その翌日も、空条家にはいつもと変わらぬ平穏な一日が訪れていた。
寒いが、すっきりと晴れた清々しい朝だった。
「おーい、ホリィ!!ホリィ!!」
庭で洗濯物を干していると、ジョースターの大声が江里子の耳に飛び込んできた。
「儂のズボンはどこじゃ!!ホリィ!!」
ちょうど最後の1枚を干すところだった。
江里子は手に持っていた承太郎のTシャツを手早く干してしまうと、空になった洗濯カゴを提げ、ジョースターの声がした方に小走りで急いだ。
「おはようございます、ジョースターさん。どうかなさいましたか?」
「おお、エリー!おはよう!」
江里子を見たジョースターは、溌剌とした笑顔を見せた。
「いや、ホリィを捜しとるんじゃ。正確に言うと儂のズボンなのだが。
ホリィの奴、今朝の着替えに間違って承太郎のズボンを置いておったのだ。」
ほれ、と差し出されたズボンは、確かに承太郎の物だった。
家の中の事ならば、ホリィに負けない位何でも把握している江里子だったが、ジョースターのズボンの行方は知らなかった。
今しがた干してきた洗濯物の中にも、それらしい物はなかった。
「本当ですね。私も存じませんので、やっぱり奥様に訊いてみないといけませんね。」
「そのホリィが見当たらんのだ。いつもなら、わざわざ捜さずとも、その辺を鼻歌歌いながらチョロチョロしているのを見掛けるのだが。」
「え?」
ジョースターの言う通りだった。
ホリィはいつも、家の中を軽やかに動き回っている。家事のラッシュタイムとも言える朝と夕方は特に。
空条家は敷地も家屋も広いが、わざわざ捜し回らなくても、大抵はすぐにそこら辺で彼女と鉢合わせするのだ。
それが今は、どういう訳か、ホリィの姿が見当たらなかった。声も、気配もしなかった。
「変ですねぇ。今日はお天気が良いから、家中の廊下の拭き掃除をすると仰っていたのに。」
「廊下の拭き掃除?」
「ええ。私もこれからお手伝いする筈でした。洗濯物を干し終わったら合流する事になっていまして。」
「という事は、今頃は一足先にその辺の廊下を拭いている筈だという事じゃな?」
「その筈、ですが・・・・。」
だがやはり、庭から見える母屋の廊下に、ホリィの姿はなかった。
母屋は平屋造で、2階や地下室などはない。
離れの中や玄関先に居ればここからは見えないが、それにしても、ジョースターが大声で呼んで捜し回っているのに見つからないというのは、些か解せなかった。
「エリー。君が洗濯物を干す前、あの子はどこで何をしていた?」
「すみません。朝は奥様も私もそれぞれ何かとバタバタしていまして、奥様の行動を全て存じている訳では・・・・・」
「むう、そうか・・・・・。」
「お台所には、いつも通り立っていらっしゃいましたけど。
朝ご飯も承太郎さんのお弁当も、いつものように作っておられましたよ。私もいつも通り、お手伝いしましたから。」
「台所か・・・・・・。そういやまだ行ってなかったな。」
「私が見て参りましょうか?」
「いや、いい。儂が行こう。」
早速にも行きかけた江里子を、ジョースターが制した。
その時、登校した筈の承太郎が、こちらに向かって歩いてきた。
「承太郎!学校へ行ったんじゃあなかったのか!?」
「どうなさったんですか、承太郎さん?何か忘れ物でも?」
「いや、そういう訳じゃあないんだが・・・・・」
承太郎は一瞬、決まりが悪そうに口籠ると、小さな声でボソボソと呟いた。
「・・・お袋はどこだ?お前ら知らねぇか?」
「え?」
「いつもなら玄関まで鬱陶しく付き纏ってくるのに、今朝は来ねぇんだよ。」
自分でも少し、いや結構、恥ずかしいのだろう。
台詞だけ聞いていれば、まるでマザコン坊やのようだから。
だが、吹き出して承太郎をからかう事は、江里子には出来なかった。
登校していく承太郎を玄関まで見送りに出るのは、ホリィの大事な日課だった。
承太郎の顰めっ面に無理矢理キスをして、満面の笑みで手を振って送り出すのだ。
ホリィはそれを、親子の大事なコミュニケーションと考えていた。
雨の日も風の日も、多少具合の悪い日だって、承太郎が登校する限り、一日だって欠かす事はなかった。
それなのに。
「・・・・・・・・」
見れば、ジョースターも真顔だった。
その難しい表情は、江里子に戦慄すら覚えさせた。
何だか、無性に悪い予感がした。
