「ネ、ネーナ・・・・・、う、嬉しいぜ、俺の想いを分かってくれてよ・・・・・」
ポルナレフはおずおずと、ネーナの両肩を掴もうとした。
しかし、手が肩に触れるか触れないかのところで、ネーナはサッと身を引いた。
「え?な、何で??」
「ここでは、嫌です・・・・・・。だって、人目が・・・・・」
そう口籠って、ネーナは恥ずかしそうに俯いた。
なる程確かに、ここは人通りの多い市場のすぐ側で、目の前を多くの人がひっきりなしに行き交っている。
女にしてみれば、ましてや良家の令嬢ともなれば、こんな所で大っぴらにラブシーンを演じる訳にはいかないだろう。
「ああ、だ、だよなぁ・・・・!悪い、考えが足りなかった。」
「いえ・・・・・・」
「じゃ、じゃあ・・・・、ひ、ひひ、人目につかない所へ・・・・、い、いい、移動・・・・、しちゃう?」
つい荒くなる鼻息を何とか抑えて、ポルナレフはさり気なく(あくまで自分の主観ではそうだった)誘ってみた。
するとネーナは恥ずかしそうな表情で、ごくごく僅かに、しかしはっきりと、頷いた。
「ポルナレフ様、こちらへ・・・・・・」
そればかりか、先に立って案内しようとさえしてくれるではないか。
行ったその先で何をするのか、この様子では、ネーナは確実に分かっている。
「あ・・・・、ああ・・・・・!」
ゴクリと喉を鳴らして、ポルナレフはネーナの後をついて行った。
連れて行かれた先は、市場の裏手にあたる、薄暗い路地裏だった。
お世辞にもロマンチックな景色とは言えないが、確かに人はいなかった。
建物の壁を背に立ち止まり、早く捕まえてと言わんばかりに佇むネーナを見て、ポルナレフの心臓は益々早鐘を打った。
― い、良いんだよな、マジで・・・・・
ポルナレフはドキドキしながらネーナと向き合い、改めてその肩をそっと掴んだ。
ほんの少し力を込めただけで壊れてしまいそうな、華奢な肩だった。
「そ、そぉ・・・・、それじゃあネーナ、愛の誓い、恋人同士のキスをしようか・・・・・」
ポルナレフは、ネーナの可憐な唇にキスをしようと身を屈めた。
「ん〜・・・・・・、ん?」
ネーナの身に異変が起きたのは、正にその時だった。
恥じらいの表情でキスを待っていた筈のネーナが、突然、痙攣し始めたのだ。
「おぶえェェェーッ!」
そしてほんの一瞬の後、気持ち悪い色の液体を大量に嘔吐した。
「げげぇっ!?」
ポルナレフは咄嗟に身を引き、何とかそれをかわしたが、ネーナはドボドボと大量の液体を勢い良く吐き続けた。
「何だッ!?なな、何だ、どうしたネーナ!?」
バスで酔ったにしては、吐くタイミングが遅すぎる上に反応が激しすぎる。
何かの病気なのだろうか?とにかく、只事でない事だけは確かだった。
ネーナはポルナレフの呼び掛けにも答えず、吐くだけ吐き尽くした後、フラフラと揺れ始めた。
「なぁぁぁーーーーッッッ!?」
それは、悪夢としか言い様のない光景だった。
ネーナの腹が突如破れて、身体の中から何と、豚のように肥え太った醜い中年の女が飛び出してきたのだ。
「ぬぅぅぅ、ギャーーース!!!」
そして、身の毛もよだつような断末魔の叫び声を上げながら、その場に倒れて事切れた。
「あわわ、あわわわ・・・・・!」
外傷も無いのに全身からドクドクと血が溢れ出てくるのを呆然と見ていると、後ろからジョースターの声が聞こえてきた。
「・・・そいつがスタンド使い、エンプレスの本体か。」
「え・・・、えぇっ!?」
振り返ると、ジョースターと江里子がいた。
「こんな醜い女に人面瘡がくっついて肉人形と化し、美人にカムフラージュしていたとはなぁ。迂闊だった。まんまと騙されたなぁポルナレフ。」
「お・・・・、おえぇ・・・・・!」
震えが止まらなかった。
この薄ら寒い恐怖は、1年前にエジプトでDIOに遭遇した時以来だった。
「ネーナさんが・・・・・、エンプレスだったんですね・・・・・・・」
江里子が小さく呟いた。
そして、不意に倒れるようにして壁にもたれ掛かり、力尽きたように地べたにズルズルとへたり込んだ。
「エリー!」
呆然自失状態のポルナレフはひとまず放っておいて、ジョースターは江里子の側に駆け寄った。
「大丈夫か、エリー?」
「大丈夫、です・・・・・。ちょっと・・・・、疲れただけで・・・・・。
あんなに走ったの・・・・・、久しぶりだったものですから・・・・・。」
江里子はそう言って、弱々しく微笑んだ。
「すまなかったな。儂のせいで、随分無理をさせてしまった。」
「そんな・・・・・・。私の方こそ、何のお役にも立てなくて、すみませんでした・・・・・。
今回、私、本当にお荷物でしたね・・・・・。すみませんでした、ジョースターさん。私ったら、足を引っ張ってばかりで・・・・」
少し血の気の失せた顔色をして、肩で息をしている江里子の額の汗を、ジョースターは自分の掌で拭った。
「何を言う。儂がさっき警官に撃たれずに済んだのは、君のお陰じゃあないか。
お陰で助かったよ、ありがとう。君は実によく頑張ってくれたよ。」
「ジョースターさん・・・・・・・」
「さあ、承太郎達の所へ帰ろう。立てるか?」
「はい・・・・・・」
ジョースターは、フラフラと立ち上がった江里子の前に、背中を向けてしゃがんだ。
「ジョースター、さん・・・・・?」
「負ぶってやろう。ほれ、来なさい。」
