星屑に導かれて 8




江里子は今、近代的な造りの、スタイリッシュなシティ・ホテルの一室にいた。
分厚い別珍のカーテンが午後の日差しを遮り、室内は気だるげな薄闇に満ちていた。
江里子の目の前で、おもむろに、アヴドゥルが首飾りを外した。
次にローブが彼の肩を、腕を滑り落ち、軽やかな衣擦れの音を立てて床に落ちていった。
そしてその上に、白いシャツが落とされた。
初めて見る逞しい褐色の裸体を前に、江里子は暫し恥じらい、戸惑った。
だが、やめるという選択肢は、江里子にはなかった。強制されての事でも、渋々でもない。他ならぬ自分自身が望んだ事なのだから。
ベッドに腰掛けて待っているアヴドゥルに、江里子は静かに歩み寄った。



「・・・・うわ、結構パックリいってますよコレ。本当に病院行かなくても大丈夫なんですか?」
「ああ。これ位、何という事はない。」

アヴドゥルの身体についた沢山の切り傷を、江里子は一つ一つ手当てしていった。
彼自身は平気そうな顔をしているし、血も既に止まっているが、江里子の目にはなかなかの深手に見えた。
少なくとも、日常の生活の中でもしも自分がこの傷を負ったら、きっと病院に駆け込むだろう、そんな程度には。


「・・・・すまんな、エリー。君こそ本当に食事に行かなくても良かったのか?」
「良いんです。実はさっきのカエル料理で、ちょっと食欲が無くなっちゃって。」

江里子が笑いながらそう言うと、アヴドゥルも軽く笑った。


「確かに、女性には少々パンチの効き過ぎたメニューだったからな。」
「でもまあ、折角ですから、ちょっと味見してみたかった気持ちは、全く無くもないんですけど。」
「ははは、乙女心は複雑だな。」
「うふふっ。」

ホテルを取った後、ジョースターと承太郎、花京院は、改めて食事をしに出掛けて行った。
正確には、アヴドゥルが傷の手当てを終えた後、スムーズに食事が出来るよう先行して出掛け、席の確保と料理の注文を済ませに行っているのである。
アヴドゥルの傷は幸いにも軽傷で、消毒をして薬を塗ればそれで事足りる程度・・・・と本人が言い張ったので、江里子がその手当ての役を買って出たのである。
だが、ホテルに居残った理由は、そればかりではなかった。


「次、お顔の怪我の手当てしますね。」
「ああ、頼む。」
「失礼します。」
「ん?」

顔の傷の手当の為に間近で正面から向き合うと、アヴドゥルはふと何かに気付いたように言った。


「エリー、何だか少し顔色が悪くないか?」
「え?」
「心なしか青白いぞ?」

ズバリと言い当てられ、江里子は思わず言葉に詰まった。
そう。江里子は今、少し調子が悪かった。
病気や怪我をした訳ではない。月に一度の『定例行事』である。
気付いたのは、ホテルについてすぐだった。
もうすぐだとは分かっていたので、必需品の類は日本からありったけ持ってきていたが、まさかこんな早々に来るとはと、トイレの中で一瞬焦った。
だが、少し考えてみれば、全く、絶妙なタイミングだった。
あと半日前倒しだったなら、海の上で迎える事となっていたのだ。そうしたらもっと大変だっただろう。
荷物も無事に回収出来たから良かったものの、そうでなければ必需品もなく、一体どうなっていた事か。


「大丈夫です。墜落事故のせいでまともに寝ていませんから、きっとそのせいだと思います。」
「そうか。なら良いが。」

江里子の吐いた嘘を、アヴドゥルは何の疑いもなく信じたようだった。


「はい、終わりました。」
「ありがとう、エリー。」

アヴドゥルは立ち上がり、手早く服を着込んだ。そして、ふと、隣のベッドに目を向けた。
そこで未だ眠っている、ポルナレフの顔に。


「・・・・・本当に、この男の事も任せて良いのか?」
「はい。」

江里子は迷わず頷いた。
ポルナレフの事も、江里子がホテルに居残った理由の一つだった。


「花京院さんは肉の芽を抜かれた後、少しの間ですが、具合が悪かったんです。
もしこの人も同じようになるのなら、一人にしてはしておけませんから。」

花京院が肉の芽を摘出された後、丸2日程は身体を起こすのも辛そうにしていた。
その時の事を考えると、このポルナレフを一人で放置しておくのはどうも気掛かりだったのだ。
ついさっきまで敵だった男だ。甲斐甲斐しく世話を焼いてやる理由は、勿論ない。
だがそれでも、今のこの状態で捨て置くのは忍びなかった。
ジョースターも、きっとそう思っていた筈だった。だからこそ、こうしてポルナレフの為に、1部屋余分に取ったのだ。


