江里子達を乗せた船は、香港を出港し、ベトナム・サイゴンに寄港、給油と物資の補給を済ませた後、シンガポールを目指すという航路を取るようだった。
予定では、サイゴン着は明日の午後6時頃、出港は同日午後10時頃、シンガポール着は明後日の午後6時頃との事だった。
つまり、丸3日は海上で過ごすという計算である。
その間は特にする事もないので、まずはお互い話でもして、じっくり親睦でも深めてみようかという事になり、それぞれの船室に荷物を片付けた一行は、潮風が気持ち良いデッキのテーブルで、薫り高い紅茶などを嗜んでいた。
「こちらも改めて自己紹介しよう。まず、アヴドゥルからだ。スタンド名と能力は・・・・・、もう知っておるな?」
ジョースターが尋ねると、ポルナレフはわざとらしく少し肩を竦めて答えた。
「嫌という程。」
ポルナレフは腰に着けているサイドパックからアヴドゥルの傷薬を取り出し、彼に返した。
「確かに素晴らしい効き目だ。助かったよ。」
「なぁに。」
アヴドゥルは満足そうな笑みを浮かべて、それを懐にしまい込んだ。
「では、もう少しプライベートな事を話そう。
私の職業は占い師。歳は27。カイロのハンハリーリというスークに店を出している。尤も、このところはずっと休業状態だがな。」
「えっ!?」
「ん?何だエリー?」
「あ、いいえ、何でも・・・・。」
慌てて誤魔化したが、江里子はアヴドゥルが27歳だという事に驚いていた。
正直なところ、もう少し上、32〜3歳だと思っていたからだ。
「それから、彼は花京院典明。スタンド名はハイエロファントグリーン。遠隔操作の能力を持つ。」
ジョースターの紹介を受けると、花京院は小さく頭を下げた。
「宜しく、ムッシュ。縁あって一緒に旅をするんだ、これからは親しみを込めてポルナレフと呼ばせて貰って良いかな?」
花京院が澱みなく話した言葉は、日本語でも英語でもなく、フランス語だった。
尤も、江里子には殆ど理解出来なかったが。
江里子も驚いたが、これには皆、驚いた顔をした。
中でも一番驚いたのが、ポルナレフのようだった。
「・・・・勿論。俺も親しみを込めて、『花京院』と呼ばせて貰うよ。宜しく、花京院。驚いた、フランス語が堪能なんだな。」
ポルナレフはその青い瞳を丸くしながら、フランス語で返事をした。
これまた江里子には何と言っているのか分からなかったのだが、ポルナレフの表情に驚きと感心がありありと浮き出ているのは見て取れた。
「学校で齧っただけさ。」
「いやいや!助かるよ、フランス語を話せる奴がいてくれて!そうか、学生か。大学か?」
「いや、日本の高校2年、17歳だ。」
「17!?驚いた、俺より5つも年下なのか!東洋人は普通歳より若く見えるが、君は歳より落ち着いて見えるなー!」
「ありがとう。褒め言葉と受け取っておくよ。」
「勿論勿論!いやいや、大したもんだよ、その若さでその勤勉っぷり!俺が17の時なんか、ガールフレンドと遊ぶ事しか考えてなかった。」
白い歯を見せてハハハと陽気に笑うポルナレフは、初めて出遭った時の印象とはまるで違って見えた。
やはり、DIOの呪縛というのは、それ程までに恐ろしいのだ。
その人本来の性格を、そこまで完璧に抑圧してしまうのだから。
ふとそんな事を考えると、冷たい戦慄が江里子の背筋を走った。
江里子は思わず身震いすると、その底知れぬ恐怖を忘れてしまう為に笑顔を作り、花京院に向けた。
「凄いですね、花京院さん!フランス語ペラペラじゃないですか!大した事ないだなんて、やっぱり謙遜でしたね!」
「い、いや、そんな事は・・・・・!」
「いやいや!大したもんじゃよ!儂ぁフランス語はからっきしでなぁ!イタリア語なら、ちぃーっとは分かるんじゃが。
いやいや、実に優秀で結構な事じゃあ!将来有望じゃのう!」
「そ、そんな・・・・・・」
江里子とジョースターがからかうと、花京院は照れ隠しなのか、はにかみながら目を逸らして紅茶を飲んだ。
そんな花京院に、江里子は話し掛けた。
「ね、今、何を話してたんですか?」
「大した事じゃありませんよ。高校2年の17歳だって、自己紹介しただけです。」
「へ〜!で、ポルナレフさんは何て?」
「僕が歳より落ち着いて見えるって。」
「あ〜なるほど。確かに。」
「そうですか、僕はそんなに老け顔ですか・・・・」
「えっ!?違いますよ、大人っぽいって意味ですよ!誤解しないで下さいね、私は別に・・」
「フフッ、冗談ですよ、有り難うございます。それと彼は、自分より5つも下なのかって驚いていました。」
「という事は、この人は・・・・22歳?」
「のようですね。あと、自分が17の時は、ガールフレンドと遊ぶ事しか考えていなかったとも言っていました。」
「あ〜なるほど、・・・確かに。」
「さっきの『撮影会』を見る限りは、ね。」
