星屑に導かれて 25




パキスタン国境の町・ラホールは、大勢の人で賑わう大きな町だった。
そして、まず強い印象を与えたのが、江里子に対する地元の男性達の好奇の視線だった。
最初は気付かなかったのだが、町を歩く内に次第次第に気になり始め、江里子はとうとうジョースターの背後に身を隠すまでになった。


「ふぅむ、しまった。そこまで考えが及んでおらんかったわい。
イスラム社会では、女性は肌を見せてはならんのじゃ。露出の激しい大胆なファッションは勿論、半袖や普通の膝丈程度のスカートも、脚のラインが出るピッタリしたジーンズですら駄目らしい。」

ジョースターは自分の身体で江里子の姿を通行人達の目から隠しながら、困ったようにそう言った。


「えぇっ・・・・・!?」

ジョースターの陰で、江里子は顔を引き攣らせた。
そう言われてみれば、道行く女性は皆、長袖長ズボンで大きなストールを頭から被っている。
それどころか、真っ黒なワンピースと頭巾で本当に全身黒ずくめになっている女性も少なくなかった。
それはどうも重苦しそうで、見ているだけで息が詰まりそうだった。


「じゃあ私もあんな風に、全身真っ黒にならなきゃいけないんでしょうか?」
「ええぇぇーーーッ!?冗談じゃねぇぜ!!」

それに大反発したのはポルナレフだった。
彼は何故か江里子以上にショックを受けた顔で、猛然とジョースターに抗議を始めた。


「そりゃあ俺だって、エリーがそこらの汚ねぇ野郎共にジロジロ見られるのは我慢ならねぇが、だからってあんな格好させろってのか!?冗談じゃねえ、この俺のフランス人としてのセンスが許さねぇよあんなモン!
大体、女が肌やボディラインを見せちゃあいけねぇって、ナンセンス極まりねぇ風習だぜ!!
女が肌を見せずして、人類の繁栄はねぇってのによぉ!!イスラムの男共はインポ揃いなのかぁ!?」
「落ち着けポルナレフ。何だその無茶苦茶な論理は。江里子さんに失礼だぞ。あと地元の方々にも。」
「おいおい、儂に突っかかってこられても困るぞ。儂が決めた事じゃあないんだから。」

花京院とジョースターはポルナレフを窘めて落ち着かせてから、揃って溜息を吐いた。


「しかし、こうジロジロ見られっぱなしなのも落ち着きませんね。」
「うむ。まあ、エリーが外国人旅行者なのは見れば明らかじゃし、常に儂らと行動を共にしておれば危ない目にも遭わんだろうし、何も地元の風習に染まる必要はないとは思うが、何かしらの対策は必要なようじゃのう。
ほれ、あのようなストールの1枚も調達しておけば、随分とマシになるんじゃあないかな?」

ジョースターはそう言って、通りすがりの女性を気付かれないよう指さした。
地元民らしきその女性は、鮮やかな色柄をした綺麗なストールを被っていた。


「ホテルを取ったら、すぐに買いに出掛けよう。日が暮れてきたら、店が閉まってしまうだろうからな。」
「はい。すみません、お手間を取らせてしまって。」
「なぁに、気にするな。」

江里子がジョースターに恐縮していると、横でアンが不満そうな声を上げた。


「ねぇねぇ、あたしの分はぁ!?」
「ヘッ、お呼びじゃねぇよクソガキャア。オメェのようなションベンくせぇガキを、誰が色目で見るってんだ。」
「んだと電柱コラァ!!」
「んだコラやんのかぁ!?」
「やめなさいってばもうっ!」

アンとポルナレフの喧嘩が、またまた始まった。
どうもこの二人、ウマが合わないのか、逆に波長が合いすぎているのか。
ともかく江里子は、この二人の間に割って入って仲裁に励んでいた。


「・・・だったら、俺と行くか?」

その騒動の中、承太郎がボソリと、しかし存在感たっぷりの声でそう言った。その深緑の瞳が自分を見ている事に気付き、江里子はポカンとした表情で自分を指差した。


「え・・・・?私、ですか?」
「お前の服を買いに行くのだろう?」
「ええ、まあ・・・・・」
「俺も服屋に用がある。用があるモン同士行きゃあ良い。そう思って誘っているんだが?」
「はぁ・・・・・・・」

承太郎のその誘いは、想定外にも程があった。
咄嗟に言葉も出なかった程に。
















それがどういう事かに気付いたのは、承太郎と二人で目についた仕立屋に入った時だった。


「いらっしゃいませ!ま〜あ、外国の方!」

店の女主人らしき中年の女性が、にこやかに江里子達に擦り寄ってきて、こうのたまったのだ。


「中国の方?日本の方?まぁ、お若くて素敵なご夫婦だこと!こちらには新婚旅行でいらっしゃったのかしら?
旦那様はお背が高くてハンサムで逞しいし、奥様はとってもお可愛らしい方で、よくお似合いだわぁ!」
「・・・・・・・え・・・・・、えぇっ!?」

束の間、唖然としてから、江里子は盛大にうろたえ始めた。
承太郎の言った通り、単に服の新調が必要な者同士、一緒に買いに来ただけだったのだが、傍から見るとそんな風に見えるのだろうか。
デートどころかハネムーンに間違われるなんて、それこそ完全に想定外だった。
しかし、江里子は知らなかったのだ。
イスラム圏において、女性が夫や親族以外の男と出歩くのは有り得ないという事を。


「ちっ、違いますっ、あの・・・・!日本人は日本人ですけど、私達は夫婦じゃあ・・」
「服を誂えて貰いてぇ。こいつにはストールを、俺にはコイツを。」

まずは誤解を解こうとあたふたしている江里子をよそに、承太郎はさっさと本題に入り、ズボンのポケットから用意してきたメモを取り出して、女主人に見せ始めた。


「日本の服で、学生服という。色は黒、素材はウール、ジャケットのボタンは金ボタン。デザイン画を用意してきたから、この絵の通りに作って欲しい。」
「あらまあ、随分変わった服ですこと!」

女主人は手渡されたメモを職人の目付きでしげしげと眺め、難しそうに唸った。


「とても変わった服だわ、こんなの見た事がない・・・・・。ところで、この絵はあなたね?」
「ああ、そうだ。」
「じゃあ、着てみるとこうなるという意味の絵なのね?」
「ああ、そうだ。」

承太郎が用意してきたのは、スタープラチナで描いた学生服姿の自身の絵だった。
ズボンはあちこち焼け焦げて綻びながらもまだ何とか履けているが、
上着の方は完全に燃え尽きてしまっていて、とても持って来られる状態ではなかった上に写真もないので、こうして絵を描いてくるより他に方法がなかったのである。


「仕立て料は十分弾む。ただし急ぎだ。明日の朝までに仕上げて欲しい。出来るか?」
「うぅ〜ん・・・・・、そうですねぇ・・・・・・。何ぶん初めて作るデザインですからねぇ・・・・・、お急ぎとなると、相当にお値段が・・」
「構わねぇ。千ルピーでも2千ルピーでも支払うぜ。」
「にせっ・・・・・・、よござんす、お引き受けしましょッ!」

