤ん坊を胸に抱え込み、両サイドでうなされている二人、特に花京院から庇った。
「・・・・いったぁ・・・・・・!うぅ・・・・・・・」
突然江里子が大人しくなり、痛そうに顔を顰めながら目を開けた。
「エリー!大丈夫かよオメー!?」
「あぁ・・・・・・」
江里子はろくに返事も出来ない様子で、辛そうに左の側頭部を押さえていた。
どうやら急降下の拍子にそこを打ったようだったが、辛そうなのは高熱や頭を打ったせいだけではない感じだった。
その重苦しそうな疲労感に、ポルナレフ自身、覚えがあった。
さっきうたた寝から目覚めた時の自分と、全く同じ様子だったからだ。
「とにかく大人しくさせろ!!ぬぅぅぅ・・・・・!!」
「ジジイ!!早く操縦桿を元に戻せ!!墜落するぞ!!」
ジョースターは運転に集中し、承太郎は尚もジョースターを蹴りつけようとする花京院の脚を押さえるのに精一杯で、どちらも後部座席の方を振り返っている余裕は無さそうだった。
つまり、後方の守りはポルナレフが一人で固めるしかないという事だった。
「ちっきしょ〜、何だってんだよ全く・・・・・!!」
花京院のパンチが、江里子や赤ん坊の顔にでも入ったら一大事だ。
ポルナレフは江里子と赤ん坊を纏めて胸の中に抱き込み、錯乱して大暴れする花京院から必死で庇った。
「・・・・・フン、女も目が覚めたか。ま、あの女はどうとでもなる。何も問題は無い。」
デスサーティーンは、おもむろに花京院の前髪を掴んだ。
「おい花京院大人しくしろ!!お前のせいで墜落しそうだぜぇッ!」
頭を支柱に打ちつけられ、花京院は小さく呻いた。
「ラリホォゥッ!」
「うおぁっ・・・・!」
突然、支柱がぬかるみのようになって、花京院の頭が埋まっていった。
いや、頭だけではなく、身体も。
左半身が支柱に埋め込まれて、固定されてしまった。
「寝相の悪い奴だ!俺の本体も一緒に死んじまうじゃあねぇか!!」
「っ・・・・!き、貴様の本体は、あの赤ん坊だったのか・・・・!うっ・・・!」
花京院の周りに縄のようなものがヒュンヒュンと巻き付いてきて、身体を支柱にがんじがらめに縛りつけた。
だが、それより衝撃だったのは、このデスサーティーンの本体だった。
「し、信じられん・・・・・!生後半年位なのに・・・・・!」
「11ケ月だ、イレブンマンスッッ!!天才なんだよ、天才!
おしめの中にウンチはするが、お前らよりずっと物を知ってるぜ?ラァリィホォォォ〜〜・・・・・」
花京院を見下ろしているデスサーティーンの眼孔から、透明の粘液と共に目玉がせり出してきた。
「うわぁぁぁぁーーーッッ!!!!」
限界にまでせり出した目玉は、眼孔からボロンと抜け落ちてきた。
その真下にある、花京院の口の中を目掛けて。
「うごっ・・・・!ガッ・・・・!ガボッ・・・・!アガガ・・・・!」
口を閉じようとするも、顎を押さえ付けられていては叶わず、花京院はなす術も無くデスサーティーンの目玉を口の中に詰められた。
「オ・・・・・!オゴゴ・・・・・!オォェェェ・・・・・!」
目玉は次々とせり出してきては抜け落ち、ボトボトと花京院の口の中に落ちてきた。別に味や臭いがする訳ではないが、この悪趣味極まりない状況に強烈な吐き気を催した。
だが、吐く事が出来ない。今にも窒息しそうな程苦しいのに。
「・・・これで叫び声を出せなくなったな。フフフフフ・・・・・」
― 夢の中のスタンド・・・・・。何とかしてこの事を、ジョースターさんや承太郎に知らさなければ・・・・!
極限の精神状態の中、花京院は必死で己を奮い立たせ、学ランのポケットを探った。
その中に、いつも入れてある折り畳み式のナイフがある。
鉛筆削り用のごく小さなナイフだ。とても人を殺傷出来るような代物ではない。
だが、皮膚の表面を切って幾ばくかの血を流す位ならば出来る。
花京院はそれで、自分の左腕を思いきり切りつけた。
「ん!?」
「うぅ・・・・・!目が覚めない・・・・!」
ナイフをのこぎりのようにして腕を切ったが、しかし依然として目は覚めなかった。
「ラリホーッ!俺のチンチンより小さなナイフで切っても、誰も気付くどころじゃないようだな。」
必死で抗う花京院を嘲るように、デスサーティーンはおどけて見せた。
「それに夢の中では、幾ら自分を痛めつけても決して目は覚めない。
眠っている限り、お前の精神エネルギーは俺の支配下にある。
デスサーティーンは、眠りという無防備な精神の中に入り込むスタンドなのだ!!」
突如、花京院の顎や髪にへばりついていた目玉に、気味の悪い長い脚が生えた。
「くっ、くそっ!やめろ・・・・!うおぁっ・・・・・!」
目玉達は意思を持ち、自ら花京院の口の中に潜り込んできた。
飛行機は激しく回転しながら、みるみる内に降下、いや、落下していく。
「何をやってるんだ!!」
「早く立て直せ!!」
「いやぁぁぁーーーッッ!!」
「騒ぐな!!儂はパニックを知らん男!!今やってるだろうが!!」
ポルナレフも、承太郎も、江里子も、そしてジョースターも、もはや完全にパニックに陥っていた。
だから、うなされてジョースターを蹴りつけている花京院の左腕から血が吹き出している事に気付く者はいなかった。
「ぐわぁぁぁぁぁ!!!」
花京院の靴の踵で思いきり肩を踏みにじられ、ジョースターは堪らずに叫び声を上げた。
「ジジイ、まだか!!ぶつかるぞ!!」
「ぐわぁぁぁぁ・・・・、ハーミットパープルで操縦するッッ!!」
自分の手で操縦出来ないのなら、スタンドの能力で操縦するしかない。
ジョースターはハーミットパープルを発動させ、飛行機の機械部を操った。
