5分経っても、ポルナレフは戻らなかった。
やはりあの老婆は限りなく怪しい、いや、確実にクロだ。
承太郎は、腰掛けていたベッドから立ち上がった。
「・・・気をつけるのじゃぞ、承太郎。」
「僕もハイエロファントを忍ばせておく。何かあったらすぐに駆けつけるよ。」
ジョースターと花京院に頷いてから、承太郎はチラリと江里子を一瞥した。
江里子は目に見えて不安げな表情で、承太郎を見ていた。
「・・・気をつけて下さいね。」
「オメェの方こそな。ここを動くんじゃあねえぞ。」
江里子に害が及ばない内に、さっさと片付けてしまわなければいけない。
江里子には万が一の事など、絶対にあってはならないのだ。
承太郎は足早に部屋を出て、ロビーに下りた。ロビーは相変わらず静まり返っていて、ポルナレフの姿も、あの老婆の姿もなかった。
承太郎はまず、受付のカウンターに立ち寄り、宿帳を手に取った。
宿帳はさっき承太郎達が書いたままの状態で、頁が千切られたり、書き直されたりしている所は無かった。
承太郎はそれを学ランの内ポケットにしまい込んだ。
その時、すぐ側のドアの向こうから、甲高い声らしき音が聞こえてきた。
「・・・・・・・」
鳥?ではない。人間だ。人間の声だ。
悲鳴ではない。笑っているように聞こえる。
狂ったように高笑いしている、老婆の声だ。
「・・・・・・・」
承太郎は深呼吸をすると、脚に力を溜め、閉ざされたそのドアを思いきり蹴り破った。中には誰もいなかったが、何事も無い筈はない。
油断せずにじっと待ち構えていると、程なくして奥のドアから老婆が出て来た。
「な、何ですじゃ・・・・?いきなりノックもせんと入ってきて・・・・。何の用ですじゃ?」
「ポルナレフの奴を捜しに来たんだ。ノックはしたぜ。
何かに夢中になり過ぎて聞こえなかったのと違うか、婆さんよぉ。」
飄々と嘘を吐きつつ疑惑の眼差しで睨み下ろすと、老婆は少しうろたえた。
「ポルナレフの奴を捜しているんだがな、知らねぇかな。」
承太郎は、奇妙な沈黙を守る老婆の動向を、じっと見守った。
「・・・・えぇ、知ってますとも。」
少しの沈黙の後、老婆はニコニコと返答した。
「ポルナレフさんなら、どこにいるかよぉく知っていますよ承太郎さん。」
「ほう?」
「今、会いました。トイレにいますよ、承太郎さん。」
承太郎はニコニコと笑う老婆の顔を、穴が開くほどじっと見つめた。
しかし老婆は、承太郎がどれ程不躾な視線を向けても、些かもその愛想笑いを崩さなかった。
「・・・・何だ、トイレか。このドアの奥か?」
承太郎は老婆に背を向け、そのドアのノブに手を掛けた。
「ええ、そうですじゃ。トイレはそのドアを入って・・・」
「・・・・・・・・」
「廊下の一番奥のドアですじゃよぉぉぉ・・・・・」
老婆が罠に掛かった瞬間、承太郎は突然、振り返った。
「・・・そうだ思い出した。ひとつ訊き忘れたが・・・・、バアさんよぉ。」
「ぐぇっ・・・・・!」
「ん?」
承太郎は、振り返った自分の足に引っ掛かり、転倒した老婆の姿を見下ろした。
「おやおや、どうしたバアさん、急に転んだりして。何かに躓いたかい。」
老婆の目の前の床には、鋏が突き立っていた。
下手をすれば、それは床にではなく老婆の目に突き刺さっていてもおかしくはなかっただろう。
「あっ・・・、危ねぇ・・・・・!」
「おお、本当に危ねぇなぁ。鋏なんか持って転ぶとは、大事故にならなくて良かったぜ。良かった良かった。」
脂汗を流しながらハワハワと震える老婆に、承太郎はひとまず調子を合わせてみた。自分でも、些か棒読みだとは思ったが。
「転んだまんまで済まねぇが、質問を続けさせてくれ。
今、どうして俺の名を『承太郎』と呼んだ?
一度も名乗ってないし、誰も俺の名をアンタの前で呼んでないのによぉ。」
それを口にした瞬間、老婆がギクリと身を固くしたのが分かった。
「それを訊きてぇんだ。」
「・・・・・!」
「なあ答えてくれ。子供の頃、『刑事コロンボ』が好きだったせいか、細かい事が気になると夜も眠れねぇ。」
老婆はダラダラと脂汗を流しながら、尚もしらばっくれようとした。
「なっ・・・・、何を疑ってるんですか・・・・・。オッホン、宿帳ですよ。
宿帳にさっき自分の名をお書きになったじゃあありませんか。
ゴッホンホン、むせるなぁ・・・、『空条 承太郎』ってねぇ。」
「ほう?宿帳ってもしかすると・・・」
きた。
承太郎はおもむろに学ランの内ポケットから宿帳を取り出し、老婆の目の前で開いて見せた。
「・・・・これの事か?」
「えぇ、えぇ!そうです、それでごじゃいましゅ!フフフ・・・、あぁっ!?」
その頁を見て、老婆は絶句した。
それもその筈、そこに記されているサインは、『Qtaro Kujo』となっているのだから。
「空条・・・Q太郎!?」
「どこにも『承太郎』なんて書いてねぇぜ。
最初に遭った時、『ジョースター』と呼んだ時から怪しいと思っていたのさ。」
承太郎は宿帳を老婆、いや、敵のスタンド使い・エンヤ婆に向かって放り投げた。
「皆にも俺の名は呼ぶなと言っておいた。だのに、俺の名を知ってるって事は・・・」
「あわわ、あわわわ・・・・・」
「とぼけてんじゃねぇ。もうスタンド使いの追手という事がバレてんだよ、ババア。」
僅かな逃げ場も与えず、完璧に追い詰めた瞬間、エンヤ婆は突如静かになった。
「・・・・・おぉぉぉ・・・・・、ハァァァァ・・・・・」
今までの下手な演技はすっぱりやめて、その禍々しい気配も露に、不気味な呼吸を繰り返している。
間もなく攻撃してくるだろう。
さて、どんな能力のスタンドなのか。どんな技を使うのか。
敵の正体と力を探るべく、承太郎は挑発をしてみせた。
「さあどうした、アンタのスタンドを見せてこないのかい?」
「・・・もう既に見せてるよ!」
その途端、後ろのドアが勢い良く開いて、町の住人達が襲い掛かってきた。
「オラ!オラ!オラ!オラオラオラオラオラオラ!オラァ!!」
承太郎は襲われるより早くスタープラチナを発動させ、全員をぶちのめし、鉄格子の嵌った高窓から外へ叩き出した。
顔付きこそ不気味な連中だったが、力はまるで弱く、スタープラチナのパワーとスピードをもってすれば、赤子の手を捻るような簡単な『作業』だった。
「ぐぐぐ・・・・・・!」
余りにも呆気なさすぎる程に。
「・・・ギャギャギャギャギャギャギャ!」
妙だと思った瞬間、それまで口惜しそうに顔を歪めていたエンヤ婆が、一変して承太郎を指差し、笑い始めた。
「うっ・・・・・!?」
それと同時に、左膝に痛みを感じた。
「ブシュッ!ギャギャギャギャギャ・・・・」
いつの間にいたのか、承太郎の足元には全身穴だらけの赤ん坊がいて、細長く尖った気味の悪い舌で承太郎の膝を刺し貫いていた。
「くっ・・・・・・・!」
蹴り飛ばすようにして振り払うと、赤ん坊はすんなりとそのまま引き下がり、エンヤ婆の方に向かって這って行った。
「ワシのスタンド、ジャスティスは勝つ!