商談は随分さっさと成立した。
大きな目を更に大きく見開き、キラキラ、いや、ギラギラさせ始めた女主人は早速、店の奥から従業員らしき男達を呼び付けてきた。


「では、旦那様の方は寸法を測らせて頂きますわね!
さてさて!それで、奥様の方はドゥパッター(ストール)をお求めでしたわね!」
「あ、いえ、ですからあの、違うんです・・・!」
「えっ?違いますの?じゃあカミーズ(シャツ)の方かしら?それともシャルワール(パンツ)?
でもご安心下さい奥様、3点セットで、最高級のシルクの生地でお作りさせて頂きますわよ!
刺繍も装飾も、お好きなものをお好きなだけお申し付け下さいませね!旦那様のガクセーフクと合わせて、2千ルピーきっちりでやらせて頂きますから!」
「いえ、ですからその・・・・・!」

2千ルピーという破格の報酬に目が眩んでいる女主人は、江里子の話に耳を傾けようとはしなかった。
途方に暮れた江里子は、助けを求めようと承太郎の肘を引っ張った。


「ちょっと、承太郎さん!何とか言って下さい!凄い勘違いされてますよ!」
「別に構やしねぇだろ。」

しかし承太郎は、全く動じてなどいなかった。


「実害は何もねぇんだ。好きなように呼ばせときゃあ良い。」
「ぐっ・・・・・・・・!」

しどろもどろで言葉に詰まった江里子を見て、承太郎は小さく鼻で笑った。
なに照れてんだとからかうようなその意地の悪い瞳に、頬がカァッと紅潮するのが自分でも分かった。


「さぁさ奥様!生地はどれがよろしゅうございますかしら!
地元の女性はビビッドな色を好んで着ますのよ!
でも日本の女の人、パステルカラーもよくお似合い!薄いピンクや水色を買っていかれる方、とても多いです!」
「あ、あの・・・・・」
「新婚さんだから白はいかが!?それとも、いっそセクシーに黒!?
黒地にゴールドの刺繍、旦那さまが大喜びよ!きっとすぐに可愛い赤ちゃんを授かるわ、ウフフフフ!」
「あ、赤ちゃんって・・・・・!ち、違うんです!だからそうじゃなくて・・・!」
「さあ、寸法もお測りいたしましょうね〜!
大丈夫、パキスタンの女性の服、とてもゆったりしています。お腹が大きくなっても十分着られますからねぇ♪」
「っ〜〜〜〜!!!」
「プッ・・・・、クックック・・・・・」
「そこ!なに笑ってんですか!」

結局江里子は何ひとつ誤解を解けないまま、女主人の勢いに流され尽くしたのだった。




「明日の朝一番で受け取りに来る。宜しく頼んだぜ。」
「はい、お待ちしています〜♪」

店を出ると、江里子はぐったりと溜息を吐いた。
それを見て、承太郎が煙草に火を点けながら小さく笑った。


「何だ、珍しく冴えねぇ顔してるじゃねぇか。いつもお袋と服を買いに行く時は、行きも帰りも浮かれて上機嫌なくせによ。」
「だって・・・・・」

人のペースに一方的に巻き込まれるのは、結構疲れるのだ。
江里子は少しだけ唇を尖らせた。


「・・・・別に、機嫌が悪い訳じゃあありません。お店の人に流されまくった自分を反省しているだけです・・・・・。」

店の女主人に流され尽くした結果、江里子はパキスタン女性の民族衣装一式をオーダーしてしまっていた。しかも、店で一番高価なシルク生地で、見るからに手間のかかりそうな緻密なダマスク柄の刺繍入りのものを。
更にその上、出来上がりは明日の朝だと手ぶらで帰されかけたのだ。
それでは困ると慌てて訴えると、既製のストールを1枚サービスして貰えたので、何とか当初の目的は果たせたのだが。


「駄目ですね、こんな事じゃあ。言われるままホイホイ買っちゃあいけないって、頭ではちゃんと分かってたのに・・・・。」
「何を気に病んでるんだか知らねぇが、服の一揃いぐらい構やしねぇだろ。貧乏性にも程があるぜ。」
「ほっといて下さい、どうせ貧乏人ですよ。ああ、ジョースターさんに謝らなきゃあ・・・・・」

江里子が苦悩していると、承太郎は紫煙を吐き出しながら、心底下らないとでも言いたげに鼻で笑った。


「お前がオーダーした服は、日本円にすりゃあせいぜい500円程度のモンだ。
つまり、代金2千ルピーの内訳は、ほぼ俺の服という訳だ。」
「でも、私が予定通りストール1枚にしておけば、もっと安く・・・」
「たとえお前が何も買わなくても、あのババアは2千ルピー請求した。
何故なら、俺の学ランは、あのババアの店にとってはそれだけ難しい注文だからだ。Do you understand?」
「ぅ゛・・・・・・・」

それ以上言い返せなくなり、江里子は頭から被ったストールの陰に顔を隠した。
まろやかなカスタードクリーム色の、綺麗なストールだった。
不本意に高価な物を買わされてしまったが、おまけに貰ったこのストールが思いのほか素敵だった。
素朴な綿素材だが、柔らかくて肌触りが良い。
色味も、中にどんな色の服を着ても合いそうな感じだった。


「もうすぐ暗くなりそうだな。さっさと帰るか。」
「はい。」

江里子は承太郎について歩き出した。つかず離れず、1歩2歩ほど下がった辺りを。
今日びの若い女性達にはナンセンスだと叫ばれている、昔ながらの男女の立ち位置だ。しかし、頭をストールで覆ってこうして歩くと、人々は途端に江里子に注目しなくなった。
イスラム社会と昔の日本は、男女関係において、とても共通点が多いのだろう。
つまり、この辺りの国々では、昔に美徳とされた女の振舞いをしていればOKという事なのだろう。
その是非はおいておくとして、それっぽく見えるように振舞う事自体は、日本人の江里子にとってはさほど難しい事ではなかった。
それにしても、承太郎は歩くのが速い。
ちょっとぼんやりしていると、すぐに置いて行かれてしまいそうだ。
割と負傷しているのに、そんな事は少しも感じさせない様子で。


「・・・・あの」
「何だ?」
「さっきの怪我は・・・・・、もう大丈夫ですか?」

承太郎は江里子をチラリと一瞥して、ああと答えた。


「でも、本当に良かったです、無事で。一時は生きた心地がしませんでしたよ。てっきり承太郎さんが焼け死んじゃったかと思って。」
「フン。」
「本当、この旅に出てきてから、ショッキングすぎる光景ばっかり見てる気がします。
普通だったら、とっくに発狂して頭がおかしくなってる筈ですよ。
そもそも私、怖いの駄目なクチですから。」

