「左手が右手の男?何だい、そりゃあ?」
「見た事ないなぁ。」
これでもう何人、いや、何十人目だろうか。
ポルナレフはうんざりと溜息を吐いた。
誰に訊いても、皆、判でついたように同じ答えを返してくる。
それは即ち、『吊られた男』J・ガイルが、この近くにはいないという証拠なのだろうか。
「くそっ・・・・・・!」
ポルナレフとしては、まだまだ諦めたくはなかった。
しかし、既に夜も更けて、辺りは真っ暗になっている。
通りを歩く通行人達の面構えも、心なしか危険な感じに変わってきている気さえする。手当たり次第に声を掛けて回るのは、悔しいがそろそろ限界のようだった。
「すみません、ちょっとお尋ねしますが・・・・」
ポルナレフは顔だけで少し振り返り、斜め後ろを見た。
通りを挟んだ向かい側の路傍で、江里子はまだせっせと聞き込みを続けていた。
多分、江里子なりに注意を払ってはいるつもりなのだろう、暗くなってからは通行人には声を掛けず、商店や屋台の主人らしき人間ばかりを選んで聞き込んでいる。
しかし、ポルナレフにしてみれば、それでもまだまだ危なっかしかった。
危なっかしいから、ついつい頻繁に江里子の姿を目で追い、その無事を確認してしまう。それがまた、ポルナレフをより一層苛立たせていた。
江里子さえついて来ていなければ、自分のペースでもっと速く進めていたのに、と。
「チッ・・・・・・」
やはり情報を得られず、頭を下げて店の軒先から出てきた江里子を見て、ポルナレフは舌打ちをした。
馬鹿丁寧に声を掛け、何も教えて貰っていないのにいちいち頭を下げて感謝をし、礼を言ってはまた次の人間に声を掛ける。そんな一生懸命な江里子が、見ていて鬱陶しかった。
いい加減に疲れたの腹が減ったのと不満でもぶち撒けてくれれば、こちらも堂々と追い払えるのに、泣き言ひとつ垂れずについて来るから、どうしようもない。
いっそこちらからぶち撒けに行ってやるかとふと思った、その瞬間だった。
細い路地から怪しげな若い男達が数人、フラフラと出てきた。
現地人らしい男達で、その目は明らかに江里子一人を見定めていた。
「Hey, girl! 」
「Hi! You tourist? 」
男達はたちまちの内に、江里子を取り囲んだ。
「一緒にビール飲もうよ!ご馳走してあげるから。」
「これからパーティーなんだ!君も一緒においでよ!」
「すごく楽しいところだよ!」
聞こえてくる会話に耳をそば立てると、男達は江里子をしきりに誘って何処かへ連れて行こうとしていた。
こんな連中が、まともな(?)ナンパなどする筈がない。
とんでもない悪巧みをその真っ黒な腹の中に隠しているのは、まず間違いなかった。
「っ・・・・・・・・」
ポルナレフは見なかった事にして前を向いた。
江里子が悪いのだ。
こんな時間にフラフラ一人歩きをしているから。
アヴドゥルや花京院に、さんざっぱら言われて脅かされていた筈なのに、なめてかかるから。
― 知るかよ・・・・・!
面倒をみるとは言っていないし、手伝ってくれとも頼んでいない。
むしろはじめから帰るように何度も言ったし、『俺は知らない』と断ってもいる。
それもこれも、何もかも重々承知の上でやったのなら、それは自己責任というものだ。
― ・・・・知るかよ・・・・・
レイプされようが、殺されようが、それは江里子の過失なのだ。
ポルナレフは努めて男達の誘い文句とそれを断る江里子の声を聞き流そうとした。
だが。
「ポルナレフさん!助けて!」
「っ・・・・・・!」
遂に江里子は、ポルナレフに助けを求めてきた。
その切羽詰まった叫び声に、ポルナレフは思わず後ろを振り返った。
見れば江里子は、痺れを切らしたらしい男達に強引に腰や肩を抱かれ、今にも引き摺られて行きそうになっていた。
「ポルナレフさんっ!」
「う、うう・・・・・・」
何て勝手な女だろう。
だから帰れと言ったのに、人の言う事を聞かずに、トラブルが起きたら助けを求めるなんて。
「ポルナレフさん!」
「くっ・・・・・・・」
江里子が悪いのだ。
助けてやる義理なんかない。
こっちは忙しいのだ。
妹の仇が、もうすぐそこに居る筈なのだから。
「ポルナレフさん・・・・・・!助けてぇッ・・・・・・!!」
そんな風に半泣きで悲鳴を上げられたって、助けてやる義理なんて。
「・・・・ちっくしょおおーーーっ!!!」
義理なんてない、筈だった。
しかし気付けば、ポルナレフは江里子の元に駆けつけ、江里子に群がるゴロツキ共を次から次へとぶちのめしていた。
「おらぁっ!とっとと失せろ!この野郎っ!!」
「ぶえっ・・・・!」
「がはっ・・・・・!」
スタンドを発動させるまでもなかった。
ポルナレフは己の拳で、蹴りで、ゴロツキ共を痛めつけた。
「来いっ!全力で走れっ!」
「あっ・・・・・!」
そして、連中が悶絶している隙に江里子の手を取り、走ってその場を逃げたのだった。
「何やってんだテメェは!!」
暫く走ってさっきの現場から十分離れてから、ポルナレフはようやく足を止め、江里子に怒鳴りつけた。
「そら見た事か!だから帰れって言ったんだ!」
「・・・・すみません、ありがとうございました・・・・・・・」
江里子は半泣きで、しょんぼりと頭を垂れていた。
