少し進むと、前方に『CAFE』と大きく書かれた看板を掲げている店が見えてきた。
「街道の茶屋か・・・・。少し休んでいこう。」
ジョースターの提案で、一行は一旦車を降り、その店に立ち寄る事となった。
「ゆっくり行けば、あの車に遭わんで済むかも知れん。」
今日も早朝からずっと車に乗りっぱなしで疲れているという事もあったが、ジョースターには、さっきのあの赤い車をやり過ごしたいという思いもあるようだった。敵と決まった訳ではないが、只の気の荒いドライバーにしては確かに少し異様な感じもする。
どのみち関わり合いになりたくない輩には違いないので、避けるに越した事はなかった。
「そうですね。日本には『急がば回れ』という諺もありますし、ちょっとここで時間を潰していきましょう。」
「あたしも喉乾いちゃったぁ!」
江里子はアンと連れ立って、ジョースター達の後をついて行った。
『MARHABA』という名前らしいその店は、精一杯良い表現をすれば、オープンテラスっぽいカフェだった。
「何だこりゃ?・・・・うえっ!くっせぇ!!」
江里子とアンのすぐ後ろを歩いていたポルナレフが、店の外壁に貼り付けられている丸くて平べったい泥団子のような物の匂いを嗅いで、思いっきり顔を顰めた。
「えっ、そんなに臭いんですか?」
「おうよ、オメーも嗅いでみろよぉ、エリー!」
「えぇーっ!?嫌ですよ!」
ポルナレフと小競り合いをしていると、花京院が苦笑しながら江里子達を振り返り、その泥団子の正体を教えてくれた。
「そりゃあ臭いでしょう。それは牛の糞と藁を混ぜたものですから。
そうやって壁に貼り付けてカラカラに乾燥させると、燃料になるのだそうですよ。」
「うげーーッ!!ウンコだったのかよぉ!!」
「へぇ〜っ!さすが花京院さん、本当に何でも知ってるんですね!」
「いや、それ程でも。」
「ったくインド人って奴はよぉ〜、どーしてこう不潔な事ばっかりしやがるのかねぇ!?フランス人の俺には、とっても受け入れられねーわ!」
「ポルナレフさんたら。店の人達に聞こえますよ。」
江里子は、失礼な事を大声で言い放つポルナレフの脇腹を肘で小突いて窘めた。
彼の言う事は、個人的にはよく理解出来る、殆ど同感だと言っても良い位なのだが、こんな事で店の中の地元民達と喧嘩沙汰にでもなったら、目も当てられない。
「そうやって何でもズケズケ言うのは良くないですよ。」
「だって本当の事じゃねーかよ。」
ポルナレフに説教しつつ、そして口答えをされつつ店に入ると、オープンスペースのテーブルに客が4人いた。
3人組と1人客のようで、テーブル2卓に分かれて座っていた。
建物の中に入ると、店主らしき人物がいた。いずれも全て男性だった。
「それ、何だい?」
店主が何か茎のようなものを潰して汁を絞っているのを見て、ジョースターは彼に尋ねた。
「サトウキビジュースだよ。飲んでみる?」
「うむ、そうだな・・・・」
店主はサトウキビの汁の入ったグラスに、レモン汁を少し絞り入れ、ニコニコと愛想の良い笑顔でジョースターに差し出した。
萌黄色のそのジュースを見て、江里子は思わず唾を飲み込んだ。
サトウキビの甘い果汁にレモンの酸味が加われば、きっと爽やかな甘さのジュースになるだろう。
江里子は、ジョースターがその想像通りの反応を示すのを待っていたのだが。
「うん!?何ッ!?」
ジョースターはグラスを傾けかけていた手を止めて、突然、勢い良く後ろを振り返った。それに釣られて、江里子達も一斉に後ろを振り返った。
すると、店の前に生えている木の下に、例の赤い車が停まっているのが見えた。
「や、奴だ!!あの車がいるぞ!!」
そう叫んだポルナレフに、承太郎が鋭い視線で目配せをした。
ポルナレフもそれに油断のない表情で頷き、江里子達に『ここにいろ』と言い残して、承太郎と二人で車に近付いて行った。
江里子達は、遠巻きに二人の様子を見守っていた。
二人が近付いていっても、車からは誰も降りて来なかった。
程なくして、承太郎がハッとした表情で店の方を振り返った。
「どうやら、車には誰も乗っていないようですね・・・・・」
承太郎のその様子を見て察した花京院が、声を潜めて言った。
「じゃあ、この中の、誰かが・・・・・・」
江里子は、店の中にいる男達を見た。
ウイスキーか何かのグラスを持っている、灰色の髪の、顔に傷のある男。
煙草を吹かしている、スキンヘッドの男。
マグカップを持った、長い髪の男。
3人組の客は、いずれも胡散臭そうな連中だった。
一人で座っている中年の男性は、ごく普通の善良そうな人に見えるが、しかし、見た目で判断するのは危険だ。
店の主人は除外するとしても、この中の誰が、あの赤い車のドライバーなのだろうか。
「オヤジ、ひとつ訊く!!あそこに停まっている車のドライバーは、どいつだ!?」
「さ、さあ、いつから停まっているのか、気が付きませんでしたが・・・・・」
ジョースターの質問に、店主は大きな目をキョトンとさせながらそう答えた。
「とぼけて名乗り出てきそうもないですね・・・・」
「ふざけやがって・・・・!」
花京院がヒソヒソと呟くと、戻って来ていたポルナレフが苛立ちを露にした。
「うぅむ・・・・、この場合、やる事はひとつしかないな、承太郎!」
「ああ。無関係の者はとばっちりだが・・・」
ジョースターに応えて、承太郎は三人組の男性客らを指差した。
「あぁ?」
そこでこちらの殺気を気取ったのか、三人の男達が振り返り、承太郎達の方を見た。
「全員ブチのめす!!」
承太郎の鶴の一声で、花京院以外の男連中が全員、3人組に向かって一斉に襲い掛かっていった。
「お、おい、承太郎!やめろ!!ジョースターさんまで、やりすぎです!!」
承太郎は顔に傷のある男を、ジョースターはスキンヘッドの男を、それぞれ掴み上げ、壁に叩きつけ、引きずり倒し・・・と、有無を言わさず痛めつけ始めた。
それを花京院が止めに入ったので、江里子とアンはポルナレフの方を止めようと、彼の元に駆け寄った。
「テメェのようなツラが一番怪しいなぁ!?」
「そ、そんなぁ・・・・・!」
ポルナレフはポルナレフで、長髪の男性の胸倉を掴み上げ、拳骨を振り上げていた。
「やめてポルナレフさんっ!やめなさいってば・・・・!!」
「テメェ電柱このヤローッ!何やってんだよバカヤローッ!!」
女二人がかりで必死になってポルナレフを止めようとした、その時だった。
バン!と車のドアの閉まる音が聞こえ、江里子達は一斉に振り返った。
『!?』
赤い車は、いつの間にか低いエンジン音を響かせていた。
運転席の窓から、例のごつい腕が確かに出ている。
その様子を唖然と見ていたのも束の間、赤い車は江里子達に後ろ足で砂をかけるが如く、盛大に排気ガスを撒き散らしながら走り去って行った。
「お、俺達、ひょっとして、おちょくられたのか・・・・?」
ポルナレフは、呆然とそう呟いた。
「誰か、奴の顔を見たか・・・・!?」
ジョースターが誰に問うでもなくそう尋ねると、花京院が信じられないという風に答えた。
「い、いえ・・・・。奴は一体どういうつもりだ・・・・!?
