行けども行けども、砂、砂、砂。
薄いベージュ一色の世界を、江里子達は北西目指してまっすぐに進んでいた。
アブダビを発ってから、かれこれ数時間は経とうか。
人もラクダも互いに何とか慣れてきて、和気あいあいと賑やかな旅、とまではいかないが、まずまず順調に進んでいた。
「・・・・・おかしい・・・・・・」
そんな中、花京院が再び背後を気にし始めた。
「ん?」
「やはりどうも、誰かに見られている気がしてならない。」
花京院は今朝から度々後ろを気にする素振りを見せている。
だが後ろを振り返っても、人っ子一人、猫の仔一匹いなかった。
「・・・花京院、少し神経質すぎやしないか?ヤシの葉で足跡は消しているし、数十キロ先まで見渡せるんだぜ?誰かいりゃあ分かる。」
ポルナレフは言い聞かせるような口調で答えた。
彼の言う通り、ラクダの尻尾に結び付けたヤシの葉で、ラクダ達の足跡は付く端からかき消されていくし、砂漠という殺風景なロケーションは、見晴らしだけは抜群に良い。
「・・・いや。実は俺もさっきから、その気配を感じてしょうがない。」
しかし承太郎は、花京院と同意見だった。
「うぅむ・・・・、承太郎、調べてみてくれ。」
ジョースターに言われて、承太郎は双眼鏡で向こうを見た。
「どこかに不審なものでも?」
「いや・・・、見えない。何もな・・・・。しかし、何か妙だ。何かが・・・・」
承太郎は、少なからず警戒しているようだった。
だが江里子には、どちらとも判断がつかなかった。
判断以前に、砂漠の暑さが想像以上に過酷で、物事をじっくり考え込む余裕や集中力がそもそも持てないのだ。
「おい、早く行こうぜ。」
ポルナレフは水筒の水を飲み、皆を急かした。
「うむ。出来るだけ先に進んで、日が暮れて辺りが暗くなったら移動をやめて、テントを張るとしよう。夜の行軍は極めて危険じゃ。」
「それにしても暑いぜぇ!!見ろよぉ、気温が50℃もあるぜぇ!!」
ポルナレフが見せてくれた温度計は、確かに50℃を示していた。
暑い暑いとは思っていたが、ここまでとは。
江里子は思わずうんざりと顔を顰めた。
「えぇ〜・・・・・、見たくなかったですそんな数字・・・・・」
「確かに暑いな。しかし今の時間が一番暑い時間じゃ・・・うん!?8時!?」
懐中時計を取り出して一瞥したジョースターが突如、緊迫した声を上げた。
「承太郎、お前の時計、今何時だ!?」
「うん?・・・・・8時10分・・・ぬぅっ・・・!?おいジジイ!」
腕時計を見た承太郎も、同じく警戒心を露にした。
「やはりか・・・・。う、うっかりしていたが、どういう事だ・・・・?午後8時を過ぎているというのに・・・・」
『!!』
二人の少し後ろにいたポルナレフと花京院と江里子も、事の次第を把握した。
「何故、太陽が沈まない・・・・!?」
日没時刻をとうに過ぎてなお衰える事なく燃え盛る太陽を前に、ジョースターは愕然と立ち尽くした。
「ば、馬鹿な・・・・・!温度計がいきなり60℃に上がったぞ!!」
ポルナレフはもう一度温度計をチェックして、絶望的な叫び声を上げた。
「う、嘘でしょ・・・!?さっきの今でいきなり10℃も上がるなんて・・・・!」
50℃だったのを確認してからまだ1分も経っていないのに、そんな事が有り得るのだろうかと思ったが、温度計の目盛りは確かに60℃に達していた。
「し、沈まないどころか、太陽が・・・・!」
「西からグングン昇ってきているぞ!!」
花京院とポルナレフの言う通り、太陽は沈むどころか、益々勢いを増しながらグングン昇ってきていた。
天文学にも気象学にも決して精通していないが、これが有り得る事象でない事ぐらいは分かる。
もしも万が一、有り得たとしたら、今すぐ地球が滅亡するレベルの天変地異だ。
だが、これをその天変地異だと考えている者は、この場には一人もいなかった。
「ま、まさか、あの太陽が・・・・・!」
「スタンド!!」
ジョースターも承太郎も、いや、誰もがそれに気付いていた。
タロットの中に、確かに『太陽』のカードがあったのを江里子も覚えていた。
つまりこれは、【太陽−サン−】のスタンドなのだ。
「そんな・・・・・・・・!」
今まで様々なスタンドに遭遇してきたが、このような場合はどう闘えば良いというのだろう。神話の時代から、いや、地球という惑星が誕生した瞬間から、太陽に敵うものなど何一つとして存在しないのに。
愕然とする一行に名乗りを上げるかのように、太陽は遂に一行の真上まで昇り詰めてきた。
「な、何てこった・・・・!ここは砂漠のど真ん中だっつーのに・・・・!
どこか岩場に身を隠すんじゃあッ!!」
ジョースターの指示で、全員ラクダから飛び降りた。
確かに高いが、シンガポールでケーブルカーから飛び降りた時に比べれば全く大した事はないし、下も粒の細かい砂地なので、いきなり飛び降りても衝撃は非常に少ない。
何より怖がって尻込みなどしている場合ではないので、江里子も躊躇わずに飛び降りた。そしてジョースター達の後について、近くの岩陰に飛び込んだ。
「あの太陽がスタンドだとぉ!?迂闊だったぜ、全く気付かなかった・・・・!」
「見られている気配はあったのに、姿は何処にもないなんて・・・・・!」
「このまま一日中、いや、一晩中だったな、俺達を蒸し照らして茹でダコ殺しにする作戦か、あのスタンドは・・・・!」
岩陰に身を潜めてから、ポルナレフと花京院が口惜しそうにそう言った。
「いや、そんなに時間は要らない。サウナ風呂でも30分以上入るのは危険とされている!」
ジョースターの述べた見解は、残酷だが、真実だった。
少なくとも江里子は、この暑さに一晩も耐える自信は無かった。
「どうやって闘う!?クソッたれの気温が70℃に上がったぞ!!