その様がまた一層、ポルナレフの苛立ちを掻き立てた。
「チィィッ、謝りゃ良いって思ってんじゃねーぞ!」
「思ってません・・・・・、本当に、ありがとうございました・・・・・・」
怪しい男共に絡まれて、声を震わせながら必死に助けを求めたさっきの江里子が。
叱られて半べそでしょんぼりしている今の江里子が。
全て、妹のシェリーに重なって見えた。
「っ・・・・・・!」
シェリーを思い出して、苦しくて仕方がなかった。
J・ガイルに襲われたあの時、もしも誰かに助けられていたら、シェリーは今も生きていて、こうして隣で笑ったり泣いたりしていてくれただろうに。
そう思うと、涙が溢れそうだった。
「・・・・・・ポルナレフさん」
「・・・・・何だよ」
「これから・・・・・どうするんですか・・・・・?」
江里子がおずおずと訊いてきた。
どうすると訊かれても、実際にこんな危ない目に遭った以上、今更一人で帰れなんて、とても言えなかった。
かと言って、一緒にジョースター達の所へ帰る事も、送ってやる事も出来ない。
「・・・・・・どうするもこうするも・・・・・・」
ポルナレフは重い溜息を吐いた。
「・・・・いらっしゃい。」
『HOTEL ARIA』。
偶々目についたその看板に誘われるようにして、ポルナレフは江里子を伴い、中に入った。ホテルと銘打ってはあるが、ジョースター達の泊まっているホテルとはまるでランクの違う、安い木賃宿である。
フロントにいた主らしき老人も、白髪と白髭が伸び放題の、小汚いなりをしていた。
「お客さん達、ツイてるよ。今日は珍しくツインの部屋が空いてるよ。」
老人はポルナレフと江里子を一瞥すると、胡散臭い愛想笑いを浮かべた。
旅行に来た外国人のカップルだと、一目見てそう決めつけたようだった。
「3千ルピーね。」
「3千!?冗談じゃねえぜ!」
当然のように手を差し出してきた老人を、ポルナレフは目を見開いて怒鳴りつけた。
「ぼったくりじゃねーか!こんなボロ宿で3千なんて、冗談でも許されねぇぜ!」
「他は狭いよ。2人で寝られない。ツインならベッドが広い。2人でゆっくり寝られるよ。ヒッヒ。」
前歯のない口を開けて厭らしく笑う老人の顔が、そして、この不愉快な老人に下衆な想像をされているのが、ポルナレフの癇に酷く障った。
「ふざけんじゃねえッ!!」
カウンターに拳を打ちつけると、老人は少し肩を竦ませて黙り込んだ。
「シングル1部屋でいい!さっさと鍵よこせ!」
「・・・・シングルは空いてない。今はツインの部屋しか・・」
「テメェ、まだ言うかッ!?」
「ひぃっ・・・・・!」
拳骨を振り上げると、老人は皺だらけの真っ黒な手で自分の頭を庇った。
その憐れっぽい姿にほだされたのか、江里子がポルナレフの腕を引っ張って諌めてきた。
「ポルナレフさん、そんな乱暴な真似は・・・・・!」
「うるせぇ、世間知らずの小娘は黙ってろ!これはコイツらの商売の手口なんだよ!俺らが外国人だからぼったくってやがんだよ!つまらねぇ演技にいちいち引っ掛かるんじゃあねぇぜ!そんな隙だらけだから下らねぇゴロツキ共に絡まれたのが分かんねぇのか!?」
捲し立てると、江里子はまたしょんぼりとした顔をして口を噤み、手を放した。
少しきつく言い過ぎただろうか。
密かに良心がチクリと痛んだが、しかしポルナレフは謝ろうとはしなかった。
「空いてんだろ、シングル!?」
「・・・・・・本当に狭いよ。彼女が嫌がるんじゃない?せめて2部屋取れば?」
それは多分、本当なのだろう。
しかし、だからと言って、何故自分が江里子に快適な宿を提供してやらねばならないのか。
頼んでついて来て貰った訳でもないのに。
気に入らないというのなら、いよいよ帰るなり何なりすれば良いのだ。
そんな思いが、ポルナレフを益々意固地にさせた。
「くどいッ!!シングル1部屋だっつってんだろうが!!」
ポルナレフは、老人の駄目押しを怒鳴りつけて一蹴した。
すると、とうとう諦めたのか、老人は途端に白けた仏頂面になり、投げるようにして部屋の鍵を寄越した。
「ケチな彼氏でアンタも気の毒にね。」
そして、沈んだ表情を俯きがちにしている江里子に、同情じみた声を掛けた。
江里子は、何も返事をしなかった。
部屋は本当に狭かった。
ウナギの寝床のような細長い部屋は、シングルベッド1台だけでほぼ塞がれており、残った僅かな空間に、古ぼけた小さな机と椅子が申し訳程度に置かれてあった。
トイレは1Fに男女共用トイレが1ヶ所あっただけで、バスルームやTVのような贅沢な設備はそもそもこんな安宿にある筈もなく、それどころか二人の人間が立つ為の床のスペースさえも満足になかった。
「・・・・・・本当に狭ぇな。」
部屋のドアを閉めて鍵をかけると、ポルナレフは小さく溜息を吐いた。
僅かに露出している床に江里子と二人で立とうと思えば、殆ど密着する位に身体を寄せ合わねばならなかった。
「・・・・座れよ」
ポルナレフは軽く顎をしゃくって、江里子にベッドに腰掛けるよう勧めた。
江里子は小さく頭を下げて、ベッドの端に遠慮がちに腰を下ろした。
ポルナレフは鞄をベッドの上に放り投げると、自分は椅子に腰掛けた。