その時既に砂漠の砂がすぐそこまで迫っていたが、間一髪、墜落寸前に機体が持ち直し、超低空ではあるが水平に飛んだ。
「ぃいやったぁーーーッッ!!!間一髪、立て直しましたぁッッ!!!」
「イエイイエイイエイ!!あぁっぶねーーーッ!!!」
「あぁぁぁぁ・・・・・・・・!!!」
紙一重で死を免れた事を、ジョースターやポルナレフは歓声を上げて喜んだ。
江里子も安堵のあまり、ぐったりと目を閉じて、肺の中の空気を全て吐き出すかのような溜息を吐いた。
「・・・・ふぅ〜ッ・・・・・」
その声に、赤ん坊の小さな小さな溜息は、完全に掻き消されてしまっていた。
「・・・・どうやら墜落は免れたらしいな。危ねぇ奴等だ。」
「うぐっ・・・・!」
現実世界での危機が去っても、花京院は未だ絶体絶命の窮地に立たされていた。
口の中だけに収まりきらなかった目玉達が顔中に張り付いて、もはやデスサーティーンの姿さえも見えなかった。
「・・・さてと。貴様はこの心臓を潰して殺すとするか。ジョースター達に怪しまれず、心臓麻痺だと思われるようにな。」
勝ち誇った余裕綽綽の声だけが、花京院の耳に届いた。
もはやここまでなのだろうか。
こんなにも間近に迫っている危機を、あの赤ん坊の正体を、他の誰にも知らせる事が出来ないまま、ここで人知れず殺されてしまうのだろうか。
こんな形で。
誰の役にも立てず、愛する江里子も守れないままに。
「死ね、花京院!!」
無念と失意の内に、花京院は死を覚悟した。
だが。
「みんな見たかーーッ!!どんなもんですかいーッ!?儂の操作はよぉーッ!!」
その頃、的確な判断とスタンド能力で大ピンチを回避したジョースターは、後部座席を振り返り、誇らしげに拳を振り上げていた。
早い話が、少しばかりお調子に乗ってしまっていたのである。
「おい!!」
「うん?」
助手席の承太郎が気付いて声を上げた時には、もう遅かった。
「・・・ああーーーーッッッ!!」
ゴシャッ!!
目の前に迫っていたヤシの木に、飛行機は思いっきり正面衝突した。
「な・・・・、何でこんな所にヤシの木があるのぉ・・・・!?」
「やれやれ、やはり・・・・・・、こうなるのか!!」
「や、やだ・・・・・!まさかこれって・・・・・・!?」
「はぁ?ど、どういうこと??」
ほんの一瞬なのだろうが、妙な『間』があった。
妙に静かで、実にイヤな感じのする間が。
「・・・うっ!!」
花京院が目覚めたのは、正にその一瞬の時だった。
そして次の瞬間。
ドッドォ〜ン!!
一行の乗った飛行機は、アラビア半島のど真ん中に墜落したのだった。
そこから後の事は、何が何だかよく分からなかった。
落ちた衝撃で気絶もしていたし、状況を呑み込むまでに幾らかの時間も要した。
その間にも、赤ん坊は遠慮なく泣いてグズって手を焼かせる。
てんやわんやの内に、気が付けば夜になっていた。
今日のところはここで野宿をするより仕方がなく、男達はキャンプの準備を始めた。
ジョースターは火を熾し、承太郎は墜落した飛行機から荷物を運び出し、ポルナレフはヤシの木の枝を拾い集めて火の番をしているジョースターの所へ運んでと、各々、黙々と作業をこなしていた。
江里子は墜落のショックのせいか、より一層弱っており、とても準備を手伝うどころではなく、一足先にシュラフに包まって、火の側で赤ん坊と共に眠っていた。
「取り敢えず、足りるかい?」
ポルナレフは、拾ってきた薪の束をジョースターの足元に置いた。
「ああ、ご苦労。」
焚火は良く燃え盛っており、薪も十分、飲み水も食料も物資もある。
すぐ側には小さいがオアシスもあるし、何より、奇跡的に誰も怪我らしい怪我を負わなかった。
つまり、砂漠のど真ん中で飛行機墜落事故に遭ったにしては、ミラクルに運が良いと言える状態であるのだが、それを喜べる心境にはとてもなれず、ポルナレフは深々と溜息を吐いた。
「死なんで済んだが、花京院!一体どうなってるんだ!?こうなったのはお前のせいだぜ!」
「・・・・分からない・・・・・。」
花京院は、皆から少し離れた岩に一人で座っていた。
居た堪れなさそうに、頭を抱えて。
「恐ろしい夢を見たような気もするし、目が覚めた時、死ぬ程疲れているし・・・・・。僕は、おかしくなったのだろうか・・・・・・。」
「元気を出せ。きっと疲れすぎているんじゃ。日本を出てほぼ1ケ月経つし、敵はその間、連続で襲ってきているのだから。」
そんな花京院を、ジョースターは励ました。
荷物を運び出してきた承太郎は、彼等の話には加わらず、赤ん坊の様子を見に行った。
そして、赤ん坊の額に自分の額をくっつけると、ジョースターの方を向いて言った。
「おい、赤ん坊の熱は下がったみたいだな。」
「バァイ♪キャキャキャ♪」
赤ん坊は上機嫌で起きていた。
籠の中で手足をばたつかせ、愛らしい声で笑っている。
その声を聞いて、ジョースターは小走りに赤ん坊の元へ駆け寄った。
「おぉ〜!無事で良かったわい!何かあったら償っても償いきれん!」
「ア〜ア〜ア〜♪」
「おぉ〜おぉ〜おぉ〜!いないいない〜・・・ばぁ〜!」
「キャキャキャ♪」
「いないいない〜・・・ばぁ〜!」
「キャキャキャキャ♪」
ジョースターがあやすと、赤ん坊は声を出して良く笑った。
どうやら人見知りはしない子のようだった。
「かわゆいのう〜!この笑顔!」
「何がおかしいのかねぇ〜!全然ギャグになってねぇのによぉ。バカなやっちゃのう。」
ジョースターと赤ん坊の横を、ポルナレフが呆れ顔で過ぎ去っていった。
― フン、やかましいぜ。俺だって相手すんの疲れるっつーのによぉ・・・・!