頭のおかしいドライバーのようでもあり、追手のようでもある・・・・。」
「くっ・・・・・!追っかけてとっ捕まえて、はっきりさせん事にはイラついてしょーがないぜ!!」
良いようにあしらわれて完全に頭に来たのか、ポルナレフは両拳を忌々しげに握り締め、足早に車に戻って行った。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
江里子とアンは束の間、困惑した顔を見合わせた。
正直、ブチ切れたポルナレフの運転する車には乗りたくないし、あの赤い車も薄気味が悪いし、このままここでお茶でも飲んでやり過ごしたいのだが、男連中は全員、あの赤い車を追いかけて対峙する気満々になっている。
そうである以上、『お荷物』としては従うより他にない。
それにやはりあの赤い車は、こちらをつけ狙っているとしか思えなかった。
あの様子では、江里子達がここを動かずにいても、また戻ってきて何かしら仕掛けてくるだろう。
「行こう、アン・・・・」
「うん・・・・・・」
江里子はアンを促し、ポルナレフ達に続いて車に駆け込んだ。
席に着いてシートベルトを締めるや否や、ポルナレフは思いっきりアクセルを踏み込んだ。
「さっきのトラックとの正面衝突の恨みもあるしなぁーッ!!」
「ポルナレフさん、お願いだから安全運転で・・・・・!」
危なっかしい崖の道をかっ飛ばしていくポルナレフに、江里子はせめて、そう懇願せずにはいられなかった。
そうして、一行が嵐のように去って行った後に残されたのは、ポカンとした顔の客達と店の主人だけだった。
逃げる車に追う車、まばらに木の生えている岩山の一本道をカーチェイスすること暫し。
「くそっ・・・・、あのボロ車、やけにスピード出るじゃねぇか・・・・・!」
飛ばせども飛ばせども何故か追い付かず、ポルナレフは焦りさえし始めているようだった。
やがて、『SYRIE』という標識が前方に見えてきた。
その下に、『PAKISTAN』と書かれた矢印型の標識がついている。
赤い車はその矢印の指し示す方へと走っていったので、ポルナレフも迷わずそちらにハンドルを切った。
その標識は支柱がひん曲がっておかしな格好で立っていたが、この時は誰もそれを不自然に思っていなかった。
もしこの時、その不格好な標識に少しでも疑いを持っていたら、一度でもブレーキをかけていれば、地面に落ちている『DANGER ROAD CLOSED(危険 行き止まり)』のプレートを発見し、敵の罠に嵌るのを免れたかも知れない。
しかし実際には、赤い車の後を追い、岩山をひたすら登って行った。
それが大間違いだと最初に気付いたのは、花京院だった。
標識を通過して少しすると、花京院は首を捻りながら、地図を捲り始めた。
「・・・おかしいな。地図によると、この辺は鉄道と平行して走る筈なんだが・・・」
「どうでもいいぜ。すぐ捕まえるからよぉ!」
花京院のその疑問を、ポルナレフはまともに聞き入れなかった。
赤い車に散々煽られて、完全に頭に血が上っていたのである。
「や、野郎・・・・・!あそこのカーブで絶対捕えてやるぜ・・・・!」
カーブを曲がる時はどうしたって減速しなければならない。死にたくなければ、普通は。
ポルナレフはそこを狙い、あの赤い車を一気に捕まえようというつもりのようだった。
カーブで捕り物劇だなんて、よほど自分の運転に自信があるのだろうが、江里子としては正直、怖くて仕方がなかった。
その恐怖を必死で抑えていると。
「うわっ!?馬鹿なぁッ!?行き止まりだぁッッ!!」
「きゃあああっ・・・・!」
ポルナレフが突如、急ブレーキを踏み、思いきりハンドルを切った。
そう。そこは行き止まりだった。
切り立った崖に頼りない吊り橋が架かっているだけで、道が完全に途切れていたのだ。
江里子達の車は、その崖っぷちのギリギリの所で辛うじて停まった。
「奴がいない・・・・!どこだ!?」
「カーブを曲がった途端、消えやがった・・・・・!」
「車じゃあ、吊り橋は渡れないし・・・・・」
ジョースターが、ポルナレフが、花京院が、口々にそう言った瞬間、車の後部に物凄い衝撃が生じた。
『何ィィィーーーッッッ!?!?』
あの赤い車が、何と後ろから追突してきていたのだ。
崖から落ちろとばかりに、何度も、ガンガンと。
「や、奴だ!奴が後ろから・・・・・!」
「どうやって回り込んだんだ!?」
ジョースターと花京院が、焦りも露にそう叫んだ。
「も、もの凄ぇ馬力で押してきやがる・・・・!戦車かこのパワーは・・・・!?」
ポルナレフは必死で抵抗を試みているようだったが、車は確実に、崖の向こうへと押し出されていた。
「うおおおぉぉッッ・・・・・!!もう駄目だッ、皆、車を捨てて脱出しろッ!!」
「はっ、はいっ・・・・・・!」
やがてポルナレフはハンドルから手を放し、シートベルトを外し始めた。
江里子は思わず、それに釣られかけたのだが。
「ポルナレフ!!ドライバーが皆より先に運転席を離れるか普通はッ!?誰が踏ん張るんだ!?」
「・・・え!?」
花京院の叱責に、ポルナレフは引き攣った笑みを浮かべた。
「ご、ご、ご・・・・・、ごめーーーん!!!!」
その瞬間、車は決定的に、崖の下へと押し落とされた。
『おわぁぁぁあぁぁーーーーッ!!!』
崖下へと真っ逆さまに落ちていく衝撃に、皆と一緒に叫び声を上げながら、江里子は密かなデジャヴュを感じていた。
いつかもこんな風に高い所から落ちた。そう、香港沖での飛行機墜落事故だ。
僅か3週間の内に、こんなに落っこちる経験を2度もするなんて、普通はない。
落ちていく恐怖の片隅にそんな呑気な考えがあったのは、『慣れ』のせいだろうか。
この、普通なら一生縁の無いような奇妙な冒険と恐怖に、自分はだんだんと慣れてきているのだろうか。
「ハイエロファントグリーン!!」
江里子がそんな現実逃避めいた事を考えている間に、花京院がスタンドを発動させた。しかしジョースターは、血相を変えてそれを止めた。
「やめろ!!ハイエロファントにはこの重量を支えきるパワーはない!!身体が千切れ飛ぶぞ!!」
「・・・ジョースターさん。お言葉ですが、僕は自分を知っている。馬鹿ではありません。」
