江里子達の乗ったバスは、順調に聖地・ベナレスへ向かっていた。
途中の停留所で他の客達は次々と降りていき、翌朝には、乗客は江里子達だけになっていた。
そして今は、ただっ広い草原の中の一本道を、ガタガタと走っていた。
「良いか?俺はねぇ、普通は説教なんてしない。
頭の悪い奴ってのは、言っても分からねぇから頭の悪い奴なんだからよ。
いるよなぁ?何べん言っても分からねぇタコ!」
至って静かな車内に、ネーナに話し掛けるポルナレフの声だけが響いていた。
思いがけず貸し切り状態となってから遠慮がなくなったのか、彼は元々の自分の座席を離れ、江里子達の座席の前列を陣取り、ネーナの方を振り返ってずっとこの調子で喋り続けているのだった。
しかし、ただ単にポルナレフのいつもの悪い癖が出た、というだけではない。
彼がこうまでうるさく喋り続けている理由は、ネーナの美貌だけにある訳ではないようだった。
どうやらポルナレフは、ネーナの事を本気で案じている様子だった。
彼のネーナを見る目は、香港からのクルーザーの中で江里子を看病してくれた時の目と同じだった。
純粋に、心配しているのだ。
これは、たった一人で妹を守りながら生きてきた、彼の性分なのだろう。
女好きでチャラチャラしているくせに、意外と『軽く』ない。全く、妙な男だ。
「でもな、あれ?え〜と・・・、名前、聞いてなかったな。」
「・・・ネーナ・・・・」
「ネーナ!良い名だ!君はこれから通る、聖地・ベナレスの良家の娘なんだろ?美人だし、凄く頭の良い娘だと見た。俺は人を見る目があるしよ、だから、説教するぜ!」
江里子は、横目でチラリとネーナの様子を伺った。
ネーナはポルナレフの事を全く眼中に入れていなかった。
相変わらずの物憂げな眼差しをぼんやりと宙に彷徨わせたまま、ポルナレフの話を聞いているのかいないのか、褒め言葉にもニコリともしなかった。
江里子は次に、ずっと喋り続けているポルナレフに目を向けた。
ネーナは話を聞いていない。いや、聞く気がない。
ポルナレフの親切は、彼女には全く届いていない。
彼が良かれと思って続けているこの長い『お説教』は、残念ながらお節介、無駄以外の何物でもなさそうだ。
「・・・・・・」
という思いを視線に乗せてじっとポルナレフを見つめてみたが、こういうやり方は日本人特有のものでフランス人には通じないのか、それとも単にポルナレフが己の弁舌に夢中になっているだけなのか、とにかく彼は江里子のアイコンタクトに気付かなかった。
「ホル・ホースはとっても悪い、嘘吐き野郎なんだよ!君は騙されてる!親が悲しむよ!?あのね、こ〜なっちゃあいけねぇぜ!?」
ポルナレフは、視野を狭めるようなジェスチャーを交えて、一層の熱弁を振るった。
「恋をするとなりやすいけどよ、こ〜いう風に物事見ちゃいけないぜ!?冷静に、広く見る事が大切だな!」
遂には立ち上がり、今度は視界を広げるジェスチャーを始めた。
「おい、見えてきたぞ。」
ろくな反応もないのにどこまで白熱するのかと呆れ半分同情半分で見守っていると、不意に花京院が口を開いた。
「ベナレスの町だ・・・・・」
花京院のその一言で、長すぎる説教は突然、終わりを迎えた。
「おおーっ!本当だ、着いたぜーーッ!」
「やれやれ、やっと着いたか・・・・。」
「フン」
バスはいつの間にか草原を抜け、ガンジス河に架かる大きな橋を渡っていた。
聖なる河、ガンジス。
聖者、老人、病人、子供、牛、犬、猿、食べ物、排泄物、燃える死体。
全てを優しく包み、流れ続ける河。
この河には、生まれてから死ぬまでの全てが、縮図としてあるという。
そして、すぐ目の前に広がっている大きな街が、聖地・ベナレスだ。
ここ、聖地・ベナレスに、人は何ヶ月いても飽きないというが、それは、ここで出会う風景が、きっとその人の魂の内なる風景だと感じるからだろう。
尤もそれは、ガイドマップにそう書いてあっただけで、江里子個人としては全くピンとこなかったのだが。
程なくして、バスは無事ベナレスの町に到着し、江里子達はとある停留所でバスを降りた。
ジョースターの異変に最初に気付いたのは、承太郎だった。
「どうした、ジジイ?元気ないな。」
「うむ・・・・・、虫に刺されたと思っていた所に、ばい菌が入ったらしい。」
ジョースターは、いつもより随分覇気のない声でそう答えた。
江里子も気になり、ジョースターの腕に目を向けた。
「え?どこですか・・・・?うわ・・・・・!」
そして見た瞬間、つい思いっきり顔を歪めてしまった。
ジョースターの腕の虫刺されは、それ程に酷い状態だった。
「腫れてますね。それ以上悪化しない内に、医者に診せた方が良い。」
「私もそう思います。そうして下さい、ジョースターさん。」
冷静に的確な判断を下した花京院に、江里子も同調した。
普通、虫刺されの痕は多少なりとも腫れるものだが、ジョースターのそれは『腫れている』というレベルを遥かに超えていた。
ジョースターの右腕のど真ん中に、根を張って堂々と居座るようにして存在しているそれは、虫刺されというより『腫瘍』と呼ぶ方が相応しいような、今まで見た事がない程酷い出来物だった。
それを一瞥したポルナレフが、小首を傾げて言い放った。
「あぁ〜ん?これ何か、人の顔に見えないか?」
「おい!冗談はやめろよポルナレフ!」
「ヘッヘッヘッヘ、悪い悪い。病院、付き添ってやろうか?」
「要らん!年寄り扱いするな!」
ジョークの大好きなジョースターが、珍しく全く乗らず、少なからず苛立っている。
いや、ポルナレフのジョークも、少しブラック過ぎたのだろう。
とにかく、今日は何だか噛み合わない様子だった。
幾らジョースターと言えどもあくまで生身の人間、好・不調の波ぐらいあって当然だ。
今日は厭な感じの怪我をしていて、調子が悪いのだろう。
「ともかく、まずはホテルを取って荷物を下ろそう。それから、彼女を家まで送っていくぞ。」
ジョースターがチラリと一瞥すると、ネーナは黙ったまま、そっと地面に視線を落とした。
江里子達一行は、クラークスというホテルに部屋を取った。
当初、長居をするつもりはなかったのだが、ジョースターの腕の事もあるし、今後の進路の相談と休息も兼ねて、今日はこのベナレスに1泊しようという事になった。
「よし、これで部屋は確保した。」
サインを済ませ、ルームキーを受け取ると、ジョースターは江里子達に向き直った。
「儂はこのまま病院へ行く。誰か、彼女を家まで送って行ってやれ。」
「了〜解!俺が送ってってやるぜ!」
名乗りを上げたのは、やはり、ポルナレフだった。
「一人で行く気かポルナレフ?危険だ。僕か承太郎も一緒に行こう。」
それにストップをかけたのが、花京院だった。
承太郎も、相変わらずの無口だが、嫌だとは思っていないようだった。
しかし、ネーナの方が難色を示した。
「っ・・・・・・・・」
花京院と承太郎を怖々と上目遣いで見上げたネーナは、二人と目が合うと、怯えたようにポルナレフの後ろに隠れた。
「ほらぁ!怖がられてるじゃねーか!大体テメーらは無愛想すぎるんだよ!レディにはもっとにこやかに、優し〜く接するもんだぜ!」
ポルナレフは得意げにネーナを背中に庇い、自分の胸を拳でドンと叩いて言った。
「ま、ネーナの事はこの俺に任せておけ!責任持って、家までちゃあんと送り届けてくっからよぉ!
