鮮やかなコバルトブルーに煌めく南シナ海を、船が白波を蹴立てて進んでいく。
ついこの間までオーバーコートを着込んで歩いていたのが嘘のような、眩しく爽やかな風景だ。
それを今、江里子はデッキから眺めていた。
昨日は船酔いと酷い生理痛で一日中船室のベッドでダウンしていたが、今日の昼を回る頃には峠を越えてきたので、船室に閉じ籠らず、思い切って外に出てみたのである。
結果、それは大正解だった。
初めの内は多少無理をしていたが、騙し騙し誰かと他愛もない会話をしたり、遠くの水平線を眺めたりしている内に、胸や下腹のむかつきがだんだんと軽減してきたのだ。
そして、間もなく夕方になろうとしている今、体調はまずまずと言える状態にまで回復していた。
「香港からシンガポールまで、丸3日は海上だなぁ・・・・・。ま、ゆっくりと英気を養おう。
しかしお前らなぁ、その学生服は何とかならんのかぁ!?」
妙に可愛らしい赤白ボーダーの半袖Tシャツの袖を肩まで捲り上げた姿のジョースターが、詰襟の学生服姿の承太郎と花京院に向かって、思いっきり呆れ返った声を上げた。
「その格好で旅を続けるのかぁ!?クソ暑くないのぉ!?」
「僕らは学生でして。学生は学生らしくですよ、という理由はこじ付けか。」
「フン」
爽やかな海風のお陰でさほど不快ではないが、フィリピン沖に差し掛かっている今、香港を出て来た時よりも気温は上がっていた。
だが、花京院も承太郎も、涼しい顔をしてデッキチェアに横たわり、本を読んだり、昼寝をしたりしている。
そんな二人を見て、ジョースターは全く理解出来ないという顔をした。
「フン!日本の学生はお堅いのう!」
「なるほど。これが武士道・・・・・!心頭滅却すれば火もまた涼し。」
「けどお前ら、そんなに堅いとモテないぞぉ!?」
アヴドゥルは感心し、ポルナレフは呆れていた。
その時だった。
「放せ!放しやがれ!」
唐突に、子供の声が聞こえてきた。
何事かと声のした方を見ると、オーバーオールを着てハンチング帽を被った少年が、船員の一人に押さえ込まれてもがいていた。
「このボンクラがぁ!チキショー、放せ!!」
「静かにしやがれ!!ふてぇガキだ!!」
「おーい、どうしたぁ!?儂らの他に乗客は乗せない約束だぞ!!」
ジョースターが船員に声を掛けると、船員は決まり悪そうな顔を向けた。
「すみません、密航です!このガキ、下の船倉に隠れてやがったんです!」
「密航!?」
ジョースターは思いきり怪訝な顔になった。
そうなるのも無理はない。密航者にしては、その少年はあまりにも幼かった。
「来るなら来い!タマキン蹴り潰してやるぞ!!」
息巻く少年の声は女の子のように高く、まだ声変わりしていないのが明らかで、威勢良く口汚く言えば言う程、却って幼く聞こえた。
江里子でさえそう思う位なのだ、見るからに屈強そうな船乗りが怯む訳もなかった。
「フン!海上警察に突き出してやる!!」
「えっ!?警察!?」
警察と聞いて、少年の顔色が変わった。
そして今度は打って変わって低姿勢になり、猫撫で声を出し始めた。
「おっ、お願いだ、見逃してくれよぉ!シンガポールにいる父ちゃんに会いに行くだけなんだ!何でもするよ、こき使ってくれよぉ!」
「どぉしよ〜かなぁ?見逃してやろうかなぁ?」
そんな少年を弄ぶかのように、船員は彼の子供らしい丸い頬をおもむろにつねった。
「ど〜しよっかな?」
左頬と右耳をつねって引っ張られ、少年は痛そうに顔を歪めた。
「お、お願いだよぉ・・・・!」
それでも少年は、懇願し続けた。傍で見ている方が気の毒になるぐらい必死に。
その憐れな様子は、江里子に昔の自分を思い出させた。
流石に密航の経験は無いが、大人に何かを懇願した事なら何度もある。
金の支払いをもう少し待って欲しい。
廃棄されるだけの賞味期限切れの食べ物を譲って欲しい。
蔑むように冷たい目をした大人相手に、そんな惨めな懇願を、何度となく。
「あ、どーしよっかなぁ?」
船員は、とどめとばかりに少年の鼻っ面を指でピンッと弾くと、とてつもなく底意地の悪い表情になった。
「やっぱり駄目だね!!やーだよ!」
「あっ・・・・・!」
呆れる位、子供じみた意地悪だった。
しかし、だからこそ子供にはてきめんに効いたのだろう。少年はとうとう涙ぐんでしまった。
悲しそうなその顔を見た瞬間、江里子は思わずカッとなった。
「ちょっとあなた!幾ら何でも酷すぎるんじゃあないですか!?」
江里子はツカツカと船員に歩み寄ると、真っ黒に日焼けしたその顔を睨み上げて捲し立てた。
「こんな子供相手に大人げない!罰するにしたって、やり方ってものがあるでしょう!今のあなたのやり方は只の虐めじゃない!」
「な、何だよアンタ・・・・・!」
船員は、江里子の剣幕に多少怯んだ。
それ以上言い返さないのは江里子が客だから、それも、特別料金を上乗せしたチャーター料を払って船を1隻丸ごと貸し切った、太っ腹な上客の連れだからだ。
「その子を放して!そんなに乱暴に腕を掴まないで!頬をつねらないで!
