『今日、パパが来るの。支度をお願いね。』
そう言い置いて、空条ホリィは慌ただしく出掛けて行った。
ホリィは空条家の当主、世界的なジャズミュージシャンである空条貞夫の妻であり、N.Y.の不動産王の一人娘である。
という事は、その『不動産王』がやって来るのだ。雲の上の人が、間もなくここに来るのだ。
そう思うと、緊張の塊が喉につかえる。
だが、逃げ出す気など毛頭なく、嫌だとも思わなかった。
『パパが来てくれたらもう安心よ!今日こそ承太郎を連れ帰ってみせるわ!
今夜のお夕飯は、あの子の好物にしてあげてね、エリー!』
ホリィが、あの優しい眼差しで『エリー』と呼んで微笑んでくれるのなら。
それだけで、どんな重労働でも、どんな気苦労でも出来る。
ホリィは星野江里子にとって、自分の全てとも言える人だった。
こんなにも優しく、温かく、美しい人は、他にはいない。
それなのに・・・と、江里子は彼女の息子の仏頂面を思い浮かべた。
空条承太郎。
現在、神奈川県立公暁東高等学校3年に在籍している、空条夫妻の一人息子である。
優しく裕福な両親の愛情を一身に受けて育ったくせに、何を思ったのか、この1年程ですっかりグレてしまい、先日、とうとう乱闘事件を起こして留置場に放り込まれてしまった。
いや、放り込まれたのではない。彼は自ら留置場に引き籠っているのだ。
警察側はとっくに釈放を言い渡しているというのに、理由もろくに説明せずに、まるで居直り強盗のように。
お陰でこの何日か、ホリィは警察に通いづめである。毎日のように出向いては、承太郎に帰宅を促しているが、しかし彼は頑として応じない。
貞夫は大規模な世界ツアーの真っ最中で、帰国予定は何ヶ月も先である。困り果てたホリィは、実家の父親、つまり、N.Y.の不動産王に助けを求めたのだ。
ホリィは空港に彼を迎えに行き、そのまま警察に直行すると言っていた。不良高校生のワガママに、とうとうN.Y.の不動産王まで駆り出されるのだ。
何と恐れ多い話だろうか。12月は日本だってアメリカだって何かと忙しい時期だというのに、何だか訳の分からない事で親や祖父を振り回して。これは帰ってきたら嫌味の一つも言ってやらねばなるまいと、江里子は思った。
承太郎は現在17歳、年が明けて2月になれば18歳になる。
3月生まれで現在18歳の江里子とは、年齢も学年もちょうど1歳違いだった。
承太郎は195cmの長身と、筋肉質ながらもスラリとした体型、それに、日本人とアメリカ人のハーフという、日本人女性なら垂涎もののプロフィールを持ち、それに違わぬ整った容貌、彫りの深い精悍かつ甘いマスクと、深い緑色の瞳までをも持っている。おまけに声まで美しい。ジャズミュージシャンの父親譲りの、低く艶のある美声の持ち主なのだ。
それだけの好条件が揃っていてなお、江里子は承太郎を異性として意識していなかった。
承太郎があまりにも女の子にモテ過ぎている事も原因の一つではあるが、それ以前に、江里子は空条家の家政婦、つまり使用人だった。しかも住み込みである。住み込みの家政婦が、奉公先のご子息に恋慕の情を寄せるなんて分不相応な上に、如何にも安いメロドラマみたいな恥ずかしい話だ。
その安いメロドラマのような展開を、何故か空条夫妻、特にホリィは期待しているようだが、江里子にはそんな気はなかった。
そんな分別のない真似をすれば、駄目になった時に悲惨としか言い様のない事態に陥る事が、火を見るより明らかだからだ。
大恩ある空条夫妻を悩ませる事にもなるだろうし、折角得られた自分の居場所を自ら手放す破目にもなる。承太郎に対して感じる『異性』よりも、ホリィに対して感じる『母性』の方が、江里子にとっては遥かに大きく、大切だった。
それにそもそも、承太郎から『女』として見られている気もしない。
仕事の都合上とはいえ、ろくにメイクもせず、おしゃれもせず、いつでも髪を一つに束ねて、不細工な黒縁の伊達眼鏡とセンスの悪い中年のおばさんが着るような服ばかり着ている女を、あれだけモテる承太郎が『女』として認識する訳がない。
つまり、興味がないのはお互い様というところなのだ。
― 承太郎さん、今日こそ帰って来るのかな・・・・・
承太郎の仏頂面をもう一度思い浮かべて重い溜息を吐きながら、江里子も出掛ける支度を始めた。
あの可愛げのない男と、まだ見ぬ不動産王。
