星屑に導かれて 17




恐る恐る覗いた世界は、強烈な光でもって地上を照りつける太陽と同じくらいギラギラとした混沌だった。
インド、カルカッタ。
20世紀のこの時、人口1100万人。
都市に渦巻いているのは、凄まじいまでのエネルギーである。



「バクシーシ!バクシーシ!」
「バクシーシ!!」

下船するや否や、江里子達はあっという間に大勢のインド人に取り囲まれ、物乞いの決まり文句で合唱責めに遭った。
これはアヴドゥル曰く、外国人観光客が必ず遭遇するという、『洗礼』のようなものらしかった。


「チップくれよぉ!」
「荷物運ぶよぉ!」

少年も中年も、男も女も。
この国の人は皆物乞いなのかと思うくらい、口々に何か(つまるところは金だが)を求めてくる。


「刺青彫らない!?」

他はどうかと見てみると、花京院は白髪の痩せこけた老人に刺青を勧められていた。


「毒消しいらない!?お腹壊さないよ!」
「ホテル紹介するよ!」

ジョースターは、中年男達にグイグイと迫られていた。
一番激しい責めに遭っているのは彼だった。
彼はダンディーな雰囲気の、年輩の白人男性だ。やはりこの中で一番リッチに見えるのだろう。尤も、実際そうなのだが。


「間に合っとる。間に合っとる。」

ジョースターは毅然と、かつ丁重に、全ての勧誘を断り続けていた。


「うへぇ!牛のウンチ踏んづけちまった!ちきしょーっ!!」

その横でバカデカい声を張り上げているのは、ポルナレフである。
なるほど確かに、道端には牛やら犬やらのフンが転がり放題に転がっている。
江里子もそれらを踏まないように、足元ばかりを見ていたのだが。


「僕はもう財布をスられてしまった!」

花京院が聞き捨てならない叫び声を上げた。


「ええっ!?ちょっ・・・・、誰に!?」
「分かりませんよ、そんな・・・!」
「分からないってそんな・・・!」

財布を盗られるという事は、命を盗られるのと同じ事。江里子の感覚では、それ程の一大事だった。
探しもしない内に諦めるなんて出来ない。
江里子は自分の荷物を力強く抱きしめながら、花京院の周囲にいる人間に素早く目を向けた。
すると一人だけ、群がって来る人々を押し退けるようにして、逃げて行こうとする少年がいた。


「ちょっと!」

江里子は猛然と周囲のインド人達を跳ね退け、その少年に近付いた。


「待ちなさいっ!」
「わっ!」

垢に塗れた汚い襟首を掴んで引き止めると、その手に見覚えのある財布があった。それは確かに花京院の財布の筈だった。


「返しなさいっ!」

江里子はそれをひったくった。
捕まえた瞬間に間髪入れず、躊躇わずにやったのが功を奏したのか、花京院の財布は無事に奪還出来た。


「何すんだよぉっ!」
「うるさいっ!あっち行きなさいっ!ぶつわよっ!」

スリの少年は、盗っ人猛々しく江里子に食って掛かってきたが、まだ僅かに江里子の方に分があった。
多分12歳前後位だろうが、痩せっぽちで、背丈も江里子より若干低かった。江里子が拳骨を振り上げて思いきり凄んで見せると、少年はすぐに怯んで逃げて行った。
彼があとほんの少し年上だったら、背が高かったら、取り返せなかったかも知れない。少し冷や汗をかきながら、江里子は奪い返した財布を花京院に返した。


「花京院さん!これ、取り返しましたよ!」
「ああ!ありがとうございます、江里子さん!助かりました!」
「どういたしまして!気をつけて、しっかり持ってて下さいね!」
「はい!面目ない・・・・・!」

花京院は恥ずかしそうにはにかむと、学ランの内ポケットに財布を仕舞い込み、金ボタンを全部しっかりと嵌めた。


「チップチップチップ!」
「チップくれないと天国行けないぞ、兄ちゃん!」

その横では、承太郎が子供達にたかられていた。
さっきのスリの少年よりももっと幼い子供達だ。精々小学校低学年位だろうか。
流石にそんな幼い子供達に殴る蹴るは出来ないのか、承太郎はされるがままになっていた。襟元の鎖を引っ張られたり、ポケットの中を漁られたり、出てきたガムを奪われて食べられたり。
だが、財布や煙草など、取られて困るであろう物は出てこなかった。多分、花京院のように内ポケットに隠してあるのだろう。


「こぉら!!ハナをつけるなハナを!!!」

ポルナレフがまた大きな声を出した。
目を向けると、彼があのズタ袋、いや、鞄を高く掲げていた。
その底の辺りから黄緑色の粘っこい鼻水が長く伸びていて、側にいる小さな男の子の鼻へと続いている。
思わず顔を顰めてしまったその時、江里子にも遂に、魔の手が伸びてきた。


「お嬢さん、ジャパニーズ!?サリー買わない!?綺麗よ、シルクよ!本物よ!」
「カラフルよ!赤!?ピンク!?白!?ブルー!?グリーン!?」
「アクセサリーしない!?ピアス開けない!?おへそにピアス、セクシーよ!」
「ヘナタトゥーしない!?花の模様、綺麗よ!インドの女性、皆する!」
「ノー・ニードル!彫らないよ、痛くないよ!ペイントよ!」
「ハーブよ!ノー・ケミカル!ノー・ダメージ!1週間で落ちる!」

江里子はたちまちの内に、浅黒い肌のインド人達に取り囲まれてしまった。
船を降りてすぐは、大柄な男性陣の陰に隠れるようにしていたので大丈夫だったが、スリの少年を追いかける為に飛び出してしまったせいで、インド人達の目に触れてしまったようだった。


「い、いらない!いらない!!いらなーーいっ!!!」

本当に全く興味が無い訳ではない。
へそピアスはともかく、目の前でヒラヒラしている色鮮やかな美しいサリーには、少し心惹かれている。
だが、決して、決して、この手の勧誘に応じてはならないというのが、インドを旅する時の鉄則なのだ。
江里子は益々固く荷物を抱きしめ、大声で拒絶し続けた。


「花京院さんっ!承太郎さんっ!ポルナレフさんっ!ちょっ、ちょっと誰か、助けてっ、助けてーーっ!!」
「江里子さん、しっかり!」

それと同時進行で助けを呼ぶと、花京院がインド人の波を掻き分けて助けに入って来てくれた。
花京院に抱きしめられるようにして庇われながら、江里子は思わず恐怖を吐露してしまった。


「な、何なの、何なの、この国・・・・・!?こんな所に滞在しなきゃいけないの・・・・!?」
「気持ちは分かりますよ。僕も正直、さっさと通り過ぎてしまいたい・・・・!」

