アンジェロが決して信用出来る人間でない事は、最初から百も承知だった。
だからこそ決して素性を明かさず、逃げられた時のリスクヘッジをした上で、敢えて好きに泳がせておいたのだが、アンジェロは意外にも逃げなかった。
あれで案外律儀なところがあるのか、それとも、この仕事も奴にとっては『人生を楽しむ事』の内に入ってでもいるのか、アンジェロは至って従順に、形兆の指示通りに動いていた。
最初の連絡が入ったのは、年が明け、1999年に入って間もなくだった。
その時の獲物は、ケチな小悪党だった。
小林玉美、20歳、乙女座。チビのブ男で、性格は小狡く卑しく、絵に描いたような底辺の小物だった。
だが唯一、金への執着心、というよりがめつさと言った方が良いだろう、その点は確かに半端ではなく、あのアンジェロをして『異常だ』と言わしめた程だった。
そこに一応の期待を持って矢を射た結果、めでたくも出現したスタンドは、残念ながら戦闘能力はまるで無い、変なスタンドだった。
錠前の形をしたそのスタンドは、相手が罪悪感を覚えるとその心に取り付き、重圧として圧し掛かって責め苛む。そして最終的には相手を自殺にまで至らしめる事が出来るのだが、それはあくまで普通の人間に限った話である。
如何せん相手はあの化け物だ。と億泰の努力のお陰で幾らか人間的な生活が出来るようになったとはいえ、知能レベルは相変わらずである。
そんな化け物に罪悪感を抱かせる事などまず不可能であるし、もしも仮にそれが出来たとしても、自殺させる事はそれこそ絶対に不可能だ。それで死ぬならとっくの昔に死んでくれているのだから。
従って、この小林玉美という男は、早々にお払い箱となった。
次のターゲットは、小林玉美とほぼ同時期に決まった。
間田敏和、高校2年生、獅子座、テニス部所属、漫画が大好きなオタク。
杜王町内にある私立校、ぶどうヶ丘高校の生徒であるこの男もまた、酷い性格をしていた。
陰湿で小心者、妬みっぽく自己中心的。加えて残忍な攻撃性も持ち合わせている為、人が見ていない所で仔猫や小鳥などを虐めて鬱憤を晴らす最低の下衆だった。
全く見下げ果てた根性だが、しかしそこまでの性悪というのも、ある意味では『才能』だ。そこに目をつけて矢を射た結果、運良く間田敏和もスタンド使いとなった。
木偶の坊の形をしたそのスタンドは、触れた人間をそっくりそのままコピーする能力だった。
エジプトで会ったオインゴのスタンドと同じような能力だが、それと違う点は、向き合えばそのコピー元の人間を意のままに操れるという力も併せ持っている事だった。
しかし、その能力で父を殺せるかどうかは、残念ながら考えるまでもなかった。
少しの間を置いて、次に連絡が入ったのは2月に入ってからだった。
次の候補者は女だった。
山岸由花子、中学3年生、射手座。スラリと背が高く、腰まである長い黒髪が印象的な、大人びたクールな雰囲気の美人だった。
更に成績優秀、かつ料理や手芸もプロ並みに上手いとなれば、さぞかし慕われそうなものだが、意外にもこの少女は孤独だった。
かつてののように虐げられているからではなく、彼女自身が歯牙にもかけないでいるからだ。女同士つるむ事もせず、学内で人気のある男子生徒や芸能人に憧れてはしゃぐ事もなく、彼女は基本的に誰の事も見下しているような節があった。
だが、何が心の琴線に触れたのかはさておきとして、ひとたび好意を抱いた相手に対しては、彼女は別人のように豹変した。
相手の気持ちはお構いなしに、瞬く間に相手との距離を徹底的に詰め、息が詰まる程尽くし、そしてそれが受け入れて貰えないとなると一変して凶暴になり、相手を攻撃する。可愛さ余って憎さ百倍という言葉を体現するかのように、執拗に、手酷く。
別人のように豹変というよりも、むしろそれが山岸由花子の本性なのだろう。
好きな男に浮気されたと知った時の、いや正確には、山岸由花子に強引に付き纏われていた男が、他の女に告白されてこれ幸いとその女と付き合い始めたという話なのだが、その際の阿鼻叫喚の修羅場をアンジェロから聞かされた時には、思わずゾッとしたものだった。
あくまで女である故に、流石に幾らかの躊躇いは感じたのだが、その思い込みの激しさ、理不尽とも言えるような歪んだ強い愛情は、やはり無視出来ない『素質』だった。
