翌朝の朝食の席に、ポルナレフはまだいなかった。
「弁護士が出張中だったらしくてな。そっちの仕事の都合で、帰るのが遅れたらしい。さっき連絡があって、今、シンガポールに帰って来たところだそうだ。
これからすぐに事務所へ戻って準備をし、警察署に向かうと言っておった。」
ジョースターはオムレツを頬張りながら、話を続けた。
「まあ、物証も目撃証言も何もないし、刑事の仮説も穴だらけなのは明らかだから、すぐに釈放されるだろうとの事だった。諸々の手続きを考えても、夕方までには釈放されるじゃろう。」
「それは良かったですが・・・、しかし、思いがけない足止めを喰らいましたな。」
コーヒーを飲みながら、アヴドゥルは険しい表情を浮かべた。
「ダークブルームーンとストレングスに相次いで襲われたせいで、
只でさえ予定より2日も遅れてしまっていたのに、ここへ来て警察沙汰とは・・・・・。ポルナレフのせいではないが、何とも苛立たしい事です。」
「まあそう言うな、アヴドゥル。今更仕方がないわい。大体、予定より遅れておるのは初めっからじゃ。エジプト行きの飛行機が落ちた時からな。」
「・・・ご尤も。」
アヴドゥルは小さく溜息を吐いて頷いた。
「だからこそ、ここから先はより慎重に行かねばならん。
一直線に最短ルートを急ぐのではなく、こまめに移動手段を変えながら、複数のルートを選べる道を行くのだ。」
「確かに。この間のように、海の上で襲われて船を沈められ漂流なんて事がまた起こったら、それこそとてつもない足止めを喰う事になりますからね。」
ジョースターの意見に、花京院は深く賛同した。
「左様。今回は割とすぐに救助されたから良かったものの、次はそうとは限らん。
最初は手間暇を惜しんで、如何にして最短ルートを辿るかを考えていたが、敵がここまで無差別に襲いかかってくる以上、そうも言っておれん。
今後は陸・海・空、全ての経路を織り交ぜて、時には回り道をしてでも、フレキシブルに進む。時間は惜しいが、時間よりも手間よりも、何より人命が最優先じゃ。」
ジョースターは一瞬、アンを心配そうな目で見た。
「・・・・これ以上、無関係な人々を巻き込んで犠牲にしてしまう可能性は、極力下げねばならん。
完全にゼロには出来なくてもな。」
尤もアンは、絶妙な味付けのハッシュドポテトに夢中になっていて、その視線に気付かなかったが。
「という訳じゃから、もう1日ここで滞在せねばならん。
特にする事もないから、今日は各自、骨休めのつもりで好きに過ごしてくれ。」
ジョースターはすぐに、いつものように無邪気で明るい笑顔になった。
しかし彼はきっと、心の内にとてつもない重さの不安を抱えているのだ。
これ以上、無関係な人を巻き込んで犠牲にしてしまう可能性は極力下げねばならないと言った彼の気持ちを思うと、闘える力の無い自分がまた歯痒く思えた。
朝食が済むと、江里子はアンと共にすぐ部屋に帰った。
花京院から電話が掛かってきたのは、それから程なくしての事だった。
「はい。あ、花京院さん?」
『江里子さんですか?今、ちょっと良いですか?』
「はい。何か?」
『あの、もし良かったら、これから皆で一緒に遊びに行きませんか?
観光パンフレットを見ていたら、セントーサ島という楽しそうな観光スポットがあったんです。
どうせ部屋にいても暇だし、折角だから皆で行かないかって、承太郎と話していたんです。』
「わっ、良いですねぇ!行きたいです!」
『じゃあ二人共、支度が済み次第、ロビーに下りて来て下さい。ジョジョともロビーで待ち合わせなんです。』
「え?承太郎さん、お部屋にいないんですか?」
『ジョジョは今、ジョースターさん達の部屋に話をしに行っていまして。』
「あ、そうなんですね。時間、かかりそうでしたか?」
『いや、多分すぐ済みますよ。僕も少ししたら下りるつもりです。』
「分かりました、では後で。」
電話を切ると、ベッドにひっくり返ってTVを観ていたアンが、なになに?と訊いてきた。
「花京院さんから。これから皆でセントーサ島ってとこに遊びに行かないかって。」
「えーっ!?行きたい行きたーいっ!・・・ねぇ、皆でって・・・、ジョジョも?」
「行くみたいよ。ジョースターさんとアヴドゥルさんの事は何も言ってなかったけど。」
「本当!?」
「ふふっ、じゃあ急いで支度しよっか!」
その時、また電話が鳴った。
「はい?」
『ああ、エリコさん?』
「花京院さん?どうしたんですか?」
『やっぱり部屋まで迎えに行きます。念の為に用心しないとね。では5分後に。』
「あっ、ちょっ・・・・!」
花京院は一方的に話し終わると、さっさと電話を切ってしまった。
「どしたの?花京院さん、何て?」
「・・・・ううん・・・・・・」
何となく、解せなくはあった。
しかし、何がどう解せないのかと自問したら、答えが出なかった。
「5分後に花京院さんが迎えに来てくれるって。」
「5分!?早過ぎじゃない!?女の子に5分で支度しろなんて、ああ見えて意外とヤボなのねぇ、花京院さんて!」
「ふふっ、そうね。さ、早く支度しよう!」
この時、心の片隅に生じていたその小さな違和感を、もっと真剣に捉えていたら。
この後すぐ、江里子は何度も何度もそう悔む事になるのだが、この時にはまだ、知る由もなかった。
「やあ。」
きっかり5分後、花京院は江里子とアンを迎えに来た。
「エリコさん、その服、とても良く似合ってますね。」
花京院は会うなり、江里子の全身に一瞬で視線を走らせ、装いを褒めた。
鮮やかなレモンイエローのブラウスとインディゴブルーのコットンパンツは、確かに昨日買ったばかりの物なのだが、それを初めて見たかのように褒めてくれる花京院に、江里子は思わず笑った。
「ふふっ、ありがとうございます。でも、さっき朝食の時にも着てましたよ?」
「ああ、そうだった。でも、皆の前では褒め難くて。照れ臭かったんですよ。」
そう言って笑う花京院の目は、江里子の胸元をじっと見ていた。
花京院は、江里子がその視線に気付いている事を、気付いているのだろうか。
いや多分、気付いていない筈だ。
こういうのは大抵、男は気付かれていないと思っているものだから。
「い、行きましょう!」
江里子は気付かぬ振りを通し、元気良く笑って見せた。