ポルナレフは赤ん坊よりも江里子の容態が気に掛かっていたので、赤ん坊が一瞬、不愉快そうに顔を顰めた事に全く気付かなかった。
「・・・エリーの方はまだ全然下がってねえじゃねぇかよ。心配だぜ。」
ポルナレフは眠っている江里子の額にそっと手を当てて、心配そうに眉を潜めた。
「おいジジイ。無線機は壊れてないぜ。どうする?SOSを打つか?DIOにもここが知られる事になるが。」
「やむを得ん。救助隊を呼ぼう。エリーとこの赤ちゃんの為だ。」
ジョースターは赤ん坊の側を離れ、無線で救助隊を呼ぶ為に、承太郎と共にまた飛行機の方へと歩いて行った。
ポルナレフは水で濡らしたタオルで、苦しそうに眠っている江里子の額を冷やして看病している。
何も手伝わせて貰えない役立たずは、あの赤ん坊と自分だけだ。
いや、赤ん坊は赤ん坊だから役立たずとは呼べない、役立たずは自分だけなのだ。
花京院はそんな惨めな気持ちを噛み締めながら、只そこに座っていた。
「っ・・・・!ん・・・・?」
花京院が左腕の痛みに気付いたのは、その時だった。
「何か痛みを感じると思ったら、また血が・・・・・。墜落の時に切ったのか?」
袖口から手に向かって血が流れ、伝い落ちていた。
朝よりももう少し量が多い。
ともかく血を拭こうとハンカチを取り出し、袖を捲って、花京院は息を呑んだ。
「はっ!」
花京院の左腕には、文字が刻まれていた。
『BABY STAND』という文字が。
「おおっ・・・・!?何だ、傷が文字になっている・・・・・。
BABY・・・・・STAND・・・・・と読めるぞ・・・・・!
ど、どういう事だ?僕の筆跡だ・・・・!覚えていない・・・・!自分で傷をつけたのか・・・・!?ナイフに血は付いていないが・・・・」
自分の筆跡と傷の切り口から考えると、この文字を刻んだのは、いつも持ち歩いている鉛筆削り用のナイフ位しか心当たりはなかった。
何故かその痕跡は、薄皮の一片、血の一滴たりとも残っていないが。
しかしどう見ても、このナイフで刻みつけたとしか考えられなかった。
「このナイフで切った傷のような感じだ・・・・・。僕は、もの凄く大事な何かを忘れてしまったのか・・・・・?」
思い出そうとすればする程、頭の中のもやが濃くなっていく。
恐らくとても大事な何かを、うやむやにぼかして隠してしまう。
もうどうすれば良いのか分からなかった。
その時、ふと視線を感じた。
その方向に目を向けると、赤ん坊がこちらを向いて座っていた。
「っ・・・!」
「なっ・・・・・!」
赤ん坊は花京院と目が合った瞬間、慌てて顔を背けた。
― 何だ、あの赤ん坊の今の目付きは・・・・?それに今、目が合った途端、意識的に目を逸らしたぞ・・・・!
探りを入れるように人を見つめ、目が合った途端に視線を逸らす、そんな事が赤ん坊に出来るのだろうか。
普通、出来る筈はない。赤ん坊にはまだそんな知恵はない。
だがどう考えても、あの赤ん坊はそれをやったのだとしか思えなかった。
― BABY・・・・STAND・・・・・!?
やったのだとすれば、一体何の為に?
その目的を考えて、花京院はハッと息を呑んだ。
「っ!!」
「・・・・・・・!」
花京院が凝視していると、赤ん坊は逃げようとするかのように益々顔を背けた。
「BABY・・・・STAND・・・・・」
花京院はうわ言のようにそう呟きながら、ゆらりと立ち上がった。
― ああ・・・、僕の精神は、本当にどうにかしてしまったのだろうか・・・・。
赤ん坊の方に向かって歩きながら、花京院は己を疑った。
狂人は、自分が狂人だという認識はないという。自分も正にその状態なのではないだろうか、と。
だが、歩みを止める事は出来なかった。
自分を恐れ、疑いながらも、内なる自分からの警告を無視する事が出来なかった。
― この赤ちゃんが、スタンド使いと思い始めているッッ!!