彼等の為に、料理の腕を振るわなければならないのだ。
3年半ほど一つ屋根の下で生活している承太郎の好みはともかく、不動産王の好物はまるで知らない。一体何を出せばお気に召すやら、皆目見当がつかない。
ともかく駅前のスーパーまで夕飯の買い物に行く、それが差し当たっての江里子の仕事だった。
「ただいまエリー!やったわよ!やっと承太郎が帰って来てくれたわ!」
ホリィが、出掛ける直前に宣言した通り承太郎を連れて帰って来たのは、夕方だった。
「お帰りなさいませ、奥様、承太郎様。」
玄関で彼等を出迎えた江里子は、まず、空条親子に礼儀正しくお辞儀をした。
そして顔を上げると、承太郎一人を見上げて慇懃無礼に言ってのけた。
「お勤めご苦労様でございました。」
無論、嫌味である。
しっかりバッチリ通じたらしく、承太郎は苦虫を噛み潰したような顔になり、不機嫌そうな超低音ボイスで呟いた。
「極道じゃあねぇんだ。」
似たようなもの、いや、それ以上にタチの悪い輩の癖によく言うと、江里子は内心で言い返したが、しかし口には出さなかった。
このワガママ男に一矢報いてやれただけで満足だったし、何より、この場には『客』がいるのだ。
大事な客人の前で大人げない真似をすれば、ホリィに恥をかかせる事になる。
江里子は承太郎を無視すると、ホリィの後ろから入ってきた大柄な男性におずおずと目を向けた。
「ああ、紹介するわ、エリー!私のパパよ!」
その視線に気付いたホリィが、江里子に『彼』を紹介した。
「はじめまして、星野江里子さん。儂はジョセフ・ジョースター。ホリィの父親、承太郎の祖父じゃ。
いつも娘から話は聞いとるよ。娘一家の為によく働いてくれとるそうじゃな。儂からも礼を言う。ありがとう。」
彼、ジョセフ・ジョースターが流暢な日本語を話した事に、江里子は驚きを隠せなかった。
ホリィのお陰で日常会話程度の英語は話せるから、当然、英語での会話になるとばかり思っていたのに、まさかここまで日本語を喋れるとは、思いもしていなかった。
「い、いえ、こちらこそ、いつもお世話になっております・・・・!
はじめまして、ジョースター様。お会い出来て光栄です・・・・・・!」
驚きのあまり、ついうっかり日本語で返答しながら、江里子は頭を深々と下げた。
すると、その上に、陽気な笑い声が降ってきた。
「その『様』ってのはやめてくれんかのう?ケツが痒くなる、おっと失礼!レディに対して。
ジョースターでいい。儂も娘に倣って、君の事は『エリー』と呼ぶ事にしよう。いやぁ、発音し易い名前で助かるわい、ワッハハハ!」
人好きのする、温かい笑顔だった。ホリィの父親だというのが、即座に納得出来た。
だが本来、N.Y.で不動産王と呼ばれる程の大人物ならば、こんな日本人の小娘など、それも只の家政婦など、眼中に入れなくたっておかしくはないのだ。
それなのに、彼は江里子の顔を澄んだ瞳でまっすぐ見つめて、握手を求めてきた。
「あ、ありがとう・・・・、ございます・・・・・・」
思わず面食らいながらも、江里子は握手に応じた。
よく見れば、ジョースターは孫の承太郎とほぼ同じ位の背丈をしていた。
だが、体格はジョースターの方がどっしりとしている。手も力強く、固く、がっしりと大きかった。
この頑丈そうな大きな身体で豪快に笑う彼は、威圧感よりも何故か不思議な安心感を江里子に与えた。
これが人としての器というものなのだろうか、そんな事をふと思った。
「おいジジイ、んな下らねぇ事してる場合か。さっさと『悪霊』についての詳しい話を聞かせやがれ。」
承太郎が、少し苛立った様子で口を開いた。
いつもの短気ではなく、少し、深刻な様子に見えた。
それに加えて、『悪霊』という単語。
そ知らぬ顔をしながらも、江里子は内心で構えていた。
オカルトの類は、正直、得意ではないからだ。
だが、承太郎はそれ以上、この場でやり取りする気はないようだった。
乱暴に靴を脱ぎ散らかすと、『さっさと来い』と言い捨て、一人でズンズンと家の中に入って行った。
承太郎の脱ぎ散らかした革靴を、江里子は黙って揃えた。すると、ジョースターが少し大袈裟な感じで肩を竦めた。
「済まんのう、エリー。全く、行儀の悪い奴じゃ。」
「いえ、お気遣いなく。これが私の仕事ですから。
さあ、どうぞお上がり下さい。夕食の用意をしてありますので。」
