「星野さん。花京院です。」
書庫を出てきたその足で、花京院は江里子の部屋を訪ねた。
「・・・・どうぞ。お入り下さい。」
襖越しに声を掛けると、すぐに江里子が顔を出し、花京院は中に招かれた。
部屋は6畳程度のこじんまりした和室だったが、綺麗に片付いており、若い娘の部屋らしく可愛らしい小物が幾つか飾られてあった。
造花の盛られた花籠や、宝石箱のような小箱や、薄紅色の桜の花模様の布カバーがかけられた鏡台、そんな物を見て、花京院は、女性の部屋に入ったのはこれが初めてだという事を自覚し、今更ながらに緊張した。
だが江里子の方には、部屋で男と二人きりだという意識はないようだった。
「・・・・それで、あの・・・・・、どうでしたか・・・・・?」
花京院を迎え入れるや否や、江里子は訊き難そうに、しかし知りたくて堪らないといった様子で、自分から口を開いた。
その健気にも必死な様子に、花京院は思わず苦笑を浮かべた。
「やっぱり、私の思った通りでしたよ。貴女を傷付けるつもりは、承太郎にはなかった。彼が口下手なのは、付き合いの浅い私より、貴女の方が良くご存知でしょう?」
「・・・・・それは・・・・・・・」
「貴女はきっと、何か別の事に傷付いた。承太郎に怒鳴られた事それ自体ではなく。違いますか?」
「っ・・・・・・・・!」
やはり、図星のようだった。
「・・・・・奥様は、私にとって、とても大切な方なんです・・・・・。」
江里子は暫く躊躇った後、消え入りそうな声で言葉少なにそう答えた。
江里子のそのしおらしい態度は何だかやけに可愛くて、ふと、意地の悪い愚問が花京院の頭を過ぎった。
「・・・承太郎ではなく?」
「え?」
「いえ、何でも。」
慌てて誤魔化しながら、花京院は己を恥じた。
これがいわゆる『嫉妬』というものなのだろうか?
江里子を女性として意識し始めているのだろうか?
だが、その自問に、花京院は答えなかった。
この一大事に、つまらない事を思い煩っている暇はないのだ。
それに、江里子の沈黙がやはり気になった。
承太郎に密かな恋心を抱いている、という理由では今一つ説明のつき難い沈黙が。
「心配しないで下さい。ホリィさんも、じきにきっと良くなります。」
「どうしてそんな事が言い切れるんですか?花京院さんもやっぱり何かご存知なんですか?」
「はい。」
花京院は、はっきりとそう答えた。すると、江里子の目の色が変わった。
「何をご存知なんですか!?教えて下さい!」
「残念ですが、それは出来ません。」
「どうしてですか!?」
「どうしてもです。」
必死の形相で食い下がる江里子を、花京院は静かに、しかし毅然と拒絶した。
「確かに、貴女が知らない何かを我々は知っている。
だけど、貴女がそれを知る必要はない。
貴女に踏み込まれたくない領域があるように、私にも、我々にも、それがある。」
「っ・・・・・・!」
そう。
江里子にはやはり、何か心に抱えているものがある。
恋心という美しいものではない、自分と同じように、人にはあまり知られたくないようなものが。
花京院は今、それを確信していた。
「失礼な言い方をしてすみません。ですが、それでどうかご容赦下さい。」
言葉を詰まらせてしまった江里子に誠意を込めて詫びた上で、花京院は江里子をまっすぐに見つめた。
「詳しい事はお教え出来ません。ですが、ホリィさんの事は、我々が必ず何とかします。
貴女の大切な人は、必ず助けてみせます。何としてでも。」
「花京院、さん・・・・・・・・」
「お世話になりました、星野さん。ご恩は一生忘れません。」
花京院は江里子に向かって頭を下げると、部屋を出て行った。
ある一つの決意を胸に秘めて。
花京院は、承太郎達のいる部屋にやって来た。
すると、アヴドゥルの高揚した声が聞こえてきた。
「エジプト、ナイル川流域のみに生息。なかでも、足に縞模様のあるものは、アスワンウエウエバエと呼ばれる。」
「エジプト・・・・!」
次いで、ジョースターの呟き声も。
どうやら、DIOの背景に写っていたというハエの正体が判明したようだった。
「それもアスワン付近に限定されます。DIOはそこにいる!」
エジプト、アスワン界隈にDIOは潜伏している。
その言葉が、花京院の背中を押した。
「やはりエジプトか!」
花京院は、承太郎達の前にその姿を見せた。
「花京院・・・・!」
「やはり、じゃと?」
驚く承太郎とジョースターに向かって、花京院は頷いて見せた。
「私が脳に肉の芽を埋め込まれたのは、3ケ月前!