花京院は、籠の中で座っている赤ん坊の胸倉を掴み上げた。
赤ん坊の小さな身体はそれだけでも簡単に跳ね上がり、宙にぶら下がった。
「ホエェェンッ!!!ホエェェッッッ!!!」
当然の事ながら、赤ん坊は火が点いたように大声で泣き始めた。
「おい花京院!!何をしている!!」
その泣き声を聞いて、無線を打っていたジョースターが足早にやって来た。
「おいおい、いきなり乱暴だぞ!!首を絞めるように抱くなんて、どうかしている!!」
ジョースターは花京院の手から赤ん坊を奪い取ると、優しく抱いてあやし始めた。
「す、すみません・・・・・」
強烈な平手打ちを喰らわされて、無理矢理目を覚まさせられたような気分だった。
自分でも正気を疑ってしまうような行動だったのに、他人が信じてくれる訳がない。
そうと分かっていても、ショックだった。
今のジョースターに腕の血文字を見せても、きっと事態はより一層悪くなる。
花京院は呆然としながら、捲っていた袖を下ろした。
「よぉ〜しよし、もう大丈夫じゃよぉ〜。
そろそろ飯にしよう。何か食えば、気分も落ち着くじゃろう。」
ジョースターは優しかった。
それ以上花京院を咎める事もなく、赤ん坊をあやしながら、落ち着いた穏やかな声でそう言っただけだった。
「っ・・・・・」
いっそ責めてくれでもすれば説明も出来るものを、これでは却って何も言えず、花京院は黙って項垂れるしかなかった。
「おい承太郎、花京院の奴、かなり精神が参っているようだぜ・・・・。」
「うむ・・・・・・・」
「これからの旅を、続けられるのかな・・・・・」
ポルナレフが承太郎に耳打ちしている声が聞こえる。
内緒話のつもりなのだろうが、元がよく通る声をしているので、しっかり聞こえた。
「よぉ〜しよしよし。」
ジョースターは赤ん坊をあやしながら、向こうへ歩いていった。
今はとにかく食事をする、それしか考えていないようだった。
花京院は再び、左の袖を捲り上げた。
『BABY STAND』
自分も知らない、自分からのメッセージ。
危険が迫っているのだ。とてつもなく大きな危険が。
なのに、それを皆に伝える術が無い。
伝えようとすればする程、信頼を失う。仲間が遠ざかっていく。
「くっ・・・・・!」
どうにもならない歯痒さに、花京院は唇を噛み締めた。
「・・・・ケケケ。」
孤立する花京院を、赤ん坊はジョースターの胸に顔を埋めたまま、人知れず嘲笑っていた。
まんまと術中に落ちた、と。
降り注ぐような星空が、頭上高くに広がっている。
星々の瞬きも、闇の濃さも、日本では見られない。
焚火の灯りが届かない程度に離れた所で、承太郎は食後のコーヒーを飲みながら夜空を眺めていた。
少しだけ、一人になりたかったのだ。
― サウジアラビア・・・。日本から約8800km・・・。出発してから、もうそろそろ4週間か・・・・・。
漆黒の夜空に流れ星が一筋、軌跡を描いて流れていった。
流れ星を見たら願い事を3回唱えると叶うというが、速すぎてそんな暇は無かった。
尤も、3回唱える事が出来たところで、流れ星がDIOを倒して、母・ホリィの命を救ってくれるとは思えないが。
― 急がねぇと、マジでヤバいぜ・・・・。
タイムリミットは、あと約3週間。
目前とはいえ、未だアフリカ大陸へは上陸出来ていない。
居所はエジプトというだけで、その中の何処の町にいるかも分かっていないのに、あと3週間の内にDIOを見つけ出して倒す事など、本当に出来るのだろうか。
思わずそんな事を考えた自分を、承太郎は胸の内で諌めた。
出来るのか、ではない。何としてもせねばならぬのだ。
DIOを倒し、母を救い、江里子を無事に日本へ連れて帰らねばならないのだ。
― 江里・・・・・・・
承太郎は、己の唇にそっと触れた。
カラチの路地裏での、突然の、一度きりの口付け。
江里子はきっと、悪ふざけか何かだと思っているだろう。
あの時咄嗟に、そう思われるように振舞った。
だが本当は・・・・・
― ・・・・・今はそれどころじゃねぇだろ。
承太郎は小さく頭を振り、堂々巡りの想いを無理矢理に振り払った。
この非常時に、愛だの恋だの、今は決着のつけようもない。
預かり者の赤ん坊はひとまず元気になったが、江里子の熱は依然として下がらず、花京院の精神状態も深刻なのだ。
救助信号は打ったから、じきに助けが来るだろうが、一刻も早くこの砂漠のど真ん中から脱出し、然るべき処置を受けさせて回復させねば。
承太郎は小さく溜息を吐き、皆のいる方へと戻っていった。
戻ってみると、花京院が相変わらず一人で塞ぎ込んでいる姿が目に入った。
― 花京院・・・・・・・・・
花京院は俯きがちに視線を落とし、独りでポツンと座っていた。
手にしている食事にも、食べている形跡は無い。
こんな時、江里子が万全の状態ならば、明るく振舞って何かと間を取り持ってくれるのだが、生憎と今はジョースターにもたれ掛かるようにして座り、死にそうな顔でスープを飲んでいる。
とてもではないが、何か頼めるような状態ではない。
かと言って、自分ではどう声を掛ければ良いのか分からず、承太郎は元の通り、ポルナレフの隣に腰を下ろした。
「おい承太郎。花京院の奴、どう思う?」
腰を落ち着けた途端、ポルナレフが声を潜めて耳打ちしてきた。
「飛行機の中ではうなされて暴れてこのザマだし、いきなり赤ん坊にまであたり散らす始末・・・・。
ヤバいぜアイツ・・・・・。かなり精神が参ってるぜ・・・・・。
