翌日、承太郎はようやく登校していった。
久しぶりの弁当を、ホリィはいつにも増して張り切って作った。
そして、熱烈なキスと共に、彼を送り出した。
承太郎は、『このアマ、いい加減に子離れしろ』などと鬱陶しそうに言い捨てて出掛けていったが、彼女にそれを求めるのは無理な話であるし、今朝は尚更そうだった。
ホリィは承太郎が家に戻り、いつもの日常生活に戻ってくれた事を、本当に、本当に、心から喜んでいたのだ。
それだけ、承太郎が理由も話さず留置場に引き籠っていた間、悩みに悩んでいたのだ。いや、本当は承太郎がグレ始めた頃からずっと。
人には無邪気で陽気な顔しか見せない女性だが、本当はずっと苦悩していたのだ。
他の誰にも分からなくても、いつもずっと側で彼女を見てきた江里子には分かっていた。
時々、それをストレートに承太郎にぶつけてやれば良いのに、と思う。
喜と楽以外の感情、怒と哀も思いっきり曝け出して、承太郎に知らしめてやれば良いのに、と。
いや、承太郎を以前のような好青年に戻す為には、是非ともそうするべきだと常々思っている。
だが、それを言う権利は、江里子にはなかった。
幾ら可愛がって貰っていると言っても、江里子はあくまで使用人、家族でも親類縁者でもない。
奉公先の家庭の親子関係に口を出す権利など自分にはない事を、江里子はよく分かっていた。
だから、多少もどかしくはあるが、ホリィや承太郎や貞夫、空条家の人々が良しとしているなら、それで良い。
承太郎も、口や態度こそ悪いが、家庭内暴力を振るったり親の財布から金を盗って遊び呆けているという訳でもないから、そのうち反抗期が終われば、元のように実直な青年に戻るだろうと、半ば無理矢理自分を納得させるようにしていた。
だというのに、承太郎は登校してから僅か2時間程で、早々に帰宅してきた。
ホリィが朝早くから張り切って作った弁当を鞄ごと忘れて、しかも。
「ど・・・・、どうしたんですかその怪我は!!それにその人は!?」
傷だらけの血まみれの姿で、それ以上に傷だらけの血まみれで気絶している、見知らぬ青年を担いで。
「ジジィとアヴドゥルは?」
「お、お部屋にいらっしゃる筈ですけど・・・・、そ、そんな事よりお二人ともその怪我・・・・!」
「やかましい、どけ!」
パニックになっている江里子を弾き飛ばすようにして、承太郎はズンズンと廊下を歩いて行った。
承太郎も心配は心配だが、大の男一人担いで歩く元気があるのだから、多分、どうという事はないのだろう。
それより心配なのは、承太郎が担いできた青年の方だった。
深緑色の学生服姿で、年の頃は承太郎と同じ位に見えたが、着ている制服の色もデザインも、承太郎の通っている公暁東のものとは違う。近くの学校のものでもない。
一体、どこの誰なのだろうか?
いやそれより、差し当たって気になるのは彼の容態だ。
意識がなさそうだったが、そんな状態で家になど連れ帰って来て大丈夫なのだろうか?
いや、大丈夫な訳がない。普通は救急車で搬送されるべき状態だ。
「ちょ・・・・、ちょっと待って下さい、承太郎さん!!」
江里子は、もう見えなくなってしまった承太郎の後を、慌てて追いかけて行った。
承太郎を追って辿り着いた先は、茶室だった。
「駄目だなこりゃあ。手遅れじゃ。こいつはもう助からん。あと数日の内に死ぬ。」
中に踏み込もうとしたその瞬間、聞こえてきたジョースターの声に驚き、江里子は思わず硬直した。
「承太郎、お前のせいではない。見ろ。この男が何故『DIO』に忠誠を誓い、お前を殺しに来たのかを。その理由が・・・・・ここにある!!!」
出来るだけ身を潜め、障子に隠れるようにして、江里子は怖々と茶室の中を覗いた。
「何だ、こいつは・・・・・!?何だ、このクモのような形をした肉片は!?こいつが、DIOに忠誠を誓った理由だと!?」
承太郎の身体に隠れてちゃんと見えなかったが、担ぎ込まれた青年が畳の上に寝かされていた。
そして、彼を囲み、承太郎、アヴドゥル、ジョースターが、緊迫した面持ちで話していた。
その様子を、江里子は障子の影から息を殺して見守った。
「それはDIOの細胞からなる肉の芽。その少年の脳にまで達している。
このちっぽけな肉の芽は、少年の精神に影響を与えるよう、脳に打ち込まれている。」
「つまりこの肉の芽は、ある気持ちを呼び起こすコントローラーなのじゃ。
カリスマ!!独裁者に従う兵隊のような気持ち!邪教の教祖に憧れる信者のような気持ち!