家族とエジプト、ナイルを旅行している時、DIOに出遭った・・・・!」
肉の芽を埋め込まれてからの3ケ月間の記憶は、覚えてこそいるが何だかもやがかかったように不透明だった。
だが、DIOに遭遇し、肉の芽を埋め込まれたその時の記憶は、鮮明に残っていた。
「お前もエジプトを・・・。DIOは何故かエジプトから動きたくないらしいな。」
アヴドゥルの口ぶりは、まるで彼もエジプトで何かあったかのように聞こえた。
DIOは必ずエジプトにいるという確信が、それで益々強くなった。
「いつ出発する?私も同行する!」
命の危険に晒されているホリィの為、彼女を想う江里子の為、
そして、孤独という殻の中に閉じ籠ってばかりだった自分を変える為、DIOとの闘いに同行する。
その決意を胸に、花京院は一同に向かってそう言い放った。
「!」
「おお!」
花京院の申し出に、ジョースターは目を見開き、アヴドゥルは目を輝かせた。
「同行するだと?何故お前が?」
そして承太郎は、訝しげに理由を尋ねてきた。
数日前の自分がしたのと全く同じ、野暮な質問だった。
「そこんところだが、何故同行したくなったのかは、私にもよく分からないんだがね。」
「ケッ・・・・」
その時の承太郎と同じ答えを返してやると、承太郎は些か決まりが悪そうに帽子を目深に被り直し、そっぽを向いてしまった。
照れているのだ。
「・・・・・お前のお陰で目が覚めた、ただそれだけさ。」
花京院は自分の額を指で突き、唇の端を吊り上げた。
承太郎はますますそ知らぬ顔をし、ジョースターとアヴドゥルは、無言のまま小さく微笑んだ。
「・・・・ホリィ、必ず助けてやる。安心するんだ。心配する事は何もない。必ず元気にしてやる。安心していれば良いんだよ・・・・。」
ジョースターはおもむろに、寝ているホリィに小さな声で話しかけ、その白い頬を愛しそうに撫でた。
その隣にいたアヴドゥルが、さあ出掛けようとばかりに、無言で立ち上がった。
「ジョジョのお母さん、ホリィさんという女性は、人の心を和ませる女の人ですね。側にいるとホッとする気持ちになる。」
花京院はアヴドゥルに歩み寄り、話し掛けた。
「こんな事を言うのも何だが、恋をするとしたら、あんな気持ちの女性が良いと思います。守ってあげたいと思う、元気な、温かな笑顔が見たいと思う・・・・。」
「うむ・・・・・」
ホリィの話をしながらも、花京院の脳裏に浮かんでいるのは江里子の微笑みだった。
スタンドを持たず、スタンドを見ることも出来ない人間とは、真に心を通わせる事は出来ない。これまでずっと、そう思ってきた。
そう頑なに思い込んで、他人との間に深い境界線を引き、誰をも受け入れず、誰にも心を開かなかった。
だが、もしもこの旅から生きて帰って来る事が出来たら。
必ずホリィを救うという約束を果たす事が出来たら。
その時は、この気持ちを江里子に伝えよう。
眠るホリィの様子を見守りながら、花京院は今、己自身にそう誓っていた。
「時間がない!すぐにも出発じゃ!!」
立ち上がったジョースターの勇ましい声に、花京院はアヴドゥル、承太郎と共に、力強く頷いたのだった。
すぐにも出発、とは言っても、目的地は遥か1万キロ彼方のエジプト。
本当に着のみ着のままで飛び出して行く事は出来ないのが、現実というものである。
差し当たって飛行機のチケットを人数分押さえなければならないし、幾ら男ばかりとはいえ、多少の旅支度もある。
何より、病に伏しているホリィの看護に関しては、万全の手配をしていく必要があった。
それに当たって、一番尽力したのはジョースターだった。
自身も高い社会的地位にある富裕層の人間であるが、彼はあの世界有数の大財閥、スピードワゴン財団との強力なコネクションを持っていた。
財団の創設者であるロバート・E・O・スピードワゴン氏が、ジョースターの亡くなった祖父と深い親交のあった人物で、早くに祖父と父を亡くし、祖母に育てられたジョースターにとっては、実の父親や祖父のような存在だったとの事だった。