「・・・・・・台所へ行くぞ」
不意に、ジョースターが歩き出した。
少し、足早に。
「わ、私も行きます・・・・!」
「・・・・・・・・」
その後を、江里子と承太郎も追って行った。
そうでなければ良い。
どうか、どうか、違っていて欲しい。
その切実な願いを胸に秘めて、ジョースターは台所に走った。
だが、予感は、無情にも的中してしまっていた。
「ス、スタンドが・・・・・・」
台所に着いた途端、ジョースターの目に飛び込んできたのは、アヴドゥルに抱き抱えられたホリィの背中から蔓を伸ばすようにして発現している、スタンドだった。
童話に出てくる眠り姫の棘のような、植物状のスタンドだった。
「ホリィ・・・・・・・」
十重に二十重に生い茂る棘に抱かれて、物語の中の姫は眠る。
誰もいなくなった城の、誰も来ない塔の中で、100年もの時を。
「・・・・うわあぁぁあああ!!」
堪え切れない不安と恐怖が、ジョースターの口から迸った。
最年長者としてのプライドや体裁を保たねばという考えは、欠片程も頭になかった。
ジョースターは縋りつくようにして承太郎の胸倉を掴み上げ、ただ、叫ぶ事しか出来なかった。
「儂の・・・・、儂の最も恐れていたことが起こりよった・・・・!ついに娘にスタンドが・・・・!」
その事実を口に出して言った瞬間、心に亀裂の入る感じがした。
「抵抗力がないんじゃあないかと思っておった・・・・・・。DIOの魂からの呪縛に逆らえる力がないんじゃあないかと思っておった・・・・!」
そう。
本当は、薄々予感はしていた。
1年前、自らのスタンド【隠者の紫−ハーミット・パープル−】が発現した時に、そして先日、承太郎にスタンドが発現した事を聞いた時に。
それがジョースター家の血の宿命ならば、いずれホリィにも出る筈だ、と。
そして、抗う力のある自分や承太郎とは違い、優しくて、欠片程の闘争心も持たずに生まれたホリィは、なす術もなくそれに呑み込まれてしまうのではないか、と。
「うぅっ、うぅぅっ・・・・・!」
絶望という気持ちを、ジョースターは今、生まれて初めて味わっていた。
亀裂の入った心は、もう折れて砕ける寸前で、無様に泣き崩れそうになる自分を情けないと思う事さえ出来なかった。
今、この瞬間までは。
「言え!!対策を!!」
承太郎に手首を強く掴み返され、大声で怒鳴られて、ジョースターは我に返った。
ついこの間までまだほんの子供だったのに、いつの間にこんなに頼もしい男になったのだろうか。
承太郎の手は、大きく、力強かった。
承太郎は泣きも喚きも混乱もせず、この事実を真正面から受け止め、かつ最も重要なポイントを即座に捉えた。
動揺し、泣き言を垂れて絶望しかけていた年寄りとは大違いだ。
『世代交代』という単語が、ジョースターの頭をふと過ぎった。
幼かった孫はいつの間にか一人前の男に成長し、今、自分を超えつつあるのだ。そう肌で感じた。
「っ・・・・・!」
承太郎が、突き放すようにして手を離した。その反動で、ジョースターは少しよろけた。
幼かった承太郎は、一人前の男に成長した。かつての自分や、父や、祖父と同じように。
そしていつか、承太郎の子や孫が、同じように生まれ、成長してゆくのだろう。
それが人の歴史、受け継がれてゆく血脈というものだ。
未来へと続いてゆく生命の為にも、この宿命にピリオドを打たねばならない。
100年の歳月をかけて複雑に織り成された血のカルマを、今、断ち切らねば。
「・・・・ひとつ・・・・・、DIOを見つけ出す事だ・・・・・!」
『DIO』の肉体は、血を分けた祖父。
今は亡き最愛の祖母・エリナが、その生涯をかけて愛し抜いた唯一人の男。
だが、今を生きている最愛の一人娘の為に、その娘が己の命よりも大事に思っている一人息子の為に、そして、ジョースター家の血を受け継いでゆくこれからの生命の為に、ジョースターは決意した。
「『DIO』を殺して、この呪縛を解くのだ!それしかない!!」
全ての元凶『DIO』と共に祖父の肉体を滅ぼし、ジョースター家の忌まわしき業を絶ち切る、と。
「・・・・な・・・・・、何を仰っているんですか!?」
不意に、ヒステリックな女の声がした。
「貴方の仰っている事、私には全く理解出来ません!
ジョースターさん、さっきから何を仰っているのですか!?