「・・・・優しい娘だな、君は。」

アヴドゥルは優しく目を細めて、江里子を見た。
だが江里子は、小さく笑って首を振った。


「そんなんじゃありません。私を買い被らないで下さい。」
「そんなつもりはないが。」
「私はただ、奥様の事を考えているだけです。奥様だったらきっとこうなさるだろうな・・・って思う事を、ただやっているだけです。
奥様が私を旅に同行させた理由の中には、ご自分に代わって皆さんのお世話をして欲しいっていう思いもあったでしょうから。」

江里子がそう言うと、アヴドゥルは静かに、そして少し可笑しそうに、微笑んだ。


「・・・・・全く、不思議なご婦人方だ。人の事にはこんなに細やかに気が付くのに、自分の事となるとまるで無頓着なのだから。」
「え?」
「君は自分からこの男の看護役を買って出たが、部屋で二人きりになって、この男に襲われるかも知れないとは微塵も考えなかったのか?」

答えはYESだった。
少し経ってからようやく気付き、『あ・・・・』と呟いた江里子を見て、アヴドゥルは苦笑した。


「フフ、やっぱりそうか。そんな事だろうと思ったよ。」
「いや、でも、それはありませんよ。」

江里子はぎこちなく笑いながら、それを否定した。


「この人はこんな状態ですし、それに、この人にだって好みのタイプってものがあるでしょう。それが私だとは、どうしても思えないんですけど。」
「好みのタイプでなければ、男は手を出さないと?」
「そりゃあそうでしょう!男の人はやっぱり、綺麗でスタイルの良い、人気者の女の子しか相手にしませんもの!」

それが世間の常識だった。
男にちやほやされるのは、美しく整った容姿や、明るく社交的で甘え上手な可愛い性格の女の子だけ。周囲の誰もが認めるマドンナのような女の子しか、愛しては貰えないのだ。
その影に霞んで隠れる、地味でパッとしない女の子は、同じ空間にいる事さえ気付いて貰えない。
ましてや、持ち物も付き合いも人並みの水準すら保てないみすぼらしい娘など、侮蔑と好奇、つまり虐めの対象でしかないのだ。


「・・・・・なるほどな。ならばやはり、気をつけた方が良い。」
「え?」
「君は十分チャーミングだ。」

だがそれは、江里子の知っている『学校』という狭い世界の常識に過ぎなかった。


「・・・・・・・・」

思いもかけない言葉がアヴドゥルの口から発せられ、江里子は思わず目が点になった。


「日本程治安の良い国はない。だから君には想像もつかないだろうが、世界には危険な輩が数多くいる。
これから先の道中、くれぐれも気を付けてくれ。決して単独では行動しないように。
尤も、この男に限っては大丈夫だろうがな。
君の言う通り、満身創痍の状態でとてもそんな元気はないだろうし、純粋な親切心で看護してくれている女性を襲うような下衆でもない筈だ。その恐れがあるようなら、皆、食事になど行かんからな。
だが、一応の用心は忘れない事!Do you understand?」

目の前でピッと人差し指を立てられて、江里子は我に返った。


「は、はい・・・・・」
「よろしい。」

アヴドゥルはまるで教師のような口調で満足げに頷くと、ドアに向かって歩いて行った。そして、部屋を出る寸前、ふと江里子の方を振り返った。


「ああ、何か必要な物はあるかな?もしあれば買って来よう。」
「あぁ・・・・、でしたら、あの、お粥・・・・・・・」
「ん?粥か?」
「はい。お粥を買って来て下さい。なるべくあっさりした味のものを。何なら白粥でも結構ですから。」
「分かった。すぐに戻る。」

バタン、とドアが閉まってから、江里子はベッドにドサリと座り込んだ。


「え・・・・・・・、えぇ・・・・・・・・・・!?」

吃驚する程のスロースピードで、今頃になって羞恥心が湧き起こってきた。
やれ貧乏人だ、やれ乞食だと、陰口を叩かれて馬鹿にされたり、汚いものを見るような目で見下されるのには慣れている。
だが、男性にチャーミングだと言われたのは、これが初めてだった。
だが、高校の同級生の中には、キスも、セックスさえも経験のある子が少なからずいた。
それなのに、こんな事位で激しく照れて動揺している自分がとてつもなく幼く思えて、それが益々羞恥を煽った。


