その後も、過酷な移動は続いた。
ラノーンを出た後はチャーターした船でビルマ沖を回り、途中、首都・ラングーンで給油と物資補給の為に一時下船するも、観光する時間などはなく、適当なホテルで1泊して最低限の休息を取っただけで、翌朝にはまたすぐに乗船する事となった。
シンガポール〜タイまでの間が、途中で敵と遭遇しながらも比較的快適で楽しい旅だっただけに、このビルマ越えの船旅が、江里子にはより一層辛く感じられた。
スピードワゴン財団傘下の製薬会社が開発した酔い止めが、素晴らしい効能を発揮する妙薬で、それを貰ってから以降は船酔いが劇的に楽になったが、それでもやはり、ずっと船に乗りっぱなしは辛い。
だが、ジョースターの立てたプランでは、もう一度途中下船はするものの、このままインドのカルカッタまで行くとの事だった。
それを聞いた時は、正直、内心でうんざりしてしまった。
だが、まさか文句など言えよう筈もない。
香港〜シンガポール間の、沈没→難破を繰り返した船旅よりは今回の方が遥かにマシなのだからと自分に言い聞かせながら、どうにかこうにかやり過ごすこと丸1日。
水平線に美しい夕陽が映えるようになった頃、船はビルマのガパリという町に到着・停泊した。
「今夜の宿はここにしよう。」
ジョースターの決めたホテルは、久しぶりの高級リゾートホテルだった。
ここ、ガパリビーチは欧米人に人気の高いリゾート地らしく、この辺り一帯のホテルは皆、少々のランクの差はあれど、大体どこもサービスの良い、高級ホテルばかりだったのだ。
「うおおおぉーーーっ!トレビア〜ン!!」
拳を振り上げて感激したのは、ポルナレフだった。
「やっと綺麗な風呂とトイレが使えるぜーっ!」
「えっ!?ポルナレフさんもそんな事考えてたんですか!?」
実は自分も真っ先に同じ事を考えて喜んでいた江里子は、少し驚いた。男はあまりそういう事に頓着しないものだとばかり思っていたからだ。
「俺ぁ綺麗好きで、こう見えてもかなりナイーブなんだよ!風呂とトイレが汚ねぇのは我慢出来ねぇタチなんだ!」
「へぇー、そうなんですか、意外・・・・・」
「意外ってどういう意味だよ。」
「いえいえ別に。」
心外そうな顔をしたポルナレフを宥めていると、ジョースターが口を開いた。
「まずは食事にしよう。ここは海辺なだけあって、シーフードが最高なのだそうだ。
レストランのデッキで、シーフードバーベキューをやっとるらしい。他の客で混雑する前に食べに行こう。」
時刻は午後6時を少々過ぎたところ。
確かに夕食には多少早い時間帯だが、明日の出発に備えて早く休みたい一行にとっては、何の問題もなかった。
レストランは、ホテルの1Fにあった。
広いウッドデッキに、沢山のテーブルとバーベキューコンロが設置されていて、夜風に当たりつつ潮騒を聴きながら、獲れたてのシーフードを味わえるという寸法だった。
群青色から次第に黒へと変わっていく海の神秘的な風景も一味添えてくれて、バーベキューの味は格別だった。
「んんんんーーっ!美味しいぃぃ!」
大きなエビに齧りついていると、承太郎がビールを飲みながら小さく笑った。
「よく食うな。船ん中じゃあ、死にそうなツラしてやがった癖に。」
「だって美味しいんですもの。それに、食べられる時に食べておかないと、体もちませんから。」
モリモリ食べながらそう答えると、アヴドゥルが愉快そうに笑った。
「ははは、確かにその通りだ。エリー、これも焼けているぞ。食べるか?」
「わっ、ありがとうございます!」
アヴドゥルは、良い具合に焼けている貝をトングで掴み、江里子の皿に載せた。
網の上には他にも様々な具材があり、載せる端から次々と焼けていっている感じだった。
江里子は勿論、大の男5人が腹を満たすのにも不足はない位に。
「網の大きさの割にコンロが小さいですけど、意外とよく焼けるものですねぇ。業務用だからですかね。」
食べながら、江里子は感心した。
するとアヴドゥルは、何やら意味ありげな含み笑いを浮かべた。
「この程度のコンロの火で、こんな網の端まで熱が回ると思うか?」
「え・・・・・?え?」
見れば、男性陣全員が同じような表情をしていた。
「ああ、そっか。エリーには見えないんだったな。」
「ま、まさか・・・・・・・」
ポルナレフの言葉で、ようやく江里子にも事情が理解出来た。
「マジシャンズレッドの炎で、火力をアップさせておるのだ。だからほれ、見てみなさい。」
ジョースターが得意げな笑みを浮かべて、江里子に周囲の様子を見るよう促した。
すると、なるほど。
他のコンロを使っている客達が皆、驚きと羨望の目でこちらを見ていた。
「・・・・・ふふっ、きっと私達が席を立ったら、皆こぞってここを使いたがるでしょうね。」
「それで、やっぱり焼けなくてイライラする・・・・、ってね。」
江里子に同調するように花京院がウインクして見せると、誰からともなく笑い出した。
楽しい、実に楽しい気分だった。
バーベキューはホリィが好きで、毎年夏になると最低2〜3度はやる。
自宅の庭から伊豆にある空条家の別荘まで場所は様々だが、どこでやるにしても、友人や知人を家族単位で招き、パーティーのように賑やかに行う。今年の夏も勿論行った。