エレベーターで1Fまで降りると、花京院はそのままエントランスの外へ出た。
そして、一足遅れで承太郎が追いかけてきた。
「あっ!ジョジョ!」
「やあ、承太郎。」
承太郎の顔を見るや否や、アンは嬉しそうに顔を輝かせ、花京院は申し訳なさそうに笑いかけた。
「急に悪かったな、待ち合わせ場所を変更して。」
「いや。」
「やっぱり彼女達が心配になったんだよ。万が一、何かあったら大変だろう?」
「そうだな。」
「承太郎さん、ジョースターさんとアヴドゥルさんは来なかったんですか?」
江里子が尋ねると、承太郎は煙草を咥えて火を点けながら答えた。
「ジジイとアヴドゥルは留守番するとよ。ポルナレフの奴がいつ戻って来るか分からねぇし、色々と考える事もあるからってよ。つまりこれで全員集合だ。行くぜ。」
「あん、待ってよジョジョ!」
先にスタスタと行ってしまう承太郎を、アンが慌てて追いかけて行った。
先を行く大きな背中と小さな背中を眺めながら、江里子は小さく笑った。
「ふふっ!アンってば、可愛いでしょ?」
「ん?」
「あの子きっと、承太郎さんの事が好きなんですよ。」
江里子はそう言って、花京院に笑いかけた。
「こないだの幽霊船の時から、承太郎さんに対する態度が凄く変わってきてるでしょ?何ていうかこう、恋する乙女、みたいに?」
「フーン。そうなんだ。可愛いね。」
だが花京院の反応は、今ひとつ薄かった。
笑って返答してくれてはいるが、その言い方に抑揚がないと言おうか、心ここに在らずと言おうか。
男の人には興味の無い話だっただろうか。
話題選びに失敗したかなと思った瞬間、向こうからスーツ姿のパリッとした男性が、手帳を繰りつつ忙しげに歩いて来た。
そして、手元の手帳ばかり見ていたその男性は、盛大に江里子とぶつかった。
「きゃっ・・・・・・・!」
「わっ・・・・・・!」
ぶつかって初めて、男性は我に返ったような顔になり、気まずそうに江里子を一瞥すると、そそくさと行ってしまおうとした。
「おい、ちょっと待て。」
それを、花京院が呼び止めた。
「な・・・、何か?」
「『何か?』じゃあないだろ。人にぶつかっておいて、謝りもしないのか?」
「あ、す、すみません・・・・・・」
花京院に詰め寄られ、男性は怖々と詫びの言葉を口にした。
だが、花京院はそれだけでは引き下がらなかった。
「しかもテメェ今、胸に当たりに行っただろう?」
「はぁ!?そ、そんな事してないよ!」
男性は怯みながらも、毅然と抗議してきた。
確かに彼は、江里子の胸にもぶつかった。だがそれは、完全にものの弾みだった。
ぶつかるまで、彼の目は手帳に釘付けで、前方にいた江里子の事など見ていなかった。それはぶつかった江里子自身が、よく分かっていた。
「余所見してたのは確かに私の不注意だったが・・・」
「いいや!!オレは見ていた!!テメェはわざと当たりに行ったぜ!!彼女のパイオツによぉ!!」
しかし花京院は、激しく男性を糾弾した。
いや、糾弾というより、因縁をつけていると言った方が相応しかった。
それも、何だかあまり良くはなさそうな言葉で。
英語のスラングなのだろうか。聞いた事のない単語だった。
それを早口で言うものだから、正直、何と言ったのかは聞き取れなかった。
「オレもまだ触ってねぇのに、何でテメェが触ってんだ!?あぁ!?」
「ひっ、ひぃぃっ・・・・・!」
だが、『触る』という言葉は聞き取れた。
要するに花京院は、男性が江里子の胸を触ったと責め立てているのだ。
まるで美人局の男のように。
「花京院さん!!」
耐えきれずに、江里子は腕を掴んで引っ張った。
「やめて下さいっ!もういいですから・・・・・!」
花京院は、妙に緩慢な仕草で江里子を振り返った。
「大丈夫ですか?エリコさん。痛かったでしょう?カワイソウに・・・」
「っ・・・・・!」
おもむろに、花京院が江里子の胸に手を伸ばしてきた。
江里子は反射的に自分の腕で胸を庇い、それを阻んだ。
「だ・・・、大丈夫、ですから・・・・・」
「・・・・・ああ、失礼。」
花京院は江里子の顔をじっと見つめながら、妙に虚ろな口調で言った。
「そんなつもりじゃあなかったんです。痛い目に遭って可哀相にと思ったら、つい、手が勝手に。転んですりむいた友達の膝を、ヨシヨシしてあげるのと同じような感覚で。他意は無かったんです。誤解しないで下さいね?」
「わ、分かってます。誤解なんて・・・・。」
「行きましょう。ジョジョに置いて行かれてしまいそうだ。」
「は、はい・・・・・」
花京院の隣について歩きながらも、江里子はすぐには彼を直視出来なかった。
そう、彼に対して怯えていたのだ。
さっきの、まるで別人のような柄の悪い喋り方にも、何だか焦点の合っていなかった目にも。
承太郎とアン、その数歩後ろを花京院と江里子で、並んで歩く事暫し。
「ん?あっ・・・・!」
向こうにアイスクリームのスタンドを発見したアンは、掴まっていた承太郎の腕を放し、一人で駆けて行った。
「アイスクリームちょうだい!」
「らっしゃい!お嬢ちゃん、アイスクリームも良いが、コイツも美味いよー!」
アイス屋の主人は、アンの目の前にココナッツの実を差し出した。
「ひんやり冷えたヤシの実の果汁だぁ!どうだい?」
と言いつつも、さっさと実を割り、スプーンとストローを刺してしまっている。
こういった強引さは、日本にはないやり方だ。
こうなると、今更要らないとは言い難い。少なくとも、旅慣れていない日本人である江里子には。
「飲んでみるか?」
どうしようかと思っていると、意外にも承太郎が買う気を見せた。
「4つくれ。」
承太郎も同じように思ったのだろうかと考えて、江里子はすぐにそれを否定した。
承太郎は人に流されるような男ではない。単純に自分が飲みたかったのだろう、と。
「へいどうも!16ドルっす!」
「おい!8ドルにしろ、8ドル!」
値段を聞いたアンが、猛然と値切りにかかった。
だが、幾ら何でも半額は応じて貰えないだろう。
そもそも値切るという行為自体に慣れていない江里子は、何だか居た堪れなくてオロオロとアンを宥めようとした。
「じゃあ、これで。」
その横で、花京院が自分の財布から金を出し、さっさと16ドルを支払ってしまった。
「オッケーイ!毎度ぉ!」
「あっ!バカねぇ花京院さん!何でまともに払っちゃうのよーっ!?