それにあの太陽のスタンド!!遠いのか近いのかも分からねぇぜ!!距離感が全く無ぇ!!」
ポルナレフの言う通り、太陽との距離感は全く掴めなかった。
あまりにも巨大すぎるせいだろうか。
「てっとり早いのは、本体をブチのめす事だな。」
スタンドが存在すれば、その本体も必ず存在する。
そして承太郎の言う通り、てっとり早いのは得体の知れない太陽のスタンドではなくその本体、生身の人間を叩く事だ。
しかし。
「ぬぅぅ、本体か・・・・・。どこか近くにいる筈だ。
捜すんだ、敵は何らかの方法で我々に気付かれないように潜んでいる・・・・。尾行してきていたんだ・・・・!」
「でもジョースターさん、近くにいるならとっくに見つけている筈じゃないんですか!?だって、こんな見晴らしの良い砂漠なんですよ!?」
「ちょっと待て!!パキスタンで出遭ったラバーズのように、遠くから操作出来る奴だったらどうする!?」
「それは考えられん。力の弱いスタンドなら遠隔操作出来る、しかし、この太陽のエネルギーは今体験している通り、本体は絶対近くにいる筈!!」
ジョースターは、江里子とポルナレフの疑念をきっぱりと否定した。
本体は近くにいると、彼は確信していた。勿論江里子とて、そうであって欲しかった。
だが今現在、確信はあっても確証は無い。
そして、そこら中を捜し回る体力も、この猛烈な熱波によってどんどん削られていっている状態だった。
いや、人間だけではない。
太陽のスタンドは今、この砂漠に生きる全てのものを焼き尽くそうとしていた。
砂地から健気に伸びていた草が枯れる。ラクダ達が目に見えて弱ってくる。サソリは生きながら乾いて塵と化す。
そしてとうとう耐えきれず、ラクダが1頭、その場で卒倒した。
「ヤバいぜ・・・・!暑さで、倒れるラクダが出始めた・・・・!」
そう言う承太郎も、かなり辛そうな声だった。
「じっとしていても・・・、しょうがない・・・・!
僕のハイエロファントで、探りを入れてみる・・・・・!」
「花京院!!」
ジョースターが止めるのも聞かず、花京院は力を振り絞るようにして立ち上がった。
「敵スタンドの位置を見るだけです。どの程度の距離にいるのか分かれば、本体が何処にいるのか分かるかも知れない!」
花京院はハイエロファントグリーンを発動させ、太陽に向かって飛ばし始めたようだった。
「20m・・・・・、40m・・・・・、60m・・・・・、80m・・・・・!100!!」
100mに達したところで、花京院が突如、ハッと息を呑んだ。
「何かヤバい!!花京院、ハイエロファントを戻せ!!」
「何か仕掛けてくるぞ!!」
承太郎とポルナレフには、何が起きているのか見えているのだろうか。
江里子には何も見えなかった。
何も分からないまま、ただ恐れる事しか出来なかった。
「その前に、エメラルド・・・、うぐわっ!!」
攻撃しようとした花京院は、その瞬間、逆に攻撃を受けて負傷した。
「花京院!!」
「花京院さん!」
血を吹き出させて倒れ込む花京院を、江里子はジョースターと共に庇い、急いで岩陰に引き込もうとした。
だが、太陽からの攻撃は、それで終わった訳ではなかった。
花京院に怪我を負わせたのは火の玉、炎で出来た弾丸のようなものだった。それが辺り一帯に雨あられと降り注ぎ始めたのである。
「きゃあああっ!!!」
「エリーッ!!!」
ジョースターがその大きな身体で覆うようにして、負傷した花京院と江里子を庇ってくれた。
しかし今は、それに感謝する余裕も無かった。
頭を過ぎるのは、昔、学校で習った戦争の話だった。
その時代、日本中が焼夷弾の爆撃を受けたと習ったが、こんな感じだったのだろうか。炎の弾丸がいつこの身を貫くのか、その瞬間に怯えながら、人々はこうして必死に身を隠したのだろうか。
そんな事を考えている間にも、目と鼻の先に幾つもの炎の玉が着弾する。
ラクダの咆哮が聞こえ、何か大きくて重いものが倒れた衝撃を感じる。
「ラクダが!!」
ラクダがこの火炎弾を受けて死んでしまったのだ。
ジョースターの叫び声で、江里子はそれを悟った。
1頭か?2頭か?それとも皆、死んでしまったのだろうか?
「うおおぉぉっ!!ヤロウ!!!」
ポルナレフが立ち上がり、降り注ぐ火炎弾をチャリオッツで切り裂き、凪ぎ払った。
「おおおっ!!!」
同時に承太郎も、スタープラチナを発動させた。
「地面に穴を開けるから、中に逃げ込め!!オラァッッ!!!」
爆風が巻き起こり、砂塵や砕けた岩の破片が無数に飛び散った。
その奥に微かに見えた黒い空間は、スタープラチナの開けた穴のようだった。
そして江里子はそこに、誰かの手によって引きずり込まれた。
何が何だか分からない内に、気付けば江里子は穴倉の中にいた。
火炎弾の攻撃もひとまず収まり、今はまた元の静寂が戻っていた。
少し落ち着いたところで、ジョースターはまず、花京院の怪我の具合を気にした。
「大丈夫か、花京院?」
「ええ。エメラルドスプラッシュを半分出しかけていたので、それがガードになって軽傷で済みました。
し、しかし、それより暑い・・・・・!頭が、どうにかなりそうだ・・・・・!」
穴倉の中は空気が篭るせいで、岩陰に潜んでいた時よりも更に暑かった。
「しかし今の攻撃、恐るべき命中度・・・・!やはり敵はどこからかこっちを見ているぜ・・・・!どこだ、どこなんだ敵は・・・・・!?」
「あまり大きな声を出すな・・・・!敵に位置を悟られるぞ・・・・!