幾ら密航者だからって、大の大人が子供に乱暴して良い訳ないでしょ!」
身内でもないのに、ジョースターの財力や権力をかさに着るような事をするのは気が引けるが、いたいけな子供を保護する為ならば許して貰える気がして、江里子はいつになく強気に迫った。
「そ、そうはいかねぇんですよ!子供だろうが何だろうが、密航者は密航者なんでね!」
船員は江里子に言い返しはしたものの、必要以上に少年を押さえつけていた腕は幾らか緩めた。
「とりあえず、キャプテンに報告するからついて・・」
だが、拘束が緩んだその瞬間、唖然とする出来事が起きた。
少年が船員の腕に、思いきり噛み付いたのだ。
「うぎゃああああっ!!!」
痛みに叫ぶ船員から完全に逃れた少年は、そのまま躊躇いなく海に飛び込んだ。
「オッホホ、飛び込んだぞ!元気良いーっ!!」
ザプザプと波をかき分けて泳ぎ始めた少年を眺めて、ポルナレフは感心したように能天気な声を上げた。
「ここから陸まで泳ぐ気なのか?」
「どうする?」
「ケッ・・・・、ほっときな。泳ぎに自信があるから飛び込んだんだろうよ。」
花京院もジョースターもあまり心配そうにはしておらず、承太郎に至っては、関心ゼロという感じで昼寝を決め込もうとしていた。
「で、でも、本当に大丈夫なんですか・・・・?」
確かに、向こうの方に小さな島らしき陸地が見えている。
しかし、だからと言って、泳いで辿り着けるものではない。
幾ら泳ぎが達者だとしても、人の泳げる距離などたかが知れている。
男連中はドライに捉えているが、江里子にはあの少年が無事に岸まで泳ぎ着けるとは思えなかった。
だが状況は、江里子の読み以上に悪かった。
「ま、マズいッスよ、この辺はサメが集まっている海域なんだ!」
船員が焦り顔で叫んだ瞬間、それは姿を見せた。
『うぉっ!?』
ジョースターとポルナレフも、それに気付いたようだった。
そう。
海中に黒く大きく広がる、サメの影に。
それは一瞬揺らめいた後、少年を目指して泳ぎ出した。
「うおおっ!!」
「これはマズい!!」
ジョースターと花京院は、顔色を変えた。
「おい小僧!戻れ!戻るんだーっ!危険だーっ!」
「サメだぞーっ!サメがいるぞーっ!」
「戻ってーっ!戻りなさーいっ!」
ジョースターやポルナレフと一緒になって、江里子も声の限りに少年に呼びかけた。
しかし少年は振り向かず、サメは益々スピードアップしていき、少年との距離をぐんぐん詰めていく。
あと5メートル、あと3メートル、そして、もうすぐ後ろにまで。
「う・・・・、うわぁぁぁーーーっ!!!」
少年が気付いて振り返った時には、もう遅かった。
『エサ』を捕食するべく海面すれすれにまで浮上してきたサメは、その大きな口を開け、鋭利な歯を剥き出しにして少年に襲い掛かった。
その瞬間。
「オラオラオラオラアッ!!」
サメの巨体が突然、空中へと跳ね上がった。
そしてその場で何度も、妙な具合にバウンドした。
まるで、何かにボコボコに殴られているかのように。
「あ・・・・・」
やがてサメは、腹を上にして海上にプカァ・・・と浮かび、ピクリともしなくなった。
「じょ、承太郎さん!」
気が付けば、昼寝を決め込んでいた筈の承太郎が、いつの間にか海の中にいた。
サメを退治したのは、どうやらスタープラチナのようだった。
承太郎は少年の所まで泳いで行くと、少年の胸倉を掴んだ。
「・・・・フン。やれやれだぜ、クソガキ。・・・・ん?」
そのまま少年を船に連れ帰って来るのだろうと思いきや、承太郎は一瞬ふと硬直した後、少年の胸を掌でグリグリと触った。
「テメェ・・・・・」
そして、少年の帽子を弾き飛ばすように取った。
その途端、帽子から零れ落ちてきたのは、豊かな長い黒髪だった。
広がって水面に揺らめくそれは、およそ少年のものではなく。
「女か。それも、まだションベンくせぇ。」
そう。
少年は、少年ではなく少女だった。
その事実に、江里子は声も出ない程驚いた。
「よ、よくもオレの胸をじっくり弄りやがったな・・・・!チクショオッ!!」
少女はカッとなった様子で、承太郎に殴りかかった。
しかし、少女の小さな拳で承太郎が殴れる訳もなく、敢えなくガードされて終わってしまった。
「・・・やれやれだ。」
女と見ればすぐに苦い顔をし、鬱陶しい事をされれば容赦なく怒鳴る承太郎も、流石にこんな子供相手に怒鳴る気はしないのか、それ以上は何もしなかった。
「はっ・・・、放せ!放せよ!」
そして、相も変わらず無駄に暴れる少女の腕を無理矢理引っ張って、船へと引き返してきた。
これにて一件落着、の筈だった。
だが、このサメ騒動はほんの序章、新たな闘いのプロローグにすぎなかった。
それと気付いたのは、突如、サメの死体が真っ二つになり、海面が血で赤く染まった瞬間だった。
「ふおっ!?」
「!?」
その異変に、船上のジョースター達も、そして海中の承太郎も、すぐに気付いた。
「じょ、承太郎!!下だ!海面下から何かが襲ってくるぞ!!サメではない、凄いスピードだ!!」
ジョースターは焦りも露に、承太郎に呼び掛けた。
だが、当の承太郎は落ち着き払った様子で、少女を抱えて泳いでいる。
いや、きっと余裕などはないのだろう。そのポーカーフェイス故にそう見えるだけで。
小柄な少女とはいえ、人一人抱えているのに驚くべき速さで泳いで来る承太郎に、自分は一体何が出来るのか。
江里子は必死で考えた。
その時、壁に吊られてある大きな浮き輪がふと目に入った。
「ジョ、ジョースターさん!これっ!!」
江里子は咄嗟にそれをひったくると、大慌てでジョースターに差し出した。
「おおっ!でかしたエリーッ!」
ジョースターはそれを海面に放り投げた。
「承太郎、早く!!早く船まで泳げ!!」
承太郎も、浮き輪が目に入ったようだった。明らかにそれを目掛けて泳いでいる。
だが、辿り着くにはまだ少し距離があり、追手のスピードは余りにも速すぎた。