「な・・・、何照れてんのよ・・・・・。
こんな事してる場合じゃないわ、早く用意しなきゃ・・・・!」

江里子は動揺している自分を叱り、必要以上の忙しなさで、看病の為の支度を始めたのだった。











「う・・・・・、うぅ・・・・・・・・」

ポルナレフが目を覚ます素振りを見せたのは、アヴドゥルが出掛けて行ってから1時間程経っての事だった。
もう一つの方のベッドで自分も横になり、ついウトウトとまどろんでいた江里子は、ポルナレフの呻き声を聞くや否や、ハッと覚醒した。


「うぅ・・・・・・、リィ・・・・・・」

江里子は傍らに用意しておいたバケツを手に、おずおずとポルナレフに近付いた。


「シェリー・・・・・・・・」

シェリーというのは誰なのだろうか。
ポルナレフは苦しげに、悲しげに、顔を歪めてその名を何度も呼んだ。
そして突然、勢い良く上体を起こした。


「シェリー!」
「きゃっ・・・・・!」

江里子と目が合った瞬間、ポルナレフはその名で江里子を呼び、江里子の手首を強く掴んだ。


「・・・・・・・」

何と返事をして良いか分からず、手を振り解く事も出来ず、江里子は硬直したまま、ポルナレフの透き通るようなブルーの瞳を見つめていた。


「・・・・・・・」

ポルナレフもまた、呆然と江里子を見つめていた。
きっとまだ起きたばかりで、今の状況を理解出来ていないのだろうと思われた。


「あ、あの・・・・・・・・」

江里子は恐る恐る、ポルナレフに話し掛けようとした。
するとその時、突然、ポルナレフが背中を丸めて口元に手を当てた。


「っ・・・・!どうぞ!」

江里子がポルナレフの目の前にサッとバケツを出すと、彼は乱暴にそれをひったくり、そこに嘔吐を始めた。
江里子は黙って彼の背中を擦り始めた。
やはり予想通り、花京院と同じような症状である。
彼を看病した時の事を参考に、フロントでバケツを借りてきておいて正解だったと、江里子は内心で自分を褒めた。


「ハァ・・・・・・、ハァ・・・・・・・」

少しして、落ち着いたのか、ポルナレフが顔を上げた。


「・・・・す、済まなかった・・・・。まずは礼を言う、ありがとう・・・・」

疲れ切った感じながらも、落ち着いた様子で口を利いたポルナレフにひとまず安心して、江里子は彼の背中を擦る手を止めた。


「大丈夫ですか、ポルナレフさん?」
「ああ・・・・、まあ、何とかな・・・・・・。酷ぇ気分だが。」
「それはそうでしょう。肉の芽を抜かれた直後ですから。」
「っ・・・・・!」

江里子がそう答えると、ポルナレフは警戒と殺気に満ちた目で江里子を睨んだ。


「なっ、何だお前・・・・!?何故それを知っている!?何故俺を知っている!?お前、何者だ!?」
「私は只の日本人です。」
「そんな訳あるか!!」
「貴方の事を知っているのは、私がさっきの闘いの場に居合わせたからです。」
「何っ・・・・!?」
「私はアヴドゥルさんの連れです。正確には、ジョースターさん達の。」

江里子はそう言いながら、ポルナレフにタオルを差し出した。
それでようやく合点がいったのか、ポルナレフはホッと肩の力を抜き、江里子からタオルを受け取った。


「・・・・・何だ、そういう事か・・・・・。」
「そういう事です。星野江里子と申します。
もしかして、私がいた事、ずっと気付いていなかったのですか?」

タオルで顔を拭いていたポルナレフは、ふと手を止めて、少しだけ肩を竦めて見せた。それは肯定の意味に受け取れた。


「・・・・・きっとDIOの呪縛のせいだな。アヴドゥル達以外は目に入らなかった。
いや、肉の芽を埋め込まれてからこっち、ずっとだ。
あちこち旅をして、多くの人間に会った筈なのに、もう随分長いこと人の顔を見ていなかったような気がする・・・・・。」

ポルナレフは覇気のない声でそう呟くと、ふと江里子の方を見た。


「そういやアンタ、俺が肉の芽を抜かれたと言ったな?それは本当なのか?」
「本当です。貴方はもう大丈夫ですよ。抜かれた痕も、手当てしておきましたから。」
「そうか・・・・・・、重ね重ね礼を言う・・・・・。ついでに、もう一つ尋ねたいのだが。」
「何でしょう?」
「マドモアゼル、色々訳知りのようだが、アンタもスタンド使いなのか?」

まだ血の気のない顔色をしていながらも、ポルナレフの鋭い瞳は、些かも警戒心を緩めていなかった。
だが、それは江里子にしても同じ事だった。
ジョースター達は彼を認め、助けたが、果たしてこの質問にどこまで答えるべきか、彼にどこまで心を許すべきか、江里子には判断がつかなかった。