だが、椅子の脚がミシミシと不吉な音を立てたので、すぐに立ち上がった。
「どうしたんですか?」
「ちきしょう、脚が折れてやがる。」
調べてみると、椅子の脚が1本折れているようだった。
折れた部分を接いで、テープで不器用に巻いてある。これで修理したつもりなのだろうが、これはもう実質使用出来ず、ゴミと変わらない。
ポルナレフはさっきの卑しい老人の顔を思い出し、よくもこんな危ないものを客室に置くものだと舌打ちをした。そして、椅子は諦め、窓際の机を椅子代わりにして座った。
こうして座ってみると、実は自分も結構疲れていた事に気付いた。
それもその筈、ジョースター達の元を飛び出して来てからというもの、飲まず食わず、ついでに吸わずの状態で、ずっと歩き回っていたのだから。
まずは一服だ。
ポルナレフは腰に下げたサイドポケットから煙草とライターを取り出し、1本咥えて火を点けた。窓は幸いにも開いたので、少しだけ隙間を開けた。
「フゥ・・・・・・」
煙草の香りが、苛々していた神経を多少穏やかに鎮めてくれる。
だが、話す気にはなれなかったし、何を話して良いのかも分からなかった。
ポルナレフはものも言わず、只々煙草を吹かし続けた。
「・・・・・・・今夜は・・・・仕方ありませんけど・・・・・・」
先に口を開いたのは、江里子の方だった。
「朝になったら、ジョースターさん達の所に帰りましょう。」
「悪かったな。お嬢様のお気に召すような高級ホテルじゃなくてよ。」
「そんな事言ってません・・・・・」
江里子は悲しそうに顔を曇らせた。
「・・・・・内緒にしてましたけど、実は昨日の夜、私、アヴドゥルさんと会ってたんです・・・・。」
「あぁ?」
あの堅物に限ってそんな事がある訳ない。
が、あったとしても、別に自分には関係ない。
そう思っているのに、全く気にせず聞き流してしまう事も出来なかった。
「・・・そりゃどういう意味だよ?」
「変な意味じゃありません。怖い夢を見て寝付けなくなって、気分転換にフロントにジュースを買いに行こうとしたら、アヴドゥルさんも出て来て・・・・。
それで、一緒に少しだけ、ホテルの前のビーチを散歩したんです。」
「・・・何だよそりゃ。」
ポルナレフは小さく鼻を鳴らした。
大の男が何と意気地のない事かと、呆れたのだ。
だが同時に、何故かホッとしてもいたのが、自分でも不思議だった。
「アヴドゥルさんもその時、胸騒ぎがして眠れないって言っていました。
どうしても気になって、私達の近い未来を占っていた、って。」
「結果は?」
「結果はまだ出ていなかったそうです。最後のカードを開くのを躊躇っていたって、仰っていました。何がそんなに不安なのか、自分でもよく分からないって。
旅に出て来た事を後悔はしていないし、DIOと闘う事も恐れてはいないけど、でもやっぱり、自分で認めたくないだけで、恐れているのかも知れない、情けないって、仰っていました。」
「フン。そうだろうとも。」
ポルナレフは鼻で笑い、窓の隙間から外に煙草の灰を落とした。
「それの何がいけないんですか?」
その時、江里子の静かな声が、細い棘のようにポルナレフに突き刺さった。
「じゃあ私達は一体何の為に、一緒に旅をしているんですか?
助け合って、支え合って、恐怖や不安を乗り越えて闘う為に、一緒にいるんじゃないんですか?」
そのまっすぐな瞳が、心が、煩わしかった。
江里子も、アヴドゥルも。
「・・・お前らはそうやって仲良しこよしで行きゃあ良いさ。
だがそれを俺に押し付けるな。
何度も言ってるが、俺の目的はDIOじゃあねぇ。
お前の大事な『奥様』ってのも、俺にとっちゃあ赤の他人だ。知った事か。
俺の目的は只ひとつ・・」
「分かっていますよ。妹さんの敵討ち、でしょう?」
他人事なのに、何をそんなに必死になっているのだろうか。
江里子は身を乗り出すようにして、ポルナレフとの距離を詰めてきた。
「私は・・・・・、私達は、あなたに協力したいんです。
アヴドゥルさんだってそう思っているんです。
あなたの敵討ちに、出来る限り力を貸すつもりでいる・・・・・!
だからあんな風に・・」
「だから、いつ誰がそんな事を頼んだ?」
ポルナレフは窓の桟に短くなった煙草を押し付け、火を揉み消した。
「何の手掛かりも掴めなかった頃ならいざ知らず、今となっちゃあ、お前らに頼む事なんて何もねぇんだよ。正体が分かった今、野郎の命は風前の灯さ。」
窓の隙間から投げ捨てた煙草の吸殻、それは正しくJ・ガイルそのものだった。
あと何時間かの内には、奴の命の火もこうして揉み消され、地獄の闇に叩き落されている事だろう。ポルナレフはそう確信していたし、それを成せるだけのパワーが自分にはあると心から信じていた。
スタンドの能力においても、そして、恨みの強さにおいても。
「・・・本当にそうでしょうか?」
「何ぃ?」
江里子の言い方には、何となく、棘があった。
アヴドゥルと同じようなものの言い方だった。
慎重と言えば聞こえは良いが、人の士気に水を差すような、不愉快な口調だった。
「だったら何故、敵はさっきのレストランで、罠を仕掛けてきたんですか?」
「罠だと何故言い切れる?その場にいもしなかったお前が。」
「だって、少し闘ってすぐに逃げたんでしょう?