恐る恐る目を向ければ、車の前から太いワイヤーのような物が伸びていた。
それが引力に逆らい、崖の上へと伸びていっているではないか。
「うおおぉぉ!!車のワイヤーウインチを掴んで飛んでいたのか!!」
ジョースターは隣に座っているアンを庇いながら、歓声を上げた。
ワイヤーウインチ、車を牽引する為の、フックのついた丈夫なワイヤーだ。
それがどこかに固定されたらしく、車は、危なっかしく揺れてこそいるが、落下は止まった。
「フン。やるな、花京院。ところでお前、相撲は好きか!?」
次いで、承太郎がニヤリと笑い、スタンドを発動させた。
それは江里子の目には勿論見えないが、温度か、オーラか、何となく感覚で分かるものがあった。
狭い車にギチギチに詰まって密着しているせいだろうか。
ともかく、彼の邪魔をしないよう、彼の為にスペースが出来るよう、江里子は可能な限り身を縮めた。
「特に、土俵際の駆け引きを!!」
承太郎は手を前に伸ばして、何かを掴む仕草をした。
「手に汗握るよなぁ!!」
崖下に宙吊り状態だった車体が、空中高く舞い上がった。
同時に派手な破壊音が届き、今度は赤い車が崖下へと落ちていった。
ワイヤーウインチが外れ、江里子達の車は再び地面に叩きつけられるようにして着地した。
「うぅ・・・・・・・!」
知らないうちにぶつけていたのか、何だかあちこち痛い。
だが、一応は無事だった。
「いたた・・・・・・。ええ、相撲、大好きですよ。」
花京院も、打ったらしい頭を押さえながらも、笑ってそう答えた。
この分だと、軽く打った程度で怪我らしい怪我はないだろう。
同じくハンドルに額をぶつけたらしいポルナレフも、ジョースターもアンも、皆、無事のようだった。
「だけど承太郎、拳で殴るのは反則ですね。」
「・・・フン。」
花京院のツッコミに、承太郎は不敵な笑みで応えた。
彼も勿論、掠り傷ひとつ負ってはいなかった。
「良かった・・・・・・、皆無事で・・・・・・・・!」
江里子は安堵し、しみじみとそう呟いた。
鼻で笑う承太郎の小さな声が、また江里子の耳に届いた。
赤い車は完全に崖下へと転落し、爆発、炎上していた。
江里子達は全員で車を降りて、崖の上からそれを確認した。
「スタンドらしき攻撃は全然なかったところを見ると、やはり只の変質者だったらしいな。」
「ああ。どっちにしろ、もう助かりっこねぇぜ。ま、自業自得というやつだが。」
ジョースターとポルナレフが、そう結論付けた。
しかし、そこにアンが、とても重大な疑問を投げかけてきた。
「でも、どうしてかしら?あの車いつの間にか、あたし達の後ろに回っていたわ。不思議なのぉ・・・・。」
その瞬間、突然、音楽のような音が聞こえた。
テン、テテテ、テン・・・・。
電波の悪いラジオのような音だ。
「少しも・・・・不思議じゃあ・・・ないな・・・・」
聞き慣れない不穏なその声に、全員が一斉に振り返った。
「ラジオだ!!カーラジオから聞こえてくるぜ!!」
ポルナレフはランクルを指差しながらそう叫んだ。
「スタンドだから出来たのだ、ジョースター!!」
「何ィィッ!?儂の名を知っているという事は、スタンド使いの追手!!」
「どこからだ!?まさか今落ちていった車じゃあ・・・・!?」
花京院が慌てて崖の下に目を向けた。
「バカな!!メチャクチャな筈だぜ!!」
ポルナレフはうろたえながらそれを否定した。
「・・・いや。車自体がスタンドの可能性があるぜ。」
しかし承太郎は、完全に落ち着き払っていた。
そう。
彼は、そして江里子とアンは、このケースを知っていた。
「船自体がスタンドだった、ストレングスみたいにな。」
江里子とアンは、緊迫した顔を見合わせた。
ベトナム沖で遭遇したあのオランウータンの事を、あの恐怖の体験を、思い出していたのだ。
あの時、承太郎が助けに来てくれなければ、また、もしも彼が負けていたら、江里子もアンもあのおぞましい猿に純潔を穢された挙句、今頃は海の藻屑と化していただろう。
それを思うと、背筋が凍りつくような寒気がした。
「【運命の輪−ホウィール・オブ・フォーチュン−】!これが、我がスタンドの暗示!」
「ホウィール・オブ・フォーチュン!?」
ジョースターが訊き返したその時、突如、地面が振動し、不気味な地鳴りが轟き始めた。
「何だ!?この地鳴りは!?」
「何かヤバいぞ・・・・・」
花京院も、ポルナレフも、顔を引き攣らせている。
「皆、車に乗れ!!」
ジョースターがそう叫んだ。
「いや、乗るな!!車から離れろ!!」
しかし次の瞬間、承太郎が真逆の事を叫んだ。
一体、どちらに従えば良いのだろうか。
焦りと混乱で、江里子はその場から一歩も動けなくなってしまった。
「まさか・・・・・!」
「地面だ・・・・・!」
ポルナレフと花京院は、気付いたようだった。
気付いた瞬間、ランクルのすぐ下の地面が割れ、赤い車が突き上がって来た。
突き上げられたランクルは、完全に彼方へと吹き飛ばされてしまった。
「「きゃああーーッ!!」」
江里子はアンと共に悲鳴を上げた。
誰かに咄嗟に庇われた気がしたが、確認する暇も余裕も一切なかった。
垂直に突き上がって来た赤い車が地面に着地する凄まじい衝撃で、全員吹っ飛ばされてひっくり返った。
「バカな・・・・!地面を掘ってきたッ!!やはり、車自体がスタンドという事が十分分かったぜッ!!」
崖を上ってきた赤い車を目の前にして、ポルナレフはそう叫んだ。
「本体のスタンド使いは、中にいるようだ!」
花京院が叫んだ瞬間、赤い車は突如、不気味な機械音を立て始めた。
その音と共にベコベコの車体が元通り、いや、それ以上に綺麗になって艶光を帯び、形状も普通の自動車のそれから、まるでSF映画に出てくるマシンの如く、強靭でスタイリッシュな様子に変貌していく。
あの猿も粗末なボートを巨大な貨物船に化けさせていたが、スタンドというのは何と凄まじいパワーなのだろうか。
江里子は目まぐるしく変貌を遂げてゆく赤い車、ホウィールオブフォーチュンを、呆然と見つめていた。
「な、何だぁぁーーッ!?」
「こいつは一体・・・・・!?」
「まるで生き物だぁーーッ!!」
あの猿、ストレングスと闘わなかったポルナレフ、花京院、ジョースターは、その壮絶なパワーに圧倒されているようだった。