「遠すぎる!!」
アヴドゥルは絶望の声を上げた。彼にはどうする事も出来ないようだった。
彼だけではなく、ジョースターにも、ポルナレフにも。
「あの距離なら僕に任せろ!!ハイエロファントグリーン!!」
だが一人だけ、この窮地を切り抜けられる能力を持つ者がいた。
承太郎と少女は、花京院のスタンドで空中まで持ち上げられ、そのまま一気に甲板に着地した。
その瞬間、海面の浮き輪は木端微塵に砕け散った。
危機一髪、承太郎と少女は助かったのだ。江里子は思わず安堵の溜息を吐いた。
しかし男達は皆、些かも気を緩めてはいなかった。
「ぬうう・・・!」
「き、消えたぞ!!スタンドだ、今のはスタンドだ!!」
「海底のスタンド・・・・・、このアヴドゥル、噂すら聞いた事のないスタンドだ・・・・」
アヴドゥルとポルナレフは、警戒心を剥き出した厳しい視線を、ゆっくりとある方向へ向けた。
他の者達も皆、すぐにそれに倣い、同じ方向へ目を向けた。
「はぁ、はぁ、はぁ・・・・・」
その疑いの眼差しを、まだ呼吸も整っていない少女の方へと。
「あぁ!?な、何だテメェら!よってたかって睨み付けやがって!」
その視線に気付いた少女は、ポケットから飛び出しナイフを取り出し、刃を出してチラつかせ始めた。
「何が何だか分からねぇが、や、やる気か!?このアン様をナメんな、相手になってやる!タイマンだぜ、タイマンで来い!このビチグソが!!」
この少女の場合、やたらに粋がっているのが、却って裏目に出ていた。
言えば言う程、それは怯えの裏返しなのだと強調しているようなものだった。
「とぼけてやがるぞ・・・・!もういっぺん海に突き落とすか・・・・!?」
ポルナレフが、江里子達にしか聞こえない程度の小声で呟いた。
彼はどうやら、少女を完全に黒だと思っているようだった。
「そんな・・・・・・!」
精々12か13か、そんな程度の子供を、サメがウヨウヨしていると分かっている海に突き落すなんて、幾ら何でもあまりに乱暴だと江里子は思った。
「早まるな。本当に只の密航者なら、サメに食われるだけだ。」
花京院がすかさず、江里子の考えを代弁するように言った。
同意を示すつもりで、江里子は何度も頷いた。
「しかしこの船の10名の船員の身元は全てチェック済み、この少女以外に考えられん・・・・!何か正体を掴む方法はないものか・・・・・」
だが一方で、ジョースターの言う事もまた正論だった。
今、この場にいる者達の中で身元の知れないのは、アンという名前らしいこの少女だけ。それは揺るぎない事実なのだから。
「うぅむ・・・・・・」
しきりと挑発したり、ナイフを右手・左手と交互に持ち変えたりして威嚇のポーズを取り続けているアンを注意深く観察しながら、アヴドゥルはその方法を考えているようだった。
かと思うと、不意に少女に向かって口を開いた。
「おい!DIOの野郎は元気か?」
「DIO!?何だそれは!?」
「とぼけるんじゃあねぇこのガキ!!」
ポルナレフがとうとうしびれを切らしたのか、アンに怒鳴り付けた。
しかしアンは、負けじと怒鳴り返してきた。
「このチンピラ共!オレと話がしてぇのか、それとも刺されてぇのか、どっちだ!?あぁ!?この妖刀が早ぇとこ340人目の血を啜りてぇって慟哭しているぜぇ!」
一瞬の沈黙の後、花京院が小さく吹き出した。
「うっ・・・・!な、何がおかしい、このドサンピン!!」
「ドサンピン・・・・・。何か、この女の子は違うような気がしますが・・・・」
苦笑する花京院の表情からは、先程までの警戒心はほぼ消えていた。
江里子も、彼の言う通りだと思った。
「ううむ・・・・、しかし・・・・」
ジョースターも、花京院の見立てにほぼ同意しているような感じだった。
しかし、ならばさっきのスタンドは誰のものなのか。その答えが謎に包まれてしまう事になる。
それは決して無視出来ない問題だった。
その時。
「この女の子かね?密航者というのは。」
突然、不穏な声がした。
「はっ・・・・・!?うわぁぁっ!!」
アンが大きな声を出した。
その声の主に捕まえられたのだ。
「キャプテン・・・・」
声の主を見たジョースターは、彼をキャプテンと呼んだ。
そう、その人はこの船の船長だった。
「私は、密航者には厳しいタチだ。」
船長はアンの細い腕をいとも容易く捻り上げた。
「いてててて!」
「女の子とはいえナメられると、限度なく密航者がやって来る。」
船長は丸太のような太い腕でアンのか細い身体を締め上げ、手首をギリギリと握り締めた。その痛みに耐えきれず、アンはすぐさまナイフを取り落とした。
「港に着くまで、下の船室に軟禁させて貰うよ。」
「ああああっ!!!」
そのまま手首を掴まれ吊り上げられて、アンはまた悲鳴を上げた。
さっき船員に虐められた時よりも、更に痛そうに。
しかし江里子は、さっきのように抗議する事が出来なかった。
アンがナイフをチラつかせていたからだ。
たとえ抗議したとしても、刃物を振り回していた密航者を優しくもてなせとでも言う気かと反論されれば、返す言葉がない。
江里子にはただ、事の成り行きをハラハラと見守る事しか出来なかった。
「キャプテン、お聞きしたいのですが、船員10名の身元は確かなものでしょうな?」
ジョースターが、船長に尋ねた。
「間違いありませんよ。全員が10年以上この船に乗っているベテランばかりです。どうしてそんなに神経質に拘るのか分かりませんけれども。」
船長はアンを船員に預けつつ、ジョースターに対してはっきりと断言、即答した。
一点の疑わしさも感じさせず、むしろ、そんな念押しをするジョースターの方が少し変なんじゃないかと言わんばかりに。
「ところで!!」
そして船長はおもむろに、承太郎の吸っていた煙草を奪い取った。
「甲板での喫煙はご遠慮願おう。
君はこの灰や吸い殻をどうする気だったんだね?この美しい海に捨てるつもりだったのかね?