それよりジョースターさんだよ!アンタこそ、やっぱり付き添いが要るんじゃあねぇか!?どうせ今から病院へ行くんだろ?ネーナを送るついでに、俺が付き添ってやるぜ?」
「だから年寄り扱いするなと言っとろーが!」
「まぁまぁ、ジョースターさん!そう言わないで!」
江里子は苦笑しながら、むくれるジョースターを宥めた。
「じゃあ、病院へは私がついて行きます。」
「何じゃと?」
「奥様の代わりに。ね?良いでしょう?」
「うぅ、むむ・・・・・・」
若造達に年寄り扱いされるのはプライドが傷付くのだろうが、女ならばそうはならない。特に、娘の代理となれば。
「・・・・・・・では、エリーに頼むとするかのう。」
「はい、お任せ下さい!」
江里子のその読みは、見事に当たった。
「着きました。ここです。」
ネーナは足を止めて、すぐ横の建物を指差した。
「ここが、この辺りで一番評判の良い病院です。きっと上手に治してくれます。」
「やあ、どうも有り難う。お陰で助かったよ。」
ジョースターは、にこやかに笑ってネーナに礼を言った。
彼女のお陰で、見知らぬ土地で病院を探す手間、その病院の評判を確かめる手間が省けたので、ジョースターとしては大助かりだったのだ。
「私の方こそ、ありがとうございました。」
ネーナの悲しげな表情に、ジョースターは少し、胸を痛めた。
娘がいるからだろうか、女の子の悲しげな顔を見るのがどうにも忍び難い。
愛娘のホリィに重なって見えて、居た堪れなくなるのだ。
「なぁに、礼には及ばんよ。気をつけて帰りなさい。もうホル・ホースのような男に騙されてはいけないよ。」
気付けばついつい要らぬお節介を焼いて、ポルナレフと同じような忠告などをしてみたり。
しかしネーナは迷惑そうな顔をせず、はいと素直に頷いた。
「じゃあ、元気でな。ポルナレフ、彼女の事を頼んだぞ。」
「あいよ!エリー、ジョースターさんの事は任せたぜ!」
「はい。ポルナレフさんもお気をつけて。
ネーナさん、さようなら。どうか元気出して下さいね。」
「ありがとう、エリー。さようなら。」
別れの挨拶を交わし合う若者達を、ジョースターは微笑ましく眺めていた。
挨拶が済むと、ネーナはポルナレフに連れられ、去って行った。
「さあ!じゃあ、私達も行きましょうか!」
「!」
江里子のその言葉に、ジョースターは我に返った。
そう、微笑んでいる場合ではなかったのだ。
腕の出来物と目の前の病院とを見比べて、ジョースターは重苦しい溜息を吐いた。
「ふんむ・・・・、コレは切り取りまショ。」
ジョースターの腕の出来物をしげしげと眺めてから、医者は一言、いとも容易くそう言った。
「えぇ!?何じゃとぉ!?」
「ソレ、ばい菌入ったネ。切って毒出さないと、悪化するネ。」
承太郎ら若造共には格好悪くてとても言えないが、実はジョースターは、病院が大の苦手だった。
この出来物の腫れ具合から見て、何らかの処置を施される事は覚悟していたが、だからせめて、評判の高い病院で、信用出来そうな腕の良いドクターの手で、極力怖くない、極力痛くない治療をと思ってここへ来たのである。
「おいおいおい・・・・、薬か何か塗って、包帯巻くだけじゃあ駄目なのかい?」
「大丈夫。局部麻酔するから、痛くないネ。ノープロブレムよ。問題無しヨ。」
しかし今、ジョースターの目の前にいるのは、どんくさい黒縁眼鏡をかけた、初老の胡散臭そうな医者だった。
この辺りで一番評判の良い病院の院長なのだから、きっと名医に違いない筈なのだが、何だかいい加減でインチキくさい喋り方と、怪しげに光るこの黒縁眼鏡を見聞きしている限り、どうしてもそうは思えなかった。
「さ、横になって。」
「う、うぅ・・・・・」
言われるがままに寝台に横になると、医者は早速、手術の準備を始めた。
局部麻酔の注射を受けながら、ジョースターは一人、戦々恐々としていた。
待合室に残してきた江里子が、無性に恋しくて仕方がなかった。
診察室の中まで付き添うと言ってくれたのを、つまらないプライドで断ってしまった事が、今となっては悔まれてならない。
いやしかし、たとえ診察室の中までついて来て貰っていたとしても、孫娘のような江里子の前でみっともなくビビり上がる様を見せる訳にはいかないのだから、やはり待合室に残してきて正解だったのだ。
などという事を延々と取り留めもなく考えていると、手術の準備を整え、手術着に着替えた医者が戻って来た。
「私、英国で医学勉強したネ。盲腸手術も出来るヨ。あら、ちょっと錆びてるネ・・・」
「えぇ・・・・!?」
まるでカミソリかの如く、錆びたメスを呑気に砥いでいる医者を見て、ジョースターの不信感は益々募った。
ネーナはああ言ったが、本当にこんなのが地元一の名医なのだろうか。
「ま、ノープロブレムね。さ、切り取るヨ!」
だが、もう遅かった。
もう今更逃げも隠れも出来ず、腹を括るしかなかった。
「うぇぇ・・・、何てこった・・・・、切られるとこ見たくないわい・・・・!」
「ノープロブレムよ!」
「うぅっ・・・・!」
医者はメスを構えた。
とても直視出来ず、ジョースターは思わず顔を背け、目を固く瞑った。
シャキン、シャキン、ブシャアッ!