かくして山岸由花子もスタンド使いとなったのだが、彼女のスタンドの能力は、その髪を自在に操れるというものだった。
瞬時に増やしたり伸ばしたりする事が出来るその髪で、相手を縛り上げたり絡め取って叩き付けたり、髪を相手の頭に植え付けて引きずり回したり、ドアや窓の僅かな隙間から髪を侵入させて解錠したりという事も出来るようだったが、残念ながらそれも形兆の求めていた能力ではなかった。
その次は更なる変わり種だった。
岸辺露伴、20歳、B型。職業は漫画家。この男を見つけたのは形兆自身で、きっかけは実に他愛のない、些細な事だった。
億泰が日頃愛読している週間少年ジャンプを、いよいよ目前に迫った高校入試の為に没収した際、偶々戯れでページを繰って目にしたのが、その岸辺露伴の作品『ピンクダークの少年』だったのである。
これまでずっと漫画やアニメなどは見るだけ時間の無駄だと思っていた形兆にも、その作品は純粋に面白いと思えた。結局その雑誌を全て読んでみたが、他の作品には全く興味が湧かず、ただ岸辺露伴の作品だけが妙に印象に残った。
気になって調べてみると、岸辺露伴という漫画家はかなりの変人で人嫌いであり、売れっ子でありながらアシスタントも雇わずに全ての仕事を一人でこなすという、他の同業者とは全く異質な作家だった。
また、自分の描く作品に対する拘りや信念が異常なまでに強く、漫画の描き方も、何やら人間離れした凄まじい技術を持っているようだった。
一層気になって、暫く岸辺露伴の身辺を調べている内に、都会の喧騒にほとほと嫌気の差した彼が、東京を離れて幼少期まで住んでいた故郷のM県杜王町に引っ越すという事が分かり、その時形兆はアンジェロ同様、この男に対してもシンパシーを感じた。そして、岸辺露伴が杜王町に引っ越して間もなくというタイミングで、矢を放ったのだった。
岸辺露伴のスタンドは、本体同様、実に風変わりなスタンドだった。
波長が合う人間に自分の描いた漫画の原稿を見せると、その人の身体を本にして、顔でも指でも、身体中のどこでもページのように捲る事ができ、そこに書かれている事を読んだり、ページごと破り取って自分のものにする事が出来るのだ。
そこに書かれている事というのはその人の人生そのもので、生年月日や氏名年齢から、墓場まで持っていく筈の秘密まで、ありとあらゆる事が丸分かりになるようだった。
そして更に、そこに何かを書き込めば、その人は書き込まれた通りの事をするのである。それがたとえ自傷や自殺であっても。
岸辺露伴のスタンドは、直接的な攻撃は出来ずとも、とてつもなく恐ろしい能力だった。何しろ、相手はページに書き込まれた通りの状態に陥るのだ。もしも『この世から消滅する』とでも書き込まれたとしたら。そう考えて、一瞬、遂に見つけたと喜びかけたのだが、しかしこれもやはり、父に対しては無効だった。
そのスタンドを発動させるには、波長の合う者に岸辺露伴の手描きの原稿を読ませなければならなかった。つまり、相手がそれをきちんと読解する必要があるという事で、ただ目についたり視界に入ったというだけでは、スタンドは発動しないようだった。
たとえ読ませてもボーッと目に映す事しか出来ない父には、絵や文字を読み進めて内容を理解し、更に共感するなどという知的作業は到底不可能だった。
この通り、『当たり』は4人いたが、父を殺せそうな能力を持つスタンド使い、『大当たり』は結局一人もいなかった。
当たりですらない『ハズレ』も何人か引いた。
最初のハズレを引いた時は密かに動揺したが、しかし、だからこそ、もう引き返す事など考えられなかった。その時点で、人として決して越えてはいけない線を越えてしまったのだから。
ハズレの処理は、アンジェロに任せるようにしていた。下手に報酬を約束して調子付かれると困るので、基本的にはスタンドの力の差で威圧し、反逆心までは抱かれない程度に、少額の金や美味い食い物といった『飴』を時折与えて従わせていた。
C県の自宅とM県の杜王町を頻繁に往復しながらそんな日々を過ごしている内に、いつの間にか冬の盛りは過ぎ、3月になっていた。
億泰も何とか無事に近くの公立高校に合格し、本人とが大安心してお祭りムードになり、家の中の空気が何となく浮かれているようだったある日、虹村家に1本の電話が入った。