江里子と花京院が固まって互いの荷物とポケットを守りながらどうにか凌いでいると、余程堪りかねたのか、ジョースターがとうとう大きな声を出した。


「アヴドゥル!!これがインドか!?」
「ね!良い国でしょう!はっはっはっは!これだから良いんですよ!これが!」

この状況を楽しんでいるのは唯一人、アヴドゥルだけだった。
















どうにかこうにか『洗礼』をやり過ごし、逃げるようにしてホテルに駆け込んだところで、江里子達はようやく人心地つく事が出来た。


「ふぅ、やれやれ!一時はどうなる事かと思ったわい!」

いかにもな外観の高級ホテルのロビーのソファにどっかりと腰を落ち着けてから、ジョースターが心の底から安堵したような溜息を吐いた。
このホテルの中は、外界とはまるで別世界のような、静かでノーブルな空間だった。
あれ程しつこかった物乞い達は、このホテルに逃げ込んだ瞬間、全員散って行った。
その様子は面白いというか見事というか、まるで魚の群れか何かのようだった。


「あの人達、私達がホテルに入った途端に、サーッといなくなっちゃいましたね。皆、ホテルの中まではついて来ないんですね。」

江里子がそれを口にすると、アヴドゥルが笑って答えた。


「このような高級ホテルの中には、彼等のような人間は入って来れないのだ。
もしも仮に、宿泊客につきまとって強引に中へ入って来たとしても、ホテルの警備員に摘み出されて袋叩きに遭う。
ホテルだけでなく、レストランやブランド店などもだが、高級な店は、インドに不慣れな外国人観光客にとっては、安全地帯のような場所でな。サービスや品物と安全は、この国ではセットで売られているという事だ。はっはっは。」
「なるほど・・・・・」
「それに、物乞い達にはそれぞれ縄張りがあるのだ。彼等は皆、好き勝手に物乞いをしている訳ではない。
ちゃんと組合に属していて、その掟に従って商売しているのだ。」
『えぇっ!?』

その話には、皆驚いた。


「そういう点が、私の生まれ育ったエジプトに良く似ているのだ。
エジプトはインドよりもっと進んだ国だが、物乞いに関しては、ここと良く似ている。国の基盤が同じと言おうか。だから私は、この国が大好きなのだよ。」

そんな話をされても尚、江里子はやはり、まだこの国に馴染めそうになかった。
だが、懐かしそうな目をしているアヴドゥルに、まさかそんなネガティブな事は言えない。チラリと見ると、相変わらずポーカーフェイスな承太郎以外は、皆そんなような顔をしていた。


「そ、そんじゃまあ、早速チェックインして、ここのレストランで夕食にするか!」

ジョースターはそそくさと立ち上がり、フロントにチェックインの手続きに行こうとした。そんな彼を、アヴドゥルが呼び止めた。


「ああ、待って下さい、ジョースターさん。宿泊は勿論ここで結構ですが、夕食なら、是非お勧めしたいレストランがあるんですよ。ここのすぐ近くですから、今夜の夕食は是非そこで!」
「え・・・・?」
「心配要りません。そこも『安全地帯』ですから。とても美味しいインドカレーが食べられますよ。」

インドカレーと聞いて、ジョースターの顔はより一層緊張に強張った。
インドの料理、カレーといえば、あまり馴染みのないスパイスがふんだんに使われている印象が強い。
ジョースターはあまりそういう料理が得意でないのだろうか。


「大丈夫!欧米人や日本人の口に合うように、考えられて作られてありますから!」
「そ、そうか・・・・・?」

江里子も勿論、得意ではなかった。
いや、そう言うと語弊がある。
得意も何も、そんなものを食べるのはこれが初めてなのだから。
















チェックインをして部屋を取ってから、一行はそのまま食事に出掛けた。
アヴドゥルお勧めのレストランは、ホテルから程近い所にあった。
そこもまた、みるからにリッチな外観の、高級そうなレストランだった。フロアは広く、テーブルは十分な間隔を空けて配置されており、ゆっくりと優雅に食事を楽しめそうな雰囲気だった。
香港でジョースター達と初めて出遭った時のあのレストランと、恐らくは同ランク位の高級店だろう。
悪くない。
座り心地の良い椅子に腰を下ろし、ポルナレフはようやく肩の力を抜いた。
船を降りて以来、ようやくの事だ。


「はっはっは。・・・さあ、これを。」

他愛のない話題で談笑していると、すぐに飲み物が出てきた。


「チャーイです。美味しいですよ。」
「チャーイって何ですか?」

なかなか警戒心が強いのか、江里子は飲む前にすかさずアヴドゥルに質問した。


「チャーイとは、インドの庶民的な飲み物だ。紅茶と砂糖と生姜を牛乳で煮込んだ、甘い飲み物だよ。」
「はぁ〜・・・、紅茶なんですね・・・・・」

要はミルクティーだと聞いて少し安心したのか、江里子はおずおずとエレガントなデザインのティーカップに口をつけた。
どうも気に入ったようだ。二口目からは積極的に飲んでいる。
その様子に少し苦笑して、ポルナレフも一口飲んでみた。
なるほど、これは悪くなかった。
甘くて、スパイシーで、疲れが取れる気がする。
ゆっくり味わっていると、ジョースターが向かいの席でグビグビと豪快に飲んでから、大きな溜息を吐いた。


「っあ〜・・・・!やっと落ち着いたわい。」
「要は慣れですよ。慣れればこの国の懐の深さが分かります。」

アヴドゥルがそう言うと、承太郎も頷いた。


「なかなか気に入った。良い所だぜ。」
「マジか承太郎!?マジに言ってんのお前!?」

孫のその発言に、ジョースターは目をひん剥いて驚いた。
ポルナレフとしては、全く、ジョースターに同感だった。
同感すぎて、彼のようなオーバーリアクションを示す気力も湧かなかった。


「ふぅ〜・・・・・、驚くべきカルチャーショック。」

ポルナレフは残り少ないチャーイを飲み干し、カップをソーサーの上に置いた。


「慣れれば好きになる、か。」

そして、足元に置いておいた鞄を取り上げ、席を立った。


「ま、人間は環境に慣れるって言うからな。手洗いは?」

側に立っていた若いウェイターに声を掛けると、彼は綺麗な発音の英語で『あちらでございます』と答えた。


「ポルナレフ。」
「あん?」
「注文はどうするんじゃあ?」

ジョースターが気遣ってくれているのは分かるが、ポルナレフとしては正直、何でも良かった。
何を食べても、所詮はインド料理。どうせ強烈なスパイスの香りばかりが激しく主張しているのだろうから。
ただ、このレストランは外国人観光客向けの高級店だ。
これみよがしにリッチなメニューが数々あるだろうから、そういう意味では安心だと思えた。


「任せる。とびっきりのを頼むぜ!フランス人の俺の口に合う、ゴージャスな料理をよ!」

そう言い置くと、ポルナレフはトイレに向かった。
後ろで、『まあ何でも良いって事ですよ。彼の口に合うって事は。』と言っている花京院の声が聞こえたが、それは聞こえなかった事にした。









トイレは、フロアを抜けたところの廊下を曲がった突き当たりにあった。


「あ、お客様、お待ちを。」

個室に入りかけたポルナレフを、ウェイターが呼び止めた。


「あ?」
「これをお使いになって下さい。」
「ん?」

渡されたのは、長い木の棒だった。片方の先端に、金属の丸いボールがついている。何に使うのかは、皆目見当がつかない。
だというのに、ウェイターは何の説明もせず、さっさと行ってしまうではないか。