君はお客だが、この船のルールには従って貰うよ。無法者クン。」
船長はそう言って、承太郎の帽子のバックルで煙草を揉み消した。
その行為に、江里子は勿論、誰もが唖然として声も出せなかった。
彼の言う事は正論である。
だが、承太郎は仮にも客だ。それも、規定以上の料金を払っている上客である。
言わんとする事は正義でも、そのやり方は些か挑発的で、度が過ぎていた。
そう思うのは、世界でも一流のサービス精神を誇る日本で生まれ育った為だろうか。
「分かったね?」
船長は承太郎の学ランのポケットに吸い殻を放り込んで、踵を返して去っていこうとした。
「・・・待ちな!!」
それを呼び止めたのは、承太郎だった。
「口で言うだけで素直に消すんだ。大物ぶって格好つけてんじゃあねえ、このタコ!!」
「あぁ?」
船長も船長だったが、承太郎の言い方もまた、明らかに喧嘩を売っていた。
一触即発の空気に、江里子は焦らずにはいられなかった。
「ちょっ・・・・、承太郎さん・・・・・!そんな言い方・・・・!」
「おい承太郎!船長に対して無礼はやめろ!お前が悪い!」
江里子とジョースターは、承太郎を窘めにかかった。
だが。
「フン。承知の上の無礼だぜ!こいつは船長じゃあねえ。今分かった。スタンド使いはコイツだ!」
「なっ!?」
「何ぃっ!?」
承太郎のその発言に、ジョースターが、皆が、驚愕した。
「スタ・・・、ンド?何だね、それは?一体・・・・」
船長だけが、訳の分かっていない様子で首を傾げていた。
「それは考えられんぞ、承太郎!このテニール船長は、スピードワゴン財団の紹介を通じ、身元は確かだ!信頼すべき人物!スタンド使いの可能性はゼロだ!」
アヴドゥルがいち早く、そう断言した。
しかし承太郎は、軽く鼻を鳴らしてそれをあしらった。
まるでその『信頼』の根源を、そもそも信じていないかのように。
「ちょっと待ってくれ。スタンド?一体何を言ってるのか分からんが。」
「ジョジョ!いい加減な推測は惑わすだけだぞ!」
「証拠はあるのか!ジョジョ!」
ポルナレフも、花京院も、承太郎を咎めるかのような口調になった。
それ程に、一行のスピードワゴン財団への信頼は篤かったのだ。
だがそれも、ここに至るまでの事を考えれば当然の事である。
そしてそれは、承太郎にとっても同じ筈なのだ。
DIOと闘うのはあくまで承太郎達だが、闘いに専念出来るのはスピードワゴン財団のバックアップのお陰。
財団の力なくして、この旅は、この闘いは成し得ない。そんな事は、承太郎自身が百も承知している筈なのだ。
それを疑うからには、何かそれなりの根拠があっての事なのだろうか、それとも。
江里子は固唾を呑んで、事の成り行きを見守っていた。
やがて承太郎が、静かに口を開いた。
「スタンド使いに共通する見分け方を発見した。」
「何ぃ!?」
ジョースターが驚愕の声を上げた。
「それは、スタンド使いは煙草の煙を少しでも吸うとだな、鼻の頭に血管が浮き出る!」
『えぇっ!?』
男達は全員、自分の鼻に手をやった。
そしてポルナレフが、ショックを受けたように叫んだ。
「嘘だろ承太郎!?」
「ああ、嘘だぜ。」
承太郎はそれを、即座に、あっさりと肯定した。
「だが・・・・、マヌケは見つかったようだな。」
そう。
自分の鼻を気にしなかったのは、江里子とアンの女二人。
男達は全員、自分の鼻を気にしたのだ。
ポルナレフ、ジョースター、アヴドゥル、花京院、そして。
「おおっ・・・・!?」
船長も。
「・・・・へっへっへ。」
もはや言い逃れは出来ないと思ったのか、船長の態度がガラリと変わった。
彼を油断のない目で見据えながら、ジョースターは承太郎に尋ねた。
「承太郎、何故コイツが怪しいと分かった?」
「いや、全然思わなかったぜ。」
「え?」
「だが、船員全員にこの手を試すつもりでいただけの事、だぜ。」
承太郎の答えを聞いて、船長は不敵な笑みを浮かべた。
「シブいねぇ。全くおたくシブいぜ。
確かに俺は船長じゃあねえ。本物の船長は既に香港の海底で寝ぼけているぜ。」
「それじゃあテメェは、地獄の底で寝ぼけな!!」
承太郎が闘争心を露にすると、船長、いや、偽船長テニールはまた不敵にほくそ笑んだ。
「うわあぁぁっ!!」
突然、アンが叫び声を上げた。
『しまったぁ!!』
その瞬間、男達は焦りを露にした。
「うう、動けない・・・・!」
アンは、空中に吊り上げられていた。テニールのスタンドに捕まってしまったのだ。
「俺のスタンドは、水のトラブル、嘘と裏切り、未知の世界への恐怖を暗示する『月』のカードを持つ。
その名は・・・・、【暗青の月−ダーク・ブルー・ムーン−】!」
テニールは遂に、その正体を現した。
「テメェらと5対1じゃあ、流石の俺も骨が折れるから、正体を隠し、一人一人順番に始末してやろうと思ったが・・・・・、バレちまってはしょうがねぇなあ!5対1でやらざるを得まい!