程なくして、メスが皮膚と肉を切り裂くおぞましい音が派手に響いた。
「おい・・・・、まだか・・・・!?もう終わったかね・・・・!?」
ジョースターは目を瞑ったまま、怖々と尋ねた。
「あばっ・・・・!」
しかし、医者は何も答えず、代わりに悲鳴のような妙な声を小さく上げた。
「えぇ・・・・?」
不審に思って恐る恐る目を開けると、信じ難い光景がジョースターの目に飛び込んできた。
「な・・・」
「グエェェェーーーッ!」
ジョースターの腕の出来物を切開する筈だったメスが、何故か医者の顔に深々と突き刺さっていたのだ。
「何ィィィーーーーッッッ!!!」
ジョースターの目の前で、医者は床に倒れ込んだ。
彼は顔中をメスで切り刻まれ、血塗れになって息絶えていた。
「ヘイ!ドクター!アタイを切ろうなんて、とんだバカヤロウだね!このトンチキめ!!」
不意に、甲高い女の声が聞こえてきた。
この部屋の中には他に誰もいないのに、一体どこから聞こえてきたのだろうか。
「おぉ・・・・?お・・・・・」
ふと気配を感じて、ジョースターは己の腕に目を向けた。
「チュミミーーーン!!!」
「な・・・・!?何だこいつは!?」
驚いたなどというものではなかった。
腕の出来物にいつの間にか目鼻と口がついていて、不敵な眼差しでジョースターを見ていたのだ。
そしてそれは、耳に障る甲高い声で喋り出した。
「アタイは【女帝−エンプレス−】!!『女帝』のカードよ、ジョセフジジイ!!まぁずテメーを血祭りに上げちゃるヨ!ペッ!」
「一体どこで取り憑いた、貴様ぁ!」
エンプレスの吐いた唾を咄嗟に避けて、ジョースターは傍らの手術器具の中からメスを掴み出した。
そしてそれをエンプレスに向かって思いきり突き立てようとしたが、エンプレスは何とメスの刃を噛んで止めた。
「歯があるぞ、噛みやがった!ぬえぇぇい、何て力だ・・・・!」
凄まじい力だった。
ジョースターの本気の腕力を食い止める程に。
「うっ・・・・、取られちまった・・・・!」
しまったと思った瞬間、エンプレスは一瞬にしてメスを奪い取り、歯で柄の部分を咥えて、器用にメスを一閃させた。
その一撃は、容赦なくジョースターの小指をすっぱりと切断した。
「げぇぇぇーーーッ!!オーーーノーーーーッッッ!!!ぎ、義手で良かったわい・・・・!」
不幸中の幸いで、落とされたのは義手の方の指だった。
だから事無きを得たが、もしこれが生身の手の方だったら・・・・。
そう考えると、全身から冷たい汗が噴き出した。
「テンメェー、自分を切るのかいッ!?アタイはアンタの肉なんだよジョセフジジイ!アンタはもう、アタイから逃げられないのサ、ハニー♪」
エンプレスはジョースターをおちょくるように、憎たらしい笑みを投げかけた。
「では!アンタが何を考えているか、当ててやろうカ?
アンタはこう考えている。スタンドはスタンドでしか倒せない。
自分のスタンド、ハーミットパープルの能力は遠隔視、遠くを視る能力。それだけで闘えるのだろうか、自分の腕と一体化しているのをやっつける事が出来るのか、とね。
フヒャヒャ!!無理だネ!!」
「ぬぅぅぅ・・・・!本体は何処だ、何処で儂に取り憑きおった!?」
「バカめ!!言えるか!!うぅ・・・、ブエエェーーッ!!」
エンプレスは突如、吐瀉物のような汚らしい液体をジョースターに向かって吐き飛ばしてきた。
間一髪、何とか被らずには済んだが、安心する暇はもう1秒たりともなかった。
闘いは始まってしまったのだ。
こんな所で。こんな形で。
「おのれぇ・・・・!」
ともかく、この場を離れなければならない。
江里子と共に、承太郎達の元へ戻らねば。
「キャハハハハ!!仲間の所へ行くのかい!?そうは思い通りにいくかね!?」
ジョースターが駆け出した瞬間、エンプレスは不敵にそう言い放った。
すると、絶妙すぎるタイミングで、ナースが診察室に入って来た。
「先生、次の患者さんが待って・・・」
ナースはそこで言葉を切った。
足元に転がっている医者の死体に気付いたのだ。
「キャアアアーーーッ!!!!せっ、先生が・・・・・!!!」
彼女はカルテを取り落とし、声の限りに悲鳴を上げた。
そして、医者の死体の側に立っているジョースターを見て、綺麗な顔を凍りつかせた。
その目は明らかに、これ以上ない程に、怯えていた。
「はっ・・・!?おお、おい!誤解するんじゃあないぞっ!!儂は犯人じゃあ・・」
「犯人はワシじゃあ!!」
無実を訴えかけた瞬間、造ったような奇妙な声が、ジョースターの声を遮った。
「名はジョセフ・ジョースター!!アメリカ人!!ホテル・クラークスに泊まってる!!」
「何ィィーーーッ!!」
エンプレスだった。
エンプレスが、ジョースターの声色を真似て喋っていたのだ。
「ところでネエちゃん、ワシャ特にアンタのような若いナースが堪らなく好みでのう・・・・。」
「何ィィッ・・・!?」
エンプレスは『自白』しただけでは飽き足らず、妙にねっとりとした厭らしい声で、ナースを更に怯えさせた。
「ひっ・・・、人殺しィィーーッ!!」
案の定、ナースは完璧にジョースターを変態殺人鬼と思い込み、絶叫して逃げていった。
「待てっ、違う・・・・!!オー・・・・、ノー・・・・・」
呼び止めたが、時既に遅し。
弁解の余地は、もう1ミリたりともなかった。
となれば、やる事はひとつしかなかった。
「・・・こうしちゃおれんわい!」
この場から即刻、速やかに、逃げ出すのだ。
ジョースターは全力で駆け出して、診察室を飛び出した。
「あれ?ジョースターさん、どうし・・きゃあっ・・・・・!」
そして、その勢いのまま、待合室の長椅子に腰掛けていた江里子の腕を掴み、強引に外へと連れ出した。
「ジョ、ジョースターさん!どうしたんですか!?」
「訳は落ち着いてから説明する!ともかく走ってくれ!全速力で!」
「えぇっ!?」
訳が分からないながらも、江里子はそれ以上何も言わず、言う通りに走ってくれた。
無条件に信頼してくれているのだ。
この娘に危害が及ぶような事は、決してあってはならない。
己の右腕に巣食っている敵スタンドをチラリと一瞥して、ジョースターはひたすら走った。
程なくして、表通りをやたらとパトカーが走り始めた。
青いランプを忙しげに点滅させて、2台、3台と集まってくる。
病院前はたちまち、警官、パトカー、そして野次馬で騒然となった。
ジョースターと江里子は人気のない路地裏から、その様子を息を潜めて覗いていた。
「うぅ・・・・・」
「ジョースターさん、これは一体・・・・・」
そろそろ江里子に説明をせねばと思った瞬間、それまで静かだったエンプレスが、また甲高い笑い声を上げた。
「キャハハハ!!もうホテルには戻れんわね!