こんなのボッタクリなんだから、もっと値切らなきゃ・・」
アンが花京院を叱り飛ばしたその時、見知らぬ男がフラリと近寄って来た。
「・・・ヘン!いただきぃっ!」
客かと思ったその男は、花京院が握っていた財布をひったくり、ダッシュで逃げて行った。スリだったのだ。
「たっ、大変・・・・!!」
突然すぎる出来事に、頭は理解出来ていても、体がついていかない。
江里子は只々、その場でうろたえるだけだったのだが。
「・・・・フン!」
当の花京院は落ち着き払っていた。
やがて、向こうでスリがいきなりこけた。
すぐに立ち上がろうとするが、それが出来ない。そんな様子でもがいている。
きっとハイエロファントで捕まえたのだ。
ともかく、彼の財布が無事で良かった。
悠然と歩いていく花京院の背中を見送りながら、江里子は安堵していた。
「うげげっ・・・・!」
「・・・・テメェ、オレの財布を盗めると思ったのかぁ!?このビチグソがぁ!」
だが、その安心感は、一瞬にして粉微塵に吹き飛んだ。
「うぇ?」
「えっ?」
花京院のあまりの口汚さに、アンと江里子も勿論、承太郎やアイス屋の主人までもが皆、唖然と彼を見た。
「ヘドブチ撒きなぁっ!」
「ぶえぇっ・・・・!」
花京院はスリの頭を掴むと、その顔面に思いきり膝蹴りを決めた。
「きゃあっ!」
「花京院!」
「えぇっ!?」
怯え、驚く江里子達の事など、花京院は全く見えていない様子だった。
「このぉ、肥溜めで生まれたゴキブリのチンボコ野郎のくせに、オレの財布をぉ!その尻の穴拭いた指で!!ギろうなんてよぉ!!」
花京院は更に、膝蹴りで既に半分失神状態のスリの髪の毛を掴み上げ、そのまま身体を振り上げて担ぐと、顎と太腿を掴み、背骨を折らんばかりの勢いでスリの背中を弓なりに反らさせた。
「こいつはメチャ許さんよなぁ!!オォラ、オォラ!オォラ!!オラ、オォラ!」
花京院が腕を引き下げる度に、スリは血を吐いて痙攣している。
幾ら相手が手癖の悪い盗っ人とはいえ、これは明らかにやり過ぎだった。
「おい!何をしているんだ花京院!死んじまうぞ!」
承太郎が大声で花京院を制したが、花京院は聞こえていないのか聞く気がないのか、一向にやめようとはしなかった。
「す、凄い、バックブリーカー!何て荒技を・・・・!」
「バ、バックブリーカー!?って何!?」
「プロレスの大技よ!それに、あんな下品な台詞をあの人が吐くなんて・・・・」
アンには、花京院の口走っているスラングが理解出来ているようだった。
何と言っているのか気になりはしたが、訊く勇気はなかった。
「ホラ、ホォラ!!」
「花京院!やめろと言ってるのが分からねぇのか!」
とうとう承太郎が実力行使に出た。
足早に花京院に近付くと、彼の背中をドンと突き飛ばして強引にやめさせたのだ。
「テメェ花京院、どうかしてるぜ・・・・・。興奮しているのか?」
花京院は財布を拾い上げ、冷ややかな目で承太郎を一瞥すると、制服の胸元を手で払った。
「痛いなぁ。何もボクを突き飛ばす事はないでしょう?」
また、あの目だった。
微妙に焦点の合っていない、虚ろな目。
「コイツはボクの財布をギろうとした、とっても悪い奴なんですよ。懲らしめて当然でしょう。違いますかねぇ?承太郎くぅん?」
アンの持っていたココナッツジュースを乱暴に奪うようにして受け取り、ジュルジュルと音を立ててストローを吸う花京院に、江里子は怯えずにはいられなかった。
「・・・・」
「なぁに睨んでるんだよぉ?随分ガンたれてくれるじゃあないか、承太郎くぅん?」
無言で対峙する承太郎に、花京院は剣呑な口調で絡んできた。
「まさか、アンタ、こんな盗っ人をちょいと痛めつけたってだけで、このボクと仲間割れしようってんじゃあ、ないでしょうねぇ?」
花京院はあのゾッとする目で、承太郎と睨み合った。
命からがら逃げていくスリの事も、もう目に入らないようだった。
さっきまで、あれ程執拗に痛めつけていたのに。
「ああ!カブトムシだぁ!」
その時、向こうから子供達が駆けて来た。
「カブトムシぃ!?すっげぇ!」
「どこ!?」
「あそこ!」
「ホントだぁ!4匹固まってるよ!」
何となく流されて目を向けると、確かに、大きな木の幹に、立派なオスのカブトムシが4匹集まっていた。
「ん?」
花京院が振り返ってそれを一瞥した事により、一触即発の緊張状態はとりあえず解けた。
これをきっかけに話を逸らしたりして、この嫌な雰囲気を変える事が出来る。
この子達のお陰だと、江里子は一瞬、胸を撫で下ろしかけたのだが。
「フフッ・・・・、フフフフフ・・・・・」
花京院は、いきなり笑い出した。
それも、自分を恥じて照れている笑いではなく、妙に愉しげに。
「ジョオ〜ジョオ〜ッ!!そんなに大袈裟に考えないでくれよぉ!今日はちょっとばかりイラついていたんだ。旅に疲れ始めてねぇ、機嫌が悪いって日さ。」
「機嫌が悪い?良さそうに見えたがな。」
異様な空気は、全く消えてなどいなかった。
再び無言で睨み合う承太郎と花京院を前に、江里子はオロオロする事しか出来なかった。
「・・・ジジイとアヴドゥルは、列車でインドへ向かった方が良いと計画している。明日出発だ。ケーブルカーに乗って、シンガポール駅へチケットを予約しに行くぜ。」
先に退いたのは、承太郎の方だった。承太郎は踵を返すとまた歩き始め、カブトムシを見ていた子供達も、またワァッと向こうへ走って行った。
元通りの穏やかな空気が、また流れ始めた。