この小娘が手に入ったのは、俺に運が向いている証拠。
今からコイツと一緒に、サメの海に飛び込むぞ。当然テメェらは、海中に追って来ざるを得まい!俺のホームグラウンド・水中なら、5対1でも相手出来るぜ。フッフッフッフッフ。」
その能力でいたいけな少女をがんじがらめに捕らえて、テニールは闘う前から勝利を確信してでもいるかのような余裕を見せていた。
「人質なんか取ってナメんじゃあねえぞ。この空条承太郎がビビり上がると思うなよ。」
「ナメる!?これは予言だよ。
特にアンタのスタンド・スタープラチナ、素早い動きをするんだってなぁ。
自慢じゃあないが、俺のダークブルームーンも、水中じゃ素早いぜ。どんな魚よりも華麗に舞い、泳げる。ヘッヘッヘッヘッへ。」
テニールは笑い声を上げると、意外な程身軽な動作で手すりの上に立った。
「ひとつ、比べっこしてみないか?ついて来な、海水たらふく飲んで死ぬ勇気があるんならな!」
テニールは、海に背を向けたままの姿勢で、仰向けに海へ飛び込んで行った。
「うわぁぁぁぁーーッッ!!!」
無関係なアンを道連れに。
「うおおおっ!!」
絶叫しながら、なす術もなく落ちていくアンに向かって、承太郎はスタンドを発動させた。
「オラオラオラオラ!!」
テニールは見る見る内に傷付き、ボロボロになりながら、海へと落ちていった。
アンだけが、腕を掴まれた格好で空中に浮かんでいた。
「ら、落下するより早く、攻撃してくるなんて、そんな・・・・」
力なく波間に漂いながら、テニールは承太郎を見上げてきた。
その視線を受けて睨み返しながら、承太郎は船の上からクールに言い放った。
「海水をたらふく飲むのは、テメェ一人だ。アヴドゥル、何か言ってやれ。」
承太郎がテニールに向かって親指を下に向けると、アヴドゥルが口を開いた。
「占い師の私を差し置いて予言するなど・・・」
「10年早いぜ!」
ついこの間自分も言われたその台詞をポルナレフが決め、勝利の笑みを満面に浮かべた。この青い海と空のように、スッキリと爽快な、勝利の瞬間だった。
完全に力尽きたテニールは、波に攫われてそのまま遠ざかり始めた。
だんだん小さくなっていくその姿を呆れ顔で眺めながら、ポルナレフは言った。
「流されていくぞ。スタンドの能力自慢を散々していた割にゃあ、大ボケかました奴だったな!」
その時、江里子は、承太郎の様子がおかしい事に気付いた。
承太郎はまだ、アンを助けようとした時のまま、甲板の手すりから身を乗り出したままだった。
「承太郎、どうした!?さっさと女の子を引っ張り上げてやらんかい!」
「ううっ・・・・・くっ・・・・・・・」
「どうした承太郎!?」
初めは呆れ顔をしていたジョースターも、瞬時に顔色を変えた。
そう、承太郎はふざけている訳でも、スタミナ切れでもなく、必死の形相で何かに耐えていたのだ。
「ち、ちくしょう、引き摺り込まれる・・・・・!」
承太郎が苦しげな声で呟いた途端、彼の手のあちこちから血が噴き出した。
「きゃああっ!」
「う、うわあぁっ・・・・・!」
「こ、これは・・・・!」
江里子は突然噴き出したその血に驚いて悲鳴を上げたが、
ポルナレフやアヴドゥルには、『それ以外のもの』が見えているようだった。
「フジツボだ!あの甲殻海生動物のフジツボ虫だ!」
「スタープラチナの腕から船腹に繋がってビッシリと!!」
いや、ポルナレフとアヴドゥルだけではない。花京院とジョースターにも見えていた。
江里子には見えず、スタンド使いの彼等だけに見えるという事は、それは即ち普通のフジツボではない。
つまりこれはスタンド、敵のスタンド攻撃なのだ。
「エリー、下がってろ!」
アヴドゥルが、素早く江里子を背後に庇った。
そして、ジョースターや花京院と共に承太郎にしがみ付き、海に引き摺り込まれようとしている彼を必死に引っ張り始めた。
「承太郎さん、しっかり・・・・・・!」
こうなると、江里子に出来る事はもはや何もない。
何の役にも立たないと分かっていながら、声を掛けて励ます位しか。
だがそれは、やはり余計に己の役立たずっぷりを自覚する事にしかならなかった。
「奴はまだ闘う気だ!さっき殴った時くっつきやがった!どんどん増えやがる!!俺のスタンドから、力が抜けていく・・・・・!」
承太郎は、どんどん限界に近付いていっているようだった。
「い、いつの間にかいない、船長が・・・・!どこにも・・・・!承太郎!スタンドを引っ込めろ!」
波間を確認したジョースターが、これはテニールの仕業だと確信したようだった。
だが、それと分かったところで、どうやらもう手遅れだった。
「それが出来ねぇから!ぬぅぅ・・・・!かきたくもねぇ汗をかいているんだぜ・・・・!ああっ・・・・!」
承太郎はとうとう手すりを乗り越えて、真っ逆さまに海へと落ちていった。
「承太郎!」
「ジョジョ!」
「ジョジョ!」
海へと落ちていく承太郎に向かって、花京院が手を伸ばした。
その刹那、承太郎はスタープラチナが掴んでいたアンの身体を、船上めがけて放り上げた。
「おわっ・・・・!」
放り上げられたアンは、また空中で止まった。