これで邪魔が入らずに、アンタを殺せる事になった訳なのサ!」
「え・・・・えぇっ!?な、何ですかそれ!!」
ジョースターの腕の喋る腫瘍に、江里子は案の定、酷く驚いた。
「ジョースターさん、その出来物は・・・・・!?」
「コイツは虫刺されなんかじゃあなかった。不覚にも気付かなかったが、コイツは敵スタンド、女帝のカードの・・」
「エンプレスだよ、覚えときなこのメス豚!!」
エンプレスはジョースターの言葉尻を奪い、江里子に向かって『自己紹介』した。
こんな物体に品性を求めるのは間違いだが、それにしても口の汚い、下品な『女』である。
「エリー、気にするな。コイツに何を言われても聞き流してくれ。
コイツは必ず儂が倒す。それまで少しの間、辛抱していてくれ。」
「は、はい・・・・・・」
驚きと混乱とショックの中にありながらも、江里子は気丈に頷いて見せた。
「キャハハハ!!テメェがアタイを倒すだってぇ〜!?寝ぼけてんのかいこのボケジジイが!
ヘイそこのブス!!ジジイをぶっ殺したら、次はお前の番だからネ!!
その汚らしいXXX引き裂いてやるから覚悟しときなビッチ!!」
「こっ・・・、このクソアマ〜・・・・!!」
ついさっき、コイツに何を言われても辛抱して聞き流してくれと言ったのは他ならぬジョースター自身だったのだが、エンプレスのあまりの下劣さに、ジョースターは自分で言った事を一瞬で忘れ去る程怒り狂った。
「叩き潰してやる!!」
ジョースターは激しい怒りに任せ、エンプレスの巣食った腕を思いきり壁にぶち当てようとした。
しかしその瞬間、エンプレスの身体から、突如、隆々と逞しい両腕が生えた。
「何ィィッ!?」
「ヘイ!!自分の腕なんだよ!!大切に扱いなよ、クソジジイ!!」
エンプレスは生えた両腕を突っ張らせ、壁への激突をいとも容易く回避した。
― 手が・・・・生えよった・・・・・!ど、どんどん成長しているのか!?
ジョースターは内心で驚愕していた。
まるで女の胎内で芽生え、どんどん育っていく胎児のように、急速に成長していくスタンド。
聞いた事のないタイプのスタンドだった。
「うっ・・・!」
エンプレスはおもむろに、窓の鉄格子を両手で掴んだ。
「ぬっ、ぬぅぅぅ・・・・!」
「ジョースターさん!」
「ヒャーッハハハ!!」
「お・・・おぉい・・・・!放せ、何を掴んでいる!?放さんかい!」
ジョースターがどれだけ力を込めようとも、エンプレスはびくとも動かず、鉄格子をしっかりと掴んで離さなかった。
「イヤだわヨ♪オマワリさぁ〜ん!犯人はここよぉ〜!ここにいるわよぉ〜ッ!」
「げぇぇっ!?」
これが狙いだったのだ。
そう気付いた時には、もう手遅れだった。
エンプレスの大声のせいで、表通りを歩いている警官に見つかってしまっていた。
― 久しぶりにこうなったら・・・・・!
ジョースターは気持ちを静め、呼吸を整えた。
「お前!!何をしている!?」
「はっ・・・・!?ジョ、ジョースターさん・・・・・!」
警官に拳銃を向けられ、江里子が怯えている。
早く、カタをつけねば。
「ジョースターさん、どうしましょう・・・・・!?」
ジョースターの掌から、バチバチと火花が散り始めた。
江里子は殆ど泣きそうになりながら、ホールドアップの姿勢を取って硬直している。
「オーバードライブ!!」
ジョースターは、迸る波紋の衝撃を、エンプレスに向かって放出した。
だが。
「うおっ・・・・!?」
「ト〜ンチキ〜!自分の腕なんだよ?自分の肉体に自分の波紋が通じるかい!」
波紋の衝撃を全てその身に受けてなお、エンプレスは平気の平左な顔をしていた。
「そこの男!!動くな!!」
「ま、待って下さい!私達は抵抗しません!撃たないで!!お願い!!」
この瞬間に撃たれていても不思議ではなかった。
それが撃たれずに済んだのは、江里子のお陰だった。江里子が必死で庇ってくれたからだ。
しかし警官は、警告に従わないジョースターに対し、明らかに警戒を強めている。もういつ発砲してもおかしくない状況だ。
「・・・・ならば!!ハーミットパープル!!」
ジョースターはスタンドを発動させ、エンプレスをがんじがらめに縛りつけた。
「うっ、うおぉ・・・・!し、締めつけられル・・・・!」
「ハーミットパープルには、こんな利用法もあるのじゃ!!」
「動くなと言ってるんだ!!」
遂に警官がトリガーを引いた。
それは、エンプレスが手を放した瞬間とほぼ同時で、0コンマ数秒後に、弾が鉄格子に的確に着弾した。
なかなか射撃の腕が良い警官のようだ。
冷や汗をかく暇もなく、2発、3発と、正確にジョースターを狙って撃ってくる。
江里子を狙わないでくれているのは幸いだが、かといって、江里子をここに残してはいけない。
共犯者扱いされて連行され、どんな目に遭わされるか、分かったものではないからだ。
「エリーッ!来るんじゃ!!」
「ひぃぃっ・・・・・・!」
完全に怯えて硬直してしまっている江里子の手を掴んで引っ張り、ジョースターは路地を奥へ奥へと走った。
途中でボロきれを見つけたので、咄嗟にひったくって腕に掛け、エンプレスの姿が人目につかないよう覆い隠した。
「何すんだい、暗いじゃないのサ!!」
エンプレスはキーキーと金切り声を上げて怒ったが、何故か攻撃はしてこなかったので、気にせずに放っておく事にした。
どんな思惑があるのかは知らないが、大人しくしている内は構っていられない。
ともかく、警官から逃げるのが先決だった。
「ジョースターさん、どうしましょう・・・・・・!」
「大丈夫じゃ、エリー!儂に任せておけ・・・・・!」
泣きベソをかきながらも何とかついて来る江里子を宥め、励ましながら、ジョースターはひたすらに走った。
しかし無論、本心から大丈夫だと思っている訳ではなかった。
― 何てこった・・・・!
