「おわぁぁ・・・・!」
「か、貨物船だ・・・・!気が付かなかった・・・・!」
朝もやの中から突如姿を現した巨大な貨物船を見て、船員達も酷く驚いていた。
それ程に、船は全く、誰にも、その気配を気付かせる事なく、ボートに近付いてきていたのだった。
こんな巨大な船なのに、何故そんなにも存在感を消す事が出来ていたのだろうか。
見上げんばかりのその大きさに圧倒されながら、江里子はそんな事を考えていた。
「承太郎、何を案じておる?まさかこの貨物船にもスタンド使いが乗っているかもしれんと考えているのか?」
ジョースターが、何か考え込んでいる様子の承太郎にそう訊いた。
「いいや。タラップが下りているのに、何故誰も顔を覗かせないのかと考えていたのさ。」
「うん?」
なるほど確かに、承太郎の言う通りだった。
どうぞお上がり下さいとばかりにタラップは下りているのに、乗組員の姿が見えないのだ。
救助信号をキャッチして来てくれた筈なのに。
それとも、これは単なる幸運な偶然だったのだろうか。
「たまたま通りすがっただけの船なんでしょうか?」
「ううむ、かも知れんが・・・・・」
江里子もジョースターや承太郎と共に思わず考え込んでしまったが、ポルナレフは立ち上がり、目の前のタラップに躊躇いなく飛び移った。
「ここまで救助に来てくれたんだ!誰も乗ってねぇ訳ねぇだろうが!たとえ全員スタンド使いとしても、俺はこの船に乗るぜ!」
ポルナレフの言う事も、また正論だった。
この船に敵のスタンド使いが乗っている危険性は勿論考え得るが、かと言って、こんな大海原の真っ只中に、頼りない小舟でいつまでも漂っている訳にもいかないのだ。
それは口に出すまでもない満場一致の意見で、結局、船員と江里子達乗客一同は早々にその船に移る事となった。
ポルナレフに引き続き、アヴドゥル、花京院、ジョースター、承太郎が上がっていった。
最後に、アンと江里子の番が回ってきたのだが、アンは立ち上がりはしたものの、どうしてかその場を動かなかった。
「ん?」
アンの視線に気付いたジョースターと承太郎が、こちらを振り返った。
アンの何か言いたげな視線を察したのか、承太郎が右手を差し出した。
「掴まりな。手を貸すぜ。」
意外だった。
女の子には押し並べて辛辣な態度で接する男なのに。
しかしアンは、少し考えてから、ジョースターの方に飛び付いていった。
そして、抱き止めてくれたジョースターの腕の中から、承太郎に向かって『ベー』と舌を出した。
「・・・・やれやれ。」
これはつまり、恐らく、昨日の仕返しなのだろう。
海の中で、胸を触られた事への。
悪気も下心も、承太郎にはなかった筈なのだが、そしてそれはアンも分かっている筈なのだが、アンの乙女心がそうさせてしまうのだろう。同じ女である江里子には、アンの気持ちは理解出来た。
とはいえ、折角差し出した手が報われないのも何だか気の毒で、江里子は自分の手を伸ばした。
「手、借りても良いですか?」
「・・・・フン」
伸ばしたその手を、承太郎の力強い手がしっかりと掴み、江里子をいとも容易くタラップへと引っ張り上げた。
何はともあれ、ひとまず助かった。
誰もがそう思っていたのだが、しかしそれは束の間の事だった。
タラップを上がりきったその先に、きっと人の姿がある筈だと思っていたのに、デッキには人の姿どころか影すらも見えなかったのだ。
物々しい巨大なクレーンなどの重機類があるだけで、どこを見ても誰もいない。
その場の調査はクルーザーの船員達とアヴドゥルに任せて、江里子達は船室の探索へと向かった。
しかし、船室内も同じだった。
「な、何だこの船は!操舵室に船者もいない!無線室に技師もいない!誰もいないぞ!」
無人の操舵室の中で、ジョースターが叫んだ。
「それなのに見ろ、計器や機械類は正常に作動しているぞ!」
ジョースターの言う通り、人はいないが、何故か機械類は作動していた。
「全員下痢気味で、便所にでも入ってんじゃあねぇのか?」
ポルナレフは軽口を叩いてみせたが、しかし、その目はアヴドゥルと闘っていた時のように、油断なく光っていた。
「おーい!誰かいないのかーっ!」
ジョースターがもう一度、大きな声で呼び掛けたその時だった。
「皆、来てみて!こっちよ!」
ドアの向こうから、アンが顔を覗かせた。
どうも何かを見つけたようだ。
江里子達はすぐさま、アンについて隣室に入った。
隣室はコンクリート床のガランとした殺風景な部屋で、その中央に大きな大きな檻があった。
「猿よ!檻の中に猿がいるわ!」
アンが見つけたものは、その檻に閉じ込められている巨大な猿だった。
その猿を見て、花京院が『オランウータンだ』と言った。なるほど確かに、動物園や図鑑などで見覚えがある。その猿はオランウータンだった。
ここへきてやっと命ある生物に出会えたは良いが、それが猿では、やはり話にならなかった。
「猿なんぞどうでもいい!こいつに餌をやっている奴を、手分けして捜そう!」
ジョースターは少し苛立ったように言い放ち、さっさと背を向けて出て行ってしまった。承太郎と花京院も、すぐその後を追って行った。
「あ・・・・」
アンは少ししょげたように、その背中を見送っていた。
多分、彼女なりに皆の手助けをしようと思ったのだ。江里子にはそう思えた。
だから何となく放っておけず、江里子はその華奢な肩をそっと抱いた。
「エリー・・・・・」
「行こう?」
「・・・うん」
江里子が笑いかけると、アンもはにかみながら頷いた。
その時、ふと背中に強い視線を感じた。
アンも同じだったようで、江里子とアンは、殆ど同時に後ろを振り返った。
「・・・・・・・・」
檻の中の猿が、江里子とアンを見つめていた。
妙に人間くさい目で、それも、愛嬌があるという意味ではなく、ねっとりとした、厭らしい目で。
喩えて言えば、そう、人間の男の目だ。
キャバレーの酔客や、借金のカタに身体を売れと迫った金貸しの下衆な目付きに酷似していた。
無垢な動物に対してそんな汚らわしい連想をする自分こそが下衆なのだろうか。いや、きっとそうなのだろう。