ジョースターはホリィの為に、腕の良い医療スタッフを一個団体派遣するよう要請した。彼はきっと、最初からそのつもりだったのだろう。
さしあたり東京にあるスピードワゴン財団系列の大病院から、各科の名医、ベテラン看護師や検査技師など、選りすぐりのエリートメディカルチームが派遣されてくる事となった。
ただ、向こうも着のみ着のままで駆けつけて来る訳にはいかない。
深刻な事態だからこそ、周到な準備が必要であり、誰よりもジョースターがそれを望んだ。故に、十分な機材や医薬品の準備、スタッフ陣の仕事の兼ね合い等を考えて、到着は夕方位になるとの予定が立った。
メディカルチームの到着を待つ間、旅に出るジョースター達は各々旅支度をする事になり、その為に、花京院は自分の家に一旦帰って行った。
彼の実家は都内にあるとの事だったが、現在彼は駅を挟んで空条家とは反対側、ここから歩いて30分程掛かる場所にアパートを借りて一人住まいをしているとの事で、そちらに帰って行った。
まだ住み始めてほんの数日、しかもその半分程は空条家に泊まっていたから、部屋には殆ど何も無いと苦笑していたが、とはいえ、当座の着替えや日用品などはそこにある。それを取りに戻る必要があったのだ。
幾ら半日程度の猶予があるとはいえ、片道30分、往復1時間という時間を無駄にするのは勿体ないとの事で、花京院は空条家の運転手が運転する自家用車で、アパートと空条家を往復する事になった。花京院はしきりと恐縮したが、ジョースターが半ば命令するようにしてそう決まった。
その影で、江里子はひたすら悲しみに暮れていた・・・、訳では勿論なかった。
腹が減っては戦は出来ぬという事で、彼等の昼食の用意をしたり、荷造りを手伝ったりと、細かな雑務、旅の準備の準備ともいうべき雑多な作業に追われた。
しかし、ホリィの看護だけは、やはり任せて貰えなかった。
ホリィの部屋に入る事も固く禁じられ、江里子は密かに、より一層の深い悲しみと虚しさに苛まれた。
だが、その理由を問い質してしつこく食い下がる事は、もうしなかった。
江里子は己を宥めすかして諦めをつけ、ジョースターやアヴドゥルに頼まれた事を、ただ淡々とこなした。
そうして何時間かが過ぎ、昼を回った頃。
「エリー。ちょっと良いか?」
頼まれた作業が一区切りついて、自室で休憩していた江里子の元に、ジョースターが訪ねてきた。
「はい。何でしょうか?」
顔を出したその時までは、買い出しか、荷造りか、また何か頼まれるのだとばかり思っていた。
だが、そうではなかった。
「ホリィが君を呼んでいる。どうしても君に話したい事があるというのだ。すまんが来てくれるか?」
「奥様が・・・・・・!?」
断る理由は、勿論なかった。
病床にあるホリィにどうしてもと言われて知らん顔をする事など。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
江里子は無言のまま、ジョースターと共に廊下を歩いた。
ホリィの容態や、何故彼女に近付いてはいけないのかを問い質したところで無駄なのは分かっていたし、そうである以上、話す事など特段何もなかったからだ。
ジョースターもまた、気まずそうに黙ったままだった。
ホリィの部屋の隣室に着くまでは。
「エリー。この部屋に入ってくれ。」
「え・・・・・?でもあの、ここは奥様のお部屋では・・」
「分かっておる。だが、ここはホリィの部屋の続き間。襖1枚隔てていても、お互いの声は聞こえるだろう。」
「・・・・どうしても・・・・、奥様には会わせて頂けないのですね・・・・」
江里子は俯かずにはいられなかった。
顔を上げていれば、無礼にもジョースターを睨み付けるか、最悪、みっともなく泣き出すかもしれなかったからだ。
「ご家族の一大事に、私のような他人が図々しく出しゃばるべきでないのは分かっています。ですが、一目お顔を見る事すら許して貰えないのは何故ですか?」
「エリー・・・・・・・」
「奥様は、伝染病という訳ではないのですよね?