空条夫妻と付き合いのある人々なだけあって、ゲストは皆良い人達ばかりであるし、使用人だからと台所に追いやられる事などなく、空条一家やゲスト達と同じ場で、焼きたての美味しいバーベキューもお腹いっぱい食べさせて貰える。
だがそれでも、こんな風に純粋に楽しいと思えた事は、今までなかった。
元来内気で、あまり人と打ち解けない性分の江里子には、ゲストがどんなに良い人達ばかりでも、やっぱり気疲れしてしまうのだ。
しかし、今は違う。
今ここで一緒にいる彼等、ジョースター、アヴドゥル、承太郎、花京院、そしてポルナレフに対しては、不思議とそんな風には思わなかった。
はじめのうちは彼等それぞれに対して警戒したり身構えたりしていたのに、いつの間にか自然体で接する事が出来るようになっているのだ。
幾つもの危険を、共に乗り越えてきたからだろうか。
これが『信頼』というものなのだろうか。
信頼ならば、誰よりも一番、ホリィに対して寄せている筈なのだが、彼女に対する気持ちとも、何かが少し違うような気がして。
こんな気持ちは、生まれて初めてだった。
バーベキューをたらふく食べてレストランを出た後、江里子は自分の部屋へ帰らず、ジョースターとアヴドゥルの部屋へ寄った。
その目的は、電話だった。
「ああ。こっちは大丈夫だ。余計な心配しねぇで、ちゃんと食って寝てろよ。じゃあ、江里に代わるぜ。」
話し終わった承太郎が、江里子に受話器を差し出した。
江里子はそれをおずおずと受け取り、耳に押し当てた。
「・・・・・・・もしもし」
『・・・ハァイ、エリー。』
懐かしい、ホリィの声が聞こえてきた。
『久しぶりね。元気?』
「奥様・・・・・・・」
絶対に泣くなとしっかり自分に言い聞かせておいたつもりだったが、いざ実際に声を聞くと、早速胸が詰まった。
だが、電話口でいきなり泣き崩れる訳にはいかない。
江里子はグッと奥歯を噛み締めると、意識して明るい声を出した。
「はい、元気です・・・・!奥様の方こそ、お加減はどうですか?」
『私も元気よ〜!今から皆の後を追いかけて行けそうな位に!ふふっ!』
電話の向こうで、ホリィはいつも通りの溌剌とした笑い声を上げた。
『今も気持ちはとっくに追いかけているのよ。ちょうどシンガポールに着いた位かしら、ふふっ。』
「ふふふっ、奥様ったら・・・・・!」
『今はビルマにいるんでしょう?ねえ、そこまではどんな旅だったの!?詳しく聞かせてちょうだい!』
「は、はい・・・・・・」
何から話そうかと考えていると、不意に肩をトントンとつつかれた。
振り返ると、承太郎がメモを見せてきた。
そこには、
『女の長電話には付き合ってられねぇから、俺らは隣の部屋で一杯やってる。
ジジイが、電話料金は気にすんなとよ。』
と書かれてあった。
きっと、気を利かせてくれたのだろう。
ジョースターも、アヴドゥルも、承太郎も、小さく笑って部屋を出て行った。
『どうしたの、エリー?』
「あ、いえ・・・・。今、承太郎さん達が隣室に移動したんです。女の長電話には付き合ってられねぇって。」
『まあ。承太郎ったら、気を利かせてくれたのね♪』
「ふふっ、そのようです。じゃあ、何から話しましょうか。」
『最初から全部よ、エリー!』
「はい、奥様。」
お体に障ります、とは言えなかった。
この間ジョースターに、彼女がいつまで電話に出られるか分からないと言われたからだろうか。
とにかく今、話せる限り話しておかないといけない、そんな気がして、江里子はホリィにせがまれるまま、これまでの波乱に満ちた旅の全てを話して聞かせた。
『・・・・・・そう・・・・・・・。とても、凄い旅だったのね・・・・・・・。』
長い長い、その話を聞き終えた後、ホリィはしみじみと呟いた。
『・・・・・ねぇ、エリー。旅に出た事、後悔している?』
躊躇うような少しの沈黙の後、ホリィはそう尋ねてきた。
その質問に、江里子はハッとした。
「・・・・・・・正直に、答えても良いですか?」
『勿論。』
「実は・・・・・・・・、私・・・・・・・・」
江里子は躊躇った。
本当にそれを言ってしまっても良いのか、と。
出発直後なら、嘘を吐こうと考えたかも知れない。
後悔なんてしていない、貴女との約束を守る事だけを考えています、と。
だが、今は。
「私・・・・・・、意外と・・・・・・・、楽しんでるんです・・・・・・・」
ホリィの反応を気にしながらも、江里子は正直に、そう告白した。
「最初の内は、奥様の事ばっかり考えていました。
奥様との約束の事や、奥様のお加減の事ばかり考えて、不安になったり、怖くなったりして・・・・・」
『・・・・・・』
「勿論、今もそれは同じです。皆さんを無事に連れ帰るという奥様との約束は片時も忘れていませんし、奥様の事を考えない日もありません。
だから、今までお電話出来なかったんです。
今、奥様のお声を聞いたら、甘えて日本に帰りたいって泣きついてしまいそうで・・・・・!」
気が付いたら、まるで懺悔のように、自分の本心をホリィに打ち明けていた。
「だけど、その一方で私、ちょっとした事に心から楽しんだり、笑ったりしてるんです・・・・・・。
さっきもお夕食にバーベキューを頂いて、とっても美味しいって、楽しいって、思ってしまいました・・・・。
ジョースターさんや、承太郎さんや、アヴドゥルさんや、花京院さんや、ポルナレフさんと、下らない事で笑ったりはしゃいだりしてると、とても楽しいんです・・・・・・!