落ち着いて、まずはじっとなりを潜めて、様子を観察するとしよう・・・・。」
キョロキョロと辺りを見回すポルナレフを窘めて、ジョースターはポケットから水筒を取り出した。
「ん・・・・、あぁっ!」
しかし、その水筒にはさっきの火炎弾が命中したらしい穴が開いており、中の水は全て零れ出てしまっているようだった。
「オーッ、シィィーーット!!」
ジョースターは苛立ちに任せて、水筒を外に投げ捨てた。
「誰か、他に水を持っている人は・・・・・!?」
江里子は殆ど問い詰めるようにして訊いた。
しかし皆、小さく首を振っただけだった。
江里子自身も持ち合わせていなかった。水筒の中に水は入っているのだが、それをラクダの鞍にぶら下げてあるのだ。
取りに出れば、ほぼ間違いなく、火炎弾で撃ち殺されるだろう。
「そんな・・・・・・・!」
要するに、今の状況は、絶対絶命。
頭に浮かんだその非情な4文字が、江里子の心をへし折った。
狭い穴倉の中に、全員の荒い息使いだけが木霊していた。
もう誰も喋る者はいなかった。
この穴倉に潜り込んでから、どれ位経っただろうか。
ほんの僅かな時間のような気もするし、うんと経っている気もする。
サウナ風呂ならば、自分の意思でいつでも出入り自由なのだが。
― サウナってやつは、強制されて入るもんじゃあないな・・・・・・
正気を保つ為に下らない事を考えつつ、皆の様子を伺ったが、若者達は全員、ジョークのひとつも思い浮かばなさそうな様子だった。
特に、花京院と江里子の衰弱が目立った。
花京院は頭痛が酷いのか、しきりに額を押さえているし、江里子に至っては、もう目の焦点も合っていない。意識はまだあるようだが、あと10分もこのままだと、取り返しのつかない事態になるだろう。
体力のある屈強な男達でも耐え難いこの暑さは、か弱い少女には正に命取りだった。
― このままではまずい・・・・・。考えるんじゃ、こんな時こそ、年長者たる儂の出番・・・・!しかし、この状況は厄介!儂のとっておきの策も使えん!とりあえず、情報を集めなければ・・・・・
「承太郎!!」
ジョースターは承太郎に、双眼鏡を出せと合図した。
そして、受け取った双眼鏡でそっと外を覗いてみた。
しかし、双眼鏡のレンズの先端がほんの僅かに穴倉から出た途端、すかさず火炎弾が撃ち込まれ、命中し、双眼鏡は木端微塵に壊された。
「ぬあぁぁぁーーーッッ!!サノバビィーーッチ!!!何処にいやがる!?どうやってこっちを見てやがるんだ!?透明人間か、敵本体は!!」
悔しさの余り、ジョースターは握った拳を地面に何度も叩き付けた。
だが、何をしても、どうにもならない。
それを悟ったジョースターは、怒りを呑み込み、元の通り穴倉の中に身を潜めた。
「ハァ、ハァ、ハァ・・・・・・・・・」
辺りは灼熱地獄、手元に水は無く、双眼鏡は壊された。
無念だが、もう打つ手はなかった。
あるのは、2つの選択肢だけだった。
このまま蒸し殺されるか、それとも、外へ飛び出して火炎弾に撃ち殺されるか、そのどちらかの・・・・
「・・・・・・フッ・・・・・・、クックックックック・・・・・・」
思わず弱気になったその時、突然、花京院が吹き出した。
吹き出す?この状況で?空耳だろうか?
そう訝しんだが、しかし、空耳などではなかった。
「フッフッ、フヒヒヒヒッ・・・・・・、フフッ、フヒフヒッ、ホハハハハ、ヘハハハハ、ホハハハハ・・・・・!アハハハハハ・・・・・!!」
花京院はさも可笑しそうに、ゲラゲラと笑い転げ始めた。
「おい、花京院・・・・・、どうした・・・・・?」
「ククククク、ヒヒヒヒヒ、ケケケケケケケケ、ノォホホのホ〜!!」
「おい花京院!何を笑ってるんだ!だ、大丈夫か、花京院?気をしっかり持て!!」
あの物静かで聡明な花京院が、けたたましい笑い声を上げて笑い転げている。
まるで、気でも触れたかのように。
ジョースターは必死に彼を励ましたが、しかし花京院はひたすら笑い続けるばかりだった。
「・・・ウッ・・・・・、ウッヒヒヒヒ・・・・・」
いや、花京院だけではない。
承太郎も花京院と同じように吹き出し、らしくもない声を出して笑い始めた。
「ウヒヒッ、ウハハハハ・・・・・!ハハハハハハハ・・・・・・!」
「じょ、承太郎・・・・!お前も・・・・・!」
「「ハハハハハハハ!!!」」
ジョースターの呼び掛けに一切答えず、只々笑い続ける承太郎と花京院を、ジョースターは愕然と眺めた。
その二人だけでも大変な状態なのに。
「・・・・・プ!ウッヒヒヒヒヒ・・・・、ハハハハハハハハ・・・・・!」
「ポ、ポルナレフ・・・・・!お前まで・・・・・!」
とうとうポルナレフまで笑い始めてしまった。
大の男が3人、狂気じみた顔付きで笑い転げる様は、心配というよりは気味が悪かった。
「ゾォォォ〜ッ!オーマイガーッ・・・・!つ、遂に皆、暑さのせいでオツムがやられちまったか・・・・!」
見れば、江里子だけは何とか正気を保っているようだった。
ぐったりと身を横たえながらも、その目は心配そうに笑う男達を見ていた。
江里子が正気でいてくれたのは何よりだが、しかし、闘えない上に衰弱が酷いときては、とてもではないがこの状況を打破してくれる戦力には成り得なかった。
「儂だけか、冷静なのは・・・・・」
内心、ジョースターもパニック寸前だった。
いっそ皆と同じように気違いになれるものならなりたいとさえ思った。
だが、波紋の修行に柱の男達との壮絶な死闘、そして戦争や、その後の生き馬の目を抜くような経済競争と、数多の修羅場を乗り越えてきた強靭な精神は、今日びの甘っちょろい若者達のように簡単には壊れてくれなかった。
「おい承太郎!!冷静になるんじゃ!!気をしっかり持て!!