この少年はDIOに憧れ、忠誠を誓ったのじゃ!!」
最初は何が何だか分からなかったが、アヴドゥルの話、そしてジョースターの話で、江里子にも多少の事情は飲み込めてきた。
この青年は、脳に『肉の芽』という何やら不気味な物体を打ち込まれ、洗脳されているのだ。
だが、映画やゲームではあるまいし、そんなSFホラーな話が本当に実在するのだろうか?
あまりに突拍子がなさすぎて、目の前で話を聞いていてもなお、半信半疑だった。
「DIOはカリスマ・・・・、つまり人を惹き付ける強烈な個性によって支配して、この花京院という少年に、我々を殺害するよう命令したのだ。」
「手術で摘出しろ!」
花京院という名前らしいこの青年の置かれている状況を淡々と説明するジョースターに、承太郎は即座に叫んだ。
もしもこの話が本当なら、承太郎の言う通りだと、江里子も内心で何度も頷いていた。
だが、ジョースターは顔を曇らせたままだった。
「脳はデリケートだ。取り出す時、こいつが動いたら、脳に傷をつけてしまう。」
「ジョジョ、こんな事があった。」
そしてアヴドゥルが、何かとてつもなく重大な秘密を打ち明ける時のような、深刻な声を重ねた。
「4ケ月程前、私はエジプトのカイロで・・・・・、『DIO』に出遭ったのだ!!」
先程から彼等の話の中にチラホラ出てくる『DIO』というのは、一体何なのだろう?
江里子は固唾を呑んで、アヴドゥルの話に聞き入った。
「私の職業は占い師。ハンハリーリというスーク(市場)に店を出している。
その晩は満月だった。
奴は・・・・、私の店の2階への階段に、静かに立っていた。
心の中心に忍び込んでくるような凍りつく眼差し、黄金色の頭髪、透き通るような白い肌、男とは思えないような妖しい色気・・・・!
既にジョースターさんから話を聞いていた私はすぐに分かった、こいつが大西洋から蘇ったDIOだと!!」
アヴドゥルは、その『DIO』の事を心の底から恐れていた。
彼の口調が、それを如実に物語っていた。
話を聞く限り、『DIO』というのは金髪の白人男性のようだが、大西洋から蘇ったというのはどういう事なのだろうか。
「奴は私にこう言った。『君は、普通の人間にはない特別な能力を持っているそうだね。ひとつ・・・・、それを私に見せてくれると嬉しいのだが。』と。」
普通の人間にはない、特別な能力。
それは、彼の占いの力の事を言っているのだろうか?
「こいつを本当に恐ろしいと思ったのはその時だった・・・・・!
奴が話し掛けてくる言葉は、何と心が安らぐんだ・・・・・!危険な甘さがあるんだ・・・・!
だからこそ・・・・、恐ろしい・・・・・・!」
アヴドゥルは声を震わせた。
彼のような剛健な男がそこまで恐怖しているという事だけで、江里子もまた恐怖に囚われた。
彼の話は、正直、殆ど理解出来ていない。
だからこそ、恐ろしいのだ。
彼の言う『DIO』は、まるで人ではないように聞こえるから。
映画やゲームの中にしか有り得ないような、人外の恐怖が、まるで現実世界に存在するかのような話だから。
「私は必死に逃げた・・・・・!闘おうなどと考えもしなかった・・・・・!
全くの幸運だった、話を聞いていてDIOだと気付いたから、いち早く窓から飛び出せたし、私は迷路のようなスークに詳しかったから、DIOの追走から逃れられた・・・・・!