ほんの1ヶ所で良いのさ、ほんのちょっぴりで良いのさ。」
赤ん坊を抱き上げたエンヤ婆の背後に霧が渦巻き、白い髑髏の形を成した。
あれがジャスティス、エンヤ婆のスタンドなのだ。
「術中に嵌ったんだよ、承太郎!!」
傷口から流れ出る血が、紅い霧となって宙に舞い上がっていく。
術中とは何なのだろうか。
「あが・・・・、うがが・・・・・!」
その時、不意に声がした。
「ポルナレフ!!」
ポルナレフと、もう一人、見覚えのある男が、這いずりながら部屋の中へ入って来ていた。
「承太郎!俺だ、ホル・ホースだ!そのエンヤ婆のスタンドは霧のスタンド、刺されたその傷は俺のように穴が開いて、霧に操られるぞ!死体でさえも自由に動かせるんだ!」
ホル・ホース、インドでアヴドゥルをやった、エンペラーのスタンド使いだ。
その男が何故ここでポルナレフと一緒に這い蹲っているのかはさておくとして、今、この男は敵ではないようだった。
舌に穴が開いていて満足に喋れないらしいポルナレフに代わって、エンヤ婆のスタンドがどういう能力を持つのかを説明してくれたのだから。
「お黙りホル・ホース!!」
「ごはぁッ!!!」
ホル・ホースは突然、自分の右手で自分の顔面を思いきり殴り、部屋の隅に吹っ飛んでいった。霧に操られるとどうなるかという、実に良い見本だった。
「オラァ!!オラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラ!!オラァ!!」
承太郎はスタープラチナを発動させ、流れる霧を、そして、霧の髑髏を攻撃した。
しかし、どれ程連打しようとも、その手に手応えは感じなかった。
「ケギャギャギャ、拳で霧がはっ倒せるか!剣で霧が斬れるか!銃で霧を破壊出来るか!無駄じゃ無駄じゃ、ケケケゲゲ!テメェらにゃあ、何も出来んよぉ!」
渦巻く霧の中心で、エンヤ婆は勝ち誇った声を張り上げた。
身体こそ小さいが、そのスタンドパワーは確かに強大だった。
「さ、最強最大のスタンドだぁ・・・・!とても俺達のちっぽけなスタンドじゃあ敵わない・・・・、こ、このスタンドに敵う者はない・・・・!」
手も足も出ないホル・ホースが、絶望の声を上げた。
「ほいほい、もっと言えもっと言え。そういう台詞はもっと言いなさいじゃ。ケケケ。さあ承太郎、テメェも操ってくれる・・・・!」
エンヤ婆は上機嫌で、勝利を確信しきっていた。
「に、逃げろ、承太郎・・・・・・・!脚に穴が開くぞ・・・・・!」
挙句の果てにはポルナレフでさえも、すっかり敗北するものと決めてかかっている。
仮にも仲間なのだから、もう少し信用すれば良いのに。
「・・・・やれやれだぜ。」
承太郎は、人差し指で帽子のひさしを押し上げ、エンヤ婆をまっすぐに見据えた。
「逃げる必要は無いな。」
承太郎はエンヤ婆と同じように、いやそれ以上に、己の勝利をはっきりと確信していた。
確かに、銃や剣では霧は倒せない。
だが、武器を持たないスタープラチナは、言い換えれば、全身が武器なのだ。
「そのバアさんがあと1回呼吸する内に、そのスタンドは倒す。」
スタープラチナの圧倒的なパワーというのは、パンチやキックの破壊力の事だけではない。その事を、承太郎は思い出していた。
ダークブルームーンに引きずり込まれた海の中での戦闘を。
常人の3倍の肺活量を誇る水中戦の専門家にも負けなかった、スタープラチナの肺活量を。
「あぁ!?何ぃ!?あと1回、何をするだって?このドグサレスカタン野郎が!」
エンヤ婆が醜い本性を剥き出しに、下劣な喚き声を上げた。
だが、それはほんの一瞬の事だった。
「1回呼吸する内だとぉ!?すぐしてや・・・・!ご・・・・、ご・・・・・、只の・・・・・、1回・・・・・」
間もなく、エンヤ婆の顔色が青くなり始めた。
「こぉぉっ・・・・・!」
減らず口を叩く余裕もすぐになくなり、エンヤ婆は喉を押さえ、握り拳をブンブン振り回して、もがき始めた。
土気色の顔が青ざめ、次第に紫がかってきている。
チアノーゼが起きているのだ。
「ご・・・っ・・・・!おぉ・・・・、ぇ・・・・・!
んんばばばば・・・・ッ・・・・・、はッ・・・・・!ど・・・・、いうぅぅぅ・・・・!?」
涎を垂らしてもがきながら、エンヤ婆は息も絶え絶えに己の背後、ジャスティスの方に目を向けた。
そして、自分の身に何が起きているのかを理解した。
「「なっ・・・・・!?」」
ポルナレフとホル・ホースも、気付いたようだった。
スタープラチナが、ジャスティスそのものを吸い込んでいるのを。
「承太郎のスタープラチナが、霧のジャスティスの顔を・・・・・!」
「や・・・・・、やめてく・・・・れぇぇぇ・・・・・!」
とうとう、エンヤ婆は膝から崩折れた。
「吸い込んで抑えつけているッッ!!これでは呼吸が出来ないぜッ!!」
「おぉぉぉ・・・・・・!クケェェェェ・・・・・・!あばば、あわわわわ・・・・・・」
元気を取り戻してきたポルナレフとは対照的に、エンヤ婆は白目をひん剥き、泡を吹いて卒倒した。
それを見届けてから、承太郎はスタープラチナを消した。
「ハヒッ・・・・、ハ・・・、ヒッ・・・・・、ヒ・・・・・」
目の前で手を振ってみたが、エンヤ婆は目を開けなかった。
浅くて弱い呼吸を途切れがちに繰り返すだけで、辛うじて生きているというような状態だった。
「・・・フン。どれ、これでこのバアさんの頭の中にも、大好きな霧がかかったようだな。」
「なずぇぇぇぇぇ・・・・・・!」
うわ言を呟き、ブクブクと泡を吹き続けるエンヤ婆に一瞥をくれていると、ポルナレフがベソをかきながら承太郎に絡んできた。
「承太郎ーーッ!遅いぜテメェーーッ!」
「何だ、何泣いてんだポルナレフ。」
「もうちょっと早く来てくれてりゃあよぉ〜、俺ぁあんな汚ぇ便器なんか舐めずに済んだのによぉ〜!」
「あぁ?便器?何だそりゃ?」
突拍子もない話に首を傾げたその時、部屋の向こうから騒々しい足音と声が聞こえてきた。
「承太郎ーーッ!ポルナレフゥーーッ!大丈夫かぁーーッ!?」
ハーミットパープルをバチバチいわせながら騒々しく押し入ってきた祖父のジョースターを、承太郎は冷ややかに睨んだ。
「うるせぇぞジジイ。声がデケェ。」