今のところ、手立ては全く思い付かない。
所謂、『お手上げ』という状態だった。
同じ頃、ポルナレフはネーナを連れて、ベナレス市街の表通りを歩いていた。
現在地は、今夜の宿、ホテル・クラークスからちょうど反対方向のようだった。
ネーナの家は、このすぐ近くだという。全く、楽な任務だった。ちょっと物足りない位に。
「なあ、だからよぉ、ネーナ。本当の男ってのは、デケェ事は言わないものさ。そういう所で、嘘吐き男かどうか見破るんだぜ。」
ポルナレフは、『お説教』の続きをしながら歩いていた。
しかしネーナは相変わらず何の返事もせず、頼りなげな視線を地面に落としがちに歩いているだけだった。
「ホル・ホースみたいなセコい男よりよぉ、俺なんかどうだい!?タイプじゃない!?」
気付けばついつい、アピールなどをしてしまっていた。
ネーナの悲しげな横顔が、余りにも頼りなげで、つい放っておけなかったのだ。
「俺はよぉ、過去には拘らない男さ!昔どんな男と付き合ってたって、気にしないぜ!大切なのはこれからよ!気持ちが通じ合うかどうかだよなぁ!」
グイグイとアタックしていると、それまでだんまりだったネーナが、突然口を開いた。
「あっ!あそこを見て下さい!」
「ん?」
「あそこの建物、日本人のクミコさんという女性が経営しているホテルね。インド人の旦那さんと切り盛りしているんですが、格安で宿泊出来ます。」
「あ、そーなの?ほぉ〜。」
ネーナの指し示した方を見れば、なるほど、それらしき建物があった。
だが、今夜の宿は既に手配済みだし、景観も向こうのホテルの方が遥かに良い。
だからポルナレフとしては、特別興味も無かった。
「それで、ホテルがどうかしたの?」
「いえ、別に・・・・・・。貴方のお仲間に日本人がいたから・・・・」
「ああ、そういやそうだな。花京院とエリーと承太郎・・・、はアメリカ人とのハーフだけどよ。アイツらは日本人だったなぁ。
ま、そんな事は良いんだけどよ、ところで何話してたっけ?
ああそうだ、だからだなぁネーナ、大切なのは過去より未来って事でよぉ・・・・」
「はぁっ、はぁっ、はぁっ・・・・・!ジョ、ジョースターさん・・・・・!ここ・・・・・、何処なんですか・・・・・・!?」
息を切らせて走りながら、江里子がそう尋ねてきた。
しかしジョースターには、答える事が出来なかった。
「分からん・・・・・、じゃが、大丈夫だ・・・・・!もう少しの間、頑張ってくれ、エリー・・・・・・!」
「は、はい・・・・・・・・!」
何とかして承太郎達の待つホテルに帰りたいのだが、必死に警察を避けて来たら、ホテルとは反対方向に来てしまった、確かな事はそれだけだった。
しかも、公衆電話も見当たらず、承太郎達に連絡を取る事すら出来ない。
― こんな事ならポルナレフと一緒に来るんじゃった・・・・・・!
口が裂けても決して言えない泣き言を心の中で垂れながら、口では江里子を励ましつつ、ジョースターは走り続けた。
すると、いつの間にか市場に迷い込んでいた。
野菜や果物を売る店、鶏が何羽も入った大きな檻をドンと構えている露店など、様々な商店が通り沿いにズラリと並んでいる。
しかし今は、それらを見物している暇はなかった。
早いところ軌道修正をし、ホテルへ戻らねば。
何処かに抜け道がないものかと辺りを見回しかけた瞬間、バリバリッと何か固い物を噛むような音、次いで咀嚼音のような音が聞こえ、ジョースターは足を止めた。
「うんっ!?」
「どうしたんですか!?」
ボロきれの中で、エンプレスが何やらモゾモゾと落ち着きなく動いていた。
と、次の瞬間、ジョースターの足元にリンゴの芯が落ちてきた。
「なっ・・・・!?」
「えぇっ!?」
それで終わりではなかった。
バナナの皮や、齧った跡のある芋やキャベツなどが、次々と落ちてくるではないか。
「何をしておる!?・・・・うぅっ・・・!?」
一瞬、エンプレスが急激に膨張したように見えた。
「チューミミーン!」
数分ぶりに、エンプレスは沈黙を破った。
しかしその声は、さっきよりも明らかにワントーン低く、そして太くなっていた。
「食ってるんだよジョースター!デッカくなる為にね!」
「市場で盗みおったな!すばしこい奴!!」
咎めた瞬間、とても厭な音が響き、重々しい音を立ててまた何かが落ちてきた。
「ぬぅっ・・・・!」
「きゃああっ!!」
それは、鶏の首だった。
僅かに遅れてその上に大量の血がドボドボと降り注ぐ様を見て、江里子は一瞬で青ざめ、吐き気を堪えるかのように手で口を覆った。
「この・・・」
ジョースターは、腕の布を取り払おうとした。
その瞬間、右頬に強烈な衝撃が走った。
「うぅッ・・・・!!」
「ジョースターさん!」
ジョースターは、右頬にパンチを喰らっていた。
平手や何かじゃない、まるでプロボクサーのような威力とキレのある、強烈なストレートパンチだった。
「ジュ〜ミミ〜ン!」
暫くぶりに姿を現したエンプレスは、何もかも大幅な変貌を遂げていた。
もう明らかな人型になっており、しかも、いかつくて下品な中年女のような醜い風貌をしていた。
声も更に低くなり、正しく『オバン』のようである。
「こんなデカくなったわよ。親の脛かじり、いや腕かじりと呼んでパパ♪ジュミミ〜ン。」
「このブスアマがぁ!!」
ジョースターがブチ切れても、エンプレスはどこ吹く風で、飄々と鶏の骨をそこらに吐き捨てている。
もう我慢ならなかった。
見た目も醜悪なら口も悪い、素行も下劣、こんなおぞましい物体にパパと呼ばれるのは、どうしても勘弁ならなかった。
「このジョセフ・ジョースターが闘いにおいて貴様なんかとは年季が違うという事を、これから思い知らせてやる!!」
ジョースターはエンプレスに向かって、猛然と宣戦布告をした。
― ・・・とは言ったものの、どうすれば良いんじゃ・・・!?くそぅ・・・、とりあえず・・・・
「ハーミットパープル!!」
ジョースターは再度、エンプレスを縛りつけた。
「おとーさまぁ、ここまで育てていただいてありがとぉ。
でもぉ、こんなに自分の子供をキツく縛っちゃあダメじゃないの。
子供は自由に、育てなくっちゃあねッッ!!」
しかしエンプレスは、その拘束をものともせず、身体を倒してジョースターの腕に思いきり噛みついた。
「ウオオォーーノーーーッ!!!」
「ジョースターさん!!」
「うぐぐ・・・・!」
何事かと訝しむ通行人達の視線の中、ジョースターは痛みを堪えて走り出した。
そのすぐ後を、江里子がついて来る。
勿論それに気付いている筈なのだが、エンプレスは相変わらず、江里子に危害を加えようとはしなかった。
エンプレスは恐らく、スタンド使いではない江里子の事はものの数に入れていない、最初の宣言通り、今のターゲットはあくまで自分一人なのだろうとジョースターは思った。
人に寄生し、ある程度の時間をかけて成長していくタイプのエンプレスには、恐らく、複数の敵と同時に闘う事は厳しい筈だ。
『宿主』がそれをさせまいとすれば、それまでの話だから。
しかし、その『宿主』に対しては、圧倒的に有利である。
何しろ自分の身体に寄生し、身体の一部と化しているのだから、何処へ逃げてもついて来る。切り捨てる事も容易ではない。
それに、『成長』もどこで止まるのか、知れたものではない。
この速度で成長され続ければ、一体どうなってしまうのか。
一刻も早く、何としても倒さねばならない。
しかしハーミットパープルの攻撃力は低く、エンプレスには敵わない。波紋も通じない。
― ・・・ならば、スタンドではなく本体、エンプレスの本体である人間を・・・・!