「おお!そいつはありがたい!丁度腹が減っとったんじゃ!おいアヴドゥル、お前も来い!」
江里子がジョースターの足元にスリッパを勧めたその時、もう一人、男性が中に入ってきた。のっそりと緩慢な、遠慮しているようにも受け取れる動作で入ってきたその男性を見て、江里子はまた驚いた。
「Hello. Nice to meet you. 」
下から響いてくるような太いバリトン・ボイス、
背丈こそ承太郎やジョースターよりは僅かに低いが、頑強そうな大柄な体躯、
ローブのような個性的なデザインの、鮮やかなオレンジ色の上着、
褐色の肌と、黒髪を頭頂部で短いドレッドのように幾つも束ねた個性的な髪型、
そして、額に巻かれた白いターバン。
「My name is Muhammad Avdol. 」
モハメド・アヴドゥルと名乗ったこの男性は、インド人かアフリカ人のように見えた。
ジョースターと同じくN.Y.に住んでいるのかも知れないが、不動産会社で働くビジネスマンのようには決して見えなかった。
「Nice to meet you, Mr.Avdol. My name is Eriko Hoshino. 」
江里子はともかく、自己紹介を返した。
すると、横からジョースターが口を挟んだ。
「このアヴドゥルは儂の友人じゃ。エジプト人の占い師でな、3年前に知り合って以来、何かと世話になっとる。
今回も彼の手助けが必要で、一緒に来て貰った。彼共々、暫く厄介になるぞ。」
「はい。」
卒なく返事をしながらも、江里子は少なからず興味を惹かれていた。
占い師、なるほど、このアヴドゥルという男にはしっくりくる職業である。
しかし、今年の9月で67歳になったというジョースターの友人にしては若すぎる気がする。西洋人の年齢を見た目で推定するのは、東洋人である江里子にはかなり難しかったが、どう見ても精々ジョースターの半分程の筈だった。
その息子程の年齢の彼を、ジョースターは『友人』と呼び、何かと世話になっていると言った。
天下の不動産王がそこまで言う程なのだから、余程当たる占い師なのだろうか。そして、承太郎に対して一体どんな手助けが必要で、彼が連れて来られたのだろうか。
承太郎がさっき言い捨てて行った『悪霊』という言葉がまた脳裏に蘇り、背筋が思わず震えた。
怖い、でも少し、いや、結構知りたい。
だが、その好奇心をストレートに表して根掘り葉掘り訊く事は、しがない家政婦には出来なかった。
「私の下手な英語で、ジョースター様やアヴドゥル様にはご不便をお掛けするかも知れませんが、失礼のないよう精一杯務めさせて頂きますので、こちらこそ、どうぞ宜しくお願い致します。」
江里子はそう言って、一同に向かい、礼儀正しく一礼した。
すると、ジョースターは感心したように口笛を吹いた。
「本当にしっかりしとるお嬢さんじゃのう!メイドというよりまるでバトラーじゃあないか!承太郎とたった1歳しか違わんとは、とても思えんわい!あ、『様』は要らんからの、本当に。」
「エリーはヤマトナデシコなのよ、うふふっ♪」
その言葉に、アヴドゥルは興味を惹かれたように、大きな目を丸くした。
「ヤマトナデシコ、ははあ、この女性が、あの有名な・・・・・!」
「い、いやあの、そんなんじゃ・・・・え!?」
大真面目に感心されて照れたのも束の間、江里子はまた驚かされた。
アヴドゥルの話した言葉が、日本語だったからだ。
「ミス・ホシノ、私も『様』は結構。ジャスト・コール・ミー・アヴドゥル。」
「は、はぁ・・・・・・、あ、わ、私も、どうぞお気遣いなく、エリーと・・・」
「Ok, Ellie. どうぞヨロシク。」
「こ、こちらこそ・・・・・・・」
アヴドゥルの日本語は、ホリィやジョースターほど流暢ではないが、十分に上手だった。
空条家に厄介になるようになってから、まさか自分がこんな国際的な人間になるとはと常々驚いていたが、やはり日本は狭く、世界は広いようだった。
日本語と英語を不自由なく操るエジプト人に比べたら、英語で何とか日常会話が出来る程度の日本人なんてまだまだだ。
少しの間、圧倒され、また完膚無きまでに負かされた気分だったが、江里子はすぐさま我に返った。
「あ、あの皆様、いつまでもここに居てはお身体が冷えます。どうぞ奥へ。」