でなければ私もこの少年のように、肉の芽で仲間に引き込まれていただろう・・・・・。」
「そして数年で脳を食い尽くされ、死んでいたろうな・・・・。」
アヴドゥルが話し終わるのを待って、ジョースターが結論を告げた。
つまりこの花京院という青年は、死ぬのだと。
「・・・死んでいた?」
その言葉を、承太郎は反芻した。
受け止めて噛み締めるように、ではなく、聞き捨てならないといった風に。
「ちょいと待ちな、この花京院はまだ、死んじゃあいねぇぜ!!俺のスタンドで引っこ抜いてやる!」
言うや否や、承太郎は花京院の頬を両手で包み込むようにして押さえた。
承太郎は一体何をするつもりなのだろうか?
「でっ!?」
「待て、承太郎!!」
ジョースターとアヴドゥルも、慌てふためいている。
そんな二人に、承太郎はクールに言い放った。
「ジジィ、俺に触るなよ!こいつの脳に傷をつけずに引っこ抜くからな。俺のスタンドは一瞬の内に弾丸を掴む程、正確な動きをする。」
スタンド、というのは何なのだろうか?
脳に傷をつけずに引っこ抜くだの、一瞬の内に弾丸を掴むだの、江里子には何一つ理解出来なかった。
「やめろ!その肉の芽は生きているのだ!何故奴の肉の芽の一部が外に出ているのか分からんのか!
優れた外科医にも摘出出来ない理由がここにある!!」
だが、ジョースターが叫んだその瞬間、ようやく江里子の目にも見えた。
「肉の芽が触手を出し刺した!マズい、手を離せ、ジョジョ!!」
「摘出しようする者の脳に侵入しようとするのじゃ!!」
花京院の頭部から、何か細い、肌色の管のような物体が伸びてきたのが。
そしてそれが、承太郎の手の甲を突き刺したのが。
「き・・・・、さま・・・・・・」
「動くなよ花京院!しくじればテメェの脳はオダブツだ!」
どうやら、花京院が目を覚ましたようだった。
だが江里子の視線は、釘付けにされたように承太郎から動かせなかった。
手の甲を突き刺したその肌色の管が、そのままどんどん彼の体内に侵入していっているのだ。
その軌道が、皮膚からくっきりと浮き出て見えるのだ。
手から腕へ、腕から首へ、そして顔へと、承太郎の頭を目指して進んでいるのが。
「手を離せ!ジョジョ!顔まで這い上がってきたぞ!」
「待てアヴドゥル!」
承太郎を止めようとしたアヴドゥルを、ジョースターは何故か止めた。
このグロテスクな光景を見てなお。
「儂の孫は何て孫だ!体内に侵入されているのに冷静そのもの!
震えひとつ起こしておらん!スタンドも!機械以上に正確に力強く動いておる!」
江里子にしてみれば、ジョースターの声も十分に冷静で、力強かった。
もしも彼が浮き足立っていれば、江里子はきっと大声を上げていただろう。
承太郎は大丈夫だと、彼が言い切ってくれたような気がして、江里子は喉までせり上がっていた悲鳴をどうにかこうにか堪える事が出来た。
だがそれでも、江里子の理性は風前の灯だった。
早く、早く全部終わって、そう繰り返し念じながら、江里子は必死で恐怖と闘っていた。
「やった!」
ややあって、誰からともなく歓声が上がった。
それと同時に、不気味な肌色をした蛸のような物体が、まるで襲い掛かるように、ジョースターに向かって飛んだ。
反射的に、江里子は短く悲鳴を上げた。
「オーバードライブ!!」
だが、ジョースターは無事だった。
彼は冷静にそれを手刀で捕らえ、叩き落した、ように見えた。
その瞬間、まるで感電でもしたかの如く、火花が散ったように見えたのは一体何だったのか。
よく分からないまま、畳の上に落ちたそれは、何故か一瞬にして一握り程の塵と化した。
「・・・・うぅ・・・・・・」
花京院が、ゆっくりと身体を起こした。
そして、一仕事終えたというような顔をしている承太郎に向かって問いかけた。
「・・・・・何故、お前は自分の命の危険を冒してまで私を助けた?」
花京院のその質問が、江里子の胸に突き刺さった。
とても良く似た質問を、かつて江里子も問うた事があったからだ。
「・・・・さあな。そこんところは、俺にもよう分からん。」
廊下に出てきた承太郎は、庭を眺めながらそう答えた。
その横顔は相変わらずの仏頂面だが、江里子には少しだけ、照れているように見えた。
