江里子がジョースターと共に実家に帰っていた間に、メディカルチームが到着していたようで、部屋の中は物々しい機材で一杯だった。
心電図、脳波、その他様々な検査が早速行われ始めているらしく、ホリィの身体には色々な管や電極線が付けられていた。
ホリィは荒い呼吸を繰り返し、眠っていた。
熱を下げる為の鎮静剤の点滴がなされてはいるが、まだ薬が効いていないのか、熱は40℃のままだった。いずれ薬が効いてきて、多少は下がるだろうというのが医師の見解だった。
江里子はそれを信じる事にした。
もし効かなかったら、とか、もし下がらなかったら、と考えてしまったら、ここから一歩も動けなくなるからだ。
ホリィの看護は、優秀なメディカルチームが24時間態勢で行う事になっているし、そうである以上、家政婦の出る幕はない。
自分に出来る事はホリィとの約束を守る事だけ、ホリィの命を懸けた頼みを聞き届ける事だけなのだ。
江里子は、後ろ髪を引かれている自分にそう言い聞かせた。
「・・・・行って参ります、奥様。お約束は必ず・・・・・!」
江里子は眠るホリィの手を握りしめ、そう誓った。
そして、荷物の詰まったボストンバッグを手に、部屋を出た。
空条家の玄関前には、黒塗りのベンツが何台も集結していた。
そして中から、黒づくめのスーツの男達が、続々と降りてきていた。
全てスピードワゴン財団のメディカルチームのスタッフ陣や関係者との事だったが、江里子は只々圧倒されるばかりだった。
本来ならば、家政婦として彼等にお茶を出さねばならないところだが、しかし、只今をもって家政婦業は一時休業である。
ひっきりなしに出入りする客人達に軽い会釈だけをして、江里子は玄関の外で待っているジョースター達の元に急いだ。
「お待たせしました!」
江里子は、彼等の元に駆け寄った。
すると、承太郎以外の三人が、思いっきり驚いた顔をした。
「エリー!その姿は!?」
ジョースターが、江里子を上から下まで眺めてそう言った。
一瞬、何だろうかと考えてから、ようやく合点がいった。
「え?・・・ああ、服装ですか?」
そう。
旅に出るに当たって、江里子は私服姿だった。
邪魔な伊達眼鏡は外し、いつも黒いゴムで一つにひっつめている髪は下ろしてバレッタで留め、動き易さを重視してハイヒールこそ履いていないが、ジャケットもカットソーもキュロットスカートもローファーも、全て年齢に合った女の子らしいデザインの物だった。
「全部、奥様に買って頂いたものなんです。」
男達にまじまじと見られるのが恥ずかしくて、江里子ははにかみ、視線を逸らした。
「その方がとても良く似合いますよ、星野さん!
失礼ですが、何故いつもその・・・、中年のおばさんのような服装を?」
「とうとう訊いたな、花京院。実は私もそれを疑問に思っていたのだ、エリー。
ジョジョは、君のファッションセンスが悪いのだと言っていたが、本当にそうなのか?
私にはどうもそう思えないのだが。もし本当にそうなら、それこそホリィさんが黙ってはいるまい。違うかね?」
花京院とアヴドゥルが、意外にも興味深そうに尋ねてきた。
「・・・・・実は、私も好きで着ている訳では、いえ、自発的に着ているのは本当ですが、良いと思って着ているのではなく、必要に迫られての事なんです。」
「必要!?どんな必要なんじゃ!?」
ジョースターも食いついてきた。
そんなにも変だったのかと、江里子は少しショックを受けた。
それと同時に、改めて承太郎に対する腹立ちがふつふつと沸いてきた。
「・・・・皆様もよーーくご存知でしょうが、承太郎さんはこの通り、とても素敵なお方ですから、たいそう女の子におモテになるのです。特に、不良になられてからは一層。
毎日のように追っかけのお嬢様方が家の前をたむろなさっているのも、皆様ご存知でしょう?
私が学校のセーラー服や普段着姿でいると、その方達が私に絡んでこられて、とても仕事がやり難くなるので、やむなくオバサンに見えるような服を着るようになったんです。」
江里子はそう答えて、承太郎をキッと睨んだ。
「あのスタイルを始めるまでは、それはもう大変でしたから。
私の事を承太郎さんの恋人か許嫁か、なんて思い違いはまだマシな方で、酷い人は私をいきなり突き飛ばしたり蹴ったり、ちょっと言えない程下品な言い掛かりをつけて喚き散らしてこられましたからね。ねぇ?坊ちゃま?」
嫌味たっぷりに江里子が同意を求めると、承太郎はあからさまにそっぽを向いた。
「奥様もそれをご存知なので、敢えて私の普段の服装には口出しをなさらないんです。
だけど、お出かけの時ぐらいはオシャレしなさいって、時々こうしてお洋服を買って下さっていたんです。
本当に私に似合っていますか?花京院さん?」
「え、ええ、勿論です。本当に良くお似合いですよ。」
「ありがとうございます!」
江里子は花京院に向かってにっこりと微笑むと、もう一度承太郎を睨み上げた。
「なのにファッションセンスが悪いだなんて、よくもまあそんな不名誉な事を仰いますこと。」
「仰いますこと。」
「うむ。」
江里子に、ジョースターに、アヴドゥルにジト目で睨まれ、
承太郎は苦虫を500匹ぐらい噛み潰したような顔で、煙草を吸い始めた。
その様子を見て、誰からともなく笑いが零れた。
だがそれは、ほんの束の間の事だった。
「さあ、話はこの位にして、そろそろ行こうか!」
ジョースターが、高らかに旅の始まりを宣言した。
すると、アヴドゥルがおもむろに懐からカードの束を取り出した。
「ジョジョ、出発前に占い師のこの俺が、お前のスタンドの名前を付けてやろう。」
「名前?」
「運命のカード、タロットだ!絵を見ずに、無造作に1枚引いて決める。
これは君の運命の暗示でもあり、スタンドの能力の暗示でもある!」
承太郎は言われた通り、アヴドゥルの掌に載せられたカードから、無造作に1枚引いた。
出たカードは。
「『星』!スターのカード!」
そのカードに描かれているサイケデリックな感じの不思議な絵を、江里子は固唾を飲んで見つめた。
今この時が、何だかとても重要な、喩えて言うなら生命の誕生の瞬間に立ち会っているかのような、特別で神聖な一瞬に思えた。
「名付けよう。君のスタンドは、【星の白金−スター・プラチナ−】!!」
アヴドゥルが今、承太郎の不思議な能力、スタンドに、名を授けた。
名前には、特別な力が宿るという。それを与えられた承太郎のスタンドは、今、本当の意味で覚醒したのだと、江里子は感覚的に思った。
「・・・・・・・承太郎さん。そのスタンド・・・・、スタープラチナを、私に見せて下さいませんか?」
江里子は思わず、そう口走っていた。
承太郎は、無言で江里子を見た。
その視線が何を言いたがっているのか、江里子には勿論分かっていた。
「私の目に見えない事は承知しています。だけど、見えなくても『見てみたい』んです。お願い出来ませんか?」