だが、それならば何故、この猿の目はこんなにも底知れぬ恐怖を催させるのだろうか。
「・・・・行こう!」
江里子はアンを促し、足早にジョースター達の後を追った。
デッキでは、クルーザーの船員達とアヴドゥルが重機類を調べていた。
「どうだ?」
「ああ、故障はしていないようだが・・・・」
船員はしきりと首を捻っていた。
やはりここも、機械類は正常に作動しているらしい。
「ん?」
ジョースターがふと向こうを見た。
その視線の先には、巨大な鈎針のついたクレーン。
それがぎこちなく、だんだん大きく、揺れ始めていた。
「アヴドゥル!その水夫が危ない!!」
ジョースターが叫んだその刹那、アヴドゥルの隣で機械を調べていた船員の頭を、クレーンの鈎針が真横から貫いた。
「!!」
一瞬の事だった。
その船員は一瞬にして頭をもっていかれ、そのまま空に吊り上げられた。
「あ・・・、ああああーーーッ!!!」
「キャアアアーーーッ!!」
丁度船室からデッキに出たばかりだった江里子とアンは、その凄惨極まりない光景を、否応なしに目の当たりにしてしまった。
その瞬間、大きな何かが江里子の両目を塞ぎ、闇に閉ざした。
「はっ・・・・!」
「やれやれ。こういう歓迎の挨拶は、女の子にはキツすぎるぜ。」
すぐ後ろで、承太郎の声がした。
承太郎の手が、江里子の目をその惨たらしい光景から守ってくれたのだ。
「・・・じょ、承太郎、さん・・・・・!?」
「手ェ離すぜ。二人共、前は見るなよ。どっかよそ向け。」
やがて、大きな手がそっと離れていった。
江里子はぎこちなく後ろを振り返った。
そこにはやはり、承太郎がいた。
体が触れ合うぐらい、すぐ側に。
「あ・・・・、ありがとう、ございました・・・・・」
「・・・・・フン」
残念ながら、あの一瞬の光景は、目に焼き付いてしまっていた。
だが、承太郎の気遣いが、そのショックをかなり和らげてくれていた。
亡くなった人には悪いが、怯えて尻尾を巻いて逃げ帰る訳にはいかないのだ。
大体、こんな海の真っ只中で、逃げる手段などない。
ここで、今この場で、この恐怖と真正面から立ち向かわねばならないのだ。
しっかりしろと自分を奮い立たせ、江里子は一歩、前に踏み出した。
「だ、誰も触らないのに・・・・!」
「誰もあの操作レバーに触っていないのに、クレーンが動いたのを俺は見た!」
「ひ、ひとりでにあのクレーンは、アイツを刺し殺したんだ!」
仲間を失った船員達は、その死体を見上げて戦々恐々としていた。
「気をつけろ!!やはりどこかにいるぞ!!」
ジョースターは確信しているようだった。
この船には、間違いなく敵が潜んでいると。
「おい!機械類には一切触るな!!動いたり電気を流すものには、一切触るんじゃあない!!命が惜しかったら、儂の命令に従ってもらう!!全員良いというまで、下の船室内にて動くな!!」
ジョースターは、船員達にそう命じた。
その強い口調には、誰一人として逆らう事は許さないという意思が込められていた。
「エリー、アン。君達もだ。彼等について行きなさい。」
「は、はい・・・・・・」
「わ、分かったわ・・・」
江里子とアンに対しては、女の子だからか随分と口調を和らげてくれたが、それでも、その有無を言わせぬ強い意思は同じだった。
江里子はアンを伴い、大人しく船室へ向かおうとした。
しかし、ふと気付くと、アンがまた扉の辺りで立ち止まり、こっそりとジョースター達の様子を伺っていた。
無理に引っ張って行く事も出来ず、というより江里子自身、ジョースター達の動向が少なからず気になっていたので、江里子もアンの横で身を潜め、彼等の様子を伺い始めた。
「誰か今、スタンドをチラッとでも見たか?」
人払いが済んだと思っているらしいジョースター達は、早速作戦会議を始めていた。
「いや・・・・」
「すまぬ。クレーンの一番近くにいたのは私だが、感じさえもしなかった・・・。」
ジョースターの質問に、ポルナレフもアヴドゥルも、申し訳なさそうな顔をして見せた。
「よし、私のハイエロファントグリーンを這わせて追ってみる!」
花京院が探りを入れるべく、自身のスタンドを発動させた。
だがそれは、江里子の目にも、アンの目にも見えない。
見えずとも知っている江里子はともかく、アンには何もかも全く理解出来ていない筈だった。
「な、何が何だか分からないけど、やっぱりアンタ達がいるからヤバい事が起こるんだわ・・・・!」
ジョースター達の様子を気味が悪そうに見つめながら、アンはそう呟いた。
「アン・・・・・」
「疫病神なの!?災いを呼ぶ人間がいて巻き込まれるから、そいつには近付くなって・・・・、そうなの!?」
アンの非難めいた眼差しを、江里子は歯痒い気持ちで受け止めた。
アンの心境は、江里子にも良く理解出来た。
つい数日前の、『スタンド』を知らなかった頃の自分と、全く同じ心境だからだ。
そして、今の自分の心境はきっと、あの時のジョースターや花京院と同じなのだろう。
アンに何と言うべきか悩みながら、江里子はそう考えていた。
「あなたが混乱する気持ちは、私にはよく分かるわ。だけど、あの人達は疫病神なんかじゃ・・」
言いかけたその時、江里子とアンは、ジョースター達がこちらを一斉に注目している事に気付いた。
こっそりと様子を伺っていたつもりが、あっさりとバレてしまったようだった。
「っ・・・・・!」
怒られるだろうか。
近付いてくるジョースターを見つめながら、江里子は内心で少し恐れていた。
しかしジョースターは、アンの前で膝を折り、小柄な彼女の目の高さに自分の目線を合わせた。
「君に対し、ひとつだけ真実がある。我々は君の味方だ!」
ジョースターはそう言って、ニカッと笑った。
頼もしくて温かい、人を安心させるあの顔で。
「良いな?皆と一緒にいるんだぞ?」
「うん・・・・」
アンもやはりほだされたようで、促されるがまま、大人しく踵を返した。
ジョースターは安心したように微笑むと、江里子にも目を向けた。
「エリー。アンの事を頼んだぞ。」
「はい。」