その瞬間、承太郎がようやく江里子の存在に気付いた。
「江里・・・・・!お前・・・・・・・」
どうやら今の今まで全く気付いていなかったらしい。承太郎は、明らかに驚いた顔をしていた。
「・・・・・・見てたのか?」
「す・・・・・・、すみません・・・・・、失礼しました・・・・・・」
別に咎められた訳ではないのだが、見ていてはいけなかったような気になって、江里子は反射的に頭を下げ、逃げるようにその場を離れた。
思わず閉じ籠ってしまった自室に承太郎がやって来たのは、それからすぐの事だった。
「承太郎さん・・・・・・!」
襖の向こうに立っていたのは、部屋着に着替えて救急箱を手にした承太郎だった。
「傷の手当てしてくれ。お袋は今、花京院の世話で手が放せねぇんだ。」
承太郎の方からこんな事を頼んでくるのは、とても珍しい事だった。
いや、初めてかも知れない。
ジュース買って来いとか、煙草買って来いなどという類の用事を言い付けられるのはしょっちゅうだが、こんな風に世話を焼いて欲しいと頼まれた記憶は、他になかった。
「・・・・・どうぞ・・・・・」
さっきの騒動ですっかり忘れていたが、承太郎もあちこち怪我をしていたのだ。
さっきの今で少し気まずくはあるが、手当てを拒否する訳にもいかず、江里子は自室に承太郎を招き入れた。
「ここ、座って下さい。」
「ああ」
江里子は承太郎を座らせ、脱脂綿に消毒薬を含ませると、まず目についた頬の傷にそれを押し当てた。
血はすっかり止まっているが、よく見れば随分酷い傷だ。
自分の方が顰め面になりながら、江里子は消毒をしたそこに傷薬を塗り、絆創膏を貼った。
「はい、終わりました。随分酷い傷ですね。どうしたんですかこれ。」
「万年筆で刺された。」
「ああ〜!いやぁぁ〜!やめて下さいぃ〜!聞きたくないぃぃ〜!」
「テメェが訊いたんだろうが。」
両手で耳を塞いで首をブンブン振っている江里子に、承太郎は呆れ顔でそう言った。
そして、スウェットのズボンの左側を、おもむろに膝の上まで捲り上げた。
「実はこっちの方が酷い傷なんだけどよ。」
「きっ・・・・・、きゃあああっ!!!」
万年筆で刺されたという顔の傷も痛ましかったが、左膝の傷は、なるほど、それ以上だった。
パックリと割れ、中の肉が見えている。
いきなり見せつけられたそれに、江里子は本気で怯えた。
「ちょっ・・・、何ですかソレ!?むっ、無理無理、絆創膏とかじゃ無理ですよソレ!病院行って縫わないと!!」
「大袈裟だな。血は止まってるし、足も不自由なく動くぜ?」
「駄目ですよ!ばい菌が入って膿んだりしたら大変でしょう!?」
江里子は、傍らの目覚まし時計に目を向けた。
時刻は午前11時過ぎだった。
「今ならまだ病院が開いてます!12時になったら閉まっちゃいますから、早く行ってきて下さい!」
「・・・・・・・・どうしてもか?」
「どうしてもです!ご自分で行かなきゃ、私が首輪と綱つけて引っ張って行きますよ!」
「テメェに出来んのか?」
「っ・・・・・・・!」
承太郎に睨みつけられて、江里子は思わず怯んだ。
だが、何も間違った事は言っていない。
高3にもなって、子供みたいに病院を嫌がる方が間違っているのだ。
「で・・、出来ますよ?奥様にジョースターさんにアヴドゥルさんも、きっと協力して下さいますから!私には、味方が沢山いるんですからね!」
江里子は負けじと承太郎を睨み返した。
次はどう返されるかと、内心は少し怯んでいたのだが、しかし承太郎は微かに笑っただけだった。
「分かったよ。ちゃんと自分で行ってくるから、余計な事はすんな。」
「なら結構です。ついでに顔の傷もちゃんと診て貰ってきて下さい。」
「ああ。」
「それから・・・・・・・、その・・・・・・、そこ・・・・・、も・・・・・」
江里子は恐る恐る、承太郎の左手を指した。
その手の甲にも、膝や顔に比べれば大した事はなさそうだが、やはり小さな傷があった。
それは、さっきの不可思議で不気味な光景が紛れもなく現実のものだったという、何よりの証拠だった。
「・・・・・それ・・・・・・・、大丈夫、ですか・・・・・・?」
「・・・・・・ああ」
「そこも・・・・、手当てしておきますか?それともやっぱり、私が下手に触らない方が良い・・・ですか?」