「・・・・・・全員、少し離れてろ。」
承太郎は皆と少し距離を取ると、ズボンのポケットから小銭を掴み出した。
「よく見てろよ、江里。」
そして、その一掴みの硬貨を、おもむろに大きく振りかぶり、彼方に向かって思いきり投げた。
だが。
「オラオラオラオラオラオラーーーーーッ!!!」
凄まじいスピードで向こうに飛んでいく筈の硬貨は、全て、承太郎から僅か数m未満程度の位置で勝手に止まった。
「ああっ・・・・・・・・!」
更にそれが、勝手に承太郎の手元に戻ってきた。
信じられない光景だが、しかし、これは紛れもなく現実だった。
「・・・・・凄い・・・・・・・」
江里子は何度も瞬きをしながら、呆然と呟いた。
すると承太郎が、ボソボソと呟いた。
「俺のスタンドの能力は、精密な動きと豪快な力だ。」
「ならばついでじゃ。儂のスタンドもお見せしよう。」
今度はジョースターが、一人で皆から離れて行った。
「儂のスタンドは、【隠者の紫−ハーミット・パープル−】。カードの暗示は『隠者』、能力は念写。
じゃがその媒体となるカメラが今は無いので、またおいおい見せるとして、だ。
儂のスタンドは棘のような形状をしておってな、ロープや鞭のように使う事も出来る。」
そう言うと、ジョースターはおもむろに手を伸ばした。
ただ手を伸ばしただけで、何に届く訳でも、何が掴める訳でもない。
だが。
「え・・・・・・・?」
「ほれ、この通り。」
「えぇっ!?」
ジョースターから数mは離れている筈の承太郎の帽子が、ひとりでに承太郎の頭を離れ、宙を飛び、ジョースターの手の中に納まった。
「攻撃は勿論、何かを掴み取ったり、絡め取って拘束する事も出来るのじゃ。
もっとも、あまり攻撃力は高くないがな。」
ジョースターは江里子にウインクして見せてから、苦々しい顔で承太郎を叱った。
「おい承太郎。エリーに謝らんか。お前のせいで、エリーがかなりの迷惑を被っておったようじゃあないか。
大体、お前の取り巻きの女は、下品なのが多過ぎなんじゃあ。
毎朝毎朝、人の家の前でピーチクパーチク大声で騒いで、礼儀も何もなっとらん。
お前が礼儀を弁えとらんから、女も同じようなのばかりが集まってくるんじゃ。」
「フン。」
承太郎は相変わらずそっぽを向いたまま、煙草を吹かすだけだった。
「では、私もお見せしようか。」
そんな承太郎を、肩を竦めて一瞥してから、今度はアヴドゥルが動いた。
「私のスタンドは、【魔術師の赤−マジシャンズ・レッド−】。
ジョースターさんやジョジョとは違い、生まれながらに持っている。
カードの暗示は『魔術師』、能力は火炎と熱。言うまでもなく、攻撃に特化したスタンドだ。」
アヴドゥルはそう言うと、皆から離れるのではなく、江里子のすぐ側にやってきた。
そして、何かを載せているように、掌を上に向けた。
「エリー。私の掌の上に、自分の手をかざしてみろ。」
「こ、こうですか・・・・・?」
江里子は言われるがまま、アヴドゥルの掌の上に、自分の手をかざした。
すると、じんわりとした温もりが感じられた。
「え・・・・・・・!?」
「フフ。」
「何で!?あったかい・・・・・・、えぇっ・・・・・!?」
それは、まるで焚火に当たっているような心地良い温かさだった。
だが、アヴドゥルの掌の上には何もない。
いや、江里子の目に見えないだけなのだ。
そこには彼のスタンド、マジシャンズレッドの能力で出した炎がある、という事なのだろう。
「うわ・・・・・、すごい・・・・・、あったかい・・・・・・!」
子供の時のような無邪気な喜びが、江里子の中に湧き起こっていた。
知らず知らずのうちに、両手をかざしてしまっている。
そんな江里子に、アヴドゥルは優しい声音で諭した。
「それ以上、手を近付けてはいけないぞ。火傷をしてしまうからな。
君の目には見えないだろうが、私の掌の上には小さな炎の玉がある。
見えなくてもそれは普通の火と同じ、触れるものを焼き焦がす。」
「はい。」
「・・・・・・・・・星野さん。私のスタンドも、見てくれますか?」
いつの間にか、花京院が江里子のすぐ隣にいた。
一体いつの間にいたのだろうかと、江里子は内心で少し驚いた。
「・・・・是非。見せて下さい、花京院さん。」
花京院の表情は、どういう訳か、他の三人とは違っていた。
他の三人は多少なりとも誇らしげな感じが見て取れたのだが、彼はそうではなかった。
強いて言えば、少し沈んだような顔をしていたのだ。
その理由を、江里子はすぐに知る事となった。
「・・・・・・私のスタンドを普通の人に見せるのは、随分久しぶりです。
まだほんの小さい頃、両親と、近所に住んでいた仲の良い幼馴染に見せたっきりですので。」
「花京院さんも・・・・・・、アヴドゥルさんのように、生まれつきそのスタンドを?」
「はい。物心ついた時には、既にスタンドは私の一部であり、私そのものでした。
だから私はある日、両親や幼馴染に見せたのです。
幼子が自分の描いた絵を、親や友達に自慢げに見せるのと同じような感覚で。」
ここまでの花京院の話は、江里子にも十分想像がつき、理解する事が出来た。
江里子は固唾を飲み、花京院の話の続きを待った。
「・・・・結果、私は独りになりました。気味悪がられたのです。
精神に異常をきたしているのか、或いは何か悪霊のようなものが憑いているのか、とにかくこの子は普通じゃないと。
母は悩み、泣き、終いには精神安定剤まで常用するようになり、私を腫れ物のように怖々と扱うようになりました。
父は仕事を理由に私から、そして、私を育てる事にそこまでの重圧を抱えている母から逃げました。
もし父の社会的立場がなければ、私は母共々捨てられていたかもしれません。」
「お父様の・・・・・・?」
「父は外務省勤務の官僚で、それなりの要職に就いています。詳しくは知りませんが。
母も父の上役の娘でしたし、立場上、流石に妻子を捨てるという外聞の悪い事は出来なかったようですが、気持ちの上では捨てたも同然でした。少なくとも私には、そうとしか思えませんでした。」
花京院家は、江里子の生まれ育った星野家とは対極に位置する上流家庭だった。
だが、味わってきたであろうその孤独感は、江里子にもよく理解出来た。
「幼馴染ともそれ以来口を利く事もなく、やがて誰も私に近付かなくなりました。あなた方以外は。」
その途端、江里子の周囲の空気が変わったような気がした。
「っ・・・・・・・!」
「・・・・・分かりますか?星野さん。」
「・・・・背中に・・・・、触れ合うぐらい私のすぐ後ろに・・・・・」
江里子は息を殺して、それを感じていた。
それは、江里子の背後にいた。
いつの間にそこにいたのか、今の今まで気付かなかったが、今は確かにそこにいる。
そんな気がしてならなかった。
「・・・・・これは・・・・・、私の思い込みのせいでしょうか・・・・・・?