江里子は花京院と顔を見合わせて笑った。
英語もまあまあ話せるようにはなったが、やはり日本語での会話は弾む。下らなければ下らない程に。
「それから、彼女は星野江里子。儂らの中で、唯一スタンドを持たない普通の人間じゃ。」
次は江里子の番らしかった。
ジョースターの声を聞き、江里子は居住いを正してポルナレフの方を向いた。
「彼女は承太郎の家の・・・」
「ああ、彼女から昨日チラッと聞いたよ。彼のメイドなんだろ?」
ポルナレフはまた英語に戻り、そう言った。
やはり少々のフランス訛りはあるが、ちゃんと理解出来た。
だが、彼の解釈は間違っていた。
「違います。私は彼の『家』の家政婦です。彼のメイドではありません。」
江里子は即座に訂正した。
「そう。メイドじゃなくてパシリだ。」
すると、隣で紅茶を啜っていた承太郎が、ボソリと呟いた。
ムッとした江里子は、頬を膨らませて承太郎を睨んだ。
「誰がパシリですか!」
「パシリ?聞いた事のない言葉だが、とにかくメイドもハウスキーパーも、同じようなもんじゃあないのか?」
首を傾げるポルナレフに、花京院がまたフランス語で何やら話し掛けた。
「全然違いますよ。彼女は空条家の家事雑事の一切を、空条家のマダムと二人で取り仕切っているのです。
とても忙しい身なのです。彼の専属の小間使いみたいな言い方は、彼女に失礼ですよ。」
今度は何だか、にこやかな雰囲気ではなかった。
怒っている、とまではいかなくても、何かを指摘しているような、注意しているような、そんな様子だった。
「それに、『パシリ』というのは日本の若者の間で使われるスラングで、良いようにこき使われる、召使い以下の奴隷のような立場の人間の事を言うのです。
それによって報酬を貰うどころか、自ら金品を差し出さねばならない、虐めの一種です。プロの家政婦と同列では、勿論ありませんので。」
「・・・ほほぉ。それは失礼。」
ポルナレフは、そんな花京院の顔色を伺うようにして、小さく肩を竦めた。
そして、江里子に向かって英語で話し掛けてきた。
「昨日はどうも、マドモアゼル・エリコ。」
「お加減はどうですか?」
「もうすっかり良いよ。」
その言葉の通り、ポルナレフは顔色も良く、アヴドゥルとの闘いで負った火傷の具合もまずまずのようだった。
何より気になる肉の芽を抜いた痕も、もう大丈夫なのか、包帯を取ってあった。
花京院より回復が早いのは、ポルナレフの方がタフだからか、10年近く積んだという修行の賜物か、アヴドゥルのマジシャンズレッドには承太郎のスタープラチナの程の破壊力はないのか、それとも、その全てが絡み合っての事なのか。
とにかく、ポルナレフはもう大丈夫そうだった。
「君のお陰だ。ありがとう、エリー・・・・と呼んでも?」
「勿論。良かったです、お元気になられて。これから宜しくお願いします。」
「こちらこそ。」
ポルナレフとの挨拶を済ませると、江里子は再び花京院に尋ねた。
「花京院さん、さっきは何て言ったんですか?」
「え?い、いえ別に。ただ、パシリとメイドと家政婦の違いを、教えて差し上げただけですよ。」
「へぇ〜・・・・・」
あんな厳しい表情で、いやにムキになった様子で、何を話していたかと思えばそんな事。腑に落ちるような落ちないような、何だか妙な感じだった。
「儂はジョセフ・ジョースター。スタンド名はハーミットパープル。念写の能力を持つ。」
ジョースターは次に、自分自身の紹介を始めた。
「ポルナレフ、君もどうやら生まれついてのスタンド使いのようじゃが、儂のは1年程前に発現した。」
「何だって?ムッシュ・ジョースター、それはどういう・・」
「訳は追って説明する。最後に、コイツは儂の孫の空条承太郎。
母親は儂の一人娘で、父親は日本人じゃ。日本に住み、花京院と同じく日本のハイスクールに通っておる。
日本はややこしくての、歳は花京院と同じ17だが、学年は1つ上で、春には卒業するんじゃ。」
「へ〜、日本は変わってんだなぁ。」
「そしてスタンド名はスタープラチナ。圧倒的なパワーとスピードを併せ持つ。
とても能力の高いスタンドだが、発現したのは僅か3週間程前じゃ。」
「!」
その話に、ポルナレフは驚きを露にした。
「信じられん・・・・・。俺は、この能力は、生まれついてのものだとばかり思っていた・・・・」
「スタンド能力の全てを解明出来た訳ではないが、恐らく、基本的にはそうなのじゃろう。多分、儂や承太郎がレアケースなのだ。」
ジョースターは、真剣な表情で話していた。
親睦を深める為のお茶会などとお気楽な名目ではあったが、やはりこれは重要な会合だったのだ。
「DIOと儂らジョースター家の人間の間には、深い因縁がある。君はその事を、DIOから聞いているかね?」