江里子はクスクスと笑って、承太郎を見上げた。


「・・・だけど、自分でも意外な位、大丈夫なんです。
勿論、怖い目に遭っている最中は凄く怖いんですけど、でもいつの間にかまた、笑ってるんです。
それはやっぱり、承太郎さんや皆さんのお陰なんですよね。
どんなに怖い目に遭っても、皆さんがいればきっと大丈夫なんだ、って。
私最近、そう思えるようになってきたんです。
だから、死なないで下さいね?私を必ず、日本へ無事に連れ帰って下さいよ?」

江里子が笑いかけると、承太郎はフッと目を細めた。


「・・・フッ、そりゃあ逆だろ?俺達を無事に連れ帰るようにお袋に頼まれたのは、お前じゃあなかったか?」
「そうでした。ふふっ。」
「フン。」
「さ、アンにおやつでも買って帰りましょうか!」

歩き出そうとして、江里子はあ・・・と呟いた。


「何だ?」
「さっきの服の受け取り、明日の朝ですよね?」
「それがどうした?」
「いえ・・・・、確かアンも、明日の朝一番の飛行機に乗せるって、ジョースターさんが仰っていたような・・・・・」

それを聞いて、承太郎は眉を顰めた。
彼がそうする理由は、江里子にも分かっていた。


「やれやれだぜ・・・・・」

今こうして服を買いに来るだけでも、アンは大層ごねていた。
自分も一緒に行きたいと大騒ぎするのを、すぐにお土産を買って帰って来るからと宥めすかして、ホテルに置いてきたのである。
明日の朝も二人で出掛けると言えば、そしてお前は飛行機で帰るんだと言えば、あのアンの事だ。今度は間違いなく、ジョースターを突き飛ばしてでもついて来るだろう。


「申し訳ないんですけど、明日は承太郎さん一人で受け取りに来て貰えますか?
私はアンの見送りに、ジョースターさん達と一緒に空港へ行こうと思うんです。」

仮にも勤め先の御子息相手に小間使いのような事を頼むのは気が引けたが、この辺りの物騒な国々では、江里子は一人で出歩く事を固く、固く、禁じられてしまっている。
そうである以上、ここは承太郎に頼むより仕方なかった。


「・・・フン」

承太郎も、嫌だとは言わなかった。















翌朝、朝食を済ませると、承太郎は一人でさっさとホテルを出て、昨日の仕立て屋に出向いた。


「いらっしゃいませ。ま〜あ、昨日の旦那様!」

女主人は承太郎の顔を見ると、満面の笑みを浮かべて寄ってきた。


「昨日頼んだ服は出来てるか?」
「勿論でございますとも!奥様の分も揃えて、ちゃあんと仕上げてございますことよ!」

女主人は誇らしげにそう言い切ってから、ふと気付いたように承太郎の周りをキョロキョロと見回した。


「あら?今日は奥様は?」
「今日は連れて来てねぇ。別に問題ねぇだろ?」
「まあ奥様の服は、試着しなくても問題は無いですけど・・・・・。
ですが旦那様の方は、一度ご試着頂かないと。万が一、着られないという事があるといけませんのでねぇ。」
「分かった。」

仕上がったばかりの学生服を手渡され、承太郎は試着室に通された。
生地の手触りや黒の色合いこそ、元のものとは少し違っていたが、着てみると殆ど遜色はなかった。
胸回りや袖ぐりのゆとりも、詰襟の張りや固さも、ちょうどいい加減だった。
幾ら精密とはいえ、スケッチ画1枚の資料で、たった一晩で、よくぞこれだけの物を作れたと、承太郎は内心で大いに感心していた。


「んまぁ〜ッ、よくお似合いで!!」

試着室を出ると、女主人が甲高い声で承太郎を褒めちぎった。


「あたしも長年ここで店をやってますけれども、こんな変わった服のご注文は初めて・・」

しかし、賛辞を聞いている暇はなかったし、また聞きたいとも思っていなかった。
承太郎は千ルピー札を2枚、女主人の目の前にビッと突き出した。


「先を急ぐ。勘定だ。女の服も早く寄越しな。」
「あ、は、はい、ただいま・・・・・」

女主人は狐に摘まれたような顔をしながら、奥から紙袋を持って来て承太郎に差し出した。


「こちらです。どうぞ、中をご確認下さい。」

袋の中を覗いて見ると、江里子が昨日選んでいた、ピンク色の生地の服が入っていた。
それが分かれば、わざわざ広げてまで詳しく確認する必要はなかった。
女の服など、どうせ見たって何も分からないのだから。


「じゃあな。」
「ま、まいど〜・・・・」

承太郎は紙袋をぶら提げ、さっさと店を出た。


「さてと・・・・・・・」

次は空港へ向かわねばならない。
香港へのフライト時刻に間に合うように。
全く、今日は朝から慌ただしい日だ。


「やれやれだぜ・・・・・」

承太郎は溜息をひとつ吐くと、通りを走っていたタクシーを呼び止めた。
















一方、空港では。


「やだやだやだやだぁッ!!!」

地上に下ろされたジェット機のタラップを前に、アンが激しい抵抗を見せていた。


「あたしも一緒に行きたい行きたい行きたーーーいッッ!!」
「ちょっ・・・・、アン・・・・・・!」
「連れてって連れてって連れてってーーッッッ!!」
「アンってば・・・・・・!」

アンはどうにか飛行機に乗せようとするジョースター達から逃げ回った挙句、江里子の身体にまるで子猿のようにしがみ付き、てこでも離れなくなった。


「ねぇエリーからもお願いしてよぉ!!エリーだってあたしと一緒の方が楽しいでしょお!?こんなむさ苦しい男ばっかりじゃあ、エリーだって息が詰まっちゃうでしょお!?」
「い、息なら今詰まりそうなんだけど・・・・・!そ、そんなにしがみつかないで、苦しい・・・・!」
「アン、やめないか!いい加減に諦めて、飛行機に乗るんだ!」
「いやだあーーーッ!!」

花京院が厳しく諌めたが、アンは一向に聞き入れようとはしなかった。
何せこれだけ修羅場を潜ってきている子である、殴られたって蹴られたってきっとめげないだろうに、基本的に物静かで紳士な花京院が口で叱った程度で、大人しく引っ込む訳がないのだ。


「ったく、往生際の悪いガキだぜ!いい加減にしろってんだよ!」

基本的にうるさくて短気なポルナレフが、とうとうアンを後ろから羽交い絞めにして、江里子から力ずくで引き剥がした。


「ぐっ・・・・、放せ!放せよ!変なとこ触るんじゃねぇ!」
「うるせぇ!人聞きの悪い!」
「やだやだ!!あたしも一緒に行くーッ!!」

ポルナレフに拘束されて流石に動けはしないが、それでもアンは駄々をこね続けた。
何というパワー、何という執念。
江里子は感心しつつも、思案に暮れていた。
連れて行ってやる事は絶対に出来ない以上、どうすればこの子を諦めさせる事が出来るのだろうか、と。


「っ!?」

その時、ジョースターがアンの頭に手を伸ばした。
殴られると思ったのか、アンは反射的に身を竦ませたが、ジョースターは勿論アンを殴りはせず、ただその大きな手でアンの頭に優しく触れただけだった。