そしてあなたは感情に任せてチームを抜け、独りになった。
あの時のあなたには、全く余裕がなかった。苛々して、怒って、凄く感情的になっていた。状況から判断して客観的に考えれば、分があるのはあなたじゃなくて相手の方です。」
「何だと・・・・・?」
頭では分かっている。
大の男が20歳にもならない小娘相手にムキになって口論なんて、大人げないという事ぐらいは。相手がアヴドゥルなら喧嘩も出来たが、江里子を相手にそれをすれば、悪者どころか完全に只のマヌケだ。
だが、その的確な指摘と生意気な口ぶりに、ポルナレフは思わず本気で腹を立ててしまっていた。
「正体が分かったというけど、それも本当に分かったんですか?
実際のところ、確かなのは両手とも右手って事だけじゃあないですか。」
「奴の名はJ・ガイル!『吊られた男』の暗示を持つスタンド使いだ!奴のスタンドは鏡の中だけに映るスタンドで・・」
「顔は?背格好は?歳の頃は?どうすれば倒せるのか、策はあるんですか?」
「それはっ・・・・・・・!」
腹立たしいが、返す言葉がなかった。
江里子の指摘は、どれもこれも、憎たらしい位に正しかったからだ。
「・・・・・そんな風に・・・・、意地を張らないで下さい・・・・・」
ポルナレフが押し黙ると、江里子は懇願するような目でポルナレフを見つめた。
「折角仲間になったんじゃあないですか!意地を張らないで、協力させて下さい!」
全く、不愉快だ。
江里子もアヴドゥルも、協力する気があるというのなら、何故こんな出鼻を挫くようなものの言い方をするのだろう。さも自分の方が正しいとばかりに、さも自分の方が強いとばかりに、人を見くびったように。
全く、不愉快極まりなかった。
「皆そう思ってるんですよ!ジョースターさんだって、承太郎さんだって、花京院さんだって、アヴドゥルさんだって!私だって勿論・・」
「ああそうだよ。悔しいが、確かにお前の言う通りさ。あの野郎の事は、まだ殆ど何も分かっちゃあいねぇ。」
「だったら・・・・・!」
「だがな。そうだとして、じゃあお前らに何が出来るんだ?」
ポルナレフは机から飛び降り、江里子のすぐ目の前に立ちはだかった。
「アイツらは俺以上に野郎の事を何も知らねぇだろうが!野郎に実際遭遇し、闘ったのは俺一人なんだぜ!」
「それは・・・・・・」
今度は江里子が言葉に詰まる番だった。
「それに、お前!」
「っ・・・・!」
「スタンドも使えねえ、只のゴロツキやスケベオヤジすら撃退出来ねぇ女に、一体何が出来るってんだ、あぁ!?」
「それは・・・・・・!」
江里子もアヴドゥルも、さも自分は冷静かつ客観的に物事を見ていると言わんばかりだったが、ポルナレフにしてみれば、自分を客観視出来ていないのはこの二人も同じだった。
案の定、江里子は途端に弱腰になり、視線を下に落とした。
「・・・・・・だけど・・・・・・、どんな事でも、私に出来る事なら・・・・何だって・・・・」
「・・・ほぉ?どんな事でも、か?」
俯きがちに、頼りなげな小声でそう呟く江里子を見て、ポルナレフの心の中に、ふと凶暴なものが頭をもたげた。
暗く、どす黒く、サディスティックな感情が。
「そいつは、マジに言ってんだろうなぁ?」
「は、はい・・・・・」
江里子は動揺しながらも、はっきりとそう答えた。
それこそきっと意地なのだろう。
自分から言い出した手前、撤回なんてみっともない真似は出来ないだろうから。
そう思うと、笑いさえ込み上げてきた。
「・・・・・だったら、ひとつだけあるぜ。お前に出来る事が。」
「え・・」
初めて間近で見た黒い瞳は、吃驚するほど無防備に澄んでいた。
「んっ・・・・・・・・!」
警戒心の欠片もない江里子の瞳を間近に見ながら、ポルナレフはその小さな唇に噛みつくようにキスをした。
「んぅっ・・・・・!んっ・・・・・!」
そうされて初めて、江里子は自分の置かれている状況を理解出来たようだった。
途端に身を捩って抵抗を始めたが、しかしもう遅かった。
ポルナレフは江里子をベッドに押し倒し、上から圧し掛かった。
「やめてっ・・・・・、やぁっ・・・うぅっ・・・・!」
あまり経験がないのだろうか、江里子はまるで無知だった。
捻じ込まれたポルナレフの舌に噛みつく事も、また応える事も出来ず、やみくもに身を捩るばかりだった。
「やめっ・・・・!んふっ・・・・・!ぅんっ・・・・・・・・!」
主導権は完全にポルナレフの方にあった。
ポルナレフはその隆々とした肉体で江里子の身体をベッドに押さえ付け、華奢な手首をひとまとめに掴んで戒め、柔らかい唇を甘く噛み、舌を容赦なく吸った。
江里子は篭った声を小さく上げるだけで、結局、ポルナレフの方から唇を放すまで、されるがままだった。
「っはぁっ・・・・・・・・!何言ってやがんだ・・・・・!