花京院のハイエロファントグリーンが、見事キャッチしたのだ。
その直後、江里子は承太郎が勢い良く海に沈む音を聞いた。
「し、しまった!」
「マズい!!」
ジョースターと花京院が、焦った顔をした。
「承太郎さん!!」
江里子も堪らず、手すりの側へと駆け寄った。
この辺りはサメの集まる海域、それだけでも危険極まりないのに、敵のスタンド、ダークブルームーンが待ち受けている海へと、一人落ちたのだ。
こんな事を思ってはいけないのだろうが、とても大丈夫だとは思えなかった。
それから何秒、何十秒、皆でやけに波打つ海面を見守っていただろうか。
きっと束の間だろうが、とてつもなく長く感じられた。
「お、遅い・・・・!浮かんで来ないぞ!」
痺れを切らしたように、ジョースターが叫んだ。
「渦だ!巨大な渦が出来ているんだ!」
「どこだジョジョの奴は!?」
アヴドゥルの言う通り、海面にはいつの間にか激しい潮流が渦巻いていた。
ポルナレフはその渦の中に承太郎の姿を見つけようとしているみたいだったが、渦が激しく、見つけられないようだった。
「助けに行くぞ!!」
花京院の声で、男達は一斉にスタンドを発動させた。
勿論、それは江里子の目には見えない。
だが、空気で、己の肌で、何となくそう感じた。
「くっ・・・・・!」
しかしその途端、承太郎のように、花京院もその手から血を噴き出させた。
「花京院さん!!」
「大丈夫です、江里子さん!落ち着いて!」
花京院は、動揺しかけた江里子を制した。
そして、怪我をした自分の手を見て言った。
「こっ、これは鱗だ・・・!や、奴のスタンドのカッターのような鱗・・・・!」
「鱗!?フジツボではないんですか!?」
いや違う、と、アヴドゥルが言った。
「渦の中に無数の鱗が舞っている!奴が5対1でも勝てると言ったのはハッタリではない!
これは水の蟻地獄だ!!飛び込めば、全員皆殺しにされる可能性大だ!!」
「そんな・・・・・・・!」
花京院も、ポルナレフも、アヴドゥルも、ジョースターも、誰も助けに行けない。
スタンド使いの彼等が、ことごとく手が出せないのに、何の力も持たない江里子に何が出来るだろうか。
「そんな・・・・・、承太郎さん・・・・・・」
こんな所で、承太郎を失ってしまうのだろうか。
まだ旅は始まったばかりだというのに。
江里子は固く拳を握りしめ、暗青色の渦潮を祈るような思いで見つめた。
「く、くそ・・・・・!迂闊に手が出せん・・・・!」
調子に乗ったように激しく渦巻く潮流を睨み付けながら、アヴドゥルが忌々しげに呟いたその瞬間。
「あっ!ジョジョだ!」
花京院が突然、大きな声を上げた。
「渦の中にジョジョが見えたぞ!!」
「えっ!?どこですか!?」
「ほら、あそこです!」
「えっ・・・・!?あっ・・・・・・・!」
花京院の指が指し示す方向をじっと見ていると、確かに、渦の波間に黒いものがチラリと見えた。
あれは帽子を被った承太郎の頭だ。
波に沈んでは浮き、沈んでは浮きを繰り返しながら、力なく流されるままになっている承太郎に向かって、江里子は大きな声で呼び掛けた。
「承太郎さん!!しっかりして!!承太郎さん!!」
「いかん!グッタリしていたぞ!!」
ポルナレフの目にも、承太郎はダウンしているように見えるようだった。
だが。
「グッタリ?」
一人だけ、その事にうろたえなかった人がいた。
「全然もがいてなかったのか?ううむ・・・・、そりゃひょっとしたらナイスかもしれんなあ・・・・」
それは、ジョースターだった。
『えっ!?』
今の状況を悲観しないばかりか、むしろ喜ばしい事のように言う彼に、その場の誰もが驚かずにはいられなかった。
「それはどういう事です、ジョースターさん!?」
「うむ、まあ・・・・・、信じて待っていてやろうじゃあないか。アイツはきっと、やる筈じゃ。」
説明を求めたアヴドゥルを宥めてから、ジョースターは固く唇を引き結び、黙り込んでしまった。
強い意志の宿るその横顔を見ていると、それ以上話し掛ける事は躊躇われた。
アヴドゥルも、皆も、同じだったのだろう。それっきり誰も、何も喋らなかった。ただ皆で、黙って海面を見守り続けた。
ややあって、あれ程激しかった渦が急に治まり、元のように穏やかに凪ぎ始めた。
「ぶはあっ!!」
そして、オレンジ色の夕陽にきらめく水面に、承太郎が無事に顔を出した。
「おおっ!!」
「ジョジョ!!」
「やはり儂の孫よ!!」
アヴドゥルが、花京院が歓声を上げ、ジョースターが誇らしげに胸を張った。
「やったぜ、エリー!」
「はい!」
江里子は隣にいたポルナレフと、手を取り合って喜んだ。
「よくやった承太郎!!早く上がって・・・」
ジョースターは承太郎に向かって、改めて浮き輪を投げようとした。
その瞬間、突然、爆発音が鳴り響いた。
「おおっ・・・・!?」
「きゃあっ!」
爆発音と共に、デッキが瞬く間に炎に包まれ始めた。
「や、やはりあの船長、爆薬を仕掛けてやがった!ちきしょう!」
爆発の轟音が轟く中、ポルナレフが忌々しげに叫んだ。
「皆!早くボートを出せ!」