「お嬢ちゃん。儂の娘、承太郎の母親は、今、命の危機に瀕しておる。」
「ぁ・・・・・」
「娘の命を救う為、儂らはこの旅を続けておるのじゃ。
家出などやめて、お家に帰りなさい。君のご両親もきっと心配しとるぞ。」

優しい微笑みだった。
旅に出る直前、実家の父親に挨拶に行った時の事を、江里子は思い出した。
帰りの車の中で、落ち込む江里子を慰めてくれた時と同じ、温かくて優しい、父の表情だった。


「・・・・・・・・」

アンはすっかり勢いを失くし、抵抗をやめた。


「・・・ほらよ。」

大人しくなったと分かり、ポルナレフはアンを解放してやった。


「ちぇ・・・・・、分かったよ。ここはジイちゃんの顔を立ててやらぁ。」

するとアンは渋々といった顔で、ボソボソと呟いた。
そして、オーバーオールのポケットから小さく畳んだ紙切れを取り出し、江里子に差し出した。


「これは?」
「あたしの・・・・住所。本当は渡したくなかったんだ。何としても旅の終わりまでついて行くつもりだったから。だけど、万が一の為に・・・・・、書いてきた・・・・・」
「アン・・・・・・・」

寂しそうにしょげたその顔を見ていると、つい、言ってはいけない事を口走りそうになった。
香港のアンの両親に連絡を入れて、彼女の無事と、そして旅の継続を知らせ、あと少し、あともう少しだけ、一緒に行く事は出来ないのか、と。
だが、アンの身の安全を願うなら、それは絶対に言ってはいけない事も分かっていた。江里子はグッと奥歯を噛み締め、そのジレンマと闘っていた。


「手紙、書くからさ!家に帰ったら、すぐ書くからさ!」

先に笑顔を取り戻したのは、アンの方だった。


「旅を終えて、日本に帰って、その手紙読んだらさ、エリーもすぐ返事書いてよ!返事が来るの、あたし待ってるから!」
「アン・・・・・・」
「こっから先の旅がどんなだったか、承太郎のお母さんがちゃんと助かったのか、全部全部、書いて知らせてよ!絶対よ!約束だからね!」
「うん・・・・・!絶対絶対、返事書く・・・・!約束するわ・・・・・・!」

江里子はどうにか涙を堪え、アンと同じように、明るい笑顔を浮かべて見せた。


「気をつけてね、エリー!無事を祈ってるわ!」
「ありがとう・・・・!アンも気をつけて帰るのよ!」
「うん!」

最後に固い抱擁を交わすと、アンはタラップへと向かった。
しかし、ふとそこを登る足を止め、周りをキョロキョロと見回した。
承太郎を探しているのだ。もしかしたら、急いで用事を済ませて、見送りに駆けつけてくれているのではないかと。
ついて行く事が叶わないなら、せめて最後に一目、顔を見てお別れが言いたい。
そんなアンの乙女心は、同じ女である江里子には手に取るように分かった。
しかし、どうやらジョースターには、乙女心は少々理解し難いようだった。


「ん?どうした?」
「・・・別にっ!」

ここで素直に承太郎の事を口に出来ないのが、乙女心というものなのだ。
アンはつっけんどんに返事をすると、少し拗ねたように、吹っ切るように、タラップを駆け上っていった。


「あばよ!さよならだけが人生さ!!」

飛行機の中からアンのつっぱった捨て台詞が聞こえてきた瞬間。


「あ・・・・・、承太郎さん!」

いつもの学ランに身を包んだ承太郎が、姿を現した。


「承太郎さん!間に合って良かった!早く早く!!」

江里子はピョンピョン飛び跳ね、手招きをして、承太郎を呼んだ。
タラップが回収され、飛行機がゆっくりと滑走路を走り出したのだ。
まだ顔の見える高さにいる内に、江里子は何としてもアンと承太郎を会わせたかった。このパーティーの中でたった一人、アンの幼くも純粋な恋心を理解出来る仲間として。


「早く承太郎さん!急いで下さい!走ってってば!!」
「うるせぇ。走らなくても間に合うぜ。」

必死な江里子とは対照的に、承太郎は至ってクールだった。
慌てず騒がず、走り始めた飛行機の横を歩いていった。


「バイバイ、ジョジョーッ!お母さん絶対助けなよーッ!!応援してるからーーッ!!」

やがて、アンの叫ぶ声が微かに聞こえてきた。
ちゃんと会えたのだ。
最後にもう一度、顔を見る事が出来たのだ。
機体を突き抜け、エンジン音をかい潜って聞こえてきた元気なその声に、江里子は思わず笑った。


「おい、今あのガキの声がしたよな!?」
「信じられない声量ですね。他の乗客も、さぞ吃驚した事でしょう。」
「迷惑かけてなきゃあ良いけどなぁ。」

承太郎が空を見上げると、ポルナレフと花京院とジョースターも、苦笑しながら同じように見上げた。
その中を、遥か東を目指して飛び立っていく飛行機を。


― またね、アン、約束は必ず・・・・・・!

眩しい太陽の輝く青い空を見上げて、江里子はアンとの約束と再会を、しっかりと心に刻みつけたのだった。


















パキスタンは、1947年にインドから分離・独立した新しい国家である。
しかし、日本人が原始の生活をしていた頃、ここには既に文明があった。インド大陸5千年の歴史を今に受け継ぐのが、ここ、パキスタンなのである。
パキスタン国内には、その悠久の時が遺してきた、数々の貴重な建造物や遺跡があった。しかも、そうそう気軽に来られる場所でもない。
しかし一行は、寄り道ひとつする事もなく、陸路、国内を南下していた。
インダス河沿いにひたすら車を走らせ・・・、そう、またも車中の旅である。
国境の町・ラホールからパキスタン中部の都市・ムルタン、ムルタンから世界遺産モヘンジョ・ダロ近くの都市・サッカルへと、丸2日間、ひたすらに走り続けたのだった。

そして、車中の旅3日目。




「お・・おはようございます・・・・・」

朝、ホテルのレストランに現れた江里子を見て、ジョースターが目を丸くした。


「おお、エリーか!誰かと思ったわい!」
「や、やっぱり変・・・ですよね・・・・・」

ジョースターの視線に居た堪れなくなり、江里子はモジモジと俯いた。
江里子は今、先日仕立てたパキスタン女性の民族衣装に身を包んでいた。
淡いピンクのシルク地に、金糸で施された繊細なダマスク刺繍が美しく映える、エレガントな衣装だ。
それ自体に問題はない。デザインや縫製には勿論、生地が透ける訳でも、露出が高い訳でもない。
只々、その衣装を纏った自分の姿に自信がなかったのである。自分で着てきておいておかしな話ではあるが。


「それかね?この間、ラホールの町で仕立てたという服は?」
「は、はい。折角作って貰ったものですから、荷物にしてただ持ち歩くだけなのも勿体ないと思って・・・・。
それに、ここで着る方が、日本で着るより目立たないでしょうし・・・・・・。
でもやっぱり、似合いません、よね・・・・・」