スタンドとか、DIOとか、訳の分からない事ばっかり・・・・・!」
「エリー・・・・・」
その声を上げたのは、江里子だった。
今度は江里子がパニックに陥ったようだった。
真っ先に動揺し、パニックになってしまった自分が言えた義理ではないと思いながらも、ジョースターは江里子を宥めにかかった。
「エリー、まずは落ち着いてくれ。説明するには時間がかかる。だが今は、その時間が・・」
「そんな事どうでも良いんです!説明なんて結構です!そんな事より救急車を呼ばなきゃ・・・・!」
江里子の言う事は、至極常識的だった。
高熱を出して意識も混濁しているとなれば、ただちに救急車を呼んで病院へ搬送するのが普通だ。
だがそれは、あくまでも一般の人間の常識である。
ホリィがこうなった原因は、間違いなくホリィ自身のスタンドにある。
それは薬や手術でどうにか出来るものではないし、また、ホリィのスタンドがどのような能力を持っているのか全く解明出来ていない今、一般の病院にホリィを預ける事は危険極まりない。
下手をすれば、そのスタンドによって大勢の人間が死傷する事だって、十分に有り得るのだから。
「エリー、待ってくれ!」
ジョースターは、駆け出そうとしていた江里子の肩を掴んで止めた。
「君の言う事はよく分かる。ごもっともだ。だが、それはやめてくれ。」
「えぇっ!?」
江里子は、信じられないといった顔をした。
「な、何故ですか!?何で救急車を呼んじゃいけないんですか!?奥様、意識がないんですよ!?こんなになってるのに、大袈裟なんかじゃありませんよ!!」
「そういう事を言っとるのではない。とにかく、救急車は呼ばないでくれ。ホリィの看病は、取り敢えず儂らがするから。頼む。」
「っ・・・・・・・!」
ジョースターが頭を下げると、江里子はもどかしそうに言葉を詰まらせた。
江里子が言いたいであろう事は、大体想像がついた。だけど言えないであろう事も。
「奥様・・・・・・・」
江里子は、ホリィの方に心配そうな眼差しを向けた。
アヴドゥルの腕の中で、ホリィは未だ昏睡していた。
「奥様、しっかりして下さい、奥様・・・・・・・・・!」
江里子は声を震わせながら、ホリィに駆け寄ろうとした。
その瞬間、ホリィの背中のスタンドが、その棘を少しだけ伸ばした。
まるで臨戦態勢を取るかのように。
「エリー・・・・!」
危険だ。
瞬時にそう判断したジョースターは、エリーを止めようとした。
だが。
「やめろ!!お袋に触るな!!」
ジョースターより先に、承太郎が江里子を止めた。
承太郎の鋭く、厳しい一喝が。
「っ・・・・・・!な、何でですか!?」
江里子は驚き怯んで、足を止めはしたものの、承太郎に猛然と食って掛かった。
「何故私が奥様に触っちゃいけないんですか!?せめて看病ぐらい・・」
「看病は俺達がすると言っただろう!!テメェは引っ込んでろ!!」
「どうしてですか!!私はこの家の家政婦ですよ!!せめて看病のお手伝いぐらい・・」
「しつこいぞ!!関係ねぇ他人は引っ込んでろっつってんのが分かんねーのかこのバカアマ!!」
「っ・・・・・・!」
傍目にもはっきりと分かった。
今この瞬間、江里子が深く、深く、傷付いたのが。
「・・・・・・失礼しました・・・・・・」
江里子は、声にならない声でそう呟くと、俯きがちに急ぎ足で台所を出て行った。
「・・・ジョジョ。何故お前が彼女を怒鳴ったのか、その理由は私にも分かるが。」
江里子が出て行ってしまってから、アヴドゥルは痛ましげな声で言った。
「ものには言い方というものがあるんじゃあないのか?彼女、きっと酷く傷付いたぞ。」
アヴドゥルの言う事は、至極尤もだった。
「・・・・こいつは口下手なんじゃよ。儂の血じゃあないな。きっと父親譲りだ。」
何だか無性にやるせない気持ちになったジョースターは、そう呟いた。
「うるせぇ、ほっとけ。いいからさっさとお袋を部屋まで運ぶぞ。ついて来い、こっちだ。」
当の本人はどう思っているのやら、完全なポーカーフェイスで一足先に出て行ってしまったのだった。
「まずは改めて説明しよう。ホリィさんの置かれている状況を。」
布団で眠っているホリィの様子を見守りながら、アヴドゥルは静かに口を開いた。
「見ての通り、ホリィさんにもスタンドが発現した。そして、我々と違い、彼女の場合はそれが害になっている。
おっとりした平和な性格のホリィさんには、DIOの呪縛に対しての抵抗力がない。スタンドを行動させる力がないのだ。