怪我の原因となったものが万年筆や何かなら、迷わず手当てしている。
だが、それが得体の知れない不気味な物体だったから、江里子は躊躇せずにはいられなかった。
良かれと思って手当てをしたとしても、それが却って承太郎の身に危険を及ぼす事がないとは言い切れない。
何しろ見た事も聞いた事もない、謎の物体だったのだから。
「・・・・いや、大丈夫だ。手当てしておいてくれ。」
江里子が何を躊躇っているのか、承太郎にも伝わったようだった。
そんなような表情で、承太郎は自らの左手を差し出してきた。
江里子は新しい脱脂綿に消毒薬を含ませると、その大きくて固い手をそっと取った。
「・・・・・・・・嫌なモン、見せちまったな」
先に口を開いたのは、承太郎の方だった。
意外だった。
覗き見してんじゃねえよ、とか何とか言われるならばともかく、こんな風に気遣われるなんて。
「いえ・・・・・・・。私が・・・・、勝手に覗いてただけですから・・・・・・」
「俺にも何だかよう分からん話なんだ。俺の4代前のジーサンだの、100年の眠りから目覚めただの、ジョースター家の宿命だの、いきなりやって来てポンポン言われてもな。」
「え?」
「いや、何でもねぇ。こっちの話だ。」
江里子が訊き返すと、承太郎は少し慌てたように誤魔化してしまった。
そして、咳払いをひとつすると、改めて口を開いた。
「つまり・・・・・、アレだ。何だかんだ言われたって、全部お前には何の関係もねぇ話だからよ。」
「はぁ・・・・・」
「だからお前は・・・・・、その・・・・、何つーか・・・・・」
「?」
あの承太郎が口籠っている。どうしたのだろうか?
珍しく挙動不審になっている承太郎の顔をまじまじと見つめながら、江里子は彼の話の続きを待っていた。
その時ふと、承太郎と目が合った。
その途端、承太郎は明らかに動揺して声を大きくした。
「と、とにかく、お前には何の関係もねぇってこった!」
「・・・何ですかそれ。」
「何でもねぇっつってるだろ!とにかく、さっきの事は忘れろ!良いな!?」
そして、吐き捨てるように怒鳴ると、足早に出て行ってしまった。
「あっ、ちょっ・・・・!」
呼び止めようとした時には、もう襖は完全に閉まっていた。
「何よアレ、感じ悪い・・・・・」
江里子は少し頬を膨らませながら、置きっぱなしにされた救急箱を片付け始めた。
それと時を同じくして、承太郎は自分の部屋に帰るべく、廊下を大股で歩いていた。
花京院から肉の芽を摘出するところを、江里子は見てしまった。
あのおぞましい肉の芽を。
顔が真っ青になっていた。小さな唇が震えていた。
きっと相当に怖かったのだろう。当たり前だ。
江里子のような娘が、あんなグロテスクなものを見て平気でいられる訳がない。
最近流行りの下らないスプラッター映画ならばともかく、あれは紛れもなく現実なのだから。
この先、あんな得体の知れない不気味なものとどれだけ遭遇するのだろうか。
花京院のようなDIOの刺客が、何人襲い掛かってくるのだろうか。
全く怖くないと言えば、嘘になる。
だが、承太郎にとって何よりも怖いのは、DIOの刺客そのものではなかった。
奴等と闘う事それ自体よりも、その闘いにホリィと江里子が巻き込まれ、その命を脅かされる事が、何よりも怖かった。
ホリィも、江里子も、失いたくはない。
彼女達にはずっとここで、花のように優しく微笑み、太陽のように温かく輝いていて欲しい。
スタンドも、DIOも、ジョースター家の宿命も。
何もかも、彼女達には何の関係もない話だ。
特に、ジョースター家の血筋を引いていない江里子にとっては。
だから、絶対に、江里子は巻き込まない。
江里子の事は、必ず俺が守ってみせる。
そう言いたかったのだが。
「・・・・・・んなコト言えるかよ・・・・・・・!」
熱く火照っている顔を手で隠しながら、承太郎は逃げるように自室に帰るのだった。
花京院は意識が戻った後もそのまま、空条家で療養を続けていた。
病院に行くでもなく、自分の家に帰るでもない彼に、誰も何も言わなかった。
ホリィを筆頭に皆、まるで元からずっとこの家の一員だったかのように、彼をごく自然に受け入れていた。