女のお前に出来る事っつったら、コレしかねぇだろうが・・・・・・!」
唇を放して肩で息をしながら、ポルナレフはそう吐き捨てた。
小動物のように怯える瞳を、間近から睨み下ろしながら。
「何が『やめて』だ、だったらノコノコついて来るんじゃあねぇよ・・・・・!
何の警戒もせず、バカみてぇに簡単にホテルに連れ込まれやがって・・・・・・!」
江里子は怯えていた。反論も出来ない程に。
こんな言い掛かりなんてレベルではない暴言に、何一つ言い返せない程に。
自分がどれだけ酷い事を言っているかは分かっていた。
だが、江里子の柔らかい唇や胸の感触が、仄かに甘い香りが、サディスティックな情欲を煽りに煽って、どうしようもなくポルナレフを猛り狂わせていた。
「いいか、男の部屋に上がり込んだ時点で、こうされても文句は言えねぇんだよ!」
「きゃあっ・・・・・!」
激情に突き動かされるまま、ポルナレフは江里子のブラウスの胸元を掴んだ。
その瞬間、ビビッという音と妙な手応えがして、ポルナレフは反射的に手を放した。
「あ・・・・・・・・!」
見れば、江里子のブラウスの胸元が裂けてしまっていた。
ボタンが取れたというようなレベルではなく、布地そのものが裂けてしまっていて、溌剌としたレモンイエローの布地の隙間から、豊満な胸の谷間が艶めかしく見えていた。
しかし、それはもはやポルナレフを欲情させる事はなく、代わりに激しいショックと自己嫌悪を与えた。
― お、俺は、何て事を・・・・・・・
ブラウスの胸元を引き裂かれて涙目で震えている江里子を見て、ポルナレフは呆然となった。
そんなつもりではなかった。神に誓って、断じて。
だが、我に返って客観的に見てみれば、これはレイプ以外の何物でもなかった。
「エ、エリー・・・・・・・」
涙に濡れた黒い瞳が、それでもポルナレフをまっすぐに見上げていた。
シェリーと同じ、黒い瞳が。
シェリーは辱められて殺されたのに、その犯人を追ってここまで来たのに、自分も今、あの外道と同じ事をしようとしていた。
そんなつもりがあったかなかったかなんて事は問題ではない。
その客観的な事実に、ポルナレフは気が狂いそうな程打ちのめされていた。
「・・・・・・そうですね・・・・・・」
先に動いたのは、江里子の方だった。
江里子はゆっくりと身体を起こすと、小さく鼻を啜り、少し雑な手付きで自分の涙を拭った。
「あなたの言う通りだと思います。だから、文句なんて言いません。
いきなりだったから、少し吃驚しただけです。すみません。」
その瞳は、まだ涙の名残で潤んでいたが、もう怯えてはいなかった。
「分かりました。それで少しでもあなたの役に立てるのなら、お安い御用です。」
「な・・・・・・」
「私の事、好きにして下さい。」
江里子は気丈にそう言い置いて、破れたブラウスのボタンを外し始めた。
「・・・・・・・」
ボタンを外すその手は、小刻みに震えていた。
その手の震えを、ポルナレフは呆然と見ていた。
「・・・・・・」
何故江里子は、こうまでするのだろうか。
悪いのは明らかにこっちの方なのに、自分が謝って、暴言を敢えて真に受けて、本当は怖いくせに平気なふりをして、自分から肌を露にして。
「・・・やめろ!」
江里子がブラウスを脱ぎ落とした瞬間、ポルナレフは弾かれたように声を荒げた。
すると江里子は、ビクリと肩を震わせて硬直した。
「・・・・・・・・気が変わった」
ポルナレフは江里子に背を向け、小さな声でそう呟いた。
この期に及んでまだこんな事を言う自分の傲慢さに、嫌気が差した。
だが、どうしても謝る事が出来ず、ポルナレフはそのまま部屋を出て行こうとした。
「どこ行くんですか・・・・・・・!?」
背中に江里子の声が飛んできた。
殆ど泣き声のように、震えている声だった。
「・・・・・晩飯調達してくるだけだ。5分で戻る。」
振り返らずにそう答えて、ポルナレフは部屋を出た。
宿の近くには、屋台が色々とあった。今夜の夕食はここでテイクアウトしようと決め、ポルナレフは売られているものに目を向けた。
今は積極的に食事したいという気分ではないし、インド・カルチャーショックも全く治っていない。従って、選ぶポイントは、比較的馴染みのありそうなもの、食べる気の起きそうな見た目のもの、材料や味の見当がつきそうなもの、という具合になった。
その結果のチョイスは、チャパティというパンでローストチキンや野菜を巻いたロールサンドのようなものと、カレー風味のマッシュポテトを餃子のように小麦粉の皮で包んで揚げたサモサというスナックになった。
餃子は香港やシンガポールで食べて美味かったし、ロールサンドは馴染みが深い。これならば、食べる気は無くても何とか腹に収める事は出来るだろう。江里子も多分。それらを2本の缶コーラと共に買い込み、ポルナレフは宿に戻った。
「お帰りなさい。」
宿に戻ると、服を着直した江里子が、ぎこちない微笑みを浮かべて出迎えてくれた。
普通に接しようと努めている事が残念ながら丸分かりの表情で、ポルナレフは却って針の筵に座らされたような気分になった。
「適当に買ってきたから、好きなの食え。」
ポルナレフは食べ物の入った紙袋を、江里子に差し出した。
「あの・・・・、その・・・・、お金の事、なんですけど・・・・・」
江里子はそれを一応受け取りながら、大層言い難そうに口を開いた。
「私、その・・・・・、さっきのレストランへお食事に行く前に、お財布の入ったバッグをジョースターさんに預けてしまって・・・・・・・」
「ああ・・・・・・」
それはポルナレフも覚えていた。
食事代はどうせ自分が出すから、防犯上、無駄に貴重品を持ち歩かない方が良いというジョースターの申し出で、江里子と花京院と承太郎は、ジョースターに財布やバッグを預けていたのだった。
つまり今、江里子の財布は、他の連中の財布や貴重品と一緒に、あの高級ホテルのスイートルームの頑丈な金庫の中なのだ。
「だから、その・・・・・、これの代金も、ここの宿泊料も、今すぐには払えなくて・・・・。
でもあの、ジョースターさん達の所に戻ったら、すぐに払いますから・・・・・・!