ジョースターはコーヒーを飲みながら、隣の椅子で煙草を吸っている承太郎の方を向いた。


「日本の女の子は皆こうなのか?」
「さあな。」
「・・・やれやれ。」

ジョースターは少し大袈裟な感じの溜息を吐くと、ニカッと笑ってみせた。


「ずぇーーーんぜん!!!メッチャ似合っとるわい!!
ベリー・ベリー・ビューティフォーじゃよ!!もっと自信を持ちなさーい!!」

そして、誰もが振り返るような大声で、こんな事を叫ぶではないか。
そこら中の人に注目されて、江里子は激しく狼狽した。


「ちょっ・・・、ジョースターさん!そんな大声で・・・・・!」
「ボンジュール・ア・トゥース!」
「おはようございます、何事ですか、って・・・・、うわぁ。」

江里子が一人で泡食っているところへ、ポルナレフと花京院がやってきた。


「よくお似合いじゃあないですか、江里子さん!」
「い、いやそんなこと・・・・・!」
「そうじゃろう。なのにエリーときたら、まるで自信がないんじゃからのう。」
「そりゃあダメだぜエリー!もっと自分に自信を持たねぇとよ!この俺のようにな!!」

あなたの場合はちょっと自信過剰なんじゃあ・・・と言いそうになるのを我慢していると、ポルナレフが江里子の周りをグルグル回って、色んな角度からチェックするように眺め始めた。


「ん〜、エキゾチックで良いじゃあないの〜!
それでなくても野郎ばっかの殺伐とした汗臭ぇ旅なんだからよ、紅一点のオメェが綺麗にめかし込んでくれるのは大歓迎だぜ!」
「べ、別にそんなつもりで着てきた訳じゃあないんですけど・・・・」
「良いじゃねぇか。ソイツを着てりゃあ子孫繁栄、結構な事じゃあねぇか。」

意地の悪い笑みを浮かべて、横から口を挟んできた承太郎に、ポルナレフが首を傾げた。


「子孫繁栄?何だそりゃ?どういうこった?」
「ソイツを着て誘惑すりゃあ、男が大喜びしてすぐに孕むんだとよ。」
「「ブフォーッ!!」」

承太郎のその発言に、ジョースターと花京院は、飲んでいたコーヒーを盛大に吹き出した。


「ゴッホゴホ・・・・!な、何じゃあそりゃあ!?」
「ゲホッ、ゴホッ・・・・!な、何て事を言うんだ承太郎・・・・!え、江里子さんに失礼じゃ・・・ゲホッ、ゲホッ、ゴホォッ・・・!」
「マジかよエリー!そういう事はますます大歓迎だぜぇ!
まぁベーベはちと気が早ぇと思うからよ、まずはちゃあんと防御策を講じた上で、じっくりゆっくり、二人の愛を確かめ合ってだなぁ・・」
「ちっ、違いますよ誤解です誤解!!」

あっという間に、江里子達のテーブルは大騒ぎになった。
抱きついてくるポルナレフを突き放しつつ、コーヒーが気管に入ったらしい花京院の背中を擦りつつ、江里子は必死で否定した。


「ちょっと承太郎さん!!変な事言わないで下さいよ!!」
「俺は仕立屋のババアの受け売りをしただけだぜ。」
「そりゃ確かにそんなような事を言ってましたけど、でもそれは今と状況が違ってたでしょうが!あの時は私達が夫婦と間違われていたから・・・」
「何じゃそりゃあ!?承太郎、お前いかんぞぉ!結婚もしとらんのに子供をこさえるような真似をしちゃあ!」
「ゲッホゲホゴホ・・・・・!」
「あああ花京院さん、大丈夫ですか!?あのジョースターさん、誤解しすぎです!そんな事してませんから!」
「そういう事ならよ、今夜の宿は同室にしような、エリー♪もち、ベッドはダブルで!キャッホーッ☆」
「あなたは誤解が酷すぎますよポルナレフさん!!何がキャッホーなんですか!」
「やれやれだぜ。」

注文を取りにきたウェイターが困り果てて立ち往生しているのにも暫く気付かず、江里子達はすったもんだの大騒ぎを繰り広げたのであった。




















サッカルを出て、本日の目的地は、いよいよパキスタン最大の都市・カラチである。
夜までには到着し、翌日には船でアラビア半島へ上陸するというのが当座の目標だった。だから今日もまた、寄り道は一切なしである。
あの有名なインダス文明の遺跡、モヘンジョ・ダロなど、少し足を伸ばせば行ける距離にあるというのに、そこにさえ立ち寄る事は叶わなかった。
この旅は、只の観光旅行や冒険旅行ではないのだから。
こうしている間にも、ホリィの命の灯は、刻一刻と弱まっているのだから。
かくして一行は、今日も今日とて、ひたすら車でパキスタン国内を南下し続けていた。



「しかし承太郎、よく日本の学生服がパキスタンで仕立てて貰えたのう。サイズもピッタリだ。」
「ウール100%よ。」

またもや岩山ばかりの殺風景な景色である。
そこをひたすら走っているだけだと、退屈極まりない。
寄り道しての観光は出来ないが、お喋り位は出来るという事で、一行は断続的に他愛のない会話を続けていた。


「ポルナレフ、運転は大丈夫か?霧が相当深くなってきたようだが・・・・」

助手席の花京院が、心配そうにそう言った。
言われてみれば確かに、辺りが随分と白く霞んでいる。
最初はいつの間にか曇ってきたなという程度にしか思っていなかったのだが、これは雨ではなく、霧だった。


「ああ、ちょっち危ないかなぁ・・・・。何しろすぐ横は崖だし、ガードレールはねぇからなぁ・・・・」

ポルナレフは、この間とはうって変わった安全運転をしながら、そう答えた。
今走っている道は、彼の言う通り、ガードレールのない崖の一本道なのだ。
少しでも運転を誤れば、即・お陀仏という、難易度Sクラスの危険な道である。
カラチへはここを抜けるのが一番早いという地元民の情報を信じてこのルートを取ったのだが、江里子にとっては、やはり正直、生きた心地のしない地獄道だった。
乗り物にあまり強くない江里子は、いつもならば窓際や端の座席を希望するのだが、今はジョースターと承太郎に挟まれて、後部座席の真ん中に座っていた。
端に座ると外が見えて、しかも車が屋根のないジープである為に奈落の底のような崖下が丸見えで、卒倒しそうになるからだ。
車はやがて、町のゲートなのだろうか、門のような建造物を通過した。
すると、谷の下に建物の群れらしき物影が見えてきた。
走るにつれて次第にその物影がくっきりしてくると、それが町である事が分かった。
それも、なかなか人の多そうな、美しい建物の多い町だった。