だって私以外の皆様は、アヴドゥルさんだって花京院さんだって、奥様のお側に出入りしていらっしゃるのですから。
だったら、私も会わせて下さい。ほんの一目で良いんです、ほんの一言で良いんです。奥様と直接、話をさせて下さい。お願いします。」
江里子は深く、深く、頭を下げた。
やがて、頭上から哀しげな低い声が降ってきた。
「・・・・・・エリー、すまない。君にとても失礼な事をしとるのは分かっている。
さっき承太郎に言われた事で、君がとても悲しい思いをしたというのは聞いた。
実は今、承太郎が『実験』をしている。」
「実験・・・・・・?」
「君を・・・・、そして、他の人間をホリィの側に近付けても大丈夫かどうか、その実験だ。」
「どういう事ですか・・・・!?奥様の病気は、恐ろしい伝染病だって事ですか!?」
「そうではない。移りはしない。
ただ、どんなものでも、己の意のままに制御出来なければ、それはとても危険なものだ。車だって、機械だって。違うかね?」
車や機械の話ならば、理解は出来る。
だが、ホリィの病気の話となれば、それはやはり江里子には理解出来なかった。
「・・・・・・私には・・・・・・、分かりません・・・・・・・・。あなた方の仰っている事、何もかも・・・・・・・・・」
「無理もない。だが、それで良いのだ。君が理解しようと悩む必要はない。
話を元に戻すが、その実験の結果が、もうすぐ出る事になっている。
それで大丈夫ならば、ホリィの部屋に入って構わん。」
「ほ・・・・本当ですか!?」
江里子は喜びかけた。
しかしジョースターは、険しい顔でそれを制した。
「だが、無責任を承知で正直に言うが、それでも君の命の保証は完全には出来ない。
もしも君が、ほんの僅かでも危険を被りたくなければ、この部屋から襖を隔てて会話をしてくれ。むしろ儂はそれを勧める。君が他人だからではない、君がホリィにとってとても大切な人だからだ。」
江里子が言葉を詰まらせたその時、ホリィの部屋の障子が開いた。
「おお、承太郎。」
ホリィの部屋から出て来たのは、承太郎だった。
何となく気まずくて、江里子は思わず視線を足元に落とした。
「どうじゃ?ホリィの様子は。」
「大丈夫だ。今んところは落ち着いている。」
「それで、『実験』の結果は・・・・・・?」
承太郎はポケットから煙草を取り出し、火を点けて燻らせ始めた。
そして一口、紫煙を大きく吸い込んでから、ボソボソとした声で答えた。
「・・・・どうやら大丈夫みてぇだ。着替えさせても、タオルでガシガシ汗を拭いても、何ともねぇ。
『アイツ』にもやらせてみたが、同じだった。
しつこくされれば怒るかと思って何度もやってみたが、終いに文句言い始めたのはお袋の方で、『アレ』は何もしなかった。」
「ふぅむ・・・・・・・。となると、攻撃性はないのか・・・・・・」
「或いは、お袋に攻撃の意思がないから攻撃しないだけなのか、どっちかは分からねぇがな。
つー事で、入っても構わねぇぜ。」
承太郎は煙草を吸いながら、江里子の横を通り抜けて行った。
「・・・つまんねぇ事気にしてんじゃねぇよ、ブス。」
すれ違いざまに、そう言い残して。
その口調は、嫌味というよりは、何だかバツの悪そうな感じに聞こえた。
「・・・・・奥様に会わせて下さい。」
だが、今の江里子には何も気にならなかった。
承太郎の心境も、ジョースターとの会話に所々不明な点があった事も、
そして、自分自身の命の保証も。
何もかもが、どうでも良かった。
ようやく自分の目でホリィの様子を伺える、顔を見て話が出来る、その事で頭が一杯だった。
「・・・・・・入りたまえ。」
「失礼します。」
江里子は先に立つジョースターについて、ホリィの部屋に入った。
そこで病床に伏すホリィの様子を、あれこれと想像して不安になりながら。
その結果。
「やぁだ〜!パパったら大袈裟なんだからぁもう〜!」
江里子の想像は、全て外れた。
心配と不安と緊張で思いきり深刻な顔になっていた江里子とジョースターとは対照的に、ホリィは一人、若い娘のようにキャピキャピと軽やかな笑い声を上げていた。
「エリーに何て言って連れて来たのぉ?まさか私が危篤だとか言ったんじゃあないでしょうねぇ!?」
「い、いや、そこまでは言っとらんが・・・・・」