「そ、そんな・・・・・・・!大丈夫です!私、歩けますから・・・・!」
「遠慮は要らん。」
ジョースターは肩越しに振り返り、江里子に笑いかけた。
「あのえげつない女から受けた精神的なダメージは、本物の可愛い娘さんでなければ癒せんのでな。」
「っ・・・・・!」
「さあ。」
江里子は恥ずかしそうにしながらも、ジョースターの背中におずおずと身体を預けてきた。江里子がしっかりと負ぶさったのを確認してから、ジョースターは立ち上がった。
「す・・・すみません、本当に・・・・・・・・。私、重いのに・・・・・・」
「フフ、何を言っとるんじゃあ。」
若い娘はとかく、自分の目方を必要以上に気にする。
それはアメリカも日本も同じらしい。
ホリィを育てていた頃の、悩ましくも楽しかった日々を思い出し、ジョースターは懐かしさに笑った。
「疲れたらすぐに下ろして下さいね。ジョースターさんの方こそボロボロなんですから・・・・」
「なぁに、これしきの事、平気じゃよ!ほれ、ポルナレフ!いつまでボケッと突っ立ってる気じゃ!?早いところズラかるぞ!」
「う、うぅ・・・・・・・」
まだまだショックから抜け出せていないポルナレフの尻を蹴飛ばして、ジョースターは歩き出した。
歩くのは人気のない薄暗い路地ばかりだったが、少しも心細くはなかった。
ガッシリと力強く温かいジョースターの背中が、大きな安心感を与えてくれるから。
ついさっきまで吐きそうな程疲れていたのに、こうしてジョースターの首にしがみ付いて、その背中に身体を預けていると、心地良い眠気さえ催してくる。
父親におんぶされるのはこんな感じなのだろうかと、江里子はふと考えた。
江里子は、父親に背負われた記憶がなかった。
多分、本当に一度もなかったのだろう。昔からフラフラと飲んだくれてばかりの男だったから。
ホリィはきっと、数え切れない位、こうして貰って育ったのだろう。
ホリィが羨ましいと思った。
― すみません、奥様・・・・・、今だけ、少しだけ・・・・・・・
心の中でホリィに詫びて、江里子はその安らぎを密かに噛み締めていた。
それは人からの借りもので、決して自分のものにはならないと分かっているが、それでも今は、その温もりを感じていたかった。
― 少しだけ・・・・・・
江里子は子供のようにジョースターの首にしがみ付き、心地の良いその温もりの中に、ふわふわと意識を飛ばしていった。
「・・・・・・むう」
それからどれ程経っただろうか、不意にジョースターが足を止めた。
夢と現の間を行ったり来たりしていた江里子は、そこで完全に目覚めた。
「・・・どうしたんですか?」
「いや、ホテルに着いたは良いのだがな・・・・」
そう言い淀んで、ジョースターは細い抜け道の向こうを示した。
江里子はジョースターの背中から下りて、そちらの方に目を向けた。
「警察が・・・・・・!どうして・・・・!?」
抜け道の向こうには、確かにホテル・クラークスの建物が見えていたのだが、問題はその建物の前に、何台ものパトカーが停まっている事だった。
「病院の診察室で、エンプレスの奴がベラベラと口走りおったのじゃ。
儂の名前も、国籍も、泊まっているホテルもな。そしてそれを看護婦に聞かれた。」
「そんな・・・・・・・・」
「あれではホテルに戻る事が出来ん・・・・・」
きっとホテルの中は、ジョースターを待ち受けている警官でいっぱいなのだろう。
この様子では、部屋へ戻る事も、電話で承太郎達を呼び出す事も出来ない。
大体、ジョースターの連れである承太郎達の身が、今無事かどうかも分からない。
「承太郎さん達は大丈夫でしょうか・・・・・・?」
「うぅむ・・・・・、無事だと良いのじゃが・・・・・」
ジョースターは、表には出て行けない。
ポルナレフは余程ショックが強かったのか、魂が抜けたようになっていて使いものにならない。
となれば。
「・・・・私が様子を見てきます。」
「何じゃと?」
「私が承太郎さんと花京院さんに事情を話して、連れ出してきます。
私なら、ちょっと変装でもすれば、きっとバレずに入れると思いますから。」
「しかしこうなってしまった以上、二人が今ホテルにいるかどうか、確かではないのじゃぞ?」
「あの二人の事です。もしホテルにいなくても、きっとどこかこの近くに隠れて、私達が戻って来るのを待っている筈です。
もし最悪、警察に連行されていたとしたら、その時は・・・・」
「その時は?」
「その時は・・・・・・・、その時に考えましょう。」
要するに、大した策は江里子にもなかったのである。
しかし今は、こうするしかなかった。
「うぅむ・・・・・、分かった。気を付けるのじゃぞ。」
「はい。ポルナレフさんの事、頼みます。」
「ああ、分かっておる。コイツの事は心配ない。」
ポルナレフをジョースターに任せると、江里子はポニーテールにしていた髪を解いた。
そして、ポルナレフの腰のサイドポケットを勝手に開けて中を漁った。確か彼がサングラスを持っていたと記憶していたのだ。
「あった!すみませんポルナレフさん、これ借りますね。」
抜け殻状態のポルナレフはうんともすんとも言わなかったが、江里子はそのままサングラスを装着し、ホテルの方へ歩き始めた。
路地を抜けて通りに出れば、そこには警官もパトカーもいる。心して行かねばならない。
オドオドせず、かつ、人目にはつかないように。
度胸が肝心だ。
― ・・・・よし!