ホウィール・オブ・フォーチュン。
タロットカードの名前や基本的な知識は、以前、旅の途中でアヴドゥルに習って控えておいた。
何かの役に立つ事があるやも知れない、そうでなくても旅のキーとなる事柄、知っておいて損はないと思って。
「ホウィールオブ・・・・フォーチュン・・・・・」
タロットで10番目のカード。
意味は確か、定められた運命、転機、そして逆位置なら不運。
「変形したッ!攻撃してくるぞ!!」
ポルナレフが叫んだ。
全員身構えたが、ホウィールオブフォーチュンは承太郎一人に狙いを定めて突進していった。
「・・・フン。」
承太郎は、不敵に笑ってそれを待ち受けようとしていた。
「パワー比べをやりたいという訳か。」
「やめろ承太郎!!まだ闘うな!!奴のスタンドの能力を見極めるのだ!!」
「承太郎さん!よけてーっ!!」
ジョースターと江里子が止めようとした瞬間、空気中で何かがキラッと光った。
そして次の瞬間、承太郎の両腕、肩の辺りから、血が噴き出した。
「ぐっ・・・・・!」
『承太郎!!』
「ば、バカな・・・・・・、見えなかった・・・・・」
まるで銃撃でもされたかのようなその傷を、承太郎は呆然と見つめた。
痛みよりも、驚きの方が勝っているような顔で。
「何をどうやって撃ち込んできやがったのだ・・・・・?」
「ヒャーッハッハッハァ!!見えないだとぉ!?ヒャーッハッハッハァ!!今に分かるよ!貴様がくたばる寸前にだけどなぁ!!」
ホウィールオブフォーチュンが、再び突進してきた。
また何かが光り、辺りに飛び散った。
「承太郎!!」
「ぐぅっ・・・・!」
花京院とポルナレフが承太郎を庇い、それに撃ち抜かれて血を噴き出した。
「承太郎!!ポルナレフ!!花京院!!」
「キャアアアアーーーッ!!」
「皆さん、逃げてぇーーッ!!」
駆け寄りたくても、江里子はアンと共にジョースターに庇われ、動く事は叶わない。
何の役にも立たないと知っていながら、またも叫ぶ事しか出来なかった。
「うがあっ!何だこれはぁッ!?深くはないが、抉られてるぜ!!」
「全然見えない!!何かを飛ばしているようだが・・・・、しかし傷口には、何も突き刺さっていない!!」
幸いなのは、見かけより傷が浅そうだという事だった。
ポルナレフも、花京院も、そして承太郎も、ダメージ自体は大した事がなさそうだった。
「大丈夫か、承太郎!?」
「俺の心配はしなくて良いぜ。それより・・・・」
ジョースターにそう返事をすると、承太郎は敵をまっすぐに見据えた。
とどめを刺してやるとばかりに、猛々しくタイヤの回り始めたホウィールオブフォーチュンを。
「どんな技か知らんが、コントロールは良いぜ・・・・・」
「貴様らの!足を狙って走れなくして、轢き殺してくれるぜ!!」
今度の狙いは、一同を一纏めにして轢き殺す事にあるようだった。
「岩と岩の隙間に逃げ込め!!」
「きゃあっ・・・・・・!」
ジョースターは江里子とアンの手を強引に掴み、走り出した。
後からすぐ、承太郎達もついて来た。
全員、全力で走り、岩と岩の間の細い隙間に逃げ込んだ瞬間、そこにホウィールオブフォーチュンが追突してきた。
間一髪、何とか命拾いをした・・・と考えるのは、しかしまだ早かった。
「コソコソ逃げ回るんじゃねーよ!!」
「何ィッ!?」
ホウィールオブフォーチュンは、車のパーツの一部を鍬のような形状に変え、硬い岩肌を削り始めた。
それを見た花京院が、愕然と目を見開いた。
「ゴキブリかテメーらはよぉ!!」
更にはタイヤの向きが変わり、棘が生えて、岩と岩の間に強引に潜り込んで来た。
こうなってはもはや車ではない。まるで戦隊もののTV番組に出てくる変身ロボットである。
「オーッノーッ!!無理やり入ってくるぞ!!」
「こいつは手がつけられん・・・・!」
「喩えるなら、知恵の輪が出来なくて癇癪を起こした馬鹿な怪力男という感じだぜ!!」
ジョースターも、花京院も、ポルナレフも、これには流石に打つ手がないようだった。
「奥へ逃げろ!!」
承太郎の指示で、一同は更に奥へと走り出した。
「あそこじゃ!あの岩を登るぞ!!」
ジョースターがすぐ目の前の崖を指差した。
一見、断崖絶壁のように見えるが、デコボコとした凹凸が沢山あり、さほど高さもなく、登ろうと思えば登れそうな岸壁だった。
「フンッ!!」
先頭を行くジョースターは、とても70近い老人とは思えない腕力と脚力で、スイスイとその崖を登っていった。
その後を花京院、江里子、ポルナレフと続いたのだが。
「あっ!・・・!はっ!?誰もあたしを連れてってくれない!!ああぁぁぁーーッ!!」
躓いて転んだらしいアンが、パニックを起こしてその場で泣き叫ぶ声が聞こえた。
「どうせあたしは家出少女よ、ミソッカスよ!誰にも愛されず一人ぼっちなんだわ!くきぃぃーッ!!死んでやるぅー!」
「アン!」
「ほっとけエリー!」
思わず振り返ろうとするのを、下から来ているポルナレフが止めた。
「あのガキなら承太郎が何とかする!良いからお前はさっさと登れ!!お前が登らなきゃ、俺から下が皆アウトだ!!」
「うぅ・・・、は、はい・・・・・・!」
確かに、それは正論だった。
そしてポルナレフの言う通り、承太郎がアンの救出に向かっていた。
といっても、ポルナレフのすぐ下辺りで、アンの首根っこをヒョイと掴んで持ち上げただけだったが。
「やれやれ、それだけ喋くってる暇があるんなら逃げろよな、このガキが。」
まるで猫の子のように持ちあげたアンをそのまま崖の足場に乗せると、アンは我に返り、ケロッと泣き止んだ。
「あ〜ん、承太郎大好きぃ!!」
そして、思いっきり甘えた声を出して、承太郎に抱きついた。
「鬱陶しいぜ、くっつくな。いいからさっさと登れ。」
「はぁい!」
只でさえ好意を寄せていたところに、こんな風に助けられては、13歳のウブな乙女心などイチコロである。
まるで猫の子のように首根っこを摘み上げられただけでも、本人にしてみればお姫様抱っこで救い上げられたも同然なのだ。
ろくな恋愛経験はないが、それ位は江里子にも簡単に見通せた。
― ハッ・・・、そ、そんな事考えてる場合じゃなかったわ・・・・・・!