「おおっ!!無事だったか承太郎!花京院のハイエロファントが異変を察知したというので、慌てて加勢にやってきたんじゃあ!」
「もう遅ぇ。たった今、片付けたところだ。」
「何じゃ、一足遅れか!しかしまあ、無事で良かった良かった!」
「無事じゃあねぇよぉ〜ジョースターさぁん〜!ひでぇ目に遭っちまったぜぇ〜!見てくれよぉ〜この怪我〜!」
余程ショックが強かったのだろうか。ポルナレフは盛大に泣き言を垂れながら、ベーと舌を出してジョースターに傷穴を見せた。
「あ〜あ、何じゃあその穴は!何でそんなとこに穴が開いとるんだぁ!?」
「あのババアにやられたに決まってんだろ!人の好い女将さんかと思ってたら、とんでもねぇクソババアだったぜ!すっかり騙されちまった!」
ポルナレフは憤慨しながら、泡を吹いて失神しているエンヤ婆を指差した。
「聞いて驚くなよ、何とこのババア、あのJ・ガイルの母親だぜ。」
「何じゃと!?という事はつまり・・・」
「そう。DIOの野郎にスタンドを教えた魔女ってのは、このババアだという事さ。」
それは他ならぬ承太郎自身が、敵から直接聞き出した情報だった。
「そうか、この婆さんがのう・・・・・・・」
「ともかく危険なバアさんだ。流石はあのドグサレ野郎の母親だよ。油断も隙もねぇ。目ェ覚まさねぇ内に、グルグル巻きにふん縛ってでもおかねぇと、いつまた不意打ちされるか分からねぇぜ。」
ポルナレフのエンヤ婆を見る目に、憎しみは篭っていなかった。
「な、何だよ・・・・?」
「いや、意外だなと思ってよ。殺しちまえとは言わねぇんだな。」
ポルナレフは少し気まずそうな顔をして、承太郎から少しだけ目を逸らした。
「べ、別にその必要はねぇだろ。オメェがわざわざ殺さずにおいたモンを、俺がトドメ刺す理由はねぇぜ。
俺が恨んでいたのはこの婆さんの息子であって、婆さん本人じゃあねぇしな。」
「フン。」
「・・・それに・・・・・、それによ・・・・・・・」
ふと、ポルナレフの青い瞳が哀しげな陰りを帯びた。
「確かに俺は、J・ガイルに妹を殺され、その恨みを晴らす事だけを考えてきた。
そして、遂に復讐を果たした。悲願達成ってやつだ。
だけどそれは、この婆さんにとっては、俺がシェリーを失ったのと同じ、悲劇だったんだ。」
「・・・・・・」
「あの野郎に母親が、家族がいるなんて、あの時には考えもしなかった。
だけどこうして目の前にすると少しだけ・・・・、巻き込んで死なせてしまったアヴドゥルの事を考えると、こんな事は言っちゃあいけねぇんだが・・・・、少しだけ、あれで良かったのだろうかと・・・・、迷う。」
ポルナレフはその哀しげな瞳で、エンヤ婆を見つめた。
「俺にとっては百万回殺しても飽き足りない仇でも、この婆さんにとっては自分の命よりも大切な息子。
早くに死んだ俺の母親もきっと、俺の事をそう思っていた筈だ。
そう思うと、そう思うと、何だか・・・・・、何だかちょっと、な・・・・・」
仇討ちというのは、言葉の響き程痛快なものではない。
誰かが笑う一方で、誰かが泣く。
そうやって、人はこの世界でひしめき合って生きている。
恨みが恨みを呼び、悲しみが悲しみを生む。
人間というのは、何と業の深い生物なのだろうか。
「ポルナレフ・・・・・・・」
「・・・とっ、とにかくよぉ、このババアを何とかしねぇとな!ロープか何かねぇかな!?俺、探して来るわッ!」
照れたように笑って、そそくさと扉の向こうへ駆けていくポルナレフの背中を見送って、承太郎とジョースターは微かな笑みを浮かべた。
「・・・何だか少し、アイツも変わったような気がするのう。良い方向に。」
「フン。」
「後で舌の傷の手当てをしてやらねばな。」
「そうしてやれ。何か、汚ぇ便器を舐めさせられたとか言ってたからな。」
「えぇ!?何じゃあそりゃあ!?便器ぃ!?」
ジョースターは大きな瞳をキョトンとまん丸くさせてから、次の瞬間、とてつもなく悪そうな笑みを浮かべた。
「・・・そうかそうか。そりゃあ気の毒に。ちゃぁ〜んと消毒してやらんとのう。」
「・・・何か下らねぇ事考えていそうだな。」
「さて、何の事かな?では薬を取りに行きがてら、花京院とエリーに無事を知らせて来ようかのう。」
ジョースターはわざとらしく口笛など吹きながら、飄々と出て行った。
全く、我が祖父ながら何という男だろう。
齢67にして、まるで10かそこらの悪たれ坊主のようだと、承太郎は小さく溜息を吐いた。
その時、ほんの僅かに気配がした。
人がコソコソと動く時のような、そんなビクついた気配だった。
今、この場にいるのは、承太郎自身と、そして・・・・・
「・・・・・・・ひっ、ひぃっ・・・・!?な、何だよ!?」
承太郎が射竦めるような視線を向けると、ホル・ホースは顔を引き攣らせて身構えた。
「で?テメェは何でここでポルナレフと一緒にやられてたんだ?今度はあの婆さんと組んでたんじゃあねぇのか?」
「とっ、とんでもねぇ!そうしてやろうかと思ったら、不意打ちされてこのザマよ!
あのクソババア、息子の死を俺のせいだと逆恨みしやがったのさ!」
ホル・ホースは、はじめは息も絶え絶えだったのが、随分と回復してきているようだった。少なくとも、コソコソと足音を忍ばせて逃げ出そうとする位には。
「で?バアさんがリタイアして、残ったテメェはどうする気だ?」
承太郎は些かの油断もせず、ホル・ホースを睨んだ。
しかしホル・ホースには、敵対する意思はないようだった。
「どっ、どうもしねぇよ!俺ぁダメージがデカくて、こうして喋ってんのもやっとなんだぜ!?何しろババアのスタンドに操られて、テメェでテメェの口の中を撃っちまったんだからな!
咄嗟にスタンドを消したから死にはしなかったが、脳震盪を起こして、今もまだクラクラしている!」
「その割にはデケェ声でよく喋るじゃねぇか。」
「こらぁ地声だ!とってもアンタらにケンカ売るような体力は残ってねぇよ!
たとえばもしここで今、俺がアンタに攻撃を仕掛けたとして、アンタに勝てる気はしねぇ!もし勝てたとしても、たちまちお仲間共に囲まれて、結局はやられちまう!負けると分かっているケンカを売る程、俺ぁバカじゃねーよ!」
ホル・ホースはその場で立ち止まったまま、必死で命乞いをした。
「なあ承太郎、こうなっちまったら、俺ぁアンタらに協力するぜ!