その場に突っ立ったまま、関心がなさそうにジュルジュルとジュースを飲んでいる花京院を避けて。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
とりあえず、承太郎の後を追うように歩いていると、隣を歩くアンが怯えた目で江里子を見上げてきた。何が言いたいのかは、訊くまでもなかった。
「・・・・・花京院さん、ジョジョがどんどん歩いていっちゃうよ?」
やがて、アンが耐えかねたように足を止めて、後ろを振り返った。
「・・・・・・」
江里子も釣られて見てみると、花京院はこちらに背を向け、木の方を向いて何やらバリバリと齧っていた。
「あ?あぁ・・・・、すぐに追いつく・・・・」
ムグムグと、口の中一杯に食べ物を頬張っている感じの喋り方だった。
このココナッツジュースは、実も食べられるようにスプーンがついている。
それを必死でほじくって食べているようだ。
少々行儀が悪いから、人に見られないよう、木の方を向いているのだろう。
江里子とアンは引き攣った笑いを浮かべた。
「花京院さん、随分ココナッツジュースが大好きみたいね・・・・」
「そ、そうね、美味しいものね、これ・・・・」
彼は今、ココナッツを食べているのだ。
食べ終わったらすぐに追いついてくるだろう。
自分にそう言い聞かせるようにして、江里子はまた承太郎の方を向き、歩き始めようとした。
「・・・・・・・」
「・・・・・・・」
不意に、背中に冷たい視線を感じた。
『はっ・・・・!?』
江里子はアンと共に、もう一度、後ろを振り返った。
「・・・・・・・」
こちらを向いている花京院の口の端から、何かが出ていた。
すぐに口の中へ引っ込んでしまい、一瞬しか見えなかったが。
花京院は口の中のものをゆっくりと咀嚼し、呑み込んだ。
そして、食べカスのようなものを、プッと地面に吐き捨てた。
『え・・・・・・!?』
そんな彼を見て、江里子とアンは息を呑んだ。
「い・・・、今のはカブト・・・」
「アン・・・!」
アンが言いかけた言葉を、江里子は思わず遮ってしまった。
「い、いえ、見間違いだわ・・・・!ごめん、私の見間違いよ、エリー・・・・」
「・・・・・・・」
「そうよ、きっと、ココナッツの筋か何かよ・・・・」
アンは自分にも言い聞かせるように、呆然と呟いていた。
そうよ、その通りよと、同調したかった。
だが、一瞬とはいえ、江里子の目ははっきりと捉えていた。
花京院が食べていたココナッツの筋が、本当なら白い筈のそれが、黒くトゲトゲした、虫の肢のような形状をしていたのを。
「うん、凄く好きなんだ、ココナッツ・・・・」
花京院は、江里子達の方を向いていながら、江里子達を見ていなかった。
今の彼の目は、江里子の知っているあの理知的な瞳ではなかった。
どこを見ているのかよく分からない、澱んだ目だった。
『っ・・・・・・・!』
怖かった。
もう限界だった。
江里子とアンは、まるで競争するかのように全力で走り出し、承太郎の腕にそれぞれしがみ付いた。
「何だお前ら、二人して。どうかしたか?」
「な、何でもないわ、ねぇ、エリー・・・・」
「うん、何でもない、何でもないの・・・・・・」
承太郎の腕を抱きしめるようにしてしがみ付きながら、江里子は必死に、背中に纏わりつく恐怖を振り払った。
シンガポール駅にて列車のチケットを予約してから、一同は目当てのセントーサ島に向かうべく、ケーブルカー乗り場にやって来た。
乗り場には、アイスクリームやジュースを売っている売店があった。
さっきの騒動で結局ココナッツジュースを一人飲みそびれていた承太郎は、そこでソフトクリームを買った。
お前達も食うかと訊かれたが、江里子もアンも、それを断った。
さっきの事がまだ忘れられなくて、とても何か食べる気分ではなかったのだ。
「ぃよぉ承太郎。そのチェリー食うのかい?」
ホームでケーブルカーが到着するのを待っていると、暫く黙っていた花京院が承太郎に話しかけた。
「食わないならくれよ。腹が空いてしょうがねぇぜ。」
承太郎が何も言わない内に、花京院はさっさと手を伸ばし、ソフトクリームのてっぺんに飾られている真っ赤なチェリーを摘んだ。
そして。
「おおっとぉ!危ないっ、承太郎くぅん!!」
突然に、承太郎を思いきり突き飛ばした。
完全に不意を突かれた承太郎は、手摺を乗り越え、宙に飛び出した。
「承太郎さんっ!!!」
「きゃああっ、ジョジョーッ!!」
花京院に怯えていたせいで、承太郎のすぐ横にずっと張り付いていたのが幸いだった。江里子とアンは、落ちていく承太郎の腕を咄嗟に掴む事ができ、承太郎も自力で手摺を掴んで、間一髪、承太郎は下への転落を免れた。
「花京院さん!!何て事するんですか!!」
承太郎の無事を確認してから、江里子は手を放し、振り返って花京院を怒鳴りつけた。
さっきのスリや通行人とのアクシデントは辛うじて百歩譲れるとしても、今回の事は明らかにわざとで、100%花京院の方に非があった。
「ッハハハハァ!冗談!ハハハッ!冗談ですよ!」
しかし花京院は反省どころか笑いながら、チェリーを口に放り込んだ。
そうして、怒っている江里子と、自力で手摺を越えて戻ってきた承太郎を、挑発するように見据えた。
「承太郎くぅん!レロレロレロレロレロレロ・・・・・・」
「!」
花京院は口に入れたチェリーを、舌先でやたらに転がして弄び始めた。
その下品極まりない仕草に、承太郎はいつものポーカーフェイスを崩して顔を顰めた。