ともかく、この岸壁を登りきらねばならない。
江里子は再び上を向き、必死で岩肌を掴みながら登った。
「エリー!」
「江里子さん、手を!」
少し登り進めると、崖の上からジョースターと花京院が手を差し伸べてくれていた。
「うぅっ・・・・・・・!」
江里子はその助けを借りて、ほぼ二人の手にぶら下がるような形で、何とか崖の上へと登りきった。
「ポルナレフ!」
「ほれっ、もう少しじゃ!」
「おうっ、メルシー!」
続いてポルナレフが、江里子と同じようにジョースターと花京院の手を借りて登ってきた。但し、江里子とは違って、殆ど自力で登っていたが。
「アン、儂の手を掴むんじゃ!」
「うん・・・・・・・・!」
アンは、ジョースターが一人で難なく引っ張り上げていた。
そして最後に顔を出した承太郎は、ジョースターとアンがそれぞれ手を掴み、引っ張り上げたのだった。
「ハッヒャアッハッハッハァ!!登るが良いさ!」
全員が登りきった後、崖下にホウィールオブフォーチュンが走り寄って来た。
「お前らには文字通り、もう道は無い!
逃げ道も、助かる道も、エジプトへの道も、輝ける未来への道も無い!!
何故なら、このホウィールオブフォーチュンで、挽き肉にしてこの岩場に、ブチ撒けるからだぁぁーーッ!!」
何という事だろう。
ホウィールオブフォーチュンは、更なる変貌を遂げてみせた。
スパイクタイヤよりももっと太く鋭そうな棘をタイヤいっぱいに生やし、それを使って崖を登ってくるではないか。
「オーノォォーーーッ!!」
「きゃああーーッ!」
江里子は思わず、ジョースターと一緒に叫んでしまった。
「の、登ってくるぞ・・・・!」
「何でもありかぁ、この車ぁぁッ!?」
花京院も、ポルナレフも、すっかり度肝を抜かれていた。
「・・・やれやれだ。やり合うしかなさそうだな。」
承太郎が、そこに立ちはだかった。
一切の手出しは無用と、己が腕で仲間達を制して。
「皆、下がってろ。奴はここに登り上がる時、車の腹を見せる。そこでひとつ、奴とパワー比べをしてやるぜ。」
「なるほど、腹を見せた時なら、攻撃出来るかも知れん・・・・!」
承太郎の立てた作戦に花京院が活路を見出したその時、ホウィールオブフォーチュンがその猛々しい姿を崖下から現した。
「うぅおぉぉぉーーッ!!!」
「ヒャッハッハァ!!元気が良いねぇ、承太郎クン!だがシブくないねぇ・・・・!」
迎え撃とうとする承太郎を、ホウィールオブフォーチュンは嘲笑った。
運転席の窓からその屈強な腕を出して、力自慢でもするかのように、拳を握ったり開いたりしながら。
「うおぉぉぉーーーッ!!!」
その腕は確かに、承太郎のそれよりも逞しい。
しかし、そんな分かり易い力の差などで、あの承太郎が、スタープラチナが、負けるものか。
そう強く念じながら、江里子は固唾を呑んで承太郎の背中を見守っていた。
― 承太郎さん、頑張って・・・・・!
しかし、敵もまた、決して只者ではなかった。
「自分達の身体が何か臭っているのに、まだ気付かないのか!?」
「っ!!」
ホウィールオブフォーチュンのその不穏な言葉に、承太郎は迎撃の手を止めた。
「はッ・・・・・!そう言えばさっきからガソリンの臭いがするが・・・・!」
「あっ・・・・・・・・!」
花京院に言われて、江里子も初めてそれに気付いた。
確かにガソリンの臭いがする。さっきからしている。
ただそれを、今の今まで全く意識していなかった。
追われて追い込まれて、そんな事にまで頭が回らなかったのだ。
敵は車のスタンドで、自分達の車もボコボコになっているのだから、ガソリンの臭い位したって何の不思議もない、そんな無意識的な思い込みもあったのだろう。
「スンスン・・・・・、俺達の身体だ!!俺達の身体がガソリン臭いぞ!!」
ポルナレフが、自分の腕の傷を嗅いでそう叫んだ瞬間、ホウィールオブフォーチュンがまた『それ』を発射した。
空気中に発射されたそれをよくよく見つめると、確かにそれは液体、車のガソリンだった。
「ぬあぁっ・・・・!飛ばしていたのは・・・・・、ガソリンだ!!
ガソリンを超高圧で少しずつ、弾丸のように発射していたのだ!!」
「ま、まさか・・・・、奴の攻撃は傷を負わせる為でなく、ガソリンを滲み込ませる為かぁッ・・・・!?」
花京院にも、ポルナレフにも、敵の意図が掴めたようだった。
「ぬぅっ・・・・!」
しかしその時には、もう遅かった。
承太郎は更にガソリンの弾丸を浴びせられ、上半身がガソリンまみれになっていた。
「気付いたか!しかしもう遅い!!電気系統でスパァァークッ!!」
ホウィールオブフォーチュンは、車体の管を引き千切った。
剥き出しの電線から、バチバチと火花が散ったその瞬間。
「ぬぅあぁぁあッ!!」
承太郎の右上腕、そこに受けたガソリン弾丸の傷口から、炎が噴き出した。
「何ィィィッ・・・・・!?」
あっという暇もなく、炎は承太郎の全身を包み、承太郎は火だるまになった。
『ぬおおおっ!!』
「キャアアァァーーッ!!!承太郎ぉぉーーッッ!!」
「承太郎さーーんっっ!!!」
ジョースター達も、アンも、そして江里子も、突然の惨事に悲鳴を上げる事しか出来なかった。
「ぐわ・・・・、ガァ・・・・・、ウグオォォッ・・・・・!」
程なくして、承太郎は燃え盛る炎に焼かれながら、膝から崩折れた。
「承太郎!!!」
「近付くな、ジョースターさんッ!!我々の身体もガソリンをかけられている!!」
まるで火中にくべられた炭のように黒く焼け焦げていくその無残な姿を目の当たりにして、ジョースターは半狂乱で駆け寄ろうとし、それを花京院に腕ずくで止められてもがいていた。
「承・・・太郎・・・・・さん・・・・・・・」
「エリーッ!」
そして江里子は、その場に崩れ落ち、ポルナレフに抱え込まれていた。
急に足腰に力が入らなくなり、とても立っていられなかったのだ。
「ヒーッヤッハァーッ!!ヒャハハハハハァ!!」
ホウィールオブフォーチュンだけが一人、勝利の高笑いを決め込んでいた。
窓のへりをバンバン叩きながら、楽しくて楽しくて仕方がないという風に。
『承太郎ォォォーーーッッ!!!』
「ジョジョーッ!!」
「じょ・・・・、承太郎さぁぁぁんっ・・・・・・!!!」
皆の必死の呼び掛けが虚しく響く中、やがて承太郎はドサリとうつ伏せに倒れて動かなくなった。
「・・・勝った!!」
勝ち誇ったホウィールオブフォーチュンが、不敵にも天に向かって指を指した。
そして、その指をジョースター達の方に向け、こうのたまった。
「第3部・完!!!イィーッヒヒヒヒ!!ヒャハハハハハ!!!」
ホウィールオブフォーチュンの狂ったような馬鹿笑いを、江里子はただ、聞いている事しか出来なかった。
きつく引き結んだ唇に、塩辛い涙が滲み込んでくる。
どうすれば、ホウィールオブフォーチュンに勝てるのだろうか。