シンガポールで別れてきたけど、アンと過ごしていた時もとても楽しかったですし、さよならする時は泣けてきてしまって・・・・・・!」
『エリー・・・・・』
「奥様が苦しんでいらっしゃる時に、私ったら自分勝手な事ばっかり・・・・・!申し訳ありません、奥様・・・・・・・!」
江里子の頬を、熱い涙がポロポロと伝い落ちた。
『・・・・・・何を謝る事があるの、エリー。』
暫くして聞こえてきたホリィの声は、温かい優しさを帯びていた。
まるで、すぐ側にいて、抱きしめてくれているような気がする程に。
『それを聞いて、私はとっても嬉しいのよ。だってそれは、あなたの世界が広がったって事なのだから。』
「私の・・・・世界・・・・・?」
『そうよ。嬉しい、楽しいって気持ちになると、何だか足元が軽くなって、浮かび上がって、そのままフワフワと飛んでいっちゃうような気持ちになるでしょう?
人はね、そうやって自分の世界を広げていくの。』
自分の世界。
そんなものがあったなんて、知らなかった。
そんな事、今まで考えてみた事もなかった。
『嬉しい、楽しいって気持ちが、人の成長の原動力なのよ。
そして、悲しみや寂しさもね。
それらはとても大事なものよ。決して罪悪感を持ったり、否定したりしちゃあいけないわ。』
「奥様・・・・・・」
『それで良いのよ、エリー。それで良いの。』
そしてホリィは、静かに溜息を吐いた。
『ああ・・・・、良かったわ・・・・・。これで安心したわ。』
「奥、様・・・・・・・?」
『いきなさい、エリー。あなたの心のままに。』
いきなさい、というのは、どちらの意味なのだろうか。
『行く』のか、『生きる』のか。
『確かに私はあなたに、パパ達を無事に連れ帰って来てとお願いしたわ。
だけどね、エリー。あなたの旅は、あなたのものなのよ。
旅の間中ずっと、私や、私との約束の事ばかりを考えていちゃ駄目。」
「奥様・・・・・・・・」
『色んなものを見なさい。色んな事を考えなさい。あなたの大事な仲間や、あなた自身の為に。
この先も、あなたの思うように、進みなさい。』
でも多分、きっと、両方なのだろう。
己の旅路を行く事が、きっと、生きていくという事なのだ。
ホリィの言葉を、江里子はそう受け止めた。
「・・・・・分かりました、奥様。私、精一杯頑張ります。それで、もっともっと沢山の事を経験して、成長して、必ず、全員で奥様の所に帰ります。
だから奥様も、決して、病気なんかに負けないで下さい・・・・・!」
『ええ。あなた達が無事に帰って来るのを、楽しみに待っているわ。身体にはよくよく気を付けるのよ。
アヴドゥルさんと、花京院君と、ポルナレフさんって方にも、くれぐれも宜しくね。』
「はい・・・・・!」
ホリィのその教えは、今、江里子の旅の道標となった。
ホリィの命のタイムリミットは、こうしている間にも刻々と迫ってきている。
もはや一刻の猶予もなく、江里子達は旅路を急いでいた。
長い長い一本道を、ものも言わずに足早に歩き続けていると、やがて分岐路に出た。
「道が分かれていますね・・・・・・」
2方向に伸びている道の分岐点に立ち、江里子は暫し、どちらに進むべきか考え込んだ。
「・・・・こっちに行きましょう。」
やがて、江里子は答えを出した。
そちらが正しい道だと思ったのだ。
だが、江里子のその決断を、誰も支持してはくれなかった。
「いや、こっちだ。」
ジョースターは短くそう反論すると、反対側の道をさっさと歩き始めてしまった。
その後を、アヴドゥル、ポルナレフ、花京院、承太郎がついて行く。
皆、冷淡な表情をして、江里子には声ひとつ掛けてくれずに。
「ちょ、ちょっと待って下さい!」
江里子は大きな声で彼等を呼び止めた。
「正しいのはこっちの道の方ですよ!そっちは違います!皆さん、こっちの道を・・・」
「俺達はこっちに行く。テメェはテメェの道を行きな。」
江里子の説得を、承太郎が冷ややかに遮った。
「そ、そんな・・・・・・・・!」
一言そう吐き捨てたきり、背を向けてどんどん歩いて行ってしまう承太郎の後ろ姿を見ながら、江里子は言い様のないやるせなさに襲われた。
どうして誰も従ってくれないのだろうか。そう考えて、江里子はハッと我に返った。
「ど、どうしよう、私ったら・・・・・・・!」
どうして自分が、彼等を従わせようとしたのだろうか。
自分は単なるおまけ、彼等にとっては『お荷物』でしかないのに。
立場も弁えず、リーダーぶって出しゃばって。
大体、自分の選んだ道が正しいと、何故断言出来るのか。
よくよく考えてみれば、そう言い切れる根拠など、どこにもないのに。
