星屑に導かれて 5




ジョースターが部屋に戻って来たのは、それから10分程しての事だった。


「ジジイ、お袋は?」
「また眠った。」

全員揃っているにも関わらず、承太郎とジョースターのその短いやり取り以外、誰も、何も、言葉を発しなかった。
部屋の中は、全員が重苦しい空気を分かち合って背負っているかのようだった。


「・・・・・・エリー。」

沈黙を静かに破ったのは、ジョースターだった。


「我々の旅に、本当について来る気か?」
「はい。」
「バッグだの化粧品だのの為にか?」
「はい。」

ジョースターの質問に、江里子はことごとく『はい』と即答した。
真摯に、迷う事なく。


「そんな物の為に、ホリィは君を危険な旅に出そうとしているのか?実の娘のように可愛がっている君を。」

だが、最後の質問には、すぐに答えられなかった。
ジョースターは、ホリィの真意に気付いているようだった。
いや、多分、皆気付いているのだろう。
承太郎も、アヴドゥルも、花京院も、そんな風な表情をしていた。


「・・・・・何と言われようと、私は皆様について行きます。お荷物でも、足手まといでも。」
「・・・・・君は何故、そんなにもホリィを想ってくれるんじゃ?」
「奥様は、私の命も同然の方だからです。聞いて下さいますか?私が、奥様に拾われた時の事を。」

空条家に来て、3年と半年。
江里子がこの話を誰かにするのは、これが初めてだった。



















「私の家は貧乏でした。いえ、ただ貧乏なだけじゃなく、そもそも家庭として機能していませんでした。
父は昔からお酒と博打に溺れていて、どうしようもない人でした。
母はずっと働き通しで、苦労して私と3つ違いの兄を育ててくれましたが、お金や、父の浮気相手の女の人達の事なんかで喧嘩が絶えず、とうとう父を見限って、兄と私がそれぞれ中学と小学校を卒業したタイミングを見計らったように、離婚して一人で出て行きました。
何処に行ったかは分かりません。今に至るまで、何の連絡もありません。
兄も同じで、中学を卒業した後すぐに、フラッと何処かに行ってしまいました。
兄は小学校の高学年からグレていて、ろくに学校も通わず、家にすらまともに帰って来ませんでしたから、最初は気に留めていませんでした。だけど何ヶ月経っても帰って来ず、結局、そのまま音信不通です。
私も自分の家が大嫌いでしたが、私は生憎と内気で臆病で、友達もろくにいなかったので、兄のようにグレて外に飛び出す事が出来ませんでした。
度胸のない私にはただ、どうしようもない人だと分かっていても父の側に、あの家にへばりついている事しか・・・・」

江里子は、久しぶりに当時の事を思い出していた。
世界は全て出口のない闇に包まれていて、生きている限り、それが永遠に続くのだと当たり前のように思っていた頃の事を。


「中学の3年間を何とかやり過ごして、高校は、家から一番近い公立に入りました。
父は、女がそれ以上学校なんか行ったって仕方ない、働けって言って反対したんですけど、幸い、奨学金を受ける事が出来ましたし、担任の先生も口添えしてくれて、入る事が出来たんです。」

家から一番近い、学費の安い公立高校。
受験に当たって江里子に突き付けられた条件は、その2つだけだった。
偏差値やカリキュラム、学校の特色などというものは、全て贅沢な嗜好品と同じようなもので、そんなポイントで判断して志望校を選ぶ権利など、江里子にはなかった。


「失礼ですが、そこが、この間承太郎が言っていた・・・・」
「そうです。あの時言っていた『激烈バカ校』です。家から歩いて通えましたし、色々都合が良かったので。」

花京院の質問に、江里子は穏やかな微笑みで答えた。
花京院と承太郎は気まずそうに視線を畳に落としたが、江里子は本当に気にしていなかった。
何もかも、もう全て済んだ事なのだから。



「でも、その丁度同じ頃に、父の借金が発覚しました。
サラ金から3百万ものお金を借りていて、ヤクザみたいな人達が家に取り立てに来るようになったんです。
近所中に聞こえるような大声で騒がれて、家の中メチャメチャに荒らされて・・・・・、挙句に私は、借金のカタにソープで働けと命令されました。取り立てのヤクザからも、父からも。」

その話に、花京院は顔を強張らせた。
承太郎は、微かに眉を顰めた。
ジョースターとアヴドゥルは、苦々しい表情になった。
外国人の彼等には、ソープというのが何なのか正確には知らない可能性もあったが、話の前後からおおよその察しがついたのだろう。


「それで君は、言う事を聞いたのか・・・・・?」

ジョースターの質問に、江里子は笑いながら首を振った。


「まさか!冗談じゃありません。だって私、恥ずかしながらボーイフレンドどころか、クラスの男子ともまともに口を利いた事さえなかったんですよ?なのに何でそんな所で働かなきゃいけないんですか。」

江里子のその答えに、一同はまた目に見えて安堵した。
そんな風に思ってくれる彼等の気持ちが、江里子には嬉しかった。


「だから、その場は何とか凌いでやり過ごして、歳を誤魔化してキャバレーでバイトを始めました。
でも、そこで初めて気付いたんですけど、私、下戸だったんです。
幾ら飲んでも、何を飲んでも、全く美味しいと思えなくて。」