今からスタンドを見せて貰うんだって、知っているから・・・・・・」
「いいえ、思い込みなどではありません。私のスタンドは今、貴女のすぐ後ろに立っている。
良かった、ちゃんと感じて貰えて。」
花京院は目を細めて江里子を見つめた。
その微笑みがやけに艶めいて見えて、江里子は思わず恥じらい、視線を逸らした。
「私のスタンドは、【法皇の緑−ハイエロファント・グリーン−】。
カードの暗示は『法皇』、能力は遠隔操作とエメラルド・スプラッシュ。どういう事かと言いますと・・・・・」
幸いにも、花京院はそれに気付いていないようだった。
彼は次に、承太郎へ視線を向けた。
「ジョジョ。今から暫くの間、無抵抗でじっとしていてくれ。間違ってもスタープラチナなど発動させないように。」
「あぁ?テメェ、何考えてんだ?」
「いいから。大人しくしていれば、危害は絶対に加えないから。」
「・・・・・何だか嫌な予感がするぜ・・・、っ・・・・!!」
苦々しい表情を浮かべたのも束の間、突然、承太郎の様子がおかしくなった。
表情も、身体も、強張っているように妙にぎこちないのだ。
何事が起きているのかと凝視していると、やがて承太郎は、軋んだ音を立てそうな程ぎこちない動作で、身体ごと江里子の方を向いた。
そして。
「・・・・え・・・、エリコサマ・・・・、コレマデノ数々ノゴ無礼、モウシワケアリマセンデシタ・・・・、ドウカお許シ下サイ・・・・・!」
などとのたまい、お手本のような完璧な角度で頭を下げたではないか。
驚きの余り、江里子は声も出せなかった。笑えるような心の余裕など、勿論なかった。
「・・・・・・と、こういう能力です。」
この妙な緊張感を楽しげな笑い声で断ち切ったのは、花京院だった。
「・・・・・・花京院テメェ・・・・・・!」
「だって君、素直に謝りそうにはないじゃあないか。ま、余興も兼ねての謝罪だと思って、水に流してくれ。」
「小せぇ頃に人に見せたってのも、こんな感じでやらかしやがったんじゃねぇだろうな?」
「それが何か?」
花京院のスタンドの能力は、人を操り、思いのままに動かしたり喋らせたりする事。
ある意味、ここにいる中で一番恐ろしい能力の持ち主ではないだろうか。
承太郎の文句を飄々と受け流す花京院を見ながら、江里子は密かにそんな事を考えていた。
すると、ジョースターやアヴドゥルも、何だか微妙な面持ちを見せた。
「まあ・・・・・、君には気の毒だとは思うが・・・・・・」
「君のアプローチも、多少は悪かったんじゃあないかなぁ・・・・・・。」
「分かっています。今はね。ですが、当時はまだ幼稚園児でしたので。」
花京院のパフォーマンスは、あまり趣味の良いものではなかったというのが、どうやら全員一致の感想のようだった。
怖いと思ったのは自分だけではなかったのだと、少し安心したその時、花京院が不安げな顔で尋ねてきた。
「すみませんでした、星野さん。怖がらせてしまいましたか?」
「・・・・・・実は・・・・、かなり・・・・・・。」
花京院は分かっている。
自分の能力は、人を多少なりとも怖がらせる、場合によっては深刻なトラウマを抱える程の衝撃を与えるようなものだと。
それを敢えて自分から見せたのは、多分、ここに居る者達を信じ、共に闘いたいと、本気で思っているからだ。
江里子には、そう思えてならなかった。
だから江里子も、自分の思った事を、そのまま伝えた。
下手なフォローや気休めは、却って失礼になる気がした。
「・・・・・・でも、大丈夫です。それだけ、頼もしいって事ですから。」
「・・・・頼もしい?」
「だって、怖いって気持ちは誰にでもあるものでしょう?
人間にだって、動物にだって。それが生きる為の本能ですもの。
だから、きっと敵にだってある筈です。
こう言っては何ですが、私程度の人間が全く怖いと思えない能力なら、勝てる気がしませんから。」
花京院は暫し、唖然と江里子を見つめていた。
だが、やがて、ゆっくりと花が開く時のように、優しい微笑みを浮かべた。
「・・・・・・・・ありがとう、星野さん。」
そんな花京院に、江里子も笑顔で応えた。
「その呼び方、やめて下さい。縁あってこれから一緒に旅をするんです。皆さんみたいに、気軽に呼んで下さい。」
「分かりました・・・・、江里子さん。」
「さあ、では出発するぞ!!行くぞ!!」
そして、旅は遂に始まった。
一行は、20時30分羽田発の便に乗り込んだ。
空港までの道路の渋滞はなく、搭乗手続きもつつがなく済み、ここまでは実にスムーズに、予定通りに進んでいった。
東京を発った後、23時35分にバンコク着、次はアブダビに8時35分着、クウェートに8時05分着、そして、カイロに13時00分着。
時差は考慮せねばならないが、あと半日強で、かの地に到達するのだ。
それを思うと気が落ち着かなかったが、しかし、無駄に気を逸らせたところで今はどうしようもないし、夜間飛行につき、機内もあっという間に消灯されてしまったので、出来る事と言えば眠る事しかなかった。
江里子は、左翼側の通路横の席に座っていた。
後列は花京院とアヴドゥル、更にその後列はジョースターと承太郎の席となっている。
左翼側の座席には、江里子達以外の乗客はいなかった。
ここは中央席から通路を隔てて独立する上、二人掛けなので座席数が少ない。
万が一の用心の為に、あまり他の乗客達と接近しないようにと、ジョースターがわざとそのような指定をしたのだ。
通路は人一人が通れる程度の幅しかないが、それでも実際に座ってみると、結構な距離を感じた。
空調は快適、機内は薄暗く静かで、隣席には誰もいない。
旅慣れた者なら、きっとそれなりに良く眠れるのだろう。だが、江里子はそうではなかった。
強引にくっついてきたは良いが、本来、江里子は枕が変わると寝付けないタイプだった。
只でさえそうなのに、人生初の飛行機である。これがぐっすり眠れようか。
眠れるどころか、離陸して2時間が経過した今、ようやく少し慣れてきたというところだった。
離陸から上昇までの間は、本当に、生きた心地がしなかった。