「何?この木の棒は?おい!」

更には、大声で呼び止めても無視する始末である。


「ん?うん・・・・」

仕方なく、ポルナレフは自分の目で棒をよく観察してみた。
だが依然、分からない。


― しゃーねえ。まあ、入りゃあ分かるだろ。

ポルナレフは考えるのを諦め、ともかく個室に入る事にした。


「・・・・・・・」

一応、渡された棒を手に、恐る恐るドアを開けてみる。
世界一不衛生な国、インドのトイレ。
さて、鬼が出るか蛇が出るか・・・・・・


「うん・・・・?ん〜!」

中を見て、ポルナレフは思わず歓声を上げた。


「妙な形をしている便器だが、なかなか綺麗じゃないの〜!」

少しデザインは変わっているが、便器も床も奇麗に磨かれており、汚れや水溜りは無い。予想外の清潔感に、思わずテンションが上がった。


「フンッ!ナイスガイの俺は、トイレの汚いのだけは我慢ならんタチだからな!」

ポルナレフは意気揚々とドアを閉めた。有り難い事に、鍵もついていた。
これでここは完全な密室、完璧なプライベート空間である。
ポルナレフは安心してズボンと下着を下ろし、便器に腰を落ち着けた。そして、今まさに、超プライベートな行為に及ぼうとした・・・、が。


「・・・フゴフゴ」
「ん?」

何だか妙な音がした。
音?いや、それは声だった。
それも、知性と理性のある人間の声ではない。


「な・・・何だ・・・・・、何の声だ・・・・・?」

知性も理性も、欠片程も感じられないその声は、人ではなく動物の鳴き声。
それが、尻の下から聞こえてくる気がする。


「う・・・・、うぅ・・・・・・」

身体中の毛穴が全て開いたかのような強烈な悪寒が、ポルナレフを襲った。
ポルナレフはガクガクと震えながら、ゆっくりと立ち上がった。
間違いであって欲しい。
気のせいであって欲しい。
どうか、どうか。
そんな縋るような必死の祈りを神に捧げながら、ポルナレフは怖々と便器の中に目を向けた。


「うっ・・・・、ぎにゃああああーーーっ!!」

そして、阿鼻叫喚の悲鳴を上げた。


「うはあああぁいてっ!!」

どうにかこうにかズボンだけは上げながら、こけつまろびつ個室から飛び出すと、平然とした顔のウェイターが、またノコノコとやって来た。


「いかがなされました?」
「い、いいい、いかがなされましたかじゃあないッ!!」

ポルナレフは飛び出してきた勢いのまま、縋りつくようにウェイターに掴みかかり、その場をグルグルと走り回った。


「べ、べべ、便器の中に・・・・、便器の中にぃッ・・・・!」

そしてそのまま、ウェイターを個室の方へと引っ張った。


「豚が顔を出しているぞーーっ!!」

そう。
便器から顔を出したのは、鬼でも蛇でもなく、豚だったのである。
こんなに衝撃的な出来事は、それまでのポルナレフの人生の中でもなかった。
いずれ天寿を全うした暁には、今わの際に人生のダイジェストとして絶対に思い出すであろう出来事だった。
だがウェイターは、この光景を見てなお、眉ひとつ動かさなかった。


「インドでも珍しい方式を取ったトイレですが、ちょいと下の豚小屋を設計ミスで浅く作りすぎまして。豚が腹を空かすと、顔を出してくるんですわ。」
「そ、そういう問題を聞いとるんじゃ・・・って、な、何?」

ポルナレフは、己の耳を疑った。
この話ではまるで、この一生トラウマになりそうな光景を、わざと造り出しているようではないか。
しかも、悪戯などではなく、大真面目に。
豚を利用したトイレ。
その利用目的とは。


「するってぇと・・・・、この豚の餌は・・・・・!?その為にいるのか!」
「だからですね、これを使うんですよ。どれ。」

ウェイターは相変わらず平気の平左な顔をして、壁に立て掛けてあった棒を取ると、見本を見せてやると言わんばかりに、棒の丸い先端部分で豚の顔を思いきり突いた。


「ブキイィィィッ!!」

顔を突かれた豚は、けたたましい悲鳴を上げて、瞬時に顔を引っ込めた。


「ね?突きを喰らわして豚が怯んだ隙に、用を足して下さい。」

ウェイターは棒を改めてポルナレフに差し出した。


「うちの店長なんかは、尻を豚に舐めて貰えるから、綺麗で良いなんて、言ってますがね!ケケケケケケケケケ!」

そして、ずっと仏頂面だった表情を初めて崩し、笑ってみせた。
だが、何故よりにもよってこのタイミングで、そして、こんなに気持ちの悪い笑い方で笑うのだろうか。
微妙に焦点の合っていない目でけたたましく笑う様は、まるで狂人のようだった。


「・・・・・・・・!」

もはや便意など欠片も感じない。
あるのは只、恐怖のみだった。


「それじゃあごゆっくり。」
「ま、待て!!一人にするな!!」

必死で呼び止めたが、扉は固く閉ざされてしまった。


「う゛・・・・・」

ポルナレフは固唾を呑み、改めて便器を凝視した。
汚れひとつ、水溜りひとつない、一見清潔そうな便器を。
しかしそれは、今となってはもう。


「・・・・・・・」

便器の底から、異様な気配が漂ってくる。
耳を澄ませば、『フゴフゴ・・・・』という声も聞こえてくる。


「・・・・・コイツは一生馴染めんような気がするなぁ、俺・・・・・」

無知は最大の勇気。
この便座に座る勇気は、もう二度と持てそうになかった。













廊下の洗面所は、幸いごく普通の造りで、透明の水道水が出た。
ポルナレフはトイレを諦め、そこで手を洗うだけに留める事にした。


「ホテルまで我慢しよっと・・・・」

少し落ち着いたらまた若干便意が蘇ってきたのだが、食事を済ませてホテルに帰るまでぐらいの間は我慢出来る。
さっさと食べてさっさと帰ろう、などと思いながら手を洗っていると、フロアの方から『お待たせしました』というウェイターの声がした。
覗いてみると、ジョースター達のテーブルに料理が運ばれてきたところだった。
なかなか良さそうなのか、ジョースターの歓声も聞こえてきた。


「やっべぇ・・・・!」

ポルナレフは急いで手や顔を拭いた。そして、早く席に戻るべく、顔を上げた。
異変に気付いたのは、その時だった。


「ん・・・・・?」

洗面所の大きな鏡には、背後の窓が映っている。
そこに、人の腕のようなものが張り付いていた。
包帯が巻かれた、男の腕だ。
それに気付いた瞬間、包帯だらけの不気味なミイラ男のような化け物が、窓をよじ登ってきた。