「エリコさんもさぁ、そんなに怖い顔しないで下さいよぉ。カワイイ顔が台無しですよぉ?レロレロレロレロレロレロ・・・・・」
「ゃっ・・・・・!」
江里子の顔をニヤニヤと見つめながら、見せつけるように舌を長く伸ばしてチェリーを舐め転がす花京院に、思わず鳥肌が立った。
直視出来なくて、江里子が顔を背けると、花京院は喉の奥に篭ったような笑い声を小さく上げた。
「レロレロレロレロレロレロ・・・・・、あれぇ?エリコさぁん。何で目を逸らすのかなぁ?何故か顔も真っ赤だぁ。なぁに想像してるのかなぁ?」
「なっ・・・・・・・!」
「もしかしてぇ、コレを、自分の『チェリー』に見立ててますぅ?
アンタのその立派な『メロン』についてる『チェリー』をぉ、このボクにぃ、こうやってぇ〜、レロレロレロレロレロレロ、レロレロレロレロレロレロ、レロ、レロ、レ・・・・あ」
唾液に塗れたチェリーが、地べたに落ちた。
「か、花京院さん、人が違ったみたい・・・・!」
アンが戦々恐々と呟いた。
江里子は羞恥と恐怖が入り混じり、もう声も出せなかった。
「またぁ!なぁに馬鹿ヅラしてオレを睨んでいるんだよぉ!承太郎せんぱぁい?」
花京院は落ちたチェリーを拾ってまた口に入れながら、険しい表情をしている承太郎を更に挑発した。丁度そこに、キャビンが到着した。
「・・・・乗れや、花京院。」
承太郎は唸るような低い声で言った。
「ケーブルカーが来たぜ。乗れと言ってるんだ。この俺のチケットでな。」
そして、拳を固く握り込んだ。
「何かにとり憑かれているテメェは、この拳でブッ飛んで乗りなという事だ!」
「はっ・・・・!?」
調子に乗って承太郎を挑発し続けていた花京院は、一瞬、ハッとした。
だが、既に遅かった。
花京院は承太郎の拳に、その顔面を思いきり殴られてしまった。
「あげぇっ!!」
承太郎に殴られたその瞬間、花京院の顔は文字通り、砕けた。
殴られたその拍子に口が裂け、顎が割れたのだ。
「何っ!?」
これには殴った本人の承太郎も驚いて目を見張った。
「いやああーーっ!!」
「きゃああああーっ!!」
惨たらしく崩れた花京院の顔に、江里子とアンは怯えて悲鳴を上げた。
「・・・・へっへっへ、違うなぁ。とり憑かれているのとは。」
顔面を砕かれ、吹っ飛ばされてキャビンに転げ入った花京院は、しかし全く平気そうな声で笑い、ゆらりと立ち上がった。
「ちょっと違うなぁ。レロレロレロレロレロレロ。レロロ、レロ、レロ、レロ・・・・・」
「これは・・・・!花京院じゃあねぇ・・・・!」
「俺の体格がだんだん大きくなっている事に、まだ気が付かなかったのかい?」
キャビンの開いた扉を挟んで対峙している承太郎と見比べると、確かに、いつの間にか花京院の方が大きくなっていた。
承太郎は身長195cm、花京院は178cmだと言っていた筈なのに、ホームとキャビンとの段差を差し引いても説明がつかない位、圧倒的に。
今の花京院は、どう見ても2.5m位ある感じだった。
「何者だ・・・・・」
「承太郎さん、この人・・・・・」
怖かったが、それでも江里子は、確認しに行かずにはいられなかった。
間近で見る今の花京院は、益々人間離れして見えた。
「スタンドか?しかし、今俺はコイツに触れた。実際に俺が殴れるスタンドがあるのか・・・・!?」
「実際に、触れるスタンド・・・・?」
「江里っ!」
その時、承太郎が突然、江里子を突き飛ばした。
「きゃっ・・・・・!」
驚いて、よろけて、それでも何とか体勢を立て直した時には、キャビンの扉が閉まっていた。
そして、承太郎と偽花京院を乗せたキャビンは、静かに、ゆっくりと進み始めた。
「承太郎さん!!」
「江里!!この事をジジイ達に知らせろ!!」
閉じたガラス扉越しにも、承太郎の指示はちゃんと聞こえた。
「分かりましたーーっ!!承太郎さん、気を付けてーーっ!!」
「ジョジョーッ!!」
江里子とアンの声は、遠ざかっていく承太郎に、果たして届いたのだろうか。
不安は尽きないが、しかし、ここで立ち尽くしていても仕方がなかった。
「アン!電話探して!公衆電話!」
「わ、分かったわ・・・・・!」
江里子は何かに弾かれるようにして、アンと共に駆け出した。
公衆電話は、探すまでもなくすぐ近くにあった。
考えてみればホテルの電話番号を知らなかったのだが、幸いな事に、持って来ていた観光パンフレットに載っていた。
江里子は電話をアンに任せると、ホームから承太郎達の様子を伺っていた。
ケーブルカーの走るスピードがゆっくりなので、闘っている承太郎の姿を確認する事が出来たのだ。
「あ!ジョ、ジョジョのお祖父ちゃん!?大変よ!か、花京院さんが・・・・!」
偽花京院の姿がドロドロと溶けて、黄色いヘドロのような物体の塊になった。
そしてそれが弾けて、中から黒い長髪の若い男が出現した。
引き締まった肉体を見せつけるかのように上半身は裸で、何ともいけ好かない、恰好つけの男に見えた。
アジア圏の人間である事は確かだろうが、花京院とは似ても似つかない別人だった。
「花京院さんの顔が、バガッと割れたの!でも、花京院さんは花京院さんじゃあなかったのよ!」
承太郎の言っていた、実際に触れるスタンドというのが、あの黄色のヘドロなのだろう。確かにそれは江里子の目にも、そしてアンの目にも見えていた。
「そいで、ジョジョがケーブルカーの中でヘドロに襲われ、指を喰われて大変なのよ!」
承太郎の右手の指に少量ついていただけのそれは、敵の一撃で更に腕全体に絡み付いた。
「貿易センタービルの所のケーブルカー乗り場!