「ま、待って下さい!」
江里子は走って後を追いかけた。
「待って下さい!ジョースターさん!アヴドゥルさん!ポルナレフさん!」
だが、走っても走っても、彼等は足を止めてくれず、距離は一向に縮まらなかった。
「ねぇ待って!花京院さん!承太郎さん!」
歩くスピードを僅かに落とす事さえ、してくれなかった。
「待って・・・・!!ねえ・・・・・!皆さん・・・・・・!!」
やがて、彼等の姿は見えなくなった。
辺りには誰の姿もなく、どこまでも延々と続いている道に、江里子一人がポツンと立ち尽くしていた。
「ねえってば・・・・・・!」
涙が堪えきれなかった。
「置いて行かないで・・・・・・!」
誰もいない真っ暗な夜道で独り、江里子は子供のように大声で泣く事しか出来なかった・・・・・。
「・・・・・・・はっ・・・・・・・・!!」
何かに弾かれたように、江里子は勢い良く飛び起きた。
辺りは真っ暗だったが、どこまでも延々と続く夜道はなかった。
ここがホテルの部屋の、ベッドの上だと認識した江里子は、ゆっくりと、静かに息を吐いた。
「何だ・・・・・、夢かぁ・・・・・・・!」
ベッドサイドのランプを点けると、部屋の中がじんわりとしたオレンジ色に照らされた。
頬に涙が伝っているのに気付き、ティッシュで涙を拭ってから、時計を見た。
午後10時53分だった。
江里子はもう一度、ベッドに横になった。
だが、さっきの悪夢の余韻がまだ消えておらず、寝ようとしても寝付けなかった。
むしろ、寝ようとすればする程、目が冴える一方だった。
― テメェはテメェの道を行きな。
夢の中の承太郎の言葉が、皆のあの冷ややかな目が、頭から離れない。
あれは只の夢だと分かってはいても、どうしても忘れられないのだ。
あの寂しさが、孤独の恐怖が。
一人ぼっちの部屋で目を閉じていると、それは消えるどころか募る一方だった。
今すぐ誰かに会いたい。
出来れば仲間の顔を見たい。
こんな時間に迷惑がられるだろうが、怖い夢を見たなんて子供かと、笑い飛ばして欲しい。
「・・・・・・っ・・・・・・!」
江里子は思いきってベッドを抜け出し、部屋のキーを持って廊下に出た。
江里子の部屋は、ジョースターの部屋と承太郎の部屋に挟まれている。
廊下の突き当たりに向かう奥の方が承太郎・花京院・ポルナレフの部屋で、手前の階段側の部屋が、ジョースター・アヴドゥルの部屋だ。
江里子は少し考えてから、ジョースターの部屋を訪れようと決めた。
年の近い承太郎達の部屋に行けば、何事かと驚かれそうだが、年配のジョースターならば妙な誤解をされる事はないだろうし、何より、彼のあの大きく温かな安心感に触れたいと思ったのだ。
「・・・・・・・・」
江里子はジョースターの部屋のドアをノックしかけてから、手を止めた。
― 馬鹿ね、何考えてんのよ・・・・・
きっともう、皆眠っている。
明日も朝早くから出発せねばならないのだ。
こんな事で、人の睡眠を妨害してはいけない。
怖い夢を見たから慰めて欲しいなんて甘えが許されるのは、子供だけだ。
幼子でも、実の娘でも孫でもない自分がそんな事をしても、ジョースターにしてみれば迷惑なだけだ。
それに、こんな事でいちいち不安がっているようでは、この先が思いやられる。
「・・・・・・・」
そう考えると、部屋を飛び出してきた時の勢いが、また急速にしおしおと萎えていった。
江里子はそのまま自分の部屋に帰ると、財布を手に、もう一度部屋を出た。
ロビーの自動販売機にジュースを買いに行く事にしたのだ。
それで少しは気分が変わるだろうと自分を宥め、江里子は階段を下りていった。
ロビーに下りると、フロントに従業員の男性が1人立っていて、江里子の姿を目に留めると、にこやかに話しかけてきた。
「こんばんは。何か御用でしょうか?」
そこに人がいてくれた事に、江里子は心底ホッとした。
敵のスタンド使いである可能性があるから見知らぬ人間には決して油断するなと、常々ジョースターから厳しく言われているのだが、それでも今は、無性に嬉しかった。
「ジュースを買いに来たんです。」
「お部屋の冷蔵庫にありませんでしたか?」
「いえ、そうじゃなくて。ここの自動販売機に買いに来たかったんです。ちょっと眠れなくて。」
江里子が笑ってそう言うと、フロントマンも納得したように笑った。
「そうでしたか。でしたら、厨房から冷えたのを持って来ましょう。自動販売機の中身は、補充したばかりでまだあまり冷えていないでしょうから。」
「ありがとうございます。」