「はっ・・・・!」

ポルナレフは咄嗟に拳を握って構え、後ろを振り返った。
だが。


「い、いない・・・・・!?」

後ろの窓には、誰もいなかった。


「今そこに何か・・・・、異様なものがいた気がしたが・・・・」

窓越しに外を覗いてみるが、やはりそれらしい奴の姿はなかった。


「ふぅ〜・・・・、気のせいか・・・・」

ポルナレフは溜息を吐いた。


「無理もねぇか。便器の中に豚がいたんだからな。そりゃ、窓の外に怪物の幻でも見るなぁ。インド・カルチャーショックってやつか。ハッ。」

疲れているのだ。色々と強烈なこの国に、精神がダメージを受けて疲れているだけだ。
ここは単なる通過点に過ぎない。
ほんの1〜2日で通り過ぎて行ってしまうだけの、単なる通過地点なのだ。慣れる前におさらばになる。
ポルナレフはそう自分に言い聞かせて、気を取り直した。
だが。


「っ!」

顔を上げると、鏡に映る窓に、またさっきの怪物が張り付いていた。
そいつは閉まっていた窓を開け、ズルズルと身体を引き摺るような不気味な動きで窓枠によじ登り、中に入って来ようとしていた。


「な、何ィッ・・・・!?」

ポルナレフは後ろを振り返った。
だが、怪物はいなかった。窓も閉まったままだった。


「えぇっ・・・・?」

しかし鏡を見れば、そこにはそいつが映っている。
窓枠に足をかけて登り、中に入って来ようとしている。


「っ・・・・!」

もう一度後ろを振り返ってみると、そいつはおらず、やはり窓は閉まっている。


「くっ・・・・!」

だがしかし、鏡の中には確かに存在している。


「な、何だコイツは!?鏡の中だけに・・・見える!」

もう認めない訳にはいかなかった。これはカルチャーショックによる疲れなどではない。明らかに敵の襲撃、スタンドだった。
しかも、そうと分かれば心当たりがあった。


「コイツが、承太郎が聞いた鏡のスタンド・・・・!」

シンガポールを出発する朝、承太郎に聞かされた話。
忘れない、忘れる筈もない。
承太郎に聞かされてからずっと、今か今かと待ち侘びていたのだから。


― コイツが・・・・・!


DIOにスタンドを教えた魔女の息子。
鏡を使うスタンド使い。
カードの暗示は『吊られた男』。
名はJ・ガイル。両右手の男。


「っ・・・・・!」

化け物、いや、『吊られた男』は、とうとう中への侵入を果たした。
反射的に背後を振り返ったが、やはりそこには誰もいなかった。


「何か、ヤバい・・・・・!コイツは、相当ヤバいぜ・・・・・!」

鏡の中で、背後にジリジリと歩み寄って来ている『吊られた男』を、ポルナレフは怯えながら見つめていた。
そう、怯えていた。
得体の知れない恐怖に、ポルナレフは怯えていた。


「ハッ・・・・・!?」

『吊られた男』はポルナレフのすぐ後ろまで迫ってくると、突然、手首から長いナイフのような刃物を突出させた。


「うおおおおっ!シルバーチャリオッツ!!」

しかし、スピードではポルナレフのシルバーチャリオッツの方が圧倒的に有利だった。
ポルナレフは攻撃を受けるその前に自身のスタンドを発動させ、その剣先で『吊られた男』の顔面に、素早く鋭い一撃を加えた。その瞬間、鏡は粉々に砕け散った。


「ハア、ハア・・・・、な、何だコイツは・・・・!ちっくしょう・・・・!」

ポルナレフの背後を映すものは、もう何もなくなった。
だがそれでも、ポルナレフには勝利の確信が持てなかった。
それどころか、ダメージを与えた手応えすら、欠片程も感じられなかった。
何も終わっていない、まだ何も。
いやむしろ、始まったばかりなのだ。


「J・ガイル・・・・・・・・!」

粉々に砕け散った鏡の破片が、いきり立つポルナレフを嘲笑うかのように、あちこちでキラキラと輝いていた。

















「こうやって・・・・、こうするのだ。さあ、食べてみてくれ。」

アヴドゥルに正しいインドカレーの食べ方を教わった江里子は、習った通り、ナンというパンを手で千切り、カレーをつけた。
カレーはサラサラとしたスープ状で、今まで食べてきたカレーライスとはまるで別物だった。


「いただきます・・・・・」

香りは悪くないが、果たして味は。
江里子は少なからず緊張しながら、おずおずと口を開けた。


「スタンド!!」

その時、鞄を担いだポルナレフが、血相を変えてフロアに駆け戻って来た。
他のテーブルの客は勿論、江里子達も一瞬何が何だか分からず、ポカンと彼を見つめた。


「本体はどいつだ!?どの野郎だ!?両方右腕の奴は・・・・!」

ポルナレフは一人、血眼になっていた。凄い目付きでフロア中を見回している。
客、従業員、老若男女問わず、この場にいる人間全員をギラギラした目でくまなく睨み回すと、やがて小さく舌打ちして、レストランを飛び出して行った。
彼の様子は、尋常ではなかった。
きっと何かがあったのだ。
すぐさま察した江里子達は、誰からともなく席を立ち、ポルナレフの後を追った。



外はやはり、混沌の世界だった。相変わらず路上には人が溢れ返り、その隙間を、荷車や牛や野良犬が行き交っている。


「この人の数・・・・・、くっそぉ・・・・・!!」

その雑然とした風景を前に、ポルナレフは立ち尽くしていた。


「どうした、ポルナレフ?」
「何事だ!?」

ポルナレフの背中に、ジョースターとアヴドゥルが声を掛けた。


「・・・今のが!今のがスタンドだとしたなら!遂に・・・・・」

ポルナレフはこちらを見向きもせず、固く、固く、拳を握り締めた。


「遂に奴が来たぜ!!承太郎!お前が聞いた、鏡を使うというスタンド使いが来た!」

承太郎の顔付きが一瞬険しくなったのを、江里子は見逃さなかった。
鏡を使うというそのスタンド使いの話は、江里子も知っていた。
承太郎の話を、同じテーブルで聞いていたのだから。


「俺の妹を殺した、ドブ野郎・・・・・!妹の命を、魂を、尊厳を、全てを踏みにじったドクサレ野郎・・・・・!」

遂に現れたのだ。
DIOの新たな刺客が。
ポルナレフの妹を殺した男が。


「遂に・・・・・、遂に遭えるぜ!!」

ポルナレフの声に込められた怨念に、殺気に、江里子は思わず身震いした。
それ程に、激しい憎悪だった。


「お前の仇がここに・・・・・」

ジョースターが呟くと、ポルナレフはようやくこちらを振り返った。


「ジョースターさん。俺はここでアンタ達とは別行動を取らせて貰うぜ。」
『なっ!?』

突然の離脱宣言に、全員が動揺した。
しかし、ポルナレフの決意は些かも揺るがないようだった。


「妹の仇がこの近くにいると分かった以上、もうあの野郎が襲ってくるのを待ちはしねぇぜ!敵の攻撃を受けるのは不利だし、俺の性に合わねぇ!こっちから捜し出してぶっ殺す!!」
「相手の顔もスタンドの正体も分からないのにか!?」
「両腕とも右手と分かっていれば十分!」