ビール、ウイスキー、ブランデー、ワイン、日本酒。
売り上げの為に、様々な酒を飲まされた。
だが、どれも江里子には苦いばかりで、少しも美味しく感じられなかった。


「飲めないお酒を無理して飲んで、お店の中で泥酔して、挙句にテーブルで盛大に・・・・コレです。」

そう言って、江里子は口元でパッと手を開いて見せた。
そのジェスチャーの意味は、全員にすんなりと通じたようだった。


「勤務初日で即クビでした。満席状態のお店の中でやってしまいましたからね。
お客さんにもいっぱいかかりましたし、それを見てもらっちゃう人も続出しましたし、もう店中大騒ぎで。
その弁償で、お給料どころかお財布の中の有り金全部巻き上げられて、二度と来るなって蹴り出されました。」

今となっては笑って話せるが、しかし、その時は絶望しか頭になかった。


「お先真っ暗で、どうして良いか分からなくて、ついでに気分も悪くて、私、酔っ払いのおじさんみたいに吐きながら、夜道をフラフラ歩いていました。
そしたら、いつの間にか川に着いていて。
綺麗な川じゃあありません、地元の汚いドブ川です。
だけど、川沿いが桜並木になっていて、その時は桜が満開だったんです。散った花びらが川にも道路にもいっぱいで、とっても綺麗で・・・・・・。
そこの橋のところでもう1回吐いて、桜の花がいっぱい浮かんでいる川の水面をボーッと見ていたら、ふと、『ああ、ここ良いなぁ。もういいや、ここで死んじゃおうかな』って気分になったんです。
その川は、水かさは大してありません。溺れ死ぬのはきっと無理です。でも堀が深いので、うまいこと落ちたら頭でも打って死ねるかもって思ったんです。
そう思って、立ち上がりかけた瞬間・・・・・」

女神が舞い降りたのは、その時だった。


「・・・・・奥様に、声を掛けられたんです。『どうしたのあなた!?』って。」

その時のホリィの声が、江里子の耳に蘇った。
心配を通り越して焦っているかのような、必死だった声が。


「奥様はその時、お友達とディナーショーに出掛けていた帰りだったそうです。
桜の花模様の、薄いピンクのお着物を着ていらして、それが奥様の金色の髪にとても良く合っていて・・・・・。
奥様は、私がそれまで見た事がない程綺麗で、素敵な人でした。
私なんかとは別世界の人だって、感覚的に分かりました。
そんな奥様に介抱して頂いて、自動販売機でお水まで買って貰って、・・・・優しく話を聞いて貰って。
綺麗な奥様の優しいお人柄にほだされて、私はついうっかり、自分の事情をペラペラ話しました。
そうしたら奥様、何と仰ったと思いますか?」

父親のジョースターなら、予想がつくだろうか。
息子の承太郎なら、分かるだろうか。
だが二人共、何も答えようとはしなかった。
江里子は小さく笑って、再び口を開いた。


「父の借金の額までバカ正直に話した私に向かって、奥様ったら、呑気にこう仰ったんですよ。
『良かった、それ位なら私の貯金で何とかなるわ♪』って。」

堪え切れずに、江里子はクスクスと声を上げて笑った。
だが、男達は誰も笑わなかった。
アヴドゥルと花京院は何とも言えないといった複雑な表情を浮かべ、ジョースターと承太郎の肉親コンビは、額を押さえたり頭を掻いたりしていた。


「・・・・怒りました。いいえ、ブチ切れました。
優しそうな、素敵なおばさまだなって思っていただけに、一層腹立たしくて。
金持ちが貧乏人を見下して憐れんだだけなんだって、そう思ってしまって。」

その時の自分を思い返すと、穴を掘って入ってしまいたくなる。
それ位に、恥ずかしい程に、怒り狂った。
だが、その消し去りたい程忌まわしい記憶を、何故かこの人達には素直に話そうという気になった。


「キレた私は、奥様のハンドバッグをひったくって、自分が吐いた物の上に投げ捨てました。
それで、『金持ちだからって良い気になりやがって、馬鹿にするな外人ババア!』って最低な捨て台詞を吐いて、フラフラ歩き出しました。
そうしたら奥様、汚物塗れになったバッグを普通に拾って、私に呼び掛けたんです。
明日のお昼、もう一度ここで会いましょう、って。」
「それで・・・・次の日に会ったのですか?」

花京院の質問に、江里子は笑って首を振った。


「行きませんでした。行く訳ないじゃあないですか。
そんなの、本当に来る事なんてある訳ないし、もしあったとしたって、汚したハンドバッグの弁償しろなんて言われるのがオチでしょう?勢いでついあんな事しちゃったけど、私に弁償なんか出来る訳ありませんし。
だから、行きませんでした。もう忘れようって、忘れる事にしました。」

そう。
もしもそのまま、本当に忘れ去っていたら。
そうしたら、今もまだ、出口のない闇の中で彷徨っていただろうか。
それとも、もっと悪い事になっていただろうか。
どちらにせよ、地獄にいた筈だった。



「・・・・・でも、それから1ケ月ちょっとして、偶々そこを通る事があったんです。
通ろうと思って通ったんじゃありません。むしろずっと避けていましたし。
相変わらず毎日ゴタゴタしていましたから、その内、奥様とお会いした事自体、すっかり忘れてしまっていたんです。」