「何にいたしましょうか?コーラ、ソーダ、オレンジジュース、缶コーヒーもございますが。」
「ん〜・・・・・・、じゃあ、オレンジジュースを・・」
「2本くれ。」
と答えかけた瞬間、後ろから突然、低い声が聞こえた。
驚いて振り返ると、そこにはいつの間に来たのか、アヴドゥルがいた。
「アヴドゥルさん!」
「こんな時間にジュースだなんて、虫歯になるぞ?」
アヴドゥルはからかうような笑みを江里子に向けながら、フロントマンに2本分のジュースの代金を支払った。
「あ、私の分・・・!」
「構わない。」
江里子は慌てて自分の分の代金を払おうとしたが、アヴドゥルは受け取ってはくれなかった。
仕方なく引っ込めて『すみません』と頭を下げると、アヴドゥルは少しだけ首を傾げて尋ねてきた。
「それより、こんな時間に何故ウロウロしている?ジュースなら部屋の冷蔵庫にもあっただろう?」
その口調は、怒っているとまでは言わないまでも、咎めるような多少の厳しさを含んでいた。
彼の言わんとする事は、即座に理解出来た。
いつどこから敵の襲撃があるか分からないのに、無用に、それも一人で、うろつくなと言っているのだ。
「・・・・・すみません・・・・・・」
彼を納得させられるような、正当かつやむを得ない理由など、勿論なかった。
弁解のしようもなく、江里子は素直に謝った。
「実は、怖い夢を見てしまって、眠れなくなっちゃって・・・・・。
気分転換にジュースを買ったら、部屋に戻ってもう一度寝ようと思っていたんです・・・・・。」
彼等の部屋に行きかけた事は、流石に言えなかった。
「何だ、そんな事か。」
江里子の話を聞いたアヴドゥルは、小さく苦笑した。
それは正に江里子の求めていたもので、寂しさと恐怖に囚われていた心が解けていくような感じがした。
「そ、そうなんです。ご迷惑をお掛けしてすみません・・・・・・・。」
江里子もぎこちなく笑った。
さっきまであれだけ心細かったのが嘘のように、今は安堵と恥ずかしさが混じって、くすぐったい気持になっている。
言うまでもなく、アヴドゥルのお陰だ。
きっとこれで寝つけるだろう、そう思ったのだが。
「折角起きて来たんだ。少し、外を散歩しないか?」
「え・・・・・・?」
フロントマンからオレンジジュースの瓶を受け取りながら、アヴドゥルは意外な事を言い出した。
「嫌か?」
「いえ、嫌だなんて・・・・・・。でも、良いんですか?」
「そこの浜辺なら見晴らしも良い。誰かが近付いてくればすぐに分かる。
単独行動ではないし、ほんの少しの時間なら構わないだろう。
但し、皆には内緒だ。O.K.?」
少し堅すぎる位に生真面目なアヴドゥルが、今夜に限って珍しい事を言うと、江里子は内心で驚いた。
だが勿論、嫌な気などしなかった。こんな風に彼に誘われるのは初めてで、嫌どころか、少し、いやかなり、ワクワクする。
「はい!」
茶目っ気のあるアヴドゥルの含み笑いに、江里子も笑顔で応えた。
真っ暗な浜辺を清らかな月明かりが柔らかく照らし、寄せては返す波の音だけが穏やかに響いている。
そこを歩いているだけで、細かいさざ波のような不安が立っていた心が、次第に滑らかになっていくから不思議だ。
江里子の恐怖も、もう和らいでいるだろうか。
アヴドゥルは、オレンジジュースを飲みながら隣を歩く江里子に目を向けた。
「それで、その怖い夢というのは、どんな夢だったんだ?」
「・・・・皆さんに、置いて行かれる夢です。」
江里子はストローから口を離し、まだ少し心細そうな声で答えた。
「2つに分かれた道があって、私は、正しいと思った道を選んだんですけど、皆さんはその反対を行ってしまって・・・・・。
私が『そっちじゃありませんよ』って呼び止めたら、承太郎さんに、お前はお前の道を行けって突き放されて・・・・。
すぐ後を追いかけたんですけど、誰も立ち止まってくれなくて、気が付いたら皆さんはいなくなっていて、真っ暗な道に私だけがポツンと立っていて・・・・」
「それで?」
「置いて行かないで・・・って泣き出したところで、目が覚めました。ふふっ、子供みたいでしょ。」
江里子は顔を上げて、苦笑して見せた。
「今思えば、多分、張り切り過ぎていたんでしょうね。
さっき奥様と電話で話して、改めて頑張ろうって気になったから。
だから多分、そんな空回りしているような夢なんか見ちゃったんでしょうね、ふふっ。」
「はは。なるほど、そうかも知れんな。」
「今、こうやって話したら、自分でも『何だそれだけか』って思うんですけど、でも、目が覚めた瞬間は、何だかすごく怖くて・・・・・。