どうすれば、承太郎の仇を討てるのだろうか。
「アハハハハッ、ハーッハハハハ・・」
「・・・・ほう?それで誰がこの、空条承太郎の代わりを務めるんだ?」
そう考えた瞬間、空耳だろうか、承太郎の声が聞こえた気がした。
「ぬぁ!?」
いや、空耳ではなかった。
突然、地面から人の腕が突き出て来た。
「うぇ!?」
地面から、承太郎が顔を出したのだ。
「・・・まさか、テメェのわけはねーよなぁ?」
江里子は大きく目を見開いた。
零れ落ちた涙を素早く拭ってよくよく見ると、確かにそれは平然と笑っている承太郎だった。
「承・・・太郎・・・さん・・・・・!?」
火だるまになった筈なのに、何故平気そうなのだろうか。
理解出来ず、江里子は何度も瞬きをした。
「いぃぃぃ・・・・、スタープラチナで、地面にトンネルを掘ったな!?燃えたのは上着だけかぁ!?」
「フン・・・・。ところでオメェさっき、道が何とか言ってたな。」
地面を抜け出て立ち上がった承太郎は、学ランの下にいつも着ているタンクトップ姿だった。
しかし、露になっている肩や腕に、火傷らしい火傷はなかった。勿論、顔にも。
という事は、タネはホウィールオブフォーチュンの言う通りなのだろう。
ホッとしたらまたまた足腰の力が抜けそうになったのを何とか踏ん張り、江里子は承太郎の姿をしっかりと見つめた。
「・・・違うね。道というものは、自分で切り拓くものだ。
という事でひとつ、この空条承太郎が手本を見せてやるぜ。」
「ひぃっ!?」
「道を切り拓くところのな!」
見えない江里子にも、今なら彼のパワーが、スタンドが見えるような気がした。
「オラオラオラオラオラオラ!!!」
ホウィールオブフォーチュンの車体が、みるみる内にへしゃげていく。
「オラオラオラオラオラオラ!!!」
「つ、潰れるぅ・・・・・!」
やがて、ドアの内側から何かが押し付けられて浮き出た。人の顔のようだった。
「承太郎!!」
「承太郎さん!!やっちゃえーッ!!」
気付けば江里子は、アンと共に拳を握り、それを振り上げて承太郎に歓声を送っていた。
「オラオラオラオラオラオラ!!オラァッ!!!」
とうとう車の中からスタンド使い本体が、ドアごとぶち抜かれて飛び出してきた。
「ギャハァァァッ・・・・!!」
スタンド使いの男は、吹っ飛ばされたその情けない格好のまま、地面を滑っていって止まった。
「・・・・と、こうやるんだぜ。貴様がすっ飛んだ後に、文字通り道が出来たようで、良かった良かった。」
承太郎が珍しく格好をつけてポーズを決めると、男は足をバタつかせ、ガバッと跳ね起きた。
「ヒヒィッ・・・・、ヒエェェェーーッ!!」
浅黒い肌と黒い髪にギョロンとした目をした、地元民らしき男だった。
承太郎に殴られて鼻血などを噴いており、何故か額に小さい穴のような傷も出来てしまっている。
そして何より。
「変テコな奴だな。モリモリで立派なのは腕だけで、あとは随分貧弱だ。ハッタリだな。」
男をしげしげと観察して、花京院は拍子抜けしたようにそう言った。
「本当。何だか私でも勝てそう。蹴りならきっと私の方が強いですよ。」
「ははは・・・・。」
花京院は苦笑したが、江里子は本気でそう思っていた。
それ程に、男は貧相だった。
腕こそ立派だが、背は低いし、腹はだらしなく飛び出しているし、極めつけには根性がない。
「アッアッアッ、アハッ・・・・!」
男は情けなく啜り泣きながら、赤ん坊のように地面を這って逃げようとした。
腰が抜けて立てないのだろう。ホウィールオブフォーチュンの能力は恐ろしかったが、本体はこんな腰抜けだったとは。
怯えて逃げ回った自分が何だか恥ずかしかった。
「アハッ、あぁっ!?ひぇぇっ!?」
男はポルナレフの脚にぶつかり、彼の顔を見上げて更に怯えた。
「おい!逃げるんじゃあ・・・ねぇ!!」
「ギャアアァーッ!!」
ポルナレフに背中を踏みつけられて、男はいよいよ殺されそうな悲鳴を上げ、金切り声で喚き始めた。
「殺さないでぇーーッ!!金で雇われただけなんですぅぅーーッ!!」
『ぎゃっははははは!!!』
全員、爆笑だった。
その後ろでホウィールオブフォーチュンの車体がぎこちない音を鳴らし始め、みるみる内に萎んでいった。
元々の車は、ストレングスの時と同じく、何という事のないボロ車だった。一応、オープンカーではあったが。
「オー、ゴーーッド!スタンドもこんなちっちゃい車をカムフラージュしていたとはなぁ。喩えるなら、毛を毟り取られた羊というところか。情けないのう!」
『ぎゃあーーっはっはっはっは!!』
ジョースターの秀逸な喩えに、一同は益々笑い転げた。
そうして、ひとしきり笑ってから。
「・・・さぁて、こいつの始末をどうつけてくれようかのう?」
ジョースターは不敵な感じに、そのエメラルドグリーンの瞳を光らせた。
「ゴガッ・・・・!モガガッ・・・・!」
目の前の気の毒な男を、江里子はもはや憐憫の目でさえ見るようになっていた。
こちらはこの男に殺されかかった訳であるし、助けてやる義理も、その気もない。
だが、惨い。
あまりにも、惨い。
「ゴガガッ・・・・!ゴガゴガ・・・・!」
男はジョースター達の手によって、『荒行に挑む敬虔な僧侶』に仕立て上げられていた。
大きな丸い岩に、車両用のごついチェーンで身体を海老反りに括りつけられ、がんじがらめにされて、なおかつその状態を地面に杭で固定されて。
「まるで神話のアンドロメダみたい。」
ふと思った事を口にすると、ポルナレフが手を叩いて大笑いした。
「わははは!こーんなブッサイクなアンドロメダがいるかよ!」
「そう。彼はアンドロメダではなく、有り難ーいお坊様ですよ。フフ。・・・さあ、書けた。承太郎、頼むよ。」
傍らで立て札を書いていた花京院がその話に乗りつつ、それを承太郎に託した。
「ああ。」
承太郎はそれを受け取ると、スタンドを発動させ、支柱の部分を地面に深々と突き刺した。
立て札にはこう書かれていた。
『わたしは修行僧です。神聖なる荒行(カトゥー)をじゃましてほどいたりしないでください。』と。
そういえば、ベナレスへと向かうバスの中から、似たような事をしている者を何人も見掛けた。
江里子の目にはとんでもないパフォーマンスにしか見えないが、この辺りの人々にとっては『神聖な修行』らしい。
「・・・でしたね、ふふっ。ありがたや、ありがたや。」
江里子はふざけて、男に向かって合掌して見せた。
するとポルナレフも、横で『アリガタヤ、アリガタヤ』と真似をした。
「ねえジイちゃん!念の為にコイツのポケットの中身も貰っといた方が良いんじゃあない!?」
アンのその提案に、ジョースターはジト目で応えた。
「・・・念の為に言っておくが、そんなはしたない事は金輪際やっちゃあいかんぞ。
今回だけやむを得ず特別に、良いか、特別だ。分かったな?」