その時の衝撃を思い出すと、今でも涙が出てきそうになる。
江里子にとっては、それ程の衝撃だった。


「偶々、あの川の橋を通ったら、柵のところに小さな紙切れが貼ってありました。
白いし、紙も字も小さいし、テレクラなんかのチラシにしては変だなと思って、却って目に付いたんです。
・・・・・驚きました。それ、私に宛てた、奥様のメモだったんです。
日付と、『こないだのお嬢さんへ 明日何時にきます、何時までいます こないだの外人ババアより』という文が書いてあって。
日付は、その前の日になっていました。
よく見たら、何枚も重ねて貼ってありました。
日付見たら・・・・・・、毎日毎日・・・・・・・・、約束した日からずっと・・・・・・。
吃驚してメモを読んでたら、後ろから・・・・・・ハァイって・・・・、奥様の声が・・・して・・・・・・」

これ以上は、今は続けられなかった。声が震えて、言葉にならなかった。
江里子は腹に力を入れてゆっくりと細く息を吐き、心を落ち着かせてから、再び口を開いた。



「・・・・奥様は、父の借金を本当に全額肩代わりして下さいました。
私、赤の他人に何でそこまでしてくれるのかって、そればかり気にして、奥様に何度もしつこく訊きました。
その時は感謝よりも、驚きとか警戒とか、心苦しさの方が勝っていましたから・・・・。」

独りぼっちの寂しさ、放蕩三昧の父親に対する怒り、明日さえも見えない恐怖と不安、そして絶望。
そんな感情にずっと耐え続けてきて心が委縮していた当時の江里子には、その奇跡的な出来事を純粋に喜んだり、感謝する事が出来なかった。
家族でさえ見限って逃げ出したというのに、何故、縁もゆかりもない赤の他人が救ってくれるのか。
一体何の理由があって、一体何の為に。
感謝より何より、そればかりをずっと気にして、これには何か裏があるのではと勘繰りさえもした。
それは、空条ホリィという女性を良く知った今となっては、完全な取り越し苦労だったと笑い飛ばせる事だが。


「私が何度訊いても、奥様は笑って、私はただ自分のしたいと思った事をしただけだから気にしないでと仰るばかりでした。
でも、じゃあお言葉に甘えて・・・という訳にはいきませんから。
だから私は、学校を辞めて働いて、すぐにお金を返すと言いました。
そうしたら奥様は、初めて私を厳しく叱ったんです。
それまで、私がどれだけ可愛げのない口を利いても、憎たらしい態度を取っても、いつでも優しく笑っていらした奥様が、その時初めて・・・・・。尤も、あの奥様の事ですから、残念ながら少しも怖くはなかったんですけど。」

江里子が微笑むと、ジョースターも、ふと目を細めた。
その時のホリィの様子が、父親である彼には目に浮かぶように想像出来たのだろう。


「お金の貸し借りに拘ってばかりの私に、奥様はそれならばと、肩代わりの条件を二つ、出されました。
一つは、学校は辞めずにそのままちゃんと卒業する事。
もう一つは、もう二度と自分を粗末にしない事・・・・・、って。
その時奥様は、私にこう仰いました。
女の子の魅力はね、いつか現れるたった一人の王子様の為だけに磨き続けるものなの。
とてもとても、価値のあるものなのよ。
それを、好きでも、好かれてもいない人に、お金で売り渡すなんて絶対にしてはいけないわ、って。」

ホリィのその言葉は、キャバレーのアルバイトを経験した江里子にとっては、有無を言わせぬ説得力があった。
たった1日だけだったが、その1日で、男の女に対する薄汚い欲望を、嫌という程見た気がしていたからだ。
以来、ホリィのその言葉は江里子の教訓となっていた。
性を売り物にするのは、決して割の良い仕事などではない。
確かに、短時間で手っとり早く、多めの金を稼ぎ出す事は出来るが、それと引き換えに取り返しのつかない何かを犠牲にする事になるのだと。


「だけど私は、それでもやっぱりお金に拘りました。
それじゃあ奥様にお金を返せないし、いくら学費は返済不要の奨学金で賄えているといっても、日々の生活費にも事欠く生活をしていましたし。一体いつになったら奥様にお金が返せるか・・・・・、目途の立たないままでいるのが苦しいと、私は訴えました。
そうしたら、奥様がもう一つ、条件を付けて下さったんです。
『うちで私のお手伝いをしてくれないかしら?』って。
それから私は、こちらに住み込み、学校に通いながら家事手伝いをする事になったんです。」

気が付けば、闇から抜け出ていた。
それまで、探しても探しても出口の見つからなかった闇から。
借金取りに罵声を浴びせられる事もない。
値踏みをするように身体を眺められる事も、無遠慮に触られる事もない。
誰からも『金を寄越せ』と迫られる事もない。
水道やガスが止められて何日も風呂に入れなかったり、今日食べる物に困る事もない。

その時江里子は、心に誓ったのだった。
この人の為に、何でもしよう。
自分に出来る事なら何でもしよう、と。




「・・・・・なるほどな。」

ジョースターは、灰色の顎髭を撫でながら言った。


「娘は恐らく、君をその環境から引き離す必要があると考えたのだろう。
失礼を承知で言うが、君の家庭は、年頃の娘をまっすぐ育てるのに適した環境ではないからな。
ただ一度、借金を肩代わりしただけでは、またすぐに何か次のトラブルが起きて、遅かれ早かれ君は学校を辞める事になり、身を持ち崩していっただろう。」
「分かっています。その時は、単純にそれが肩代わりの条件なのだと思っていましたけど、今になって考えれば、奥様の真意はジョースターさんの仰る通りなのだと思います。奥様は、私には何も仰いませんけど。」
「儂にも何も言わなかったぞ。勿論、君の事は以前から聞いて知っていたが、君の事情までは、あの娘は何も言わなかった。そういう娘なのだ、あれは。
恐らく亭主や承太郎にも言っていなかったんじゃあないのか?」