「いいや、俺は只、アンタらを殺せとしか言われていなかった。奴の素性も、アンタらとの因縁とやらも、何も聞かされていない。」
「ならば、儂の話を聞いてくれ。いや、儂の祖母・エリナや、祖父・ジョナサンの親友であり儂の祖父代わりだったスピードワゴン氏が、生前語ってくれていた話を。」
さっきまでの朗らかな雰囲気は、いつの間にか消え失せていた。
吹き抜ける海風が如何に爽やかでも、DIOとジョースター家との間に織り成されてきた100年の因縁を吹き飛ばす事は出来ないようだった。
「奴の本当の名は、ディオ・ブランドー。
元は下流階級の出身だが、奴は貴族だったジョースター家の養子となり、儂の祖父、ジョナサン・ジョースターと家族のように育った。
そして、その底なしの野望故に人間である事を捨て、悪魔に魂を売り、吸血鬼となった。」
ジョースターは温かい紅茶で喉を潤すと、話を続けた。
「元はきっと、誰でも持ち合せているような妬みや僻みだったのだろう。
儂の若い頃も、社会の格差は今より遥かに大きかったが、100年前の当時は、階級の格差がそれこそ天と地程もあったからな。
同じ下流階級の出だったスピードワゴンの爺さんが言っておったが、下流階級の者はまるでドブ鼠同然。食う物にも事欠き、赤ん坊にまで泥水を啜らさねばならんような暮らしだったそうじゃ。
その一方で、ほんの一握りの上流階級の者は、下流階級の者の労働力を根こそぎ奪うようにして贅沢の限りを尽くす。
だからきっと奴は、儂の祖父と己の身を比べて、どうにもならんその差に激しく憤っておったのだろう。
世間への、己が境遇への恨みを祖父一人に向け、祖父を妬み、僻み、祖父の全てを奪い取って我がものにしたいと。」
江里子にとっては、初めて聞く話だった。出発前にホリィが語って聞かせてくれた話は、どうやら最低限の要点だけだったようだ。
ここまで詳しい事はホリィも知らなかったのか、それともあの時、長々と喋るだけの体力がなかったのか。
ホリィは今、どんな様子だろうか。
ホリィの笑顔を思い浮かべながら、江里子はジョースターの話に耳を傾けた。
「元は誰でも持っているような妬みや僻みだと言ったが、奴のそれは人並み外れて大きく、また、奴の頭は人並み外れて切れた。奴は実に狡猾な手段で、祖父を陥れていった。祖父を破滅させる為に、あらゆる事をした。
そうして奴は遂に、吸血鬼と化した。
闇の一族・カーズという男が生み出した悪魔の道具、石仮面を身に着けたのだ。」
初耳なのは、どうやら江里子やポルナレフだけではなかったようだった。
アヴドゥルも花京院も、孫である承太郎さえもが、驚いた顔をしていた。
「石仮面だと?何だそれは?」
「アステカ文明の時代、『血の儀式』というものに使用されていた忌まわしき道具じゃ。
それを被ると、骨針に脳を貫かれ、そこから注入されるエネルギーで脳の未使用領域を活性化させられ、不死身の超生命体となる。
だが同時に、致命的な弱点も抱えてしまう。日光を浴びると、瞬く間に灰と化して消滅するのじゃ。」
「ああ・・・・・・!だからDIOはあの時、自分は日光の下に出られない身体なのだと・・・・・、なるほど、そういう事だったのか!!」
ポルナレフが、合点がいったとばかりに叫んだ。
江里子も、叫びこそはしなかったが、同じ思いだった。
だからこそ、肉の芽は太陽の光で塵と化し、消滅したのだ。
DIOの、吸血鬼の細胞だからこそ。
「やけに詳しいじゃねぇか、ジジィ。ひいバアさんが何でそんな事まで知ってたんだ?」
承太郎のその質問に、ジョースターはゆっくりと頷いた。
「勿論、エリナお祖母さんは石仮面の事は知らなかった。
知っていたのは祖父の親友だったスピードワゴンの爺さん、そして、儂自身が自らの身をもって体験し、知ったのじゃ。50年前にな。」
ジョースターはそう言って、自らの左手を少しだけ掲げて見せた。
50年前に失ったという、その手を。
「石仮面、そしてその仮面を生み出した柱の男達と闘う内に、儂は知っていったのじゃ。エリナお祖母さんやスピードワゴンの爺さんが聞かせてくれていた数々の祖父の話は、全てここに通じているのだと。
吸血鬼と化し、首だけになってもなお生きていたというDIO、そして、石仮面の一つがジョースター家にあり、祖父・ジョナサンがそれを研究していたという事、それらが、柱の男達との闘いを交点に全て繋がったのじゃ。」
スタンドも何も知らなかった時には、突拍子もない妄想のような話だと思っていたが、こうして改めて聞くと、自分でも驚く程納得出来る話だった。
本や映画の世界にしか存在しない作り話だと思っていた事が、現実にあったのだ。
その事実は、そしてその認識は、江里子を言い様のない恐怖に陥れた。
「・・・・話を戻そう。
祖父の父、つまり儂のひい祖父さんは殺され、ジョースター家は屋敷ごと炎に包まれて、この世から消えてしまった。