気合いを入れた瞬間だった。
「きゃっ・・・・・・・・!」
突然、横路から手が伸びてきて、江里子はそこへ引きずり込まれた。
「んぅっ・・・・・・・・!」
咄嗟に叫びかけたが、間髪入れずに大きな掌で口を塞がれてそれも叶わなかった。
エンプレス、ネーナの仲間だろうか。
また新たな刺客が襲って来たのだろうか。
殺される、そんな本能的な恐怖に、江里子は囚われてしまったのだが。
「シーッ・・・・!落ち着いて下さい、江里子さん。僕達です。」
江里子を捕えたのは、敵ではなく、味方だった。
「むっ・・・・・!むぐぐぐっ・・・・、ぷはぁっ・・・・・・!花京院さん!承太郎さん!」
江里子はもがき、口を塞いでいた大きな手、承太郎の手を、思いきり振り払った。
「急に何ですか!吃驚するじゃないですか!」
「吃驚したのはこっちだ。一体何やらかしやがった?」
承太郎は憎たらしい位に凛々しい眉を潜めて、江里子の顔からサングラスを毟り取った。どうやら、多少の事情は把握している様子だった。
「ホテルの部屋で寛いでいたら、やたらとパトカーが集まってくるのが窓から見えましてね。
様子を見ていたら、拳銃を構えた警官が何人もホテルに突入してきたんですよ。
それでフロントマン相手に、ジョセフ・ジョースターの部屋はどこだとやり始めたものですから・・・・・」
「そのままズラかってきたという訳だ。」
二人の足元には、全員分の荷物がちゃんと揃ってあった。
全く、目から鼻へ抜けるとはこの事だろう。
「ありがとうございます!助かります〜!この判断は花京院さんでしょ!?流石です!」
「いや、それ程でも・・・・!」
「フン」
「あ、ちゃんと承太郎さんにも感謝していますからね!ありがとうございます!」
「・・・フン、下らねぇ。別に感謝なんて求めてねぇぜ。」
思わず話が脱線してしまったが、今はそれどころでなかった事を思い出し、江里子は慌てて笑顔を消した。
「こっちも大変だったんですよ、本当に!敵に遭遇してしまって・・・」
「そう。エンプレス・・・、『女帝』のカードのスタンド使いにな。」
「ジョースターさん!」
いつの間にか、後ろにジョースターが立っていた。
「路地に引きずり込まれたから慌てて追いかけて来たが、承太郎と花京院じゃったか。いや、敵じゃなくて良かったわい。」
「すみません、要らぬ心配をさせてしまって。江里子さんが警察だらけの表通りへ今にも飛び出して行きそうだったものでしたから、やむを得ず。
それより、エンプレスのスタンド使いとは?」
「ネーナじゃよ。」
花京院の質問に、ジョースターは厳しい表情で答えた。
「あの娘がスタンド使いだったのだ。そして儂の腕の出来物、あれがエンプレスのスタンドだった。」
「何ですって!?」
「成長するタイプのスタンドだった。初めは小さな出来物が、だんだん大きくなっていくのじゃ。
目鼻と口ができて下劣な言葉を喋るようになり、腕が生え、市場で物を盗み食いして更に成長し、遂には完全な人型となり、これ位の大きさにまでなりおった。」
そう言ってジョースターは、エンプレスの大きさをジェスチャーで示した。
「ちなみにこの警察沙汰は、切除手術をしようとした医者を、逆に奴がメスで刺し殺し、なおかつそれを大声で看護婦に言いふらしたせいで起きた事じゃ。
全く、完全にしてやられたわい。ま、結局は儂の敵じゃあなかったがのう。
しかしすこぶる力の強い奴で、儂の義手が見ろ、このザマだ。」
「ジョースターさんの義手は、確か特殊な合金製の筈なのに・・・・。何て事だ・・・・・・」
「ぬぅ・・・・・・」
花京院と承太郎は、スクラップのようになってしまったジョースターの義手を見て、目を大きく見開いた。
その破壊力に、少なからず恐怖を感じたのだろう。花京院が血相を変えて江里子に向き直った。
「江里子さんは無事だったのですか!?」
「ええ、私は幸い何とも・・・・・。だけど・・・・・・」
「だけど?」
「あれ?ジョースターさん、そういえばポルナレフさんは?」
江里子が尋ねると、ジョースターは無言のまま、元いた場所を指差した。
そこにはポルナレフがさっきと同じ状態のまま、相変わらず立ち尽くしていた。
「どうしたんだ、ポルナレフの奴は?怪我でもしているのか?」
「いえ、ポルナレフさんも無傷です。・・・身体は。だけど、心が・・・・・」
「心?」
承太郎は怪訝そうに、片眉を吊り上げた。
するとジョースターが、とても痛ましげな面持ちで、重々しく口を開いた。
「敵のスタンド使いとは露知らず、ポルナレフは一人でネーナを家まで送って行った。
その途中、何処をどう歩いておったのか、詳しい事は知らん。
だがきっと、儂とエリーのすぐ近くに張り付いておったのだろう。」
「それで?」
「儂がエンプレスを倒し、スタンド使い本体を捜そうとしたら、すぐ近くの路地にポルナレフがいた。
ネーナと二人で、人気のない路地にな。
声を掛ける暇もなく、ネーナの身体が破裂し、中から似ても似つかぬデブデブの醜いオバンが飛び出してきた。
つまり、ネーナという娘は生身の人間ではなく、人面瘡で出来た肉人形だったのじゃ。」
承太郎と花京院は、黙って顔を引き攣らせた。
「・・・道理であの人、何だか妙な違和感があった訳だ。幾ら美しくても、所詮作り物ではな。」
「その『作り物』に、ポルナレフの奴はまんまと騙された訳じゃがな。」
「・・・やれやれだぜ」
男三人は揃って抜け殻みたいなポルナレフに目を向け、重い溜息を吐いた。
「・・・・・ホル・ホースも知っていたんでしょうか、ネーナさんの事。」
「あ?」
「あの二人って本当に恋人同士だったのかな?と思って、ちょっと気になっちゃって・・・・。
私達は、ホル・ホースがネーナさんを置き去りにして逃げたとばかり思っていましたけど、あれは単なるバトンタッチみたいなもので、あの人達の作戦だったんでしょうか?