実は・・・・、本当言うと、ロビーに下りる前に、お部屋まで行きかけたんです。」
江里子は恥ずかしそうに、そう打ち明けた。
「お部屋?それはもしかして、私達の部屋という事か?」
「はい。何だか凄く心細くて、どうしても誰かの顔が見たくなっちゃって・・・。
でも、承太郎さん達の部屋へ行くと、色々誤解されたりして大変な騒ぎになりそうな気がしたので・・・・。」
もしも本当にそうなっていた時の事を考えると、その光景が目に浮かぶようだった。
あの陽気なフランス人が、大喜びして、大騒ぎしている様が。
「確かに、勘違いして大騒ぎしそうな奴がいるな。誰とは言わんが。」
「でしょう。」
つい吹き出すと、江里子も小さく笑って頷いた。
「・・・ジョースターさんに、只の夢だから気にするなって、言って欲しかったんです。ジョースターさんにそう言って貰えたら、安心出来そうな気がして。子供みたいに甘えた事を言って、恥ずかしいんですけど。」
江里子は18歳。ジョースターから見れば、孫の承太郎とほぼ同い年の江里子は、子供どころか孫みたいなものだ。
江里子は、使用人という自分の立場を弁えすぎていて、時折水臭いと感じる程遠慮するが、生憎とジョセフ・ジョースターという人は、そんな小さな男ではない。
血の繋がった子や孫だけが可愛く、赤の他人の娘に甘えられても迷惑だ、などと考えるような男ではないのだ。
それどころか、生意気盛りのウソつきな子供からいい歳をした大の男、果ては可愛げの欠片もないような野良犬まで、まとめてその懐にすっぽりと抱え込んでしまえる男なのだ。
「彼は人間としての器が人並み外れて大きいのだ。私も彼のそういうところに惹かれた。だからこそ、人としてあんなにも魅力的な人なのだろうと思う。」
「私もそう思います。」
「ホリィさんがあんな事になって、この旅に出ると決まった時も・・・・・、いや、もっと前に、ジョースターさんから『DIO』という男の存在と、奴とジョースター家との因縁について聞かされた時から、ジョースターさんと共にDIOと闘う事に、何の躊躇いも持たなかった。私の力が少しでも彼の役に立てば、たとえ命を懸ける事になったとしても本望だ、と。」
そんな人だからこそ、とことんまで付き合おうと思った。
危険な闘いにも、この人と一緒ならば、この人の為ならば、迷う事なく挑もうと思えた。だが。
「だが・・・・・、実は今夜、私も君と似たような状態だったんだ。」
安らかな波音のせいだろうか。
アヴドゥルは、思わず江里子に打ち明けていた。
「え?」
「今夜は何だか妙な胸騒ぎがしてな。なかなか寝付けなかったのだ。少しウトウトしても、すぐに目が覚めてしまって・・・・。」
「そうだったんですか・・・・・・」
「無理にベッドで横になっているのも苦痛だったし、どうも気になるので、タロットで占いをしていた。
その時、ドアの開く音や足音が聞こえたので、何かと思って部屋を出てみたのだ。
そうしたら君だった・・・・、という訳だ。」
「何を占っていたんですか?」
「・・・・・・・我々の、近い未来を。」
気付けば、殆ど飲んでいなかったオレンジジュースの瓶が、汗をかいていた。
アヴドゥルはストローを軽く咥え、ジュースを一口飲んだ。
少しぬるくなった、甘ったるいオレンジの味が、口の中いっぱいに広がった。
「それで・・・・・、占いの結果は?」
「まだだ。最後のカードを開くところで、部屋を出てきたから。」
「すみません、私が外をウロウロしていたから・・・・・・」
「いや、そうではない。君のせいではないんだ。」
江里子が申し訳なさそうに顔を曇らせたので、アヴドゥルは慌ててフォローした。
「私自身が、最後のカードを開き、結果を出す事を躊躇ったのだ。何に対してそんなに胸騒ぎがしているのか、自分でもよく分からなかったのでな。
旅に出てきた事を後悔している訳じゃあない。
DIOという男は恐ろしいと思うが、奴と対決する事を恐れているつもりもない、が・・・」
そこでアヴドゥルは言葉を切った。
それ以上、続けられなかったのだ。自信をもって断言する事が出来なくて。
「・・・・いや。やはり私は、恐れているのかも知れないな。自分でそうだと認めたくないだけで。」
「アヴドゥルさん・・・・・」
「情けないな。」
女性、それも、9歳も年下の少女を相手に大の男が弱音を吐くのは、アヴドゥルの美学に反していた。
だが、自嘲したアヴドゥルを、江里子は笑いはしなかった。
「私、皆さんの事、スーパーマンだと思っていました。目に見えない不思議な能力を使えて、心も身体も強くて、普通の人には出来ない事が出来て・・・・・。