ですからその・・・・、すみません・・・・・・」
心底申し訳なさそうにしている江里子に、ポルナレフは少し呆れて鼻を鳴らした。
「要らねぇよ別に。」
こんなボロ宿の宿賃や、道端の屋台で買ったジャンクフードの代金など、元々払って欲しいなんて思っていない。
しかし江里子は、何がそんなに気になるのか、しつこく食い下がってきた。
「でも、そんな訳には・・・・・!」
「要らねぇっつったら要らねぇよ。良いからはよ食え。お前が選ばねぇんなら、俺が先に選ぶぞ。」
「ど、どうぞ・・・・・・」
江里子はおずおずと紙袋を返してきた。
どこまでも呆れる反応をする娘だ。
日本人は皆こうなのか、それとも江里子がこういう性格なだけなのか。
ポルナレフは紙袋の口を開き、適当に掴み出した物を持って、また机の上に座った。
「・・・・・・・」
「・・・・・・・」
ポルナレフは机に座り、江里子はベッドに座って、互いに無言で食べ始めた。
もう何となく、お互いそこが定位置のようになっていた。
狭い部屋なのに、やけに距離を感じるのは、きっと罪悪感のせいだった。
責められて然るべき事をしでかしてしまったのに、江里子は責めるどころか、微笑み、そして謝る。しかしそれはある意味、却って何よりの責め苦であった。
女の子と食事をするのに、こんなに気まずい思いをしたのは、これが初めてだった。
「・・・・ごちそうさまでした。」
ポルナレフが食べ終わってから暫くして、江里子がようやく食べ終わった。
日本語らしいその独り言は、ポルナレフには何と言っているのか分からなかったが、意味を尋ねる気は起きなかった。
「・・・・・ベッド使って良いから、早く寝ろ。」
「でも、ポルナレフさんはどこで寝るんですか?」
「俺の事はいい。」
「まさか、寝ない気ですか?」
江里子は床に下り立ち、ポルナレフの側に歩み寄ってきた。
「駄目ですよ。ちゃんと寝ないと。ベッドはポルナレフさんが使って下さい。」
「じゃあお前はどこで寝る気なんだ。」
「空いているスペースは床かそこですから、そのどちらかで・・・・」
江里子はそう言って、ポルナレフの座っている机を指さした。
だが、どちらにせよ、寝そべる程のスペースはない。
ポルナレフは呆れて鼻を鳴らした。
「何言ってやがんだ。こんなとこでどうやって寝るんだよ。」
「それはこっちの台詞です。私の方があなたより身体が小さい分、狭い場所でも眠れます。ベッドはポルナレフさんが使って下さい。」
「しつこいぜ。良いからさっさと寝ろ。」
「・・・・・じゃあ・・・・・、一緒に・・・・、寝ますか・・・・・?」
「・・・・・はぁ?」
ポルナレフは、思わず耳を疑った。
江里子の方からそんな提案が出てくるなんて、夢にも思っていなかった。
「・・・お前、正気か?」
「はい・・・・・」
正気の沙汰とはとても思えなかった。
江里子はついさっきされた事を、もう忘れてしまったとでも言うのだろうか。
「・・・・そりゃあ一体何のつもりだ?」
「別に、何のつもりもありません。ただ、ちゃんと寝ないと明日に差し支えると思ったから・・・・。
妹さんの仇、取るんでしょう?寝不足でフラフラじゃあ、それこそ勝てませんよ。」
江里子は、どこまでもまっすぐな瞳をしていた。
自分がどれ程とんでもない事を口走っているのか、分かっていないのだろう。
或いは、分かっているとしても、そんな事は取るに足りない事だと考えているのか。
「・・・・・余計な心配するな。」
ポルナレフは、江里子に向かって指を指した。
「ちょっとばかし寝不足した位で、この俺が負けるとでも?