「私は、承太郎さんの家の家政婦です。スタンドの事はジョースターさん達から聞いて一応は知っていますし、信じてもいます。
ですが、私は普通の人間です。スタンド使いではありませんし、スタンドを見る事も出来ません。」
「そんなフツーのお嬢さんが、何故奴等と一緒にDIOの元へ?」
「大した理由ではありません。ですが、私の口からは言えません。ジョースターさん達のお許しがない限り。」
「奴等にそう言えと言われているのか?」
「いいえ。多分そうした方が良いと、私が勝手に思っただけです。貴方はついさっきまで、私達の敵でしたから。」

江里子がそう言うと、ポルナレフは根負けしたような苦笑を浮かべた。
だがその苦笑いは、すぐに辛そうな顰め面に変わった。


「大丈夫ですか?また気分が悪くなりましたか?」
「いや大丈夫だ・・・・・・、頭が・・・・・・少し痛むだけだ・・・・・・」
「でしたら、これをどうぞ。」

江里子は、用意しておいた鎮痛剤をポルナレフに渡した。


「日本の鎮痛剤です。よく効きますよ。」
「・・・・・・・・」
「どうぞ。」

ポルナレフは疑わしげな眼差しで暫し江里子を見つめていたが、やがて小さく溜息を吐くと、江里子の差し出した薬と水のグラスを受け取り、素直に飲んだ。
もしかするとすぐに吐き戻してしまうかも知れないと思ったが、今のところは大丈夫そうだった。


「それ、片付けてきますね。」

江里子は、ポルナレフが抱えている吐瀉物の入ったバケツを引き取った。


「いや、そんな事までして貰う訳には・・・・・!」
「気にしないで下さい。それに貴方、今は多分立てませんよ?」
「何だって?マドモアゼル、馬鹿にしてもらっちゃあ困るぜ?俺はこの通り、ピンピンして・・・うっ・・・・・・・・!」

上掛けをはね除けようとしたポルナレフは、しかし次の瞬間、頭を押さえて蹲り、また力なくベッドに倒れ込んだ。
やはり、予想通りである。
江里子は少しだけ笑うと、バケツを持ってトイレに行った。
吐瀉物をトイレに流し、洗面所でバケツを綺麗に洗って雑巾で拭いてからまた部屋に戻ると、ポルナレフはちゃんと上掛けを被り直し、仰向けになって目を閉じていた。
だが、眠ってはいないようだった。



「・・・・・・アンタ、いちいち見通したような事ばかり言うな。本当に只の家政婦なのか?」

ポルナレフは訝しげに薄らと開いた瞳を、江里子に向けてきた。
江里子がそうであるように、彼も多分まだ、信じきれていないのだろう。
江里子だけではなく、ジョースター達の事も。
助けたのには何か魂胆があるのではと、思っているのかも知れない。
そうでなくても、承太郎達を始末するという任務に失敗し、なおかつ捕らわれた以上、DIOからどんな制裁が下されるかと、怯えているのかも知れない。


「本当に只の家政婦です。いちいち見通したように思えるのは、私がDIOの刺客だった人を看病した経験があるからです。それもつい数日前に。」

起きるのもままならない程弱った人間に、そんな強い不安を抱かせ続けるのは酷な気がした。だから江里子は、少し迷ってから口を開いた。


「私達と一緒に旅をしている花京院さんという人が、ほんの数日前までは、貴方と同じような状態でしたから。
だから、貴方の体調に関して、ある程度予測がつくんです。」

江里子は、花京院の事を少しだけ話して聞かせた。
同じDIOの刺客ならば、ポルナレフは花京院の事も恐らく知っているだろうし、これ位の話ならば、情報漏えいという程でもないだろうと考えた上で。


「・・・・ノリアキ・カキョウイン、か。ああ、知っているとも。奴の名はDIOから聞いていた。」

それで無用な不安から彼が解放されるならと思って、話した事だった。
だがポルナレフは、その疑わしげな眼差しを、相変わらず江里子に向けたままだった。


「ならば、あの男にも肉の芽が植え付けられていたという事か。
だが、普通の人間であるアンタに肉の芽を引き抜く事など出来る筈がない。一体誰が・・」
「意外とお喋りなんですね、貴方。」

江里子は、ポルナレフの質問を遮った。
自分の判断がもし間違っていたら、もしもジョースター達に迷惑をかける事になるのなら、一大事である。
こちらの事はやはりこれ以上何も話すべきではないと、江里子は判断した。