相手はとある不動産会社で、用件は家の立ち退き要請だった。昨秋に死んだ伯父の虹村千造が経営していた会社が倒産した事により、抵当に入っていたこの家の権利が他へ移り、新しい所有者がこの家を取り壊して更地売却したいという意向であるというのがその詳細だった。
幾らかの立退料は出して貰えるが時間はあまりなく、遅くともゴールデンウィークに入るまでには引っ越して欲しいと言われて、真っ先に形兆の頭に浮かんだのは、1軒だけ父の名で所有している杜王町の家の事だった。
これまでずっと、固定資産税と地元の不動産業者への管理委託費を払って放っておいただけだったが、杜王町へ度々足を運ぶようになってから、形兆は初めてその家を見に行った。
敷地の広いなかなか立派な洋館だが、古い上に長らく空き家だからか、全体的に酷く傷んでいた。
英国風の落ち着いた緑色の外壁は、塗装があちこち剥げて壁の素地が剥き出しになっており、庭の草木は荒れ放題の伸び放題、窓やドアは全て板を打ち付けられて開かなくなっていて、とても住める状態ではなさそうだった。
だが、そこしかなかった。
今、形兆達が身を寄せる事が出来るのは、杜王町のその廃墟だけだった。
それに何より形兆は、またしても不思議なシンパシーを感じていた。
まるで町に呼ばれているような、そして自分もそれに応えようとしているような、そんな奇妙な感覚に陥っていたのである。
何の変化も無い、相変わらずの日々なりに、今年の春は億泰の高校合格という一大吉事があり、は今、蕾が花開く時のような喜びと充実感に浸っていた。
虹村兄弟と暮らすようになってから、は学校には一切行かず、必然的に勉強とも縁遠くなっていたのだが、この何ヶ月かは億泰と一緒に勉強をしたり高校や受験の手続きの事を調べたりと、高校受験という目標に向かって走る彼に併走するようにして暮らしていたので、億泰の合格はまるで自分の事のように喜ばしかった。
無論、形兆の時も大いに喜んだものだったが、下手な大人よりも余程世の中を知っていて、学業の成績も優秀な形兆は、何でも一人でどんどん決めて、当然のようにトップレベルの上位校への合格を勝ち取った。全てがほぼ事後報告のようなもので、そこにの介入する隙は無かった。
それに比べて億泰は、が介入する隙だらけで、それはそれは手が掛かった。
中学2年の途中でドロップアウトしている身では、偉そうにアドバイス出来る事など何も無かったが、分からない者同士一緒に学び、調べ、どうにかこうにか無事めでたく受験という大きな試練を乗り越えたのだった。
しかしその一方で、の心の片隅には、形兆が何をしているのか分からないという不安が常にあった。
形兆はまたこのところ、特に1999年に入ってから以降、留守がちになっていた。
家にいる時でも、ほぼ会話もなく、同じ屋根の下で暮らしている筈なのにまるでいない者のようにすれ違いの生活をして、何も教えてくれない。
形兆のその行動は、の声が出なくなったばかりの頃のそれとよく似ていた。
あの時も、形兆は暫くそんな生活を続け、そしてある日突然、欲求を発散させる為だけのようにを荒々しく抱くようになったのだ。
だがそれも、ここ暫くはまた途絶えていた。
とにかく忙しそうな事だけは見て取れるので、単にそんな暇が無いという事なのだろうが、不安と心配は密かに強まるばかりだった。
形兆は一体、今何をしているのだろうか?
彼等の父親を殺せる能力を持つスタンド使いを探す為の調査とは、具体的に何をしているのだろうか?
今日こそはそれを訊こう、今日こそは、今日こそは、そう考え続けていたある日。
「ひ、引っ越しぃ!?」
形兆は突然、と億泰を居間に呼び寄せ、それを告げたのだった。
「しかもM県って、すんげぇ遠いじゃねーかよー!杜王町ってどこだよぉ!」
「県庁所在地S市のベッドタウンだ。田舎だが、ここよりは幾らか拓けている、良さそうな町だ。」
「あ、そ、そぉ?つ、つーかそんな事が問題じゃねーんだよぉ!学校どーすんだよぉー!?」
あまりに突然の話で驚いたが、億泰の言う通り、まず問題はそれだった。
「俺、折角入試合格したんだぜ!?この大の勉強嫌いの俺がよぉ、死ぬ気で勉強して、やっとの思いで受かったんだぜ!?それどーすんだよぉーっ!」
「威張って言う事か。大袈裟なんだよ。あんな程度のバカ校の入試なんぞ、半分寝ながらでも受かって当然だ。」
「そりゃ兄貴はそーだろーよー頭良いんだから!でも俺にとっては大変だったんだってば!