高度が安定している今も、ふと自分が雲の上にいるのだという事を思い出すと、全身の毛孔が開きそうな程の寒気がする。
それを何とか誤魔化し、必死で自分の気を逸らすように努め、どうにかこうにか夢と現を行ったり来たりしている状態だった。
酔い止め薬をしっかり飲んできたお陰か、気分は悪くないが、恐怖と緊張で、とてもではないが熟睡など出来ない。
空いたままの隣席がまた寒々しくて、より一層心細さを掻き立てる。
本当は誰か隣に座って欲しかったが、男4人と女1人のパーティーが2人掛けの席に座るとなると、必然的に組み合わせは決まってしまう。
あれだけ強気に、啖呵を切るようにしてついて来てしまった手前、こんな最初の第一歩で早々と甘えた泣き言を垂れる訳にはいかなかった。
心細さのあまり、つい後ろの席を振り返りそうになる度に、『こんな位で怖がるな、奥様の為に頑張るんじゃなかったの!?』と自分を叱り、江里子は騙し騙し、浅い眠りに漂っていた。
その時、後ろで声が聞こえた。
「カ、カブトむ・・・、いや、クワガタ虫だ!」
「アヴドゥル、スタンドか!?早くも新手のスタンド使いか!?」
「有り得る・・・・、虫の形をしたスタンド・・・・」
承太郎、ジョースター、アヴドゥルの声がした。
いずれもボソボソと小さく低い声だったが、元々緊張状態にあった江里子にははっきりと聞こえた。
新手のスタンド使い。虫のスタンド。
旅の開始早々から、もう敵の刺客が襲ってきたという事なのだろうか。
怖い、だが、確かめずにはいられなかった。
「ど、どうしたんですか・・・・・?」
「江里子さん・・・・・・」
振り返り、後列の方を恐る恐る覗くと、花京院と目が合った。
「ええい、座席の陰に隠れたぞ・・・・・」
「ど、どこだ・・・・・!?」
立ち上がったジョースターとアヴドゥルが、真っ暗に静まり返った空間を、何かを捜すように見渡している。
かと思うと、突然、花京院が叫んだ。
「ジョジョ!君の頭の横にいるぞ!!」
「っ・・・・・・・!」
「で、でかい・・・・!やはりスタンドだ、その虫は・・・・!スタンドだ!!」
花京院と承太郎は、薄暗い空間に、何かを見ていた。
江里子の目には見えない、敵のスタンドを。
でかい虫というが、どんな大きさだろうか。どんな形態をしているのだろうか。
見えない分、悪い想像ばかりが無限大に膨らんでいく。
「江里子さん、座って下さい!そして、何があっても決して動かないで!良いですね!?」
どうすれば良いのだろうとパニックになりかけた瞬間、花京院の指示が飛んできた。
「は、はい・・・・・・!」
江里子は突き動かされるようにして、正面を向いた。
その瞬間、あの気配を感じた。
潜むような、粘り付くような、背筋が一瞬ゾクッと震える、あの気配だった。
― か、花京院さんだ・・・・・・・!
花京院のスタンド、ハイエロファントグリーンの気配が、江里子の身体を包んでいた。
ハイエロファントグリーンに、まるで抱きしめられてでもいるかのような感じがした。
相変わらず見えはしないが、今となっては理解出来る。
これは、花京院が敵の魔の手から自分を守ろうとしてくれてくれているのだと。
だが、理性ではそうと分かっていても、身体が、感覚が、まだ慣れていなかった。
― だ、大丈夫よ、大丈夫、大丈夫・・・・・・!
江里子は恐怖に震える身体に力を込め、目を固く瞑り、耳も塞いで外の世界をシャットアウトし、大丈夫、大丈夫と、念仏のように繰り返した。
そうやってこの現状から自分を切り離し、自分を宥めていないと、混乱して叫び出してしまいそうだったのだ。
スタンド使いどころかろくに喧嘩も出来ないような自分に、今出来る事など何もない。
それならせめて、彼等の闘いの足手まといにだけはならないように。
江里子が考えていた事は、只々それだけだった。
江里子は迅速に、取り乱しもせず、指示に従ってくれた。
それは、守る側としてはとても有り難い事だった。
これで万が一敵スタンドが江里子を狙ってきたとしても、撃退出来る。
少なくとも、一撃で江里子を殺される事はない。
ハイエロファントの触脚を江里子の周りに張り巡らせ、ひとまずの対策を施して安心してから、花京院は再び敵スタンドに目を向けた。
「気持ちワリィな。だが、ここは俺に任せろ。」
流石の承太郎も良い気分はしないようだったが、しかし彼はやはり、全く怯んでいなかった。
「き、気をつけろ、人の舌を好んで引き千切る虫のスタンド使いがいるという話を聞いた事がある・・・・・!」
アヴドゥルの忠告を聞いても眉一つ動かさず、承太郎はスタンドを発動させた。
「スタープラチナ!」
スタープラチナが、忙しなく飛び回るスタンドを掴もうとした。
その手は正確に、それに向かって伸ばされていた。寸分の狂いもなかった。
なのに。
「うおっ・・・・・!?」
スタンドは、スタープラチナの手からいとも簡単に逃げ延びた。
「か、かわした・・・・・!?
し、信じられん、弾丸を掴む程素早く正確な動きをするスタープラチナより早い・・・・・!!」
アヴドゥルは、大きく目を見開いた。
「やはりスタンドだ、その虫はスタンドだ!!」
そして花京院は、初めて見るタイプのスタンドに、不本意ながら一抹の恐れを抱いていた。
「どこだ、どこにいる・・・・!?こいつを操る使い手は、どこに潜んでいる!?」
花京院も必死になって、この狭く暗い空間を凝視した。
その時、また突然、あの『虫』が姿を現わした。
「こ、攻撃してくるぞ!!」
花京院が叫んだ時には、一歩遅かった。
「しまった・・・・!」
凄まじい勢いで伸びた『虫』の触手は、承太郎の掌を貫き、そのまま承太郎の舌に喰らいつきに行った。
「承太郎!」
「ジョジョーッ!!」
ジョースターが、アヴドゥルが、焦りを露にした。
だが、間一髪、承太郎は致命傷を免れていた。『虫』の触手を、噛んで止めていたのだ。
それを見て取った一同は、ひとまず安堵した。
「歯で悪霊クワガタの口針を止めたのは良いが・・・・」
ジョースターがそう呟くと、アヴドゥルがその言葉尻を奪った。
「承太郎のスタンドの舌を食い千切ろうとしたコイツは・・・・、やはり奴だ!!