確かに、そこまでは言っていない。だが、ホリィが倒れてからこちら、いつものようなジョーク一つ飛ばす事もなく、ずっと緊迫した様子でいたのは本当である。
あながち否定もしきれないのか、ジョースターは決まりが悪そうにモゴモゴと口籠った。
「うふふっ、お生憎様!私はこ〜んなにピンピンしてるわ♪」
「は、はは・・・・、ああ、何よりだ、それなら何よりだ、ホリィ。」
「で?パパはいつまでここにいるつもり?」
ホリィは冗談めかした声で、布団の横にどっしりと腰を落ち着けている父親にチクリと皮肉を飛ばした。
「私はエリーと話がしたいの。女同士の話よ?男の人に聞かれるのは嫌だわ。」
「む、むぅぅ、す、すまん・・・・・・・!」
ジョースターは何故だか赤面して、そそくさと立ち上がった。
「で、ではエリー。すまんが後は頼むぞ。」
「は、はい。」
「バ〜イ、パパァ♪」
逃げるようにして出ていくジョースターにひらひらと白い手を振ってから、ホリィは静かに溜息を吐いた。
「・・・・・ごめんなさいね、エリー。随分心配をかけてしまって。」
「そんな、奥様・・・・・・・・。奥様こそ、本当に大丈夫なのですか?」
江里子の質問に、ホリィは優しげな微笑みで答えた。
「・・・・ねぇ、エリー。『スタンド』って知ってる?」
「スタンド・・・・・・」
承太郎達の会話の中で、何度か出てきた単語だった。
「何だか不思議な力なんですって。言うなれば、超能力のようなものらしいわ。
アヴドゥルさんは、生まれつきそれを持っているそうよ。
多分、花京院君もそうなのだと思うわ。」
「え・・・・・・?」
「1年前、パパにもそれが現れた。そしてこの間、承太郎にも。」
「え・・・・、えぇっ・・・・・・!?」
江里子は困惑した。
ホリィまでもが突然訳の分からない事を言い出したのだから、困惑するなという方が無理な話だった。
「アヴドゥルさんや花京院君は違うけど、私達ジョースター家の血を引く人間には、その能力にまつわる、ある因縁があるそうよ。パパが言っていたの。」
「因、縁・・・・・・?」
困惑しつつも、江里子はホリィの話に聞き入った。
「100年前、パパのお祖父ちゃん、つまり私のひいお祖父ちゃんは、まだ若い頃、
船の事故に遭って大西洋で亡くなったのですって。
その時にひいお祖父ちゃんは、『DIO』という邪悪の化身と闘っていたそうよ。」
「奥様・・・・・、どうしてその話を・・・・・・!?」
江里子は驚いた。
男達の誰もまともに話してくれなかった事を、ホリィが筋道立てて話してくれた事に、そしてそもそも、その話をホリィが知っていた事に。
「どうしてって、この間、承太郎を留置場から連れ帰って来る途中で、パパが私達に話してくれたもの。
だから私だってスタンドの事を知っていて当然なのに、パパも他の皆も、私の前ではまるでそ知らぬ顔をして誤魔化すのよ?自分で話しておいて、おかしいでしょう?ふふっ。」
ホリィはさも楽しそうに目を細めると、話を続けた。
「その事故の折に、DIOはひいお祖父ちゃんの身体を乗っ取り、海底で100年の眠りに就いた。そうして生き永らえて、数年前、遂に現代に蘇った。
パパや承太郎に突然現れたそのスタンドは、ひいお祖父ちゃんからの何かのシグナルのようなものらしいわ。」
「ひいお祖父様からの、シグナル・・・・・?」
「パパはその『DIO』を倒す為、その人と私達一族との100年の因縁を断ち切る為、アヴドゥルさんと共にその人の行方を追っていると言っていたわ。その矢先に、私がこんな事になって・・・・・。」
「奥様・・・・・・・」
「ここまで話せば、私の身体に何が起こっているのか・・・・、分かるでしょう?」
そう言って、ホリィは江里子に優しく微笑みかけた。
だが、その微笑みは余りにも優しすぎ、その話は余りにも残酷すぎた。
「私はパパや承太郎とは違って、ドジでのろまな性格だから、きっとこうなったのね。才能が無かったのだわ。」
「奥様・・・、それじゃあまるで奥様にも、その・・・・『スタンド』が・・・・」
「使いこなせたら格好良かったんでしょうけどねぇ!
アヴドゥルさんみたいに炎を自在に操ったり、承太郎みたいに発射されたピストルの弾を掴んだり、パパのように遠く離れたものの映像を念写したり!