祖父自身も、DIOとの闘いで生きるか死ぬかの大怪我を負った。
そうして、全てを失くした祖父にただ一つ残されたものが、祖父の幼馴染だった儂の祖母、エリナだった。
祖母の献身的な看護で回復を果たした祖父は、祖母と結婚した。
その新婚旅行に向かう途中の船で、祖父は首だけとなったDIOの襲撃を受けた。
その闘いで船は大破・沈没し、多くの犠牲者が出た。
そして祖父はDIOを道連れに、大西洋の深くに沈んだ・・・・。」
ジョースターは、亡くなった祖父に、祖母に、全ての者に祈りを捧げるかのように、暫し、静かに目を閉じた。
そして、再び目を開くと、話を続けた。
「祖母は、名も知らぬ他の乗客に託された女の赤ん坊と、その時まだ祖母自身気付いていなかった腹の子と共に、何とか助かった。それが儂の両親じゃ。」
綿々と紡がれていく歴史、星の巡り合わせ、運命。
そういったものを、まるで手に取っているような気がした。
ジョースターの話には、それ程の現実味があった。
「だが、奴は生きておった。儂の祖父の肉体を奪い、海底で100年の時を眠っておったのだ。
そして4年前、アフリカ沖大西洋で棺が引き揚げられた。
棺の中は空、船の乗組員は全員、海のど真ん中で忽然と姿を消した。
その棺は、100年前の事故で沈没した大型客船、つまり、儂の祖父が死んだ船に積まれていた荷だと判明した。」
「何だって!?それじゃあ・・・」
ポルナレフの叫びに、ジョースターは頷いた。
「そう。復活を遂げた奴は、乗組員の生き血を啜り、その場からまんまと脱出したのだ。そして、行く先々で人の命を奪い、徐々に力を取り戻していったのだ。」
話を聞いたポルナレフは、顔を青ざめさせて呟いた。
「何てこった・・・・・・!信じられない話だが・・・・・、しかし、信じられない位、信じられる・・・・!
スタンド使いのこの俺が只者じゃあないと思う奴なのだから、相当な奴だとは思っていたが、まさか吸血鬼だったとは・・・・!」
「ポルナレフ。君が昨日言っていた、奴の首筋にある星型のアザは、我らジョースター家の血を引く人間の特徴じゃ。」
ジョースターは服の襟元を捲り、項のアザを皆に見えるように見せた。
「・・・・・・コレと同じものが、同じ所に、お袋にもある。」
承太郎もまた、学ランの襟元を捲り、同じようにして見せた。
『おお・・・・・・!』
初めて見たらしい花京院とポルナレフが、どよめいた。
同じく初めて目にした江里子は、驚きの余り、声も出せなかった。
それは正に、写真の中のDIOの首筋にあるのと全く同じアザだったからだ。
「奴の肉体は、儂の祖父の肉体。奴が力を取り戻すにつれて、祖父の肉体もまた、目覚めていった。
儂と承太郎に突如発現したスタンドは、その証なのだと思う。
DIOを倒せという、祖父からのシグナルなのだと。
だが、スタンドが発現したのは、儂と承太郎の二人だけではない。
ジョースター家の血を引く者は、もう一人おる。承太郎の母親で儂の一人娘である、ホリィじゃ。」
ジョースターは、重々しい溜息を吐いた。
「ホリィには、スタンドを操れる力がなかった。争いとはおよそ無縁の性分なんじゃ。だからホリィの場合は、自分のスタンドが害になった。」
「何だって!?そんな事があるのか!?」
「ある。」
驚くポルナレフに、アヴドゥルは即座に断言した。
「己のスタンドに、自身の全エネルギーを吸い尽くされるのだ。
私は過去、そのような人を何人か見てきた。
その人達は皆、色々な病気を発症し、最期には昏睡状態に陥って死んだ。発症から50日程でな。」
「生来のスタンド使いである君らとは違い、儂らのスタンドはDIOに関わりがある。
DIOを、そして祖父の肉体を滅ぼせば、ホリィのスタンドは消える。
その為に儂らは、DIOを目指しておるのじゃ。
今で発症から2日、あと48日以内にエジプトに辿り着き、奴を倒さねばならん。」
「・・・・・オーケイ、分かった。アンタらの事情は理解出来たぜ。」
アヴドゥルとジョースターの話を聞き終わったポルナレフは、真剣な表情で何度も頷いた。
「分からねぇのは、何故その闘いに、普通の女の子が関わるんだって事だ。
日本の家政婦ってのは、お仕えするマダムの為にそんな事までやらなきゃあいけないのか?」
ポルナレフの瞳は、まっすぐに江里子だけを見ていた。
彼は、江里子が事情をちゃんと説明する事を望んでいた。
昨日は確かにそれを躊躇い、しなかった。
だが、仲間として迎え入れ、ジョースターがここまで詳しい事を話したのなら、江里子に話さない理由はもう無かった。
「・・・・義務じゃあありません。任務です。私は皆さんの『お荷物』なんです。」
「はぁ?」
「これは奥様と、そして私自身の望みなんです。」