「おお、そうじゃのう!」
「エリー、今日のお夕飯はなぁに?」
「寒いので、今夜はお鍋にしました。承太郎さんのお好きな蟹鍋です。」
「ワーオ!蟹ィィィ!!ワシ蟹大好きぃ!」
蟹鍋と聞いて、ジョースターはエメラルドグリーンの瞳を無邪気に輝かせ、大きな歓声を上げた。
「流石はエリーね!気が利くわぁ♪承太郎だけじゃなく、パパの好みまで分かってくれていたのね!」
「いえ、すみませんが存じませんでした。偶然同じでいらっしゃって助かりました。」
江里子は苦笑いを浮かべて正直に答え、アヴドゥルの方を向いた。
「アヴドゥルさんは、蟹はお好きですか?」
「ええ、好きですよ。だけど、ナベという料理は初めてです。」
「そうですか。鍋というのは、お鍋に野菜や・・」
「ああ。」
良かれと思って鍋についての説明をしようとした江里子を、アヴドゥルは微笑んでやんわりと止めた。
「ありがとう、エリー。だけどそれは食べる時の楽しみにしておきたい。」
「失礼しました。」
アヴドゥルの微笑みは、思わず釣られてしまうような温かみのある表情だった。
「私は実は日本びいきでね。日本の文化にとても興味があるのです。
歴史、建造物、習慣、食事も勿論。最近、N.Y.にスシ・レストランがオープンしましてね。しょっちゅうジョースターさんと一緒に行っています。」
「そうですか。でしたら、明日のお夕食はお寿司にいたしましょうか。」
「それは嬉しい!是非お願いします!」
「ご存知ですか?お寿司にも色々種類があるんです。握り、ちらし、手巻き、巻き寿司、押し寿司というものもあるんですよ。」
「それは知らなかった!さすがは日本、奥が深い・・・・!」
部屋に案内するその僅かな間に、江里子はアヴドゥルと幾らかの言葉を交わした。
黙っていれば怖そうに見える男だが、日本の文化について語るアヴドゥルは、意外な程無邪気だった。
その後2日間、承太郎は家から一歩も外へ出なかった。
何をしているのかは知らないが、食事と風呂、トイレ、睡眠以外は離れに閉じ籠っているのだ。
この間まではてこでも帰って来なかったくせに、今度は家に引き籠りだなんて、何とワガママ放題な男だろうか。
ほんの1年程前まで、承太郎は家族思いの素直な少年だった。
江里子にも、自然な優しさで接してくれていた。
それが今では、理由もなくグレて非行の限りを尽くしている。
高校生の分際で、人目も気にせず堂々と所構わず煙草を吸い、味が気に入らないと言っては無銭飲食し、毎日のように誰かしらと喧嘩をして、挙句の果てには警察沙汰にまでなって。
それがどれだけホリィに気苦労をかける事になるかなんてまるで考えもせず、それどころか、ホリィを『ババア』『アマ』呼ばわりまでする始末だ。
ホリィ自身は全く気に留めていない風だが、江里子には我慢ならない事だった。
まるで別人のように豹変した彼の言動・素行が不愉快で、このところ江里子は承太郎を避けるようになっていた。文句を言える立場でない以上、そうするより他に、自分の心の平和を保つ術がなかったからだ。
聞き流して、見て見ぬ振りをして、立場の違いを考えてグッと堪えて、そうやってこれまで何とかやってきたが、今回の警察沙汰で、江里子の堪忍袋の緒はとうとう切れた。
幾ら奉公先のご子息だからといって、何でもハイハイと服従しなければいけない道理はない。悪いのは承太郎の方なのだ。
差し出がましかろうが何だろうが、今日こそはガツンと説教してやる。そう意気込みながら、江里子は仕事に区切りをつけると、こっそりと離れにやって来た。
― 気付かれないように・・・・・
コソコソする理由は、考えてみれば別にないのだが、つい何となく足音を忍ばせてしまう。江里子は抜き足差し足になって、承太郎を捜した。
「・・・・・フッ・・・・・、フッ・・・・・・・・」
程なくして、ある部屋の中から、承太郎の声が聞こえてきた。
妙な声だった。
例えれば、腹筋運動などをしている時に自然と洩れるような声だ。
わざわざ離れに閉じ籠ってまでやっている事が、筋トレなのだろうか。
今更こんな所に閉じ籠ってコソコソ鍛えなくても、承太郎は十分、憎たらしい位に見事なプロポーションをしているのに。
いやそんな事より、警察沙汰を起こした直後に、何を呑気な事をしているのだろうか。もっと他にするべき事がある筈なのに。
― もう許せない!