だから、スタンドがマイナスに働いて、害になってしまっている。」
アヴドゥルの言う通り、ホリィは苦しげに浅い呼吸を繰り返しながらまどろんでいる。
ひとまずは頭に氷枕を当ててあるが、40度もの高熱がある状態だ。
もしもこのままずっと、ほんの少しも熱が下がらずにいれば、もし仮に命は取り留めたとしても、どんな後遺症が残るか分かったものではない。
眠る母の様子を見ながら、承太郎はじっとアヴドゥルの話に聞き入った。
「このまま放っておけば、ホリィさんは死ぬ。
司法解剖をしたところで、一般の人間には、その死因は分からない。
色々な病気を併発している状態だから、そもそもの原因が分からんのだ。だから、原因不明の突然死と診断される。
だが要するに、スタンドに肉体と精神のエネルギーを吸い尽くされて死ぬのだ。
まるで、吸血鬼に血を吸われて死んだ人間のように。」
その話を聞いて、ジョースターは痛ましげに目を瞑った。
だが、さっきのように取り乱す事はもうなかった。
「だが、今すぐ死ぬ訳ではない。そうなるまでに50日はかかる。だから・・」
「その前に『DIO』を捜し出して倒す、・・・・・という事だな?」
アヴドゥルの言葉尻を奪い、承太郎はそれを口にした。
すると、ジョースターとアヴドゥルは、緊迫した面持ちで揃って頷いた。
「先日も話した通り、DIOは100年前の事件の折、儂の祖父の肉体を奪って生き永らえた。
だから、DIOが目覚めた事により、奴が奪った儂の祖父、ジョナサン・ジョースターの肉体も目覚めたのだ。
恐らく祖父の肉体は、目覚めたDIOを倒せと、子孫の儂らに訴えかけておるのだ。
根拠の無い推測でしかないが、儂にはどうしてもそう思えてならんのだ。
亡き祖母エリナが生前話してくれた祖父の事、祖父が死んだ船の事故の事、そして、『DIO』の事・・・・、儂らに突然現れたスタンドと、それらの話を合わせて考えるとな。」
ジョースターは、承太郎をまっすぐに見据えて続けた。
「だから儂は、DIOを倒すべく、このアヴドゥルと共にずっとDIOの行方を追っておった。
まさかホリィがこんな事になるとは、今の今まで思いもしていなかったが。
・・・・いや、考えないようにしていたのだな。都合の悪い事は考えたくないのが、人情というものだからな。」
ジョースターのその気持ちは、承太郎にも理解出来た。
自分ならばどんな苦痛にも耐え抜く自信はあるが、抗う術を持たない非力な母に、一体どこまで耐えられるものか。
それを思うと、不安が吐き気のように込み上げてくるのだ。
そしてアヴドゥルも、同じ気持ちでいるようだった。
「・・・・・・私も、ジョースターさんと同じだ。
ホリィさんにお会いしてすぐ、何ともなさそうな彼女を見て安心しきっていた、いや、安心しようとしていた・・・・。
ジョースター家の血を引く彼女が、DIOからの影響を受けずにいられる筈はないのに・・・・。」
「承太郎。今さっき根拠の無い推測とは言ったが、儂はエリナお祖母さんの話が根拠だと思っておるのだ。」
「私もそう思う。」
確かに、物理的な根拠は何もない話だ。
もしかしたら、まるで見当違いだという可能性もゼロではない。
だが、承太郎に躊躇う余地はなかった。
「それが根拠になるかどうかは知らねぇ。ただ、今のところ、お袋を救える可能性のある方法はそれ一つっきゃねぇ。
だったら、『DIO』をぶっ殺しに行くしかねぇだろ。」
承太郎は二人に向かって、そう言った。
根拠だの確証だの、そんなものをチマチマ探し集めている暇はない。
他に何か解決策があるようにも思えない。
だったら、余計な事は考えず、DIOを倒す事に全てを懸ける。
それが、承太郎の出した結論だった。
「・・・だが、それに当たって一つ、大きな問題がある。肝心の、奴の居場所だ。」
ジョースターがおもむろに、何枚かの写真を畳の上に広げて見せた。
「DIOを倒しに行くという結論を出したは良い。
しかし、これまで何度も試したが、奴はいつも闇に潜んでいる。
いつ念写しても、背景は闇ばかり!儂の念写では、奴の居所は分からん・・・・」
「これまでも様々な手段で調べてきたが、この闇までは解析できなかった・・・・」
ジョースターも、アヴドゥルも、万策尽きているとばかりに揃って顔を曇らせている。
だが承太郎には、そうは思えなかった。
「・・・おい。それを早く言え。ひょっとしたら、その『闇』とやらがどこか・・・・・」
そう、万策尽きるのはまだ早い。