赤の他人の為にこんな事が出来るのは、この家の人達位しかいない。底抜けにお人好しで、心配になるぐらい素直で、吃驚するほど懐の深い、この家の人達しか。
彼等に倣って同じように花京院に接しながら、江里子はそんな事を思っていた。
「失礼します、花京院さん。お昼ご飯をお持ちしました。」
江里子は、花京院が寝泊まりしている客間の襖を静かに開けた。
「ありがとうございます。」
寝巻のまま布団の上で姿勢良く座り、本を読んでいた花京院は、江里子を見ると穏やかに微笑み、本を傍らに置いた。
「すみません、星野さん。毎食毎食、わざわざここまで運んで頂いて。」
「そんな事、気になさらないで下さい。まだ立ち歩くのがお辛いのですから、当然の事ですよ。」
「いえ、それだけではありません。突然来て、ずっと厄介になりっぱなしで・・・・・。」
「花京院さん・・・・・・」
「私はこの家の方々とは縁もゆかりもない赤の他人なのに、厚かましくご好意に甘えてしまって・・・・・。本当にすみません。」
花京院は居住まいを正すと、江里子に向かって深々と頭を下げた。
まだ包帯が巻かれたままの頭を。
「いけません、花京院さん。傷に障りますよ。」
江里子は、頭を上げるように花京院をそっと促した。
「私にそんな事をする必要はありません。そして多分、この家の人達の誰にも。
そんな事をして欲しがる人なんて、この家にはいないと思います。」
そう言って、江里子は微笑んだ。
使用人の分際で、まるで空条家を代表するような物言いをするのはどうかとも思ったが、それでも、かつての自分とそっくり同じような事を思っているこの花京院に、どうしてもそう言わずにはいられなかった。
「星野さん・・・・・・」
「それより、お加減はどうですか?少しは良くなってきましたか?」
今日は月曜日。花京院が承太郎に連れて来られたのは先週の金曜日。あの奇妙な騒動から丸三日になる。
花京院は、土曜日位まではまだ顔色も悪く、あまり話せる様子ではなかったが、峠を越したのか、昨日の午後ぐらいから食欲が出てきて、起きている時間も増えてきていた。
「ええ、お陰様で。頭痛も傷の痛みも、大分治まってきました。
明日か明後日あたりから、そろそろ学校にも行こうかと思っています。」
「そうですか、それは良かったです!でも、無理はなさらないで下さいね。」
「はい。ありがとうございます。」
そう言って微笑む花京院は、なるほど確かに、随分と回復してきている様子だった。
これまでは彼の体調を考慮して、必要最小限の会話しかしてこなかったが、この様子なら少しお喋り出来そうだ。
彼の回復を促す為にも、適度な会話は良いリハビリになるだろう。
江里子はそう考えて、もう一度話し掛けた。
「そう言えば、花京院さんって、承太郎さんの学校の転校生なんですってね。」
「はい。」
「クラスは承太郎さんと同じなんですか?」
「いえ。クラスも学年も違います。私は2年なので。」
「そうでしたか。前はどちらの学校に?」
その質問に、花京院は少し躊躇ってから、小さな声で答えた。
「東京の、敬星学園です。」
「東京の敬星って・・・・・・、もしかしてあの、超難関の私立のエリート校の事、ですか?」
「大した事ありませんよ。ただむさ苦しいだけの男子校です。」
江里子が目を丸くすると、花京院ははにかんで目を逸らしてしまった。
「そんな事ありませんよ!だって、敬星って誰でも知っている有名校じゃありませんか!」
なるほど、この反応を返されるのが照れくさくて躊躇っていたのか、と納得すると同時に、江里子は盛大に感心してしまっていた。
こうして驚かれるのを花京院は恐らく嫌がっているだろうに、それは察しがついているのに、それでも驚き、感心せずにはいられない。花京院の通っていた学校は、それ程にハイレベルな学校なのだ。
「あそこは語学系なんですよね、確か?英語だけじゃなくて、フランス語の授業もあるとか聞いた事がありますよ。」
「確かにフランス語は、中学から必修科目ではありましたけど。でも、私はそんなに得意ではありませんでした。」
「あらっ、それはご謙遜じゃあないですか?ふふっ。」
江里子は冷やかすように笑いかけると、ふとある事に気付いて笑いを引っ込めた。
「でも、そんな凄い名門校に通っていた人が、どうしてまた公暁東なんかに転校して来られたんですか?