だから皆さんはきっと、私なんかとは根本的に違う、特別な人なんだと思っていました。」
黒曜石の瞳が、まっすぐにアヴドゥルを見上げていた。
「だけど、よく考えてみたら、そうじゃないって気が付いたんです。
ジョースターさんだって、奥様がお倒れになった時は、凄く取り乱して不安がられていました。
承太郎さんだって、幽霊船で猿のスタンド使いに遭遇した時、とても焦っていましたし、ポルナレフさんも、香港のホテルで、亡くなった妹さんの夢を見てうなされていました。
花京院さんも、自分のスタンド能力がご家族や周りの人に受け入れて貰えず、ずっと孤独だったと仰っていました。」
アヴドゥルは何も言えず、只々、江里子のそのまっすぐな眼差しを受け止めていた。
「そりゃあそうですよね。幾ら特別な力があると言ったって、皆さん、紛れもなく人間なんですから。
色んな感情が・・・、喜びや怒りだけじゃなくて、不安や悲しみや、恐怖があったって当たり前なんですよね。」
「エリー・・・・・・」
「支え合えば良いじゃありませんか。仲間なんですから。」
江里子のその言葉に、その優しい微笑みに、アヴドゥルは胸を突かれた。
「さっき、電話で奥様に言われました。私の心のままにいきなさい、って。
奥様の事ばかりじゃなくて、皆さんや、私自身の為に、色んなものを見て、色んな事を考えて、自分の思うように進みなさい、って。」
「ホリィさんが、そんな事を・・・・・」
「でも、奥様に言われたからそうするんじゃありませんよ。旅をしていく内に、いつの間にか私自身、だんだん考える事が変わってきていたんです。
最初は奥様の事ばっかり考えて、元の平和な日常を取り戻す事しか考えていませんでしたけど、最近、気が付いたら私、色んな事を考えていました。
アンと出会って友達になったり、ポルナレフさんが仲間入りしたりして、奥様とは直接関係のない、私達とは違う目的を持つ人達と一緒に行動していたからでしょうか。」
江里子の考えは、何の根拠も確信もなさそうだったが、何故だか妙に説得力があった。
「でも今は、関係ないって思えないんです。
ポルナレフさんの敵討ちも、私で出来る事なら何でも力になりたいですし、アンにもまた必ず会いたい。
車の免許を取りに行く為に貯め始めていたお金、アンに会いに行く為の飛行機代にしようかなって考えているくらい。」
江里子はクスクスと笑ったが、すぐにその笑みを引っ込めた。
「何にも出来ないくせにって思われるでしょうけど・・・・、それでも私・・・・、皆さんの力になりたいんです。」
江里子は、覚悟を決めた顔をしていた。DIOを倒す旅について行くと宣言した時と同じ、健気にも潔い、凛とした表情だった。
「どんなに些細な事でも、私に出来る事なら何だって。
皆さんの手を煩わせるばかりの『お荷物』じゃなくて、皆さんの役に立つ『道具』になりたいんです。」
どうしてこの娘は、こんな事を言うのだろう。
まっすぐで、いじらしくて、危なっかしい位に純粋で、献身的な事を。
「・・・・・喩えがあまり良くないな。」
「え・・・・・・?」
「君は『お荷物』でも、ましてや『道具』でもない。」
「あ・・・・・・・・!」
気が付いたらアヴドゥルは、江里子を抱きしめていた。
「・・・・・アヴドゥル・・・さん・・・・・?」
アヴドゥルの腕の中で、江里子は身を固くしてはいたが、逃げようとはしなかった。
衝動的に思わず抱きしめてしまったが、そこから自分はどうしたいのか、アヴドゥルは自問した。
感謝の気持ちを告げたいのか、それとも、その唇にキスをしたいのか。
答えは、すぐに出た。
「・・・・私達は『仲間』だ。だろう?」
アヴドゥルはそう告げると、そっと腕を解き、江里子を解放した。
「ありがとう、エリー。お陰で気持ちが軽くなった。君はなかなか、占い師に向いているな。」
「え?そ、そうですか・・・・?」
アヴドゥルが口の端を吊り上げて見せると、江里子は照れたようにぎこちなく笑った。
「さあ。そろそろ部屋に戻ろう。流石に眠らねば、明日の朝が起きられなくなる。」
「そうですね。・・・・あ」
「何だ?」
「ここ、綻んでる・・・・・」
江里子はそう言って、アヴドゥルの上着の袖の部分を指摘した。
良く見れば確かに、肩に近い部分の袖の付け根が綻んでいた。
「ああ、本当だ。気付かなかったな。」
「明日、船に乗ったら、その上着預けて下さい。繕っておきますから。」
「しかし・・・・」
「どうせ退屈ですもの。丁度良い暇潰しになりますから。」
「そうか・・・・・?では・・・・、頼んでも?」
「はい!」