「近くの船に救助信号を出すんじゃあ!」
アヴドゥルとジョースターが、残った船員達にテキパキと指示を出し始めた。
「あ・・・・・、あ・・・・・・・!」
「あぁっ・・・・・・・・!」
しかし江里子と、そしてアンは、この爆発のショックで完全に腰が抜けてしまっていた。
「エリー!」
「っ・・・・・・・・!」
気付けば、江里子はポルナレフに抱き上げられていた。
「ポ、ポルナレフ、さん・・・・・・」
男の人に、まるでお姫様のように抱き上げられた事なんてこれが初めてだったが、それに気付かない程、江里子は恐怖に囚われていた。
つい先日の飛行機墜落事故と同じ種類の恐怖だった。
「大丈夫だ、エリー!心配すんな!」
頬と頬が触れ合いそうな程すぐ近くで、ポルナレフが笑っている。
とてもあっけらかんと、何の不安も感じていなさそうに。
その頼もしい笑顔は、江里子に大きな安心感を与えてくれた。
「は・・・い・・・・・・」
江里子がどうにかこうにか頷いて返事をすると、ポルナレフも満足そうに頷き返した。
「脱出すんぞ。しっかり掴まってろよ!」
「は、はい・・・・・!」
言われた通り、江里子はポルナレフの首に腕を回し、しっかりとしがみ付いた。
ふと横を見ると、アンを抱き抱えた花京院が、何か言いたげな顔でこちらを見ていた。
彼と目が合うと、ポルナレフは何だかニヤついた顔で何事かを話しかけた。
またフランス語である。
それに対して花京院もフランス語で答えた。彼の方は不愉快そうに眉を潜めていた。
しかし、一体何の話をしたのか、気にする余裕は今の江里子にはなかった。
それから僅か数分後、船は完全に沈没したのであった。
爆破・沈没する船から辛くも脱出して間もなく、夜になった。
沈没前に救助信号は打ったようだったが、まだ助けは来ていない。
今夜はどうやら、このままボートの上で夜を明かさなければならないようだった。
ボートは2艘あり、1艘は船員達が占め、もう1艘に江里子達と若干数の船員が乗り込んでいた。
まだ脱出直後の興奮状態にある内は、皆何だかんだと喋っていたが、やがてだんだん会話が減り、一人、二人と口を噤み始め、沈没から数時間が経った今、誰も喋る者はいなかった。
飲み水も食べ物も、全て船と共に沈んでしまった今、無駄なエネルギーの消費は避けねばならない。皆、目を閉じてじっとしているばかりだった。
江里子も同じように目を閉じ、夢と現を行ったり来たりしていた。
ふと目が開いたのは、その内の何度目だっただろうか。
「・・・・・・すごい星空・・・・・」
視界に入ってきた夜空を暫く見つめてから、江里子は思わず呟いた。
僅かな濁りもない漆黒の空に、大きなオパールのような月と、大小様々な宝石のように瞬く無数の星々。
降ってきそうな、という表現が正にピッタリな星空だった。
海と空との境目も分からないほど黒一色の景色の中で、その光が、そこが空だと主張している。
見た事がない程幻想的で美しいこの風景に、江里子は思わず状況も忘れて感動してしまっていた。
「・・・・・どうした?」
「あ、いえ、星が凄いなと思って・・・・」
その呟きを、隣で眠っていた筈のポルナレフが聞いていた。
江里子は言葉を英語に変えて、もう一度同じ事を言った。
「すみません、起こしましたか?」
「いや、起きてたさ。目を閉じてただけだ。」
ポルナレフは頭上を見上げて、ああ、と感嘆の声を洩らした。
「ホントだ。すげぇ。」
「・・・・遥か昔、古代バビロニアの人々もこうして星空を見上げ、そこに現れる現象を観察し、地上で起きる出来事の前兆を読み解いていた。それが、西洋占星術のルーツだ。」
「アヴドゥルさん・・・・・・」
江里子とポルナレフの会話に、アヴドゥルが静かに加わってきた。
「占星術って、星占いの事ですよね?あの、雑誌なんかによく載っている・・・・」
「そうだ。ただしあれは大衆向けに分かり易く簡略化したもの。本来の占星術は、もっと複雑だ。」
「・・・何をゴチャゴチャ話してやがんだ。」
「承太郎さん。」
「何だジョジョ、お前も起きてたのか。いや、星占いの話だよ。」
そこへ承太郎も加わり、喋る人数が増えた事で、辛気臭く静まり返っていた空気がまた何となく明るくなってきた。
すっかり目が覚めたのか、ポルナレフが陽気な声でアヴドゥルに尋ねた。
「そんじゃあアヴドゥルよぉ、今この星空を見て、俺の運勢を占えるのか?」
「それは出来ない。占星術はホロスコープというチャート、星の配置図を用いて行うのだ。占う者の出生日時や時刻からホロスコープを作り、それを分析、解読する。
それを作る為には天文暦をはじめとする数冊の本が必要なのだが、エジプトの私の店に置いてある。旅に持って出るには、重いしかさばるのでな。」
「占星術、かぁ・・・・・」
この旅は、無事に目的を達成して終われるだろうか。
ホリィも、皆も、誰一人欠ける事なく、笑顔で再会出来るだろうか。
江里子は思わずそんな事を口に出しかけて、寸でのところで思い留まった。
そんな事は、江里子に訊かれずともアヴドゥル自身だって思っているに違いない、いや、皆の心の奥底に、常にある不安なのだ。