花京院君のは・・・・・、私は見た事がないけれども、いつか機会があれば見てみたいわねぇ!ふふっ!」
何故、ホリィはいつでも、そんな風に笑っていられるのだろうか。
それなのに、何故自分は、こんな風に必死で涙を堪える事しか出来ないのだろうか。
自分が情けなくて、江里子は密かに唇を噛み締めた。
「・・・・・その『DIO』というのがどんな人なのか、私は知らないわ。
その人を『倒す』って、具体的にどういう意味なのかも。
懲らしめて、反省させて、『参りましたぁ!』って降参させるだけで終わってくれれば良いんだけれども。」
その可愛らしい表現が、如何にもホリィらしかった。
その彼女らしさが、泣けてくる程好きだと思った。
「・・・・だけど、多分そうじゃない。パパ達はきっと、とんでもない無茶をする。そんな気がするの。」
「奥様・・・・・」
「エリー、私ね。パパや承太郎や、アヴドゥルさんや花京院君に、とんでもない無茶をさせてまで助かりたいとは思わない。私の気持ち、あなたなら分かってくれるでしょう?」
江里子は小さく頷いた。
するとホリィは、眩しげに目を細めて、江里子の頬を撫でた。
「男の人達ばっかりなら無茶出来ても、か弱い女の子がいればそうはいかないわ。
あなたがいればあの人達も冷静に、そして、とっても強くなれると思うの。」
「え・・・・・・?」
「知ってる、エリー?お荷物を抱えている男の人って、とても強いのよ。
この『お荷物』を残して絶対に死ねない、必ず生き抜かなきゃ・・・って思いが、そうさせるの。守るもののある、守らなきゃいけないもののある男の人って、本当の意味で強いのよ。」
ホリィの言わんとする事が、江里子にも分かった。
理解出来たその瞬間、不安定に動揺してばかりだった心が、穏やかに落ち着いてくるのが自分でも分かった。
「・・・・それ、旦那様の事ですか?」
江里子はからかうようにホリィに笑いかけ、わざと茶化して訊いた。
「ふふっ、その通り!」
ホリィも、チャーミングな笑顔を見せた。
「ふふふっ・・・・・・!」
「ふふっ、あははっ・・・・・!」
江里子は、ホリィと共に笑った。
何がそんなに面白いのか自分でも良く分からなかったが、笑いが止まらなかった。
「・・・・・とんでもない事を頼んでいるのは分かっています。」
ひとしきり笑ってから、先に居住まいを正し、真顔に戻ったのは、ホリィの方だった。
「あなたに断る権利は勿論あるわ。軽蔑されたって、嫌われたって仕方がないと思っています。だけど出来れば、引き受けて欲しい。皆を、必ず生きて連れて帰ってきて欲しい・・・・・!どうか、どうかお願いします・・・・・・・・!」
そう言って、ホリィは深々と頭を下げた。
懇願する声が震えていた。
危険な旅に同行してくれと頼む事は、死んできてくれと言っているのと同じ事だと、きっとそう思っているのだろう。
そしてそれは、あながち飛躍しすぎという訳でもない。
話を聞く限り、『DIO』は明らかに人間ではない。
きっと、江里子の常識で考えられる喧嘩や揉め事の類ではない、何もかもまるで次元の違う『闘い』になるのだろう。
ホリィの命を救う為、『スタンド』なる超能力を駆使して100年の因縁を断ち切るなんて、少し考えただけでも既に想像の範疇を超えてしまっている。
ましてその闘いに、どんな形であれ、自分が関わるなんて。
「・・・・・奥様。私が、奥様の頼みを断った事がありますか?」
だが、だから何だというのだろう。
そんな事で、何も変わりはしない。
「勿論、お引き受けします。私に出来る事なら何でもするって、私、決めていますから。」
あの日の誓いは、何も。
「ありがとう・・・・・・、エリー、ありがとう・・・・・・・・!」
泣き出したホリィを、江里子はしっかりと抱き締めた。
「ジョースターさん。それでメディカルチームの到着は、何時頃になる予定なのです?」
「おいジジイ。飛行機は結局何時の便にするんだ?」
「あーちょっと待ってくれ!いっぺんに訊かんでくれ!!
花京院、もう一度説明してくれ。君がDIOと遭遇したのはどこだって?」
「ですから、確かこの辺りだったと・・・・」
更に時間が進み、荷物を取りに行っていた花京院も戻ってきたところで、男達は今、てんやわんやの大騒動を繰り広げていた。
部屋の中は一面に散らかっており、パンツだの歯ブラシだの地図だのペンだのトランクケースだのが散乱して、どれが誰の物やら分からなくなっているし、ついでに話もゴチャゴチャのカオス状態になっていた。
「おい花京院!ジジイ!ちょっと話を中断しろ!まずは飛行機のチケットを手配するのが最優先だろうが!」
「その為には、メディカルチームの到着予定時刻を知らねばならんだろう!連絡はまだなのですか!?」
「わーかっとる!!だからいっぺんに怒鳴るなと言っとろーが!!」
「ああ、やれやれだ・・・・・・」
騒ぎも今や最高潮に達するかと思われたその瞬間。
スパーーーーン!!!!