「うむ、向こうからどんどん霧が来るなぁ・・・・」

ジョースターは懐中時計を見て、決断を下した。


「まだ3時前だが、しょうがない、今日はあの町で宿を取る事にしよう。」

誰も異論は唱えなかった。勿論、江里子も。


「良いホテルがあるかなぁ。」

ポルナレフは、あの町のホテルに期待を寄せているようだった。


「良いホテルって?」

花京院がそう尋ねると、ポルナレフは即答した。


「もち!良いトイレがついてるホテルよ!!俺、いまいちインド・西アジア方面のフィンガー・ウォシュレットは馴染めんでよぉ。」
「あ〜、分かります。いい加減、水洗トイレが恋しいですよね。」

江里子も思わず同調したその時、隣に座っている承太郎が『うっ・・・』と声を詰まらせた。


「どうしたんですか、承太郎さん?」
「・・・・・・・・・」
「まさか、車酔いですか?」

向こうを凝視したまま何も言おうとしない承太郎に、江里子は不安を抱いた。
まさかこの男に限って車酔いなんて事はないだろうが、しかし、万が一という事もある。とりあえずエチケット袋の準備はしておこうと、荷物に手を伸ばしかけたその時、承太郎はフッと緊張を緩めた。


「・・・・いや、何でもねぇ・・・・・・・」
「うん?」

ジョースターも怪訝な顔で首を捻ったが、承太郎がそれ以上また何も言わなくなったので、そのままになった。
江里子も何も言わなかった。
具合が悪そうな声には聞こえなかったし、しつこく大丈夫かと訊き続けても、却って自己暗示にかかって気分が悪くなる事があるので、何も言わないでおこうと考えたのだ。
それが全く見当違いの気遣い、大きな間違いだった事に気付くのは、もう少し後の事だった。


















谷を下りると、町に着いた。
霧が深くてぼんやりとしか見えないが、アラビアンナイトの世界を再現したかのような、エキゾチックな風景のとても素敵な町だった。


「なかなか綺麗な町じゃないか。人口は数千人というところだな。」

ジョースターは、殆ど歩くような速度でゆっくりと進む車の中から、町を眺めてそう言った。


「あのレストランで、ホテルはどこか聞きましょう。」

花京院が、すぐ目の前にあったレストランの看板を指さした。
なかなか立派な店構えの、高級そうなレストランだった。


「そうじゃな、そうしよう。半端な時間じゃが、何なら食事にしても良いのう。」
「衛生的で、美味そうな料理を出す店ならな。んじゃ、車停めるぜ。」

ジョースターの言葉に余計なひと言を付け足してから、ポルナレフは駐車出来そうなスペースを探し始めた。
幸い、ほんの少し先で丁度良い場所を見つける事が出来たので、一行は全員で車を降りて、レストランまでの僅かな距離を歩き始めた。


「しかし、妙に物静かな町だな。今までは大抵、ドワァーーッて感じの雑踏だったのによぉ。」

ポルナレフの言う通り、この町はやけに静かだった。
これまで立ち寄ってきたパキスタン国内、インド、ミャンマー、もっと遡ればタイも、ガラクタの入った箱をぶちまけたかのような雰囲気の町ばかりだったのに、この町だけが異質な感じだった。


「霧が出てるせいじゃろう。」

ジョースターのその言葉に一応は頷きながらも、江里子はどこか腑に落ちずにいた。
確かに、濃い霧が出ている。だが、その割に人通りが多い。
そんなものなのだろうか?
普通、こんな悪天候ならばさっさと家に帰りそうな気がするが。
そう考えるのは、自分が霧に慣れていないからなのだろうか?ましてこれ程の濃霧は初めてだから。
小さな違和感に、江里子は首を捻った。


「この辺は霧が多いんでしょうか?これだけの霧なのに、何だかこの町の人達は全然気にしてなさそう・・・・。」
「確かに、言われてみればそうですね。皆、とても平然としている。よほど霧に慣れているのでしょうか・・・・。」

江里子のその疑問に、花京院も同調した。
どこが変かと訊かれると、的確な答えが出せないのだが、何かがすっきりしない。
そんな気持ちを密かに抱えつつ歩いていくと、さっきのレストランに着いた。店の前には、ドアマンらしき大柄な男が立っていた。


「良いか、皆!パキスタンより西のイスラム世界じゃあ、こう言うんじゃ!」

ジョースターは江里子達に向かって、レクチャーを始めた。


「まずスマイルで!」

そして、人懐っこい陽気な笑顔を作ると、レストランのドアマンに歩み寄っていった。


「アッサラーム!アレイクム!」

溌剌とした大きな声と、弾けるような若々しい笑顔の、実にフレンドリーな挨拶だった。
強いて言えば、少々声が大きすぎる気がしないでもないが、しかし、悪印象は絶対に与えない筈だった。なのに。


「・・・・・・・」

ドアマンは無反応だった。
返事をするどころか眉ひとつ動かさず、ジョースターを見ているのかいないのかも分からないような、不気味な無表情で立ち尽くすのみだった。


「・・・うぅぅ、ぅ・・・・」

ジョースターの笑顔が、ぎこちなく強張った。ここまでとりつく島もない様子だと、流石の彼もどうして良いのか分からないのだろう。
そもそもこのドアマン、ドアマンというよりはまるで番人のようなのだ。
客を歓迎するというより、何人も立ち入らせないとばかりにドアの真ん前に立ち塞がっているのである。
パキスタンの田舎町のレストランに、香港やシンガポールの高級リゾートホテルのサービスを求めようとは思わないが、それでもこの態度は如何なものだろうか。
無愛想を通り越して薄気味悪ささえ感じさせるような、こんなドアマンなら、いっそいない方が良いのではないだろうか。


「な、何なんでしょうか、この人・・・・・?」

江里子は声を潜め、日本語で承太郎と花京院に話しかけた。
その瞬間。


・・・バン!!


「ひゃっ・・・・!」

突然、大きな音がして、江里子は小さく悲鳴を上げた。まさかこのドアマン、日本語が分かるのだろうかと一瞬怖くなったが、そうではなかった。


「い、い・・・・」

その音は、ドアマンが店先の『OPEN』の札を裏返した音だった。


「あ、あのじゃなあ、ハッハッ、いきなり『CLOSED』にする事もないじゃろう。」

ジョースターは、益々笑顔を引き攣らせた。
当然だ。
ここまで露骨に入店を拒否されれば、誰だってそうなる。
いや、ジョースターだから、笑顔が引き攣る位で済んでいるのだ。
これがポルナレフだったら、多分、えらい事になる。
江里子は内心でハラハラしながら、ジョースターとドアマンのやり取りを見守った。