なぁに、元々DIOの野郎には金で雇われてただけなんだ!テメェの命と秤にかけるまでもねぇ、雀の涙程のはした金よ!」
「ほう?」
「だ、だからよ、頼む!こ、殺さねぇでくれ、な!?な!?」
その姿は見ていて呆れる程無様で、誇りも何もあったものではなかった。
この男が本当に協力してくれるとは微塵も思わないが、戦意のない者を一方的に叩きのめすのも気が進まないし、ましてや殺してしまう訳にはいかない。
「・・・殺しゃしねぇさ。テメェに俺達を殺す意思がない限りはな。」
「ねっ、ねぇよ!ある訳ねぇさ勿論!」
「・・・フン」
承太郎はホル・ホースに背を向け、ロビーの方へと歩き始めた。
勿論、背後から襲われる事を想定しての事だったが、ホル・ホースは本当に何もしてこなかった。
承太郎が敵のスタンド使いを倒したという知らせを聞いて、江里子はジョースター・花京院と共にロビーへ下りた。
ロビーへ下りると、奥の部屋からポルナレフが出て来た。
「おーい、ジョースターさん!ロープあったぜぇ!」
「おお、そうか。そりゃあ良かった。
それはそうとポルナレフ。お前、舌を怪我していただろう?薬を取ってきたから手当てをしてやろう。こっちへ来なさい。」
「おお、メルシー!」
ポルナレフはジョースターに歩み寄り、ベーと舌を出した。
その舌を見て、江里子はギョッとした。
「ちょっ、どうしたんですかその穴!?」
それは、あの道端の男の死体にあった傷穴と全く同じものだった。
「どうって、あのバアさんのスタンドにやられたんだよ。」
「それは分かりますけど、一体何をされたらそんな穴が開くんですか!?」
「霧だよ、霧。あの霧がバアさんのスタンドだったんだ。」
「霧?」
「ほんのちょっとの掠り傷でも、そこに霧が入り込んで、こんな風に穴が開くんだ。そして、そこから操り人形のように操られちまう。実に恐ろしいスタンドだったぜ。」
「そうだったんですか・・・・・・」
「ま、今はもう平気だし、傷もそのうち塞がるだろうがな。」
見た目は割とえげつないが、その割にさほど深刻な傷ではないらしい。
意外と平気そうなポルナレフの様子に、江里子はホッとした。
「なら良かったですけど。でも、手当てはちゃんとしておいて下さいね。」
「言われなくてもそのつもりだよ!しっかりバッチリ消毒しとかねぇとな!」
「・・・ほほ〜う。そんなにしっかりバッチリ消毒せねばならんような事になったのか?」
おもむろに、ジョースターが口を開いた。
「穴を開けられたその舌を、操り人形のように操られたのだろう?一体何をされたんだ?えぇ?」
「え゛っ・・・・・、な、何でそんな事訊くんだよ?」
二人共、何だか様子が変だった。
ジョースターの訊き方は何となくわざとらしい感じがするし、ポルナレフはポルナレフで、都合の悪い事を隠そうとしている感じがする。
「どんな闘いだったのか、知りたくてなぁ。」
「べ、別にどうって事ぁねぇよ。空中に吊り上げられたり、そのまま床に叩きつけられたり、まあ、そんな程度の事だよ・・・・・」
「おやぁ?そんな程度の事で、しっかりバッチリ消毒せにゃあいかんのかぁ??」
「い、いけねぇかよ?俺ぁ結構潔癖症な方だからよ・・・」
「実は、消毒薬の残りが少ないんじゃあ。大した事ないんじゃったら、消毒薬は使わないで欲しいんじゃがなぁ。」
「えぇぇっ!?そ、そいつぁ困るぜぇ!!何が何でも消毒薬だけは・・・・!!」
「何故ゆえにぃぃ??」
「うぐっ・・・・・!」
ポルナレフは明らかに言葉に詰まった。何がそんなに都合が悪いのだろうか。
花京院と共に事の成り行きを静かに見守っていると、やがてポルナレフは大層言い難そうに答えた。
「・・・・いや、ちょ、ちょっとな・・・・、舐めちまったから・・・・・」
「えぇぇ??何だってぇ???」
「ちょ、ちょっと汚ぇモンを舐めちまったんだよ。だから・・・」
「汚いものぉ?って何じゃあ?」
「何って・・・・・!別に何でも良いだろ!?」
「いいやあ、良くないぞぉ。ちょっと位なら、消毒薬は節約して貰わんと困るしのう。」
「うぐぐ・・・・・・・!」
「ほれほれ、どこを舐めたんだ?言ってみなさぁい。」
ジョースターも明らかに怪しかった。
この紳士は、時々吃驚する程子供じみた悪戯をするのだ。
これまでの旅で、江里子はジョースターのそういう一面を何度も見てきていた。
「オッホ、オッホ、オッホン!!だから、どこ舐めちまったかなんてどうでも良いじゃねーかよぉ!下らねぇ事聞きたがるなぁ・・・・。オホン!!オホン!!・・・・便器・・・・オッホォン!!!」
ポルナレフは薄笑いを浮かべ、思いっきり目を泳がせ、かつ盛大に咳き込みながら、小さな小さな声でそう答えた。
便器。
そう言ったように聞こえたが、聞き間違いだろうか。
「えぇ?どこ舐めただってぇ??よく聞こえんかったが。」
「どこだって良いじゃあねーかよぉ!ベロ消毒するからよぉ、早く薬くれ!」
「んん?今なんか、便器・・・・、とか聞こえましたが。」
「私にもそう聞こえましたけど・・・・」
「うぷぷっ・・・・!」
ジョースターは堪え切れなくなったように吹き出し、花京院と江里子にコソコソと耳打ちしてきた。
「実はもう知ってるんだよぉ。こんなオモシロイ事、からかわずにおれるかぁ!うくくくく・・・・!」
「え・・・・!?じゃあ、私の聞き間違いじゃあないんですか・・・・・!?」
「間違いなもんか、うぷぷぷぷ・・・・・!」
「あぁっ!ひょっとすると承太郎から既に聞いているなぁ!?このクソジジイ!!からかってやがったのかよ!!」
江里子達の内緒話、特にジョースターの笑い声で察したらしく、ポルナレフはむくれてそっぽを向いた。
「フンッ!!薬はもういいッッ!!」
「分かった分かった、悪かったよ!手当てしてやるよ、ポルナレフ。手当てしないとばい菌が入るぞ。」
向こうに行こうとしたポルナレフを、ジョースターは呼び止めた。
ふざけてもなく、押しつけがましくもない。
そんな声で呼び止められて、ポルナレフはまだ少し拗ねたような顔をしながらも、素直にこちらを振り返った。
「ゴフン!・・・便器・・・・・、ンゴ〜〜ッフン!!!・・・を、舐めたから・・・・・」
「うぇ・・・・!?」
だが、それは甘かった。
二段構えのからかいに見事引っ掛かったポルナレフは、顔を真っ赤にしてワナワナと震えた。
「ギャーーッハッハッハッハッハ!!!ギャーーッハハハハハ!!!」
「ジョ、ジョースターさんたら、そんなに笑っちゃあ・・・・;」
そんなポルナレフを見て、我慢の限界とばかりに、ジョースターは爆笑し始めた。
床を拳で叩きながら声の限りに大笑いするジョースターを、江里子は一応、窘めてはみた。尤も、予想通り、聞く耳は持って貰えなかったが。
「チクショウッ!!もういいよエリー!そんなクソジジイほっとけ!さあっ、旅を急ごうぜ、承太郎、花京院!!」
当然だが、ポルナレフはより一層ヘソを曲げ、再びプイッと背中を向けた。
「皆、外に出てみろ。」
その時、承太郎が口を開いた。
扉の所から外を眺めていたらしい承太郎の、その真剣な口ぶりは、この下らない馬鹿騒ぎの雰囲気を瞬時に打ち消した。
「えぇっ・・・・・・・・・・・!?」
外に出た瞬間、江里子は我が目を疑った。