この旅、アイツはもうこれ以上続けられねぇんじゃあねぇか?」
花京院はそんなにヤワな男ではない。むしろ、ある意味ではこの中の誰よりもタフだ。どんな逆境にあっても常にどこか冷静で、突破口を見つけようと抜け目なく神経を研ぎ澄ませる事の出来る男なのだ。
だが、心底疲れ果てたように手で顔を覆っている花京院を見ていると、少し、自信がなくなってくる。
そんな友を、承太郎はただじっと見守る事しか出来なかった。
「・・・・ヴェ〜イ、ヴェイヴェイ・・・・・・」
赤ん坊の声が聞こえて、江里子はふと隣を見た。
大分元気になってきたのか、赤ん坊は籠の中でパッチリと目を開け、興味津々な様子で花京院の方を見ていた。
その無邪気な声と仕草に、江里子は目を細めて微笑んだ。
だが、触ったり抱っこしたりは出来なかった。
あんな小さな赤ん坊にこの酷い風邪を移してしまったら大変だし、何より、自分の身体が思うように動かない。
自力でまっすぐ座る事も辛くて、ジョースターにもたれ掛からせて貰っている状態なのだ。せめてさっさと食べ終えようと、江里子は殆ど無理矢理に器の中のスープを飲み干した。
「おお、エリー。全部飲めたのじゃな。良かった良かった。
ちょうどベビーフードが出来たところじゃ。消化に良くて栄養がたっぷりじゃよ。デザート代わりに一口、いかがかな?」
昨日はあれ程バカみたいに食べてしまったのに、いや、むしろそのせいか、今日はまるで食欲が湧かない。
本当は何も食べたくない位なのだが、折角ジョースターが作ってくれたものを断る事も出来ず、江里子は曖昧に微笑んで頷いた。
「いただきます・・・・・・」
空になったスープの器によそって貰ったそれを、江里子はおずおずと口に運んだ。
「・・・・美味しい・・・・・・!」
「そうかい。」
江里子が思わず目を見開くと、ジョースターは満足そうに目を細めて笑った。
お世辞ではなく、それは本当に美味しかった。
バナナ風味の温かいカスタードクリームのようで、優しい甘みが弱った身体にじんわりと沁み込んでくるようだった。
「美味そうな匂いじゃ〜ん!何作ってんだい?」
甘い匂いに惹かれて、ポルナレフがやって来た。
「ベビーフードさ。これはミルクに卵黄とバナナとパンをトロトロになるまで煮たものじゃ。ほれ、味見するか?」
「ゴクッ・・・・、あ〜ん!うん、うん、うん・・・・・」
ポルナレフはそれこそ子供のように、大口を開けてジョースターに食べさせて貰った。そして、それをじっくりと味わってから。
「うんまぁぁぁ〜いッッッ!!!」
よく通る大きな声を張り上げて感激した。
「こりゃイケるッ!!もっと食わしてッ!食わしてェッ!」
「お〜いおい、赤ん坊の分がなくなるじゃあないか!」
かなり気に入ったらしく、ポルナレフはジョースターの手から鍋と匙を奪い取り、ガツガツと食べ始めた。
遠慮しておいてやらないと赤ん坊が可哀相だと窘めてやりたかったが、それを言う体力が無く、江里子は小さく溜息を吐いた。
ふと視線に気付いたのは、その時だった。
「・・・・・え・・・・・・?」
ポルナレフとジョースターを見ている赤ん坊の目付きが、一瞬、やけに刺々しく見えた。いや、刺々しいというより、明らかに怒って睨んでいるように見えたのだ。
まるで、『このヤロー!!俺のメシを食うんじゃねーッ!』『腹が減ってんだよ!早く食わせろぉーッ!!』とでも言っているかのように。
「え・・・・・・・??」
目の錯覚か、高熱のせいで見た幻覚だろうか。
もう一度確かめようとしたが、赤ん坊はもう向こうを向いてしまっていて、今の位置から確認する事は出来なかった。
立ち上がって籠の中を覗きに行けば見られるが、とにかく具合が悪くて、そんな現実か幻覚かはっきりしないような事を確認する為にわざわざ立ち歩く気にはなれなかった。
「エリー!オメーも食ってみろよぉ、ほれッ!元気出るぜぇッ!」
ポルナレフが江里子の口元に匙を突き出してきた。
そこにてんこ盛りに盛られたベビーフードを見て、江里子は苦笑いで首を振った。
「私はもう食べましたから・・・・・・。」
「何言ってんだよ!昨日はとんでもねぇ量食ってたくせに、今日は殆ど何も食ってねぇじゃあねーか!もっと食わねぇと、治るもんも治らねぇぜ!」
「うん・・・・・、でも本当に・・・・、もうお腹一杯なので・・・・・」
「そうかぁ??」
ポルナレフはあまり納得していない様子だったが、それ以上は勧めてこなかった。
「ジョースターさん、すみませんが、先に休ませて貰っても良いですか?」
「勿論じゃよ。ゆっくり休みなさい。」
「ありがとうございます。歯、磨いてきます・・・・・。」
熱が高くて、頭がクラクラする。
どうにかこうにかヨロヨロと立ち上がった江里子を、ポルナレフが呼び止めた。
「ちょっと待てよエリー!俺がついてってやるからよ!んがぁ〜・・・・・」
「それで終わりじゃぞ!もういい加減にして、早くついてってやれ!」
最後にもう一口食べてから、という事らしい。
ジョースターに叱られながら、まだなお未練がましく匙を口に運んでいるポルナレフを見て、江里子はまた苦笑いを浮かべた。
その時。
「ジョースターさん!ポルナレフ!今の見ましたか!?」
それまで意気消沈していた花京院が、突然、弾かれたかのように立ち上がり、大声を張り上げた。
「あ?」
「ん?」
ポルナレフとジョースターは、ポカンとした顔で彼の方を向いた。
すぐ側にいた江里子も、勿論同じ事をした。
「やはりこの赤ん坊、普通じゃあないッ!!今、蠍を殺したんです!!