「ちょいとものを尋ねるだけじゃよ。この町にホテルはあるかな?」

シィィ〜ン。
ドアマンは腕組みをしたまま、微動だにしない。


「えぇー・・・・・」

ジョースターは暫し何事かを考え込むと、受話器を耳に当て、ダイヤルを回す仕草をした。


「もしもーし!?」

今、この状況で出来る範囲の、精一杯のジョークのようだった。
すると、ドアマンはようやく、その石よりも固い口を開いた。


「・・・・知らないね。」

但し、それだけだった。
ドアマンはそれだけをぶっきらぼうに告げると、意外な程静かな足取りで、店の奥へ消えていった。


「えっ!?お、おい、ちょっと待て!知らないとはどういう事だ!?」

ジョースターは彼を追いかけようとして、突然、ハッと立ち止まった。


「え・・・・!?」

立ち止まったジョースターは、しきりと目を擦り、何度も瞬きをした。
そして、目を凝らして、ドアマンが消えていった方を凝視していた。


「な、何じゃあ、あのオヤジ・・・・・?気のせいか・・・・?」
「どうかしたんですか、ジョースターさん?」
「・・・・・・いや、何でもない・・・・・。」

江里子が声を掛けると、ジョースターは諦めたようにレストランから目を逸らした。
しかしその表情は、何でもないという風には見えなかった。
ジョースターは、何が気になったのだろうか?
江里子はそれを訊きかけたが、しかしほんの僅かの差で、ポルナレフが先に声を発した。


「アンタの発音が悪いから、きっとよく聞き取れねぇのさ。あそこに座ってる男に訊いてみよう。」

ポルナレフはそう言うと、レストランのすぐ側の道端に座り込んでいる男の方へ歩いていった。
男は中東人のような頭巾を被っていて顔が見えなかったが、陽気で、そして、自分の強さに絶対的な自信のあるポルナレフにとっては、大した問題ではないようだった。


「おっさん!すまねぇが、ホテルを探してるんだがよ、トイレの綺麗なホテルが良いんだがよ、教えて・・・えっ!?」

次はポルナレフの番だった。
ジョースターに負けず劣らずにこやかに行った彼が、ギョッとして立ち竦んだのだ。


「おい、お前!どうした!?」

ポルナレフが肩を掴むと、男はゆっくりと、仰向けに倒れた。
その拍子に、男の顔が江里子にも見えた。
眼球が飛び出んばかりに目を見開き、ドジョウひげを生やした口元は舌が長く伸びきり、今にも断末魔の叫びを上げそうな感じに大きく開かれ、歪んでいて。
更にはその口の中からトカゲが2匹、チョロチョロと這い出てきたではないか。


『何ィィィーーーッ!?!?』
「キャーーーッ!!」

男達も、江里子も、叫び声を上げずにはいられなかった。


「死んでいる!恐怖の顔のまま死んでいるッ!な、何だこいつ!?何で道端で死んでいるんだ!?死因は何だ、心臓麻痺か!?脳卒中か!?」

男の死に顔を見て、ポルナレフはそう叫んだ。
叫ばずにはいられない程、酷い形相だったのだ。
何度も見たくはない。
江里子は死んだ男から目を逸らし、落ち着け、落ち着けと、自分に言い聞かせた。


「・・・かも知れん。だが、只の心臓麻痺じゃなさそうだな。」

承太郎が、死んだ男に近付いた。


「えぇ!?あっ・・・・!け、拳銃だ・・・・!この男、拳銃を握っているぞ!」

ポルナレフがまたも叫んだ。
それを聞いて、花京院が、『今気付いたのか・・・・』と呆れた声で呟いた。
そして、花京院のその声で、江里子は初めて拳銃の事に気が付いたのだった。



「煙が出ている・・・。発砲したんだ。」
「つい今撃ったばかりじゃ。2分前か5分前か・・・・。いずれにせよ、儂らがこの町に着くほんのちょっと前・・・・。」

承太郎やジョースターの言う通り、銃口からは細い煙がたなびいていた。
映画や何かで見たままの煙だ。あれが硝煙というものなのだろう。


「自殺か!?ピストル自殺!?」
「いや違う。ざっと見たところ、死体に傷は無いし、血も全然出ていない。」

ピストルを発砲したと聞き、ポルナレフは自殺の可能性も考えたようだったが、それは花京院がすぐさま否定した。
確かに、ピストル自殺をしたならば、死体は血まみれになっていなければいけないだろう。
しかし男は、ふた目と見られぬ恐ろしい苦悶の形相を浮かべてはいるが、怪我らしい怪我や、出血らしい出血はないようだった。


「じゃあ何でコイツは死んでいるんだ!?見ろよ!凄ぇ恐怖で叫びを上げるようなこの歪んだ顔を!」

となると、ポルナレフの言う通り、男の死因がさっぱり分からなくなるのだ。
こんな形相になるのなら、きっと自然死や突然の病死などではない。
余程の苦しみを味わわねば、こんな表情にはならない筈なのだから。


「分からん・・・・。この男、一体この銃で何を撃ったのか・・・・・。何が起こったんじゃ・・・・。」

百戦錬磨のジョースターにも、どうやらまるで見当がつかないようだった。


「誰も気付かないのか、町の住人は?」

花京院は辺りをキョロキョロと見回し、10歳前後の少年を連れた母親らしき女性を見つけて、『そこの人!』と呼び止めた。


「すまない、人が死んでいる!警察を呼んで来てくれ!」

花京院の声に、まず最初に、少年が振り返った。
次に、女性が振り返った。女性は腕に赤ん坊を抱いていた。


「はっ・・・・・!」

女性の顔を見て、花京院は絶句した。


「ひっ・・・・・!」

花京院の隣にいた江里子も、女性の顔を見て息を呑んだ。
ストールから覗く彼女の顔は、酷い吹き出物だらけだったのだ。
しかもそれがひとりでに潰れて、黄色い汁を垂らすのである。
あまりの気持ち悪さに、江里子は思わず目を背けた。


「・・・失礼しました。ちょいとニキビが膿んでしまっておりまして。」

女性は片腕で顔を隠すと、花京院に返事をした。


「ところで、あたくしに何か用でございましょうか?」
「っ・・・・、警察に通報を頼むと言ったのだ!」
「警察?」

女性は腕を下げ、再びその顔を曝け出した。


「何故ゆえにぃ〜?」
「うっ・・・・・、見ろ!人が死んでいるんだぞ!!」

花京院が指し示した死人に、女性は関心がないようだった。
彼女は頬一面に広がっている吹き出物を爪でポリポリと掻きながら、抑揚のない声で答えた。


「・・・おやまあ。人が死んでおるのですか。それで、私に何か出来る事は?」
「警察を呼んできてくれと言ったろうが!!」
「ハイハイ、警察を呼ぶんですね。分かりました。ニキビが膿んでもて、痒うて、痒うてのう・・・・・」

女性は少年と共に踵を返して、向こうへ歩いていった。
その後ろ姿を呆然と見ながら、花京院は我慢の限界が来たかのように、口元を手で押さえた。
あの女性に対して失礼なのは百も承知だが、その気持ちは分かる。
江里子とて、もう少しで本当に胸が悪くなりそうだったのだ。
それに加えて、あの不気味なまでの無関心さ、話の噛み合わなさ。
まるで人間ではない生き物と会話をしていたような気味の悪さだった。