生憎だがな、お前にまで見くびられる筋合いはねぇよ。アヴドゥルみてぇな口の利き方するんじゃねぇ。」
「誤解です!別に見くびってなんか・・・・・・!」
「俺は大丈夫だから、早く寝ろ。」
何だか懐かしい気持ちだった。
夜遅くまで起きて自分の帰りを待ってくれていたシェリーに、よく同じ事を言っていた。
ゆっくりと胸に沁みていくようなこの切なさが、江里子にも伝わったのだろうか。
江里子は諦めたように口を噤んだ。
「・・・・・じゃあ・・・・・、お言葉に甘えて・・・・・、おやすみ、なさい・・・・・・」
「ああ。」
江里子は渋々ながらも、ベッドに上がり、シーツの中に潜り込んだ。
それを見届けてから、ポルナレフは机から降りた。
「部屋の灯り、消すぜ。」
「はい・・・・」
ポルナレフは照明のスイッチを切り、また机の上に戻った。
だが、まだ眠気は催さなかった。仕方なく、ポルナレフは窓の外を眺めていた。
近くの店の電飾看板の光が、やけにチカチカしていた。
ピンク、グリーン、イエロー、グリーン・・・・・、ネオンの色が忙しなく変化している。カーテンが無いので、その光は部屋の中にも容赦なく射し込み、無愛想な壁をカラフルに染めていた。
少しすると、しゃくり上げるような息使いが聞こえた。
最初は泣き出したのかと思ったが、たったの一度聞こえたきりで、すぐ静かになったので、ポルナレフは音を立てないように床に下り、そっとベッドを覗き込んだ。
「スゥ・・・・・・・」
江里子は眠っていた。
只でさえ狭いベッドの片側を空けて、小さくなって。
その寝相が、眠りに落ちてなおポルナレフの寝るスペースを心配しているようで、ポルナレフは思わず苦笑を洩らした。
「・・・・・済まなかった・・・・・・」
詫びの言葉が、ようやくポルナレフの口をついて出た。
自分の身勝手さに、ポルナレフは今頃になって気付いていた。
お前らには関係ない、これは俺の事情だ、などと言いながら、その『自分の事情』で感情的になり、江里子に当たり散らしてしまった事を、今更ながらに酷く後悔していた。
江里子は一生懸命協力してくれたのに。
こんなにクタクタになるまで一緒に歩き回って、手伝ってくれたのに。
こんな最低な男の身を案じ、側にいてくれたのに。
― アヴドゥルに知れたら殺されるな、きっと・・・・・・
さっき江里子を襲いかけた事を思い返すと、アヴドゥルの声が聞こえた気がした。
こんな男だとは思わなかった、と。
J・ガイルを地獄の底に叩き落としたら、今度こそ彼の炎に裁かれて死ぬのも良いかも知れない。そんな自嘲めいた考えが頭を過ぎり、己の始末の悪さにまた苦笑が漏れた。
「おやすみ、エリー・・・・・・・・」
ポルナレフは微かな声で江里子に囁きかけると、また机の上に戻った。
窓の外を眺めていると、耳元で嫌な羽音が小さく聞こえ、ポルナレフは自分の首を叩いた。開けていた窓の隙間から、蚊が入り込んだようだった。
掌で潰れた蚊の死骸をその辺に弾き飛ばし、ポルナレフは窓をピッタリと閉めた。
外は相変わらずのネオンの洪水で、規則的に、目まぐるしく、色を変えては光っていた。ピンク、グリーン、イエロー、ピンク、グリーン・・・・。けばけばしい色の電光が、夜の闇を我が物顔に切り裂いてはチカチカと瞬く。
だが安物の電球は、所詮、星にはなれない。
見上げた空は、今にも雨が降りそうに分厚く、黒く、曇っていた。
静かな雨音で、江里子は目を覚ました。
「・・・・・あれ・・・・・・・?」
起き上がってみると、ポルナレフがいなかった。
「ポルナレフさん・・・・・?」
トイレだろうかと思いかけたその時、江里子は、昨夜ポルナレフが座っていた机の上に、1枚の紙切れが置いてあるのを見つけた。
『フロントのジジイに話をつけておいた。
起きたら『HOTEL.GRAND』に電話しろ。
番号はジジイが知っている。電話も借りられる事になっている。
電話して、誰かに迎えに来て貰え。
迎えが来るまで、このホテルを出るんじゃねぇぞ。』
メモにはこう書かれてあった。
「え・・・・・・?」
メモには、この後江里子が取るべき行動が指示されてあるだけで、ポルナレフ自身については何も書かれていなかった。行き先も、予定も、何ひとつ。
「そんな・・・・・・!」
きっと一人でJ・ガイルを捜しに行ったのだ。
結局、信じて貰えなかった。心を開いてはくれなかった。
その事が、涙が出そうな程ショックで、正直、腹立たしくも感じていた。
普段はチャラチャラと軽いくせに、肝心なところは何て頑固で意地っ張りで、分からず屋な男なのだろう。
「もう・・・・・、ポルナレフさんのバカッ・・・・・・!!」
しかし、泣いている場合ではない。
そして、一人で彼の後を追って飛び出したところで、事態は何も好転しない。
むしろその為には、甚だ不本意ではあるが、彼の指示通りにするしかなかった。
どうせ元々、着のみ着のままである。すぐに部屋を飛び出した江里子は、そのままフロントへ直行した。
カウンターの奥には、昨夜と同じ老人がいた。
「すみません、チェックアウトお願いしたいんですけど、その前に電話を・・」
「ああ、アンタか。あの銀髪の男から話は聞いとるよ。」
ポルナレフは本当に話を通していってくれていたようだった。
江里子が皆まで言わない内に、老人はさっさとカウンターの下から何かの帳面を取り出すと、頁を繰り始めた。
「確か、『HOTEL.GRAND』だったかね。」
「はい、そうです!」
「ん・・・・、あった。これじゃ。」
老人はホテルの番号を探し当てると、カウンターの上の電話器を取った。
「んで呼び出しは、Mr.ジョースター、で良かったのかね。」
「はい!」
「アンタの名は?」
「江里・・エリーです。」
江里子は少し考えて、この老人に伝わり易いよう、英語のニックネームの方で答えた。その甲斐あって、老人はすんなりと理解したようだった。
「んじゃ、今から電話をかける。話が済んだらもう一度ワシに代わってくれ。
アンタの電話の相手に、向こうのホテルからここまでの道を説明するよう、あの男から頼まれている。
通話の時間はトータルで3分。あの男から貰ったチップじゃあ、それが限界じゃ。
それを過ぎたら、別料金貰うよ。O.K.?」
「分かりました、お願いします・・・・・!あ、すみません、時間計って下さい!」
江里子がふと思い付いてそう頼むと、老人は一瞬嫌そうな顔をしたが、小さく肩を竦めて、カウンターの下から砂時計を取り出した。
「これ3分ね。O.K.?」
「はい!ありがとうございます!」
「じゃ、かけるよ。」
老人は受話器を取り、ホテルに電話をかけた。
「・・・ああ、もしもし?『HOTEL.GRAND』?