花京院がポルナレフを正論で諌めたが、それも通じなかった。
確かに、両手とも右手というのは、この上ない特徴だ。
本体を捜す上で十分な手掛かりになるのは、残念ながら間違いなかった。


「それに奴の方も、俺が追っているのを知っている。奴も俺に寝首をかかれねぇか、心配の筈だぜ!」

ポルナレフは、自分の首を掻っ切る真似をして見せた。
確かに、両右手の男がDIOの刺客である以上、男はポルナレフの存在も、ポルナレフに命を狙われている事も、知っていると考えるのが自然だった。
だが江里子は、それでも尚、ポルナレフの言い分に拭いきれない不安を感じていた。
本当に両右手の男は、ポルナレフの追跡を恐れているのだろうか。


「じゃあな。」

江里子が口を開きかけたその瞬間、ポルナレフは再び踵を返し、行ってしまおうとした。



「・・・・・こいつはミイラ取りがミイラになるな。」

それを呼び止めたのは、アヴドゥルだった。


「・・・どういう意味だ?」

あからさまな棘を含んだその予言に、ポルナレフは足を止めた。


「今言った通りだ。」
「オメェ、俺が負けるとでも?」

振り返ったポルナレフは、声こそ荒げてはいないが、一触即発の怒気を撒き散らしていた。


「ああ!」

しかし、アヴドゥルもまた、一歩も退かなかった。


「敵は今、お前を一人にする為にわざと攻撃してきたのが分からんのか!別行動は許さんぞ、ポルナレフ!!」

アヴドゥルはポルナレフに指を指し、その低い声に逆らい難い迫力を漲らせて、厳しく言い放った。
その怒鳴り声に、江里子は思わず身を竦ませた。


「良いか、ここではっきりさせておく!!」

アヴドゥルが声を荒げた事により、ポルナレフの怒りにも火がついたようだった。
ポルナレフも指を差し返し、アヴドゥルに詰め寄っていった。


「俺は元々DIOなんてどうでも良いのさ!」
「ぬぅっ・・・・・!?」
「香港で俺は、復讐の為に行動を共にすると断った筈だぜ!!ジョースターさんだって承太郎だって承知の筈だぜ!!」

ジョースターが、不明瞭な唸り声を小さく上げた。
確かにそれはその通りだった。
香港の港で、ポルナレフは確かにそう言った。それはここにいる全員が記憶している事だった。


「俺は最初から『独り』さ!!独りで闘っていたのさ!!」
「勝手な男だ!!DIOに洗脳されたのを忘れたのか!!DIOが全ての元凶だという事を忘れたのか!!」
「テメェに妹を殺された俺の気持ちが分かって堪るか!!」

しかし、そうだったからといって、こんな別れ方は納得出来なかった。
確かに、ポルナレフは最初から自分の目的を明言していた。別に騙されて利用された訳ではない。
でも、このままさよならなんて、何だか余りにも、やるせなさすぎる。


「・・・・やめて下さい、二人共・・・・・・!」

ポルナレフとアヴドゥルの激しい口論を、江里子は泣きそうになりながら止めようとした。だがどちらも、江里子の言葉に耳を傾けようとはしなかった。


「以前DIOに出遭った時、恐ろしくて逃げ出したそうだな!」

ポルナレフは益々挑発的な口調で、アヴドゥルに対してそう言い放った。
それを聞いた途端、アヴドゥルの表情が固く強張った。
誰がポルナレフにその話をしたのだろうか。ジョースターか、承太郎か、花京院か。
しかし誰であろうと、その話をした理由は、DIOと闘う上で必要な情報を共有する為だった筈だ。
決して、逃げたアヴドゥルを責めたり、愚弄する為ではなかった筈だ。


「そんな腰抜けに、俺の気持ちは分からねぇだろうからよ!!

しかし、激しい怒りに我を忘れている今のポルナレフは、その事に頭が回っていないようだった。
彼は遂に、言ってはならない事を言ってしまった。


「何だと・・・・・!」

アヴドゥルの顔付きが変わった。本気で怒ってしまったのだ。
DIOから逃げ出した事を誰よりも一番恥じているのは、恐らく彼自身だから。
江里子は、昨夜のアヴドゥルの話を思い出していた。
やはり自分は恐れているのかもしれない、情けない、と自嘲した彼を。


「もうやめて下さいってばっ・・・・!」

耐えかねて、江里子は二人の間に割って入ろうとした。
しかし花京院が、そんな江里子の腕を掴んで引き止めた。


「花京院さん・・・・・!」
「危ないです、江里子さん。あの調子じゃあ・・・・・」

花京院が何を言いたいのかは分かっていた。
ポルナレフとアヴドゥルは、今にも殴り合いを始めそうな雰囲気だった。
男の喧嘩に女がノコノコ止めに入ったところで、巻き込まれて無駄に怪我をするだけだと、そう言いたいのだろう。
そんな事は、言われずとも江里子自身が良く分かっていた。
だがそれでも、動かずにはいられなかったのだ。


「っ・・・・・・!」

花京院に腕を掴まれたままではもはやどうする事も出来ず、江里子は只々、事の成り行きをハラハラと見守るしかなかった。


「俺に触るな!!香港で運良く俺に勝ったってだけで、俺に説教はやめな!!」
「貴様・・・・・!」
「ほ〜う、プッツンくるかい!?だがな!俺は今のテメェ以上に、もっと怒ってるって事を忘れるな!!アンタはいつものように、大人ぶってドンと構えとれや、アヴドゥル!」
「こいつ・・・・!」

アヴドゥルが只でさえ大きな目を更に大きく見開き、固く握り込んだ拳を振り上げた。
遂に始まってしまう。江里子は思わず息を呑んだ。
だが。


「ジョースターさん!!」

ポルナレフに殴りかかろうとしたアヴドゥルの腕を、ジョースターが掴んで止めていた。


「もういい。行かせてやろう。こうなっては誰にも彼を止める事は出来ん。」

ジョースターが、静かな声でそう言った。
その落ち着き払った声を聞いて、アヴドゥルも幾らかは冷静さを取り戻したようだった。


「・・・いいえ。彼に対して幻滅しただけです。こんな男だとは思わなかった。」

いや、お互いまだまだやり足りないのだろう。
軽蔑するようにそう言い捨てたアヴドゥルも、地面に唾を吐き捨てたポルナレフも、きっかけさえあればまたすぐにでも再戦に突入しそうな刺々しい雰囲気を発したままだった。


「確かに私は恐怖して逃げた。しかし、だからこそ勝てると信じるし、お前は負けると断言出来る!」
「はぁ!?」

そしてそれは案の定、起きてしまった。
一旦は離れていたポルナレフが、再びツカツカとアヴドゥルに歩み寄って行った。


「じゃあ俺も断言するぜ!テメェのその占いは、外れるってな!」

今度こそ殴り合いになるかと思ったが、しかし、再戦とはならなかった。
ポルナレフはそれだけを告げると、最初に離脱宣言をした時とはまた別の方向を向いて歩き去って行った。
ふと気付けば、路上に溢れ返っている人々が皆、遠巻きに何事かとこちらを見ている。さっきまでの喧騒が嘘のように、この辺り一帯だけシンと静まり返っている。
その気まずい沈黙の中を、ポルナレフだけが一人、他人事のような顔をして歩いて行ってしまう。さっきとは別の方向を向いて。
恐らくは、当てなんか全く無いのだ。
きっと、人で溢れ返っているこの町の中を、闇雲に歩き回って一人で捜そうとしているのだ。