何の役にも立てないお荷物と公言してはいるが、この数日、こうして旅をしている内に、江里子の心境は少しずつ変化し始めていた。
何の役にも立てないお荷物なりに、何か彼等の力になりたい。役に立ちたい。
そんな風に考え始めていた江里子にとって、アンを任された事は、密かに嬉しい事だった。
船室は船室で、船員達が話し合いの真っ最中だった。
全員深刻な顔で、これからどうするべきかを議論している。
ジョースターにああ言われはしたが、本当に何もせずに解決がつくまでじっと待つ気は、彼等にはないようだった。
仲間をあんな無惨な形で失ったのだ。
彼等にしてみれば、人に命令されるまま黙って引っ込んでなどいられないというのも当然だった。
「あの、何か私達もお手伝いしましょうか?」
議論の区切りを待って、江里子は船員達に声をかけた。
しかし彼等の反応は、全く素っ気ないものだった。
「アンタらに手伝って貰えそうな事は何もないよ!」
「邪魔しないで、その辺で大人しくお喋りでもしてな!」
まるで邪魔者扱いである。
だが実際、船舶の免許どころか欠片ほどの知識もない女の子2人に何が出来る訳でもない。江里子はアンを伴い、部屋の片隅の、船員達の邪魔にならない場所へ移った。
改めて差し向かいで顔を付き合わせて、江里子は、こうしてアンと二人で話すのはこれが初めてだと気付いた。
救命ボートの上で、名前くらいは名乗り合っていたが、アンは江里子達の事を少なからず警戒しており、あまり会話らしい会話をしていなかったのだ。
「・・・・あなた、幾つ?」
何から話すべきか迷ってから、江里子はまず、アンの歳を訊いた。
「・・・13。そういうアンタは?」
「18。」
「香港人・・・、じゃないわよね?言葉が違うもの。中国でも台湾でもないでしょ?」
「日本人よ。私と花京院さんが日本人で、承太郎さんが日本人とアメリカ人のハーフ。ジョースターさんがアメリカ人で、アヴドゥルさんがエジプト人、ポルナレフさんがフランス人なの。」
「な、何だかメチャクチャな組み合わせね。一体何者なの、アンタ達?」
どう答えるべきか考えようとしたその瞬間、アンは『まあ別に良いけどさ』と続けた。
「妙だとは思うけど、悪い人達じゃあなさそうだし。・・・なんだよね?」
アンは念押しするような目付きで、江里子を見つめた。
睨みつけるという程でもないが、強い意思の篭った眼差しだった。
あたしを騙してるってんなら許さないよ、とでも言いたげな、威勢の良さがあった。
恐らく力は伴っていない、だけど度胸だけは一人前な彼女が何だか可愛くて、江里子は思わず微笑んだ。
「勿論。あなたに危害を加える気は全くないわ。シンガポールまでの短い間だけど、よろしくね。」
江里子が微笑みながらそう言うと、アンは何だか決まりが悪そうに小さく鼻を鳴らした。そして、モジモジと躊躇いながら口を開いた。
「・・・・・そういえば、あの時は・・・ありがと」
「え?」
「クルーザーでさ。あたいが水夫に見つかって虐められてた時、アンタ庇ってくれたでしょ。」
「ああ・・・・・」
プッと膨れたアンの頬が、可愛らしい朱色に染まっている。
照れているのだ。
江里子は小さく笑った。
「意地悪で乱暴でいけ好かない男だったから、腹が立っただけ。ああいう男、大嫌いなの。」
江里子の言い方がフィーリングに合ったのか、アンはキラキラと目を輝かせた。
「分かるぅ!あたいもだよ!男のくせに、女子供を力ずくでどうにかしようなんて、最低だよ!」
「あと、女をすぐに下に見る奴もね。所詮女はとか、これだから女はとか言う奴。」
「ああぁ、それも分かるぅ!」
突然アンは、江里子の耳元に唇を寄せてきた。
「さっきのあの言い方も酷くない?まるであたいらを邪魔者扱いしちゃってさ。あたいらの事を、何も出来ない足手まといだと思ってんだよきっと。」
「そうね。多分ね。」
「ね、あたいらも探検に行かない?」
「探検?」
江里子が訊き返すと、アンはその快活な瞳を好奇心で光らせた。
「あたいはやっぱり、あの猿をもっと調べるべきだと思うんだ。何たって、この船の中で唯一の生き物なんだから。」
アンの言う事には、根拠はないが、妙な説得力があった。
「馬鹿な男共は何も分かっちゃあいないようだけど、あの猿にはきっと何か秘密があるのよ。
そいつをあたいらで暴いてやるのよ!きっと皆、あたいらを見直すわ!」
別に見直されたり感謝されたい訳ではないが、それが何かの役に立つ事は有り得る。
江里子はチラリと辺りを見回して、船員達が誰もこちらを見ていない事を確認してから、力強く頷いた。
「・・・行きましょう!」
「そうこなきゃ!」
アンが小さな掌を差し出してきた。
船員達に気付かれないように、静かで重いタッチを交わして。
女同士の、友情が誕生した瞬間だった。
江里子とアンは、船員達の目を盗んで、再び操舵室へやって来た。
操舵室には、やはり誰もいなかった。
それでいて、機械類は相変わらず作動している。
薄気味の悪い程静かなそこを足早に抜け、江里子とアンは隣室、猿のいる部屋へと向かった。
猿は江里子とアンの姿を見ると、檻を内側からガタガタと揺すり、吠え始めた。
大きな猿が興奮して檻を揺する様は、正直、恐怖でしかなかった。
檻から十分な距離を取って様子を見ていると、やがて猿は鉄格子の隙間から腕を出し、檻の上部についている大きな錠前を、カンカンと指でつついた。
「錠を開けてくれっていうの!?ダメよ!キーがどこか分からないし、アンタおっきいもの!」
アンが怖々ながらも、猿にそう答えた。
それを、夢見がちな少女のメルヘン思考だとは思わなかった。
何故なら江里子にも、猿が錠を開けてくれと言っているようにしか聞こえなかったからだ。
「何なの、この猿・・・・・。アン、もう少し後ろに下がっ・・」
江里子がアンに注意をしかけたその時、猿はおもむろに江里子達に向かって両手を伸ばした。
鉄格子の隙間から差し出されたそれは、リンゴの半切りだった。
「リンゴ、くれるの?」
「わ、私達、に・・・・・?」
猿は何も言わず、微動だにしなかった。