タロットでの塔のカード!破壊と災害、そして、旅の中止の暗示を持つスタンド、タワーオブグレー!!」
タワーオブグレー。
花京院には聞き覚えのない名前だった。
だが、それも当然だった。
アヴドゥルとは歳が10も違うという事もあるが、それ以上に、彼とは生き方の姿勢が違っていたのだ。余りにも。
「タワーオブグレイは、事故に見せかけて大量殺戮をするスタンド・・・・。
昨年、300人が犠牲になったイギリスでの飛行機墜落も、コイツの仕業と言われている・・・・。
噂には聞いていたが、コイツがDIOの仲間になっていたのか・・・・・!」
己のスタンドをひた隠しにし、本心から溶け込む気もないくせに普通の人間達に混じってそ知らぬ顔で生きてきた自分と、己の全てをありのままに受け入れて生きているアヴドゥルとでは、スタンドに対する知識量が違っていて当然だ。
アヴドゥルの話を聞きながら、花京院はふと、そんな事を思った。
「オォラァ!!オラオラオラーー!!!」
承太郎が反撃に出た。両手を使っての、高速ラッシュだ。
あれで一瞬の内にズタボロにやられた事は、まだ花京院の記憶に新しかった。
だが。
「か、かわされた!」
虫、いや、塔の暗示を持つスタンド【灰の塔−タワー・オブ・グレー−】は、それをもかわした。
「片手ではない、両手でのスピードラッシュまでもかわされた・・・・・!な、何という速さだ・・・・・・!」
アヴドゥルが絶望的な声を上げた瞬間、誰のものでもない、異質な『声』が聞こえてきた。
「ッヘッヘッ。たとえここから1センチメートルの距離より、10丁の銃から弾丸を撃ったとして、俺のスタンドには触れる事さえ出来ん!!もっとも、弾丸でスタンドは殺せぬがな!」
それはスタンドの、タワーオブグレーの声だった。
他の人間には聞こえない、スタンド使いにしか聞こえない、スタンドの声だった。
それは明らかに花京院達を挑発していた。
だが、その挑発に乗る者は、誰もいなかった。
ジョースターは相変わらず、一心不乱に他の乗客達の様子を伺っていた。恐らく、このタワーオブグレーの本体を捜しているのだろう。承太郎も同じような感じに見えた。
スタンドは、本体の人間と一心同体。本体を倒せば、スタンドも消える。
花京院も本体を捜すべく、眠っている乗客達に再び目を向けた。
その時、タワーオブグレーがまた飛び去った。まるで、人をおちょくるかのように。
「ハッ、あそこに移動したぞ!」
花京院は、中央席後部の方に目を向けた。
「ッヘヘヘヘ!」
タワーオブグレーは、眠っているスーツ姿の初老の男性客の背後に、何やら意味ありげな感じで回り込んだ。
また、猛烈に嫌な予感がした。
その時、『ボンッ!』という鈍い音が何度か鳴り、その人を含む同じ列の男性客が4人、次々と血を噴出させた。
「ッハハハハハ!!ビンゴ!!舌を引き千切った!」
乗客達は皆、暗がりでも一目で分かる程の即死状態だった。
そして、タワーオブグレーの口針には、確かに被害者達の舌が数珠繋ぎに突き刺さっていた。
「そして!俺の目的は!!」
一方、敵は得意の絶頂にいた。
タワーオブグレーはおもむろに飛ぶと、口針に刺したままの舌を機体の壁に叩き付けた。
そして、文字を書くようにズルズルと引き摺りながら飛んだ。
やがて、壮絶な血文字が機体壁に浮かんだ。
Massacre.
その意味は、皆殺し。
「や、やりやがった・・・・・!」
花京院は戦慄した。
この瞬間、花京院が考えた事は、気の毒な被害者達の事ではなく、江里子の身の安全だった。
江里子は、花京院の言い付けを忠実に守っているのか、それとも恐怖の余りか、顔を出さなかった。
生きているのは間違いなかった。ハイエロファントを通じて、江里子の気配は花京院にも伝わっていた。
意味もなく殺されてしまった被害者達には悪いが、それだけは一つ、大きな救いだと花京院は思った。
「せいっ、焼き殺してくれる!!マジシャンズレッド!!!」
怒りに震えたアヴドゥルが、自身のスタンドを発動させた。
「待て!待つんだアヴドゥル!!」
だが、花京院はそれを止めた。
何故止めたのか、きっとすぐに分かったのだろう。アヴドゥルは直ちにスタンドを消した。
どうやら彼は、思慮深い割に、割と熱くなり易い性質のようだった。
「うぅむ・・・・・、うぅん・・・・・」
その時、乗客の一人、ジョースターよりももう少し年配の老人が、目を覚ました。
「何か騒々しいのう・・・・・・何事かな・・・・・?」
「危ない!!」
花京院は思わず叫んだ。
タワーオブグレーが、その老人のすぐ側を無造作に飛んだからだ。
だが、タワーオブグレーはその老人を攻撃せず、老人もまた、異変に気付かなかった。
「トイレでも行くかな・・・・・」
老人は寝ぼけ眼を擦りながら、ヨボヨボと席を立ち、歩いて行った。
そして、例の血文字の書かれた機体壁のすぐ横を通り、まだ乾いていない血に手を触れた。
「ん?何じゃ・・・・・?このヌルヌルは・・・・・」
老人は、自分の手の臭いを嗅いだ。
そして。
「んん・・・・?うぃぃ・・・・?わはぁ!?」
入れ歯が飛び出す程驚いた。
「ぬひぃぃぃ、血、血が・・・・・!血いぃぃぃぃ・・・・」
無理もない事だったが、彼は完全にパニックを起こしていた。
これ以上騒ぎを大きくされては、更なる惨事が起きる。
花京院は素早く老人の後ろに回り込み、その延髄に手刀の一撃を加えた。
「当て身!」
「っ!」
老人は気絶し、機内にはまた静けさが戻った。
だが、もう猶予はなかった。
これ以上後手に回ってばかりいれば、いずれ他の客達も気付き始める。
そうなったら大惨事だ。
その前に、こちらから仕掛け、倒さねば。
「他の乗客が気付いてパニックを起こす前に、奴を倒さねばなりません。
だがアヴドゥルさん、貴方のマジシャンズレッドのような動のスタンドでは、飛行機までも爆発させかねないし、ジョジョ、君のパワーも、機体壁に穴でも開けたりしたら大惨事だ。
ここは私の静なるスタンド、ハイエロファントグリーンこそ、奴を始末するのに相応しい!」
花京院は自ら名乗りを上げ、構えた。
するとタワーオブグレーは、余裕めいた小癪な態度ながらも、それに乗ってきた。
「っへへ。花京院典明か。DIO様から聞いてよ〜く知っているよ。
やめろ!自分のスタンドが静と知っているなら、俺には挑むまい!
貴様のスピードでは、俺を捕らえる事は出来ん!」
「そうかな!?」
人の目に触れぬよう、隠して、隠して、隠し抜いてきた力を。
今こそ、今からこそ、惜しみなく使うのだ。
大切な人達を、守る為に。
「エメラルド・スプラッシュ!!」
花京院のハイエロファントが、タワーオブグレーに向かって必殺技を放った。
だが、タワーオブグレーはそれを難なくかわした。
笑いながら、余裕綽々に。
「エメラルドスプラッシュ!!」
第2撃もかわされた。
「ッハッハッハッハ!!お前な、数打ちゃ当たるという発想だろうが、ちっとも当たらんぞ!」
「まずい!やはりあのスピードにかわされた!!」
タワーオブグレーは高笑いし、アヴドゥルは焦りを露にした。
そして、タワーオブグレーの口針が、ハイエロファントの舌を狙って攻撃を繰り出してきた。
「ごふぁっ・・・・!」
花京院は血を吐き、通路に倒れ込んだ。
寸でのところで舌を食い千切られる事だけは避けられたが、口の中にタワーオブグレーの口針が突き刺さった痛みは、かなりのものだった。
「か、花京院!!」
承太郎までもが動揺し始めた事で、タワーオブグレーは益々勝ち誇り、耳に障る笑い声を上げ続けた。
「ハッハッハッハッハ!!スピードが違うんだよスピードがぁ!