「っ・・・・・・!」

そう思った瞬間、江里子は花京院の手を振り解き、駆け出していた。


「エリーッ!!」
「エリーッ!」
「江里子さんっ!!」
「江里!」

きっと、誰も予想だにしていなかったのだろう。
ジョースターもアヴドゥルも、花京院も承太郎も、驚きと焦りを露にして江里子を呼び止めた。


「私に任せて下さい!必ず連れ戻して来ます!」

江里子は後ろを振り返り、ジョースター達に向かってそう告げた。


「そんな、危険です!女性が一人で歩けるような国ではないんですよここは!!」
「エリー、戻るんじゃ!」

花京院とジョースターはそれを許そうとしなかったが、江里子の心は不思議な位、揺るがなかった。


「大丈夫です!こんな時の為の『お荷物』ですから!」

江里子は彼等に向かって笑って頷いて見せると、すぐにポルナレフの後を追って走り出した。
一体、何を根拠にこんな自信が湧いてきたのだろうか。
自分でも不思議だった。















土地勘なんて勿論ない。もし見失ってしまったら、一巻の終わりだった。
だから江里子は、必死で走った。
寝そべっている野良犬を飛び越え、時には幼い子供を押し退けてまで、全速力でポルナレフの後を追いかけた。
すると前方に、逆立てたシルバーブロンドの頭が見えた。


「ポルナレフさんっ!!」

江里子はラストスパートをかけ、ポルナレフの腕をしっかりと掴んだ。


「なっ・・・・!?エリー!お前、ついて来たのか!?」
「良かった・・・・!会えて・・・・・!」
「お前一人か!?」
「はい・・・・・!」

ポルナレフの腕に掴まったまま、江里子はハァハァと息を切らせていた。
ポルナレフははじめポカンとしていたが、やがて目を見開いて怒鳴った。


「な・・何してんだお前!!一人で追いかけて来るなんて危ねぇ事しやがって!!」
「自覚はあるんですね、良かったです。じゃあ、ジョースターさん達の所に帰りましょう。」

江里子がそう返すと、ポルナレフは一瞬、決まりが悪そうに言葉を詰まらせた。


「・・・さっきから言ってるだろ。俺は妹の復讐をする為に・・」
「その為に皆さん、きっと力を貸して下さいます。戻りましょう。」
「誰がんな事頼んだ!」

ポルナレフは猛然と声を張り上げた。


「頼まれなくたって、皆さんそのおつもりですよ。
ポルナレフさんだって、私達に協力してくれたじゃないですか。
シンガポールでだって、海の上でだって。
船で具合悪くしてダウンした私の看病までしてくれたじゃないですか。」
「あれは・・・・・・!あれは只の成り行きだよ!それ以上でもそれ以下でも・・」
「私達だって同じです。只の成り行きです。あなたと同じように。」
「ぐっ・・・・・・!」

ポルナレフは、承太郎や花京院などと比べると、遥かに口数の多い男である。
だが生憎と、口論では女の方が2枚も3枚も上手なのは、世界共通の一般常識だった。


「成り行きでも、全力を尽くします。
だから、一人にならないで、一緒に闘いましょうよ。ね?」

江里子はポルナレフの腕を掴んだまま、まっすぐに彼を見上げた。


「っ・・・・・!」

青い瞳が一瞬、動揺したように揺れた。
だが次の瞬間、ポルナレフは江里子の腕を素っ気なく振り解いた。


「・・・俺は頼んでねぇ。親切の押し売りならお断りだぜ。とっととジョースターさん達の所へ帰りな。」

江里子は、自分と目を合わせないようにしてそう呟くポルナレフを暫し見つめると、静かに答えた。


「・・・・帰りません。正しくは、帰れません。道が分からなくなりました。」
「は・・はぁっ!?」

江里子のその答えを聞いたポルナレフは、今度はうって変わって丸く見開いた目で江里子を凝視した。


「どうしても一人になりたかったら、私をジョースターさん達の所へ送って下さい。」
「ちょっ・・・、ふざけんなよお前・・・・!」
「ふざけてません。大真面目です。道も分からないし、怖いし、一人でなんて帰れません。」

江里子はポルナレフの目をまっすぐ見つめ返しながら、半分だけ、嘘を吐いた。
本当は、帰ろうと思えば帰る事は出来る。ホテルまでの道を人に尋ねれば済む話だ。
江里子達の泊まる『HOTEL.GRAND』は、立派な外観の高級ホテルだから、道の分かる人は沢山いるだろう。
だが、一人では帰らない。
必ずポルナレフを、無事にジョースター達の元へ連れ帰る。
江里子は固くそう決心していた。


「そ・・・、んな事知るかよ!勝手について来たのが悪いんだろ!?
何で俺が送って行かなきゃならねーんだ!一人で勝手に帰れ!」
「そう言えば、インドに着く直前に、アヴドゥルさんと花京院さんから注意されたんです。インドは女性、特に外国人女性にとっては凄く危険な国で、絶対に一人歩きしちゃあいけないって。」

ガーガーと怒鳴るポルナレフを軽く受け流して、江里子は平然と話した。


「インドは完全に男性優位社会で、男性は女性に対して何やっても良いと思っている節があるんですって。
外国人の女に対しては特に。中でも日本人は皆お金持ちだと思われているから、一層狙われやすいそうです。身体もお金も、何もかも奪われるんだとか。
だから、くれぐれも、くれぐれも、一人で出歩くなと、きつ〜く言われたんですよねぇ。」
「うっ・・・・・」
「一人じゃ怖くて帰れません。今の私には、ポルナレフさんしか頼る人がいないんです・・・・・。」
「〜〜〜っ・・・・・!!」

上目遣いに見上げてみると、ポルナレフは実に愉快な表情になった。
怒りと、苛立ちと、動揺と、色んな感情がごちゃ混ぜになった表情に。


「ちぃぃっ・・・・・!と、とにかく、戻らねぇったら戻らねぇ!!俺は知らねーからな!!」

ポルナレフは痛烈な舌打ちをすると、何だか少し赤くなった顔をプイと背け、近くにいた老婆に何やら話しかけに行った。


「男を捜しているんだ!両手とも右手の男だ!知らねーか!?」

すぐに後をついて行ってみると、ポルナレフは老婆に例の仇の事を尋ねていた。


「両手とも右手?何だいそりゃあ。」

しかし老婆は、怪訝な顔をして首を捻っただけだった。


「・・・ポルナレフさん。もしかしてそうかな、とは思っていましたけど、『捜し出す』って、やっぱりこういう方法なんですか?」
「あぁ!?だったら何だってんだ!?」

こんな地道な聞き込みで捜すのなら、何より人手が必要な事ぐらい、ポルナレフも本当は分かっている筈だった。
しかし、今は意固地になっていて、どうしたって素直に協力を請う事などしそうになかった。
ジョースター達、特にアヴドゥルの手を借りる位なら、彼は何日・何ヶ月かかっても、一人でインド中を歩き回るだろう。
江里子は深々と溜息を吐いた。