皆それを、確固たる信念でもって抑え込んでいるだけで。
それを決して口にしてはならない。闘う彼等の心を、ほんの僅かでも揺らすような事をしてはいけない。江里子は自分にそう言い聞かせた。
「・・・・・全てが無事に終わったら、私の店に来ると良い。恋占いでもしてあげよう。」
江里子の沈黙をどう受け取ったのか、アヴドゥルは笑ってそんな事を言った。
からかっているのではない。優しい微笑みだった。
恐ろしい闘いのその向こうに明るい光が待つ事を、穏やかな日常に戻れる事を、やはり彼も夢見ているのだ。江里子にはそう思えてならなかった。
「・・・はい。」
江里子は笑って頷いた。
するとポルナレフが、まるで子供のように無邪気に目を輝かせた。
「俺にもしてくれよ〜!俺の運命の女性はいつ現れるのか!?ってな!」
「お前の場合は、まず素行を正せ。女性と見たらことごとく鼻の下を伸ばしているようじゃあ、運命の女性も呆れて逃げてしまうだろうよ。」
「何だとぉ!?」
「ヘッ、下らねぇ・・・・ックシュン!」
皆のやり取りを聞いて鼻で笑っていた承太郎が、ふとくしゃみをした。
船があんな事になったせいで、彼は結局、海の中から直接ボートに上がったのだった。身体を拭く暇も、服を着替える暇もなかった。
ついでに、全員の荷物は全て大破した船と共に海の底に沈んでしまったので、着替え自体もないのだ。
幾ら年中暑い国とはいえ、夜中の海上は暑くはない。
流石の承太郎も、このままでは風邪でもひきかねなかった。
「大丈夫ですか、承太郎さん?寒い、ですよね・・・・」
「あの偽船長との闘いで、ズブ濡れになっちまったもんなあ。」
「・・・偶々だ。別に寒かねぇ。テメェらの方がよっぽど寒そうだぜ。」
承太郎は、江里子とポルナレフの方を指差してそう言った。
別に寒くないというのはやせ我慢な気もするが、しかし、肩がむき出しのタンクトップ姿のポルナレフの方が寒そうに見えるというのは一理あるし、江里子自身も少なからず肌寒さを感じていた。
折角マシになってきていた体調が、暑さのせいでまた悪くなると嫌なので半袖のブラウスを着ていたのだが、それが今は仇になってしまっていた。
「・・・・これでどうだ?」
ふと急に、周囲の空気がじんわりと温かくなった。
まるで焚火のようなこの温もりには覚えがある。マジシャンズレッドの炎だ。
「ありがとうございます、アヴドゥルさん!」
「おおーっ!トレビア〜ン!心地良いぜ〜っ!」
「なかなか良い具合だ。これで熟睡出来るぜ。」
「フッ、なぁに。」
江里子達が口々に礼を言うと、アヴドゥルは少し照れたようにはにかんだ。
その時、突然ポルナレフが大きな声を上げた。
「あっ!俺の荷物!」
いつの間にかボートのすぐ側に小汚いズタ袋、いや、良く使い込まれた感じのバッグが流れ着いていた。
それはポルナレフの荷物だったらしく、ポルナレフは暗い海面をプカプカと漂っているそれを嬉しそうに拾い上げた。
「良かったぁ〜!コイツに何もかも入ってたんだよ!いやぁ助かったぜ!」
「何でお前のだけ出て来るんだ。納得がいかん。」
「だな。」
「ですね。」
「何だよアヴドゥルもジョジョも、エリーまで!皆してそんな冷たい目ェしやがってよぉ!」
「うるさいぞポルナレフ!!」
「静かにしてくれ、眠れないじゃあないか!」
満天の星空のお陰か、それとも、仲間の温もりのお陰か。
紛れもなく漂流中だというのに、どういう訳か、今は不思議と楽しかった。
そして、一夜が明けた。
アヴドゥルの炎の力のお陰で、皆寒さに震える事もなく、ぐっすりと眠り込んでいた。空は白んできているが、まだ太陽はさほど昇ってきておらず、辺り一帯には朝もやが立ち込めていた。
「・・水を飲むと良い。救助信号は打ってあるから、もうじき助けは来るだろう。」
「・・・・何が何だか分からないけど、アンタ達一体何者なの?」
「君と同じに旅を急ぐ者だよ。もっとも君は父さんに会いに、儂は娘の為にだがね。」
江里子の耳に、話し声が聞こえた。ジョースターと、アンの声だ。
二人共、昨夜、江里子達が喋っていた時にはよく寝ていたから、その分早く目が覚めたのだろうか。だんだん浅くなってきた眠りに未練がましく漂いながら、江里子はそんな事を考えていた。
「ブーッ!!!」
「こらこら、大切な水じゃぞ。吐き出す奴があるか。」
「ちがっ・・・!み、みみ、みみ、みん、みみ、みみ、みみ、皆、あれを見て!!」
その時、唐突にアンの叫び声が響き渡った。
その大きな声に驚き、江里子は勿論、皆が一斉に目を開けた。
「ん・・・・!?えっ・・・・・えぇっ・・・・・!?」
アンと共に既に起きていたジョースターが、一番早くそれに気付いたようだった。
江里子も、ジョースターが目を向けた方向を見た。
「あ・・・・、ああっ・・・・・・!?」
そして、驚いた。
眠気はそれを見た瞬間、消し飛んでしまった。
「ふ、船・・・・・・・・・・!?」
船が、それも、香港から乗ってきたようなクルーザーやヨットの類ではない、目を見張る程の大きな貨物船が、いつの間にか江里子達の眼前に迫っていたのだった。