ただアンと江里子の前にそれぞれリンゴを差し出して、じっとしているだけだった。
猿の檻の中から猿の手で差し出されたリンゴなんて食べる気はしないのだが、何故だか拒む事が出来ず、アンも江里子も、恐る恐るリンゴを受け取った。
「でも、おかしいわ。このリンゴ、ナイフで切ってあるし、それも切り口がまだ変色していない・・・・、つい今切ったばかり・・・・。」
受け取ったリンゴを見て、アンが鋭い指摘をした。
確かにそのリンゴは、買ったばかりの新鮮なものをたった今切ったかのような瑞々しさだった。
「本当ね・・・・。それに、リンゴもまた新しいわ。つい最近買った物の筈よ。」
江里子がそう言うと、アンは再び猿に話しかけた。
「ねえ、やっぱりこの船のどこかに、誰か乗ってるのね!?アンタが餌もらう人、どこにいるか知ってる?」
猿は相変わらず一言も発さなかった。
だが代わりに、驚くべき事をやってのけた。
どこからともなくマッチを取り出して擦り、煙草に火を点けてうまそうに燻らせ始めたのだ。
「えっ!?」
「あっ・・・・!?」
まるでよく仕込まれた曲芸のようだった。
信じられないこの光景を前に、江里子は呆然と呟いた。
「サ・・・、サーカスか何かで飼われていた猿なのかしら・・・・・?」
よく見れば、檻の上部にプレートが貼り付けられてあった。
そこに書かれてある単語を、江里子は声に出して読んだ。
「Forever・・・・、フォーエバー?永遠?・・・・・何か変ね・・・・・・。
英単語っていうより・・・・・、もしかして、この猿の名前かしら?」
猿は煙草を吹かしながら、小さな唸り声を出した。
まるで、名前を呼ばれて返事をするかのように。
「あ・・・アンタ、随分頭の良い猿なのね・・・・。」
アンがそう話しかけると、猿は何だか得意げな表情でフッとマッチの火を吹き消し、今度は薄汚れた布きれの下から雑誌のようなものを取り出して、広げて眺め始めた。
「はっ・・・・・!?」
「やっ・・・・・!」
それは、男性向けのポルノ雑誌だった。
猿が開いて見せたのは、ブカブカの白いシャツを素肌に纏った金髪美女のピンナップだった。
美女のシャツのボタンは全て開いており、豊満な乳房も、やけに綺麗なピンク色をした乳首も、妙に小綺麗に整えられた金色の陰毛も、全てが丸見えだった。
背筋がゾクリとした。
開いた毛穴から冷たい空気が入り込んできて、身体を冷やした。
「猿のアンタが人間の女の子のピンナップ見て、・・・・面白いの?」
アンが固唾を呑みながら、猿に問いかけた。
その質問に、猿は目で答えた。
「・・・・・・・」
最初に遭遇した時に感じた、あの視線だった。
身体をねっとりと舐め上げるような、厭らしい『オス』の視線。
それが、江里子とアンを交互に撫でた。
「アン、おいで・・・・・!」
江里子が思わずアンを背後に庇ったその時、突然部屋のドアが開いて、船員が2人、入って来た。
「おい、気をつけろ!」
「オランウータンは人間の5倍の力があると言うからな。腕ぐらい簡単に引き千切られるぞ。」
どうやら彼等は、江里子とアンを捜しに来てくれたようだった。
「さあ!向こうの部屋で我々と一緒にいるのだ!」
「あ、ああ・・・・」
「す、すみません・・・・・」
流石のアンも、反抗心は湧いて来ないようだった。
江里子は勿論、言うまでもなかった。
彼等が捜しに来てくれたお陰で助かったが、もし誰も来なかったらどうなっていたか。そう思うと、膝が震えそうだった。
まるで変質者と遭遇したかのような、それ程の身の危険を、あの猿の視線に感じてしまっていたのだ。
いつの間にか、日が暮れ始めていた。
船は静かに、順調に、ベトナム・ホーチミンを目指して進んでいた。
燃料はシンガポールまで十分にもつ程あったようだし、貯蔵庫には手軽に食べられる缶詰などの食料もあったのだが、ジョースターと船員達の話し合いの結果、やはり一度着岸した方が良いという結論になったようだった。
クルーザー事故のせいで予定より丸1日遅れてしまっているのだが、亡くなった船員の亡骸も早く祖国に送り届けてやらねばならないし、この得体の知れない無人船でシンガポールを目指すのはやはり危険だと、ジョースターは判断したようだった。
そして、その判断に異論を唱えた者は、船員達を含めて誰もいなかった。
「どうだ!?」
「ダメだ、繋がらない・・・・」
「もう一度やってみろ!」
船員達は今、無線室でどうにか外部と連絡を取ろうと頑張っていた。
皆であれこれと難しそうな機械をいじり、ああでもない、こうでもないとやっている。操舵は可能だが、どうやら無線の機械だけは全く言う事をきかない様子だった。
探検も早々と終了し、すっかり手持ち無沙汰になっていた江里子とアンは、何となくその様子を眺めていたのだが。
「ん?クンクン、クン・・・」
不意にアンが、自分の身体の匂いを嗅いだ。
「うぇ・・・、海水でベトベトする・・・・。」
「ああ、そっか、そうだったわね・・・・・」
アンも海に落ちたそのままの状態なのだ。もう乾いているとはいえ、さぞかし気持ちが悪いだろうと思われた。
それに江里子も、かなり我慢の限界が来ていた。
クルーザーに乗った初日は具合が悪くてシャワーが浴びられず、翌日は難破したせいで、かれこれ丸2日以上、身体を清めていないのだ。潮風と汗と経血の汚れで、身体中、どこもかしこも不快だった。
とはいえ、どうしようもない。
江里子とアンは、互いに重い溜息を吐いた。
「ん・・・・・?あれ・・・・・・・・」
と、その時、江里子はふと前方に、シャワールームらしき部屋を見つけた。
「ねぇアン、あれもしかして、シャワールームかな?」
「えっ?・・・・行ってみよ!」
そこはやはりシャワールームだった。江里子とアンは歓声を上げて喜んだ。
しかし、あったは良いが、これを無断で勝手に使用して良いものなのか。
ふとそんな心配が、江里子の頭を過ぎった。
「でも、浴びても良いのかしら?訊いてみて許可を貰わなきゃ駄目なんじゃあ・・・」
「日本人てクソ真面目だって聞いたけど、本当なのねぇ!許可なんて要らないわよ!