冗談じゃねーよぉー!あの血ヘド吐くような努力をパァにして中卒なんてよぉー!どーせ中卒なら面白おかしく遊んでりゃ良かったよどチクショー!」
「やかましいこのダボが!!」
「どぴ!!」
形兆はヒートアップする億泰の頭に、見るからに痛烈な拳骨を振り下ろして黙らせると、億泰とをそれぞれ睨むようにして見据えながらまた話し出した。
「いいか?よく聞け。千造のジジイが死に、奴の会社は遂に潰れた。
その結果、平たく言えば、この家は借金のカタに取られて持ち主が変わった。
その新しい持ち主が、このボロ家を壊して土地を売りに出そうとしている。
間借りしているだけの俺達にゴネる権利は無い。そういう事だ。」
「ぐぬぬ・・・・、何でもかんでも世の中カネかよぉ・・・・!」
「極限まで平たく言えばな。」
致し方のない事情があるのは分かった。
だが何故、新居をM県の杜王町という所に既に決めてあるのかが分からなかった。
家を立ち退かなければならないだけなら、何もそんな遠くへ行かずとも、億泰が折角受かった高校に通える範囲で引っ越せないのだろうか?
は筆談帳に『どうしてその杜王町って所なの?』と書いて、形兆に見せた。
「1軒だけ、そこに親父の個人名義で持っている家がある。親父がまだ人間だった内に処分し損ねたものだ。田舎町のボロ家だから、売って金にするにはそれなりに時間と手間の掛かる面倒な物件なんだと言っていた。
実際、この間初めて見に行ってみたが、確かに親父が昔言っていた通りだったよ。敷地は広いが、古くて傷みも酷い。あれじゃあ売るにも大変だ。
今まではずっと、親父に言われた通り税金と管理費を払って放っておいただけだったが、しかしこうなった今、俺達の住める家はそこしかない。未成年の俺達に、保証人も無く家を貸してくれるとこなんて無いんだからな。」
これもまた、納得するしかない理由だった。
もうそれ以上訊きようがなくて筆談帳とペンを手放すと、形兆は次に億泰の方だけを向いた。
「学校は、そこで編入試験を受けて入り直す。まだ決めた訳ではないが、杜王町にはぶどうヶ丘高校という私立の学校があってな。俺もお前もそこに編入しようかと考えているところだ。」
「お、俺もお前もって・・・・、兄貴も・・・・・?」
「そうだ。出席日数が足りず、留年になったんでな。」
「ま、マジかよぉ!?あ、兄貴がダブリって・・・・!」
予感はしていたがやはりそうなってしまったのかと落胆していると、形兆はフイと目を背けた。それは話を終わらせる時の、彼の仕草だった。
「引っ越しは、遅くともゴールデンウイークに入る前には完了させる。引っ越し屋の手配はまだこれからだが、各自、いつでも出られるように片付けや荷物の準備をしておけ。話は以上だ。俺はこれから出掛けて来る。」
形兆はそう言い置いて、居間を出て行った。
億泰は『また試験・・・・』と呟いたきり魂が抜けてしまったように打ちひしがれていて、とてもその後を追えそうには見えなかったので、は一人で彼の後を追った。
一度自室に戻った形兆は、トランクケースを持って玄関へと歩いて行った。
その中に何が入っているのか、は知っていた。あの弓と矢だ。
「・・・・・・」
は形兆の後を追いかけて眼前に立ちはだかり、その顔をまっすぐに見据えた。
「・・・・何だよ?」
どこへ行くの?
そう訊くと、形兆は冷たい瞳でを見返した。
「・・・杜王町だ。」
それを持って行ってどうするの?
その矢で何をする気?