あっという間に!!ピンを使って、串刺しにしたんです!!」
花京院は必死の形相で、二人に向かってそう訴えた。
「ん?」
その話に、承太郎はコーヒーを飲む手を止めた。
「うん?うん・・・・・」
ジョースターとポルナレフは、唖然とした顔を互いに見合わせた。
「江里子さん!江里子さんも見たでしょう!?」
「え・・・・・?」
突然『見たでしょう』と言われても、何か見たどころか、江里子には花京院の言っている事が理解出来なかった。
蠍を殺したというのは、あの赤ん坊が、という事なのだろうか。
「おい花京院、ちょっと待て。何を言っとるんだ?」
ジョースターが宥めようとしたが、花京院は落ち着くどころか、興奮状態で更に捲し立てた。
「この赤ん坊は、只の赤ん坊じゃあないッ!1歳にもなっていないのに、蠍の事を知っていて、そしてその小さな手で殺したんです!!」
「蠍!?」
ジョースターは血相を変えて赤ん坊に駆け寄り、小さなその身体を抱き上げて調べ始めた。
「どこに!?」
「この中です!!」
花京院は、赤ん坊の籠に敷いてあった毛布や小さな枕を引っ剥がした。
「ピンで刺した蠍の死骸がある筈だッッ!!」
血眼になって赤ん坊の籠の中を漁る花京院の姿は、必死を通り越して異様だった。
「い、いない・・・・・・」
まるでガサ入れのように赤ん坊の籠の中を引っかき回した挙句、花京院は愕然と呟き、手を止めた。
籠の中からは、蠍どころか蟻の死骸一匹出てこなかった。
赤ん坊の毛布を掴んだまま、呆然と地べたに膝を着いている花京院を、江里子は泣きたくなるような気分で見ていた。
セスナが墜落したのも、寝ぼけてうなされた花京院が暴れたせいだと聞いている。
一体彼はどうしてしまったのだろうか。
あんなにも、あんなにも、頼もしい人だったのに。
今の花京院は、酷く惨めで、憐れに見える。
「っ・・・・・・・・」
泣き出さないように唇を密かに噛み締めていると、ポルナレフが無言のまま、励ますように江里子の肩を叩いた。
そして、小さく咳払いをした。
「ハッ・・・・!」
ポルナレフの咳払いで、花京院は我に返ったように顔を跳ね上げた。
「本当です!!」
花京院は必死の形相でそうジョースターに訴えると、とうとうジョースターが抱いている赤ん坊に掴みかかった。
「どこに隠したんだ!?服の中か!?」
「花京院さん・・・・・・!」
眩暈がするのは、熱のせいだけではなかった。
いつも物静かで理知的な花京院が、まだ歩けもしないような赤ん坊相手に本気で声を荒げ、乱暴に掴み掛かる様は、江里子に酷いショックを与えた。
「分かった!」
ジョースターはヒラリと身をかわし、完全に頭に血が上っている花京院から赤ん坊を庇った。
「花京院、もういい!やめなさい!」
「ジョースターさん!」
「さっきも言ったが、君は疲れている。」
「っ・・・・・!」
ジョースターの静かな声には、有無を言わせぬ威厳と説得力があった。
流石の花京院もそれには敵わず、何か言いかけていた言葉を呑み込んだようだった。
「明日の朝、また落ち着いてから話をしようじゃないか。」
ジョースターは赤ん坊を抱いて、焚火の方へ連れて行った。
「あっ・・・・・・!」
花京院は一瞬、ジョースターに追い縋るような仕草をしたが、すぐに諦めた。
そして、江里子達の方を見て、まるで怯えたように息を呑んだ。
「ハァ・・・・・」
ポルナレフは冷ややかな目で花京院を一瞥し、呆れたように溜息を吐いて背を向けた。
「・・・・・・・」
承太郎は無言のまま、ただじっと花京院を見ていた。
「あっ・・・・・、あぁ・・・・・・・」
花京院は気付いたようだった。
自分が今、仲間達の信頼を失いつつある事に。
「・・・・・花京院さん・・・・・・・」
酷く打ちのめされたような花京院の顔を見ていると、一度は堪えた涙がまた込み上げてきた。
何故、いつから、こんな事になってしまったのだろうか。
今、一体何が起きているというのだろうか。
「江里子さん・・・・・・・」
「・・・・・・・・どうして・・・・・・・?」
やっとの思いで、それだけ呟いた。
あとは頭の中が纏まらなくて、感情だけが昂って、とても言葉にならなかった。
「違うんです江里子さん、僕は・・・!」
「エリー、歯ァ磨くんだろ?早く来いよ。」
花京院の話を、戻ってきたポルナレフが遮った。
ポルナレフは江里子の腕を掴み、牽制するような目で花京院を一瞥した。
その冷たい視線に耐えかねるかのように、花京院はまた俯きがちになった。
「・・・・・・・はい・・・・・・・」
江里子もまた居た堪れなくて、ポルナレフに引っ張られるがまま、逃げるように花京院に背を向けた。
誰も責めない。
責めるどころか、そもそもまともに取り合ってもくれない。
ポルナレフも、ジョースターも、承太郎も、そして江里子も。
― 花京院さん・・・・・、どうして・・・・・・・?
「っ・・・・・・・!」
さっきの江里子の、涙を浮かべた哀しげな瞳が忘れられない。
違う、そうじゃない。
何もかも、敵の罠なのだ。
そう説明したいのに、誰も聞く耳を持ってくれない。
「ふぅ〜ッ、ふぅ〜ッ・・・・・、さあ、あ〜んちてぇ♪おいちいでちゅよぉ〜♪」
赤ん坊を抱いて、ベビーフードを食べさせようとしているジョースターを、花京院は唇を噛み締めながら見つめていた。
その赤ん坊は、猫撫で声を出して赤ちゃん扱いしてはいけないのに。
そんな風に油断すれば、奴の思うつぼなのに。
「グゥッ・・・・!!フーッ、フーッ、プシューーッ!」
「おやぁ?おかちいなぁ。お腹が空いてる筈なのにぃ。イヤイヤするんでちゅかぁ?あ〜〜〜ん!!☆」
もう一刻の猶予もならない。
これ以上グズグズしていたら、あっという間に全員がこの狡猾な敵の罠に嵌り、殺されてしまう。
花京院は立ち上がり、足早にジョースターに歩み寄って、彼が赤ん坊の口元に運んでいるスプーンを思いきり払い除けた。
「ジョースターさんッッ!今、僕は確信したんですッ!!
どこに蠍の死体を隠したか知らないが、そいつはスタンド使いなんです!!」
そしてその事を証明するものが、僕にはあるッッ!!見て下さい、この腕の傷を!!この文字を!!」
花京院は左の袖を捲り、腕に彫られた『BABY STAND』の文字を皆に見せつけた。
「これは警告なんです!!きっと夢の中でついた傷なんだ!!」
「っ・・・・!」
「!」
「!!」
「オーマイガーッッ!!」
江里子も、承太郎も、ポルナレフも、そしてジョースターも、驚いた顔でその文字を見た。
「花京院、その腕の傷は、自分で切ったのか?」
「えっ・・・・・!?」
程なくして返ってきた承太郎の反応は、花京院の予期していたものとは違っていた。
彼のその質問には、疑念が含まれていた。
「か、花京院お前、遂に・・・・・」
「オーマイガー・・・・・」
「・・・・・・・」
ポルナレフも、ジョースターも、そして江里子も、皆、愕然と花京院を見つめていた。疑念が確信に変わる決定的な何かを見てしまったかのように。
「っ・・・・・!」
誰もが愕然としている中、赤ん坊だけが愉しげに目を丸くして花京院を見ていた。
その目は、花京院を嘲笑っていた。
こいつ大マヌケか、と。
腕の傷を見せりゃあ、皆にアホと思われるのがオチだってのが分からなかったのか、と。
― ま、ますます誤解されてしまったのか・・・・・!?