「・・・・だったら尚更、人手が必要でしょう。
どうしてもジョースターさん達の所には戻らないっていうのなら、せめて私がお手伝いします。」
「はぁ!?だっ、だからそんな事頼んでねぇってさっきから・・」
「私は向かい側にいる人達に訊いてきますから、ポルナレフさんはこっち側の人達に訊いて下さい。
ここから始めるとして、まずはこのまままっすぐ行きましょうか。」
「ちょっ・・・、オイ、何でお前が仕切ってんだ!?」

男の意地は、同じ男相手には通用するが、女には通用しない。
江里子はとことん自分のペースで押し通して、主導権を握る事にした。


「勝手に違うルートに進まないで下さいね!ちゃんと目の届く所にいて下さい!
はぐれちゃったら私、生きて帰れないんで!頼みますよ、本当に!私の命、あなたに預けましたからね!」
「嫌な脅し方するな!!しかも何でお前に指示されなくちゃあ・・」
「じゃあ行きましょう、Ready Go!」
「おい聞いてんのかエリーッ!!おいっ・・・・!!」

『お荷物』を背負えば、無茶は出来なくなる。
ホリィのその教えは、やはり正しかった。
ポルナレフは文句を盛大に垂れながらも、一応は江里子の指示した通りに動き出した。
どんなに文句を言われようが、迷惑がられようが、全力でぶら下がる。
彼が無事に、ジョースター達と合流するまでは。
江里子は改めてそう決意すると、聞き込みをするべく、近くにいる人間に目を向けた。

ふと目に留まったのは、アクセサリー屋の軒先にいた、男女のカップルだった。
女の方は、女というよりはまだ娘という位の若さで、現地の人間のようだが、周囲に沢山いるインド人女性達とは見るからに質の違う、上等そうなサリーを着ていた。
そして男の方は、西部劇のガンマンのような格好をした、長い金髪の白人男性だった。
娘とは10歳ぐらい離れていそうな大人の男だったが、多分、恋人同士で間違いなかった。煙草を吹かしながら、時折ふと思い立ったように、アクセサリーやスカーフなどを嬉々として品定めしている娘の髪を愛しげに撫でたりする仕草が、そう思わせていた。
江里子は少し考えてから、その二人に声を掛ける事に決めた。
白人男性ならば現地の危ない組織の人間ではないだろうし、しかも良家の令嬢風の娘連れだ。二人の間柄も、どう見ても相思相愛のカップルのようにしか見えないし、危険はないだろうと判断したのである。


「すみません。ちょっとお尋ねしたいのですが。」

娘はアクセサリーの試着に忙しそうだったので、江里子はまず、男の方に声を掛けた。


「何か?」
「人を捜しているんです。男性なんですが、その・・・・・、両手とも右手の男性なんです。」
「両手とも右手?」

案の定、男は思いきり怪訝な顔になった。


「済まないが、ちょっと意味が分からないなぁ。両手とも右手というのは、それは一体どういう事かな?」
「おかしな事を言ってすみません。ですが本当なんです。左手も、右手なんです。私の言っている事、分かりますか?」

江里子は自分の左手を裏返し、右手と比べて見せたり、重ねて見せたりして、どうにか理解して貰おうと働きかけた。
その甲斐あってか、男は合点がいったように、目を丸くした。


「Oh! I see, I see! けど、そんな人間が本当にいるのかい!?」
「はい、確かです。見掛けませんでしたか?」

江里子がそう尋ねると、男は目を細めて煙を吐き出した。


「・・・さぁねえ。ただ、そんな奴を見掛けたら、絶対記憶には残っているだろうなぁ。」
「・・・・ですよね。」

江里子が肩を落とすと、アクセサリーの試着が終わったのか、娘の方がこちらを振り返った。


「どうかしたんですか?」
「ああ。彼女が、人を捜しているんだとよ。」

男は娘の腰を優しげに抱き寄せると、まるでロマンス映画のワンシーンのような雰囲気のある仕草で、その耳元に囁くようにして尋ねた。


「両手とも右手の男だそうだ。お前、見た事あるか?」

娘はあどけない可憐な顔を申し訳なさそうに曇らせて、フルフルと首を振った。
男は小さく溜息を吐くと、江里子の方を向き直り、肩を竦めた。


「だそうだ。力になれなくて悪いな。」
「いえ。こちらこそ、デートの最中にお邪魔してすみませんでした。ありがとうございました。」

江里子は男と女、それぞれに笑顔で会釈をすると、次を当たるべく、カップルから離れた。


「両手とも右手の男、ねぇ・・・・・・」

男は自分のテンガロンハットを目深に被り直すと、紫煙を吐き出しながらそう呟いた。





















日が暮れてきた。
日没の時が近付き、空は眩い夕焼けに染まっていた。
沈みかけているその鮮やかなオレンジ色の夕陽を遮るものは、何もない。
ここには只、まばらに生えた木と草と、崩れ落ちた廃墟が転々とあるだけだった。
サバンナのようなその風景の中を、1頭のインド象が走ってきた。
まるで王族の馬車のように見事な装飾を施され、その背には鞭を持った西部劇のガンマン風の男と、男の背中にそっと寄り添う娘を乗せて。
やがて象は、崩れた教会のような建物の前で、その足を止めた。


「・・・・・降りな。俺は友人に用がある。」

男が鞭で軽く打つと、象は足を折り、身を低くした。
娘は言われるままに、地面に降り立った。


「ここからは一人で帰れ。」

娘を降ろすと、象は再び足を伸ばし、立ち上がった。
不本意だったのか、娘は男を見上げながら駆け寄った。


「私をあなたの妻にして下さい!」
「あぁ?」
「あなたに一生仕えます!何なりとお言いつけになって下さい!」

娘は、堪え切れなくなった涙をポロポロと零して懇願した。


「だからあなたのお側に・・・・!生涯いさせて下さい!」

ひたむきすぎる娘に、男は少し、呆れた目を向けた。


「オメェ、バカな気は起こすなよ。まだ16じゃねぇか。」
「もう結婚は出来ます!愛しているのです・・・・」

娘は全く聞く耳を持ちはしなかった。
黒い瞳を潤ませて見上げてくる娘を見て、男は小さく溜息を吐き、象から飛び降りた。
そして、娘の手を取り、自分の方へ引き寄せた。


「良いか、俺は只の風来坊さ。その日その日を気ままに暮らし、いずれは野垂れ死ぬ運命なんだぜ。」

娘は何かを言いかけた。
しかしその可憐な唇に、男はやんわりと人差し指を当てた。


「シ〜ッ・・・・。貴族の名門のオメェが、俺と結婚するなんざぁ、考えちゃあいけねぇぜ・・・・。幾らお互い愛し合っていてもな。」
「本当・・・・?私の事を、愛してくれているのですか・・・・・?」
「ああ。世界でただの一人さ。」
「ああ・・・・!」