襲われてるのよ!花京院さんに、ジョジョが襲われてるのよーっ!」
敵が間合いを詰め、承太郎が少しだけ、後ずさった。
それは江里子の目には、承太郎の不利に映った。
「え!?何、どうしたの!?・・・・・分かってるわよ!あの花京院さんが偽物だって事ぐらい!」
アンが苛立ったように叫んだ瞬間、ケーブルカーのガラスが割れて承太郎が飛び出してきた。
「承太郎さん!!」
「ジョジョ!!ジョジョがケーブルカーから飛び出した!えっ!?あ、わ、分かった・・・!エリー!電話!」
アンが受話器を江里子に押し付けてきた。
江里子はそれを受け取り、殆ど怒鳴るような声で応答した。
「もしもし!?」
『江里子さん!?花京院です!』
「花京院さん!?」
今度は間違いなく、本物の花京院だった。
『話は大体分かりました!アヴドゥルさんと共に、すぐにそちらに向かいます!
貿易センタービルの、ケーブルカー乗り場ですね!?』
「はいっ!今、ホームの公衆電話から電話しています!」
『分かりました!良いですか、その場を動かないで下さい!!僕らが着くまで、電話も切らないで!ジョースターさんに代わりますから、出来る限り状況を説明し続けておいて下さい!』
「わ、分かりました!」
『すぐに行きますから、待っていて下さい!!』
そう言い残して、花京院は電話口からいなくなった。
そしてすぐさま、ジョースターが電話に出た。
『エリー!?儂じゃ!承太郎は今どうなっておる!?落ちたんじゃろう!?』
「あ、だ、大丈夫です!近くの塔にしがみついて、登れました!無事です!」
『おおっ!そうか!!』
「あ、ちょっとすみません!アン、私の財布からお金出して両替してきて!」
「オッケイッ!」
アンが江里子の財布から出した札を握り締めて駆け出していった直後、承太郎の乗っていたキャビンから、男の大声が聞こえてきた。
「ケッ!逃れたつもりか!?まぁだが教えといてやる。耳クソをストローでスコスコ吸い取ってよーく聞きな。
オレのスタンド、【黄の節制−イエロー・テンパランス−】に、弱点はない!
お前は逃れたのではない!俺が追わなくても良いだけなのさ!このビチグソがぁ!!ガーッハッハッハッハッハ!!!」
遮る建物が何もないから響き易いせいもあるかも知れないが、本当に、よく通る大きな声だった。
勝ち誇ったように笑うその声が、電話越しにジョースターにも聞こえたようだった。
『何じゃ!?誰かの笑い声がするぞ!どうした、エリー!?』
「敵の声です!若い男の人です、多分アジア人の・・・・!