承太郎は小さく頷いてそれに答えた。
さすがホリィの父親だけあり、ジョースターの推測はことごとく当たっていた。
だが、一つだけ違っている事があった。


「旦那様もご存知だと思います。父の借金の肩代わりや諸々の手続きなどで、旦那様は奥様とご一緒に色々とご尽力下さいましたから。
それに、その後もここぞという時に私を導いて下さいましたし。」
「その後?」
「高3になって卒業後の進路を決める時、旦那様と奥様は、当たり前のように私に進学を勧めて下さいました。学費も全額出して下さるという前提で。
でも私は、それを固辞しました。さすがにそこまで甘えられませんから。
そうしたら、じゃあ学校じゃなくてもいいから、何か君のやりたい事をやりなさいと、旦那様が仰ったんです。
旦那様も高校を卒業後、ご家族の反対を押し切って単身アメリカに渡られて、何年もジャズの勉強をなさったそうで。
その時の話を、私に色々と聞かせて下さいました。その経験が、ご自分のその後の人生にとってどれだけ大事なものだったかという事も。」
「知っとる。奴ぁそこでホリィと知り合ったんじゃ。」

ジョースターが、少しへそを曲げたような顔でそう言った。
父親としての、娘の夫に対する他愛ない嫉妬心だ。
江里子は小さく笑いながら、話を続けた。


「だけど、私には旦那様のような大きな夢はありませんでした。
私がしたい事はたった一つ、奥様のお側で、奥様のお役に立つ事。それだけだったんです。今も同じですけど、幾ら考えても、それ以外の事が思い付かなかったんです。
だから私は、旦那様と奥様に、このままずっとここに置いて下さいとお願いしました。そして、高校を卒業したこの春から、正式に空条家の家政婦として雇って頂いたのです。」

絶望しかなかったあの頃とは違い、今年の春には溢れんばかりの希望しかなかった。
ずっとずっと、ここにいられる。
大好きな人の側で、その人の役に立つ事をして、この穏やかな日々がこれからもずっとずっと続いていくのだと。
しかし、今、その希望はまた絶望に変わろうとしている。




「・・・・皆様の事は、先程、奥様から伺いました。」

江里子は微笑みを消すと、居住まいを正した。


「私には、正直に言ってにわかには理解出来ないお話でしたけれども、実は私自身も、花京院さんが担ぎ込まれた時に、変な物体が承太郎さんの手に刺さり、身体の中を駆け上っていくのを見ました。
だから、『スタンド』も『DIO』も、何だかよく分かりませんが、全てを信じます。」

江里子は一同に向かって、そう宣言した。
江里子には理解出来ない『スタンド』という能力を持つ、4人の男達に向かって。


「『スタンド』が何なのか、『DIO』が何者なのか、そんな事、私には関係ありません。
私は、奥様との約束を果たす事しか考えていません。
私の役目は、奥様の為にあなた方を全員無事にここに連れ帰る、只それだけです。」
「・・・・一つ訊きてぇんだがな。お前は俺達を連れ帰ると言うが、お前に何が出来る?スタンド使いでもねぇ、闘える訳でもねぇ、只の女のお前に。」

承太郎が、厳しい眼差しで江里子を見据えた。
だが江里子は、その視線に負けなかった。


「・・・・へぇ。スタンド使いって呼ぶんですね。その能力を持つ人の事。これからは私もそう呼びます。」
「んな事どうでもいいんだよ。俺が訊きてぇのは・・」
「奥様は、あなた方がとんでもない無茶をするんじゃあないかと心配しておいでです。それこそ、病に冒されているご自分の身よりも。
奥様が何より大事になさっているものが何なのか、奥様がどんな性格の方なのか、実の息子の貴方ならお分かりでしょう?」

江里子がまっすぐ見つめ返してそう問いかけると、承太郎は押し黙った。


「私は勿論、何も出来ません。
殴り合いのケンカなんて、子供の頃の兄妹ゲンカでしたっきりですし、車の運転も出来ません。
ついでに言うと、足も遅いです。はっきり申しますと、お荷物以外の何物でもありません。
ですが、奥様は仰いました。
お荷物を抱えている男の人は、本当の意味で強いんだ、って。
このお荷物を残して絶対に死ねない、必ず生き抜かなきゃ・・・・って思いが、そうさせるのだそうです。」
「・・・・・何言ってやがんだ、あのアマは。」

承太郎は帽子のひさしに顔を隠し、照れ隠しに捨て台詞を吐いた。
すると、ジョースターが険しい顔になって承太郎を怒鳴り付けた。


「承太郎!!貴様、自分の母親をアマ呼ばわりするなと何度言ったら・・」
「ジョースターさん、無駄ですよ。そんな叱り方では、承太郎さんには効きません。」

江里子はそれを、ひとまず止めた。


「むう・・・・、ならばどう言えば良いのじゃ?」
「そうですねえ・・・・・・・、たとえば・・・・・」

まるで承太郎の性格を熟知しているような口ぶりで割って入ってしまったが、承太郎がグレてからのこの1年、使用人風情が差し出がましい事は出来ないと我慢に我慢を重ねていたので、承太郎を叱るというのは、実のところ、江里子にも不慣れだった。
しかし、これから危険な、そして、これまでの常識では計り知れない不思議な旅を、共にするのだ。
余所余所しく避けたり、妙な遠慮をするのはこれっきりやめた方が、きっと良いような気がした。