「さっきから貴方ばかり質問していて、不公平です。
そうやってあれこれ質問して、私に何を喋らせようとしているのですか?」
「べ・・・・、別にそういうつもりじゃあ・・・」

急に冷ややかな口調になった江里子に、ポルナレフは少々戸惑っているようだった。
しかし、平静を装いながらも、その実、江里子は必死だった。
スタンドもなく、闘えもせず、何も出来ないのだから、せめて皆の足を引っ張る真似だけはするまいと、その一心で。


「じゃあ、今度は私に質問させて下さい。」
「・・・・・・どうぞ?」

ポルナレフは諦めたように、小さく肩を竦めた。


「貴方、さっきうなされて、『シェリー』って何度も呼んでいましたね。シェリーって誰ですか?」

それを聞いた瞬間、ポルナレフの表情が固く強張った。
と同時に、部屋のドアの鍵が開き、ジョースター達がゾロゾロと入って来た。





「ただいま、エリー!看病ご苦労さんじゃったのう!
おおポルナレフ、君も起きとったのか!いやいや、無事に気が付いたようで何よりじゃ!」

ジョースターは、ベッドの上に起き上がっているポルナレフを見て、あの温かい表情で笑った。
それは、およそ敵に向けるような顔ではなかった。


「エリー、頼まれていた物を買って来たぞ。これで良かったか?」
「は、はい。ありがとうございます。」

江里子は、アヴドゥルから粥の入った紙袋を受け取った。
顔は何となく、何となく、直視出来なかったが。
江里子はそそくさとポルナレフを振り返り、彼に見えるよう、お粥の紙袋を少しだけ掲げた。


「ポルナレフさん。これ、お粥です。食欲が少しでも出てきたら食べて下さいね。ちょっとでも良いですから。
鎮痛剤ももう少し置いていきます。でも、6時間ぐらい空けてから飲んで下さいね。」

テーブルの上には、既に色々と用意をしてある。
冷蔵庫の中でキンキンに冷えていたミネラルウォーターのボトルは、今は程良く温くなっているし、部屋に備え付けだったグラスも、ちゃんと洗い直して、鎮痛剤と共に水のボトルに添えて置いた。
タオルやティッシュはベッドサイドのテーブルに纏めて置いてあるし、催した時の為のバケツも、ポルナレフのベッドのすぐ脇に置いてある。
仕上げに、アヴドゥルに買ってきて貰ったお粥とスプーンを置けば、準備万端だった。


「皆さんも戻られましたし、私も少し、お部屋で休ませて頂いてもよろしいでしょうか?」

全てを揃えたところで、江里子はジョースターにそう願い出た。
そう、江里子自身にも、結構限界が迫っていたのだ。
慣れない旅行、初めての飛行機、まさかの墜落事故、その3大要素からなる徹夜状態のところへ、とどめとばかりの月のもの。
幾ら江里子が丈夫な方だとはいえ、これは流石に辛かった。
まだ昼過ぎだが、今日はもう疲れきっていて、これ以上何も出来そうになかった。


「ああ、そうすると良い。儂らも皆、今日は各自の部屋でゆっくり休むとしよう。
明日は朝飯を終えたらすぐに出発じゃからな。各々、よく身体を休めておくように。
腹が減ったら、遠慮なくルームサービスで好きなものを取ってくれ。
特にエリー、君はまだまともに食っておらんからな。後で必ず何か食うように。
無茶なダイエットはしちゃあいかんぞ。女の子は少し位ふっくらしている方が断然可愛いんじゃ。」
「ふふっ、ありがとうございます。」

ジョースターは笑顔で江里子にウインクをして見せると、すぐに真面目な表情に立ち返り、ポルナレフの方を向いた。


「我々は明日出発するが、この部屋だけは3日分の宿代を払ってある。君もゆっくり傷を治すと良い。」
「・・・・・恩に着ます、ムッシュ・ジョースター。」

ポルナレフは、何だか居た堪れなさそうな表情で目を伏せた。


「なぁに。ではな。」

左手を軽く挙げて、ジョースターは一足先に出て行った。


「じゃあ、俺達も行くか。」
「そうですね。江里子さん、お先に。また明日。」
「はい。おやすみなさい・・・って、まだ明るいですけど。ふふっ。」
「はは、違いない。」

次に、承太郎と花京院が自分達の部屋に帰って行った。
そしてアヴドゥルが、自分の荷物を手に、江里子を促した。


「我々も行こうか、エリー。」
「はい。」

これではまるでアヴドゥルと江里子が同室のようだが、勿論違う。
アヴドゥルはジョースターと同室で、江里子は一人部屋だった。
江里子も自分の荷物を持ち、アヴドゥルについて出ようとした。
だがその時、アヴドゥルがふと思い立ったように、ポルナレフの元に歩み寄っていった。