ついさっきまであれだけ濃かった霧がすっかり晴れていて、青空が戻っていたのだ。
だが、驚くべき事はそれだけではない。
むしろ、そんな事ではなかった。
「・・・・何てこった・・・・。ホテルの外に出てみりゃあ、こ、ここは・・・・」
ジョースターの目の前で、骸骨の首がポロリと取れて転がっていった。
「墓場だ。スタンドの霧全体で、墓場を町やホテルに仕立て上げていたのか。」
「墓下の死体共と・・・・、俺達はお話していたのか・・・・・」
花京院が、ポルナレフが、小さく呟いた。
そう。
ここは、見渡す限り墓石と瓦礫が連なる、大きな墓地だった。
ホテルも、つい今の今まで中にいたというのに、一体いつの間にそうなったのか、屋根も壁も無いような廃墟と化していた。
そして、そこかしこに転がっているのは、無数の人骨だった。
眠っているところをジャスティスに無理やり『起こされた』のであろう、気の毒な人々だった。
「そ・・・・・、そんな・・・・・・・・」
死してなお弄ばれた躯が、崩れ落ち、風に吹かれて塵となって飛んでいく。
後に残るのは、ボロボロの服の残骸だけ。
そんな光景を目の当たりにして、江里子は思わず口元を両手で覆った。
「大丈夫ですか、江里子さん?」
花京院が、心配そうに江里子を見た。
優しいその眼差しに、江里子は小さく頷いた。
「大丈夫です。ごめんなさい、ちょっとショックだっただけ・・・・」
作り物ではない。本物の人の骨なのだ。
それが、墓の下から蘇り、襲い掛かってきたのだ。
この旅は本当に、普通の人間の常識では計り知れない、想像を絶する程の奇妙な冒険なのだ。
これまでの道中で、もう何度となく痛感してきた事だが、江里子はまた改めて噛み締めていた。
この旅の危険さを、敵の恐ろしさを。
そして、自分達一行とホリィを呑み込もうと待ち構えているのであろう、数奇な運命を。
「・・・もはやここに用は無い。これ以上の長居は無用じゃ。出発しよう。」
ジョースターが重々しい口調でそう呟いた。
反対する者は、勿論誰もいなかった。
「元の道に戻り、まだ明るい内に少しでも先へ進もう。ポルナレフ、すまんがもうひと頑張り、運転を頼むぞ。」
「あいよ。」
「皆で手分けして、急いで荷物を車に積み直すのじゃ。それから、この婆さんもな。」
ジョースターはそう言って、気絶したままのエンヤ婆を示した。
「なっ、つ、連れて行くだとぉ!?このバアさんを!?」
散々な目に遭ったポルナレフが、ギョッと目を見開いて叫んだ。
今はロープでグルグル巻きにされて気絶したままの状態だが、死んではいない。
いつ目を覚まして、また攻撃してくるとも限らないのだ。
それを考えると、連れて行くのは非常に危険だと言える。
「ああ。これから襲ってくるスタンド使いは何人いて、どんな能力なのか、エジプトの何処にDIOの奴は隠れているのか、そして、DIOのスタンド能力は・・・・」
「どんな正体なのか、このバアさんからそれを聞き出せば、我々は圧倒的に有利になる。」
だが、承太郎とジョースターの言う事にも、有無を言わせぬ説得力があった。
敢えてリスクを背負ってでも、それ以上の有益な情報が手に入る。
そしてその有益な情報は、ホリィの命に直結するのだ。
「そう簡単に口を割るとは思えませんが。」
それに際し、花京院が懸念点を挙げたが、ジョースターには策があるようだった。
「儂のハーミットパープルで、TVにこのバアさんの考えを映し出せば良い。」
「なるほどぉ!墓場にはTVは無ぇから、次の町でか!」
と、ポルナレフが声を上げた瞬間、車のエンジン音がした。
「ん?・・・あぁッッ!!ホル・ホースッッ!!!」
振り返ってみれば、江里子達の乗ってきた車を奪って、ホル・ホースが逃走を図っていた。
「あの野郎ーーッッ!!!」
「我々の車を!!!」
ポルナレフと花京院が慌てて後を追って走り始めたが、車は既に完全に走り出していた。江里子も思わず追いかけそうになったが、肩を掴む承太郎の手がそれを止めた。
「でも車が・・・・・!」
「想定内だ。放っておけ。どうせこんなこったろうと思っていたぜ。」
承太郎も、そしてジョースターも、落ち着き払った顔をしていた。
となればそれ以上どうしようもなく、江里子は大人しくその場に留まった。
「俺はやっぱりDIOの方につくぜぇ!また会おうぜぇ!もっとも、おたくら死んでなきゃあなぁ!」
不意にホル・ホースがこちらを振り返り、大声で叫んだ。
咥え煙草で、相変わらず人の神経を逆撫でするような、余裕綽々の口ぶりである。
だが実際、追いかけて彼を捕える事はもう不可能だった。
それだけの距離が既に空いており、花京院もポルナレフも、それぞれに足を止めてしまった。
「ひとつ、忠告しておく!!」
しかしホル・ホースは、江里子達をただ挑発していくだけのつもりではないようだった。
「そのバアさんはすぐに殺した方が良い!!さもないとそのババアを通じて、DIOの恐ろしさを改めて思い知るぜ、きっと!じゃあ〜なぁ〜!」
ホル・ホースはそう言い残して、車を盛大にバウンドさせながら走り去った。
承太郎と目が合ったジョースターは、両腕を広げて『さっぱり分からん』というジェスチャーをして見せた。
「何言ってるんだ、あの野郎・・・・?」
ポルナレフも、小首を傾げた。
「野郎、あれで借りを返したつもりか・・・・・」
承太郎は小さくそう呟いて、傍らに転がっているエンヤ婆を一瞥した。
彼女の瞼はピッタリと閉じられ、未だピクリとも動かなかった・・・・・・・・。
こんな山間の僻地でホル・ホースに車を奪われ、どうすれば良いのかと途方に暮れかけたが、結果的には心配なかった。
ホテル(だった廃墟)のすぐ裏手に、エンヤ婆が乗って来たと思われる馬車、それも大層立派なものが停めてあったのだ。
艶やかな黒い毛並みの大きな馬には美しい装飾具が着けられてあり、幌は全員で楽々乗れる程大きく立派で、細部にまで見事な細工が施されてあった。
まるで古代王族の馬車のようで、見つけた時には皆で思わず歓声を上げた程だった。
江里子達一行はそれに乗り、早々に墓地を離れて元の道に引き返し、先を急いだ。
しかし、既に時刻は夕方、馬車の速度では次の町までは辿り着けそうになく、日が暮れてきたところで一行はやむなく馬車を停め、必要な荷物を持ち出して落ち着けそうな所に火を焚いた。
今夜はこの場所で野宿だった。
「こんな事もあろうかと、非常食を用意しておいて良かったわい。」
ジョースターはクラッカーに缶詰のマトンカレーをかけ、豪快に齧りついた。
そして。
「うん!不味い!!」
と叫んだ。
「あー、俺駄目だわコレ!」
「獣臭いですね。マトンの匂いか。」
ポルナレフと花京院も、同じものを一口食べて、それぞれに顔を顰めていた。
5人中3人が同じ反応をするという事は、恐らく、悪い意味で安定した味なのだろう。
江里子は、自分のクラッカーにそれをかける気にはなれなかった。
「そうか?そんなに悪くもねぇぜ?」
一人、意外な反応を示したのは、承太郎だった。
「誰も食わねぇんなら、俺が全部食っちまうぞ。」
承太郎は缶を自分の手元にキープすると、どんどん食べ始めた。
「マジか承太郎!?マジで言ってんのお前!?お前の味覚どうなってんのぉ!?」
「ジョースターさん、ジョースターさん、こっちの方がまだマシだぜ。」