どうせあたいら、あそこにいたってする事ないし!邪魔だから引っ込んでろって言ったのは向こうよ!?」
「それは、まあ・・・・・」
アンの言う事は尤もだった。
邪魔者扱いされているのは確かだし、この非常時に、呑気にシャワーを浴びたいなんて言いに行くのも憚られる。
だが、本当に誰にも断らず、勝手にシャワーを使っても大丈夫なのだろうか。
限りなく怪しく危険な感じのするこの船のシャワーなど。
「問題は、水夫共よりシャワーの機嫌よ。」
悶々と考え込んでいる江里子を余所に、アンはさっさとシャワーの栓を捻った。
途端にザアア・・・・と勢い良くシャワーが出始めた。
程なくして、温かそうな湯気も立ち昇ってきた。
「へへっ・・・・・、うん!」
湯を触って温度を確かめると、アンはブースから嬉しそうな顔で出てきた。
「エリー、大丈夫よ!お湯が出る!」
「本当?」
「あたいは浴びるわよ!もう限界だもん!」
アンは躊躇いなく服を脱ぎ始めた。
ジョースターから任されている以上、このままアンを一人にして自分だけ戻る訳にもいかないし、何より、やっぱり、自分もシャワーを浴びたい。
江里子は腹を括って、自分も服を脱ぎ始めた。
「・・・・・・何?」
ふと江里子は、アンの視線が自分の胸に向けられている事に気付いた。
我に返ったアンは、顔を赤らめて目を逸らした。
「あ、ごめん・・・・!いや、ちょっと気になっちゃって。おっきいな〜、って・・・・。エヘヘ・・・・」
「あぁ・・・・、あはは・・・・・」
江里子とアンは、互いに照れ笑いを浮かべた。
「ほら、あたいなんかペチャパイだからさ、エリーみたいなグラマーな胸、羨ましいなぁ。ね、何カップか訊いても良い?」
「・・・D、だけど・・・・」
「良いなぁー!!あたいなんか何カップどころか、そもそもブラジャー要らずだもん!」
アンが盛大に唇を尖らせるので、江里子は思わず吹き出してしまった。
「そんな大袈裟な。だって13歳でしょ?私だって13歳の時は、ブラなんてしてなかったわよ。」
「そうなの!?」
「うん。まあ、買うお金が無かったっていうのもあるけど、大きさも、今のアンと大して変わらなかったと思うけど。」
「本当!?じゃあいつからそんなに大きくなったの!?」
「う〜ん・・・・・、15歳過ぎてから・・・・、ぐらい、かな?」
「そっかぁ、15かぁ・・・・・!」
うんうんと何度も頷くアンは、何やら希望を持ったようだった。
アンのそんな気持ちは、同じ女の子として江里子も良く分かっていた。
自分の容姿に対する興味やコンプレックスは、女の子なら必ず誰でも持ち合せている。かくいう江里子も例に洩れずそうだった。
「私はアンの脚のラインの方が羨ましいけどなぁ。」
「えぇ!?あたいの脚!?」
「細くてスラッとしてて綺麗だもん。背が伸びたら、きっともっと素敵になるわ。」
「べ・・・別に脚なんて!あたいは痩せっぽちなだけだもん!女はグラマーな方が絶対良いよ!」
もっと目が大きければ、腕が細ければ、足が長ければ。挙げ始めたらキリがない。
一応、自分のチャームポイントは密かに自覚し、満更でもないと思ってはいるけれども。
江里子とアンは少しの間、じゃれるように互いを褒め合って笑い転げた。
大事な事を思い出したのは、それが一区切りついた時だった。
「あー・・・、そうだ。アン。」
「なーに?」
「その・・・・、ナプキン持ってる?」
「ナプキン?」
「あの・・・・、生理の時の。」
「ああ・・・」
アンは一瞬キョトンとしてから、首を振った。
「ない!だってあたい、まだ生理ないもん。」
「そ、そっかぁ・・・・・」
「持ってないの?」
「日本から沢山持って来てたんだけど、全部海に沈んじゃったから・・・・」
自分の荷物が見つかったのはポルナレフだけで、江里子の荷物は結局、見つからず終いだった。
ナプキンも、それはそれで困っているが、ホリィに買って貰った衣類を失くしてしまった事が悲しかった。
あの沈没事故は仕方のないアクシデントだったし、ホリィに買って貰った洋服だって、日本に帰ればまだ何枚かある。
洋服以外にも、手作りの飾り物や小物など、空条邸の自分の部屋には、ホリィに与えられた物が沢山ある。
そうと頭では分かっていても、もう二度と戻って来ないあの洋服達が、今はまだ諦めきれていなかった。
「エリー?どうしたの?そんなに悲しそうな顔して。」
アンの心配そうな声で、江里子は我に返った。
「あ・・・、ごめん。ふふっ。何でもない。」
慌てて笑顔になってみせると、アンは頼もしく言い放った。
「大丈夫よ!たかがナプキンでしょ?そんな物、どうとでもなるわよ!香港も、今じゃあ使い捨てのナプキンを使うけど、昔は布きれ当ててたって。その辺のタオルとか貰っちゃいなよ!」
「布かぁ・・・・・」
考えてみれば、その手があった。
この船はあと2時間程で、ひとまずホーチミンに寄港する事になっている。
その間もてば、あとは現地で買う事が出来るだろう。
そう考えると、少し気が楽になってきた。
「・・・うん、そうね!」
そうと決まれば、あとはシャワーを浴びるだけだ。
すこぶる快適そうなシャワーを前に、もはや江里子はシャワーを浴びてさっぱりした後の事しか考えられなかった。
この船の謎は未だ解けていないという懸念も、今はチラリとも頭を過らなかった。
こんな無機質な貨物船なのに、シャワーは大層気が利いていて快適だった。
適温のお湯が、勢い良く出続けてくれるのだ。
香港で泊まった高級ホテルのバスルームのシャワーも良かったが、ここのも決して引けを取らない。
だが、それを深く考える事を、江里子はしていなかった。
2日ぶりに浴びるシャワーの気持ち良さに、身体中の不快感がさっぱりと洗い流されていく爽快感に、完全に酔いしれてしまっていたのだ。
だがそれは、とんでもない不注意だった。
「キャアアアーーーッ!!!」
突然、隣のブースからアンの悲鳴が聞こえてきた。
「はっ・・・・・!?アンっ!!」
江里子は壁に掛かっていたバスタオルを反射的に体に巻き付けると、ブースを飛び出した。すると。
「おい!!」
そこには承太郎がいた。
そして、アンのいるブースに入り込んでいたあの猿の注意を引き、猿が振り向きざま、巨大な錠前で思いきり殴りつけた。
「ジョジョ!」
「承太郎さん!?」
強烈な不意打ちを喰らった猿は、ヒィヒィ言いながら逃げようとした。
「テメェの錠前だぜ、これは!!」
その後頭部に向かって、承太郎は更に錠前を投げつけた。
それが命中した瞬間、猿は一変して激昂し、承太郎の胸倉に掴み掛かってきた。
「このエテ公、只のエテ公じゃあねえ・・・・。ひょっとするとこいつが・・・・」
「ウガァァァ!!!」
猿は承太郎に向かって、強烈なキックを繰り出してきた。
「オラァ!!」
しかしそれは、承太郎には当たらなかった。スタープラチナがそれを止めたのだ。
だが、それと同時に、天井の扇風機の幹が何故か折れ、激しく回転したまま飛んで来て、承太郎の肩に刺さった。
「承太郎さん!!」
吹き出した血に、江里子は戦慄した。
「こ、こいつが外したのか・・・・?この扇風機を・・・・!?