こんな苦しい時こそ、冷静に対処すれば、必ず勝機は掴める筈じゃ!!」
ジョースターは承太郎の胸倉を掴み、ガクガクと揺さぶって励ました。
兎にも角にも承太郎達を正気に戻さねば勝機など掴めない、と思っていたのだが。
「えっ!?」
誰かの手が、ジョースターの肩を掴んでそれを止めた。
「勘違いしないで下さい、ジョースターさん・・・・!」
ジョースターを止めたのは、花京院だった。
花京院は笑いすぎて涙の滲んだ目尻を指で拭うと、どうにかこうにか笑いを引っ込めた。
「あそこの岩を見て下さい。人が隠れる程大きくありませんか?」
「おぉ・・・・?」
ジョースターは、花京院の指差した前方の岩を見た。
何という事のない、只の岩だ。
「おぉ・・・・?な、何の事だ?」
「今度は、反対側にあるあそこの岩を見て下さい。」
花京院は次に、伸ばしたままの人差し指を右へと動かした。
「反対側・・・・・・?うん??」
「まだ気付きませんか?反対側に、あの岩と全く同じ、対称の形をした岩がある。影も逆についている。という事は・・・」
「フヒヒハハハハ・・・・・・!アホらしい・・・・・!」
花京院の解説を遮るかのように、また笑いの発作が込み上げたらしいポルナレフが爆笑し出した。しかしその笑い方は、先程までの狂気じみた笑いではなく、腹の底からウケているような感じだった。
「・・・・どけ。邪魔だジジイ。」
いつの間にか、承太郎もいつものポーカーフェイスに戻っていた。
承太郎は、ジョースターを押し退けて前へ出た。
「承太郎!!今外へ出ては、撃ち抜いてくれと言っているようなもんじゃぞ!!危険じゃ!!」
ジョースターは必死で止めたが、承太郎はそれに溜息ひとつで応えた。
そして、スタープラチナを発動させた。
スタープラチナは、足元に転がっていた石ころを拾い上げた。
「オラァッ!!!」
そしてそれを、思いきり振り被って前方へと投げた。
すると、前方の岩付近の空間が、窓ガラスのようにパリンと割れたではないか。
「ぱがっ!!!」
妙な声が小さく聞こえた。
聞き慣れない、知らない男の声だった。
「おおっ!!空間に穴が開いたぞ!!」
しかし、その声よりも気になるのは、窓ガラスの割れた部分ような空間の穴だった。
ジョースターが驚いた声を上げると、承太郎は冷ややかな横目でジョースターを一瞥した。
「やれやれ、情けねぇジジイだ。テメェ、暑さのせいで注意力が鈍った事にしてやるぜ。とても血の繋がりがある俺の祖父とは思えねぇな。」
その憎まれ口を叩き始めた時は昼だったのが、言い終わる頃には夜になっていた。
ものの数秒とかからぬ内に、一気に夜になったのだ。
信じ難い現象だが、紛れもない事実だった。
「敵スタンドを倒したので、夜になりましたよ。いや、戻ったというべきか。」
「何にせよ助かったぜ。」
花京院とポルナレフは次々に穴倉から出て行ったが、ジョースターはまだその場を動けなかった。
「いつまで穴倉に潜んでいるつもりだ?」
「う、うぅむ・・・・・」
承太郎に言われてようやく、ジョースターは動く事が出来た。
この状況に、まだ全くついていけていなかったのだ。
「やれやれ、ようやく日が暮れたぜ。おい江里、江里。終わったぜ。」
「・・・・・はぇ・・・・・?」
「・・・ったく、しょうがねぇな。」
承太郎はまた溜息を吐いて、穴倉の中から朦朧としたままの江里子を引き摺り出した。
「おおッ、エリーッ!大丈夫か!?しっかりするんじゃ!」
グッタリした江里子を見て我に返ったジョースターは、江里子の額にびっしりと浮かんだ玉のような汗を拭ったり、上気した頬をパタパタと手で仰いだりして介抱し始めた。
「ジョースター、さん・・・・、私達・・・、助かった・・んですか・・・・?」
「おお、そうじゃよ!助かったよ!もう心配要らんぞ!しっかりするんじゃ!」
「良かっ・・・・たぁ・・・・・!」
江里子は弱々しいながらも、心底嬉しそうな笑顔を見せた。
ギリギリセーフというところか。
あともう少し遅かったら、本当に危なかっただろう。
「ジョースターさん、江里子さんに水を。」
「おお!」
ジョースターは花京院が持ってきてくれた水筒を受け取り、江里子を抱き起こして水を飲ませた。
江里子ははじめ朦朧としていたが、やがて喉を鳴らして夢中で水を飲み干した。
「はぁっ・・・・・・・!あぁ・・・・・・・・・・!」
水筒がすっかり空っぽになると、江里子は腹の底から満足げな溜息を吐いた。
「もっと飲むか?」
「いえ・・・・・・、もう大丈夫です・・・・・・。ありがとうございます・・・・・・。」
江里子は、まだまだ本調子ではないだろうが、幾らかは回復してきたようだった。
その様子を見て、花京院は安堵したように微笑み、承太郎達のいる方へ歩いて行った。
「いやいや、良かった良かった。しかし、まだ無理はいかんぞ。もう少し横になって休んでいなさい。」
「はい・・・・・・。」
ジョースターも立ち上がり、ラクダに積んであるタンクの水を飲みに行った。
ラクダは5頭のうち、2頭が火炎弾の直撃を受けて死んでしまっていた。
そして、水のタンクも1つ、火炎弾にブチ抜かれて中身が砂に飲み干されていた。
「悪い事をしたな、許しておくれ・・・・・・・」
ジョースターは可哀相なラクダ達を撫でてから、無事なタンクの水を無事な水筒に汲み入れ、乾ききった喉を潤した。
人心地ついてみると、若者達がひとつ所に固まって、何やらゴソゴソとやっていた。
何をしているのだろうか?
「こいつは鏡だ・・・・!」
近付いて見てみると、鏡が割れていた。
そう、スタープラチナが石を投げて割った空間は、この鏡だったのだ。
「見て下さい、鏡の死角のこのメカを!!結構快適ですよ!エアコンまでついてる!!」
花京院が嬉しそうな歓声を上げた。
今度はそちらの方に目を向けると、確かに、鏡の死角となる場所に、至れり尽くせりのすこぶる快適そうなマシンがついていた。
基本的には1人乗り仕様のようだが、詰めて座れば2人乗れない事はなさそうな造りである。
「あ〜あ!砂漠の景色を映しながら、鏡の後ろに隠れて尾行していたとは・・・・、気付かなかったぜ。」
ポルナレフは、座席からずり落ちて伸びている、アラビア人らしき肥った男を呆れた目で見下ろした。
額にでっかいタンコブが出来ている。失神の原因はこれだ。
そのタンコブの原因は、スタープラチナが投げた石つぶてとしか考えられない。
そして、スタープラチナがそれを投げた瞬間、太陽が消えて時間通りの夜が戻ったという事は。
「水を入れたタンクもある。有り難く頂くとするか。」
「お!ドリンク!」
承太郎やポルナレフは、目の前の水分の事しか考えていないようだったが、ジョースターは瞬きさえ忘れる程、頭をフル回転させていた。
「・・・・・・・・・・えぇっ?という事は・・・・、こいつ、もうやっつけちまったって事かぁ!?