自分のスタンド、イエローテンパランスに弱点はない、と言っています!」
『イエローテンパランス!?テンパランス・・・・、『節制』のカードか!』
「節制・・・・・」
一方、承太郎の方は、ライターを出して自分の指を炙ろうとしていた。
「あっ・・・・!」
『何じゃ!?どうした!?』
「承太郎さんが、指についた敵のスタンドをライターの火で焼こうとして・・、きゃあっ!」
『ど、どうしたぁっ!?』
火で炙られたスタンドは、焼け落ちるどころか承太郎の手全体に広がった。
「ひ、広がりました!逆に、手全体に・・・・!」
『ぬぅぅ・・・・・・!』
「あっ・・・・・・・!」
承太郎は助走をつけると、向かい側から来ていたキャビンに飛び移って行った。
扉はスタープラチナで引き千切ったらしく、彼はすんなりと中に入っていき、そこで彼の姿は見えなくなった。
「承太郎さんが、反対方面のキャビンに飛び移りました。
中にはちゃんと乗り込めましたけど・・・・、ここからはよく見えません・・・・」
『・・・・そうか。ありがとう、エリー。お陰で状況がよく分かった。』
ジョースターは、優しい声で江里子を労った。
『こうしておる間に、もう間もなくアヴドゥルと花京院がそちらに着くだろう。
あとは彼等に任せて、君とアンはホテルに帰って来なさい。』
「は、はい・・・・。」
『気を付けるんじゃぞ。』
「はい・・・・・」
「エリーッ!」
電話を切った一足違いで、両替に行っていたアンが戻って来た。
「エリー!無事か!?」
「江里子さん!」
アヴドゥルと、花京院を引き連れて。
「花京院、さん・・・・・・」
心配そうに江里子を見ているその瞳は、ちゃんと、あの聡明な光を帯びていた。
紛れもなく、本物の花京院なのだ。
「っ・・・・・!」
安堵と、あの偽花京院に味わわされた恐怖や屈辱が入り乱れて、江里子は思わず泣きそうになった。
「っもぉぉっ!!どこ行ってんたんですか今まで!!」
「えっ!?すっ、すみませんっ!でも僕、ちゃんとロビーで待ってたんですけど・・・・。置いて行かれたの、僕の方だったかと、思うんですけど・・・・」
「もーっ、花京院さんが入れ替わっちゃってたせいで、どれだけ大変だったか!!」
「す、すみません、すみません・・・・!」
そして、泣く代わりに、一方的に花京院を怒鳴りつけたのだった。
一時は少し頭の中が散らかってしまったが、ともあれ、アヴドゥルと花京院が来てくれたのは、江里子にとって実に心強い事だった。
ほぼ平常心を取り戻して、事の顛末を詳しく、かつ端的に話して聞かせると、アヴドゥルと花京院は互いに険しい顔を見合わせた。
「・・・・イエローテンパランス、『節制』のカードのスタンド使いだな。」
「アヴドゥルさんはご存知ですか?」
「いや、知らない奴だ。しかし、普通の人間にも見える、触れるスタンド、か・・・・・」
「この間のストレングスの例もありますが、となると、そのイエローテンパランスも、常人以上のパワーがあるという事なのでしょうか?人間の5倍の力を持つオランウータン並みの・・・・・」
「遠目で見た限りですけど、そんな強そうな人には見えませんでしたけど・・・・。何というか、力自慢というよりは、ルックスに拘るナルシスト、みたいな感じの・・・・」
江里子がおずおずと口を挟むと、アヴドゥルは『なるほど』と相槌を打った。
「ならば、物理的な体力や腕力ではなく、精神エネルギーの並外れて強い奴なのかも知れん。スタンドとは精神エネルギーの塊。それが強ければ、即ち、スタンドの力も強いという事になる。ともかくジョジョが心配だ。すぐに後を追おう。」
「江里子さん、アン。僕が送って行きますから、ホテルへ戻・・」
『嫌(です)!!』
花京院の申し出を、江里子とアンは、見事同時にきっぱりと拒絶した。
「あたいも一緒に行く!ジョジョが心配だもん!」
「私も、このまま帰るなんて出来ません!」
「き、君達・・・・・;」
「・・・・・・:」
アヴドゥルと花京院は暫し困り果てていたが、江里子とアンの一歩も引かない様子を見て、やがて諦めたように溜息を吐いた。
「・・・・仕方がない。その代わり二人共、決して私達の側を離れないと約束してくれ。」
「はい!」
「オッケイ!」
「そうと決まれば、早く行きましょう。ちょうどキャビンが着きますよ。」
花京院が指差した先には、間もなくホームに到着しそうなキャビンが来ていた。
あれに乗れば、承太郎の後を追える。一同は誰からともなく猛然と走り出し、他の客に乗られる前に何とかそのキャビンを確保して、素早く乗り込んだ。
走り出して間もなく、キャビンは海の上に出た。
海と言っても沖ではない、港の堤防だ。そこに人がいた。
「あっ!承太郎さん!!」
海の中にいる男は、承太郎だった。
全身あの黄色いヘドロに塗れて、堤防の壁に張り付いている。
そして、堤防の上で得意げに仁王立ちになっているのは、黒髪の半裸の男。イエローテンパランスだった。
「しまった!この下か!」
アヴドゥルが焦り顔で足元を見下ろした。
こんな事ならケーブルカーに乗らず、走って港まで出た方が良かったと思っても、後の祭りだった。ケーブルカーはだんだん高度を上げながら、セントーサ島を目指して順調に進んでいく。途中で停まる駅はない。
「・・・今なら大した高さじゃあないわ!」
アンが腹を括ったように言った。
「しかし・・・・・」
アヴドゥルと花京院は、言葉を濁して不安げに江里子を見た。
アンは、一人で密航し、クルーザーの甲板から鮫のいる海のど真ん中に飛び込める程、勇気のある子だ。
アヴドゥルや花京院にとっても、これ位の事はやろうと思えば出来るのだろう。
問題は、自分一人なのだ。
「・・・・・・」
足を引っ張り、本当のお荷物になるか、
ホリィの為に、一緒に闘うか、
全ては、自分次第だ。
「・・・・行きましょう!」
江里子は仲間達の顔をまっすぐに見て、はっきりと言い放った。
すると、アヴドゥルと花京院は一瞬ポカンとしてから、笑って力強く頷いた。
「・・・行きますよ!エメラルド・スプラッシュ!!」
ハイエロファントグリーンが、キャビンの扉を破壊した。
宙にポッカリと開いた穴に、花京院は迷わず身を投じた。
アヴドゥルも、アンも。
皆、次々と、承太郎を助ける為に。
「・・・・・行くわよ・・・・・・」
江里子は自分を励ますと、ありったけの勇気を振り絞って、青く広がる外の世界に飛び出した。
「・・・・・っぁぁあああああーーーーっ!!!」
ザバーーーッッン!!!