夕陽を浴びながら男が愛を囁くと、娘は嬉しそうに目を輝かせた。


「だからだよ。お前を愛しているからこそ、結婚なんかしちゃあいけねぇのさ。分かってくれるな?」

娘は悲しそうに俯いた。
その様子は、渋々納得し、頷いたようにも見えた。


「俺だって、辛くて胸が張り裂けそうなんだぜぇ?」
「うっ・・・・!」

男のその言葉に、娘はとうとう両手で顔を覆って泣き出した。
男はその頭に軽く口付け、娘を抱きしめた。


「でも時々会って、こういう風に抱きしめてやるよ。俺はそれで幸せだぜ。」
「・・・・・はい。」

娘は幸せそうに、男の胸に頬をすり寄せた。
酔っているのだ。
男と女の駆け引きも、世間も、何一つ知らない苦労知らずの小娘が、恋に恋をしているのだ。
そして、そんな自分に酔いしれているのだ。
その手の女は、こうしてひたすらに綺麗な言葉を囁き、キスのひとつ、抱擁のひとつでもしてやれば、簡単に懐柔出来る。
男は娘に見えないよう、口の端を吊り上げた。
そして、おもむろに娘を放すと、また象に飛び乗った。


「じゃあな。愛してるぜ。」

男はさっさと象を走らせた。
娘は、自分が荒野に置き去りにされている事にも気付かず、健気に手を振って男を見送っている。
恋する乙女という奴は、全く始末に負えないアホだと呆れながら象を走らせていると、誰かの笑い声が小さく聞こえた。


「・・・ん?」

すぐ側の廃墟の柱の陰に、不気味な男が座っていた。



「盗み聞きたぁ、趣味が良くねぇぜ。」
「ヘッヘッヘッヘッヘ。」

男は咎めるように声を掛けたが、不気味な男はただ笑っているだけだった。
まるで冷やかすように、小馬鹿にするように。


「ヘン!相変わらず回りくどい事をやってると言いてぇだろうがよ、あんな女が世界中にいるとよ、何かと利用出来て便利なのよ。
何でもしてくれるぜ。命も惜しくないって風にな。」

男は象に乗ったまま、不気味な男の方に近付いて行った。


「・・・・・俺のやり方は分かっているよな?J・ガイルの旦那よ。」

まだ厭な笑い声を微かに上げているその不気味な男の左手は、右手だった。


「ところでだ。シルバーチャリオッツのポルナレフだが、単独行動でアンタを捜し回ってるぜ。」

男は両右手の男、J・ガイルを、鞭で指した。


「どうするねぇ、アンタがわざとおびき出しているのに引っかかりやがったなぁ。ヘッ。殺るのは奴からか?・・・ん!?」

その時、J・ガイルの後ろに、猛毒を持つ蛇、コブラが忍び寄ってきた。
しかし男は、その事をJ・ガイルに警告しようとはしなかった。
助けようとも、焦りさえもしなかった。男はただほくそ笑んで、様子を伺っていた。
やがて、鎌首を持ち上げたコブラは、男の方に向かって飛んで来た。


「・・・フン!」

男の手の中に、突如、拳銃が現れた。
男はその銃で、コブラの首を正確に撃ち抜いた。
銃弾で切断され吹っ飛んだ蛇の首は、牙を剥いたまま、まるで道連れにしてやると言わんばかりに、座っているJ・ガイルに向かって飛んで行った。
J・ガイルの側には、彼の物らしい酒瓶が置いてあった。その瓶に、飛んで来る蛇の首が映った。
その刹那、そこに包帯だらけの不気味なミイラ男が映った。
そして、蛇の首をバラバラに斬り細裂いた。
同時に、ボトボトと音を立てて、蛇の肉片がJ・ガイルのすぐ側に落ちた。


「・・・・・・」

ガラス瓶に映っていたミイラ男がかき消えると、J・ガイルが立ち上がった。
男も、象から飛び降りた。


「行くか!【吊られた男−ハングド・マン−】のアンタと、【皇帝−エンペラー−】のこのホル・ホースがいれば、奴等は皆殺しだぜ!」
「ヘッヘヘヘ。」

ホル・ホースはテンガロンハットを被り直し、J・ガイルと並んで荒野を歩き出した。


「・・・・そういや、さっき単独行動とは言ったが、実は連れが一人いる。」

ホル・ホースはふと、カルカッタの町の中で出遭った女の事を思い出した。
ほんの少し前、デートをしたがるネーナに付き合ってやる振りをしながら、ポルナレフの動向を探っていた時に。


「若い日本人の女だ。あれがきっとDIO様の言ってた、ジョースターご一行の『おまけ』だろう。」

ホル・ホースは煙草に火を点けて燻らせながら、続けた。


「あの娘、俺にこう訊いてきやがったよ。『両手とも右手の男性を見掛けませんでしたか?』ってよ。」
「・・・ヒッヒヒヒ。」

ホル・ホースがふざけて裏声を出すと、J・ガイルはまた厭らしい笑い声を上げた。


「ヘヘッ、アンタが『男性』ってタマかよ。笑いを噛み殺してすっとぼけんのに苦労したぜ。」
「ヒヒヒヒッ。」
「DIO様が言ってた通り、あの娘はスタンド使いでも何でもねぇ、本当に只の女だ。だからDIO様も全く気に留めちゃあいねぇ。
まあ多分、男連中の世話でもする為について来てんだろうよ。ジョースターの孫、空条承太郎の家のメイドらしいからな。
多分、アンタ好みだと思うぜ?イジメ甲斐のありそうなよ。おまけになかなかの・・・お宝付きだ。」

ホル・ホースは自分の手で、女性の豊満なバストのジェスチャーをして見せた。


「しかしアンタも大概イカれた趣味してるよなぁ。若い娘を犯して汚して痛めつけて、グチャグチャに泣き喚く顔に興奮するなんてよぉ。
女は愛でてやるもんだと思ってる俺にゃあ、とっても理解出来ねぇぜ。」
「ヘッヘッヘ。」
「おまけに商売女は駄目、20歳以上も駄目、見た目だけ清楚で真面目そうな女も駄目。正真正銘の品行方正な処女でなきゃあってんだから、贅沢極まりねぇぜ。中世の吸血鬼伯爵かよ。」
「ヒエッヘヘヘ。」

J・ガイルはおもむろに、ホル・ホースの手元から煙草を奪い取った。
そしてそれを一吸いし、愉悦の笑みを浮かべた。


「・・・・・そういや、日本はまだ『喰って』なかったな。一度、味見してぇなぁ、ヘヘヘ・・・・」
「ケッ・・・、何が『味見』だよ。アンタに『喰われた』女は皆、そのまま天国へ直行だろ?いや、地獄か?
何しろ、こんな化け物みてぇな男に全身の穴ぁ犯されて、インドの便所並みに汚されて、挙句に殺されちまうんだからなぁ?」
「ヒヒヒヒ。ポルナレフの妹と、どっちが『美味い』かなぁ。ヘッヘヘヘ・・・・」

二人の男の不穏な会話を聞く者は、誰もいなかった。




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