ポルナレフがもうひとつ別の缶詰を開けたらしく、ジョースターに差し出した。
ジョースターはそれを少し味見して、微妙な表情で頷いた。
「ふむ・・・、まあ、確かにまだこっちの方が食えるな。何だこれは?」
「キーマカレーだとよ。じゃあこれもうひとつ開けるか。頼むわ、花京院。」
「ああ。じゃあそっちは君とジョースターさんで食べてくれ。」
花京院は荷物の中からもうひとつキーマカレーの缶を取り出すと、缶切りで手際良く開け、江里子に差し出した。
「お先にどうぞ。」
「あ・・りがとうございます。」
江里子は少なからず意識して笑顔を作ると、ひと匙分だけキーマカレーを掬い、自分のクラッカーにかけた。
正直なところ、あまり食べる気はしなかったのだが、花京院にニコニコと見守られていては、食べたくないとは言い難い。
江里子は息を止め、一思いに頬張った。
「うん・・・・・・」
曖昧な笑みを浮かべ、適当に頷きつつ咀嚼していると、花京院は安心したように微笑み、自分も食べ始めた。
しかし内心、江里子はそれを美味いとは思っていなかった。
そもそもこの西アジア方面のエスニック料理自体、江里子の口にはあまり合わないのだ。馴染みのない香辛料がふんだんに使われているせいなのだろうが、どこで何を食べても、あんまり美味しいとは思えなかった。
ジョースターの選ぶ店は、比較的リッチだったり小奇麗な所ばかりだったが、そういった店での食事ですらそうなのだから、缶詰のカレーが美味しいと思える訳がなかった。
尤も、そんな贅沢な事は、口が裂けても言えない。
言えないから、江里子は適当に誤魔化しつつ、クラッカーだけを齧り続けた。
「今はまだ8時前だが、これを食べ終わったら今夜はもう休もう。
その分、明日は少し早めに・・・、そうだな、4時頃に起床してすぐに出発したいと思う。」
食べながら、ジョースターは皆に向かってそう話した。
それに異を唱える者は、勿論誰もいなかった。
「それに当たってひとつ、問題がある。この婆さんの事だ。」
全員の目が、エンヤ婆に一斉に向けられた。
「まだ目を覚ます気配は無いが、もしも目を覚ましたら、逃走を図ろうとしたり、万が一にも我々の寝込みを襲ってくる事があるやも知れん。
それを阻止する為に、全員交代で見張りをして欲しいのじゃ。」
「確かに、用心しておくに越した事はねぇよな。分かったぜ、ジョースターさん。」
ポルナレフは、二つ返事で承諾した。
承太郎も、花京院も、反対の意思は無さそうだった。
だが、江里子はそれに賛同出来なかった。
「あの」
「ん?何じゃ、エリー?」
「その見張り、私が一人でやります。」
それは咄嗟の思い付きだったが、意欲は自分でも驚く程に強かった。
「何じゃと!?」
「細切れの睡眠は、明日の体調に響きます。その点、私なら問題ありませんから。」
「何を言うのじゃエリー!問題が無いわけ・・」
「ジョースターさん。貴方がたは出来るだけ、いつも万全の状態でいなければいけません。いつ始まるか分からない闘いに備えて。」
江里子のその言葉に、ジョースターはハッとしたように口を噤んだ。
「闘えない私には、せめてこんな事ぐらいしか出来ません。だから、やらせて下さい。お願いします。」
それは、申し出というよりは、闘えない江里子の、せめてもの願いだった。
何かあったらすぐに皆を起こすという約束で、徹夜の見張り番は江里子に一任された。それは、江里子にはこの上なく嬉しい事だった。
たとえ幾らかでも役に立てている。認めて貰えている。仲間の一員だと思って貰えている。その事が、堪らなく嬉しかった。
その高揚感と、無事に任務を全うしなければというプレッシャーのお陰で、疲れてはいたが眠気は催さなかった。
定期的にエンヤ婆の様子に変化がない事を確認する傍ら、江里子は時間潰しに記録を書く事を思い立った。この奇妙な冒険の、目まぐるしい日々の記録を。
焚火の炎を灯りに、時折美しい星空を見上げつつ、江里子は夢中でペンを走らせた。この旅は未知の出来事の連続で、書いても書いてもネタは尽きなかった。
生まれて初めて乗った飛行機が墜落した事、それが無傷で助かった事。
香港で出会ったポルナレフと、そしてアンの事。
南シナ海の青さ、シンガポールのリッチな雰囲気、それとは対照的な発展途上の小国の数々。
カルチャーショックの連続だったインド、そして、そこで起きた悲劇、大切な仲間の死。
日本を出た瞬間から次々と襲い掛かってくる敵スタンド使い達の恐ろしさと、仲間達への信頼、尊敬、そして・・・
「・・・・・・・・」
江里子は思い出していた。
混乱が起きる直前の飛行機の中で、唇にそっと押し当てられた、花京院の指の感触を。
夜の浜辺で抱きしめられた時の、アヴドゥルの腕の温もりを。
手の甲に落とされた、ポルナレフの忠誠の証を。
江里子の必死のやせ我慢を見透かしていたかのような、承太郎のらしくもない優しい言葉を。
― 私・・・・・・・
ずっと見ないように、見ないようにしてきた、自分の心の奥底を恐る恐る覗きかけた、その瞬間。
「はっ・・・・・!」
エンヤ婆の目が、いつの間にか開いていた。
灰青色のその瞳に捉えられている事に気付き、江里子は思わず戦慄した。
「・・・・・喉が渇いた・・・・・」
エンヤ婆は一言、小さくそう呟いただけだった。
意識が戻り、水を欲しがり、明瞭な言葉を喋るという事は、命に全く別状は無いと考えられる。
つまり、いつまた攻撃を仕掛けてくるとも分からない状態にあるという事で、ジョースター達を直ちに起こさねばならないのだが、彼等は度重なる戦闘の疲れで、皆ぐっすりと眠り込んでいた。
「・・・・・・・・分かりました。」
江里子は水筒の水をコップに注ぎ、ズボンのポケットからスタンガンを取り出した。
「水をあげます。でも、妙な真似をしたら、大声を出してこれで貴女を攻撃します。
ジョースターさん達にすぐに気付かれて、殺されますよ。分かりましたね?」
「分かっておるわ。」
江里子は片手でスタンガンを突き付けながら、もう片方の腕でエンヤ婆を抱き起こし、コップを口元に運んだ。
エンヤ婆は、大人しく水を飲んだ。
「・・・お腹、空いていませんか?」
「・・・・・・」
「クラッカーしか残っていませんけど、食べますか?」
返事は無かったが、拒否しているようには見えなかったので、江里子はクラッカーを取り出してエンヤ婆の口元まで運んだ。
エンヤ婆もまた、大人しくそれを食べた。
2枚、3枚、4枚と食べてから、エンヤ婆はまた水を要求した。
そして腹を満たすと、次の要求を出してきた。
「・・・小便がしたい。」
「ええっっ・・・・!?」
その要求には、流石に江里子も困惑せざるを得なかった。
独断で勝手に縄を解く訳にはいかない。
だが、解いてやらなければ、エンヤ婆は自力で用を足せないから、面倒を看てやらねばならなくなる。
しかし、それこそ男達にはさせられない。
「もう辛抱出来ん。漏れそうじゃ。」
「・・・・・分かりました・・・・・・・」
悩んだ挙句、江里子は苦渋の決断を下した。
「起きて下さい。立って歩けますか?」
江里子は荷物からトイレットペーパーを取り出し、エンヤ婆を立ち上がらせた。
エンヤ婆は両腕を完全に封じられている状態だったが、江里子が少し支えてやる程度で、問題なく歩けた。