「ポルナレフ。良ければこれを使うと良い。」

アヴドゥルはそう言って、懐から紅色の小さな物を出し、サイドテーブルに置いた。
蓋に燃え盛る炎のようなエキゾチックな模様が施されている、とても美しい容器だった。


「我が一族秘伝の傷薬、火傷にてきめんに効く。ではな。」

ポルナレフの礼を待たずして、アヴドゥルはドアの方へ歩いて行った。


「・・・・・お大事に。」

江里子もポルナレフに小さく頭を下げると、アヴドゥルの後を追ったのだった。























翌朝、朝食を済ませると、江里子達はホテルをチェックアウトし、港に向かった。
結局あの後、誰もポルナレフの部屋には行かなかったし、メッセージも残さなかった。
具合はどうなのか、全く気にならないではなかったのだが、肝心のジョースター達がそうしているのに、自分が出しゃばる訳にもいかず、江里子もまた彼の事は一切口にせず、黙ってジョースター達につき従っていた。


「昨日、スピードワゴン財団にチャーターを依頼した船が、既に港に入っている筈じゃ。」

港には、数多くの船が停泊していた。
どれも立派な船舶ばかりだが、一体どれがチャーターした船なのだろうか。
一行の一番後ろをついて歩きながら、江里子は辺りを見回していた。


「おっ!?」

突然、男達が足を止めた。
彼等の前に、誰かが突然立ちはだかったのだ。


「・・・・どうした?まだ何か?ポルナレフ。」

アヴドゥルが、軽く首を傾げてその人、ポルナレフを見た。
ポルナレフは、少しバツが悪そうに口を開いた。


「まだDIOの呪縛を解いて貰ったお礼を言ってない。」
「だったら私でなくジョジョに言え。」
「要らないな。」

皆、即答だった。
アヴドゥルは微かに笑って肩を竦めた。


「ハッ、折角の礼だが、受け取り手はいないらしい。」
「あ、あぁ・・・・・」

出鼻を挫かれたような、途方に暮れたようなポルナレフが、少しだけ気の毒だった。
別に邪魔になるものでもなし、お礼の言葉ぐらい素直に受け取ってやれば良いものを。
男達の冷淡なやり取りを見ながら、江里子は心の中で思った。


「分かった、くどいのは俺も嫌いだからな。だが用はもうひとつ。ムッシュ・ジョースター。」
「んん?」
「ものすごく奇妙な質問をさせて頂きたい。」
「奇妙な質問?」
「詮索するようだが、貴方は食事中も手袋を外さない。まさか、その左腕は右腕ではないだろうな?」

ポルナレフはまた、あの疑わしげな眼差しでジョースターをまっすぐに見据えた。
どうやらこちらの方が、彼にとっては本題のようだった。


「あん?左腕が右腕?確かに奇妙な質問じゃ。一体どういう事かな?」
「妹を殺した男を捜している。」

ポルナレフは、怒りの滲み出ている声でそう答えた。


『!!』

承太郎達も少なからず気になるようだったが、江里子も同じだった。
昨日、ポルナレフがうなされて口にした女の名前が、江里子の脳裏に蘇った。


「顔は分からない、だが、そいつの腕は両腕とも右腕なのだ。」

訳の分からない話だった。
だが、ジョースターは何も言わず、左手の手袋を外して見せた。


「あっ・・・・!」

出てきた彼の左手を見て、江里子は思わず声を上げてしまった。


「50年前の闘いによる名誉の負傷じゃ。」

ジョースターの左手は、鈍い銀色に光る金属製の義手だった。
ポルナレフもまた驚いたらしく、大きく目を見張ったが、やがて済まなそうに長い睫毛を伏せた。


「・・・失礼な詮索であった。許してくれ。」
「良ければ何があったのか聞かせてくれんか?」

ジョースターは元通りに手袋を嵌めながら、ポルナレフに尋ねた。
するとポルナレフは、江里子達に背を向けて防波堤のギリギリの所まで歩き、穏やかに煌めく海を眺めながらポツポツと話し始めた


「もう、3年になる・・・・。
俺の妹は雨の日、学校からの帰り道を、クラスメイトと二人で歩いていた。故郷・フランスの田舎道だ。
道の端に男が一人、背を向けて立っていた。
不思議な事に、雨なのにその男の周りは、透明の膜でもあるかのように、雨がドーム状に避けて通っていた。
突然、クラスメイトの胸が、かまいたちにでもやられたかのように裂けた。
そして次に、妹が辱めを受け、殺された・・・・・。
男の目的は、ただそれだけだった。九死に一生、命は取り留めたその友人の証言だ。
その友人は、男の顔は見ていないが、両腕とも右腕だったと・・・・。」