呆れるやら腹が立つやらで、江里子はその部屋の障子を力任せに開け放った。
「承太郎さん!!」
江里子が障子を力任せに開け放ち、叫んだのと同時に、部屋の中に何かがザラザラザラァッ・・・・!と散らばった。
畳の上に無数に零れ落ち、まるで雪が積もったように見えているそれは、雪ではなく米粒だった。
「な・・・何やってるんですかーっ!!」
江里子は慌てふためき、手で畳の上の米粒を寄せ集め始めた。
「なっ、何でこの部屋こんな米粒だらけになって・・・・・!ちょっと承太郎さん、どういう事なんですかこれは!?」
「・・・・お前がいきなり来て喚くからだろうが。」
片付けをしつつ釈明を求めると、承太郎はあろう事か、舌打ちなどしながら江里子のせいにした。
「お前さえ入って来なきゃ、全部キャッチ出来てたんだ。」
「はぁ!?ちょ・・・、待って下さい、キャッチって、まさかこのお米の事ですか?」
「それ以外に何がある?」
よく見れば、承太郎の傍らに大きな枡があった。台所のものだ。
枡がひとりでに離れにやって来る筈がない。勿論、米も。
「お米をキャッチって・・・・まさかこのお米、『キャッチ』する為にわざと撒いたんですか?その枡で?」
「だったら何だってんだ。」
「な・・・・・」
江里子は束の間、わなわなと唇を震わせた。
「なに小学生みたいな事やってんですか!!!」
自分でも驚く位、大きな声が出た。
「あなた、自分が何やったか分かってるんですか!?
自分が、人にどれだけの迷惑を掛けたか分かってるんですか!?
あなたの為に、お忙しいお祖父様が、わざわざお友達まで連れてはるばるアメリカから来られたんですよ!
奥様だって、毎日毎日あなたの為に警察に通って、どれだけ大変な思いをされていたか!あなたのせいで、どれだけ心を痛めていらしたか・・・・・!」
江里子は激しい憤りに任せて、大声で承太郎を叱責した。
「それなのにあなたは何ですか!帰って来るなりこんな所に閉じ籠って、畳にお米を撒いて遊んで・・・・!
少しも反省していないじゃないですか!
食べ物をオモチャにしちゃいけないって、幼稚園児でも知ってる事ですよ!」
「・・・・・・・」
「食べ物を粗末にして、あんな素敵なご家族を・・・・、あんな良いお母様を粗末にして・・・・・、前から言おうと思ってましたけど、いい加減にしないと今に罰が当たりますよ!!!」
もっと言ってやりたいのは山々だったが、残念ながらここが江里子の限界だった。
息は切れ、頭がクラクラする程興奮していて、これ以上この勢いを持続させる事は不可能だった。
江里子は息を荒げながら、無言で承太郎を睨み続けた。
すると、承太郎は黙ったまま、ゆっくりと江里子に歩み寄ってきた。
「な・・・・、何ですか・・・・・!?」
大胆不敵にも真正面に、それも身体が触れ合うくらいの位置に立ちはだかった承太郎を、江里子は負けじと必死で睨み上げた。
「・・・・ババくせぇ事言いやがって。そんなババくせぇカッコしてるからじゃねぇか?」
「なっ・・・・・」
「前から言おうと思ってたけどよ、お前、服の趣味悪くなったぞ。ブスが余計ブスに見える服着てどうすんだ。どこで売ってんだそんな服。」
悔しいが、江里子の怒りは承太郎には全くと言って良い程届いていないようだった。
余裕綽々の笑みを浮かべて、『反撃』を始めたのだ。
「ブスでセンスも悪い上に可愛げもねぇときちゃあ、どうしようもねぇな。
せめてギャンギャン喚くのはやめろ。ブスのヒステリーは見苦しい。せめて性格ぐらいしとやかじゃねぇと、嫁の貰い手もねぇぞ?」
「ぶっ・・・・・」
この言い合いを勝負だと認識すれば、完全に江里子の負けだった。
自分を綺麗だと思った事など一度もないが、それでも、人に上から見下ろされて笑われながら「ブス」と連呼されると、プライドが傷付いた。
たとえ無いに等しいプライドでも。
「ブスブスうるさい!何よ、自分がちょっとばかりカッコ良いからって、調子乗ってんじゃないわよ!女が皆アンタに惚れると思ったら大間違いなんだからね!バカじゃないの、この勘違い男!!ナルシスト!!」
江里子は感情のままに承太郎を詰った。
空条家に来て約3年半、今、初めて自分の立場を忘れていた。