宿泊客の、あー・・・、Mr.ジョースターの部屋へ繋いでくれ。こちらはエリーという女性の代理じゃ。」
老人は、江里子に受話器を差し出してきた。
それを受け取って少ししてから、ジョースターの声が聞こえてきた。
『Hello!?』
「もしもし、ジョースターさんですか!?江里子です!」
『エリー!今どこじゃ!?無事なのか!?』
「私は無事です!ポルナレフさんも・・・、多分!」
『多分!?そりゃあどういう事じゃ?』
「昨夜は二人で別のホテルに泊まったんですけど、朝起きたら、ポルナレフさんがいなくなっていたんです!多分、一人で敵を捜しに行ったんだと思います!」
『なるほど・・・・。それで、君は今、そのホテルなのか!?』
「はい、『HOTEL ARIA』という所です!これからホテルの人に代わって場所を説明して貰いますので、すみませんが、どなたか迎えに来てくれませんか!?」
『分かった。儂らの内の誰かが、すぐに迎えに行く。君はそこで待っとるんじゃ。くれぐれも動かないように。』
「はい!」
江里子は必要最低限の会話を済ませると、電話を老人に代わった。
無駄に会話を長引かせて別料金を取ろうとするかと思ったが、老人は意外にもそれをせず、砂時計の砂がきっちり全て落ちきる寸前に、ちゃんと話を終えて受話器を置いた。
「ありがとうございました!あの・・」
「ああ、分かっとるよ。迎えが来るまで、ここにいると良い。」
「ありがとうございます!」
江里子は深々と頭を下げると、邪魔にならないよう、ロビーの隅の方に行った。
すると老人が、おもむろに奥から椅子を出してきた。
「そんな所で立ってなくても、ここで座って待ってなさい。」
「・・・・良いんですか?」
「まあ、確かにケチな彼氏で気の毒だけどね。ちゃあんと迎えを寄越そうとはしてるじゃないか。本当に酷い男は、チップ払って迎えの手配なんかせずに、本当の本当に置き去りにしちゃうよ。ああ見えてなかなか、誠意のある男じゃあないかね。」
「はぁ・・・・・・」
訳知り顔の老人に椅子を勧められ、江里子は首を傾げつつ、そこに腰を下ろした。
「腹は立つだろうけど、ケンカするのも愛と相手があればこそだよ。
愛がなきゃあケンカにもなりゃあしないし、相手がいなきゃあケンカも出来ない。
ワシも女房と死に別れてからはさっぱりじゃ。寂しいもんじゃよ。
あの男の心遣いに免じて、ここはひとつ、アンタも全部ガンジス川の水に流して、綺麗さっぱり許してやりなさいよ。
チャーイでも飲めば、気持ちも落ち着くよ。今、持ってくるから。ああ、お金はいいよ。特別サービス。」
「あ、りがとう、ございます・・・・・・」
― もしかして、私・・・・、慰められてる??
それに気付いた江里子は、少し考えて、思わず吹き出した。
旅先のホテルで痴話喧嘩して、男に置き去りにされた哀れな女、そう思われているのだ。
違うんですと否定しようかと思ったが、しかし江里子は敢えて黙っておく事にした。
否定すれば、本当の理由をある程度説明する事になる。
だが、こんな複雑な事情をうまくぼかしながら説明する自信はなかったし、また、無関係の人間は極力巻き込まないようにするというのが、この旅の方針である。この老人に自分達の事情をあれこれと話すのは、きっと良くない筈だった。
「さあ。チャーイだよ。美味しいよ。」
「ありがとうございます。」
程なくして、老人が温かいチャーイを持ってきてくれた。
それを受け取って礼を言うと、老人はまたカウンターの奥へと戻って行った。
芳しい湯気を立てているそれを一口飲むと、老人の言った通り、少し気持ちが落ち着いた。だが、やはりそれは一時的な気休めに過ぎなかった。
― ポルナレフさん・・・・・・
一人で姿を消したポルナレフの事を考えると、不安は次から次へと湧いて出てくる。
しかし、それこそ江里子一人ではどうする事も出来なかった。
今はともかく、ジョースター達と合流しなければ。
焦れるような不安を押し殺しながら、江里子はじっと迎えを待ち続けた。