ポルナレフの英語は、フランス訛りなのかイントネーションが所々変わっていて、江里子にはよく聞き取れなかったり理解出来なかった部分もあった。
だが、彼の妹がレイプされて殺されてしまったという事は理解出来た。
きっとその気の毒な少女が、『シェリー』なのだ。
ポルナレフの話を聞いて、江里子はそう感じた。


「誰もそれらの証言の内容を信じなかったが、俺には理解出来た。
俺がそれまで誰にも隠していた能力と同じものを、その男は持っていると思ったからだ!」

ポルナレフが力を込めて断言すると、ジョースターも頷いた。


「明らかにスタンド能力者だ。」
「俺は誓った!」

ポルナレフは振り返り、ジョースター達の方を見た。


「我が妹の魂の尊厳と安らぎは、そいつの死でもって償わなければ取り戻せん!
俺のスタンドが、然るべき報いを与えてやる!
そして1年前、俺はDIOに出遭った!!」

今の江里子には、それが単なる偶然とは思えなかった。
アヴドゥル、花京院、タワーオブグレー、そしてこのポルナレフ。
DIOは、ジョースター家の血を引いていないスタンド能力者のことごとくと出遭っているのだろうか。
もしそうだったとすれば、それは偶然ではない、DIOの力で引き寄せられての事ではないだろうか。そう思えてならなかった。


「・・・・・妹の弔いが済んでから、俺は仇を捜して世界中をあてもなく彷徨っていた。捜せども捜せども、何の手掛かりも掴めず、時間だけが無駄に過ぎていった。
そんな中、ふと思い立って立ち寄ったエジプトで、夜のカイロの街角で、俺は奴に出遭ったのだ。
只者じゃないと思った瞬間、奴は俺に話し掛けてきた。
君は何か大切なものを失くしたな、と。そして、それを取り戻す術を、自分は知っている、と・・・・・」

妹の仇を求めて孤独に彷徨っていたポルナレフが、その誘いに乗ってしまったのも無理はなかった。
手掛かりすら掴めず、焦れて苛立っていたであろうところへ、そんな甘言で誘われてしまったら。


「俺は誘われるまま、奴の館だという建物に入っていった。
階段を最上階まで上がると、ガランとした部屋があった。
その部屋の台座の上に、大きな水晶玉と香炉があった。
香の不思議な匂いが鼻についた。一体何の香なのか、初めて嗅ぐ匂いだった。
そして、水晶玉に人影のようなものが映っていた。
DIOはそれを、ビジョンだと言った。
私のではない、君自身の心の中が、私の能力を通じて念写させているのだ、と。」

念写、という言葉が、江里子の心に引っ掛かった。
念写の能力は、ジョースターのスタンドの能力だ。
ジョースターのそれはまだ見せて貰っていないが、彼と同じものなのだろうか、それとも、全く異なるのだろうか。
普通の人間である江里子には、判断がつかなかった。


「奴はこうも言った。『どうだね?ひとつ・・・・、私と友達にならないか?』と。
俺は何も言えず、ピクリとも動けなかった。まるで金縛りにあっているみたいに。
そんな中、奴の声が聞こえてきた。耳じゃなく、心の中に直接聞こえてきたんだ。
『君は悩みを抱えている。苦しみを抱いている。私と付き合えば、きっと心の中から取り除けると思うんだ。今の水晶の像が、君の苦しみなんだね。力を貸そうじゃないか。』
奴の声は、俺の心にそう語りかけてきた。長年の親友のように、家族のように、優しく、親しげに、俺の心に寄り添うようにだ。
そして奴は、私にも苦しみがあって、日光の下に出られない身体なのだと言った。だから私にも力を貸してくれ、と。そして・・・・・・」

ポルナレフは一瞬、辛そうに顔を顰めた。


「『この男を捜し出してやるよ!』という声が聞こえた瞬間、俺の額に何かが・・・・、そう、肉の芽が突き刺さった・・・・・・。
そうして、君らを殺して来いと命令された。それが正しい事と信じた・・・・。
記憶がはっきりとしているのは、この時までだ。
それから後の事は、全く覚えていない訳ではないのだが、何だかぼんやりと薄ぼけていて・・・・・」