「大丈夫ですか、花京院さん?」
「ありがとう・・・・、大丈夫です・・・・・」

花京院は辺りをキョロキョロと見回し、顔を引き攣らせた。


「何だ、この町の人間は・・・・?人が死んだというのに、野次馬が集まるどころか、誰も見向きもしない・・・・!」

何処かの屋根の上で、鳥がギャアと鳴いた。軽やかな小鳥の囀りではない、死肉を餌にする鳥が発するような、気持ちの悪い声だった。


「銃が発砲されているというのに、誰も気付かないのか!?ニューヨークや東京などの大都会以上に無関心の人々だ・・・・!」

花京院の言う通り、通行人の誰も、江里子達を見ようともしなかった。
これ程大きな声で話したり叫んだりしているのに、これ程の騒ぎが起きているのに、誰も彼も無言で往来を行き来したり、ただ座り込んだりしているだけで、江里子達の周りには一切近付いて来なかった。


「・・・あの犬・・・・」

承太郎がふと呟いた。
彼の目は、すぐ近くをノソノソと歩いている野良犬を見ていた。


「あの犬がどうかしたんですか、承太郎さん?」
「・・・・・・いや・・・・・」

承太郎は、江里子に何も答えなかった。さっきのジョースターとよく似た反応である。こんな反応をされると、却って気になるのに。


「何かますます霧が濃くなってきたぜ・・・・・」
「町は霧でスッポリという感じだな。」

ポルナレフと花京院が、辺りに立ち込めている霧を見てそう言った。
二人の言う通り、霧は依然として発生し続け、視野がどんどん白く霞んできていた。


「薄気味悪いな。何かあの部分、ドクロの形に見えないか?」

ポルナレフはそう言って、霧の渦巻く上空を指さした。
確かに、霧が渦巻き上昇して、空で塊を作っている。
その形が、言われてみれば・・・・、髑髏のようにも見える。
そこへ不意に稲妻が光って、江里子は思わず悲鳴を上げそうになった。


「どうするジジイ?まさか新手のスタンド使いの仕業じゃねぇだろうな?」
「うぅむ・・・・、考えられん。動機が無い。」

承太郎とジョースターは、男の死体をまじまじと観察し始めていた。


「追手が無関係の男を、我々が町に着くより前に殺すじゃろうか?殺すとしたなら一体何故じゃ?」
「だが、万が一って事もあるぜ。死に方が異常だ。警察が来る前に、なるべく触らんように死体を調べてみようぜ。」
「うむ。」

ジョースターは胸ポケットからペンを取り出し、それを使って器用に死体の服のポケットを広げ、中を覗いた。


「どうやらこいつ、我々と同じ旅行者のようじゃなあ。バスとか列車のチケットを持っておるぞ。」

死体のポケットの中には確かに、乗車チケットと見られる紙が何枚か入っていた。


「それにインド人のようだ。インドの紙幣を持っている。この町の人間じゃあないぞ。」

江里子達は黙ってジョースターを見守っていた。
ポケットを確認し終わると、ジョースターは次に、死体のシャツの襟の部分をペンで少し捲った。


「おおっ!傷だ!喉の下に十円玉ぐらいの傷穴があるぞ!!これか、死因は!?」

江里子はとてもそんな気になれなかったが、花京院とポルナレフはジョースターの隣にしゃがみ込み、死体の傷を覗き込んだ。


「しかし、何故血が流れていないんだ?こんなに深くデケェ穴が開いてるんなら、大量に血は出るぜ。・・・普通ならよ。」

二人に場所を空け渡していた承太郎は、一歩離れたところでそう呟いた。
冷静な、静かな声だった。
だが、何かの確信を持ったような、強い意思の篭った声だった。


「どうやらこいつはもう、普通の殺人事件じゃねぇようだ。
俺達には知っとく必要がある。構う事はねぇ。服を脱がせようぜ。」

承太郎は素手のまま死体の服に手をかけ、ひと思いに剥ぎ取った。
そしてその瞬間、江里子達は、とんでもない光景を目にした。



『うっ!!』
「うげぇっ!!」
「いやあっ!!」

死体は全身、穴だらけだった。


「な、何だこの死体は!穴がボコボコに開けられているぞ!トムとジェリーの漫画に出てくるチーズみてぇに!!」

ポルナレフが実に的確な喩え方をした。
冗談めかした喩えだが、しかしそれを口にした本人は真剣そのもので、勿論、誰も窘めようとはしなかった。


「それにどの穴からも、一滴も血が出ておらん!どういう殺され方なんだ!?どんな意味があるのだ!?」

ジョースターの言う通り、死体の穴からは一滴たりとも血が出ていなかった。


「後から拭き取ったようにも見えませんよ・・・・・・!」

少し慣れてきた事もあり、江里子も思わず口を挟んだ。
死体の傷は最初から、全く、一滴の血も出てはいなかった、そうとしか思えない状態だった。
そんな事があるのだろうか?
指先を僅かに針で突いた時にさえ、血は吹き出すというのに。


「気をつけろ。新手のスタンド使いが近くにいるという可能性がデカくなったぜ。」

承太郎の声が、益々緊張感を帯びた。
この町は普通ではない、危険だ、彼はそう判断したのだ。


「皆!車に乗ってこの町を出るんじゃ!!」

ジョースターは皆にそう指示をした。
彼が不可解な行動を取ったのは、その一瞬後の事だった。


「あっ!!何ィィィーッ!!」
『うん?』
「え?」
「バカなーッ!車じゃあないッ!」

ジョースターは何故か、槍のように先端の尖った鉄柵の上に飛び乗ろうとしていた。
そして、自分でそうしておきながら、慌てふためいていたのだ。


「うおおぉぉーーーッ!!おおおーーッ!!!ハーミットパープルーッッ!!!」

ジョースターの身体が、鉄柵の先端の僅か上でピタリと止まった。
どうやら近くの電柱に向けてハーミットパープルを発動させ、それをロープのように使って落下を食い止めたようだった。
だが、残念ながら完全には止めきれないようで、ジョースターの身体はまたジリジリと落下を始めた。


「うぐぐぐぐ、うぐぐ・・・、ぐ、ひぃぃッ!ひえぇぇぇーーッ!!」

鉄柵の先端が背中にチクリと刺さり、ジョースターは大声で悲鳴を上げた。


「ちょっ・・・、ジョースターさん!何やってるんですか!?」
「・・・おいジジイ、一人で何やってんだ?アホか。」

江里子と冷ややかな目をした承太郎が見守る中、ジョースターは何とか自力で着地し、そのままぐったりと座り込んだ。


「ひぃっ・・・、ふぅっ・・・・、オーノーッ!!何やってるんだってぇ!?今ここに車があったじゃろう!!」
「えぇ?車ぁ!?車ならさっきあそこに停めただろうが。」

ポルナレフは呆れたように、親指で車を示した。


「えぇ!?い、今確かに・・・」

ジョースターは、狐に摘まれたような顔をした。
彼に一体何があったのだろうか?
ともかく、鉄柵にチクリとやられた背中は無事かと訊きかけたその時、霧の中から『コォン・・・コォン・・・』という、不思議な音が聞こえてきた。


「おお・・・・?」
「どうしたんですか、ジョースターさん?」
「あれは・・・・・・」
「え・・・?どれですか・・・・?」

江里子はジョースターの視線を辿ってみた。
すると、車の向こう、霧の中に、人影らしきものが見えてきた。




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