「そのアマのお乳を飲んで育ったのはどこのどなたでしょうねぇ?承太郎坊ちゃま?」

江里子は暫し考えてから、大体の男が嫌がるであろうスタンダードな嫌味と共に、伝家の宝刀『坊ちゃま』を抜いた。


「ブフーッ!!」
「ブフォォッ!!」

その途端、花京院とアヴドゥルが、盛大に吹き出した。
二人に思いっきり笑われて、承太郎が珍しく慌てた顔になった。
それを見たジョースターは、さも愉快そうに手を叩いて大笑いした。


「おお!効いとる効いとる!!やるのう、エリー!!」
「江里、テメェ・・・・・!」

皆にからかわれた承太郎は、薄らと赤くなった顔を隠すように背けて言った。


「・・・・・・・言っとくが、俺ぁ知らねぇぞ。テメェが俺の邪魔になるようなら、俺はテメェを容赦なく切り捨てるからな。」
「お、おいジョジョ・・・・」

そのきつい言葉と口調が、花京院には気になったようだが、しかし江里子は全く気にならなかった。


「結構です。私は『お荷物』ではありますが、目的はあくまでも奥様のお命を救う事。
その為に闘う皆様の足を引っ張るつもりはありません。
私が闘いの邪魔になるようでしたら、その時はどうぞ、私を置き去りにでも見殺しにでもして下さい。私はそれで本望です。
だって、奥様がいらっしゃらなければ、私はとっくの昔に、この小さな町で野垂れ死んでいたのですから。」

何故なら、承太郎の言っている事は、全くの正論だったからだ。


「・・・・そこまで覚悟を決められちゃあ、どうしようもありませんな、ジョースターさん。」
「うむ・・・・・・」

アヴドゥルが、ジョースターが、根負けしたような苦笑を浮かべた。
許可して貰えたのだ。
そう理解した江里子は、ピョコンと立ち上がり、一同に向かって深々と頭を下げた。


「ありがとうございます!奥様の為に、全力で皆様の『お荷物』になりますので、宜しくお願いします!」

言った後で、ちょっとおかしな挨拶だったなと、我ながら思った。


「やれやれだぜ・・・・・・」

ジョースター、アヴドゥル、花京院の苦笑いする声に混じって、諦めきったような承太郎の呟きが、小さく聞こえた。















江里子の同行が決定した時点で、時刻は午後3時を回っていた。
時を同じくしてスピードワゴン財団から連絡が入り、メディカルチームの到着は午後5時頃になるとの事で、いよいよ出発の時も差し迫ってきていた。
その残り少ない時間で、江里子には大急ぎで荷造りをさせた。
女性だから、男のようにパンツ1枚で何処へでも行ける、という訳にはいかないだろうが、持っていく荷物は当座に必要な最小限にするよう指示をした。
必要な物があれば都度買えば良いし、旅の最中もスピードワゴン財団からのバックアップを受ける手筈になっているからだ。

だが、パスポートだけはどうしようもない。
一度も日本を出た事がないという江里子の話を聞いてその問題に気付き、一瞬肝を冷やしたが、しかし、結果的には問題無かった。
ホリィと貞夫が、高校の卒業祝いと、正式に空条家の家政婦となった就職祝いを兼ねて、江里子のパスポートを作っていたのだ。
運転免許は自分でお金を貯めてから取りに行くと言い張った江里子に、ならばそれまでの間の身分証明になるものが絶対に必要だと言って、そうしたらしかった。

お陰で準備は滞りなく終わり、後はメディカルチームの到着を待つばかりとなったのだが、その僅かな時間を割いてでも、どうしてもやっておかねばならない事が、ジョースターにはあった。
それは。





「ジョースターさん、うちなら本当に構わないんですよ?そんなに気遣って頂かなくても・・・」
「いいや、駄目だ。人様のお嬢さんを旅に、それも外国に引っ張り回すのに、挨拶も報告も無しという訳にはいかん。
これは最年長者として、引率者として、儂が通すべき筋。儂の責任なのじゃ。」

そう。
江里子の父親に、エジプト行きを報告する事だった。
江里子本人はしきりと恐縮し、嫌がるに近い感じで遠慮したが、ジョースターはそれを押し切り、江里子を連れて、車で江里子の実家へとやって来ていた。
幸いにも、江里子の実家は空条家から車で10分程度と、近距離にあった。道も空いていて、すぐに到着した。
そこまでは何も問題は無かったのだが。


「初めまして、星野さん。私はジョセフ・ジョースターと申します。
江里子さんが家政婦をしておられる空条家の嫁、ホリィの父親です。
江里子さんには、いつも娘一家がお世話になっております。」
「・・・・・・はあ?」

礼を尽くし、勿論日本語で挨拶をしたにも関わらず、江里子の父・星野武男は、憚る事なく思いっきり怪訝そうな顔をした。


「おい江里子、何だこの外人?」
「やめてよ父さん、失礼でしょ!?うちの奥様のお父様なのよ!?」
「うぇ?うちの奥様??うちにゃあ『奥様』なんかいねーよ?
君子はもう何年も前に出てっただろうが!なぁに言ってんだぁ今更!ハハハーだ!」
「父さん・・・・・!」