もう終わり!?こいつの名前も知らないのに!?太陽のスタンドはキレイに片付いたのかぁ!?」
至ったのは、衝撃の結論だった。
「そういう事になりますね。」
「太陽のカードのスタンドか。なかなか凄い敵だったが、タネがバレてみりゃあ、アホらしい奴だったな。」
「さ、次の目的地へ行きましょう。それにしても、砂漠の夜は冷えますね。」
この衝撃の事実を、花京院も承太郎も、あっさりすぎる反応で受け流して済ませてしまった。一瞬呆然としてしまったが、しかし何とか我に返ると、ジョースターは慌てて承太郎達を呼び止めた。
「ま、待て!夜の行軍は危険だ!今夜はここで野営するとしよう!」
「敵も撃退したし、今夜は良い夢が見れそうだ・・・・、ヘアァックショイ!!」
ポルナレフが盛大なくしゃみをして、誰からともなく笑い出した。
ふと目に付いた空には、宝石のような星々が零れんばかりに瞬いていた。
砂の上に横たわって回復を待っている間に、気温はどんどん下がってきた。
最初は涼しいと感じていたのが、だんだん肌寒くなってきて、
しまいにはあの脳が煮えくり返りそうな暑さが少し恋しくなる程にまで冷えた。
砂に残っていた余熱もどんどん引いていき、とても寝ていられない程に冷たくなった頃、江里子はのっそりと起き上がった。
「うぅ・・・・・」
立ち上がる時に少し頭が眩んだが、大した事はなかった。
皆はどうしているのかと目を向けると、それぞれにキャンプの準備をしていた。
江里子はひとまず、一番近くにいた花京院の所へ歩いて行った。
「私も何かお手伝いします。」
声を掛けると、焚火の火で食事の支度をしていた花京院は振り返り、優しい微笑みを見せた。
「良かった、少しは楽になったようですね。」
「ええ、もう大丈夫です。すみません、すっかりお任せしてしまって。お食事の用意でしょう?私も手伝います。」
「いや、いいんですよ。食事の支度と言っても、缶詰のスープを温めて、ハムを焼くだけですから。」
「でも・・・・」
「日射病を甘く見ちゃあいけませんよ。幸い軽症だったから良かったものの、楽になった途端に無理は禁物です。ゆっくり休んでいて下さい。」
「・・・すみません。」
微笑みを交わした次の瞬間、江里子も花京院も、互いにハッとして視線を逸らした。
昨夜の秘め事が、脳裏に蘇ったのだ。
「・・・・・・・」
「・・・・・・・」
一度意識してしまうと、もう元には戻れない。
何を言えば良いのか、どう振舞えば良いのか、何もかも分からなくなる。
擽ったいような、胸が苦しいような、居た堪れないような、でもこうしていたいような。
戸惑いながらも取り敢えず口を開きかけたその時、向こうの方からポルナレフが大声で話しかけてきた。
「おーいエリーッ!復活したかぁっ!!ちょうどオメーのテントが出来たぜー!来いよぉっ!」
花京院は黙ったまま、微笑んで小さく頷いた。
彼もきっと、同じ心境なのだろう。
江里子も微笑んで頷き、ポルナレフに向かって『はーい!』と返事をした。
「ジャジャーン!!どうだぁっ!結構快適そうだろう!」
花京院の側を離れ、ポルナレフの所に向かうと、彼は分厚い胸板を誇らしげに張って、設置したばかりのテントに案内してくれた。
「ありがとうございます。ここ私一人で使って良いんですか?」
「俺も使って良いの?」
「ダメです。」
即答すると、ポルナレフは顔をクシャッとさせて苦笑いした。
「ま、テントも出来た事だし、取り敢えず着替えたらどうだ?服、そのままだと冷えて風邪引くぜ。俺らもお前がノビてた間に全員着替えたし。」
「あ、本当ですね、そうします。荷物取ってきますね。」
横をすり抜けて行こうとした瞬間、ポルナレフが口を開いた。
「何かあったのか?」
笑顔がそのままの形で固まった。
「・・・・・・え・・・・・・?」
「いや、何かあったのかな〜と思ってさ。お前このところ、時々ちょっと様子が変だからよ。」
「そ・・・・ですか・・・・・?」
「うん。なーんか、ギクシャクしてねぇ?ジョースターさん以外には。
つーか、承太郎と花京院に対して?そして俺にはツンケンしてねぇ?」
承太郎と花京院の名に、江里子の心臓が密かに跳ねた。
その音で、ポルナレフの話の最後の部分は耳に入らなかった。
「・・・・・・」
ヤバい。
ポルナレフにバレるのは非常にヤバい。
そんな警笛が、江里子の脳内に鳴り響いた。
承太郎は年がら年中女を束で引き連れているが、女心には断じて敏くない。
むしろ女心になど、1ミリたりとも興味は無い。
恋愛絡みの女の心の機微に向ける関心など、彼には欠片も無い。
花京院は思慮深くて人の心の動きも敏感に感じ取りそうだが、分野が恋愛となるとどうだろうか。
人との関わりを極力避けてきたという彼が、その手の事に敏いとはあまり考えられない。
「・・・・・・・」
だが、ポルナレフは危険だ。
女慣れしているこのプレイボーイにかかれば、恋愛初心者の小娘の心の内など、手に取るように分かるに違いない。
彼にバレたら厄介だ。
そう考えた江里子は、何でもない風を装って平然と答えた。
「・・・・別に。そんな事ありませんよ。」
「ほら、やっぱりツンケンしてるじゃねえか。」
「別にツンケンなんてしてませんよ。」
「よく言うぜ、こーんなクチとんがらせてよ。」
ポルナレフはそう言って、江里子の唇を指で摘んだ。子供扱いされているといえばそうだが、しかし完全にそうだと思い込む事も出来なかった。
カルカッタでの二人きりで過ごした時間が、他の誰も知らないあの僅かな一時にあった出来事が、頭から離れなくて。
「っ・・・!何するんですかっ!」
江里子は必死で動揺を隠しながら、ポルナレフの手を振り払った。
顔が熱い。きっと赤くなっている。
鮮やかすぎる月と星の光がこの顔をはっきりと照らしてしまわないか、そればかりが気になった。
「ほらほら、やっぱりトゲトゲしい。やっぱりコレは何かあるな?」
「何もないですってば!」
「んん〜?ちょっと待てよ?1、2、3、4・・・・・、あ!!分かった!!」
ポルナレフは指折りカウントを始めたかと思うと、突如、大きな声を出した。
「な、何がですか!?」
「アレだろ、もうすぐ生理だろ!」
「だっ・・・・!」
今度は別の意味で顔が赤くなった。
「ちょっ・・・・!そんな事大声で言わないで下さいよ恥ずかしい!!」