スタンド使いは、ジョースターとアヴドゥルだけではないのだ。
「分かるかもしれねぇ・・・・!」
承太郎は、自身のスタンドを発動させた。
そして、ジョースターの念写した写真を、スタンドに観察させた。
やがて、微かな反応があった。
恐らくは他の誰にも分からないであろう、ごく微かな反応が。
「・・・・・・・・・DIOの背後の空間に、何か見つけたな。」
承太郎はそれを、直感的に良い反応だと判断した。
そして、ホリィの文机の引き出しから鉛筆とメモ帳を取り出した。
「俺のスタンドは、脳に刺さった肉の芽を正確に抜き、弾丸を掴む程正確な動きが出来る・・・・。スケッチさせてみよう。」
承太郎は、背後に向かって差し出すような仕草で鉛筆を持った。
すると、おもむろに承太郎の右手から鉛筆が抜け出て行った。
意思が通じたのだ。
しっかりと鉛筆を握った承太郎のスタンドは、承太郎が左手に持っているメモ帳に、何かを凄い速さで描き込み始めた。
やがて、鉛筆が止まった。
「ハエだ!空間にハエが飛んでいたのか!」
アヴドゥルが叫んだ。
その通り、スタンドが描いたものはハエの絵だった。
まるでそのまま図鑑に載せても差し支えなさそうな程、リアルで緻密な絵だった。
だが、DIOの周りの空間にハエが1匹飛んでいたのが分かったからと言って、それでDIOの居所が判明する訳ではない。
承太郎は思わず、内心で落胆した。
ハエなど、世界中の至る所で無数に生息している生物なのだから。
ジョースターも、落胆の声を上げた。
「しかしハエなど、何の手がかりにも・・・」
「待って下さい!」
だがそれを、アヴドゥルは制した。
「このハエ、見覚えがあります。」
「何じゃと!?」
「ジョジョ、図鑑はないか!?」
「離れに書庫がある。」
「メモを貰うぞ!調べてきます!」
アヴドゥルはハエの絵が描かれたメモを千切り取ると、足早に部屋を出て行った。
これで何かが分かるのだろうか。
不安と期待が、承太郎の胸の内でせめぎ合っていたその時。
「う、うぅ・・・・・」
「ホリィ・・・・・!」
「パパ・・・・・?私・・・・・?」
ホリィが目を覚ました。
「良いから寝ておれ!承太郎、水じゃ、水!」
何か分かるのか、それともやはり何も分からないのか、今考えてみたところで仕方がない。
ここはアヴドゥルに任せよう。
承太郎は無言で片手を上げ、ジョースターに了解の合図を送ると、台所に水を汲みに台所へ向かった。
その後ろ姿を、花京院に見られているとは気付きもせずに。
目覚めた時に、何となく、嫌な予感がしていた。
明日にでも空条家を出て自分の部屋に帰り、登校もしようかと思う程に具合も良くなってきていたのに、今朝はまた少し、疼くように痛んだのだ。
DIOの『肉の芽』が埋め込まれていた痕が。
何だか悪い予感がした。
漠然とした不安に襲われて、心細くて。
まるで悪い夢を見て飛び起きた子供のように、誰かの姿を求めて部屋を出た。
誰か、この家にいる人達の、優しい笑顔や温かい眼差しを求めて。
その時、向こうから江里子が足早にやってきた。
そして、俯きがちに、逃げるように歩いてくる江里子の瞳に、今にも溢れんばかりの涙が盛り上がっているのを見た時に、花京院は気付いた。
多分、この予感は当たったと。
何かとてつもなく悪い事が起きたのだ、と。
「ヒック・・・、グスッ・・・・、すみません、ご迷惑をお掛けして・・・・」
「迷惑だなんて。」
落ち着きを取り戻したらしい江里子に、花京院はティッシュの箱を差し出した。
江里子はおずおずとそれを受け取り、涙に濡れた頬を拭い、遠慮がちに鼻をかんだ。
そう、ほんの少しの間だが、江里子は泣いていた。
花京院が呼び止めて『どうしたんですか?』と尋ねたその瞬間に、驚いたように見開いた目から、ほとほとと涙を零し始めたのだ。
「少し落ち着きましたか?」
「はい・・・。本当にすみませんでした。みっともない所をお見せして・・・・。」
「良いんですよ、そんな事。少しも気にするような事ではありませんよ。」
目の前で哀しそうな顔をして、声を押し殺して泣く江里子を、放っておけなかった。
気が付けば花京院は、江里子を自分の部屋に引き入れて、その背中を擦っていた。
妙な下心があった訳では、断じてない。
ただ、この数日、江里子から与えられてきた優しさを、自分も江里子に返したい、その一心だった。
「・・・・星野さん。何があったか、聞かせてくれますか?」
江里子の涙が止まったのを見計らって、花京院は尋ねた。