ビンゴにゃあ・・・のろすぎるぅ!!
そして花京院、次の攻撃で、今度は貴様のスタンドの舌に、このタワーニードルを突き刺して引き千切る!」
とどめを刺そうと襲い掛かってきたタワーオブグレーに、花京院はもう一度、技を放った。
「エメラルドスプラッシュ!!」
「バカタレがぁ!!ヤッハッハッハァ!!」
「ま、まずい!またエメラルドスプラッシュをかわされている!」
だが、第3撃も敢え無くかわされ、それを見たアヴドゥルが、また焦りの声を上げた。
彼はきっと今、花京院に勝ち目はないと判断しているのだろう。
「俺に舌を引き千切られると、狂い悶えるんだぞ!苦しみでな!」
そして、敵も。
「・・・・何?引き千切られると狂い悶えるだと?」
だが、この瞬間。
「私のハイエロファントグリーンは・・・・」
「うぎゃあ!!何ぃぃ!?」
方々から伸びてきた触脚が、タワーオブグレーの身体を貫いた。
そう、ハイエロファントの触脚だ。
「引き千切ると、狂い悶えるのだ、悦びでな!!」
「ぬはああぁぁ!ぬああっぁぁ!」
身体中を串刺しにされ、まんじりとも動けず悶え苦しんでいるタワーオブグレーに、花京院は勝利の宣言をした。
「既にシートの中や下に、ハイエロファントの触脚が伸びていたのだ。
エメラルドスプラッシュでそのエリアに追いこんでいたことに、気が付かないのか?」
そして、ハイエロファントの触脚が、タワーオブグレーの身体を引き裂いた。
「ぎゃあはぁぁ!」
その瞬間、悲鳴を上げたのは、花京院が当て身を喰らわせて気絶させた筈の老人だった。
「おおっ・・・・!」
突き出された老人のいやに長い舌には、クワガタ虫のような形のアザがあった。
それを見たジョースターが、思わず驚きの声を上げた。
やがて、その舌が二つに裂け、禿げた頭も割れて血が吹き出し、老人は昏倒した。
恐らく何とか命だけは取り留めているだろうが、とても反撃出来るような状態ではない筈だった。
「さっきのジジイが本体だったのか。フン、おぞましいスタンドには、おぞましい本体がついているものよ。」
花京院は老人に一瞥をくれると、江里子の元に駆け寄った。
「江里子さん、大丈夫です・・・・か・・・・・」
花京院は江里子の姿を見て、思わず言葉を失った。
江里子は身体を小さく縮め、固まっていた。
ギュッと目を瞑り、両手で耳を塞いで。
小さな唇が震えながら、何かの言葉を紡いでいる。
耳を澄ませると、『大丈夫、大丈夫』という呟き声が聞こえた。
「江里子さん・・・・・・・・」
大丈夫な訳がないのだ。
怖くて怖くて、仕方がなかった筈なのに。
パニックを起こして錯乱したって、決しておかしくはない状況なのに。
「・・・・江里子さん、江里子さん。」
一人で必死に恐怖と闘っている江里子を、思わず抱きしめたくなる衝動を抑えて、花京院はその肩をそっと揺さぶった。
一体、どれだけの時間が過ぎただろうか。
「・・・・さん、江里子さん。江里子さん。」
「はっ・・・・・・・!」
気が付けば、花京院に肩を揺すられていた。
「か、花京院さん・・・・・・」
「大丈夫ですか?」
そう尋ねる彼の口の端からは、血が垂れていた。
「ど、どうしたんですか、その血・・・・・!?」
「ああ、何でもありません。大丈夫ですよ。」
花京院は本当に何でもない風に、穏やかに微笑んでいた。
だがきっと、つい今しがたまで熾烈な戦いを繰り広げていたに違いなかった。
しかしそれを、誰も知らないようだった。
機内は相変わらず暗く、静かで、起きている者は江里子達以外にいないようだった。
壁の時計は、22:37を示している。騒ぎが起きる直前に見た時は22:35だった、つまり、たった2分程度のアクシデントだったのだ。
江里子の主観ではもっと時間が掛かっていたように思えたが、その程度の短時間の、しかも殆ど声や物音がしない『騒ぎ』では、ぐっすり眠っている人々を起こすには至らなかったのだろう。それだけは不幸中の幸いだった。
「・・・・すみません。ちょっと失礼します。」
江里子はバッグからハンカチを取り出し、それで花京院の唇の血を拭った。
「あ・・・・・・!」
花京院は戸惑うような表情になったが、江里子の手を払い除けたりはしなかった。
血を綺麗に拭うと、江里子は血の付いたハンカチをそのままバッグにしまい込んだ。
それを見た花京院は、申し訳なさそうな顔で謝った。
「すみません・・・・・。」
「謝らないで下さい、こんな事で。それに、その前にまず私がお礼を言わないと。」
「お礼?」
「さっき、私の事を守って下さっていたでしょう?私の周りに、ハイエロファントグリーンの気配がしていました。まだ慣れていないから、ちょっと怖かったけど、ふふっ・・・・・。
でも、嬉しかったです。ありがとうございました。」
江里子が軽く頭を下げると、花京院ははにかんだ微笑みを見せた。
「お礼など言わないで下さい、こんな事で。」
「ふふっ・・・・・」
江里子も思わず笑った。
だが、そうやって笑い合っていられたのはほんの束の間で、花京院はすぐに表情を引き締めた。
「敵のスタンド使いが、この機に乗り込んでいました。
『塔』のカードの暗示を持つタワー・オブ・グレーというスタンドで、本体は老人でした。見るからに非力そうな、どこにでもいそうな年寄りだったので、なかなか分かりませんでした。」
「そうですか・・・・・・。それで、その人は・・・・・・?」
「・・・私が倒しました。」
花京院の声には、少しだけ後ろめたさのようなものがあった。
その様子はやはり、ホリィが言っていたように『懲らしめて、参りましたと降参させて、反省させた』という感じには思えなかった。
「あの・・・・・・・、失礼な事を・・・・・、お訊きしますが・・・・・・、その人・・・・・・、死んだのですか・・・・・・?」
それは恐らく、訊いてはならないのであろう事だった。
たとえその老人が死んだのだとして、それはホリィの命を脅かしている敵の一味である。同情や憐れみをかけるべき相手ではないのだ。
そんな事をしていたら、こちらの身が危険に晒される。ひいてはホリィの命が危険に晒されるのだから。
だがそれでも、目の前にいる心優しいこの青年が、たった今、人一人殺したのかと思うと、形容し難いショックに見舞われた。
「・・・・・・・分かりません。」
やがて、花京院は答え難そうにそう答えた。
「運が良ければ、まだ生きているかも知れません。ですが、ここは雲の上、飛行機という密室の中。
奴に余力を残しておく事は、我々は勿論、他の無関係な人々の命をも危険に晒すという事になります。
現に奴は、自分の力を見せつける為に乗客を数人殺しました。だから私は・・」