ポルナレフが馬車の中で戦闘時の様子を語って聞かせてくれたが、老婆とは思えない程の足腰をしているというのは、どうやら本当の事らしい。
万が一にも逃走を企てたりしないようにスタンガンを突き付けながら、江里子はエンヤ婆を少し離れた草むらまで連れて行った。
「ここなら出来るでしょう?し、失礼しますよ・・・・。」
江里子は極力目を向けないようにしてエンヤ婆の長いスカートを捲り上げ、下着を下ろした。
「はい、どうぞ・・・・・・・」
エンヤ婆をしゃがませると、程なくして地面に水が迸る音が聞こえてきた。
音は否応無しに聞かされてしまうが、せめて臭いだけでもブロックしたくて、江里子は必死で息を止めた。
「・・・もう良いですか?」
音が止むと、いよいよ腹を括らねばならなかった。
ここまで来て、『やっぱり無理』とは言えない。
江里子は覚悟を決めてペーパーを千切り、エンヤ婆の陰部を拭いた。
同性とはいえ、決して恥ずかしくない事はないし、気分だって良くない。
そして、エンヤ婆がもし逃走や不意打ちを企てているのなら、こういう状況は絶好のきっかけになる。
羞恥と嫌悪に顔を顰め、一寸の油断も出来ない緊張感に益々息を詰まらせながら、江里子は何とか後始末をやり遂げ、服を元通りに整えてやり、元の場所まで連れて行ってまた寝かせた。
一連の作業が完結して、初めて江里子はまともな呼吸をした。
ホッとして肩の力を抜いていると、エンヤ婆がまた江里子を無遠慮に見つめてきた。
「・・・・・何ですか?」
「なるほど、やはりのう。」
「何がですか?」
「取るに足りぬ、クソの役にも立たぬ小娘じゃ。」
心底馬鹿にしたようなその言い方に、江里子は一瞬、唖然とした。
その次の瞬間、今度は猛烈に腹が立ってきた。
この老婆は、たった今、上から下まで誰の世話になったと思っているのだろうか。
だが、魔女の言う事になど、耳を貸してはいけない。
この類の者には、必要最低限の関わり以外、もってはいけないのだ。
江里子は自分にそう言い聞かせ、無視を決め込んだ。
「スタンドも無く、闘う事も出来ない。更には敵に情けをかける、平和ボケして甘ったれたその考え。
お前のようなちっぽけでマヌケな小娘など、DIO様の眼中にはハエほども入らぬわ。」
「・・・私の目にも、そんな変態男はハエ程も入らないわ。」
しかし、無視は長くは出来なかった。
耳障りで、腹が立って、江里子はついつい言い返してしまった。
「この世の全ての女は、DIO様の虜になる。あの方の精を受けて身籠りたがり、命を捧げてあの方の血肉となりたがる。」
「貴女もそうだというの?」
「ワシはあの方の奇妙な運命に魅入られた。それをあの方のお側で見ていたい、それだけよ。」
「それだけ?それだけの事で、人殺しまでしようとするの?さっぱり理解できないわ。」
「元より理解して貰いたいとは思っておらぬわ。お前の如き凡庸な小娘には分からぬ事よ。」
江里子が何を言い返しても、エンヤ婆は黙らなかった。
「娘。人が生きるという事はどういう事か・・・・、分かるかい?」
むしろ、黙らされたのは江里子の方だった。
人が生きるというのはどういう事かなんて、スケールが大きすぎる。
突然訊かれて、すぐ答えられるような問題ではない。
密かに答えに困っていると、エンヤ婆はそれを見透かしたかのように、また口を開いた。
「単純な話よ。人が生きるという事は、欲する物を手に入れるという事じゃ。」
江里子は思わずズッコケそうになった。
そんな分かり易い答えで良かったのかと、拍子抜けだったのだ。
「金が欲しい。権力が欲しい。そして・・・・、愛が欲しい。
ときにお前・・・・・、人の縁が薄いのう。」
「っ・・・・・!」
今、この瞬間までは。
「ワシには見えるのじゃ。大抵の人間には、背後に影がある。その者と深く関わる者達の影じゃ。恋人、親友、そして家族。
大抵の人間にはそれらの影が幾重にも重なり、分厚い存在感を出しておる。
じゃが、お前にはその影がほぼ無い。
お前の背中は、吹けば飛ぶような、薄っぺらな背中じゃ。」
「・・・・・・・・」
「つまり、大切に思い思われる者が、お前にはいないという事じゃ。
そしてそれ故に、愛を求める気持ちが人一倍強い。つまりお前は、生きる力が強いという事じゃ。」
こんな魔性の者の言葉に耳を傾けては、決してならない。
そうと分かっているのに、江里子は聴かずにいられなかった。
「哀れな娘よのう。闘えぬ身で命を懸けてまで、愛を求めるか。
求めたところでその愛は、お前の求める真実の愛ではないというのに。」
「・・・・どういう意味ですか」
「ジョースターの娘は、お前の母親ではない。どんなに慕っても所詮は他人よ。」
氷の刃のようなその言葉に、江里子の胸は刺し貫かれた。
「ジョースターの娘が想い、案じるのは、我が父、我が息子であって、赤の他人のお前ではない。
血は水よりも濃し。血の絆は、この世で何よりも強いものじゃ。」
旅に出てきたばかりの頃なら、その一言で挫けてしまっていたかも知れない。
しかし、闘えないとはいえ、彼等と共に幾つもの危険を乗り越えてきた今、江里子の心は強くなりつつあった。
「・・・・・・・何かと思えば、そんな事。」
江里子はエンヤ婆の言葉を、鼻で笑い飛ばした。
「そんな事、改めて貴女に言われなくても分かってるわ。
それに貴女は何も分かっていない。彼女がどんな人なのか。あの人が、どんなに清廉な人格の持ち主なのか。
貴女のような闇に生きる魔女には、決して分からないわ。
さっきから自分は何でもお見通しと言わんばかりだけど、貴女は神様じゃあない。貴女にも分からない事は沢山あるのよ。」
エンヤ婆が初めて、驚いたように少し目を見開き、言葉を切った。
だがそれも、ほんの束の間の事だった。
「・・・・・フフ。なかなか威勢の良い事を言う。以前に『見た』時とは少し変わってきたからかのう。」
「以前に『見た』って・・・・・、私が貴女に遭ったのはこれが初めて・・」
「『魔女』の眼は、千里を駆ける。遭わずとも、お前の事を知る位は造作もない事よ。」
「っ・・・・・・・!」
どういう意味なのだろうか。魔術か、それともスタンドの能力か。
DIOのスタンドにも、ジョースターのそれと同じく念写の能力があるというが、その能力で調べられているのだろうか。
「以前はペラペラだったお前の背中、今は少し、厚くなっているのう。」
「え・・・・・・?」
「元々あったジョースターの娘と東洋人の男の他に、ジョースターと、そして若い男が4人。」
「っ・・・・・・!!」
江里子が言葉を詰まらせると、エンヤ婆の目が愉快そうにニヤついた。
「この4人の若者の影が、殊更に大きい。ジョースターの娘と同じか、いや、それ以上になりつつあるのう。」
エンヤ婆の暗くて深い沼のような瞳が、江里子の心の奥底にあるものを無遠慮に捉えた。
「愛されたいのじゃな?この4人に。そして、お前もまた。
影の大きさが同じなのが、お前の迷いの証。
お前はその愛を向けるべき相手を、まだ定めきれていない。」
「なっ・・・・・!?」
「何をうろたえておる。元来、女とはそういう生き物じゃ。
我が子の父親となる男に、少しでも優秀な遺伝子を持つ者を選ぼうとする。
容姿、頭脳、力、肉体、地位、財力・・・・・、様々な点でな。