でもそれにしては、ネーナさん、本当に悲しそうだったし、ホル・ホースにしたって、J・ガイルの事は何かとあてにしている感じだったのに、ネーナさんにはそうじゃなかったし・・・・・・。
あの二人って、本当のところは一体どんな関係だったんでしょうか?」
「・・・さあな。」
江里子の疑問に、承太郎は事も無げに答えた。
「それを確かめる術はねぇぜ。そんな事より大事なのは、どうやってこの町から出るかという事だ。」
夜になった。
目玉焼きの黄身のようなまん丸い満月が空高く浮かび、虫の鳴く声が耳に心地良く聞こえてくる。
明るい内は広大なドブ川にしか見えないガンジス河も、今は闇と月明かりのお陰で美しく神秘的に感じられた。
静かな、良い夜だ。
こんな夜は久しぶりだった。
堤防に腰掛けて静かに流れるガンジス河を眺めながら、江里子は今、不思議な位にリラックスしていた。自分達が置かれている状況は、それと正反対にあるというのに。
「・・・久しぶりにベッドで眠れると思ったんだがね。」
「ジジィがドジをやって、警察に追われさえしなきゃな。」
堤防に立って同じように河の流れを眺めながら、花京院と承太郎がボソボソと会話を交わした。
その声には、何というか、もの哀しい諦めが篭っていた。
「話をつけてきた。この車で行けるぞ。」
取引を終えたジョースターが、江里子達の元に戻って来た。傍らに停めてある青いランクル、その持ち主との交渉が、無事に成立したようだった。
「ポルナレフ、運転を頼む。」
ジョースターはポルナレフに向かって、車のキーを放り投げた。
それは、江里子の隣で呆然と三角座りをしているポルナレフの髪に刺さった。
「おい、まだショックを受けてるのか?スタンドに襲われたのは儂じゃぞ?」
ジョースターが呆れたように言うと、ポルナレフは今にも死にそうな声で答えた。
「・・・・いっそ、そっちの方が良かったぜ・・・・・」
誰からともなく顔を見合せ、江里子達は溜息を吐いた。
あれから半日、ポルナレフはずっとこの調子だ。
最初は皆、割と同情的に見ていたのだが、ここまで長引くと、流石に同情もしきれなくなってくる。
大体、ここに逃げて来るまで、皆それはそれは大変な思いをしてきたのだ。
警察の追跡を逃れる為、薄暗い路地裏を犯罪者のようにコソコソと歩き回り、当座に必要な物資を手分けして買い集め、ジョースターは車の手配に四苦八苦して。
そうやって皆が右往左往している間も、ポルナレフはずっとこの調子で使いものにならなかったのである。
「・・・これに懲りたら、その軟派な性格を改める事ですね。」
花京院が呆れた声で苦言を呈したが、ポルナレフはまだ立ち上がろうとはしなかった。相当重傷である。
江里子はポルナレフの髪に刺さったままの車のキーを引き抜いて、彼の目の前に差し出した。
「・・・もう忘れましょうよ。お気の毒でしたけど、運が悪かったんです。」
「・・・・・エリー・・・・・・」
ポルナレフは泣きそうな顔を江里子に向けると、情けない甘えた声を出した。
こんな時は、よしよしと頭のひとつも撫でてあげるのが、成熟した大人の女性、所謂『イイ女』というものなのだろう。
だがしかし、生憎と、江里子は未熟な小娘だった。
「・・・・あんな路地裏で、ネーナさんとナニしようとしてたんですか?」
自分の気持ちのままに、江里子は冷ややかな声で問い質した。
「え゛っ・・・・・!?」
「そんなに落ち込んじゃって。よっぽど如何わしい事をしようとしてたんですね。こんな危険な旅の最中に、呆れた。」
「いっ、いやっ、それは・・・・・!!」
「ちょっと気持ちが弛んでるんじゃありません?そんな浮ついた気持ちでいて、敵にやられたらどうするんです?そんな事じゃあ困るんですよ。」
「は、はい・・・・・、すみません・・・・・」
「分かったら、さっさと気持ちを切り替えて、シャンとして運転して下さい!安全運転でね!」
「は、はいっ、ただ今・・・・・!」
弾かれたように車に駆け込んでいくポルナレフを見て、花京院は『お見事』と一言、江里子に賛辞を贈った。
江里子は、涼しげな微笑みでもってそれに応えた。
「さあ江里子さん、我々も乗りましょう。」
「はい。」
しかし内心は、少しも『涼しく』などなかった。
ポルナレフがまさかDIOの刺客だったネーナに本気で惚れる事など有り得ないとは思っているし、彼が誰を愛そうと彼の勝手である事も分かっているし、そもそも彼に対してはっきりと恋愛感情を持っている訳でもないのだが、しかしそれならば、この胸の中のモヤモヤは一体何と言えば説明がつくのだろうか。
― や、やきもちとかじゃないわよ、うん、絶対・・・・・!