すると、江里子は消え入るような声で答えた。
「・・・・・奥様が・・・・・・、お倒れになったんです・・・・・・」
「ホリィさんが?」
「はい・・・・・」
「それで、容態は?」
「気を失っておいででした。それ以上の事は分かりません。」
「分からない?何故ですか?」
「確かめさせて貰えませんでした。私が奥様のお側に駆け寄ろうとしたら、承太郎さんが凄い剣幕で怒ったんです。奥様に触るな、関係ない他人は引っ込んでろ、と・・・・。」
そう言って、江里子はまた哀しげに声を震わせた。
「ジョースターさんも、何だか訳の分からない事ばかり仰るし・・・・・、私、何が何だか分からなくなって・・・・・・・」
「・・・・星野さん。ホリィさんが倒れた時の事、順番に話してくれませんか?貴女が知っている事だけでも結構ですから。」
花京院は詳細を聞き出すべく、江里子を促した。
すると江里子は、もう一度目元を拭ってから口を開いた。
「元々は、ジョースターさんが奥様を捜しておられたんです。
そこへ承太郎さんも来て、奥様が見送りに出て来ない、何処に居るか知らないかって・・・・・。
それで、皆で台所を見に行ったんです。朝食の支度は、いつも通りにやっておられましたから。」
「それで?」
「そしたら、そこで奥様が倒れていて、アヴドゥルさんが介抱していらして・・・・・・。」
その瞬間の事を思い出したのだろうか。江里子はまたその瞳に涙を浮かべた。
「一目で只事じゃないと思いました・・・・!ジョースターさんも凄く取り乱していて・・・・・!スタンドがどうのとか、DIOがどうのとか、意味の分からない事を仰って・・・・・!」
「!」
花京院の背筋に、ゾッとするような戦慄が走った。
やはり、単なる体調不良や病気ではなかったのだ。
「それなのに、私が救急車を呼ぼうとするのを、駄目だと仰るんです・・・・・!
看病は自分達がするから、救急車は呼ばないでくれって・・・・!
対策は、『DIO』を殺してこの呪縛を解く事だけだ、と・・・・・!」
「DIOを・・・・・・・」
「花京院さんも、意味が分からないと思いませんか!?」
江里子は、涙ながらに同意を求めてきた。
「奥様が倒れて苦しんでおられるのに、救急車も呼ばずにほったらかしておいて、その『DIO』っていうのを殺す事だけが唯一の対策だなんて、おかしくありませんか!?
『DIO』って何なんですか!?
それが奥様のご病気と何の関係があるっていうんですか!?
どこをどうしたらそんな話になるんだって思いませんか!?」
「星野さん・・・・・・」
「挙句の果てに・・・・・、『関係ない他人は引っ込んでろ』って・・・・・・、奥様の様子を伺う事すら・・・・、許してくれなくて・・・・・」
江里子のまっすぐな瞳から、また涙の雫がポロポロと零れてきた。
「ただ一つ、分かったのは・・・・・、やっぱり私は所詮、赤の他人なんだって・・・・それだけで・・・・」
「それは違うと思いますよ、星野さん。」
すっかり気弱になってしまっている江里子を、花京院は窘めた。
「え・・・・・・?」
「この一件、ひとまず私に任せてくれませんか?」
「任せる、って・・・・・?」
「貴女に代わって、私が話を聞いてきます。それから、貴女に説明します。貴女が納得出来るように、必ず。約束します。」
「花京院、さん・・・・・・・」
「そして今、二つだけ断言出来る事があります。」
涙に濡れた瞳を呆然と見開いている江里子を、花京院はまっすぐに見つめた。
「一つは、彼等は決して頭のおかしい人間ではないという事。
そしてもう一つ、承太郎は決して貴女の事を疎ましく思って怒鳴ったのではないという事です。」
「え・・・・・・・・?」
「彼との付き合いはまだたったの数日ですが、私には分かります。彼が貴女に引っ込んでろと怒鳴ったのには、理由があるんです。」
「理由って・・・・・・・、どんな理由なんですか・・・・・?」
「それはこれから確かめてきます。ただ、どんな理由であれ、貴女を傷付けるつもりで言ったのではないという事だけは確かです。必ず何か、そうせざるを得ない理由があった筈です。」
「どうして・・・・・・・、どうしてそう言い切れるのですか・・・・・?」
その質問に、花京院は答える事が出来なかった。
それを口にするという事は、己の孤独を深める事になるからだ。
過去、それを打ち明けた者達は皆、花京院から離れていった。
友達も、両親も。
「貴方も何か・・・・・、知っていらっしゃるのですか・・・・・?