「良いんです、分かっています。」
己が身を切るように話す花京院の苦しげな顔を見ていられなくて、江里子は話を途中で遮った。
「ごめんなさい、私が悪かったんです。失言でした、許して下さい。」
とてつもない罪悪感が、江里子を襲っていた。
言わなければ良かったと、心の底から後悔した。
だが、一度口に出した言葉は、決して消せはしない。今の江里子に出来る事は、只ひたすら謝る事だけだった。
「江里子さん・・・・・・」
「私が馬鹿だったんです。分かっているのについ・・・・。花京院さんを責めるつもりはなかったんです。
もう二度とこういう事は訊きません。ごめんなさい。だから気にしな・・」
突然、唇に押し当てられた花京院の人差し指の感触に驚き、江里子は言葉を詰まらせた。
「・・・・・良いんです。分かっています。」
「・・・・・・・」
「ありがとう、江里子さん。貴女は本当に優しい人ですね。」
花京院は優しく微笑むと、承太郎達の元へと歩いて行った。
江里子は少しの間、その場で呆然としていたが、やがて席を立つと花京院の後を追った。
承太郎達は、騒ぎの後始末をしていたようだった。
何人かの乗客に、毛布が頭から被せられているのが見えた。それはきっと、敵のスタンド使いに殺されたという乗客達なのだろう。
江里子は彼等に黙祷を捧げると、承太郎達に近付いていった。
彼等は今、一人の乗客を前に、小さな声で話し込んでいた。
承太郎達の隙間からその人を恐る恐る一瞥した江里子は、その血塗れの凄惨な姿に思わず息を呑んだ。
「こいつの額には、DIOの肉の芽が埋め込まれていないようだが・・・・」
江里子はどうにか悲鳴を噛み殺す事で精一杯だったが、花京院は冷静に敵を観察しながら、不思議そうな声を上げていた。
「タワーオブグレーは元々、旅行者を事故に見せかけて殺し、金品を巻き上げている根っからの悪党スタンド。」
アヴドゥルもまた冷静そのもので、落ち着き払った様子で敵の身体に毛布を投げ掛けた。
そのお陰で、老人の惨たらしい死体が見えなくなり、江里子は少しだけ安堵した。
「金で雇われ、欲に目が眩んで、そこをDIOに利用されたんだろうよ。」
アヴドゥルの声には、憐れみと、軽蔑が込められていた。
なるほど、話を聞く限り、ろくでもない悪党のようだ。
そんな奴は死んで当然、取り乱すなと必死で自分に言い聞かせていたその時、突然、機体がぎこちなく傾いた。
「ははぁっ・・・・・・!?」
ジョースターもそれに気付いたようだった。
「変じゃ。さっきから気のせいか、機体が傾いて飛行してるぞ。」
誰かの座席から落ちたらしい空の紙コップが、コロコロと床を転がっていくのが見えた。
「やはり傾いている!ま、まさか・・・・・・・・・!」
ジョースターは突然、機首に向かって駆け出した。
その慌てぶりに、江里子達は思わず顔を見合わせたが、やがて誰からともなくジョースターの後を追って行った。
「お客様、どちらへ?」
「この先はコックピットで、立ち入り禁止です!」
ジョースターに気付いたスチュワーデスが二人、落ち着いた小声ながらも毅然とジョースターを止めに入った。
だがジョースターは、それを面倒そうに払い退けた。
「知っている!!」
「あ・・・・!お、お客様・・・・!?」
「あ、あ・・・・」
その勢いに、スチュワーデス達は困惑していた。
だが、承太郎を見た途端に、うっとりと表情を蕩けさせた。
「「まあ、素敵な方・・・・・!」」
薔薇色に上気した頬。
ハートマークでも浮かんでいそうな潤んだ瞳。
華奢な身体からフェロモンのように発せられる、甘ったるいピンク色の恋愛オーラ。
これは承太郎を見た女性特有の症状、そう、一目惚れの症状だった。
「どけアマ。」
そんな女達を、承太郎は意にも介さない。
乱暴な扱いでにべもなく彼女達を押し退けて、ズンズンとジョースターの後を追っていく。
押し退けられた彼女達は、黄色い悲鳴を上げながらも、乱暴に扱われた事にさえときめき、悦んでいる。
全く、始末に負えない。
こんな所で、こんな状況でまで、いつものバカらしい日常を見せられるとは思いもしなかったと、江里子は思わずうんざりした。
「おっと、失礼。」
承太郎に押し退けられてよろけたスチュワーデス達を、花京院が支えた。
「女性を邪険に扱うなんて許せん奴だが、今は緊急時なのです。許してやって下さい。」
「はい・・・・♪」
花京院のその優しい仕草と微笑みに、彼女達はまたもや顔を蕩けさせている。
江里子はその様子を、アヴドゥルと共に見ていた。
アヴドゥルは呆然と目を点にしていたが、江里子は。
「・・・・・何よ、誰でも良いって事・・・・・?」
「ん?何か言ったか、エリー?」
「えっ?」
アヴドゥルに話し掛けられて、江里子は我に返った。
「いえっ、いえいえ別に!何も!」
「そうか?なら良いが。」
慌てて笑いながら、江里子は内心で冷や汗をかいていた。
結局、顔さえ良ければ誰でも良いのかと、確かに彼女達に対して思ったが、それだけではなかった。
少し、そう、ほんの少しだけ、ジェラシーを感じていたのだ。
女だったら誰にでも優しくするのか、と。
だが、事態はそんなどころではなかった。
「おおっ、何てこった!!してやられた!!」
コックピットから、ジョースターの叫び声が上がった。
「舌を抜かれている!!あのクワガタ野郎、既にパイロット達を殺していたのか!」
「おおっ・・・・!」
「ああっ・・・・・!」
承太郎、アヴドゥル、花京院も、コックピット内の凄惨な光景を見て、焦りを露にした。
そう、パイロット達は殺害されていた。
舌を抜かれて、血塗れになって。
思わず叫びそうになって、江里子は咄嗟に自分の口を掌で塞いだ。
「降下してるな・・・・。自動操縦装置も破壊されている。この機は墜落するぞ!!」
そして、更なる窮地がこの飛行機を襲った。
ジョースターが告げた『墜落』という言葉に、江里子は心臓を鷲掴みにされたように固まった。
その時、不意に誰かが江里子に思いきりぶつかってきた。
「うふわぁ!うわばばばぁ!」
血塗れの老人が、江里子を突き飛ばすようにしてコックピット内にフラフラと入り込んで来たのだ。
「きゃあっ・・・・!!?」
江里子は思わず悲鳴を上げてしまった。
これまでは何とか堪えてきたが、流石にもう限界だった。
「何っ・・・・!?」
振り返った承太郎は、明らかに焦っていた。
ジョースターも、アヴドゥルも、花京院も、皆。
ここで再戦となるのだろうか。江里子は恐怖し、竦み上がった。
しかし、老人はやはり満身創痍の状態で、よくよく見ると、立っているのもやっとな感じだった。
「うばばばば、べろぉぉ!