はとうとう、意を決してそれを尋ねた。
「・・・・お前には関係の無い事だ。どけ。」
形兆はにべもなくそう言い放ち、の横をすり抜けて出て行こうとした。
は咄嗟に、トランクを持っている形兆の腕を掴んで止めた。
「何なんだ。」
それ捨てて。もう二度と使わないで。
筆談帳にそう書きつけて形兆の前に突き出すと、形兆はその表情を固く強張らせた。
「馬鹿な事言ってんじゃねぇぞ。」
は首を振り、形兆が持っているトランクを奪い取ろうとした。
すると形兆は血相を変えて、トランクを引っ張り返した。
「やめろ、これに触るな!」
「・・・・・!」
自分に出来る事は何でも協力する。これまでずっと、その約束を守り続けてきたつもりだった。これから先もそのつもりだ。
しかし、やはりこればかりは協力出来ない。形兆が決して犯してはならない罪を犯してしまうのを、黙って見過ごす訳にはいかない。その一念で、は必死にトランクを引っ張った。
自分達兄弟を射抜き、伯父を射抜き、もしかしたら他の誰かにも、もう同じ事をしたのかも知れない。
けれども、もう手遅れだとは思いたくなかった。
今すぐ直ちにこの矢を処分して二度と使わないようにすれば、今ならまだ引き返せるかも知れない。堕ちて行こうとする形兆の手を、今ならまだ繋ぎ留められるかもしれない。只々、その一心だった。
「・・・俺の邪魔をするんじゃねぇ!死にたくなけりゃあ黙って俺に従ってろ!」
だが形兆は、力任せにトランクを奪い返し、乱暴な捨て台詞をに浴びせかけた。
まるで叩きつけるような激しさを帯びたその声と言葉にショックを受けて、は身体が硬直し、それ以上動く事も、紙の上に言葉を重ねる事も出来なくなった。
そうして呆然と立ち尽くしている間に、形兆はさっさと出て行ってしまった。
「ど、どうしたんだよぉ・・・・?今何か兄貴の怒鳴り声がしたけど、な、何があったんだよぉ・・・・?」
億泰が居間から出て来たが、はそれに首を振って答え、自室に入ってドアをきっちりと閉めた。意地を張り通せたのはそこまでだった。
一人になった瞬間、押し留めていられなくなった涙がポロポロと零れてきて、はその場に蹲り、息を殺してすすり泣いた。
虹村形兆は苛立っていた。どうしようもなく苛立っていた。
バイクで何時間走ろうとも、気は少しも晴れる事なく、苛立ちが形兆の中ではち切れそうに膨らんでいくばかりだった。
この弓と矢を捨てるなど、冗談じゃない。今更、冗談じゃない。
は、この弓と矢を捨てれば無かった事になるとでも思っているのだろうが、それは大間違いだ。引き返す事などもう出来ないのだから。
この弓と矢が只の武器でない事は分かっているだろうに、まるでガキから危ない玩具を取り上げるように奪い取ろうとするとは、何と馬鹿な女だろうか。
スタンドの素質を持っていなければ、この矢で指先をほんの少し掠っただけでも死んでしまうのに。その事はちゃんと説明しておいたのに。そんな事などお構いなしに、強引に、無防備に、取り上げようとしたりして。
何かの弾みでトランクが開いてしまったら。この矢がの肌にほんの僅かでも傷を付けたら。こっちはそれを考えて肝が冷える思いだったのに、人の気も知らずに。
だが、形兆が何より誰より許せないのは、自分自身だった。
無我夢中だったとはいえ、昔の父親と同じような事をしてしまった、形兆自身だった。
さっきの、を振り切って出て来た時の自分は、なりふり構わずカネ・カネと血眼になっていたあの男のようだった。
妻と幼い息子達を邪険に振り払って家を飛び出して行く時の、かつての虹村万作そのものだった。
「っ・・・・・・!」
おぞましい程の自己嫌悪と苛立ちに任せて、形兆は目の前の男に矢を放った。
「うぅっ・・・・!」
胸に矢を受けた男は、路上に倒れ込んでそのまま絶命した。
矢を引き抜き、暫く待ってみるも、男はピクリとも動かないままだった。
「・・・・ハズレか」
形兆は舌打ちし、そう呟いた。
すると、傍らにいた男、アンジェロが、闇の中からジワリと滲み出るようにして進み出て来た。
「ダメだったか。そいつもなかなか見所があると思ったんだが、見込み違いだったかな。」
「他には?」
「残念ながら今んとこはいない。また見つけたら連絡するよ。」
「頼んだぞ。コイツの処理もな。」
「任せな。」
何が楽しいのか、アンジェロは嬉々として形兆の手駒で居続けている。
いずれまた反逆を企てるつもりでいるのか、それとも純粋に『人生を楽しんでいる』のかは分からないが、ともかく大人しく従っている内は利用するつもりだった。
ハズレの残骸をアンジェロに委ねると、形兆は再びヘルメットに顔を隠し、バイクを走らせた。
次の目的地はすぐ近く、同じ杜王町内だった。杜王駅近くのとあるアパート、そこに住んでいる一人の男に用があるのだ。
男の住まいは、1Fの薄暗い角部屋だった。鉄錆が少し浮き出ている古びた玄関ドアをドンドンと叩いてやったが応答は無く、ドアノブを回してみると開いたので、形兆はそのまま中に入った。