このエテ公がスタンド使いか・・・・!?しかし、スタンドの像はどこだ?何故見えないのだ・・・・?」
承太郎は扇風機を引き抜こうとしたが、扇風機はひとりでにしなって承太郎の手から逃げた。それはまた、目を疑うような超常現象だった。
「何っ!?鋼のプロペラが、ひとりでに曲った・・・・・!」
「えっ!?何で!?・・・あっ!」
「うおっ!」
江里子が声を上げた瞬間、プロペラはベラベラとしなりながら、承太郎の横っ面を弾き飛ばした。
承太郎は吹っ飛び、ドアを破って廊下まで飛ばされていった。
「承太郎さん!!」
「ジョジョ!!」
もう間違いなかった。
ざまあみろとばかりに飛び上がって喜んでいるこの猿は、只の猿ではない。
明らかに江里子達の行く手を阻む、『敵』だった。
「ウワウワウ〜!!」
猿の攻撃は、それだけでは終わらなかった。
突然、丸い小窓が割れ、数多のガラス片が飛ばされていく承太郎を目掛け飛んで行った。承太郎の頭の方角から、まるで挟み撃ちにでもするような感じで。
「スタープラチナ!!」
しかし、流石は承太郎だった。
スタープラチナがそのガラス片をことごとく掴み、逆に猿に襲い掛かった。
「ウ〜ウゥ〜!」
だが、スタープラチナが砕いたのは壁だけで、猿は無傷だった。
無傷どころか、猿は妙に余裕めいた表情で、何と壁の中に溶け込んでいくではないか。
「何だコイツは・・・・・!?エテ公が壁にめり込んで消えやがった・・・・!」
これには承太郎も驚きを隠せないようだった。
「おいお前ら!今の見たろ!?俺の側へ来な!何かとてつもなくヤバい!!」
承太郎は警戒した声で、江里子とアンを呼んだ。
その瞬間、身体が恐怖で反射的に動き、承太郎の側に駆け寄っていた。
自分が今、バスタオル1枚というとんでもない姿である事をすっかり忘れて。
「承太郎さん・・・・・」
「ジョジョ・・・・・・」
「お前ら、俺の側を離れるんじゃねぇぞ。」
承太郎は低く呟くと、江里子とアンをそれぞれ抱き寄せた。
こんな風にされたのは勿論これが初めてで、江里子は思わず息を呑んだ。
承太郎の身体に、自分の胸や腰が密着しているのが恥ずかしい程分かる。
だが、今は非常時で、そんな事で動揺している場合ではなかった。
「承太郎さん、あの猿・・・・・」
「エテ公が壁に消えた・・・・・。だが、スタンド使いは確かにあのオランウータンだ。嫌な予感がして来てみりゃあ、案の定だったぜ。」
「でも、動物がスタンド使いだなんて、そんな事があるんですか・・・・!?」
「俺にも分からん。だが、そうだとしか思えねぇ。」
切羽詰まったこの状況のせいで、会話が思わず日本語になってしまう。
日本語の分からないアンは、不安げな眼差しで承太郎と江里子を交互に見てくるが、英訳して彼女に説明する余裕は、江里子にも、そして承太郎にもなかった。
「さっき奴にこの手で触れた時、奴の生きた肉体からスタンドのエネルギーが出ているのを感じた。
しかし、奴のスタンドが見えないのは何故なのか・・・・・」
「承太郎さんにも見えないんですか・・・・!?でも、じゃあ、あの猿は一体どうやって・・・・!?
あの猿がスタンド使いで間違いないなら、スタンドで扇風機や窓ガラスを壊して攻撃してきたんでしょう!?
だって、扇風機も窓ガラスも、あの猿は全く触りもしていなかったんですから・・・・!」
江里子がそう言った瞬間、承太郎はハッと息を呑んだ。
「まさ、か・・・・、もう見えている、としたら・・・・!?」
「え・・・・?」
その時だった。
突然、『ドーン!』という轟音と共に船が大きく振動した。
「きゃあっ!」
「な、何!?」
それは、とてつもなく奇妙な揺れだった。
クルーザーが爆発した時のものとは全く違う、もっと不規則で、でたらめな動きだった。外部から破壊される衝撃ではなく、まるで内部から、船が自ら、自発的に動いたように。
「・・・スタンドは、この貨物船か!!」
承太郎が叫んだ。
それは、江里子が考えた事と一致していた。
だが、気付くのが少しばかり遅かったようだった。
壁から無数の配管が承太郎を目掛けて伸びてきて、彼を壁に縛り付けてしまったのだ。真横にいた江里子とアンには掠りもせず、的確に、承太郎一人だけを。
「ウヒャヒャ!」
猿が再び壁から顔を出して笑った。
「し、しまった・・・・!」
「ウッフゥ、フ〜。」
焦る承太郎を余裕綽々の目で眺めながら、猿は壁から出てきた。
出てきた猿は、白い船長服と帽子に咥えパイプで、一丁前に人間の船長の風体を装っていた。
「はっ・・・・!?」
さっきシャワー室で襲われかけたアンは、完全に怯えた顔で江里子の後ろに隠れた。
それを再び前に突き出す事は、江里子には出来なかった。
承太郎が身動き出来ない今、この猿に抵抗出来るのは自分一人しかいない。
これ以上近寄るなという意思を視線に込めて、江里子は猿を睨み付けた。
「フアッ!!」
しかし猿は、江里子の威嚇などまるで気にも留めず、何かの本を開いて見せつけた。
そしてそれを、江里子に向かって押し付けた。
「な、何よ・・・・・!?う、受け取れって・・・いうの・・・・!?」
それは、さっきのようなハレンチなポルノ雑誌ではなく、分厚い英和辞典だった。
頁には『S』の単語が並んでおり、江里子が怖々と辞典を受け取ると、猿は手を放し、その中のある単語を指で示した。
それは。
「Strength・・・・・、ストレングス・・・・・?」
猿は、またあの小さな唸り声を出した。
今度は確信出来た。この猿は返事をしているのだ、と。
ストレングス。
意味は、力。元気。勢い。助け。そして。
「タロットで・・・・・、8番目のカードって・・・・・・・」
意味群の末尾に書かれてあったその一文を読み上げると、承太郎が目を見開いた。
「挑戦、強い意志、秘められた本能の暗示って・・・、書いてあります・・・・!」
「野郎、やはり・・・・・」
やはり、この猿は名乗りを上げたのだ。
人間の言葉を喋れないから、代わりに辞書を使って。
自分は『力』のカードの暗示を持つスタンド使い、【力−ストレングス−】だと。
何と頭の良い、恐ろしい猿なのだろう。
人間顔負けの仕草でパイプを吹かしながら、ポケットから取り出したルービックキューブで遊び始めた猿を呆然と見つめながら、江里子は戦慄していた。