「なに今更照れてんだよ、俺とオメーの仲じゃあねーか!」
「何の仲なんですか!」
「看病し合いっこしただろぉ?香港辺りでよぉ。」
「それはっ・・・・・!でもなんかその言い方はイヤです!」
「まーまー、良いじゃあねーか!始まったらまた俺が介抱してやっから、安心しとけ!」
「けっ・・・結構ですっっ!!」
頭をクシャクシャと撫でるポルナレフの大きな手を振り払って、江里子はその場を逃げ出した。
ポルナレフや花京院のいる所から少し離れて一人になれてから、江里子は深々と溜息を吐いた。
「・・・・・ったく・・・・・・・・」
大体皆、好き勝手やり過ぎだ。
人の気も知らないで。
「・・・・・・・」
などと恨みがましげな事を考えたが、それが単なる動揺の裏返しである事は、江里子自身が一番良く分かっていた。
複数の男を秤にかけて迷うのは女の本能、などとエンヤ婆は言っていたが、それを肯定する気にはなれなかった。
皆、大事な仲間なのだ。
それぞれの人との間に、それぞれ違った形の信頼や連帯感、忘れられない記憶が出来ている。それを比べて誰が一番優れているか、誰が一番自分に相応しいかを決めるなんて、間違っているとしか思えなかった。
それとも、それは綺麗事なのだろうか。
夢見がちな小娘が自分を美化しているだけで、実際のところはエンヤ婆の言っていた通り、目の前にいる複数の男達にはしたなく目移りを繰り返しているだけの事なのだろうか。
そんな事を考えながら、着替えの服を入れてある荷物を取りに行こうとした時、江里子の視界の隅に大きな黒い塊が見えた。
「はっ・・・・!」
その塊にちゃんと目を向けて、江里子は大きく息を呑んだ。
それは、さっきの戦闘の時に倒れたラクダだった。
「ああ・・・・・・・・」
2頭のラクダが、寄り添うようにして死んでいた。
江里子はラクダ達に近付き、砂の上に座り込んでその冷たい身体にそっと触れた。
「・・・・・ごめんね・・・・・・・」
江里子は詫びながら、2頭を交互に撫でた。
元々、1〜2日で別れる予定なのであまり感情移入はしないでおこうと決めていたが、こんな形での別れは悲しすぎた。
せめて何とかしてやりたいと思ったが、ラクダは小鳥や金魚を埋めるのとは訳が違う。こんな大きな動物を弔うには、どうすれば良いのだろうか。
― アヴドゥルさんが生きてたら、マジシャンズレッドで火葬して貰えたかなぁ・・・・・
ふとそんな事を考えた途端、目頭が熱くなった。
アヴドゥルの事も、ラクダの事も、今更悔んだってもうどうしようもないのに。
死んでしまったラクダ達を撫でながら滲んでくる涙を拭っていると、後ろで砂を踏み締める音が聞こえ、江里子は振り返った。
「ジョースターさん、承太郎さん・・・・・・・・」
ジョースターは江里子の隣にしゃがみ込み、江里子と同じようにラクダ達を撫で始めた。
「やはり車にしておくべきだった。儂が浅はかだった。関係のない者を巻き込むまいと細心の注意を払ってきたつもりだったが、動物の事まで気が回っていなかった。」
そんな風に言われたら、折角止めた涙がまた出てきてしまう。口を開くと泣いてしまいそうになるから、江里子は歯を食い縛って小さく頭を振った。
ジョースターは、優しく目を細めて江里子の頭を撫でると、再び立ち上がった。
「さあ、向こうへ行って食事にしよう。」
「・・・・・あの・・・・・」
「うん?」
「この子達、埋めてあげられませんか?」
どうにか泣かずに声を出すと、ジョースターは済まなそうに微笑んだ。
「・・・気持ちは分かるが、その必要は無いだろう。ここは砂漠じゃ。このままでも、じきに砂が降り積もってくる。
それに彼等の肉は、この地に生きる他の動物達の命を繋ぐ貴重な糧になる。
儂が言うのも何じゃが、せめて彼等をこのまま、自然のサイクルの中に活かしてやろうではないか。」
目から鱗が落ちる思いだった。
ジョースターには、こんな風に違う視点から何かを気付かされてばかりだ。
そしてそれは大抵、大切な事だ。
「・・・・・・・はい。」
江里子は微笑んで、小さく頷いた。
すると、ジョースターは安心したように頷き返し、先に行くよと言い残して焚火の方へと歩いて行った。
「あ、そう言えば、敵はどうなったんですか?」
その事を今更ながらに思い出した江里子は、承太郎の方を振り返って尋ねた。
そもそも、ラクダ達の件はそいつのせいなのだ。
承太郎達にとどめを刺されていなければ、タダではおかないつもりでいた。
「ああ?あのアラビア・ファッツか?」
「アラビア・ファッツ?」
「アラビア人の肥った男だから『アラビア・ファッツ』。
本人は名乗る前にノビちまったし、身元が分かるものも何も無かったから、ジジイが勝手にあだ名をつけた。」
「へぇー・・・・・。で、そのアラビア・ファッツは?どうなったんですか?」
「ブン投げた。」
「え?」
「あっちの方へ飛んでったかな。」
承太郎はそう言って、キャンプとは反対の方向を指差した。
「気が付き次第、何とか自力で町へ逃げ帰るんじゃあねぇか?毒蛇だの肉食動物だのに襲われねぇ限りはよ。」
「・・・・・・・・・・・毒蛇?」
聞き捨てならない単語が聞こえた気がして、江里子は思わず訊き返した。
すると、承太郎は煙草に火を点けながらしれっと答えた。
「何だオメェ、図鑑も読んだ事ねぇのか?この辺りの砂漠には、猛毒のある蛇だの蠍だの、肉食動物だのがウロウロしてるんだぜ。大抵のやつは夜行性らしいから、今ちょうど活発に活動を始めてる頃だ。」
いつになく饒舌に語る承太郎の顔は、何かの期待に満ち満ちていた。
表情こそいつものポーカーフェイスだが、江里子にはすぐに分かった。
「・・・ちょっと。何ワクワクしてるんですか。」
「ワクワクするだろ普通。野生のコブラなんて、日本人の俺達にゃあ、そうお目にかかれるもんじゃあねぇぜ。」
「ちょっと。『達』って何ですか『達』って。もしかしてそこに私も入ってるんですか?」
「飯食ったら、花京院とポルナレフとちょっとそこらを探検する事になってる。オメーも入れてやっても良いぜ。」
「結構です!!!」
江里子は即座に断り、荷物を掴み取ると、一人でジョースターの後を追った。
― あっきれた、バッカじゃないの!?何が毒蛇よ、何が蠍よ、何嬉しそうな顔してんのよ、探検だなんて小学生じゃあるまいし!