屈託のないその微笑みを見て、アヴドゥルは、自分の取った行動は間違いではなかったと感じた。
切ないまでの胸苦しさと共に。
江里子を部屋に送り届けてから、アヴドゥルは自分の部屋に帰った。
ジョースターはよく眠っていて、アヴドゥルが出て行った事にも、また、戻って来た事にも気付いていないようだった。多分、それが演技でなければ。
アヴドゥルは上着を脱ぎ、椅子の背もたれに引っ掛けると、自分のベッドに入ろうとした。
「・・・・・・」
だが、出来なかった。
アヴドゥルは、テーブルの上に目を向けた。
そこには並べたタロットカードが、当然だが、まだそのままの状態であった。
「・・・・・・」
中途半端に開かれたままのカードを見ていると、もの言わぬカードがアヴドゥルの心に問いかけてきた。
お前は答えを知りたいのか、知りたくないのか、と。
「・・・・・・」
アヴドゥルは、寝ているジョースターの方に目を向けた。
結構な音量のいびきをかいて、完全にリラックスした様子で眠る彼を見て、アヴドゥルはほんの少し、笑った。
承太郎も、花京院も、ポルナレフも、今頃はきっとぐっすり眠り込んでいるだろう。
3人の顔を次々と思い浮かべて、また少し笑った。
「・・・・・・」
そして、江里子の微笑みを思い浮かべた。
江里子はもう安心しただろうか。
アヴドゥルは、江里子を抱きしめた時の、柔らかくか細い身体の感触を思い出した。
彼女を守りたいと、強く願った。
あの笑顔が、決して翳らないように、と。
「・・・・・・」
アヴドゥルは、伏せられたままの最後のカードを、そっと開いた。
「・・・・・・・『吊られた男』の・・・・・逆位置・・・・・」
『吊られた男』の逆位置。
その意味は、困難、失敗、そして。
― ・・・・・・犠牲・・・・・・・・
不吉な暗示のそのカードを、アヴドゥルは暫し、黙って見つめていた・・・・。
翌12月22日の早朝、ビルマ・ガパリの港を出港した船は、予定通りその日の午後、インド・カルカッタの港に到着した。
「アヴドゥルさん。これ、繕っておきました。」
着岸を間もなくに控え、下船の準備を始めると、江里子が上着を差し出してきた。
「ああ、ありがとう!」
綻んでいた袖は、綺麗に繕われてあった。
「見事な仕上がりじゃあないか。君は手先が器用なのだな。」
「奥様の方がもっとお上手ですよ。奥様だったら、もっとパーフェクトに仕上げて下さるんですけど。すみません、私にはそれが精一杯で。」
日本人は謙遜を美徳としている。
大の日本好きであるアヴドゥルは、それを良く知っていた。
だが、江里子が繕ってくれた上着の袖は、その謙遜が明らかに不当である事を物語っていた。
「いやいや、これで十分すぎる程十分だ。本当にありがとう。」
アヴドゥルは上着を羽織り、荷物を持った。
そして、何となくテンションの低い一同を導くように、先頭に立って船室を出た。
船は勿論チャーター船で、他に乗客はいない。ドアの前の薄暗い廊下には、アヴドゥル達しかいなかった。
「東京、香港、シンガポール・・・・そしていよいよ、インドを横断する訳じゃが・・・・」
ここへ来て、ジョースターがいつになく重かった口を開いた。
「そのぉ・・・・、ちょいと心配なんじゃあ。
インドという国はカレーばかり食べていて、病気にすぐにでも罹りそうなイメージがある。」
ジョースターが歯切れの悪い口調で不安を訴えると、ポルナレフがすぐさまそれに便乗してきた。
「俺、カルチャーギャップで体調崩さないか、心配だなぁ。」
白人の彼等にアジアの国々を理解しろというのは、少し難しいのかも知れない。
敗戦後、目覚ましい変貌を遂げて一躍先進国の仲間入りを果たした日本を除き、他は殆どの国が発展途上のままなのだから。
その中でもインドは特に、不衛生な無法地帯というイメージが強い。
先進国で生まれ育った彼等にとっては、尚更そうなのだろう。
「フフフ、それは歪んだ情報です。」
だがそれは、アヴドゥルにしてみれば、食わず嫌いに等しい無知だった。
「心配ないです。素朴な国民の、良い国です。私が保証しますよ。」
アヴドゥルは自信満々に請け合ってみせた。
それでもまだジョースター達の表情が和らいだ訳ではなかったのだが、これ以上は幾ら言葉を尽くしても、多分同じだろうと思われた。
百聞は一見にしかず。
あとは彼等自身の目で見て、彼等自身がどう思うかだ。
「お、船が着きますよ!」
やがて、船はゆっくりと着岸した。
「さあ、カルカッタです!出発しましょう!」
おっかなびっくりといった様子の仲間達の先頭に立ち、アヴドゥルはドアを開け放った。