英和辞典や、今正に日本で大人気を博している玩具を、何故こんな遠い異国の海の上にいる猿が持ち合せているのか。
本当に、この猿は何者なのだろうか。一体何処から来たのだろうか。
「オラァ!!」
不意に、承太郎を拘束している配管が1本、千切れ飛んだ。
承太郎がスタープラチナで引き千切ったのだ。
だが、無駄だった。
「うっ!?」
すぐに壁から新しい配管が出てきて、また元通りに承太郎の腕を拘束した。
「ウッフフッフゥ!」
猿は益々上機嫌で、ルービックキューブをカチャカチャと忙しなく回している。
「このエテ公、勝ち誇ってやがる・・・・」
その様を見ながら、承太郎が忌々しげに呟いた。
猿はまるでその言葉の意味を分かっているかのように、いや、きっと間違いなく理解しているのだろう。耳障りなけたたましい声で笑いながら、ルービックキューブを回し続けた。
猿は今、勝利を確信し、得意の絶頂にいるのだ。
「ウッフフゥ〜・・・・・、フンッ!」
やがて猿は、完成させたそれを、おもむろに握り潰した。
「フゥゥ〜・・・・・・・」
「はっ・・・・・・!?」
猿はその視線を、江里子とアンに向けてきた。
また、あの視線だ。厭らしい、舐め回すような視線。
勘違いや考え過ぎなどでは断じてない。
この猿は、江里子とアンを『メス』と見なしていた。
発情するべき相手と。
交尾をし、子種を植え付けて孕ませる対象だと。
「フゥ〜ッ、フゥ〜ッ、フゥ〜ッ・・・・・!」
それでいてそれは、純粋な動物の本能行動ではない。
地球上の生物の中で唯一、人間だけが持つ『色欲』、それに囚われているのだ。
鼻息を荒げ、舌舐めずりをしながら江里子の胸元やアンの太腿を凝視している猿の目付きは、ポルノ雑誌のピンナップを眺めていた時と同じだった。
キャバレーの酔客や、江里子を風俗に叩き売ろうとした金貸しの男達と同じだった。
何より、露出した下半身から突き出している巨大な性器。
勃起し、先端から分泌液を滴らせているそのグロテスクな器官が、この猿の頭の中をこの上なく明解に表していた。
「エリー・・・・・!」
耐えきれずに、アンが殆ど啜り泣きながら、江里子にしがみついてきた。
無論、江里子とて平気ではいられなかった。
下衆な酔客や金貸しに、戯れや品定めでちょっと胸や尻を触られたりはしたが、まだこの身は清らかなのだ。キスすらも経験がない。
それを、人間ですらない獣に汚されるなんて、死にたくなる程おぞましい。
「ち、近寄らないで・・・・・・!」
この身を捧げるのは、心から愛する人、ただ一人にだけ。
ホリィの教えを心の支えに、江里子は足元に落ちているルービックキューブの破片を拾い上げた。
「あっち行って・・・・・!早くっ・・・・・!あっち行けっ・・・・!」
江里子も殆ど泣き声になりながら、破片を前に突き出した。
顎が震え、奥歯がガチガチと音を鳴らす。
腕も足も震えて、今にもへたり込んでしまいそうになる。
だがそれでも、持てる限りの精神力を振り絞って、江里子は猿に立ち向かった。
と、その時、不意に猿は硬直した。
同時に、チィン・・・・と細い音を立てて何かが床を転がった。金色の丸い物体、ボタンだ。
猿は剣呑な表情になり、後ろを振り返った。
後ろの壁に拘束されている、承太郎を。
「この船の何もかもがテメェのスタンドだと言いてぇようだがな。生憎とそのボタンは、テメェのスタンドじゃあねえぜ。」
承太郎が学ランの金ボタンを毟り取り、猿の後ろ頭に投げつけたらしかった。
床に落ちているそれを拾って、猿は怒りにプルプルと震えた。
「フン、怒るか?確信した勝利の誇りに傷がついたという訳か。
いや、傷はつかんな。エテ公に誇りなんぞねぇからなぁ!」
「ヌワァァァ!!」
承太郎の挑発的な物言いに猿は怒り狂い、承太郎に向かって飛び掛かって行った。
「承太郎さん!!」
「・・・そこんとこがやはりエテ公なんだな」
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
「傷付くのは、テメェの脳天だ!!」
気が付けば、猿は目と額から血を溢れさせ、床に転がって悲鳴を上げながら悶絶していた。
その側に転がっているのは、承太郎のボタン。
これをスタープラチナの力で、猿の脳天に撃ち込んだのだろう。
ともかく、猿が大ダメージを負った事でスタンドの力が著しく弱まったのか、承太郎を束縛していた配管がことごとく千切れて外れた。
「ギャヒーッ!!ギャヒーッ!!!」
「・・・・やれやれ。」
「ヒィーッ、ヒヒヒィィーッ!!」
猿は立ち上がってヨロヨロと後ずさり、壁に背をつけた。
そして、船長服の前を破って、承太郎に腹を見せた。
「恐怖した動物は、降伏の印として自分の腹を見せるそうだが、許してくれという事か?」
瀕死の猿は、コクコクと頷いて答えた。
本当に利口な猿だ。利口すぎる位に。
この猿を、『DIO』がどうやって仲間に引き入れたのかは分からないが、そうなるに至った原因は、高すぎるこの知能にあるのは確かな筈だった。
「しかしテメェは、既に動物としてのルールの領域をはみ出した。・・・駄目だね!」
賢いと言っても、あくまで猿としての範疇でなら、こんな所で死なずに済んだだろうに。
スタープラチナの攻撃を受け、扉ごと廊下へ吹き飛ばされていく猿を見ながら、江里子は少し、ほんの少しだけ、憐れみを感じたのだった。
戦闘が終わったその瞬間、再び、ドーン!!という爆音と大振動が起きた。
「きゃあっ!」
「うわぁっ!」
転びそうになった江里子とアンは、咄嗟に抱き合ってお互いを支えた。
「エリー!歪んでる、ゆ、歪んでいる・・・・!この船、グニャグニャになっているわ!」
「嘘でしょ・・・・・!?ど、どうなるのこれから・・・・!?」
「おい二人共!たまげるのは後にしな!この船はもう沈むぞ!脱出するぜ!乗ってきたボートでな!!」
怯える江里子達に、承太郎は鋭い声で言い放った。
かと思うと、不意に視線を明後日の方向に逸らし、咳払いをした。
「・・・分かったら、さっさと服着て来い。」
江里子もアンも、言われて初めて気が付いた。
いつの間にか身体を隠していたタオルを取り落とし、一糸纏わぬ姿を彼の眼前に晒していた事に。
「はっ・・・・・」
「あ・・・・・」
数秒の沈黙の後、江里子とアンの黄色い悲鳴が、船の断末魔の代わりに高らかに響き渡った。