足が埋もれていくような砂をザクザクと蹴立てて歩きながら、江里子は心の中でブツブツと呟いていた。
― あんな大きな図体して、・・・・わ、私にあんなキス、しておいて・・・・・
あのジンと痺れるような甘い感覚が、カラチの路地裏の風景と共に蘇ってきた。
身体を抱き締める、力強い腕。
乾いて少しかさついた唇と、熱い舌。
「・・・わあああぁぁっっ!!!」
江里子はまたもや激しく狼狽しながら、ザクザクと砂を蹴散らし走り始めた。
「・・・何だアイツ、そんなに蛇が嫌いなのか?可愛いのによ。」
そんな江里子を後ろから眺めつつ歩きながら、承太郎は首を傾げたのだった。
「やれやれ、砂漠で野宿なんて初めてだぜ・・・・・・」
鏡を見ながら髭を剃りつつ、ポルナレフは独り言ちた。
意外とぐっすり眠れたのは、ひんやりと低い気温のせいだろうか。
しかし、今はもう既に暑い。朝日が昇り出したと同時に、気温がグングン上がってきている。
東南アジアのムワッとした蒸し暑さもかなり性質が悪かったが、この水分ゼロの灼熱気候もなかなかのものである。
「砂漠ってとこは、どーしてこう極端かねぇ。やっぱ地球の温暖化はいけねぇな。」
ウンザリしながらタンクの水で洗顔し、タオルに顔を埋めていると、向こうからジョースターの野太い声が飛んできた。
「おおーいポルナレフ!!食事が冷めちまうぞ!!早く食え!!」
「おーっ!今行くぜ!!」
ポルナレフは手を振って応えつつ、ジョースター達の所へと歩き出した。
花京院と承太郎は、既に腰を下ろして食事を始めていた。
今日も今日とて、あの見ているだけで暑苦しい詰襟の学ランとやらをきっちり着込んで。
「ん・・・・?あれ、ジョースターさん、エリーは?」
何か変だと思ったら、食事の席に江里子の姿が無かった。
「んん?そっちで顔を洗っとるんじゃあないのか?」
「いいや。」
「んじゃまだ起きとらんのか。珍しいのう。あのきっちりしとる娘が。」
「俺が起こして来てやるよ。」
ポルナレフは顔を拭いたタオルをジョースターに預けると、江里子のテントへ出向いた。
「まさか早速始まったかぁ?ったく、しょーがねーなぁ・・・・・・」
昨夜は冗談半分で言ったが、もし本当なら心配だった。
前回、南シナ海を行く船の中で介抱した時は、随分と辛そうだったから。
あの時江里子は、普段はそんなにきつい方じゃないなんて言っていたが、今はまだ『普段』ではない。毎日が非日常な、危険な旅の途中なのだ。今回も寝込む程重くなる可能性は十分考えられる。
「つーか大体、必需品はちゃんと持ってんのかぁ?まずそこが心配だぜ・・・・」
もし持ち合わせがなければどうすれば良いのかを悩みながら、ポルナレフは江里子のテントを覗いた。
「おーいエリー。起きてるかぁ?朝メシ出来てるぜ。」
声を掛けたが、江里子は返事をしなかった。
「エリー?まさか本当に生理かよ?腹痛ぇのか?エリー?」
ポルナレフはテントの中に踏み込み、毛布に包まっている江里子の側に膝を着いた。
「エリー!?」
そして、真っ赤に上気した江里子の顔を見て、青い瞳をギョッと見開いた。
「おいまさかお前・・・・・、げっ、ひっでぇ熱じゃねーか!!」
江里子は発熱していた。
しかも、額をちょっと触っただけで分かる程の高熱だ。
この分では、37℃や38℃どころではないだろう。
「おいエリー、しっかりしろよ!俺が分かるか!?」
ふっくらした桃のような頬をペチペチと叩くと、江里子は薄らと瞼を持ち上げた。
「・・・ポルナレフ・・・・・さん・・・・・・」
「おお!分かるか!?おい大丈夫か!?」
「だいじょぶじゃ・・・・ない・・・・・・」
江里子は弱々しい声でそう答えると、またぐったりと目を閉じた。
「おおおおい!!しっかりしろよ!!死ぬんじゃねーぞエリーッ!!気ィしっかり持てよ!!ジョースターさんッッ!!!ジョースターさぁぁぁんッッッ!!!ちょっと来てくれぇぇッッ!!!」
ポルナレフは江里子を抱きかかえたまま、テントの外に向かって声の限りに叫んだ。
その只ならぬ声で、ジョースターのみならず承太郎と花京院までもが、飛ぶような速さで駆けつけてきた。
「どうしたんじゃポルナレフ!」
「エリーがッ、エリーがひでぇ熱なんだよぉッ!!」
「エリーが!?」
ジョースターは江里子の額に手を当て、暫くの沈黙の後、厳しい顔で唸った。
「・・・・・いかんな。これは39℃位はありそうじゃ。」
39℃という数字に、ポルナレフは勿論、花京院も承太郎も表情を変えた。
「ここ暫く重なっていた旅の疲れと、昨日の日射病のダメージ、そして急激な温度変化のせいだろう。
恐らく危険な感染症の類ではないだろうが、しかし、楽観は出来んな。一刻も早く人里に連れて行き、医者に診せねば。」
「ひとまず解熱剤を与えましょう。ヤプリーンの村はまだ遠いですし、そこまで放置するには熱が高すぎる。」
荒い呼吸を繰り返す江里子を心配そうに見て、花京院がそう言った。
「うむ。一口でも何か食わせてから薬を飲ませよう。ポルナレフ、向こうまで運んでくれ。」
「ああ・・・・・!」
ポルナレフは江里子を抱き上げ、食事の席へと運んで行った。
「エリー、エリー。食事じゃよ。」
江里子を座らせてから、ジョースターは優しく声を掛けた。
完全に寝付いてはいなかったのだろう、江里子はゆっくりとだが、すぐに目を開けた。
「少しでも良いから食べるんじゃ。食べなければ解熱剤が飲めん。」
江里子は小さく頷き、ジョースターの差し出した朝食のプレートを受け取った。