訳が分かっていない感じのポルナレフに、江里子はゆっくりとした口調で話し始めた。
「私も貧しい生まれです。尤も、100年前の下流階級程の状況ではありませんけど。
父は昔からお酒と博打に溺れていて、どうしようもなくて、母と兄は、私が小学校を卒業した時に、それぞれ家出しました。
だけど私は臆病だったので、逃げ出す事が出来なくて・・・・・・。」
「・・・・・・・」
「15歳の時に、父の作った大きな借金が分かりました。
その返済の為に、危うく身体を売らされそうになったり、それよりはマシだからと思って始めたキャバレーのアルバイトもうまくいかなくて、絶望して、もういっそ死んでしまおうかと思った時に、奥様に出逢ったんです。
奥様が、私をそのどうしようもない掃き溜めから救い出して下さったんです。
だから私は、奥様の為なら何でもしようって決めたんです。」
江里子の英語は、ちゃんと通じているようだった。
ポルナレフは、何とも言えないというような顔をして、黙り込んでいた。
「奥様は、皆さんがこれからやろうとしている事に、薄々気付いておられました。
そして、病に冒されたご自分の身よりも、皆さんの心配をなさいました。
皆さんがとんでもない無茶をするんじゃあないか、って。
皆さんにそんな事をさせてまで、自分が助かりたいとは思わない、って。
だから私に、旅のお供をして欲しいと頼まれたんです。」
江里子はポルナレフをまっすぐに見て、微笑んだ。
「男の人達ばっかりなら無茶出来ても、女がいればそうはいかない。私がいれば皆さんも冷静に、そして、とっても強くなれるのだそうです。
守るもののある、守らなきゃいけないもののある男の人は、本当の意味で強いのだそうです。
まあ、私の口で言うのもおかしな話ですけど。ふふっ。」
自分が彼等にとって守るべきものになれるとは思っていない。彼等にとって大切な女性は、自分ではない。それは江里子自身が一番良く分かっていた。
だが、問題はそこではないのだ。
彼等が誰を特別に思っているか、ではなく、彼等の事を特別だと思っているのは誰か。
江里子にとって重要なのはそれだった。
「奥様は、ご自分が助かる事以上に、皆さん全員のご無事のお帰りを強くお望みです。恐らく今のこの状況を知ったら、貴方の事も同じように願うでしょう。
だからポルナレフさん。こうなった以上、私は貴方の『お荷物』にもなって、貴方も必ず生きて連れ帰ります。お邪魔でしょうけど、どうぞ宜しく。」
ホリィにとって、ジョースターと承太郎は何より大事な、特別な存在。
父や息子の友人達の事も、全く無関係な赤の他人の小娘の事も、家族じゃないからどうだって良い、などとは考えられない。
そんな人だからこそ、恐怖と不安を押し退けて、こんな危険な旅について来られたのだ。そんな人の為だからこそ。
「・・・・連れ『帰る』って、何処にだよ。」
ポルナレフが、苦笑している。
気のせいだろうか、その顔は何だか少し、泣きそうにも見えた。
「ああ・・・・・、ふふっ、すみません、変でしたね。
じゃあ、とりあえず日本に遊びに来て下さい。奥様がきっと、お会いになりたがると思いますので。」
江里子はそう答えて、にっこりと笑った。
『お茶会』が終わった後、一行は各自、自由行動となった。
尤も、船の上での事なので、甲板か船室か、どちらかしか行く所などないのだが。
ポルナレフは船室のベッドで一人、昼寝をして過ごした。
部屋は承太郎と花京院と相部屋だったが、二人は甲板に出ていて部屋にはおらず、それがポルナレフには好都合だった。
別に彼等を警戒している訳ではない。
裏切ろうとも裏切られるとも思っていないし、それなりの協力をするつもりも勿論ある。
だが、まだ少し、弱みを見せるにはまだ少し、時期尚早というものだった。
そう、実のところ、ポルナレフはまだ本調子ではなかった。
やせ我慢で完全回復を果たしたような顔をして見せてはいたが、お茶会が終わる頃には、また少し具合が悪くなっていた。
アヴドゥルの技で負った火傷の痛みはともかくとして、肉の芽を抜かれた痕の痛みが辛かったのだ。
何とも形容し難いが、言うなれば、痛みの性質が悪かった。
ガンガンとか、ズキズキとか、ヒリヒリとか、明快な痛みではない。
完全に抜き去られて尚いつまでも根を残しているかのように、ネチネチとしつこく纏わり付くような、陰湿な痛みだった。
ジョースターから聞かされたDIOや石仮面の話の薄気味悪さも心理的に作用して、痛みに拍車を掛けたのかも知れないが、実に最悪な気分だった。
だがそれも、数時間の昼寝で随分と回復した。
起きると丁度夕食時で、ポルナレフは食堂へ出向いた。
「やあ、起きたか、ポルナレフ。」
「随分良く寝てたじゃねぇか。」
食堂には既に皆揃っていて、花京院と承太郎が、笑いながら席を勧めてきた。