自分が、筋違いな独占欲を出して嫉妬している自分勝手な女のように思えて恥ずかしく、江里子は必死でそれを否定した。
ポルナレフの運転で、一行を乗せた車はベナレスを出発した。
当面はこのまま車でインド北部を横断し、パキスタンを目指すという方針であった。
ベナレスから追ってくる警察の車両はなく、道は混まず、車の乗り心地も上々で、一行はここへ来てようやく人心地つく事が出来ていた。
「・・・・・クゥ・・・・・・・」
いびきとまでは言わないが、少し大きめの寝息が聞こえてきて、承太郎はふと隣に目を向けた。
「クヵァ〜・・・・・」
走り始めてまだ30分と経っていないというのに、江里子はすっかり熟睡していた。
口を半開きにして、次第次第に承太郎の肩にもたれる姿勢になりながら。
― やれやれ、弛んでるのはテメェもだぜ。
承太郎は僅かに苦笑を浮かべて、江里子の上唇と下唇を指で摘まんで閉じてやった。
「んん・・・・・・」
江里子は不快そうに顔を顰めて承太郎の指を手で払い除けたが、目は覚まさなかった。
「くたびれとるのじゃよ。儂に付き合って、町中を散々駆けずり回ったからのう。」
助手席からチラリと顔を覗かせたジョースターが、江里子の寝顔を見て目を細めた。
祖父のその柔らかい眼差しに、承太郎も微かな笑みでもって応えた。
「敵のスタンドもさる事ながら、警官に銃までぶっ放されたからのう。今日はエリーに随分怖い思いをさせてしまったわい。」
「それは気の毒に・・・・・。聞きましたか、ポルナレフ。貴方が敵のスタンド使いとよろしくやっている間に、ジョースターさんと江里子さんは、それはそれは大変な目に遭ったようですよ。」
「うぐぐ・・・・!だ、だから悪かったって・・・・・!」
「フン・・・・、やれやれだぜ。」
ギャーギャーやり始めた連中をよそに、承太郎は煙草を吸いかけ、ふと考えてからやめた。
「スゥ・・・・・・・」
一服したいのは山々なのだが、ここで吸うと、自分の肩にすっかり頭を預けて寝こけている江里子が、煙草の煙にむせて起きてしまうだろうから。
― やれやれだぜ・・・・・
口寂しさを忘れてしまう為、承太郎は帽子を深く被り、自分も目を閉じた。
だから承太郎は気付かなかった。
自分達の車の後ろをずっと同じ車が、赤いアメ車が、つかず離れずの距離を保ちながらついて来ているのを。
聖地・ベナレスで車を調達した一行は、陸路、パキスタンを目指していた。
その日その日の宿を取る為に、途中幾つかの町に立ち寄ったが、いずれも夜遅くに到着して早朝には出発し、インドの首都・デリーに着いた時でさえ自由時間はほんの僅か、スピードワゴン財団からジョースターの新しい義手をはじめとする物資の供給を受ける間だけで、数々の有名スポットを前にしながら、観光もろくにせずすぐさま街を出るという具合だった。
そんなこんなで車中の旅を続けること約3日、一行はようやく、広大なこの国を抜けようとしていた。
「間もなくパキスタン国境か・・・・。インドとも、もうお別れですね。」
町や村はなく、あるのは只々岩山ばかりという殺伐とした外の景色を眺めながら、助手席の花京院が、誰に言うとはなくそう呟いた。
「うむ。最初は何ちゅー国だと思ったが、今はカルカッタの雑踏やガンガーの水の流れが、早くも懐かしいのう・・・・・」
江里子の隣で、ジョースターが感慨深げにそう応えた。
そして、それに同調するように、承太郎が小さく鼻を鳴らした。
「・・・俺はもう一度、戻って来るぜ。アヴドゥルの墓をきちっと作りにな。」
運転席でポルナレフがそう呟くと、車中の空気が少ししんみりとなった。
今この瞬間、皆がアヴドゥルの事を考えたのだろう。
忘れると決めた彼の事を、江里子もまた、思い出さずにはいられなかった。
― ・・・・アヴドゥルさん・・・・
もう既に遠く千キロ彼方に置き去りにしてきてしまった彼の事を思うと、止めたつもりの涙がまた溢れてきそうになる。
しかし、ここでメソメソと泣き出せば、闘う男達の士気を下げてしまう。
それは決してしてはならない事なのだ。
江里子はグッと歯を食い縛り、感情の昂りをやり過ごした。
「道が狭くなってきたな。」
ポルナレフの一声で、全員がふと前を見た。
彼の言う通り、道はいつの間にか随分と幅が狭くなってきていた。
そしてそこに、これもまたいつの間にか、1台の赤い車が走っていた。
江里子達の車のすぐ真ん前を、やたらにのんびりと、やたらに排気ガスを撒き散らしながら。
それが開けてある窓から容赦なく入り、ポルナレフがむせて咳き込んだ。
「チンタラ走ってんじゃねーぜ!邪魔だ!追い抜くぜ!!」
薄々嫌な予感はしていたが、やはり、ムカッときたらしい。
ポルナレフは少し強引な運転で無理やり横をすり抜けて、赤い車の前に出た。
その拍子に跳ね飛ばした石が赤い車のバンパーにぶつかって、結構な音を立てた。
「ポルナレフ!荒っぽいぞ!」
花京院が諌めたが、当のポルナレフはざまあ見ろとばかりに笑うだけだった。
「ヘッヘッヘッヘ!さすが四輪駆動よのぉ〜!」
「おい、今、小石はね飛ばしてぶつけたんじゃあないのか?」
「さあ、かもな。」
ジョースターも心配そうに窘めたが、ポルナレフはそれをも平然と受け流してしまった。
決して悪い人ではないのだが、この短気な所がどうにも困る。
荒い運転は、事故も勿論心配だが、車酔いの元にもなるのだ。
「事故やトラブルは今困るぞ。ベナレスでの一件で追われる身だからのう。無事、国境を越えたいわい。」
「そうですよ。つまらない事でいちいち怒らないで、安全運転で・・」
江里子もジョースターに便乗して、ポルナレフを窘めようとしたその時だった。
「げぇッ!?」
ポルナレフは突然、急ブレーキを踏んだ。
「きゃあっ!!」
「どうした、ポルナレフ!?」
「言ったじゃろう!事故は困るって!!」
花京院とジョースターに矢継ぎ早に咎められたポルナレフは、前方を指差して反論した。