発想の転換に至り、微かな糸口が見えたかのように思えた。
しかしそれは、ほんの一瞬の事だった。
― だ、駄目だ・・・・、ハーミットパープルの遠隔視能力でコイツの本体を見つけ出したいが・・・・、カメラが無い!
辺りを見回しても、カメラを持ち歩いている者も、売っていそうな店も見当たらない。媒体がなければ、ハーミットの『言葉』は引き出せない。
― い、一体どうすれば・・・・?このままだと、この腕はおろか、儂自身もコイツになっちまうのか!?
自分を丸ごと乗っ取られたところを想像し、ゾッとした瞬間、エンプレスが身体を起こした気配がした。
「ぬぅっ!?」
「ゥォアトーーーッ!!!」
エンプレスはジョースターに向かって、カンフーのようなファイティングポーズを決めていた。
「フヒヒ、もうカンペキにアンタをブチ殺せる状態になったワ。
ほぉら!だってアンタの首に手が届くモン♪首の頸動脈をプツーンと切っちゃえば、おしまいですものネ。」
「うぅ・・・・・」
揃えて突き出されたエンプレスの指先は、確かに、ジョースターの首に十分届いていた。
これより小さかった時でも、あれだけの腕力があったのだ。首の皮膚を貫き、頸動脈を切断する位、本当に造作もない事だろう。
「ホォォーーーッ!!アチョオーーーッ!!」
とうとう、エンプレスの猛攻が始まった。
繰り出されたパンチを咄嗟に義手で受け止めたが、たったその一撃で義手はミシミシと不吉な音を立て、手袋が破れた。
「アチョーッ!!アチョチョチョ、アチョーーッ!!」
パンチの連打に、手袋はみるみる内にボロボロになり、あっという間に銀色の義手が露になった。
この攻撃はとても、生身の手では受け止められない。
特殊な硬い合金製の義手でさえ、この有り様なのだから。
「オオオーーッ!!!」
「ジョースターさん!!」
ジョースターは防戦一方だった。なす術もなかった。
隣では、江里子がもっとなす術のなさそうな様子でオロオロしている。
ともかく江里子にとばっちりがいかないように、ジョースターは何とか江里子との間合いを取り、エンプレスの攻撃にひたすら耐え続けた。
しかし、それも長くは続かなかった。
「ホアッチャアーッ!!」
振り抜かれたパンチの強烈な衝撃で、とうとう義手のガードが崩れてしまったのだ。
「ワッタァーッ!ホワッチャーッ!!」
ここからが本領発揮とばかりに、エンプレスの攻撃はますます激しくなった。
ノーガードとなったジョースターの顔に、エンプレスのパンチが次々とクリーンヒットする。
とどめに鋭いアッパーを喰らい、ジョースターは遂に吹っ飛び、派手にダウンした。
その拍子に、そこらにあった瓶の中の灰がぶち撒けられ、ジョースターは頭から盛大に灰を被った。
「何だあの人!?」
「何してるんだ!?」
近くに居合わせた人々が、驚愕の目でジョースターを見ながらも、巻き添えを食わないように遠ざかっていく。
しかしジョースターには、そんな人々の反応を気にする余裕など全くなかった。
「ケェェーッ!!」
エンプレスは更に、そこらに落ちていた小さい壺を掴んで、ジョースターを激しく殴りつけてくる。
まるでヒール役のプロレスラーのようだ。
ボクシングにプロレスに、全く、何というじゃじゃ馬だろうか。
「き、貴様ぁーーっ!!」
凶器の壺を弾き飛ばし、ゴロゴロと転がってエンプレスと揉み合いながら、ジョースターは必死で江里子から、そして無関係な町の人々から、距離を取った。
― くそう、このままでは埒があかん・・・・!何とか、何とか方法はないものか・・・・・!?
盛大に舞い上がる大量の灰が、鼻や口に入って、むせて仕方ない。
その間にも、エンプレスは容赦なく攻撃してくる。
灰の上でのたうち回るジョースターを、せせら笑いながら。
― うん・・・・・・・!?
ジョースターは、ふと地面に目をやった。
のたうち回る自分の周りに、灰がくっきりとシュプールを描いていた。
何しろ大きな瓶だったのだ、きっと相当な量が入っていたのだろう。
だから地面に分厚く積もり、こうして軌跡を描ける程に・・・
― 軌跡を描く・・・・・!?
自分の考えに、ジョースターはハッとした。
カルカッタでは結局考えが至らず出来なかったが、今なら編み出せるかも知れない。
ハーミットパープルの、新たな使い方を。
― あ、あとは、あとは何か・・・・・・・・!
灰と砂塵がもうもうと舞い上がる中、ジョースターは必死で辺りを見回した。
何か、何か。
その時ふと、あるものが見えた。
これだ。
ジョースターの直感が、そう訴えた。
― 頼むぞ、ハーミット・・・・・!