「っぷはぁッ!はぁっ、はぁっ・・・・!」
爽快な音と水飛沫を上げて、江里子は無事、着水した。
何とか海面に顔を出して見れば、一緒に飛び込んだ仲間達が、全員揃って江里子を見ていた。
「やるじゃん、エリー!ナイスガッツ!」
「良く頑張ったな、エリー!」
「江里子さん!良かった、無事で!」
「はぁッ、はぁッ・・・・・、皆・・・・・・!」
江里子は思わず安心して、気を緩めかけた。
だが、これはあくまでも一過程、目的は承太郎の援護なのだ。
江里子はすぐにそれを思い出し、再び気を引き締め直した。
「そ、それで、承太郎さんは!?早く助けに行かなきゃ・・・・・!」
だが、緊張感を漲らせていたのは江里子一人だった。
「あー、いやぁ・・・・・・」
「それが、その・・・・・・」
「・・・・・・・え?」
アヴドゥルと花京院が指差した方向には、海の中からこちらを見ている承太郎と、水面に浮かんでいる敵の姿があった。
折角勇気を出したのに残念ながら一足遅れ、承太郎は一人でこの男を倒していたらしかった。
「・・・・・よぉ。こんな所で何してんだ。皆で海水浴か?」
皆で泳いで近付いていくと、承太郎は小さく笑い、飄々と冗談を飛ばした。
身体にへばりついていた敵のスタンドは綺麗さっぱり消えてなくなっており、見た感じ、特に怪我もしていなさそうだった。
「君こそ、こんな所で一人で海水浴かい?」
花京院も笑ってそう切り返してから、ボロボロに打ちのめされて失神している敵に一瞥をくれた。
「なるほど、こいつか。僕の偽物というのは。」
「そうよー!コイツのせいで、あたいらがどんだけ怖い思いしたか!」
アンがプリプリと怒りながら、マシンガンのように話し始めた。
「コイツ、虫食べてたのよ、虫!木に止まってたカブトムシをよ!気持ち悪いったら!」
「ふふっ、思い出しただけで寒気がするわよね!」
きっと安心の裏返しなのだ。本当に怖かったから。
今、全く同じ思いをしている江里子は、笑ってアンの話に相槌を打った。
「ホンットよ!財布をすろうとしたスリにもさ、すんごい下品な言葉ばっかり浴びせてたし!」
「あの膝蹴りとか、バックブリーカー?も怖かったわよねー!」
「そうそう!目がマジだったもん!本気で殺しにかかってたわよね!」
「こ、こいつは僕の姿で一体何を・・・・・;」
アンのテンションは、益々上がる一方だった。
「他にもさ、ケーブルカー乗り場でジョジョをいきなり手摺の向こうに突き飛ばしたり、それを怒ったエリーに、何か意味分かんない変な事言ったりしてさぁ!エリーのメロンについてるチェリーがどうのこうのって・・」
その途端、男達の目が江里子の胸に一斉に向けられた。
海水で濡れた服が張り付き、ブラジャーどころかバストの形そのものまでくっきりと浮かび上がっている、そこへ。
「!!」
江里子が顎まで水の中に浸かると同時に、承太郎は帽子を目深に被り直し、花京院は真っ赤になった顔を背け、アヴドゥルはやたらと咳き込んだ。
「んっ、んんっ!ゴホン・・・・・!まあ、ともかく、無事で良かった。」
「そ、そろそろ帰りましょうか・・・・。」
アヴドゥルと花京院が皆を促し、一同は陸へ上がろうとした。
「・・・えいっ!」
が、その時、アンが突然思いついたように敵に近付き、ズボンのポケットから財布を引っ張り出した。
「あっ!こらっ、アン!」
「良いじゃないさ別に!」
それを見咎めたアヴドゥルはアンを叱りつけたのだが、生憎とアンに罪悪感はないようだった。
「コイツのせいで、あたいらの楽しい計画が台無しになったんだから!本当だったら今頃、セントーサ島で楽しく遊んでたのにさぁ!迷惑料ぐらい、払って当然よ!」
これが他の善良な一般市民なら、張り倒してでもやめさせねばならないところだが、相手がこの男に限ってなら・・・・。
皆がそんなモヤモヤとした思いを抱えて見守る中、アンはさっさと敵の財布を開き、札とコインを根こそぎ自分のポケットに捻じ込んだ。
そして、ふとカードのようなものを引っ張り出して、皆に見せた。
「ねえ、見て。免許証が入ってた。」
確かにそれは、運転免許証だった。
「ラバーソール・・・・、これがこいつの本名か。」
「地元の人間みたいですね。」
アヴドゥルと花京院は、それを受け取って表裏共に注意深くチェックした。
だが、免許証には、その人の生業や人となりまでは書いていない。
「結局この人、何者だったんでしょうね?」
「さあな・・・・・・。とにかく、さっさと行くぜ。人が来ると面倒だ。」
記載されてある住所から紐解いていく事は出来るだろうが、本当の敵はエジプトにいる。恐らくは単なる手先の一人に過ぎないこの男一人に、そこまで関わっている暇はなかった。
海から上がって通りを歩いていると、通行人がジロジロと無遠慮な視線を投げ掛けてくる。呆れている人もいれば、クスクス笑う人もいる。
花京院に借りた長ランのお陰で、服がベッタリと張り付いた身体を晒さずには済んでいるが、それでも何とも気まずいものだった。
「参ったな。皆にジロジロ見られる。」
「仕方がない。着替えも何も無いのだし。幸いホテルはすぐそこだから、少しの辛抱だ。」
江里子と同じく、居た堪れなさそうにしている花京院やアヴドゥルに向かって、アンはチャーミングなウインクを飛ばした。
「大丈夫よ!堂々としてなって!若い男女がグループデートでちょっとはしゃぎ過ぎちゃったって顔してりゃあ、誰も変に思わないわよ!」
「フン、ションベンくせぇガキが一丁前にナマ言うんじゃねぇよ。」
「何さぁ!フンっだ!」
アンは承太郎に鼻で笑われ、拗ねて花京院とアヴドゥルの方にひっついていった。
しかし次の瞬間、承太郎はやけに深刻な顔付きになった。
「どうしたんですか?承太郎さん。」
「いや・・・・・」
承太郎は、江里子には答えなかった。
その代わりに、アヴドゥルに声を掛けた。
「アヴドゥル、ポルナレフは戻ったか?」
「いや、まだだが。」
「そうか・・・・・・。」
何故答えてくれないのかと食い下がったり、ましてアンのように拗ねる事は、江里子には出来なかった。
それをするには、承太郎の表情があまりにも真剣すぎて。