儂は、事故と旅の中止を暗示する『塔』のカードを持つスタンド!
お前らは、DIO様の所には行けん!!
たとえ、この機の墜落から助かったとて、エジプトまでは1万キロ、その間、DIO様に忠誠を誓った者共が、四六時中貴様らを、つけ狙うのだぁ!
世界中には、お前らの知らん想像を超えたスタンドが存在する!
DIO様は、スタンドを極めるお方!
DIO様は、それらに君臨出来る力を持ったお方なのだ!
辿り、着ける訳がなぁい!貴様ら、エジプトには決して行けんのだぁあ、ベロベロ、ベソォォl!!」
老人は不気味な断末魔の叫びを上げると、更に血を吹き出し、卒倒した。
丁度、江里子にもたれかかるようにして。
「いやあぁぁっ!!」
江里子は夢中で老人を突き飛ばした。
すると彼は勢い良く床に倒れ込み、そのままピクリとも動かなくなった。
「「ひっ・・・・!」」
スチュワーデス達も、顔を青ざめさせて怯えていた。
だが彼女らは、悲鳴は上げなかった。
スチュワーデスになるのはとてつもなく難しい、数々の厳しい訓練を受けて、挫折しなかった者だけがようやくなれるとドラマでやっていたが、本当にその通りなんだと、江里子は頭の片隅に辛うじて残っていた理性で思っていた。
「さすがプロ中のプロ。悲鳴を上げないのは、鬱陶しくなくて良いぜ。
そこで頼みがある!このジジイがこれから、この機を海上に不時着させる。
他の乗客に救命具着けて、座席ベルト締めさせな!」
「「はっ、はいっ・・・・・・・!」」
承太郎がそう頼む(というより実質命令しているも同然だったが)と、スチュワーデス達は我に返り、迅速に客室へと戻って行った。
彼女達の姿が見えなくなると、承太郎は操縦席のジョースターに期待の眼差しを向けた。
だが。
「ジジイ・・・・・!」
「うぅむ・・・・・、プロペラ機なら経験あるんじゃがのう・・・・」
「プロペラ!?」
多分、想定外、というか、論外の答えだったのだろう。
花京院が絶望的な声を上げた。
「しかし承太郎、これで儂ぁ3度目だぞ。人生で3回も飛行機で墜落するなんて、そんな奴あるかなぁ?」
ジョースターだけが一人、いやに呑気だった。
『うわぁ・・・・・・』
誰からともなく、そっぽを向いた。
明らかに皆、ジョースターを忌んでいた。
「・・・・・二度と、二度とテメェとは一緒に乗らねぇ・・・・・」
承太郎がボソリと呟いた途端、機体がまたガクンとバランスを崩した。
「きゃあっ!」
「ひとまず我々も着席しよう!エリー、大丈夫か!?」
「は、はい・・・・・!」
「ジョースターさん、ここは任せましたぞ!承太郎も、頼むぞ!さあエリー、花京院、早く!」
アヴドゥルは江里子と花京院に向かって、ついて来いとジェスチャーをした。
だが生憎と、江里子の緊張は限界を突破してしまっていた。
「あ、あの・・・・・・・!」
「何だ!?」
「どうしたんです、江里子さん!?」
「あの・・・・・・、その・・・・・・・」
あれだけ強気に啖呵を切っておきながら、こんな最初の第一歩から、旅のしょっぱなから。
こんな事を言うのはとてつもなく不本意だったが、しかし江里子は言わずにいられなかった。
「だ、誰か横に座って下さい、お願いします・・・・・・!」
「江里子さん、落ち着いて、大丈夫ですから。」
「ううぅ、怖い・・・・・!怖いよぉ・・・・・・・!」
「エリー、大丈夫、落ち着くんだ。我々がついてる。」
結局江里子は、両サイドを花京院とアヴドゥルに固めて貰う事となった。
無論、2人掛けの左翼の席ではなく、中央席の空いているシートを勝手に拝借しての事である。
2人掛けの席など、とてもではないが座れなかった。
自分の席は怖い、かと言って窓際などもっと怖い。
左右両方に人の気配がなければ、とても正気が保てそうになかったのだ。
「手、手ェ離さないで・・・・!お願い、離さないで・・・・・・・!」
「大丈夫ですよ。ちゃんと握ってますから。」
「ぜ、絶対よ!?絶対だからね!?アヴドゥルさんもよ!?ギュッて握ってて!絶対離さないで!」
「わ、分かった・・・・・・・」
江里子は今、完全なパニック状態だった。
あまりにもパニックになっているので、却って花京院やアヴドゥルは落ち着いてきていたが、それに気付かない程、一人で泣きべそをかき、パニックになっていた。
そうこうしている内に、やがて飛行機は物凄い勢いで降下を始めた。
「きゃっ・・・・、あぁぁぁーーーーっ!!!」
飛行機に乗ったのはこれが生まれて初めてだから、他と比較する事は出来ないが、この高度の変化は、余りにも急すぎる。
上昇する時も怖かったが、あの時とは感じが違う。
何というか、容赦がない。
やっぱり、墜落なんだ。
これが、墜落というやつなんだ。
花京院とアヴドゥルの手を力の限りに握り締め、腹の底から絶叫しながら、江里子は頭の片隅で、チラリとそんな事を考えたのだった。
それから、どれ程経っただろうか。
「ぐふわぁぁっ・・・・・・!」
身体が叩き付けられるような、凄まじい衝撃を感じたのを最後に、機体が急に静まり返った。
「・・・・・・落ち・・・・たの・・・・・・・・?」
「つぅぅっ・・・・・、そのようですね・・・・・・・」
「何とか・・・・・・、無事に不時着出来たようだな・・・・・・」
江里子の呟きに、花京院とアヴドゥルが返事をした。
ぼんやりと目を開けて周りを見てみれば、他の乗客達も次々と命拾いした事を理解していっているようだった。
「た、助かったのね、私達・・・・・・・」
「ええ。これでもう大丈夫ですよ、江里子さん。」
「良く頑張ったな、エリー。偉かったぞ。」
握ったままの手を、花京院が改めてしっかりと握り直した。
アヴドゥルは、江里子の手を握っているのとは反対側の手で、幼い子を褒めるように江里子の頭を撫でた。
それらの感覚が、何とも言えない安心感を江里子にもたらした。
「・・・・・良かっ・・・・・、た・・・・・・」
その安心感は、急速な眠気を誘発した。
今日はたった一日の間に色々な出来事があって、悲しんだり、怒ったり、泣いたり、笑ったり、本当に色々あって、〆が飛行機の墜落事故だったのだ。
限界を超えて疲れていて、当然といえば当然だった。
「江里子さん?・・・・寝ている・・・・・」
「本当だ・・・・・。しかも口が開いてるぞ、子供みたいに・・・・・」
頼もしい仲間の温もりと苦笑いに包まれて、江里子はようやく深い深い眠りへと落ちていったのだった。