名門でもないし、特別偏差値が高い訳でもないし、高校デビューのバカな不良がチラホラいたりもするんですよ?
何を隠そう、承太郎さんもその中のひと・・」
「誰が高校デビューのバカな不良だって?」
「ひゃっ・・・・・・・!」
突然背後で聞こえた超低音ボイスに、江里子は驚き、竦み上がった。
このふてぶてしい低い声には、恐ろしい位に聞き覚えがある。
江里子は、ギギギ・・・と軋んだ音が鳴りそうなぎこちない動作で、恐る恐る後ろを振り返った。
「じょ、じょじょ・・・、承太郎、さん・・・・・・」
やはり、承太郎だった。
「花京院。具合はどうだ?」
承太郎は、硬直している江里子には目もくれずに、花京院に向かって話し掛けた。
「お陰様で。君の方は?」
「お陰さんで。今、縫った膝の消毒しに、病院に行ってきたところだ。」
「そうか。・・・済まない。」
「別にテメェを責めちゃいねぇ。気にすんな。」
承太郎はぶっきらぼうな口調でそう言うと、おもむろに江里子をギロリと睨み付けた。
「おい、そこの公暁東以下の激烈バカ校出身の家政婦さんよぉ。俺の昼飯は?」
「っ・・・・・!」
その嫌味ったらしい物言いと、人前でバカ校出身という経歴を暴露された恥ずかしさで、江里子は思わずカチンときた。
「お台所に用意してございます、 坊 ち ゃ ま 。」
ツーンと澄ましてそう言い放ってやると、今度は承太郎の表情が苦々しげに歪んだ。
「テメェ・・・・・、その呼び方はやめろっつってるだろうが。」
無論、承知の上である。
承太郎は、『坊ちゃま』と呼ばれる事をとても嫌がるのだ。人前では特に。
温室育ちのモヤシ人間みたいに聞こえて気に入らねぇというのがその理由だが、そんな事は江里子の知った事ではなかった。
何故ならこれは仕返しなのだから。
「人の事を激烈バカなんて仰るからです。」
「テメェが先に俺を高校デビューのバカな不良だと言ったからだろうが。」
「私は事実を申し上げたまでです。」
「それなら俺だって同じじゃねぇかこのブス。」
「まっ・・・・た言った!このナルシスト!」
「俺はナルシストじゃねぇ。お前がブスなだけだ。」
「なっ・・・・!どんな屁理屈ですかソレ!?」
「あと服のセンスも悪いしよ。何度言ったら分かるんだテメェは。何だそのドブネズミ色のトックリは。どこで売ってんだそんなモン。」
「余計なお世話ですぅー!襟元にこんな、こーんなデッカい鎖つけて歩いてる人に言われたくありませんー!それこそどこで売ってるんですか!?」
仕返しに仕返しされ、報復の応酬となって。
気が付けば、低レベルな子供の言い争いのようになっていた。
「ブフーッ!クスクスクス・・・・・!」
それに気付いたのは、花京院がその理知的な顔立ちの割にひょうきんな笑い声を上げた時だった。
我に返った江里子は、赤面しながら花京院に向かって頭を下げた。
「もっ、申し訳ございません!とんだお耳汚しを・・・」
「とんでもない。とても楽しいです。こんなに楽しい気持ちになったのは初めてです。」
「え?」
「恥ずかしい話ですが、実は僕、これまで友達が出来た事がないんです、一度も。」
「一度も・・・・、ですか?」
「ええ、一度も。」
花京院は、清々しくもきっぱりと言い切った。
「僕の横でこんな風に騒いでくれる人なんて、今まで誰もいなかったから。だから、とても楽しいです。」