「分かってるわよぉ!ヤッホーッ!」
アンは歓声を上げて、括りつけられた男のズボンのポケットを弄った。
ポケットからは、財布と煙草、旅券が出てきた。
アンはいつかのように、財布の中から札とコインをすかさず根こそぎ抜き取ると、残った物を全てジョースターに手渡した。
「全く、ちゃっかりしとる娘だわい・・・・。どれ・・・・」
ジョースターは、男の旅券を開いて中を見た。
「ふむ、ネパール人か。名はズィー・ズィー。うむ。こいつの旅行パスポートを頂いておけば、暫くはインドを出る事も出来まいて。」
「この状態ですしね。」
江里子はジョースターを見上げて笑いかけた。
「だけど、よくこんな事考えつきますね!ジョースターさんのジョークのセンスって、本当、独特です!」
「おぉ?そうかのう?」
「お若い頃からこんなに悪戯好きだったんですか?」
江里子が茶化すと、ジョースターは子供のように無邪気な瞳でほくそ笑んだ。
「・・・フフ、そうじゃのう。若い頃はよく親友に怒られたのう。」
「親友?」
「カッチリした生真面目な性格の奴じゃった。
だがしかし、儂から言わせれば、そいつの女癖の方が100倍は酷かった。
いちいちキチキチして小煩いくせに、女にだけはだらしのない、酷いスケコマシだった。」
「へぇ〜・・・・・!」
「フフ・・・・・」
ジョースターは一瞬、遠い目をして微笑んだ。
少しだけ寂しそうにも見えたが、しかしそれはほんの一瞬の事だった。
「・・・さて。ぶっ壊された車の代わりに、これに乗って国境を越えよう。」
ジョースターはホウィールオブフォーチュン、いや、ズィーズィーの愛車(?)の、赤いオンボロオープンカーに目を向けた。
「随分ボロいですが、国境までもちますかね。」
「ヘウフ!!ヘウーフ!!(ヘルプ!!ヘループ!!)」
花京院も、小さく溜息を吐いた。
「エウフゥッ・・・・・!」
「とにかく出発しようぜ!日が暮れる前に国境の町に着かなきゃいけねぇだろ!」
ポルナレフに促され、ともかく出発する事になった。
男達は青いランクルから荷物を引っ張り出して赤い車に積み込み、江里子とアンは承太郎達の怪我を消毒し、薬を塗って簡単な手当てを施して回った。
ランクルは完全に廃車レベルで再起不能になっていたが、荷物が回収出来ただけ、不幸中の幸いだった。
なお、その横でズィーズィーが絶えず助けを求めていたのだが、耳を傾ける者は誰もいなかった。
「ヘウッ・・・・、ゴッフォェッ!ゴヘッ!ゴホォッ!!」
間もなく、江里子達の乗った赤いオンボロ車は、排気ガスを盛大に撒き散らしながら、砂利道をガタガタと危なっかしく走り始めた。
「あ・・・・・」
走り始めてすぐ、江里子は周りの景色に気が付いた。
岩ばかりの殺伐とした景色ばかりだと思っていたが、いつの間にか目の前に雪を冠した山などが見えて、何とも味わいのある風景に変わっていた。
「・・・どうした?」
「ちょっと素敵ですね、この景色。」
江里子が微笑むと、承太郎は小さく鼻で笑った。
「傷、大丈夫ですか?」
「何て事はねぇ。それよりガソリン臭ぇのと、煙草が吸えねぇ事の方が余程困りものだ。」
ガソリンを浴びている為に火気厳禁という事で、承太郎とポルナレフは、次の町に着いて風呂と着替えを済ませるまで、禁煙を言い渡されていた。
ポルナレフもそうだったが、これが一番堪えるようだった。
「あと、学ランがなくなっちまった事もな。」
「ああ・・・、そうでしたね。この際ですから、この辺りの気候に合う服に買い替えたらどうですか?」
「駄目だね。」
良かれと思った江里子の提案を、承太郎は即座に却下した。
どうも拘りの強い男である。
「はぁ・・・・、やれやれ、若いのに頑固なんだから。」
「人の口癖を奪うんじゃあねぇぜ。それと、オメーは飛行機で香港へ帰すからな。」
「ええぇーーーッ!!!どぉしてぇ!?」
突然の強制送還を宣告されたアンが、盛大に不満そうな叫び声を上げた。
「やかましい!!足手まといになっとんのがまだ分からんのかぁッ!!」
そこにポルナレフの大声も重なり、更には車がバスン!!!と不吉な音まで鳴らす始末だった。
「・・・あ。こりゃダメかも知れんなぁ・・・・」
「エーーウフーーーッ・・・・・!!!」
ジョースターの妙にのんびりした呟きと、
向こうから響いてくる敵の悲鳴と、
アンの反抗する声と、
花京院の苦笑いの声と。
「ふふっ・・・・・・!」
全部がいっぺんに聞こえてきて、静謐な山の風景が一変、笑える位に騒々しくなった。
「シク・・・・・、シクシク・・・・・」
暗闇の中に、香の煙が細くたなびいている。
「シクシク・・・・シクシク・・・・」
燭台にぼんやりと灯る紫色の炎の灯りが、漆黒の闇を僅かに照らす中、老婆は泣いていた。
「シクシクシクシクゥゥ・・・・!!」
惨めに床に這い蹲り、伏して無念の涙を流していた。
「ワシが送り込んだ7人のスタンド使いは敗れ去った・・・・・、面目丸潰れじゃ!!もうDIO様に合わせる顔はのうなった!」
老婆は口惜しげに、その皺くちゃの両手を固く握り締めた。
右手と、右手を。
「ケエェェェェーーッッ!!」
老婆は唾を撒き散らしながら顔を跳ね上げ、頭を床にガンガン打ちつけ始めた。
「おのれ、憎っくきポルナレフ!花京院!そして、承太郎に老いぼれジョースター!!オロローーン!!!」
声の限りに泣き叫ぶと、老婆はすっくと立ち上がった。
「今度はこのエンヤ婆が貴様らの相手じゃ!!」
その老婆、エンヤは、齢七十を軽く越すように見えながら、とても老婆とは思えない速さで走り始めた。
「ワシ自身のスタンド、『正義(ジャスティス)』のカードがのう!!」
部屋のドアを駆け抜けようとしたその時、エンヤ婆は突如、ピタリと足を止めた。
「・・・・そんな所で何をしておる」
ドアの陰から若い男が一人、怖々と姿を現した。
「か、母さま・・・・・」
その中性的な顔立ちと華奢な身体つきは、服装によっては女性にも見えるだろう。
短く刈り込んだ坊主頭と声が、辛うじて男性としての特徴を表していた。
と言っても、一般的な男性の声よりは多少高く、細い。
その頼りなげな声で『母さま』と呼ばれたエンヤ婆は、蔑むように冷たく鼻を鳴らした。
「そのように情けない声を出すでないわ。」
「だ、だって・・・・、母さまが・・・・、あまりにお気の毒で・・・・」
「気の毒?ああそうだろうともよ!」
エンヤ婆は目を剥き出し、男に怒鳴りつけた。
「面目を潰し!DIO様に合わせる顔をなくし!更には愛する息子まで失うてしもうたのじゃからなぁ!!」
「母さま・・・・・!」
その男は耐えきれない様子で、エンヤ婆に縋りついた。
床に膝を着き、古木の細枝のようなエンヤ婆の身体に、まるで幼子のように。
「ええい、放せ!」
「母さま・・・・!母さまの息子なら、ここにもう一人おります!