礼儀も言葉遣いも一切無視し、口から出るままに罵声を浴びせてしまった。
言い切ってからその事に気付き、江里子は少しだけ怖くなった。
これはもはや説教ではなく単なる悪口、言ってはいけない事だった。
奉公先のご子息にこんな口を利いては、仕事をクビになってもおかしくはない。
この空条家に限ってそれは考えられないとしても、今この場で、承太郎から何らかの報復を与えられる事は十分に考えられる。
女相手にも平気で罵倒し、取り巻きの少女達から母親まで、一緒くたにまとめて『アマ』と言い捨ててしまうようなこの男なら。
「う゛・・・・・」
何をされるだろうかと、江里子は身を固くして待っていた。
報復を喰らう、その時を。
だが。
「・・・・フン」
承太郎は小さく鼻を鳴らしただけで、江里子の横をすり抜けて部屋を出て行ってしまった。すれ違いざまに、何だか腹の立つ、人を小馬鹿にしたような笑みを投げ掛けて。
「・・・・・っ・・・・・・・」
何テンポも遅れてから、江里子は承太郎を追って部屋の外に出た。
そして、廊下を歩いていく承太郎の背中に向かって叫んだ。
「ちょ、ちょっと待って下さい!逃げる気ですか!?
このお米どうするんですか!このまま放っておく気なら承知しませんよ!?」
「やかましい。便所だ。すぐ戻る。」
承太郎は振り返りもせずにそう答え、廊下を曲がって見えなくなった。
「・・・・・・・ったく・・・・・・!」
江里子は盛大な溜息を吐いた。
つい勢いで『承知しない』なんて言ってしまったが、部屋の掃除は本来、家政婦の仕事だ。つまりは、江里子の役目なのだ。
江里子はもう一度、諦めの溜息を吐くと、掃除機を取りに行く事にした。
そして、廊下の曲がり角まで来たところで。
「ぶっ・・・・・・・!」
何か固いものにぶつかって、したたかに鼻を打った。
「ああ、失礼!」
ぶつかったのはアヴドゥルの胸、正確には胸元に下がっている金の首飾りだった。
500円玉よりふた回り程も大きそうな、不思議な細工のメダルが繋がったようなそれが硬かったのだ。
だから、とてつもなく痛いのだ。
鼻の痛みに密かに悶絶しながら、江里子はそんな事を考えていた。
「大丈夫か、エリー!?」
「だ、大丈夫です・・・・・」
どうにかこうにか痛みをやり過ごし、江里子はぎこちなく愛想笑いを浮かべた。
すると、アヴドゥルも申し訳なさそうな苦笑を見せた。
「申し訳ない、私の不注意だった。」
「いえ、こちらこそ。」
「ところで、何やら大きな声が聞こえたが、承太郎が君を怒らせたのかな?」
「あ・・・・、あはは・・・・・・、いえ、その・・・・・」
あのヒステリックな罵声がアヴドゥルに丸聞こえだった事に、江里子は羞恥した。
だが、聞こえていたのなら、今更誤魔化しても仕方がなかった。
「お部屋の中がお米だらけになっていまして。それでつい・・・・。大変失礼致しました。」
「ああ、なるほど。」
「では、失礼します。」
江里子は軽く会釈をすると、そそくさとアヴドゥルの横を通り抜けようとした。
部屋の中が米だらけになっていた、その突拍子もない一言で彼がすんなり事情を察した事を疑問に思ったのは、その瞬間だった。
そして正にそのタイミングで、アヴドゥルが口を開いた。
「もしかして君は、これからその米を片付けようとしているのかな?」
「え?ええ。」
「だったら、その必要はない。放っておきなさい。」
「え?」
「その米は、意味と理由があって部屋の中に散らばっているのだ。」
「意味と理由・・・・ですか?」
「うむ。まあ尤も、部屋の中にブチ撒けているようじゃあ、まだまだだがな。」
「・・・・・・すみません、あの・・・・・、仰っている事がよく分からないのですが・・・・」
江里子は、取り繕う事も出来ない程困惑していた。
アヴドゥルの話している事が、本当に全く理解出来なかったからだ。
何の意味とどんな理由があれば、部屋の中に米をぶち撒ける事になるのか。
だがアヴドゥルの方には、それを説明する気はないようだった。
彼は狐に摘まれたような江里子を見て小さく吹き出すと、軽く首を振った。
「良いんだ、エリー。君は何も気にしなくて良い。