「ち、違うぜ!!見ろよ!!あそこに立ってやがる!!」
車のすぐ前方に、『SERVICE AREA AHEAD』の標識があった。
そして、その標識の前に大きなリュックを背負った少年がいて、こちらに向かって親指を立てていた。
ハンチング帽を目深に被って、オーバーオールを着て、こんな所でヒッチハイクをしているその少年に、江里子達は確かに見覚えがあった。
「え・・・・・?あ・・・・・、あの子・・・・・!?」
「っ・・・・・、やれやれだぜ。」
承太郎が呆れたように呟き、帽子を目深に被った途端、少年、いや、少女アンは、帽子を取っ払ってピースサインを決めてみせた。
「よっ!また会っちゃったね!乗っけてってくれるぅ!?」
『あぁ・・・・』
ハンチング帽から零れ落ちた長い黒髪とソバカスの笑顔を見て、全員唖然となった。
「アン!!!」
いち早く我に返ったのは、江里子だった。
江里子は車を飛び出すと、アンの元に駆け寄った。
江里子の姿を目に留めると、アンはより一層弾けるような笑顔になり、江里子に向かって、カラフルなウッドビーズのブレスレットが嵌った細い手首をヒラヒラと振って見せた。
忘れる筈もない。
それは僅か2週間前、友情の証にと別れ際に江里子がプレゼントしたお揃いのブレスレットで、同じ物が江里子の手首にも嵌っていた。
「ハァイ、エリー!!久しぶりぃ!!」
「ひ・・・、久しぶりじゃあないわよ!!こんな所で何してるの!?」
アンが嫌いになった訳では、勿論ない。
ただ、アンの余りの無鉄砲さが恐ろしくて、その自覚の無さに腹も立って、江里子は思わずアンを叱りつけた。
「お父さんはどうしたのよ!?何で一人でいるの!?どうやってここまで来たのよ!?」
「そっ・・・、そんなポンポン言わなくたって良いじゃないのさーッ!折角またこうして再会したってのに!!」
「何言ってんの!?ここはシンガポールとは比べものにならない位、危険の多い国なのよ!!アンみたいな女の子が一人でウロウロして、何かあったらどうするのよ!?
っていうか、何もなかったんでしょうね!?まさか危ない目になんか遭ってないでしょうね!?」
「だ、大丈夫よ・・・・・!」
アンは最初、膨れっ面で反論してきたが、江里子の剣幕にたじろぎ、すぐに大人しくなった。
「この格好してりゃあ、女の子だってバレやしないわ。本当に大丈夫だったから。信じてよ・・・。」
アンは大層決まりが悪そうに、モジモジと弁解を重ねた。
そんなアンを厳しく見据えながら、江里子はもう一度、最初の質問を繰り返した。
「・・・それで?お父さんは?」
江里子のその質問に、アンは益々モジモジした挙句、蚊の鳴くような声で答えた。
「・・・・・・・・そ・・・・・・・・」
「え?」
「あれ・・・・・、実は・・・・・・・、嘘・・・・・、なの・・・・・・」
「・・・嘘?」
「父さんは・・・・・、ちゃんと、香港の家にいる・・・・・。」
アンはモジモジと上目遣いに江里子を見つめ、ごめんなさいと呟いた。
「嘘吐いた事は謝るわ。だけどあたしどうしても、またエリーに、皆に会いたかったの。どうしてもどうしても、皆と一緒にまた旅がしたかったの。だから・・・・・」
不意に、江里子の肩に誰かの手が置かれた。
ジョースターの手だった。
振り返ると、いつの間にか皆が車を降りてきていた。
皆がそこで、江里子とアンのやり取りを、黙って見ていた。
「一緒に連れてってよ!ね!?お願い!」
両手を合わせて拝み倒すアンを前に、江里子はもう、何も言えなかった。
ただ、冷や汗ものの怒りが引くと、後には少し、そう、ほんの少しだけ、はしゃぎ出したくなるような嬉しさが残った。
「・・・・・本当にもう・・・・・、危なっかしい子なんだから・・・・・・!」
「えへへ・・・・・・!」
そのか細い身体を抱きしめると、アンは恥ずかしそうに、そして嬉しそうに笑って、江里子を抱きしめ返してきた。まるで仔猫が喉を鳴らして甘えるようだと、ふと思った。
「・・・ともかく、先を急ごう。こんな所で立ち往生していても仕方あるまいよ。」
「ですね。暗くなる前に国境を越えてしまわないといけませんしね。」
「ったく、面倒ばっかかけやがって、しょーがねぇガキだぜぇ!」
「やれやれだぜ。」
ジョースター達は、次々と先に車へ戻っていった。
誰も歓迎の言葉こそ口にしなかったが、その背中はアンを拒絶してはいなかった。
治安の良いシンガポールならいざ知らず、流石にこんな辺境の地に、か弱い少女を一人で置いて行く気はしないのだろう。
エジプトまで連れて行く事は絶対にないだろうが、多分、あとほんの少しの間なのだろうが、それでもまたアンと一緒に旅が出来る。その事は純粋に嬉しかった。
「あれ?そういえばあの人は?」
「え?」
「アヴドゥルさん。何でいないの?」
何も知らないアンの、素朴なその質問に、江里子は咄嗟に答える事が出来なかった。
カルカッタでのあの悲劇を、まだ記憶に新しいそれを、感情を揺らさずに語り伝える自信がなかったのだ。
それに、無関係なアンに、こちらの事情を詳しく教える事も出来ない。
「・・・・うん。ちょっと、色々あってね。あの人は抜けたの。」
少し考えてから、江里子はそう答えた。
泣かないように、泣き出さないように、自分を厳しく律しながら。
「色々って?」
「ごめん、あんまり詳しくは話せないの。ただ、色々とトラブルがあって・・・・。
ねえアン、お願いがあるの。アヴドゥルさんの事、皆の前では口にしないで。
特にポルナレフさんには、どうして抜けたのとか、訊かないでおいて。何も気付いていない振りをしておいて。」
「・・・・・ああ〜・・・・・、そういう事・・・・・・」
江里子の頼みを聞いたアンは、一人で合点がいったような顔をした。
「モメたのね、あの電柱野郎と!それで喧嘩して抜けたんでしょ!」
「え・・・」
「分かるわぁ、性格合わなさそうだったもん、あの二人!