本能にそう刷り込まれておる。全ては優秀な遺伝子を後世に遺す為の、メスの本能じゃ。
複数の男を比べ、誰が一番優秀な遺伝子を持つ者か迷うのは、人間に限らず、この世の女の常よ。」
「やめて下さい・・・・・・、私はそんなつもりは・・・・・・」
「しかし・・・・、そうじゃのう。人一倍愛に貪欲なお前の事じゃ。迷っているのではなく、一人に定める気が無いのやも知れぬな。
猫は交尾したオスの仔をことごとく孕み、種違いの仔を同時に産むが、お前もそれと同じように、相手を一人に定める事を拒絶して・・」
「やめて!!」
堪らずに、江里子は声を荒げた。
メス猫と揶揄された事も屈辱だが、それ以上に、自分の心の奥底にあるものを、自分でもまだ向き合えていないそれを、こんな魔女の舌先で軽々しく弄ばれたくはなかった。
「な、何じゃ!?」
「どうしました!?」
思わず張り上げた大声で、ジョースターと花京院が相次いで飛び起きた。
「うるせぇな、何事だ?」
「うぅ〜ん・・・・何だぁ・・・・・!?・・・・げげっ!?バアさん起きてるじゃねーか!」
承太郎とポルナレフも目を覚まし、エンヤ婆の意識が戻っている事に気付くと、すぐさま警戒した面持ちになった。
「婆さん。気分はどうかな?」
ジョースターは油断のない表情で、エンヤ婆の様子を伺った。
しかし彼女はそれには答えず、江里子一人を見据えて口を開いた。
「心のままに求めるが良い、愚かな小娘よ。それこそが、『生きる』という事じゃ。」
全く話が呑み込めていないポルナレフが、頭上に沢山のクエスチョン・マークを浮かべて江里子を見た。
「な、何の話??何か求めてんのか、エリー?」
「し、知りません!こんな人の言う事なんか真に受けないで下さいよ!」
「お、おう・・・・・」
頭上のクエスチョン・マークの数を更に増やすポルナレフの顔を、江里子はとても直視できなかった。
「予定の起床時刻より少し早いが、せっかく全員起きた事だし、このまま支度をして出発しよう。」
ジョースターは皆にそう告げると、江里子に優しい微笑みを投げ掛けた。
「ご苦労だったな、エリー。お陰でゆっくり休めたよ。」
「いえ、そんな・・・・・」
「あの婆さんに何か言われたのか?」
「い、いえ、別に・・・・・」
はっきりとは否定出来なかった。咄嗟の嘘が吐けなかったのだ。
しかしジョースターには、無理に訊き出す気は無いようだった。
「・・・何か知らんが、君自身が言った通り、真に受けないことだ。気にするな。」
「はい・・・・・。」
「さあ、早く支度をして出発しよう。馬車に乗ったら、今度は君が眠る番だ。」
ジョースターは軽いウインクを飛ばして、向こうへ歩いて行った。
その背中を見送って、江里子は密かに重い溜息を吐いた。
「おい、バアさんがまた意識を失ってるぜ!」
心配そうなポルナレフの声がして、ふと目を向けると、エンヤ婆はまたしっかりと瞼を閉じていた。
「大丈夫ですよ、ポルナレフさん。多分、寝ているだけだと思います。」
江里子は、エンヤ婆の肩を揺さぶっているポルナレフを止めつつ言った。
「今さっきお水を飲んでクラッカーを食べて、トイレにも行きましたから。」
「トイレ!?」
その言葉に、全員がギョッとした江里子を振り返った。
「ト、トイレって、このグルグル巻きの状態でどうやって行ったんだよ!?」
「まさか江里子さん、ロープを解いたのですか!?」
「ま、まさか!違いますよ!」
ポルナレフと花京院に凄い勢いで詰め寄られて、江里子はタジタジになりながら答えた。
「縛ったままであそこの草むらに連れて行って、私が世話したんです。
ちゃんとスタンガンで警戒もしましたし、大丈夫でしたよ。」
「ちょっと待てよエリー、世話って・・・・・、まさか・・・・・・・」
「だから・・・・・、その・・・・・・、私が全部やったんです。下着の上げ下ろしも、その・・・・、拭くのも・・・・・」
男達は揃って、『うわぁ・・・・』と言いたげな顔つきになった。
「あっ!でも、ちゃんとトイレットペーパーを使ってですからね!!誤解しないで下さいよ!!フィンガーウォシュレットじゃありませんからね!!」
「そりゃそうだろうが・・・・・、しっかしよく出来たなぁ〜!」
ポルナレフの顔には、『俺にはとても無理』と書いてあった。
半分は感心してくれているのだろうが、もう半分は・・・・・。
彼のそんな表情を見ていると、何だかとてつもない事をやらかしてしまったかのように思えてきて、江里子は居た堪れなくなってしまった。
「だって・・・・、皆さんぐっすり眠ってましたし、そんな事で起こすのも悪いと思って・・・・」
「儂らに気を遣ってくれたのじゃな。ありがとうよ。」
そんな江里子に、ジョースターは優しく微笑んだ。
「だがな、万が一の事があっては大変だ。
この万が一というのは、エンヤ婆に逃げられる事ではなく、君の身に危害が加えられるという事だ。
そうなっては大変だから、今後は君がそこまでする必要は無い。」
「・・・・はい・・・・、すみません・・・・。勝手な事をして・・・・・。」
「いやいや、責めているのではないのだ。誤解をせんでくれよ。」
ジョースターは朗らかに笑って、エンヤ婆に歩み寄った。
「次からは自分でやって貰おう。左手の包帯を解いておくぞ。」
左手は、この辺りの人間にとっては『不浄の手』。つまり、トイレ用の手である。
ジョースターはエンヤ婆の左手の包帯を解き、完全に取り去った。
『うっ・・・・・・・』
晒されたその手を見て、全員が一瞬、ハッとした。
エンヤ婆の左手はやはり、息子のJ・ガイルと同じく、右手だった。
「・・・・・この辺りの連中は左手で用を足すが・・・・・、左手が『左手じゃねえ』場合はどうするんだろうな。」
ポルナレフがとても下らない事を、少しも笑っていない緊迫した面持ちで呟いた。
それに対して誰も笑わなかったし、窘めもしなかった。
その不気味な2本の右手を前に、皆、それぞれに何かを考えていた。
江里子は、さっきのエンヤ婆の言葉を思い出していた。彼女の言葉が、頭の中でグルグルと回り続けていた。
「・・・・さん・・・・、江里子さん?」
「エリー、お〜いエリー!」
「っ・・・・・・!」
気がつくと、花京院とポルナレフが、江里子に呼び掛けていた。
反射的に顔を上げると、承太郎も江里子を見ていた。
「ボサッとしてねぇで、さっさと支度するぜ。」
「あ、は、はい・・・・・・!」
江里子が我に返ると、承太郎はフイと背中を向けて向こうへ歩いて行った。
ポルナレフや花京院も、それぞれに食料の包みを取り出したり、不要な荷物を馬車に積んだりし始めている。
彼等の背中を見つめながら、江里子はまた、心の中でエンヤ婆の言葉を反芻していた。
4人の若者の影。
影の大きさが同じなのは、迷いの証。
そのうちの1人は、もう二度と会う事は出来ないが、彼に対する想いは確かにまだ消えていない。
そして、今目の前にいる3人に対しても、確かに同じ想いを抱いている。
今までそれを、友情や信頼や仲間の絆と思うようにしてきた。
だが、それはやはり違っていたのだろうか。
この想いはやはり、愛に飢えた女の恥知らずな恋慕以外の何物でもないのだろうか。
― 私は・・・・・
決して口に出せないその想いは、江里子の胸の中で熱く燻るばかりだった。