『!!!!』
突然、凄まじい音を立てて部屋の障子が全開になり、驚いた4人の男達は、揃って音のした方を向いた。
「皆様、落ち着いて下さい。」
入って来たのは、江里子だった。
そして江里子は、部屋に入るや否やこう宣言した。
「その旅、私も同行させて頂きます。」
と。
「なーに言っとるんじゃあエリーッ!!!女の子がそんなモン、ダメに決まってるでしょーがあーーっ!!」
「ノコノコついて来て女風情に何が出来るってんだ。バカも休み休み言え、ブス。」
「君の気持ちは分からんでもないが、女だてらに危険な旅などするものではない。考え直すのだ、エリー。」
「星野さん、それは私も賛成しかねます。危険です。貴女は女性なのですよ?」
暫しの沈黙の後は、予想通り猛反対の嵐が吹き荒れた。
だが、江里子はそれらを全て、ことごとく涼しい顔で聞き流した。
そして、男達がひとしきりブーブー言い終わるのを待ってから、毅然と言い放った。
「これは、奥様のたってのご希望です。」
「ホリィのたってのご希望って、そりゃどういう事じゃ・・・・?」
ジョースターが恐る恐る尋ねたその瞬間、もう一人、乱入者が現れた。
「それはもっちろ〜ん、お・か・い・も・の・でぇ〜〜す♪♪」
それは、ホリィだった。
パジャマの上にナイトガウンを羽織った姿ではあるが、自分の足でしっかりと立ち、普段の通りに声も軽く、明るい表情をしたホリィだった。
「ホリィ!!何でお前がここに!?」
「お袋!」
「ホリィさん!どうして起きて来られたのです!?」
「ホリィさん、寝ていなければ・・・・・!」
重病のホリィが起きてきた事で、男達は揃って慌てふためいたが、当のホリィと江里子は平然と答えた。
「ジョースターさん達がエジプトに行くなら、私も一緒について行って色々買ってきて欲しいと、奥様にお使いを頼まれまして。」
「主にブランド物なんだけどねぇ。バッグとかぁ、アクセサリーとかぁ、化粧品とかぁ。エジプトなら、ドバイって近いでしょ?あそこはブランド物が安く買えるじゃな〜い!それに、少し寄り道すれば、フランスやイタリアだって行けるでしょ?」
そんな女性2人に、男達は只々、唖然とするばかりだった。
「ぶ、ブランド物って・・・・・・」
「そんな物の為に・・・・・・・!」
「バカじゃねぇのか・・・・・・?」
「何て呑気なんだ・・・・・・・!」
ジョースターが、アヴドゥルが、承太郎が、花京院が、口々に呆れるのを聞いて、ホリィはプゥッと頬を膨らませた。
「バカとはなぁにバカとは?それに、欲しい物は人それぞれよ?
『そんな物』呼ばわりされるなんて心外だわっ。」
「あ、あ、失礼、そんなつもりでは・・・・・・!」
アヴドゥルは、その生真面目な性格故に、慌てて謝り撤回した。
だが、江里子の同行を反対する事それ自体は、撤回する気はなかった。
「・・・しかし、何もこのタイミングでなくても良いでしょう?
今の我々には、とても買い物をして回る余裕などありませんし、何よりホリィさん、貴女の身が・・・」
「だからこそ買って来て欲しいんじゃな〜い!これから病気の治療を頑張らなきゃいけないのに、何のご褒美もないなんて、そんなんじゃあ私頑張れなぁい!」
「う゛っ・・・・・・」
ホリィの話し方は、何だかやけに甘ったるくて、魅惑的で、アヴドゥルにはとてもではないが太刀打ち出来なかった。
誰か助太刀してくれと、アヴドゥルは周囲を見回したが。
「パパは私が頑張れなくっても良いのぉ〜?病気に負けちゃっても良いのぉ〜?」
「う゛ぅ゛っ・・・・・・・!」
ジョースターは、アヴドゥル以上に駄目だった。
「おいブス。テメェ、何でもお袋の言いなりになってんじゃねぇよ。」
「私は家政婦です。奥様のご指示には従うのが当たり前です。」
「何が当たり前だ。お袋の犬かテメェは。このメス犬が。」
「私がメス犬なら、あなたはさしずめ種馬ってとこですかね。」
「たっ・・・・・・!何て事を言うんですか、星野さん・・・・・・!