江里子の父親は、江里子の言った『奥様』を、自分の別れた妻・君子と勘違いしているようだった。
元から頭が悪いのか、それとも酒のせいなのか。
まだ日も沈まぬ内からグラスになみなみと酒を注いで煽っている武男と、そんな父親に心の底から嫌悪しているような眼差しを向けている江里子を、ジョースターは黙ってじっと観察していた。


「何だか知らねーけどよ、俺ぁもう君子の奴とは何の関係もねぇんだ。あのアマの話なら聞きたくねぇ。さ、帰ってくれ。」
「話が済めばすぐに失礼します。私がしたいのは、君子さんという方の話ではない。あなたの娘さん、江里子さんの話です。」
「何だと?」

武男は、突然、威嚇するような目つきになった。


「何だテメェ?死にかけのジジイの癖して、うちの娘に手ェ出す気か?ああ!?」
「父さん!!」
「そうではありません。だが、故あって、江里子さんをエジプト旅行に連れていく事になりました。今日はそのご報告に来たのです。」
「えじぷと??えじぷとって何だ?どこだそりゃ?」

ジョースターは思わず溜息を吐いてしまった。
江里子がやけに渋った理由が分かった。
この男は、全く、話にならないのだ、と。


「ジョースターさん、すみません。気になさらないで下さい。こういう人なんです。」

江里子は気まずそうに謝ると、父親を軽蔑の目で睨み付けながら言った。


「とにかく、暫く私、留守にするから。
空条さんの家に電話してきても、私出ないよ?直接来たって、私いないよ?分かった?
空条さんの家に絶対絶対、迷惑かけないでよ?私が留守の間、面倒事起こさないで大人しくしててよね。」

その台詞は、およそ娘が父親に向かって言う台詞ではなかった。
だが、ホリィに悪態を吐く承太郎を叱るように江里子を叱る事は、ジョースターには出来なかった。
それを言う江里子の表情が、とても苦しげで、傷付いているように見えたからだ。


「これ、留守する間の分。これから2ヶ月位は来れないから、多めに入れてある。」

江里子はそう言って、バッグから白い封筒を出した。
その途端、武男は目を嫌な感じに輝かせ、ひったくるようにしてその封筒を江里子の手から奪い取った。
そして、江里子やジョースターの事などもう眼中にないといった様子で、一心不乱に封筒の中の札を数え始めた。
その浅ましい姿から目を離さないまま、ジョースターは小さな声で江里子に尋ねた。


「・・・・エリー。あれは何じゃ?」
「仕送りです。母も兄も音信不通で、他に誰も面倒看る人がいませんから。
私が毎月のお給料から、少しずつ生活費を用立てています。
本人は日雇いの仕事を行ったり行かなかったりで、ろくな稼ぎがありませんから。」

江里子もまた、疲れたような小さな声で答えた。
やがて、札の枚数を数え終わった武男が、盛大な舌打ちをした。


「チェッ!2ヶ月分でたった10万かよ!ほんとに少しじゃねーか!
おいそこの外人!テメェ江里子にちゃんと給料払ってんのかぁ!?ああ!?コイツが世間知らずの娘だからって、騙してこき使ってんじゃねーだろーなぁ!おぉ!?ちゃんと金払わねぇなら、出るとこ出るぞコラァ!?」
「いい加減にしなさいよこの酔っ払いが!!」

江里子は、ジョースターがこれまで聞いた事もなかったような凄みのある声音で、父親を怒鳴り付けた。


「いっぺんに渡したってすぐ全部使い果たすのは誰よ!?くれてやるだけ有り難いと思いなさいよ!!
これ以上ジョースターさんに失礼な口利いたら、もう二度とやらないからね!!」
「てっ、テメェ何だその口の利き方は!?親に向かってこの・・・」
「アンタなんか親じゃない!!」

江里子は一際大きな声でそう怒鳴ると、勢いに任せてジョースターの袖を引っ張ってきた。


「行きましょう、ジョースターさん。もう用はありませんから。」
「お、おいエリー・・・・・」

江里子はそのままジョースターを玄関まで引っ張っていった。
その顔が、話し掛けるのも躊躇われる程に固く強張っていたので、ジョースターは黙ってされるがままになっていた。
江里子が勢い良くドアを開けようとしたその時、ドアの方が勝手に開いた。
いや違う、向こうから誰かが開けたのだ。


「武ちゃあ〜ん!起きてるぅ〜!?・・・って誰!?アンタ!?」

顔を出したのは、けばけばしい厚化粧と派手な服装と咥え煙草が見苦しい、下品な感じの中年女だった。
歳の頃は多分ホリィより少し若い位なのだろうが、パッと見た雰囲気はホリィより遥かに老けていた。
ホリィが歳の割にいつまでも若々しく見えるという事もあるが、この女に関しては恐らく、不摂生とだらしのない性根のせいで汚らしく見えるのだろうと、ジョースターは思った。


「そ、そっちこそ誰ですか!?人の家に勝手に・・・・!」

一面識もないらしく、江里子も驚いていた。
すると、部屋から武男がフラフラとだらしのない足取りで出て来た。


「おう!コイツ俺の娘だ!前に言っただろ?」
「あー!あの、近くの何とかいうお屋敷に奉公に出てるって子!?へー!この子がねぇ!!」
「おう江里子、こいつはアケミってんだ。俺の・・・・、へへっ、コレだよコレ。」