「ああ。あんまり快適だったもんでつい、な。」
勧められた席に腰を下ろしながら、ポルナレフはふと、江里子がいない事に気付いた。
「あれ?エリーは?」
「おお。そういやまだじゃのう。」
この場にいるのは、ポルナレフ、ジョースター、アヴドゥル、承太郎、そして花京院の、男5人だった。
夕食の時間は、解散前に伝えられている。
知らない筈はないし、気まぐれな感じの女にも見えなかった。
「俺が呼んで来てやるよ。」
ポルナレフは立ち上がり、再び食堂を出た。
この船内の紅一点である江里子には、個室が与えられていた。
ポルナレフは、その部屋のドアをノックした。
返事はなく、鍵は開いていた。
「エリー。入るぜ。」
ポルナレフは、一瞬間を置いてから、ドアを開けて部屋の中に入った。
すると、ベッドの上に、辛そうな顔で横になっている江里子の姿があった。
「・・・どうした。具合悪いのか?」
「ちょっと・・・・・船酔いしちゃったみたいで・・・・・・。」
江里子はゆっくりポルナレフの方に顔を向けると、力なく微笑んだ。
その顔に、警戒心は浮かんでいなかった。
「さっきのお茶会で・・・・・、甘いもの、食べ過ぎちゃったからですね、きっと・・・・。」
「ん〜・・・・・・」
ポルナレフは江里子の側に歩み寄り、その顔を近くでじっと見つめた。
「・・・・っていうか、ずっと顔色悪かったぜ?昨日から。」
江里子が、図星だという顔をした。
それを見て、ポルナレフは、やはり自分の見立てに狂いはないと確信した。
知り合ったばかりの男が突然部屋に入って来ても警戒しないのは、そう出来るだけの元気がないからだ。さも平気そうな顔をして人の世話など焼いていたが、本当は自分も調子が悪かったのだ。
昨日だけなら墜落事故が原因だとも考えられたが、今日も朝から青ざめた顔色をしていた。綺麗なホテルの清潔なベッドで、昨日の昼過ぎからゆっくり休めていた筈なのに。
「慣れねぇ旅で乗り物酔いしたり、疲れてるって事も勿論あるだろうが・・・・・、アンタひょっとして、今、生理の最中じゃねぇか?」
「っ・・・・・・・!」
ポルナレフがズバリとその単語を口にすると、ようやく警戒心が働いたのか、江里子は慌てて毛布を口元まで被り、ポルナレフを睨み付けた。
きっとそれで抵抗しているつもりなのだろう。全く抵抗になっていないが。
「オイオイ、そんな変態を見るような目で見るんじゃねぇよ。誤解だ、誤解。」
ポルナレフは江里子の警戒を解くように一歩退くと、弱った江里子が聞き取り易いよう、ゆっくりとした口調で話した。
「言っただろ?俺には妹がいたんだ。んな事であらぬ妄想繰り広げる程、女に対して幻想抱いてねぇよ。」
話は通じたようだった。
江里子は、まだ幾らか疑わしげな眼差しではあったが、上目遣いにポルナレフを見返してきた。
「薬は?飲んだのか?」
「・・・・・・・・・」
「気分悪いのはホントか?」
「・・・・・・・・・」
江里子は両方の質問に、頷いて答えた。
「んじゃあ晩飯食う気にはなれねぇよな。よし、ちょっと待ってろ。」
ポルナレフは一度江里子の部屋を出ると、キッチンに行った。
そこで炊事担当の水夫に頼んでマグカップにぬるま湯を入れて貰い、再び江里子の部屋に戻った。
「待たせたな。」
ポルナレフは江里子の寝ているベッドに腰掛けると、湯の入ったマグカップを見せた。
「お湯持ってきたけど、飲めるか?出来れば一口でも飲めよ。腹があったまるし、水分補給にもなる。」
すると江里子はモゾモゾと動き、とてつもなく緩慢な動作ではあったが、何とか身体を起こした。
「・・・・ありがとう・・・・ございます・・・・・」
江里子はマグカップを受け取ると、ゆっくりと飲み始めた。
カサカサに乾いて色褪せている唇が、湯でしっとりと湿っていくのを一瞥して、ポルナレフは安堵の微笑みを浮かべた。
「本当はスープでも飲めりゃあ良いんだけどよ。飲めそうなら持って来るけど、要るか?」
「いえ・・・・・・・」
予想通り、江里子は僅かに首を振った。やはり、味の付いているものは気分が悪くて受け付けないようだった。
ポルナレフが見守る中、江里子は何口か白湯を飲み、カップから唇を離した。
「・・・・・ありがとうございました・・・・・。」
「もういいか?よし、んじゃあこれは置いといて・・・」
ポルナレフは江里子からマグカップを受け取り、テーブルの上に置くと、江里子の腰から下を毛布で包んだ。
「これで良し。さ、横になりな。」
「は、はい・・・・・・」
江里子は素直に従い、言われた通り、横向きになって寝そべった。
ポルナレフは使っていないベッドから毛布を持って来ると、江里子の身体全体に掛かるように広げて被せた。
そして、ベッドに腰掛け、二重になった毛布の上から江里子の腰を擦り始めた。