皆様はご存知で、私だけが知らない・・・・、そんな何かを・・・・・・?」
「・・・・・とにかく、待っていて下さい。決して悲観せずに。良いですね?」
スタンドの存在を知ったら、江里子はどう思うだろうか。
それともやはり、説明したところで信じてはくれないだろうか。
他の人々のように、こいつは頭のおかしい奴だと、そう思って逃げていくだけだろうか。
確かめる勇気は、今の花京院にはなかった。
まだ幾らか気持ちの昂っている江里子に、ひとまず自分の部屋に帰って休んでいるように言い聞かせてから、花京院は身支度をした。
学生服に身を包み、頭の包帯を取り、借り物のパジャマは丁寧に畳んで、同じく丁寧に畳んだ布団の上に置いた。
空条家の人々の優しさについつい甘えて、甘ったれた療養生活などを送ってしまっていたが、それはたった今をもって終わり。
もうこの部屋で眠る事はないと、花京院は直感的に悟っていた。
そして部屋を出ると、屋敷の中を、足音を忍ばせて承太郎達を捜して回った。
ややあって、ある部屋の中からアヴドゥルやジョースター、そして承太郎の話し声が聞こえた。
ホリィの置かれている状況と、これからの事を相談している彼等の話が。
花京院は、敢えてその部屋の中に踏み込んでいかなかった。
部屋の外で、彼等に勘付かれないように気配を殺しながら、じっと彼等の会話を盗み聞きしていた。
コソコソ盗み聞きなどせずに、さっさと部屋に入って協力を申し出るべきだとは思ったが、出来なかった。
人にはない、スタンドという能力を持って生まれたが故に、人と分かり合う事が出来ず、人に背を向けて生きてきた、これまでの生き方のせいなのだろう。
そして、調査や検証を重ね、出来ると判断してからでないと行動に移せない、この慎重すぎる臆病な性格のせいなのだろう。
アヴドゥルと承太郎が相次いで部屋を出て行ってから、花京院はようやくその場から動いた。
花京院が追ったのは、アヴドゥルの方だった。
彼は言っていた通り、離れの書庫にいた。
書庫は昔ながらのどっしりとした蔵造りで、結構な大きさの建物だった。
きっと中には、物凄い量の蔵書があるのだろう。
調べるべき事柄が絞られたとはいえ、アヴドゥル一人で調べるのは骨が折れる筈だ。
そんな事を一瞬考えたのが、隙になったようだった。
「・・・・・もう身体は良いようだな。」
アヴドゥルは、本から目を離さないまま喋った。
気付かれたのだ。
花京院は思わず反射的に驚いたが、見つかって尚コソコソ隠れる意味もなく、アヴドゥルの方に歩み寄って行った。
「悪いが、今は取り込み中・・」
「自分のスタンドが害になって死ぬなど、有り得るのですか?」
初めて、アヴドゥルが花京院を見た。
花京院が現状を把握している事に驚いているようだった。
だが、再び本に視線を戻して答えた。
「・・・・ある。私は過去、そういった人間を何人か目撃している。」
「っ・・・・・!」
盗み聞きの段階では、まだ半信半疑だった。
アヴドゥルの単なる推測か、或いは聞きかじった程度の噂話の可能性もある、と。
だが、実際に見てきたと言われると、もはや信じるしかなかった。
「今はまだ背中だけだが、その内、シダ植物のようなあのスタンドは、ゆっくりとホリィさんの全身をびっしりと覆い包むだろう。
高熱や色々な病気を誘発して、苦しみ、コーマ(昏睡)状態に入って、二度と目覚める事なく、死ぬ・・・・!」
「くぅっ・・・・・・!」
このままでは、ホリィは死んでしまう、と。
「一般の人間には何も見えず、分からず、どんな名医にも直す事は出来ない・・・・。誰にも・・・・、私にも、君にも、どうする事も出来ないのだ・・・・・。」
アヴドゥルは読んでいた本を閉じ、足元の本の上に重ねて置いた。
分厚い本が3冊。その何処にも、求めている情報はなかったのだろう。
蔵の中にはやはり、眩暈がしそうな程膨大な量の蔵書がある。
これを全て調べるのだろうか。
全て調べたとして、必ず何か掴めるのだろうか。
そう思うと、思わず溜息が零れ出た。
「・・・・だがまだ希望がある!」
その時、おもむろにアヴドゥルが声を張り上げた。
4冊目の本、百科事典を本棚から取り出しながら。
「その症状になるまで、50日はかかるのだ。その前にDIOを捜し出して倒す!