武男はニヤニヤした笑いを浮かべ、我が娘に向かって恥ずかしげもなく小指を立てて見せた。
ジョースターは、思わずカッとなった。
ホリィの笑顔を思い浮かべると、武男の事を、鳥肌が立つ程おぞましいと思った。


「で、誰よこの外人のジーサンは。」
「さあ。よく分かんねえ。何かウダウダ言ってたけど。」

ついさっき自己紹介をしたばかりだというのに、この無礼な言い草。
ジョースターは思わず拳を固め、奥歯を噛み締めた。
だが、相手はこれでも江里子の実の父親だ。
抑えろ儂、堪えろ儂、と、ジョースターは念仏のように己に言い聞かせた。


「あ!もしかして愛人!?パトロン!?やるじゃ〜ん小娘のくせにぃ〜!」
「あ、やっぱそういう事かよ!」
「違っ・・・・・!そんな訳ないでしょ!?父さん、私の話ちゃんと聞いてた!?」
「良く見りゃあ年寄りのくせにイイ体してるじゃない!?シブくてカッコいいし!
ねえねえ、やっぱ外人ってアッチの方すごいの!?ね!?どんだけデカいの!?ちゃんと全部入んの!?」
「おいコラてめぇアケミ!なにキョーミシンシンな顔して訊いてんだ!?そんなジジィのチンポにまでキョーミあんのかよテメェ!?」

だが、ジョースターの理性は、元来、生憎と脆い方だった。
歳を取ってこれでも大分丸くなり、随分紳士になったものだと常々自分を褒めていたが。


「・・・・・あ・・・・・、やっぱムリじゃ儂・・・・・・。
エリーすまん・・・・・、儂、キレちゃいそう・・・・・・・・」
「じょ、ジョースターさん・・・・・・!?」

もう、限界。
儂、オーバードライブ放っちゃいそう。
そう思った瞬間、不意に武男が大声を張り上げた。


「あーあー!!いーよなー金持ちはよぉー!!10代のピチピチ娘愛人にして、2ヶ月エジプト旅行たぁ良いご身分だよホント!!」
「えっ、何それ!?」
「こいつら、これからエジプトに旅行に行くんだとよ。2ヶ月も。」
「マジで!?」
「その割に支度金はぁ〜・・・・・これっぽっちだ。」

いやに芝居じみた口調で、武男は江里子の渡した10万円を女の前でヒラヒラとそよがせた。


「そ〜んな金持ちならよぉ〜、愛人の父親に、もっと誠心誠意、挨拶したって良いんじゃないのぉ〜?
人様の大事な大事な嫁入り前の娘をよぉ、好き勝手にヤリたい放題ヤッちゃってんだからよぉ〜。」

ジョースターは、視線に気付いた。
心の底から申し訳なく思っていそうな、哀しい、哀しい、江里子の視線に。
江里子は今にも泣きそうな顔で、ジョースターに向かって無言のまま頭を下げた。
それを見た途端、ジョースターの中から怒りがスーッと引いていった。
そして、何故ホリィがそこまでして手を尽くし、江里子を自分の家に引き取ったのか、真に理解した。
江里子の話を聞いた段階で大方の想像はついていたが、実際に目の当たりにすると、想像よりも遥かに酷かった。


「・・・・・無論、そのつもりじゃ。」
「じょ、ジョースターさん・・・・・?」

ジョースターはおもむろにジャケットの内ポケットから分厚い封筒を取り出すと、武男に見せびらかすように掲げた。


「日本円で現金5百万が入っておる。そして、小切手でもう5百、しめて1千万。貴様にくれてやる。」
「い、いっせん・・・・」
「まん・・・・」

武男とアケミは、呆けたようにしまりのない顔になった。


「それで、この娘の一切合財を儂に委ねると約束するならな。」

ジョースターがそう言うと、二人は何かのスイッチが入ったかのように喚き出した。


「し・・・・・、しなさいよしなさいよしなさいよぉぉぉ!!」
「するするするする!!するするぅーーっ!!!」
「ならば!!!」

封筒に向かって手を伸ばしてきた二人を、ジョースターは安普請のアパートが揺れる程の大声で制した。


「まずは、今この娘から受け取った金を返せ。
そして金輪際、この娘に金をせびるな。この娘の人生の邪魔をするな。
その1千万を元手に、この娘に頼らず己の暮らしを立てろ。分かったな?」
「は・・・・・・、は・・・・・い・・・・・・・」
「もしもこの約束を破るような事があれば、その時はこのジョセフ・ジョースターが、貴様を捻り潰す。
貴様の如きダニを1匹始末する位、この儂には朝飯前だという事を忘れるな!!」
「ひ・・・・・、ひぃぃ・・・・・・・!」

ジョースターの一喝で、武男はすっかり竦み上がっていた。
女に至っては、その場で失禁してしまっていた。















「・・・・本当に申し訳ありませんでした、ジョースターさん。
私・・・・・・、それ以外に何て言って良いか・・・・・・・・・」

車が走り出すと、江里子は消え入りそうな声で詫びてきた。


「どうしてあんな大金・・・・・、私なんかの為に・・・・・・」

少しも嬉しそうではない、むしろ不安そうに声を震わせる江里子を、ジョースターは横目で一瞥した。
ジョースターが武男に支払った1千万という額におののいているのであろう事は、想像するまでもない。
だが、ジョースターにとってみれば、それはポケットマネー程度の金だった。
現金で持っていた5百万も、来日した時に両替しておいた旅費、それも、カードや小切手では支払えない、小額かつ雑多な出費の為の金に過ぎなかった。