花京院が黙ったまま、小さく頷いていた。きっと彼も同じ状態だったのだ、だからポルナレフの言っている事がよく分かるのだろう。


「肉の芽のせいもあるが、何て人の心の隙間に忍び込むのが巧い奴なんだ・・・・」

話を聞き終わったアヴドゥルは、厳しい表情で唸った。
人の心の隙間に忍び込む、正にその通りだと、江里子も思った。


「うん。しかし話から推理すると、どうやらDIOはその両手とも右腕の男を捜し出し、仲間にしているな。」

推理と言ったが、花京院は少なからず確信を持っているかのような口ぶりでそう言った。根拠があるのかないのかは分からない。だが江里子も、花京院と同意見だった。
その男が十中八九スタンド使いである以上、DIOの息が掛かっていないとは考え難い。通りすがりの少女をレイプして殺害するような下劣な人間ならば尚の事、肉の芽で操られるまでもなく、タワーオブグレーのように自らDIOに与している事も十分に有り得ると考えたからだ。


「俺はアンタ達と共に、エジプトに行く事に決めたぜ!!DIOを目指して行けば、きっと妹の仇に出遭える!!」

ポルナレフは、連れて行ってくれと頼みはしなかった。
一緒に行っても良いかと、許可を得る事もなかった。
ただ共に行くと断言したその強い口調に、江里子は彼の揺るぎない意志を感じた。


「どうします?」
「私に異存はありませんが。」
「フン。」
「どうせ断ってもついて来るじゃろうしなぁ。」

花京院もアヴドゥルも、承太郎もジョースターも、嫌がる素振りは全く見せなかった。


「では、改めて自己紹介だ!
ジャン・ピエール・ポルナレフ!スタンド名、シルバーチャリオッツ!能力、素早く正確無比な剣!宜しく頼むぜ!」

かくして、思いがけず新たな仲間が加わった。
とても腕の立つ、どうも素の性格は陽気らしいフランス人が。
ついさっきまで深刻な話をしておきながら、茶目っ気のあるポーズを決めて見せるポルナレフを見て、江里子はふとそう思った。


「やれやれだ・・」
「すみませぇん!」

承太郎のいつもの口癖が出たその時、女子大生と思われる女の子が2人、日本語で話し掛けてきた。


「ん?」
「ちょっと、カメラのシャッターを押して貰えませんかぁ?」

承太郎を見上げる彼女達の瞳は、やはり、ハートになっていた。
『素敵ぃ♪きっかけ作っちゃお〜っと!』という心の声が、ダダ洩れに聞こえてきそうな程だった。


「お願いしまぁ〜す♪」
「海を背にしたいんですぅ♪」

承太郎が目に見えて苛々し始めた。
やがて轟くであろう野太い怒鳴り声に備えて、江里子は耳を塞いだ。


「やかましい!!他の奴に言え!!」

そらきた、と思った瞬間。


「まあまあ、まあまあ!写真なら私が撮ってあげよう!」

ポルナレフが横から割って入り、女の子からカメラを受け取った。
正確には、女の子の手から有無を言わせずカメラを奪い取ったのだが。


「ささ!さあさあ!君、綺麗な脚してるから、全身入れようねぇ♪」
「はぁ・・・・」

彼女達の肩などを抱きながら、ポルナレフは堤防の方へと歩いて行った。
傍で見ていると結構強引で馴れ馴れしく見えるのだが、彼女達自身はキョトンとした顔で、されるがままになっていた。
明るいノリでごく自然な感じを装っている上、少し早口で喋っているので、きっと何が何だか分かっていないのだろう。


「おおーーーっ!イイねぇ!!もう1枚、イクよぉ!!トレビア〜ン!!」

ポルナレフはまるでアイドルのグラビア写真を撮るカメラマンのように、彼女達に次々とポーズを要求し、シャッターを連打していた。


「シャッターボタンのように、君のハートも、押して、押して、押しまくりたいなぁ!」
「ねえねえ、あの人さっきから何言ってるか分かる?」
「分かんなぁい。っていうか何枚撮ってくれるつもりなんだろうね?フィルムなくなっちゃうかも。」
「え〜困るぅ!」

紙よりも薄っぺらい口説き文句を平気で吐くポルナレフもポルナレフだし、英語もろくに出来ないのに、危なっかしく女二人で海外旅行をしている彼女達も彼女達だし。
にわかアイドル&カメラマンと化している彼等を眺めながら、江里子は呆れずにはいられなかった。


「・・・・何か、分からん性格のようだな。」
「随分、気分の転換が早いな。」
「というより、頭と下半身がはっきり分離しているというか・・・・」
「・・・・やれやれだぜ。」

アヴドゥルも、花京院も、ジョースターも、承太郎も、皆、似たような面持ちでその撮影会が終わるのを待つのだった。




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