グニャア、グニャア、シュゥゥゥ・・・・
船が歪み、縮んでいく様は、外側から見ていると『驚愕』の一言に尽きた。
あれだけ巨大だった貨物船が、まるで粘土細工のようにグニャグニャと潰れ、クレーンや煙突など、パーツが次々と消えていき、最終的には小さな木のボートになった。
「元はあんなボートが、あれだけの大きさの貨物船に化けていたなんて・・・・・」
「し、信じられないわ・・・・、船の形が変わっていく・・・・・。あんなにボロで、小っちゃな船に・・・・・」
江里子とアンは双眼鏡を交代で使いながら、消えゆく船を見守っていた。
「何という事だ・・・・!あの猿は、自分のスタンドで海を渡ってきたのか・・・・!?恐るべきパワー、初めて出遭うエネルギーだった・・・・・!」
「我々は完全に圧倒されていた・・・・。承太郎が気付かなければ、間違いなくやられていただろう。」
アヴドゥルやジョースターは、改めてあの猿の力を、その恐怖を、噛み締めているようだった。
ともかく、敵のスタンド使いをまた1人、いや1匹、倒したのだ。
皆、それぞれに命拾いした事を安堵していた。
承太郎が船室で闘っていた頃、デッキにいた彼等は彼等で、変幻自在の船に囚われ、殺されかけていたのだ。
スタンドごと身体をガッチリと固められ、床の中に引きずり込まれ、なす術もなく圧死させられる寸前だったところ、承太郎が猿を倒した事により、事なきを得たという話だった。
「まさか猿がスタンド使いだったとは。今回は先入観というものの危険性を、よくよく思い知らされたましたよ。
動物にスタンドなど使える筈はないと、動物が邪悪な心など持つ筈がないと、頭から思い込んでいた。今後は気をつけねばなりませんね。」
花京院は懐から櫛を取り出して、少し乱れてしまっていた髪を梳かし始めた。
一仕事終えた承太郎は、煙草に火を点けて美味そうに吹かし始めた。
「しかし、コイツ以上の我々の知らぬ強力なるスタンドと、これからも出遭うのか・・・・」
若い承太郎達はもうリラックスしている様子だったが、ジョースターはまだ少し恐れているようだった。
しかし、それも無理はなかった。
あの時、無線室で作業していた水夫達は、全員あの猿に殺されていた。
つまり、彼がチャーターした船の船体、そして乗組員共、全てが海の藻屑と消えたのだ。
それは断じて彼のせいではないのだが、ジョースターとしては、また無関係の人間を巻き込んでしまったと、悔やまずにはいられないのだろう。
そして、この先『DIO』に辿り着くまで、あとどれ程の犠牲を払う事になるのだろうかと、不安を覚えずにはいられないのだろう。
「ジョースターさん・・・・・」
共に闘える訳でもない自分が、彼にどんな言葉を掛けて励ましてやれるというのか。
何も思い付かず、江里子は只、その広い背中を見つめる事しか出来なかったのだが。
「ガム噛むかい?」
闘えるメンバーの一人・ポルナレフは、割と呑気そうにガムを噛みつつ、ジョースターにも勧めていた。
「これでまた漂流か・・・・。」
「やれやれ、モクがしけちまったぜ・・・・」
アヴドゥルも、承太郎も、何だか呑気な感じだった。
だがきっと、皆、犠牲になった人達の事を軽んじている訳ではないのだ。
悔やんでも悔やみきれないからこそ、だからこそ、敢えて前だけを、『DIO』を倒す事だけを、見据えているのだ。
「乾かす太陽と時間は十分あるぜ、ジョジョ。」
「無事救助されてシンガポールに着けるよう、祈るしかないな。」
ポルナレフが茶化した口調で言ってのけると、ジョースターは肩を竦めてみせた。
何せ今の状況は、昨日の漂流よりもなお悪いのだ。
昨日のクルーザーは本物の船だったので救助信号を打つ事が出来たが、あの幽霊船の無線は結局使えず終いで、今日は文字通り、着のみ着のままの『漂流』なのだ。
「日本を出て4日か・・・・」
花京院がそう呟いて、深い溜息を吐いた。
日本を出発直後、香港沖で飛行機墜落。
香港から海路を行くも、程なくフィリピン沖でクルーザー沈没。
そこから幽霊船と遭遇し、戦闘の後、消滅。
脱出直前に確認した現在地は、ベトナム沖。
香港から考えてやっと半分程来たというところで、シンガポールはまだ遠い。
そして、ホリィの命のタイムリミットまで、あと46日。
「・・・・・ハァ・・・・・」
目まぐるしかったこの4日間と、まだまだ長いこの先の道のりを考えると、江里子も思わず溜息が出た。
すると、花京院が江里子を見て苦笑を洩らした。江里子もそれに苦笑で応えた。
「そういえば、すごくつまらない話ですけど、聞いてくれますか?」
「何ですか?」
「さっきの猿、ルービックキューブを完成させたんです。それもあっという間に。
私も一時期、奥様と一緒に熱中したんですが、二人でどれだけ頑張っても一度も完成させられなかったのに、あのおサルはいとも簡単に。ショックでした。」
「あっははは。まあ、そう気を落とさずに。あれはちょっとしたコツが要るんですよ。良かったら、今度教えて差し上げましょうか?」
「本当ですか!是非お願いします!」
江里子が顔を輝かせると、シケモクを吸う事を諦めたらしい承太郎が、馬鹿にするように皮肉な笑みを江里子に向けた。
「フッ、テメェらの猿以下の脳ミソで理解出来れば良いんだがな。」
「ムッ・・カつく・・・・!承太郎さんっていっつも私の事バカにしますよね!何なんですか!?一度勝負しますか!?」
「フン、上等だよ。かかってこい。」
「おおーっ、いいぞーっ!やれやれーっ!」
「儂ぁエリーを応援するぞーっ!エリー、いっちょ承太郎の奴をコテンパンに打ち負かして、根性を叩き直してやってくれ!母親に対する態度を改めるようにな!」
「お任せ下さいジョースターさん!という事で承太郎さん、日本史の年号勝負なんかどうですか!?」
「おお、それは私も是非見たいな!」
「ねぇ、ニホンシって何?」
「日本の歴史の事だ。とても興味深いぞ。」
「うげっ、歴史!?何が面白いの!?」
「フフッ、じゃあ僕が問題を出しましょう。では第1問。鎌倉幕府滅亡の年は?」
「め、滅亡ですか!?開幕じゃなくて!?」
「滅亡です。」
「分かるか、んなマニアックな年号。」
誰からともなく笑い始めて。
やがて、暗い暗い夜の海いっぱいに、楽しげな笑い声が広がった。