良い人だけどちょっと堅苦しすぎるアヴドゥルさんと、チャラチャラいい加減なアホのポルナレフと!いつか大モメするだろうな〜って思ってたんだよね、実は!」
アンのその誤解は、考えてみれば、一行にとっては実に有り難く、都合が良かった。
ポルナレフには申し訳ないが、ここは誤解させたままにしておく方が良いと判断し、江里子はぎこちなく笑って調子を合わせた。
「ま、まあそんなとこ・・・・。だから、ね?お願いよ?絶対言わないで、ね?」
「分かってるって!そういう事なら調子合わせておいてあげるわ!
ホント、男って世話が焼けるわよね!あたしがいない間、エリーも色々大変だったでしょ!?」
「あ、あはは、まあ、ね・・・・・」
いっぱしの口を利くアンにすっかり圧倒されて、江里子は只々、ギクシャクと笑うしかなかった。
「さ、行こうかアン!早くしないと、置いていかれちゃう!」
「うん!」
江里子はアンの肩を抱き、車に戻っていった。
程なくして、定員オーバー気味となった青いランクルが、再び崖の一本道を走り出した。
そしてその後ろから、あの赤い車も、不気味な程静かに。
「うちは香港で食堂をやってるの。自慢じゃないけど、結構流行ってるんだ。
父さんは長年ずっと料理一筋でやってきた昔気質の料理人で、ガッチガチの石頭ガンコ親父。
女は黙って男の言う事聞いてりゃ良いんだってタイプよ。分かるでしょ?よくいる、古臭いタイプの男よ。」
車が走り出すや否や、アンはマシンガンのような口調で喋り始めた。
「だから、学校の勉強は、まぁあんまりうるさくは言われないんだけど、行儀作法っての?そういう、女の子のたしなみ?みたいな事にはガミガミうるさくってさぁ!
やれ言葉遣いに気をつけろだの、やれ料理や裁縫を覚えろだの、人の顔を見る度にガミガミガミガミ。ちょっと冒険してみたくてプラッと出掛けたりなんかしたら、怒るの怒らないのって!
女だてらに冒険ごっこなんかやるんじゃあないって凄い剣幕で怒鳴るわ喚くわ、挙句の果てに往復ビンタよ!?もうイヤになっちゃう!」
この話から察するに、恐らくアンは、その『冒険ごっこ』をこっぴどく叱られて家出してきたのだろう。しかしこの子の場合、『プラッと出掛ける』のレベルが普通とは大いに違う気がする。
そんな本音を、江里子はひとまず呑み込んだ。話の区切りがまだまだつきそうになかったからだ。
「あたしはさ、本当はもっとさ、冒険したいのよ!
家の中に篭ってチマチマ刺繍なんかしてんじゃあなくてさ、この足で、この身体ひとつで、世界中を歩き回ったりしたいのよ!」
アンは座っていたジョースターの膝の上から半立ちになり、前方に身を乗り出して更に熱弁を振るい始めた。
「だけどあたしだってバカじゃあないわ!幾ら冒険が好きだって、限度がある事ぐらい分かってる!
そりゃあ男ならさ、オジンになったってトランクひとつで冒険旅行に出てもサマになるけど、だってあたし女の子よ!?もう少し経てばブラジャーだってするしさ、男の子の為に爪だって磨くわ。
そんな年頃になって世界を放浪するなんて、みっともないでしょ?」
アンの演説は、残念ながら男性陣には下らない与太話にしか思えないのか、皆聞き流しているようだった。ウンともスンとも言わず、アンと目を合わそうともしなかった。
そして江里子もまた、ブラジャーはともかく、男の子の為に爪を磨いた事もなければ、年頃の娘なのに男達に混じって世界を放浪中の身である自分を省みて、やはりウンともスンとも言えなくなっていた。
「今しかないのよ、今しか!家出して世界中を見て回るのは!そう思うでしょ!?