そう言って屈託なく微笑む彼を前に、江里子は何とも言えない気持ちになった。
こんなに穏やかで、人当たりが良くて、頭の良さそうな人に、これまで一度も友達がいなかったなんて、信じられなかったのだ。
何と返事をして良いか分からず黙っていると、承太郎が不意につむじをグイと押してきた。
「いった・・・!な、何ですか!?」
「おいブス。俺の昼飯を温め直せ。どうせ冷めてんだろ?」
江里子は渋々立ち上がると、憎たらしいぐらい上の方にある承太郎の顔を睨み上げた。
「・・・・・・かしこまりました、坊・ち・ゃ・ま。」
そしてすぐさま花京院の方に向き直り、にこやかに微笑んだ。
「長々と失礼致しました、花京院さん。どうぞ、ゆっくり召し上がって下さいね。」
「はい、ありがとうございます。」
「では、失礼致します。」
そして、承太郎にまた何か言い返されない内にと、さっさと客間を離れたのだった。
「・・・・・やれやれだぜ、あのアマ・・・・・・」
江里子が出て行った後、承太郎は溜息を吐いた。
その様子を見ながら、花京院は目を細めた。
「可愛い人ですね。彼女。」
「フン。どこがだ。」
承太郎はにべもなく鼻を鳴らしたが、花京院には心にもないお世辞を言ったつもりはなかった。
この何日か世話になっている内に気付いたのだが、江里子は素直な可愛らしさを持つ女性、いや、少女だった。中身も、そして外見も。
「確かに、服装は少し奇抜な感じがしますが。彼女、年の頃は我々と同じ位でしょう?」
「俺の1つ上だ。」
「じゃあ私の2つ上という事になるのか。初めの内は分からなかったけど、頭がハッキリしてきたら気付いたんです。
彼女、最初は中年のおばさんかと思ったけど、よく見たら若い、それも我々と同年代位の女性だなって。」
花京院がそれに気付いたのは、随分気分が良くなってきた昨日の夜だった。
痛みや吐き気、倦怠感がピークを越えて、ずっともやのかかったようだった頭がすっきりと晴れてきて、周りを観察する余裕がようやく出てきた時に、江里子が夕食を運んできた。
そこで花京院は初めて江里子をまともに見て、そして驚いたのだった。
よくよく見れば、江里子はうら若き乙女だった。
一つに束ねられた黒髪は、まっすぐで、しなやかで、絹糸のような艶があり、白い頬は、ふんわりと柔らかそうな張りがある。
匂い立つような色気や派手な美貌はないが、重苦しい黒縁眼鏡の奥には、しとやかに輝く黒曜石の瞳が優しく微笑んでいて、歳相応の格好をすれば、きっとなかなかにチャーミングな娘だろうと思われた。
「年齢に合った服を着ればもっと素敵だと思うのに、何故彼女はあんな、おばさんが着るような服ばかり着ているのです?」
「俺にも分からん。」
花京院のその質問に、承太郎は即答した。
「前はああじゃなかったんだ。最初の頃は、歳相応の恰好してた。それがいつの間にか、気付いたらああなってやがった。」
「へえ・・・・・・・」
「アヴドゥルも同じような事言って驚いてたが、何でお前らはいちいち俺に訊いてくるんだ。やれやれだぜ。」
何の理由があって、江里子があんな自分の魅力を台無しにするような格好をしているのかは分からない。
だが花京院の目には、その奇妙ないでたちは、変装か何かのように見えていた。
何の理由かは知らないが、あれはきっと、江里子の本意でやっている事ではない。そう思えてならなかった。