「ちょっ・・・、そんな事までして頂かなくても・・・・・・・!」
「良いから黙って寝てろ。」
江里子は一瞬、酷く狼狽したが、ポルナレフが有無を言わせず黙らせると、観念したように大人しくなった。
よく知りもしない男に腰を擦られるなんて、女なら普通誰でも狼狽する。
だから最初は渋々だったのだろう。だが、すぐに気が変わってきている筈だった。
腰のマッサージが気持ち良いと思っている筈なのだ。
そんな確信が、ポルナレフにはあった。
「・・・・・・・・」
その証拠に、ガチガチに強張っていた江里子の身体が、次第次第に柔らかくなってきている。緊張が解れてきて、無駄な力が抜けてきているのだ。
「・・・・気持ち良いか?」
江里子は、恥ずかしそうに小さく頷いた。
何も恥ずかしがるような事じゃあないのに、日本人は本当にシャイだ。
ポルナレフは小さく笑って言った。
「だろ?実は俺の妹もキツい方でよ。青い顔して寝込んじゃあ、こうやって俺が介抱してたんだ。毎月毎月よ。
だから慣れてんだよ。どこをどうすりゃあ楽になるか、ポイントを知ってるんだ。」
マッサージを続けながら得意げにそう話して聞かせると、江里子はようやく口を開いた。
「・・・・・私・・・・・、いつもは・・・・・、あんまり酷い方じゃあありません・・・・・」
「へえ。そりゃあ何よりだ。」
「・・・・今回は多分・・・・、ここ数日で色々ありすぎたせいだと・・・・」
「ああ。なるほどなぁ。そりゃあきっとそのせいだ。女の体調は、環境とか精神状態に大きく左右されるからな。」
「・・・・・・・・何か、やたら詳しいんですね・・・・・・」
「オイオイ、だからそんな変態を見るような目で見るんじゃねぇってばよ。」
江里子のジト目に気付いたポルナレフは、わざと焦った顔を作って見せてから、フッと表情を緩めた。
「俺ら兄妹は、早くに母親を亡くしてな。
船乗りだった父親は、金は送ってきてくれるが、家には滅多に帰って来なかった。
なもんだからよ、俺達はずっと二人暮らしだったんだ。
俺はアイツの兄であり、父親であり、母親代わりでもあった。」
「だから・・・・・・・」
「そう。だから、生理だのブラジャーだの、ぜーんぶ俺が調べて教えてやったんだよ。ガールフレンド達からリサーチしてな。」
ポルナレフは笑顔でウインクをして見せた。
だが江里子は、少しも笑わなかった。
「・・・・その妹さんが・・・・、シェリーさん、なんですか・・・・?」
「ああ。」
「お気の毒です、・・・・・本当に。ごめんなさい、こんな事しか言えなくて。もっと英語が巧ければ、もっときちんと言えたんでしょうけど。」
黒い瞳を哀しげに潤ませる江里子に、ふと、シェリーが重なって見えた。
そう。江里子はシェリーと同じ、黒い瞳と黒い髪をしていた。
尤も、西洋人と東洋人だ。単に色が同じなだけで、顔立ちも髪型も全く違う。
シェリーは、ふわふわと柔らかいウェーブのロング・ヘアと、長く濃い睫毛に縁取られた大きくつぶらな瞳だった。
江里子は、絹糸のようにしなやかでまっすぐなセミロング・ヘアに、あまり大きくはないが涼やかな切れ長の瞳をしている。
髪と瞳の色以外は、全く似てなどいない。
だが、全く似ていないのは、ポルナレフとて同じだった。
シルバーブロンドに青い瞳の兄と、黒髪に黒い瞳の妹。
実の兄妹なのに何故これ程似ていないのかと、両親を含む色んな人に言われてきた。
密かに金髪碧眼に憧れ、コンプレックスを抱いていたシェリーの前で、どうせなら髪と瞳の色が兄妹逆ならもっと良かったのにと軽口を叩かれ、シェリーには黒い髪と瞳が一番似合うんだと、猛然と食って掛かった事もあった。
今はもう全てが、遠い遠い、思い出となってしまったが。
「・・・良いんだよ。気にすんな。」
ポルナレフは、目を細めて江里子に笑いかけた。
「アンタの歳・・・・、訊いても良いか?」
「18です。」
江里子は嫌がる素振りもなく、すぐに答えてくれた。
「・・・・そうか。一緒だな。」
「え・・・・・?」
「妹と一緒だ。生きてりゃアイツも今18だった。アンタ誕生日は?何月だ?」
「3月です・・・・・」
「3月かぁ!じゃあアンタの方が少し上だな!妹は7月なんだ!兄貴は?幾つ違いだ?」
「兄は3歳上ですから・・・・、21、ですけど・・・・」
「おお!俺は22歳になったばかりなんだぜ!ついこないだ、11月30日だ!何だか良く似た兄妹だなぁ!」
シェリーと江里子との共通点を見出して、何か得るものがある訳ではない。
ましてや兄妹の年齢差など、世界各国どこも似たり寄ったりだ。
そうと分かっていても、しかしポルナレフは、ささやかな嬉しさを感じていた。
ポルナレフが陽気にはしゃいでいると、江里子も少し釣られたのか、恥ずかしそうにはにかんだ。
「私の兄は・・・・・、こんなに優しくはありませんでしたよ?