男はやはり在宅していた。玄関に背を向ける格好で床に胡坐をかいて座り、ギターを抱えてジャカジャカとやっているのが見えた。ノックの音が聞こえなかったのは、その耳をヘッドフォンで塞いでいるせいだ。
形兆は溜息を吐き、靴のまま部屋の中に足を踏み入れた。CDラックやオーディオコンポの周りは綺麗にしてあるが、他はろくに掃除もしていなさそうな小汚い部屋なので、別に構う事はなかった。
真後ろに立ってやると、流石に気配で気付いたのか、男は演奏の手を止め、振り返ってギャアッ!と叫び声を上げた。
「な、何だアンタかよ・・・・!こないだといい今日といい、毎回毎回ビックリさせんなよ!」
「今日はノックしたぞ。お前が聞こえていなかっただけだろう。それのせいでな。」
形兆が指をさすと、男は少し決まりの悪そうな顔になって、ギターを置き、ヘッドフォンを外した。
音石明、19歳。ロックミュージシャンの卵のようで、バンドを組んでギターを弾いているが、活動と言えばS市内のライブハウスで時々ライブをやる位のもので、後は大抵この杜王町内で燻っている。
インディーズでも人気と実力のあるバンドはコアなファンが多くついて有名になるが、この男のバンドはどうやらその部類には入っておらず、当然メジャーデビューなど夢のまた夢という状態であるようだった。
「その後どうだ?スタンド能力は使いこなせるようになったか?」
形兆がこの男を射抜いたのは、つい先週の事だった。
「おうよ!いや〜、最初見た時はおったまげたけど、今はもうすっかり慣れたぜ!いや、完全にマスターしたと言えるね!」
「それは頼もしい。で、どんな能力だ?」
「口で説明するより見て貰う方が早いよな、きっと。」
音石は形兆に向かって、不敵な笑みを浮かべてみせた。
「カモォーーン!【レッド・ホット・チリ・ペッパー】!」
ステージパフォーマンスのような大袈裟なアクションで音石が発現させたスタンドは、鳥か恐竜のような形に見えるスタンドだった。
少なくともその外見は、先週生まれ出た時と何ら変わっていなかった。大きな嘴も、太い尻尾も、まるで人間のような手足や胴体も、スタンド全体からパチパチと発せられている、金色の細かな火花も。
こいつの能力は電気のようだった。先週の時点では、冬場に時々パチンと感じる静電気程度のパワーだったのだが、それがどのような成長を遂げたのか、まずはお手並み拝見というところだった。
「見てろよぉーっ!」
警戒は怠らず、ひとまずは音石の言う通りに見ていると、音石のスタンド、『レッド・ホット・チリ・ペッパー』とやらは、部屋の壁のコンセントへと潜り込んで行った。
更にじっと待ってみたが、1秒、2秒と時間が過ぎてゆくばかりで、何事も起きない。もしや射程距離を外れて、スタンドが消えたのではなかろうか?
そう言えば、スタンドには射程距離というものがある事をこの男には伝えそびれていた気もするが、この男、完全にマスターしたと豪語した割にはその事にもまだ気付いていないのだろうか?
「・・・・おい、一体何をするつもりか知らんが、スタンドが消えているんじゃないのか?良いか、スタンドには射程距離というものが・・」
「消えてなんかないさ。もう少しなんだ、静かにしててくれ・・・・」
音石は真剣そのものな顔付きで、独り言のようにそう呟いた。どうやらスタンドの操作に神経を集中させているようだった。
消えていないとすれば、何をやろうとしているのだろうか?形兆は訝しみながらも、引き続き事の成り行きを静観した。
すると、暫くしてさっきのコンセントから金色の火花がパチパチと小さく吹き出し、それと共にレッド・ホット・チリ・ペッパーが戻って来た。
「どうだぁーッ!」
戻って来たスタンドから何かを受け取った音石は、それを自慢げに形兆の方に突き出した。黒くて何やらヒラヒラしたそれは、よく見てみると、女物のレースの下着だった。
「上の階によぉ、俺好みの女が住んでんだよ。23歳の美人ナース、ヘヘヘッ。見ろよこれ、このエッロいパンツ。全部スケスケじゃねぇか。ああ〜堪んねぇよなぁ〜。彼氏とデートの時に履いてんのかなぁ〜。今度後つけてやろうかなぁ〜。」
欲望剥き出しの目でそれをしげしげと観察している音石の姿は、これ以上は無いという程の下衆だった。
余りにも呆れて絶句していると、音石はふと形兆を見て、得意げにほくそ笑んだ。
「これが俺の能力だ。電気に同化して、コンセントや電線を通り抜け、電気の通っている所ならどこでも出入り出来る。そしてそこから何かかっぱらって来る事も出来る。このようにしてな。」
音石は女の下着をヒラヒラと振ると、それをポイと放り出して、今度は傍らのギターを手に取った。
「見ろよこれ!実はこいつも『戦利品』なんだ!この能力を使って、S市の楽器屋でくすねてやったのよ。楽勝だったぜ、クケケケッ!いや〜、ずっと欲しかったんだよ〜これ!すんげぇ高くてさぁ、とても手が出なかったんだ!