次の瞬間、ジョースターはエンプレスに気付かれぬよう、地面に向かってハーミットパープルを発動させた。
そして、『その部分』に転がってしまわないよう、必死で身体を支え、エンプレスの攻撃から守った。
「な、何だありゃ!?」
「み、見ろ!あの人、腕に気持ち悪い出来物がついてるぞ!!」
舞い上がる灰と砂の煙が収まってくると、とうとうエンプレスの姿が通行人達に認識されてしまった。
ジョースターは何とか立ち上がり、再び走り始めた。
「ジョースターさん!!」
江里子がまたついて来る気配がしたが、振り返る余裕はもうなかった。
右も左も分からない場所に江里子を一人で置いて行く訳にはいかない、しかし、足を止める事も出来ない。走るペースを少々落とす位が精一杯だ。
何とか頑張ってついて来てくれと心の中で願いながら、ジョースターは走った。
「ハァッ、ハァッ、くそッ・・・・!どいつだスタンド使いは・・・!?」
スタンド使い、エンプレスの本体を捜す為に。
「あ!これ!」
「あ〜ん?」
「これ、とても美味しいですよ!是非食べて下さい!」
まただ。
また突拍子もなく、ネーナが口を開いた。
今度は何だと思いながらも、ポルナレフはネーナの指さすものを見た。
何という事はない、小汚い屋台で売っているスナックだった。サモサか何からしい。
見た感じ、そんなに特別美味そうには思えないのだが、美女の誘いと勧めは断らないのが、ポルナレフの主義だった。
「へ〜。あーそう。んじゃまあ折角だから・・・・、おいオヤジ、それ2個くれ。」
「O.K.!アリガトネ!」
「あ、いえ、私は・・・・。貴方に食べて頂きたかったんです。」
「あ、そう?んじゃ1個で良いや。」
ポルナレフはスナックを1つ買い、ネーナに誘導されるがまま、道の曲がり角のところでそれを食べ始めた。
「ん〜、なかなかイケるじゃあないの。」
「そうですか。良かった。」
ネーナはまたそれっきり、ぷっつりと黙り込んだ。
まただよと、ポルナレフは内心で思った。
ネーナはさっきからずっとこの調子だ。
何を話しかけてもうんともすんとも答えないと思いきや、突然口を開き、全然関係の無い話を振ってくる。
見目形は実に麗しいのだが、どうも会話の噛み合わない女だ。
これも失恋のショックのせいだろうか。
それとも、元々ハチャメチャな性格の娘なのだろうか。
「・・・・ポルナレフ様」
そんな事を考えながらスナックを頬張っていると、不意にネーナがポルナレフを呼んだ。
「んぁ?」
「私って、頼れる男性がいないと駄目な女なの!」
ネーナはそう叫ぶと、いきなりポルナレフの胸に飛び込んできた。
突然と言えば、これまでのネーナからの会話は全てそうなのだが、流石にこれにはポルナレフも唖然となった。
「好きです。だって貴方って、とても頼り甲斐があって親切な方なんですもの!」
「お、おい、急に何だよ!?」
見上げてくるネーナの黒く潤んだ瞳に、ポルナレフは息を呑んだ。
本当に、何と美しい娘なのだろう。
次第に鼓動が高鳴り始めるのが、自分でも分かった。
考えてみれば、ここ暫く、アバンチュールにはとんとご無沙汰だったのだ。
シェリーの敵討ちの旅に出た頃はとてもそんな気分になれず、偶に行きずりの関係を持っても心は虚しく乾いていたし、肉の芽でDIOに操られていた1年はそれすら無かった。
そして今、承太郎達と出会い、江里子と出会ったが。
― うぅ・・・・・・;
ポルナレフの脳裏に、カルカッタでのあの一夜が蘇ってきた。
何度思い返しても、あれはこの上ない愚行だった。江里子には詫びの言葉以外出て来ない。
しかしあの時、一瞬とはいえあれ程欲情してしまったのは、欲求不満のせいも少なからずあったのではないだろうか。
もう長らく、セックスをしていないから。
虚しいだけの排泄的な行為ではなく、心の伴う愛の営みをしていないから。
だからあの時、あれ程、江里子に対して欲情してしまったのではないだろうか。
しかし、今となってはもう、江里子に軽はずみに手を出す事は出来ない。
生きるか死ぬかの瀬戸際を何度も乗り越え、忌まわしき因縁に共に決着をつけてくれた江里子を、ポルナレフはもう、単なる『女』とは見られなくなっていた。江里子はかけがえのない仲間であり、家族であり、命を懸けてでも護るべき存在だった。
愛も絆も忠誠も、永遠のものだ。
しかし、『恋』には限りがある。
燃え盛っている時は良いが、後には必ず消えてしまう。失ってしまう。
それを、江里子相手にする訳にはいかなかった。
愛しているからこそ、絶対に失いたくないからこそ。
だが、皮肉な事に、若く健全な男としては、それを求めずにはいられない。
恋に落ちる時の、あのめくるめくような気持ちの昂りを。
身体ごと心を求め合う、あの甘い高揚感を。
「愛しています、ポルナレフ様・・・・・」
その相手に、このネーナという娘はうってつけだった。
若く、美しく、そして。
「ネ、ネーナ・・・・・・・」
― 本気かぁ・・・!?俺マジに恋に落ちちゃうよ・・・!?ラッキー・・・!
永遠の絆では結ばれていない。
つまり、限りあるアバンチュールを存分に楽しめる相手だったのだ。
またパトカーが来た。
「エリー、隠れるんじゃ!」
「はっ、はいっ・・・・!」
柱の陰に隠れてパトカーの追跡をやり過ごし、ジョースターはまた走り始めた。
エンプレスはまた大人しくなっていたが、それは疲労のせいでも、押さえ付けている義手のせいでもない。
わざとだ。
猫が鼠を弄ぶように、じわじわと苦しめ、嬲り殺しにしようとしているのだ。
ちょっと休憩と言わんばかりにニヤニヤしているエンプレスの顔が、その思惑を表していた。
一方、ジョースターの方はというと、こうして時折立ち止まる事はあるものの、ずっと走り続けて流石に息も切れてきた。
江里子も、何とかついて来てはいるが、もう今にも転んでしまいそうに足が縺れてしまっている。
無理もない、ジョースターのペースでマラソンに付き合わせているようなものなのだから。
しかし、今はまだどうしてやる事も出来ない。
江里子の体力と気力を信じ、ジョースターは心を鬼にして走り続けた。
「はぁッ、はぁッ・・・・・・!」
一旦、細い路地に逃げ込み、建物と建物の隙間を通り抜けると、また道に出た。
少し広めの道だったが、店が無いせいか、人通りは無かった。
「ヘイ、ジョセフ・ジョースター!このバカが!どんどん承太郎達から離れていくよ、フヘヘヘ!」
エンプレスは相変わらず勝ち誇った様子で、耳障りな笑い声を上げた。
「・・・・・この儂が、ただやみくもに・・・」
「あ?」
「疲れる為に走り回っていたと思うのか!?」
「あ??」
しかしそれは、ここまでの話だった。
「貴様の息の根を止める為に!走ってたんじゃよ!!」
ジョースターはラストスパートをかけ、目の前のドラム缶に向かって全力疾走した。
「貴様を!コレの中に!突っ込む為じゃあ!!」
そして、エンプレスの憑いた腕を、ドラム缶の黒々とした液体の中にどっぷりと浸け込んだ。
「ゴボゴボゴボ・・・・!ブ・・・、ブブブ・・・!ブブ・・・・!!」
どす黒く粘っこい液体の表面に、ゴボゴボと気泡が湧いてきた。
と、その瞬間。
「ボケ老人がぁーーーッ!!」
「ぐああああーーーッ!!」
エンプレスが飛び出してきて、ジョースターの首に何か鋭利な物を突き刺した。
「ジョースターさん!!」
「く、釘を・・・・!!」
「っ・・・・・・!」
それは、細長い釘だった。
それを目に留めた江里子が血相を変えて駆け寄って来たが、ジョースターはそれを拒絶した。
「駄目じゃ、来るな!近寄るんじゃあないッ!」
「だって・・・・・!!」
「下手に何かすれば、今度は君に危害が及ぶ・・・!離れておるのじゃ・・・・!」
「そ、そんな・・・・・・!」
釘の刺さり具合は、もう数ミリ食い込めば、それこそ頸動脈を突き破られてしまうというところだった。それを何とかギリギリのところで食い止めている状態だった。
「さっき拾っていたのサ。地面を転がり回っていた時に拾っていたのサ!