『DIO』の身体から発するスタンドの繋がりを消せば、助かるのだ!」
一心不乱に頁を繰りながら、途方に暮れている暇さえ惜しいとばかりに。
強い意志の宿るその精悍な横顔に、花京院は自分の弱さを、臆病さを、改めて痛感させられた。
それと同時に、ここが自分のターニングポイントであるという事も悟った。
ここで自分は変わらなければならない、変わるのだ、と。
「・・・・・もう一つ、質問させて下さい。」
「何だ?」
「承太郎が星野さんに、関係ない他人は引っ込んでろと怒鳴ったそうですが、それはホリィさんのスタンドが原因では?
恐らく、スタンドが彼女を攻撃しようとした・・・・・、とか。」
花京院が自分の推測を口にすると、アヴドゥルは頁を繰りながら答えた。
「・・・私には、そのように見えた。
まるで蛇が鎌首を持ち上げる時のように、植物の蔓のようなスタンドが伸びた。
ジョジョも多分そう思ったのだろう。だが、何故そんな事を訊く?」
「星野さんが泣いていたからです。」
頁を繰るアヴドゥルの手が、ピタリと止まった。
そして彼は、小さく溜息を吐いた。
「・・・・・・・私も女性の扱いは不得手な方だが、彼は私以上だ。
口下手なのは父親譲りだとジョースターさんは言っていたが、口下手にも程がある。あれではエリーが傷付くのも無理はない。」
「やはり・・・・・」
憐れむようなアヴドゥルの声音から、承太郎がかなりの剣幕で江里子を怒鳴りつけたのは想像がついた。
「彼女には気の毒だが、しかし、我々が口を挟む事ではないと思うぞ。
普通の人間である彼女に説明したところで、理解して貰える訳ではないからな。」
「分かっています。ただ、彼女には随分世話になりました。
だから、一人で落ち込んでいる彼女を放っておく事は出来ません。彼女の落ち込みようが、少し気になるんです。」
承太郎がかなりきつく言ったのは想像がつく。
だが、つい昨日、承太郎を押す勢いでポンポンと小気味良く言い返していた江里子が、何故ろくに何も言い返す事なく、一人で哀しそうに泣いているのか。
昨日の様子を見る限り、承太郎と江里子は良い意味で率直に言いたい事を言い合える二人だと思っていた花京院には、それがどうしても気になっていた。
「どういう事だ?」
「何故星野さんは、たった一言怒鳴られた程度でそんなに傷付いたのか・・・・・。
昨日は僕の目の前で、承太郎と遠慮なく言い合いしていたのに。」
「むう・・・・、確かに、言われてみればそうだな。
私も、彼女が承太郎を叱り飛ばしている声を聞いた事がある。
言っている事は全て正論だったし、メイドだからと変に媚びる事もなく、気持ちの良い性格の女性だと思った。」
つまらない事を考えすぎだと聞き流されるかと思いきや、アヴドゥルは思いがけず花京院に同調した。
彼の言うエピソードは、花京院には覚えのない話だったが、それにより、花京院はそれが自分の深読みでない事を確信した。
「勿論、女性ですから、単純に男の怒鳴り声が怖かっただけかも知れませんし、もし彼女が承太郎に好意を寄せているとしたら、泣く程のショックを受けるのも分かります。
ですが、どちらも少しピントがずれているような気がして・・・・・」
「ふぅむ・・・・・」
「我々のスタンドも、おいそれと人に話せない『事情』ですが、彼女にも何だか根が深そうな・・・・、何らかの事情があるような気がするのです。」
花京院にとっては確信でも、他の人間には深読みと思われ、呆れられてもおかしくはなかった。
この一大事に何を下らない事をと、聞き流されても仕方のない話だった。
だがアヴドゥルは、そうはしなかった。
「私も占い師という職業柄、人間という生き物には非常に興味がある。
型にはまった生き方をする人間が世界で最も多いであろうこの国で、イレギュラーな生き方をしている彼女の事は、少なからず気になっていた。
君がここに来る前に一度、承太郎に訊いてみた事があったが、3年半程前にホリィさんが何処かから連れてきた、野良猫みたいなものだとだけ言っていた。さあ、詳しい事情は知っているのかいないのか・・・・」
どうやらアヴドゥルも、江里子に全く興味がない訳ではないようだった。
女性としてはどうだか分からないが、少なくとも、人間としてはいくばくかの興味があるようだった。
「彼女がそんなに傷付いているのなら、私も慰めの言葉のひとつもかけてやりたいとは思うが、生憎と今は手が放せない。
花京院、私の分までエリーをフォローしてやってくれ。スタンドの事は言わずに、な。」
「分かっています。」
何処かから連れて来られた、野良猫みたいな娘。
その言葉を胸の内で反芻しながら、花京院は踵を返した。