他にも何でも盗れるぜ!何せコンセントがある場所ならどこでも入りたい放題だからな!住人や店員の目の前で、堂々と盗みが出来るなんて、こんなに刺激的でハッピーな事はねぇぜ!しかもパクられる心配ゼロ!もうウハウハだぜ!」
高笑いする音石を思わず殴り飛ばしそうになったが、形兆はそれを何とか堪えた。考えてみれば、下衆の役立たずは他にもいた。何もこいつだけに限った事ではないのだ。
ただ、今日はやけに腹立たしく、虚しく感じられた。出掛けに嫌な気分になったせいだろうか。
「いやぁアンタのお陰だよ!先週のあの夜、アンタが急に現れて、寝てる俺にあの矢を向けた時はてっきり悪魔だと思ったけど、今となっちゃあアンタは悪魔どころか神だよ、神!福の神さ!
俺の人生、今まで全くツイてなかったけどよぉ、ようやくツキが回ってきた気がするんだよ!この能力でゴッソリ大金をかき集めて、良い楽器と機材を揃えりゃあ、俺も一躍スターの仲間入りよ!ジミ・ヘンやジェフ・ベックみてぇな、ウルトラスーパーギタリストになるんだ!バンドのメンバーなんて幾らでも替えが利く。あんなダサくて下手クソな連中とはとっととおさらばして、世界へ羽ばたいていく事が出来るんだ!」
こんな下らない男を喜ばせる為に、こんな馬鹿馬鹿しい夢物語を聞く為に、こんな事をしているのではない。
心底失望した形兆は、好きにするが良い、と一言呟いて、音石に背を向けた。
すると、音石がその背中を呼び止めた。
「ああそうだ、ところでアンタあの時、俺のこの能力で何かして欲しい事があるって言ってなかったかい?大きなツキをくれた礼に協力してやるぜ。」
「結構だ。貴様には到底不可能だという事が分かったからな。」
「・・・・何ィ?」
不意に音石の声の感じが変わった。
振り返ってみると、さっきまで能天気にヘラヘラしていたその顔が、陰湿な険しさを帯びていた。
「内容も聞かねぇ内から勝手にそう決めつけられるのは気分が悪いなぁ。俺は見くびられるのが大嫌いなんだ。」
「見くびってなどいない。純然たる事実だ。」
形兆は床に落ちていた恥ずべき『戦利品』を拾い上げ、音石の手元にヒラリと放り返してやった。
「こんな物を盗るしか能の無い低レベルなスタンドに出来る仕事ではない。貴様は完全な見込み違いだった。もう用は無い。」
「な・・・・!」
再び踵を返して出て行こうとすると、完全に腹を立てたらしい音石が追いかけて来て、形兆の肩を無遠慮に掴んだ。
「ちょ、待てよ!テメェこの俺を見くびってんじゃ・・」
威勢良く息巻きかけた音石は、そこで言葉を切った。
バッド・カンパニーのグリーンベレーが構えるコンバットナイフが自分の首の頸動脈に突き付けられている事に、今ようやく気付いたようだった。
「・・・もう黙った方が良い。殺されたくなければな。」
「ぅ・・・・、ぅぁ・・・・・」
音石が腰を抜かしたようにその場にへたり込むと、形兆はスタンドを消し、そこを後にした。
タイヤが砂利を踏みしめる音がした。
それを聞き取ったは、ベッドから起き上がり、部屋の電気を点けた。
時刻はとうに真夜中を過ぎていた。今日もまた随分と遅い帰宅だ。
杜王町なんて、そんな遠い所まで行って、何をしてきたのだろうか?
今日も一応無事に帰って来てくれたようだが、明日、明後日、無事でいられる保証は?