「君が気にする事はない。儂がしたくて勝手にやった事じゃ。
返す必要も勿論ない。あの金の事は綺麗さっぱり忘れなさい。」
「・・・・・・ジョースターさんまで、奥様と同じ事仰らないで下さい・・・・・」

江里子はほんの少し、恨めしそうな声音でそう呟いた。
そしてそのすぐ後に、すみません、と。
その心細そうなか弱い声に、ジョースターは締め付けられるような胸苦しさを覚えた。


「謝るのは儂の方じゃよ、エリー。君と君の父親を、侮辱するようなやり方をしてしまった。済まなかった。」
「・・・・・そんな事・・・・・・・・」
「君はもう、自由になるんじゃ。」

ジョースターは、江里子とまっすぐ目を合わせて、諭すように話した。


「君はよくやった。これまで実によくやってきた。だが、これ以上はもう必要ない。
これ以上、君が一人で幾ら頑張ったところで、それはもはや君の父親にとって毒にしかならん。
肉親の情は何にも代え難い、素晴らしい心の糧だが、残念ながらそれは誰にでもそうなるという訳ではない。
あの父親に金をやるという事は、禁断症状で苦しむ麻薬中毒患者に麻薬を与えてやるようなものじゃ。本人は喜ぶが、決して本人の為にはならん。歪んだ情じゃ。
最終的には共倒れ、本人も周りの者も皆、破滅する。」
「・・・・・・・・・・」
「それでも、色々なしがらみに囚われ、破滅しか待っておらんと分かっていても、それを貫くしかない人間もおる。
だが、君はそうじゃあない。君はまだ若く、無限の未来がある。
その君が、青春という人生で最も輝かしい時期を犠牲にしてまでやる事ではない。分かるな?」
「・・・・・はい・・・・・・」
「ホリィもサダオもきっと、そう思っとる筈じゃ。
君には、君の人生を生きて欲しいと。そして、幸せになって欲しいと。」

江里子が、ポロポロと涙を零し始めた。美しい涙だった。


「・・・・・頭を撫でても良いかな?」
「・・・・・勿体ないです・・・・・・」
「勿体ない?日本語はやっぱりよく分からんのう。」

ジョースターはその大きな手で、声を押し殺して泣く江里子の頭を優しく撫で始めた。
ホリィは歳の割に幼くて甘えん坊で、今でも親子のスキンシップは人並み以上に取れている自覚があるが、それでも、この感覚は久しぶりだった。
無条件で可愛らしい、愛おしいという気持ちが胸の中いっぱいにじんわりと広がる、この感覚は。


「・・・・・・こうしとると、ホリィの娘時分を思い出す。
あれもよく泣く娘でな。嬉しくても悲しくても、何かっちゃあピーピー泣いとった。
それをよく、こうして宥めたものだ。」

車が空条家に着くまでずっと、ジョースターは江里子の頭を撫で続けたのだった。










空条家に帰り着くと、アヴドゥルが迎えに出て来た。


「お帰りなさい、ジョースターさん。エリーの実家の方はどうでしたか?」

江里子が自分の部屋に帰るのを見送ってから、アヴドゥルはそう切り出してきた。


「うむ。問題ない。円満に解決した。これで心置きなくエジプトに出発出来る。」
「円満に、ですか。それにしちゃあ、えらく表情が険しいですが。」

アヴドゥルが呆れた表情を浮かべたので、ジョースターは小さく肩を竦めた。
別にごまかす必要がないのは分かっている。ただ、口にするのも胸糞悪いと思っただけで。


「・・・・・話に聞いていた以上だ。アレは父親なんかじゃあない。」

ジョースターは言葉少なにそう答えた。
アヴドゥルには、それで十分通じたようだった。


「エリーは、ホリィの為に儂らを全員無事で連れ帰ると勇んでおるが、儂は決めたぞ、アヴドゥル。」
「何をです?」
「儂らの方こそ、何としてもあの娘を無事にここへ連れ帰るのだ。
そして、帰って来たら、あの娘には自分の人生を歩んで貰う。」

それは、車の中で泣く江里子を慰めながら考えていた事だった。
空条家に帰り着き、アヴドゥルに出迎えられた途端に、まるで何事もなかったかのような笑顔を見せた江里子を見て、固く心に誓った事だった。


「今のあの娘は、ホリィに尽くす事しか考えておらん。それこそ、死ぬ事も厭わない位にな。」
「情が深いのでしょう。純粋そうな、健気な娘ですからね。」
「あの家庭環境を見れば、それが無理もないというのは分かる。
あの環境からあの娘を連れ出したホリィは、あの娘にしてみれば、女神のようなものだろうからな。」
「そんなにまで劣悪な環境だったのですね・・・・・」

哀れむように呟くアヴドゥルに、ジョースターは頷いた。


「だが、いつまでもこのままではいかん。
あの娘にはあの娘の人生があるのだ。救われた恩を返すばかりがあの娘の人生ではない。
その事に、あの娘は自分で気付かねばならんのだ。
受けた恩を返す事と、自分の人生を生きる事は別なのだ、とな・・・・・。」

そう、いつか。
いつか気付き、羽ばたいて欲しい。
危険なこの旅が、せめて江里子の人生にとって何かのきっかけになってくれれば。
ジョースターは、そう願わずにはいられなかった。




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