承太郎も、メス犬は言い過ぎだぞ!謝れ!」
「黙れ。テメェはどっちの味方だ花京院?」
「わ、私は別にどっちの味方でも・・・・・!」
承太郎は江里子と歯に衣着せぬ率直な言い合い、というか低レベルな口喧嘩を繰り広げているし、花京院はそれに巻き込まれてオロオロしているしで、どうしようもなかった。
アヴドゥルは覚悟を決めると、ジョースターを屁理屈で捩じ伏せているホリィに向き直った。
「分かりました、ホリィさん。貴女のご所望の品は、私が責任を持って買って来ましょう。ですから、エリーの同行は・・」
「お言葉ですがアヴドゥルさん。貴方に女性の洋服やアクセサリーや化粧品の知識がお有りなのですか?」
それを聞き付けた江里子が、横から割って入って口を挟んだ。
「そ、それは・・・・」
「シャネルのルージュの新色が何本あるか、ご存知ですか?この冬限定のエルメスのポーチがどんなデザインかも?」
「う゛・・・・ぐっ・・・・・・・・!」
完敗だった。
手も足も出ないとは、正にこの事だった。
いや、アヴドゥルだけではない。
江里子の出したその問題に答えられる男は、この場には一人としていなかった。
「ね〜えエリー、このレオナールのスカーフ、ピンクと水色、どっちが良いかしらぁ?」
「絶対ピンクです。奥様にはピンクが良くお似合いですから。」
「ん〜!でもでもでもぉ!水色も素敵でしょお〜!?」
「確かに。じゃあ、偶にはイメチェンで水色にしますか?」
「んん〜!でもでもでもでもぉ〜!!」
「私が一目でビビッときたのは、ピンクの方なんですよね。あ、これは絶対奥様にお似合いだな、って。」
「じゃ〜あ、水色はあなたにプレゼントするから、やっぱり両方買ってきてちょうだい♪それで、時々私に貸してくれる?私のピンクも使って良いから!どっちも凄く気に入っちゃって、選び難いのよねぇ!」
「良いんですか!?有り難うございます!嬉しい!」
「それでねそれでね!あとね、ゲランのこの香水とぉ、それからこないだ言ってたブルガリの腕時計とぉ・・・」
「あのブレスレット型のやつですよね?」
「そうそう、それそれ!それからね〜え・・・・・」
どこからともなく取り出したファッション誌を捲りながら、キャッキャと騒ぐホリィと江里子を、男達は呆然と見守っていた。
「あっ!奥様、見て下さい!ほら、これこれ!!可愛くないですか!?」
「あっ!やぁだカーワーイーイー!!」
そうやって無邪気に笑う貴女方の方が可愛いと、アヴドゥルはふと思い、我に返って羞恥し、慌てて打ち消した。その時だった。
「っ・・・・・・・・」
不意にホリィの身体がぐらついた。
支えたのは、すぐ隣にいた江里子だった。
「・・・・・奥様、そろそろお部屋に戻りましょうか。」
今の今までホリィと一緒になってキャピキャピ騒いでいたのが嘘のように、江里子は落ち着き払い、ホリィの腰に腕を回し、肩を貸して、立ち上がるのも覚束ない様子のホリィをしっかり支えてゆっくりと立ち上がった。
ホリィの背中からは、またスタンドがざわめくように伸びていたが、それが江里子を襲うようには見えなかった。
「ご自分で歩けますか?」
「大丈夫よ。ありがとう、エリー。」
女性陣のその健気な様子は、アヴドゥルの目には、何かの覚悟を決めたように潔く見えた。守ってやらねば、助けてやらねばと思っていたのが、傲慢だったような気さえする程に。
ホリィも、そして江里子も、全てを分かっている。
全てを分かった上で、真正面から闘う覚悟を決めている。
そう思えてならなかった。
「・・・・エリー、ありがとう。ホリィは儂が連れて行こう。」
ジョースターがおもむろに二人の前に歩み出て、ホリィの身体をそっと抱き上げた。
ホリィは大人しくそれに従い、江里子もすぐさま引き下がった。多分、本当は部屋まで歩く力などもう残っていなかったのだろうと、アヴドゥルはこの時悟った。
きっとホリィは、今の芝居で最後の力を使い果たしたのだ。
何の為かは知らないが、命懸けでそんな芝居をしてでも、江里子を同行させたかったのだ、と。