それを思うととても眠れず、形兆が帰って来るのをずっと待っていたのだ。
ややあって、玄関の戸が開く時の音が、ごくごく僅かなボリュームで聞こえた。続いて靴を脱ぐ音も、静かに踏みしめられた廊下が軋む音も。
は意を決して、自室のドアを開けた。
「・・・・まだ起きてたのか」
形兆は、少し驚いたような目をに向けた。
そんな彼に、は手招きをした。
もしも無視されたら、その時は後を追いかけるつもりでじっと待っていると、形兆はうんざりしたように溜息を吐きながらも、の部屋に入って来た。
ドアを閉めると、形兆はに、何だよ、と訊いた。
は、形兆が持っているトランクを指さしてから、筆談帳にペンを走らせた。
「それ、使ってきたの?」
「・・・・まだ言うか」
「自分達と、伯父さんと、他には?今までに何回使ったの?」
「いちいち覚えてねぇよ。」
「皆スタンド使いになれたの?」
その質問に、形兆は答えなかった。
答えないという事は、それが『答え』であるという事だった。
薄々予感はしていた事だったが、やはり、そうだったのだ。
彼を繋ぎ留められなかった無念に、流すだけ無駄な涙がついこみ上げてきた。泣いて悔やんだところで、形兆が犯した罪は消せないのに。
は涙を拭うと、またペンを走らせた。
「それ、私にも使って。」
その一文を読んだ形兆は、僅かに目を見開いた。
「・・・・いい加減にしろよ。」
「約束したでしょ?私に出来る事は何でも協力するって。関係ない人に使う前に、まず私に使うべきだと思う。」
続けてそう書くと、形兆は激昂したように険しい眼差しでを睨み、押し殺した声で叱責した。
「馬鹿言ってんじゃねぇ・・・!スタンドの才能が無い奴は死ぬんだぞ・・・!」
「なければね。あるかもしれないでしょ。」
「ある訳ねぇだろ!」
「どうして分かるの?見分け方は?今までに使った人達もちゃんと見分けたの?」
暫しの沈黙の後、形兆は声を絞り出すようにして呟いた。
「・・・・そんな協力・・・・、俺は求めていない・・・・・」
「・・・・・・・!?」
「出しゃばるな、お前にスタンド使いの素質なんぞあるものか・・・!
余計な事を考えてねぇで、お前はこれまで通り『人形』でいりゃあ良いんだよ・・・・!」
昼間のように、負けて退く訳にはいかない。
は歯を食い縛り、筆談帳にすかさず『誰の!?』と書きつけて、形兆の眼前に突き出した。
ハッと息を呑む形兆と一瞬目が合ったが、やがて形兆の方から先に目を逸らした。
「・・・・・決まってんだろ、お前は親父の人形だ・・・・・・」
「でもお父さんの為にやってるんじゃない。分かってるでしょ。」
がこれまでしてきた事の何もかもが一体誰の為なのか、形兆が分かっていない筈はない。
いつしかそこから目を背けるようになってしまった形兆に、もう一度思い出して欲しくて、は紙の上に自分の気持ちをありのままに綴ろうとした。
「私、何も変わってないよ。今でも形兆君が好き。あの頃のまま、私の気持ちは何も変わってない。
形兆君は?昔言ってくれたでしょ?私の事好きだって、側にいて欲しいって。形兆君だって今でもまだ」
「やめろ・・・・!」
「っ・・・・・!」
しかし形兆は、そんなの気持ちを最後まで読み終わらぬ内に、の手から筆談帳を奪い取った。
「・・・・そんな与太話をしている暇は、俺には無い・・・・」
「・・・・・・・!」
「お前は勘違いをしている。あれは作戦だった。お前をこの家に引きずり込んで、親父の人形にする為のな。」
鋭い矢のような言葉が、またの胸を貫いた。
違う、そんな筈はない。は歯を食い縛り、首を振った。
出逢った頃の色々な事が、これまで一緒に過ごしてきた長い時間の中にあった何もかもが、全部作戦だったなんて見え透いた嘘だった。
「違わねぇよ。お前は俺にとって、最初からターゲットでしかなかった。家にも学校にも、何処にも居場所の無いお前は、俺にとって実に都合が良かった。」
「・・・・・・!」
それが本当なら、何故、目的を達成した後も変わらず優しかったのか。
何故、この声が出なくなった事を気に病み、自分を責めて苦しそうにしていたのか。
自分達兄弟と同じように、他の人達と同じように、死んだら死んだでその時だと思って、何故、その矢で射抜かないのか。
「お前が偶々都合が良かっただけだ。あの時、もしもお前の母親がもう少し利口なら、お前に友達が一人でもいれば、他に逃げ場があれば、こうはなっていなかった。
もしもあれがお前じゃない他の女だったとしても、俺は同じ事をした。
そうさ、別にどうしてもお前である必要など、俺には無かったんだよ。」
それが本当なら、何故、何故。
滲んでぼやけて見えなくなった形兆を、それでも見つめながら、は首を振り続けた。
形兆が筆談帳を放り出して部屋を出て行き、また玄関の戸が開閉する音が聞こえても、ずっと。