このラビッシュが、兄さまの分まで母さまに孝行いたしますから!」
「黙りゃ!!お前に何が出来る!?」
「ああっ・・・・・!」
エンヤ婆は容赦なく、縋りつく己が息子を足蹴にした。
「このエンヤの息子に生まれながら、スタンドも持たず、霊力もろくに引き継がず!
お前に出来る事と言えば、せいぜい子供騙しの催眠術ぐらいのものではないか!」
「水晶を使って遠視も出来ます!呪術も交霊術も、もっともっと修行して、必ず出来るようになりますから・・・・・!」
「無駄じゃ無駄じゃ!それ、その『左手』が何よりの証よ!無能者のな!!」
エンヤ婆は息子・ラビッシュの『左手』を、硬い木の杖の先端で思いきり突いた。
「あぅっ・・・・・!」
ラビッシュのそれは、普通の人間が持つ、ごくごく普通の左手だった。
「何じゃその女のような細腕は!せめて腕力でもあればまだしも、お前は肉体までも脆弱ときたもんだ!
そればかりか男としての本能さえ歪んでおる、不具廃疾の出来損ないじゃ!!
子孫を遺すという虫ケラでも容易い営みさえ成せず、只々下衆な快楽に溺れて男の股間ばかり物欲しそうに見つめおって・・・・、おお、汚らわしい!!」
「うぅ・・・・・・・!」
「全く、お前はワシの人生最大にして唯一の失敗作じゃ!!
お前を生んで後悔しなかった日は、一日たりとてないわ!!」
エンヤ婆はおぞましいばかりの呪詛を、息子ラビッシュの頭上に雨あられと降らせた。
「それに比べて、ああ・・・・・!J・ガイルよ・・・・・・!
あの子は何と立派な息子だったじゃろう・・・・・・・・!
優秀で、才能に溢れ、剛健な肉体と高潔な精神を持ち・・・・、ああ・・・・!
どうしてあの子が死なねばならなかったのか・・・・・・、ああ・・・・、口惜しや・・・・!!」
「うぅぅ・・・・・・!母さまぁ・・・・・・・!」
また涙を流し始めたエンヤ婆を、ラビッシュも泣きながら抱きしめようとした。
「おどきこのくされポンコツが!!」
「あぁっ・・・・!」
しかしエンヤ婆は、その抱擁を邪険に振り払い、杖でラビッシュの肩を思いきり打ち据えた。
「ワシはこれからあの憎っくきジョースター共をブチ殺しに行ってくる!
ワシが戻るまで、お前は可哀相なJ・ガイルの魂を、心を込めて供養しておくのじゃぞ!!分かったな!!」
「うぅ・・・・・、はい、母さま・・・・・。」
「・・・それからの。この際じゃから言うておくが。」
エンヤ婆は突如、声を潜めた。
まるで、嵐の前の静けさのように。
その不吉な静けさを、ラビッシュは顔を強張らせて受け止めた。
「は・・・・・、はい・・・・・・・・」
「お前、以前から時々、水晶玉でDIO様のお姿をコソコソと覗き見しておるな?」
「っ・・・・・・!!」
悪戯を見咎められた幼子のように、ラビッシュは肩をビクつかせて硬直した。
「ワシやDIO様に気付かれていないと思うてか。えぇ?」
「そ、それは・・・・・・」
「このクソたわけが、こっちはとっくのトンマに気付いておるんじゃよぉ!!
度々無作法を働いておきながら今まで何の御咎めもなかったのは、お前が取るに足らぬ、ハエ以下のちっぽけな存在だからじゃ!
そして何より、DIO様が寛大な御方であるが故じゃ!
お前が不本意ながらもこのエンヤの息子であるが故に、お優しいDIO様はお前の無作法を笑ってお済まし下さっていたのじゃ!
お前を始末して詫びを入れようとしたワシを、その必要はない、実害はないのだから好きにさせてやれとDIO様がお許し下さったのじゃ!そうでなければ、貴様など今頃とうに豚の餌にしておるわ!
そうとも知らずに何度もコソコソと恥ずかしい真似をしおってからにこのボケたわけがッッ!!!」
「あぅっ!!お、お許し下さい母さまぁッッ・・・・!!」
杖の打撃が、肩と言わず頭と言わず、再びラビッシュに浴びせられた。
ラビッシュは苦痛から我が身を庇おうともせず、這い蹲って只々エンヤ婆に許しを乞うた。
「良いか!!ワシは今、DIO様の信頼を失ってしまうかどうかの瀬戸際に立たされておる!
これ以上ワシに少しでも恥をかかせる真似をしてみろ!!ジョースター共と一緒にブチ殺してやるからね!!」
「わ、わ、分かっています・・・・・・!にに、二度と覗き見したりしません・・・・・!お許し下さい、母さまぁ・・・・・・!」
足元に平伏してガタガタと震えているラビッシュの背中を見て、エンヤ婆はうんざりと大きな溜息を吐いた。
「ああ・・・、J・ガイルよ、どうしてお前が死んでこのポンコツがのうのうと生きさらばえておるのか・・・・・!
J・ガイル、可哀相なワシの息子よ、今、母さまが仇を討ってきてやるからなぁ・・・・・!クケエェェェーーーッ!!!!」
エンヤ婆が叫びながら走り去っていくと、ラビッシュはヨロヨロと立ち上がった。
「兄さまの供養をしなければ・・・・。母さまのお言いつけを守らねば・・・・。」
そして、涙と鼻水に塗れた顔を袖口で拭うと、エンヤ婆のいた部屋の中にフラフラと入っていった。