これでアンタのケードーミャクを掻っ切ってやる為にネ!!
アタシをこん中に突っ込んで、窒息でもすると思ったのかい!?死ねぇーッ!ヤァッ!!」
「うぐぅっ・・・・・!」
「ジョースターさん!!」
エンプレスが、更に釘をグリグリと抉り込んでくる。
その衝撃で壁際に追い詰められながらも、ジョースターは必死でそれを押し止めた。
「あたしゃ実体化してるけど、生物じゃねーのよ。ルールを忘れたのかい!?
スタンドは、スタンドでしか倒せない。
ヘイアンタ!さっき闘いの年季の違いを見せつけるとか言ってたネ。
今のどこが闘いの年季なのさ!?テメェはただトシ取っただけの老いぼれジジイだろうがぁーッ!」
― ぎ、義手の指が、さっきのコイツの突きで壊れかかってて、力が入らん・・・・!
さっきの猛攻を防御し続けたせいで、義手の指は全て、ほぼ取れかかっていた。まるで壊れかけのポンコツロボットの手のように。
そんな手でエンプレスの力を抑える事は、やはり不可能だった。
釘がまた少し、ジョースターの首の中に深く埋没していく。
「ジョースターさん・・・・!!」
「うぐぐぐ・・・・・・!」
「そぉれ、もうひと押し!脳軟化人生もここまでだねジュミミン!
アンタにゃこのアタシを倒す方法など、何ひとつ・・・・・ん?」
「・・・・フン」
「うぇ!?」
今の今まで勝ち誇っていたエンプレスの様子が、突然変わった。エンプレスの全身をコーティングしている黒い液体が、急速に変色し、固まり始めたのだ。
「何ひとつ!!うわ!げ!・・・・は!」
ジョースターの首から釘が抜け落ち、地面に転がった。
「げえーーッ!」
「えぇ!?何ひとつ・・・、何じゃとぉ?トシ取って耳が遠くなったかのう!何て言ったのか、もう一度言ってくれい!」
ジョースターは悠然と壁際から離れ、エンプレスに向かって耳をそばだてて見せた。
「・・・は!コールタール!!」
エンプレスはようやく、理解したようだった。
「突っ込んだのはコールタールの中!!窒息させる為でなく、アタシを固める為だったのか!!
し、しかし・・・、あの中にコールタールが入っていると何故分かった!?」
「イィッヒヒヒ!我がスタンド、ハーミットパープルの能力は・・・・」
ジョースターは、エンプレスに見せつけるようにしてハーミットパープルを発動させた。
何故、ここにコールタールがあると分かったか。
それは、あの大量の灰と、あの現場の道路のお陰だった。
ハーミットパープルの念写には、念写したものを映し出す為の媒体が必要である。
ジョースターはこれまで、その媒体とは映像を表す物、すなわちカメラやTVでなければならないと思い込んでいた。
しかし、必ずしもそうではなかった。
灰の上を転げ回った時に出来た軌跡を見て、思ったのだ。
確か、砂で絵を描く、砂絵という技術があった筈だ、と。
そして、その灰の下の道路が、他の道のように砂利ではなく、コンクリートで舗装されているのを見て、思ったのだ。
道路の舗装には、コンクリートを固める為のコールタールが必要不可欠の筈だ、と。
そして、ジョースターのその考えは、見事に新たな境地を切り開いた。
コールタールの在り処を求めて灰の上に念写すると、ハーミットは見事、答えてくれたのだ。
黒く平らな舗装道路の上に、白い灰の粒でこの町の正確な地図を描いて。
「ハッ!?お、お前、念写したな!?道路に使ったコールタールを辿ったな!?灰の粒で念写したな!?」
エンプレスはようやく、よくよく理解したようだった。
「ま、これで闘いの年季の違いというのが、よーく分かったじゃろう!相手が勝ち誇った時、そいつは既に敗北している!」
「あわわ、あわわわ・・・・!」
「これがジョセフ・ジョースターのやり方!老いてますます健在というところかな!!」
エンプレスに向かってウインクして見せると、興奮したような拍手が高らかに鳴り響いた。
江里子だった。起死回生の鮮やかな大逆転を決めてみせたジョースターに、江里子が拍手していたのだ。頬を紅潮させて、満面の笑顔で、瞳をキラキラと輝かせて。
正直なところ、とてつもなく良い気分だった。
年長者としての体裁を、これ以上無い程の見事な形で保てたのだ。
可愛い孫娘のような江里子にこれ程熱い敬意を寄せられるのは、何とも良い気分だった。
「そして・・・・」
恍惚とした気分をどうにか引き締めると、ジョースターはハーミットパープルでエンプレスを縛り、そのまま伸ばした蔓を、頭上の窓枠の鉄パイプ部分に絡めた。
「スタンドはスタンドで引き離せる!!」
「うっ・・・・!うっ・・・・!」
「お前は『やめてそれだけは』と言う!」
「やめてやめて、それだけは・・・、うわぁっ!?」
ジョースターはもう一度、ウインクをして見せた。
「駄目だな!!儂だって痛いんだ。子供というのは、いつまでも親の脛を齧ってちゃいかん!!」
ジョースターは、壁を蹴って宙に飛んだ。
「大きくなったら、独り立ちせんとなぁ!!!」
「うぅごごご・・・・・!!ギエェェェーッ!!」
ハーミットの蔓でがんじがらめにされていたエンプレスは、落下の衝撃で蔓が全身に食い込み、引き千切られ、四散した。
「ジョースターさん!!大丈夫ですか!?」
「ああ、何とかな。」
江里子がすぐに駆け寄ってきて、頬や首の怪我にハンカチを押し当て、血を拭ってくれた。
エンプレスの離れた腕も、皮膚が少し破れて血が出ていたが、それは意外と大した怪我ではなかった。少なくとも、わざわざ病院に行く程ではなさそうだ。
「・・・・どぉれ、スタンド使い本体は何処だ?」
それよりも、行かねばならない所がある。
きっとこのすぐ近くの筈だ。
ジョースターは、江里子を伴って歩き出した。