つまり、部屋の片付けは私と承太郎がするという事だ。君の手を煩わせるまでもない。我々が押し掛けて厄介になっているせいで、君は只でさえ忙しいのだからな。」
「とんでもないです、そんな事・・・・・・」
「片付けは我々が責任を持ってちゃんとする。君は気にせず、母屋に戻ると良い。ホリィさんが君を捜していたぞ。」
「奥様が?」
何の話かは知らないが、アヴドゥルには詳しく説明する気はないようだった。
ならば、それ以上食い下がるのは失礼というものだった。
「では、失礼して・・・・。あとは宜しくお願い致します。」
「うむ。」
江里子はもう一度頭を下げると、今度こそアヴドゥルの横を通り抜けて行った。
「派手にブチ撒けたな。まだ完全にはコントロールしきれんか。」
承太郎が部屋に戻ってくるや否や、アヴドゥルは挑発めいた口調でそう告げた。
「お前のスタンドは確かに、類稀なパワーとスピードを併せ持っている。
だが、正確にコントロール出来なければ、宝の持ち腐れだ。そんな事ではDIOには到底勝てんぞ。」
「分かってる。つーか、コントロールなら出来ている。」
「ならば畳の上に散らばっているこの米は何だ?」
「撒いてキャッチしようとした瞬間に、江里がすげぇ勢いで襖開けて入って来たんだ。
アイツが来なきゃ、全部掴めてた。」
「どうだかな。口でなら何とでも言える。」
「なら証拠を見せてやるぜ。」
言うが早いか、承太郎は己のスタンドを発動させた。
そしてそのスタンドで、そこかしこに散らばった米を瞬く間に拾い集めた。
手で掻き集めるのではなく、一粒ずつ指先で摘んで。
そうして枡の中に集めた米を、承太郎は再び盛大にぶち撒けた。
「オラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラ!!」
空中に撒き散らされた米は、畳の上に落ちる前に、ことごとく承太郎のスタンドによって捉えられていく。
その様を、アヴドゥルは瞬き一つせずにじっと見守っていた。
「オラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラぁぁぁぁァッ!!!!」
己の中のスタンドに気付いてから、精々2週間足らず。
そんな短期間で、よくもここまでコントロール出来るようになったものだ。
スタンドを操る特訓中の承太郎を慢心させてしまってはいけないから口には出せないが、アヴドゥルは内心で舌を巻いていた。
アヴドゥル自身は生まれついてのスタンド使いで、炎のスタンド【魔術師の赤−マジシャンズ・レッド−】と共に、27年の年月を生きてきている。スタンド使いとしての年季は、承太郎とは比べ物にならない。
それでも、承太郎のスタンドに勝てる気がしなかった。認めるのは心底悔しいが。
「・・・・どうだ、ヴ男?」
全て掴み取った米粒を枡の中にザラザラと戻しながら、承太郎は勝ち誇った流し目をアヴドゥルに向けた。
留置場で初めて出遭った時といい、全く、生意気な態度を取る小僧だ。年上に対する敬意というものが、まるで感じられない。
だが不思議と、嫌いだとは思えなかった。
友人のジョースターの孫という事もあるが、それだけではない。
出遭ってまだほんの僅かだが、彼にどんどん興味が湧いてくるのだ。その背負いし運命も、その卓越した能力を持つスタンドも含めた、空条承太郎という男そのものに。
そう、ジョセフ・ジョースターに対しての思いと全く同じ思いを、承太郎に対しても抱き始めているのだ。
数奇な運命を背負った人に興味を抱かずにいられないのは、占い師としての性である。そして、スタンド使いは、良くも悪くも同じスタンド使いに対して無関心ではいられない。それが、己のアイデンティティを理解してくれる、極めて数少ない同胞だからだ。
この地球上には無数の生命体が息づいているのに、スタンド能力を保持している者はほんの僅かしか存在しない。
だから、無関心でいる事などとても出来ないのだ。
それが味方となるか、それとも敵になるかは、また別問題としても。
「・・・・なるほど。ならば、お前も案外ウブだという事だ。
随分と大人びた口を利く生意気なガキだと思っていたが、彼女の顔を見た途端に集中力を欠くなんて、ちゃんとガキらしく可愛いところもあるのだな。安心したよ。」