そりゃあシンガポールで『父さんに会う』なんて嘘吐いたのは悪かったけど、もう水に流してさぁ・・・・!」
その時、突然、後方からけたたましいクラクションの音が聞こえた。
喧嘩を売るような、忙しないクラクションの連打に、運転手のポルナレフ以外が全員後ろを振り返った。
「さっき追い越した車だ。急いでいるようだな。」
承太郎の言う通り、さっき追い越した赤い車だった。それが江里子達の車のすぐ後ろにピッタリと張り付き、早く行けとばかりに煽ってきていた。
「先に行かせてやりなさい。」
「ああ。」
ジョースターに言われた通り、ポルナレフは運転席の窓を開けて腕を出し、先に行けと合図を送った。
すると赤い車は、江里子達の車を追い越し、前に出て行った。
しかし、追い越したその途端に明らかに減速し、江里子達の車の真ん前をノロノロと走り出した。
只今の時速約30キロ、随分な安全運転である。
「おいおい!」
ポルナレフがうんざりした声を上げた瞬間、また凄まじい排気ガスが吐き出され、それが開けた窓から入り込み、江里子達は盛大に咳き込んだ。
「どういうつもりだ!?譲ってやったんだから、どんどん先行けよ!!」
ポルナレフは、またどうにか追い抜こうとしきりにハンドルを切り始めた。
小刻みに右往左往し、追い抜く隙を伺っている。
しかし、道の丁度ど真ん中を走られていて、どうやっても追い抜けそうにはなかった。
「君がさっき荒っぽい事をやったから、怒ったんじゃあないですか。」
花京院が、少し冷たい口調でそう言った。
それはあるかも知れないと、江里子は少し怖くなった。
ドライバーの中には気の荒い連中もいる。あの赤い車のように、派手な車に乗る手合いは特に。
そして、まず先にやらかしてしまったのは、残念ながらこちらの方である。そのうち車を降りて掴み合いの喧嘩にでもなるんじゃないかと思うと、気が気でなかった。
「運転していた奴の顔は見たか?」
運転席の後ろから、承太郎がポルナレフにそう尋ねた。
「いや、窓が埃まみれのせいか、見えなかったぜ。」
「お前もか。まさか・・・」
緊張感を帯びた承太郎の声に、江里子はハッとした。
掴み合いの喧嘩など、それはやはり、どこまでも普通の感覚でしかなかったのだ。
この旅は決して、普通の旅行などではないというのに。
「気をつけろ、ポルナレフ。」
ジョースターが油断のない声でそう注意した途端、突然、赤い車の運転席の窓が開いた。そこから筋肉の隆々とした丸太ような腕が出て、先に行けと合図を送ってきた。
「・・・ククッ、先に行けだとよ。どうやらテメェのボロさを思い出したらしいなぁ。」
車中の緊張感が、それで一気に解けた。
花京院もジョースターも、明らかにホッとして肩の力を抜いた。
江里子は、そんな彼等の様子を見て、釣られるように安心した。
彼等が大丈夫だと判断したのなら、それは間違いないのだから。
「初めから大人しく後ろを走っていろや!イカレポンチが!!」
ポルナレフは捨て台詞を吐き、アクセルを踏み込んで赤い車の右側から一気に追い越した。
「な!?」
しかしその瞬間、一同の安心感は一気に凍りついた。
すぐ目の前に黒い大型トラックが迫っており、けたたましくクラクションを鳴らしていたのだ。
「何いぃッッ!?」
『うわぁぁーーッ!!』
運転手のポルナレフも、江里子達も、全員が阿鼻叫喚の悲鳴を上げた。
「トラック!!バカな!?」
ポルナレフは咄嗟にハンドルを思いきり切ったが、しかし、もう間に合わなかった。
「駄目だ、ぶつかる!!」
花京院の絶望的な叫び声が上がった瞬間、トラックと正面衝突する、その刹那。
「スタープラチナ!!」
承太郎がスタンドを発動させた。
「きゃあああっ・・・・・・!!」
それから何が起こったのか、江里子にはよく分からなかった。
ただ、身体が下から吹き飛び、ひっくり返ったような感覚があった。
「あっ、危ねぇッッ!!」
そしてすぐさま、車が地面に叩きつけられる、強烈な衝撃が襲ってきた。
ポルナレフが叫ぶと同時に、車のボンネットがびっくり箱の蓋のように派手な音を立てて開いた。
「ふわぁぁ〜!スタープラチナのパワーがなかったら、俺達グシャグシャだったぜぇ!」
ポルナレフの声で、江里子は自分達が無事だった事を知った。
恐る恐る目を開けてみると、トラックは崖に倒れかかって白煙を噴いていた。
どうやら承太郎のスタンドのパワーと、シートベルトのお陰で、事無きを得たらしかった。
「どこじゃ!!あの車はどこにいる!?」
アンを胸に庇っていたジョースターは、アンを放し、キョロキョロと辺りを見回した。
「どうやら走り去ったらしいな。どう思う?今の車、追手のスタンド使いだと思うか?それとも、只の悪質な難癖野郎だと思うか?」
「追手に決まってるだろうがよぉーッ!殺されるところだったんだぜ!?」
「だが今のところ、スタンドらしい攻撃は全然ありませんでしたよ。」
訊いた承太郎も、答えたポルナレフも、これが只のアクシデントでない事は分かっているようだった。
しかし花京院の言う通り、スタンド攻撃らしい奇妙な現象は起きていない。
先に行けと合図され、追い越したらそこにトラックがいたというだけで、普通の交通事故とも思える状況だった。
「とにかく、用心深く国境へ向かうしかないじゃろう。もう一度仕掛けてきたら、誰だろうとブチのめそう!」
「そうだな!」
ジョースターの些か乱暴な作戦にすぐさま同意し、ポルナレフは再びエンジンをかけ直した。
「あのトラックはどうします?スタープラチナが殴ったんで、メチャクチャですよ?」
花京院が親指で大破したトラックを指すと、犯人の承太郎は帽子を目深に被りながら、低い声で事もなげに答えた。
「知らんぷりしてりゃあ良いんだよ。放っときな。」
それを聞いたアンが、うっとりと頬を赤らめた。
薔薇色に染まったそこに、『カッコイイ〜!しびれるぅ〜!』と、くっきりハッキリ書いてある。
まるで承太郎の取り巻きの女の子達と同じ表情だ。
― やれやれ・・・・・・・。
承太郎の相変わらずの不良っぷりと、アンの惚れ込みように少し呆れ、江里子は密かに溜息を吐いた。