そして、小さな唇を弱々しく開けながら、食事を摂り始めた。
「・・・・・・・お?おぉ??おぉぉ!?!?」
意外な程に、モリモリと。
「い、意外とよく食うな・・・・・」
ポルナレフは食べる江里子を唖然と見守りながら、花京院に耳打ちした。
すると、花京院も呆気にとられた顔で江里子を見つめながら頷いた。
「普通、風邪を引いた時は食欲が無くなるものだが・・・・」
「・・・いや、アイツは逆だ。」
すぐ横で、承太郎がやはり江里子を眺めながら口を開いた。
「滅多に無い事だが、アイツはああやって熱出してダウンすると、凄ぇ食うんだ。
しかも、粥だのリンゴだのの病人食じゃあねぇ。肉でもカレーでも平気で食う。
だからお袋は、アイツが熱を出したら、粥を炊くんじゃなくてステーキを焼くんだ。
アイツはそれを1人前ペロリと平らげてから、更にプリンだのアイスだのまで喰らう。鉄の胃袋どころかまるで地獄の餓鬼さ。
初めて見た時は、俺も度肝を抜かれたぜ。」
「誰が地獄の餓鬼ですか・・・・・。」
ヒソヒソ話がしっかりバッチリ聞こえていたらしく、江里子がジト目で承太郎を睨んだ。それでもまだなお食べながらというところが凄い。
「私だって嫌なんですよ、後で太るから。だけどお腹が空くんです。身体が風邪の菌に抵抗しようとしているんですよ、きっと。」
「ははは、いやいや、良い事じゃよ。病気を治すには栄養と睡眠が何より大事じゃからな、はははは。食べなさい食べなさい、どんどん食べなさい。」
「ありがとうございます。パン、もうひとつ食べても良いですか?」
「お、おお・・、も、勿論じゃよ、食べなさい食べなさい、はははは・・・・!」
ジョースターは笑いながら、江里子の世話を焼いていた。
その笑顔が多少引き攣っていたのは・・・・、無理からぬ事だった。
朝食を済ませ、江里子に解熱剤を飲ませてから、一行は早々に出発した。
脅威の食欲を見せたものの、依然として熱の高い江里子は、ラクダではなく太陽のスタンド使いが乗っていた車の方に乗せる事となった。
それにあたり、運転手兼看護人に選ばれたのはポルナレフだった。
承太郎と花京院は車の免許を持っていないし、ジョースターでは身体が大きすぎて江里子共々苦しくなる、というのがその理由だったが、何であれ、ポルナレフにとっては願ったり叶ったりだった。
もう一日ラクダに揺られる位なら、窮屈でも江里子と一緒に空調の効いた車に乗る方が遥かに良いに決まっているからだ。
「ん・・・・・・・・・」
江里子はずっと、ウトウトと眠りっぱなしだった。
熟睡は出来ていなさそうだが、はっきりと覚醒もしない。
偶に薄らと目を開くが、またすぐに閉じてしまう、ずっとそんな調子だった。
― まだ高ぇな・・・・・・・・
江里子の額にそっと手を当てて、ポルナレフは顔を顰めた。
解熱剤が効いている筈なのだが、どうもイマイチ効果が実感出来ない。
この暑さのせいか、それとも薬の効きが悪いのか。
いずれにせよ、今出来る事は、全速力でヤプリーンを目指す事だけだった。
今ここには、医者はおろか体温計も無いのだから。
「・・・・・今、何時ですか・・・・・・・?」
不意に、江里子が弱々しい声で話し掛けてきた。
「悪い、起こしたか?熱、どうかなと思ってよ。」
「良いんです。元々、半分起きているような状態でしたし。」
江里子は微かに笑って、テーブルの上の水筒に手を伸ばした。
ヤプリーンはまだ遠いようだが、あれだけ食べて水分も摂れていれば、滅多な事にはならないだろう。ポルナレフは少し安心して、時計を見た。
「今は11時ちょい過ぎだな。あと1時間はこのままだろう。昼メシになったら起こしてやるから、もう少し寝とけ。」
「はい・・・・・・。」
江里子は小さく頷いて水を一口飲み、水筒をテーブルの上に戻してまた目を閉じた。
「お昼ご飯かぁ・・・・。お腹空いたなぁ・・・・。」
「マジかよ・・・・・」
あの承太郎が『度肝を抜かれた』というのも分かる。
ポルナレフは、再び目を閉じた江里子の顔を驚愕の目で見つめた。
― アイツは熱出してダウンすると、凄ぇ食うんだ。
そう言った承太郎に、さっき、密かに嫉妬した。
お前達の誰も知らない事を俺は知っている、江里子の事を一番知っているのは俺だと、知らしめられた気がして。
承太郎がそんな下らない優越感を持つような男でないのは分かっている。彼はそんなチンケな男ではない。
ただ、どうしようもなく嫉妬してしまった。
花京院に対してもそうだ。
花京院と江里子が日本語で楽しそうに話し込んでいるのを見聞きする度に、胸の奥がジリジリと焦げる。
そこに異国の男が入り込む隙は無いから。
同じ国に生まれ育った同年代の少年達。江里子に似合いなのは、明らかにそちらなのだろう。
だが、考えれば考える程、諦められない。
承太郎も花京院も、共に命を懸けて闘うかけがえのない仲間なのに、江里子の事となると邪な感情が頭をもたげてくる。
承太郎にも花京院にも渡したくない、攫ってしまいたい、と。
「スゥ・・・・・・」
江里子はまた、浅い眠りに落ちたようだった。
そのあどけない寝顔に思わずキスしかけて、何とか踏みとどまった。
胸の奥が、ジリジリする。
恋愛経験豊富な、分別ある大人の男の筈なのに、まるで青臭い小僧のように。
こんな事が思慮深い大人だった友人に知れたら、何と言われるだろうか。
― 俺、大人げねぇよなぁ、アヴドゥル・・・・・・
大人げないぞポルナレフと叱るアヴドゥルの声が、何処からか聞こえた気がした。