喧嘩や悪い事ばっかりして、中学を卒業した途端に家を飛び出して、それっきり。今頃どこで何してるのか・・・・・」
その兄の事を考えているのだろうか。江里子はふと遠い目をした。
だが、すぐに我に返り、少し作ったような笑顔を浮かべた。
「お父様は、今もまだ船に乗っているんですか?」
「いいや。もう死んだよ。妹より少し前に、病気でコロッと逝っちまってたらしい。
妹が死んだ時に、連絡がつかなくてな。その時は娘の葬式にすら来れねぇのかってブチギレたが、後になってその知らせが届いて分かったんだ。」
「・・・・・・すみません・・・・・・・」
「だから気にすんなって。」
また悲しそうな顔になった江里子に、ポルナレフはさっきのままの陽気な笑顔を向けた。
しかし江里子は、まだ悲しそうな顔のままだった。
悲しそう?いや、違う。そうではなかった。
「・・・・・本当は、ちょっと怖かったんです・・・・・」
やがて、江里子はか細い声で呟いた。
「さっきの、『DIO』の話。あんなに詳しい話は、初めて聞いたから・・・・」
「・・・・・そうか」
無理もなかった。
自分ですら、薄ら寒い恐怖を覚えた話だったのだ。
18歳の普通の少女が、怖がらない訳がなかったのに、何故それに気が回らなかったのだろうか。
「何で・・・・・、そんな化け物と闘わないといけないんでしょうか・・・・・。
何で・・・・・、こんな事になったんでしょうか・・・・・・・」
江里子はそう口走った。こちらに背を向けて、消え入りそうに小さな声で、まるで禁句を口にするかのように。
その運命を、その恐怖を、理不尽だと感じる事を、いけない事だと思っているかのように。
「・・・・奥様は・・・・・、そういう事とは無縁の人なんです・・・・・。
料理や、洗濯や、掃除がお好きで、家族の喜ぶ顔を見るのが何よりお好きで、その為に一日中、家の中で忙しく働いて・・・・・。
そうやって、ささやかに暮らしておられただけなんです・・・・・。なのに何で・・・・・」
また、江里子にシェリーが被って見えた。
同級生達が自分の事だけに夢中になっている中、シェリーは学業の傍ら家の中の事を一手に引き受け、兄の良きサポート役になろうと頑張ってくれていた。
お兄ちゃんは外で働いているのだから、家事は私の役目だと、笑ってそう言いながら。
健気なその笑顔を、そのささやかな暮らしを、奪う権利は誰にもなかった。
だが、シェリーは奪われてしまった。
兄妹二人で支え合って暮らしていたささやかな日々も、尊厳も、命さえも。
優しい彼女にはまるで無縁だった、理不尽な暴力と恐怖によって。
「本当に・・・・・、奥様は助かるんでしょうか・・・・・。
本当に・・・・・、また元の、穏やかな日々に帰れるんでしょうか・・・・・・」
不安げに声を震わせ、誰に問うでもなく呟く江里子を、ポルナレフは他人だと割り切る事が出来なかった。
また、あの幸せだった日々に帰りたいと、シェリーが江里子の口を借りて言ったような気がして。
「・・・・大丈夫だ」
涙を堪えると、擦り切れそうな低い声が出た。
実のところ、DIOとの決着が簡単につくとはとても思えない。タダで済むとも考えられない。
だがポルナレフは、江里子を励まさずにはいられなかった。
たとえ何の根拠もなくても。
「・・・・・・大丈夫だよ、エリー・・・・・・」
ポルナレフは江里子の腰を擦り続けながら、大丈夫だと何度も繰り返した。
敵討ちの旅に出て3年。
ようやく手掛かりを掴んだと同時に、良く似た名前の、同じ歳の少女に出逢った。
シェリーが引き合わせてくれたような、そんな気がした。
江里子が寝付いたのを見届けてから、ポルナレフは静かに部屋を出て、食堂に戻った。
様子を見に行くと出て行ってから30分程経っていたが、誰一人、食事に手を付けていなかった。どうやら皆、江里子とポルナレフが戻って来るのを待っていたようだった。
「遅かったじゃないか、ポルナレフ。江里子さんは?」
花京院が、少し咎めるような、警戒するような声でそう訊いてきた。
理由は分かっている。
彼は江里子を憎からず想っているのだ。
だから、軟派なフランス男が何か良からぬ事でもしでかしたのではと、心配しているのだろう。
ポルナレフは小さく笑い、そして答えた。
「・・・・船酔いでゲロゲロだった。暫くそっとしといてやろうぜ。」