「んだとテメェ。」
睨みつけてくる承太郎の目に、ギラギラしたまっすぐな感情が宿っている事に、アヴドゥルは安心していた。
「エリーは君のガールフレンドか?それとも、まだ君の片想いかな?」
「そんな訳ねぇだろふざけんな。テメェ調子こいてんじゃねーぞヴ男。」
口も態度も悪くて生意気だが、己の中に強固な軸を持っている。
強く、まっすぐな、『心』を持っている。
ジョースター同様、承太郎とも良い友人になれそうだという予感が、アヴドゥルにはあった。
「大体、そもそも認識が間違ってんだよ。アイツは只の女中だ。」
「Uh、若君と女中の恋物語、いかにも日本古典文学にありそうだ。」
「ねえよ。時代劇の観すぎだこの日本バカ。」
「しかしジョジョ、女中と言うが、彼女はまだ若いのだろう?」
この2〜3日、空条家で過ごしている間に感じていた疑問を、アヴドゥルは口にした。
女性の年齢や境遇を詮索するような失礼な真似は出来ないと、これまでは黙っていたが、承太郎以外に誰も居ないここでなら、訊いてみても良いような気がしたのだ。
「ジョースターさんが、彼女とお前は1歳違いと言ったのを聞いて、実のところ酷く驚いたのだ。ホリィさんの言葉に反応したふりをして何とか誤魔化せたが、思わず声に出して驚きそうになったよ。
まさかお前と一つしか違わないとは思わなかった。彼女、パッと見はホリィさんより老けて見えたからな。」
「・・・・アイツは服のセンスが悪いんだ。」
承太郎は、刺々しくアヴドゥルを睨みつけていた目を少し伏せ、煙草に火を吐けた。
「なるほど。まあ、ファッションセンスはともかくとして、だ。
お前と1歳違いなら、彼女もまだ学生じゃあないのか?
それなのに学校に行っているようには見えないが、ホリィさんやマエストロ・空条は、その辺りの事は何も言わないのか?
マエストロにはまだお会いした事はないが、ホリィさんは私が見る限り、若い娘を学校にも行かせず働かせるような女性ではないと思うのだが?」
占い師という職業柄、人を見る目はあるつもりだった。
アヴドゥルは、大人顔負けの吸いっぷりで紫煙を燻らせる承太郎を見つめながら、自分の推測が当たるであろう事を予感していた。
ややあって、承太郎が煙草の煙と共に言葉を吐き出した。
「一つ違いなのは確かだが、上なのは向こうだ。アイツはああ見えて、俺より年上だ。」
「何だって!?」
その返事で、アヴドゥルはまた酷く驚かされる事になった。
江里子の方が年下だと、頭から信じ込んでいたからだ。
何だか妙に大きくてレンズのぶ厚い、野暮ったい黒縁眼鏡の下の顔が、あどけない少女のそれだったから、何の疑いもなく、承太郎より年下なのだと思い込んでしまったのだ。
「日本の女性はベビーフェイスが多いと思っていたが、まさか君より年上だったとはな・・・・!」
「だから、高校はもう出てる。今年の春にな。」
「なるほど。それから彼女は、ここで働き始めたのか?」
「いや、違う。もう3年半になるか。」
「3年半?」
ならば、学生の内からこの空条家で働いていた事になる。
その辺りの事情が、アヴドゥルには呑み込めなかった。
「どういう事だ?まだ学生の内からここで働いていたというのか?彼女は君の親戚か何かか?」
「全くの赤の他人だ。ある日、お袋がどっかから拾ってきた。野良猫みてぇなもんだ。」
「野良猫・・・・・」
それを聞いて、アヴドゥルはふと、ある事を思い出した。
日本に来る少し前、N.Y.でジョースターと共に繰り広げた、すったもんだの大捕り物劇を。
尤も、あれは人間の乙女などではなく、正真正銘の野良、厄介な性格をした小憎ったらしいオス犬だったが。
しかも、性格以上に厄介な強さを持つスタンド使いだった。
どういう事情を持つ娘かは知らないが、あの『野良』に比べれば、江里子はさしずめ深層の令嬢だと、アヴドゥルは思った。
「・・・ほ〜う。また随分とチャーミングな野良猫がいたものだ。ラッキーだったじゃないか。」
「・・・・・・・」
無言のまま、ものすごい顰めっ面で睨んでくる承太郎に、アヴドゥルは勝ち誇った笑みを浮かべて見せた。