花京院にとって、最悪の事態だった。
腕の傷は確かに花京院自身がつけたものの筈だが、承太郎達はそれを、花京院の自作自演の狂言だと受け取ったのだ。
断じて狂言ではない、これは警告なのに、それを皆に伝えたかっただけなのに、また裏目に出てしまった。
皆に危険を知らせようとすればする程、皆が離れていく。
皆を守ろうとすればする程、仲間内の信頼に亀裂が入っていく。
― こ、こうなったら、やむを得ん・・・・!
伝え、知らせ、仲間と力を合わせて闘う事が不可能だというのなら、単独で勝負に出るしかない。たとえどう思われようとも、大事な仲間達を、愛する人を、むざむざ皆殺しにされる訳にはいかないのだから。
「強硬手段だ!!ハイエロファントグリーン!!」
「っ!!」
花京院はスタンドを発動させ、躊躇いなく赤ん坊に攻撃を仕掛けようとした。
赤ん坊は、流石に本体だけでは何も出来ないのだろう、ジョースターの腕の中で怯えた顔をして硬直した。
「・・・・・!」
ジョースターは咄嗟に籠を盾のように構えて反射的に赤ん坊を庇ったが、そんなものでハイエロファントの攻撃は防げない。
ハイエロファントの触手が唸りを上げて赤ん坊に襲いかかろうとしたその瞬間。
「うっ・・・・・!」
花京院の首の付け根に、強烈な衝撃が走った。
「うお、ぉ・・・・・・」
ポルナレフがチャリオッツを発動させ、ハイエロファントに当て身を喰らわせたのだと気付いた時には、花京院は地面に向かって倒れ込んでいた。
「もう駄目だ、こいつ、完全にイカれちまってるぜ・・・・」
ポルナレフの哀しげな声が、倒れゆく花京院の耳にも届いた。
違う。
違う。
イカれてなどいない。
薄れゆく意識の中で、花京院は必死に訴えた。
― ば、バカな・・・・!ぼ、僕は確信したんだよ、承太郎・・・・!
「・・・・・・・・」
― そいつのスタンドは夢の中のスタンドなんだ、ポルナレフ・・・・・!
「・・・・・・・・」
― 眠っちゃいけないんです、ジョースターさん・・・・!
「・・・・・・・・」
― 信じて下さい、江里子さん・・・・!その赤ん坊は敵なんだ・・・・・!
「・・・・・・・・」
― 信じてくれ、皆・・・・・!眠ったら殺されてしまうんです・・・・!信じてくれ、僕を、信じてくれ・・・・・・!!
花京院の必死の訴えは、真っ暗な闇の中に虚しく吸い込まれて消えた。
― やった!バレずに済んだぜ!お前らの負けだ!!仲間を信じない自分に負けたのだ!!俺の勝利だ、マヌケ共め!!
腕の中の赤ん坊、マニッシュボーイがそんな事を考えているとは露知らず、ジョースターは元通りに籠を置き、その中に彼を寝かせた。
「何てこった・・・・・。もう花京院は、旅も闘いも続ける事は出来ねぇのか。」
「彼の事は明日の朝考えよう。寝るぞ。」
ポルナレフも、ジョースターも、疲れた声をしていた。
「ポルナレフ、花京院を動かすのを手伝ってくれ。」
「あいよ。」
「承太郎はシュラフを持ってきてくれ。」
「ああ。」
過酷な移動よりも相次ぐ敵の襲撃よりも、花京院の事が、仲間を失う事の方が、彼等にとっては余程堪えていた。
そして、江里子もまた。
「・・・・・花京院さん・・・・・・」
江里子は昏倒している花京院の側に、崩れ落ちるようにして座り込んだ。
当て身を喰らった時に口の中を噛んでしまったのだろう、花京院の口の端から血が細い筋となって垂れていた。
江里子はそれを、マントの端でそっと拭い取った。
― 違いますよね、違いますよね、花京院さん・・・・・。貴方も、私も、皆も、疲れて少し調子が悪いだけですよね・・・・・・。
江里子はおずおずと手を伸ばし、花京院の頭を少しだけ撫でた。
この頭が、あれ程明晰な頭脳が、狂ってしまったなんて信じたくなかった。
日本を発ち、この奇妙な冒険に身を投じてはや一月。
今が疲れのピークなのだ。
今夜ぐっすり眠って、明日の朝になれば、花京院はきっと元に戻っている。
きっと、絶対に。
「おやすみなさい・・・・・・・」
江里子は小さく呟くと、出ない力を振り絞り、立ち上がってジョースター達の後について行った。
マニッシュボーイが籠の中で身を起こしたのは、そのすぐ後だった。
「オエェ・・・・・!」
マニッシュボーイは、口の中に隠していた蠍の死骸を、籠の外に吐き捨てた。
「何か言ったか?」
「いや、別に。重いって・・・・」
蠍を吐き出した時に出た声がジョースターの耳に届いたようだったが、昏倒した花京院を引き摺るポルナレフの声と重なり、この赤ん坊が発したものだとは認識されなかった。
― これで全員一気に切り刻んで、砂漠に死体をばら撒く事が出来るぜ!
マニッシュボーイは勝利を確信しながら、口の中に残っていた蠍の尻尾の先端部分を遠くへ吹き飛ばした。
― 全員、寝支度を始めたようだな。眠りに落ちるまで、精々あと20分ってとこか。ちきしょう、腹が減って堪らねぇぜ。さっさと寝やがれボンクラ共が。
ジョースター達は、それぞれ寝床を作ったり歯を磨いたりして、全員寝る準備に入っていた。
彼等が眠りに落ちたらいよいよ仕掛ける訳だが、それはそれとして、まずは腹ごしらえだ。とにかく腹が減っているのだ。
今日は朝ヤプリーンの村で1回、セスナの墜落後に1回、ミルクを飲んだだけで、ちゃんとした食事を摂っていない。
育ち盛りの赤ん坊には、何はなくとも栄養が必要だ。その赤ん坊の持つ強力なスタンドにとっても。
焚火の側に置いてあるベビーフードの入った鍋をじっと見つめながら、マニッシュボーイは舌なめずりをした。
やがて、マニッシュボーイの推測通り、20分程で全員が眠りに落ちた。
ジョースターも、花京院も、江里子も、ポルナレフも、そして承太郎も。
過酷な旅に疲れていた彼等は、全員、あっという間に眠りに落ちたのだった。
「・・・・・!!」
承太郎はハッと目を開けた。
砂漠で眠りに就いた筈なのに、空はガラス瓶のような色合いのグリーンで、周りにパステルカラーの大きなコーヒーカップやティーポットがあった。
「ハッ!」
「うん・・・・・・」
「うぅ・・・・・・」
殆ど同時に、ポルナレフ、ジョースター、江里子も目覚めた。
「・・・・何で儂ら、遊園地なんかでバカみたいにシュラフで寝とるんだぁ?」
ジョースターは身を起こし、辺りの景色を見て首を捻った。
そう、ここは遊園地だった。
「そうだ!!」
「あぁっ!!」
突然、ポルナレフと江里子が大声を上げた。
「うん?」
「こ、ここは・・・・・!」
ポルナレフはシュラフを跳ね飛ばし、警戒した面持ちで立ち上がった。
「承太郎!ジョースターさん!気をつけろ!
お、思い出した・・・・!こ、ここは夢の中だ・・・・・・!恐ろしい・・・・・、ここは、悪夢の世界なんだ・・・・・!」
「このコーヒーカップ、あの観覧車・・・・・・・!そうよ、ここはあの夢の中の・・・・・・・・!」
ポルナレフと江里子は、恐怖に顔を強張らせながら口々にそう言った。
しかし、ジョースターはまだこの世界の恐怖を知らなかった。
「なぁ〜んだ夢かぁ。それじゃあゴロゴロしよ〜っと。」
「俺と同じリアクションするなーーッッ!!」
ポルナレフは、再び寝直したジョースターに激しく突っ込んだ。
しかし、コントを演じている余裕は全く無かった。
「いいか、花京院の言っていた事は本当だ!!『BABY STAND』・・・・・!ここは敵の術中・・・・!
信じられねぇ事だが、スタンド使いはあの赤ん坊だ!!」
「「!!」」
「えぇっ!?」
ポルナレフの口から飛び出した衝撃の発言に、残りの3人は酷く驚いた。
「そ、それ本当なんですかポルナレフさん!?」
「オメーなら分かるだろエリー!俺と花京院と一緒に、この世界に来た事のあるオメーならよ!
あの時、俺達は敵のスタンドに襲撃された!
そして花京院の腕に彫られた『BABY STAND』の文字!
それらを合わせて考えてみれば、そうとしか考えられねぇだろうが!」
「はっ・・・・・・!!」
ポルナレフの言う通りだった。
夢の中で襲ってきた敵のスタンド、デスサーティーン。
それを思い出した今ならば、花京院の腕に刻まれていた『BABY STAND』の意味が分かる。
あれは発狂して刻みつけた狂言の傷などではない、敵の正体を掴んだ花京院からのメッセージだったのだ。
「ああ・・・・・・・!花京院さん・・・・・・・・・!」
江里子は思わず口元を手で覆った。
でなければ、大声で叫び出してしまいそうだった。
こんな一大事を、どうして今の今まで綺麗さっぱり忘れてしまっていたのだろう。
信じてあげられなかった。
信じたいと思いながらも、心の片隅に疑念があった。
それ故に、彼を孤立させてしまった。
それこそがきっと、敵の狙いだっただろうに。
花京院の事を思うと、痛い程の後悔が江里子の胸を突き刺した。
「アブゥ・・・・・・、バァブ・・・・・・・・」
籠から這い出したマニッシュボーイは、焚火の方へ向かってそのまま這っていった。
皆、焚火を囲むようにして寝ていた。
その寝床の隙間を縫うようにして這っていくと、江里子の悲しげな寝顔が見えた。
目尻からツゥ・・・・と涙が一筋伝い落ちたのを見て、マニッシュボーイは鼻で笑った。
― 泣いても喚いても無駄だぜネエちゃん。アンタもジョースター達と一緒に死んで貰う。恨むんなら、闘えもしねぇ癖にノコノコついて来た自分自身を恨むんだな。
「バブ、バブ、バァブ・・・・・・・」
焚火の側の平たい岩の上に、ベビーフードの鍋が載っていた。
砂漠の夜は冷え込みが強く、鍋はもうすっかり冷めていた。
アホのポルナレフがバカバカ食べてくれたお陰で中身は少なかったが、一応、腹が落ち着く程度の量は残っているようだった。
「アブゥ・・・・・、アァーン・・・・・・」
マニッシュボーイは鍋の中身を匙で掬い取り、大きく口を開けて頬張った。
「ウゥン・・・・・・・・!アァーン・・・・・・・!」
このジョースターという爺は、なかなか良い料理センスをしている。
赤ん坊の好みを理解していると言おうか。
マニッシュボーイはすぐさま二口目を頬張りながら、そんな事を考えた。
要するに、ジョースターの作ったベビーフードが気に入ったのだ。
「アブ、ベェロベェロ・・・・」
程良い加減に冷めているベビーフードを貪り食い、匙を舐め回しながら、マニッシュボーイは笑った。
― もうお前らを起こす者はいないぜ?デスサーティーンの世界から逃れる術は全く無いという事だ。
「キャキャキャキャ・・・・・」
― いよいよ始末してやるぜぇ!!
マニッシュボーイは上機嫌で食事を進めながら、同時に着々と進めていた。
ジョースター達を殺す準備を。