愛願人形 23




新たな『調査』は、順調に進んでいった。
雲を掴むような話を10年掛けて解き明かした事を思えば、そう言えた。
キーワードは、強い精神力の持ち主。だが、一口にそう言っても様々ある。
例えば、成功者と呼ばれる部類に属する人間。そういった連中も、野心や欲望、探求心など、人より抜きん出て強い精神力がある筈だ。
しかし、そういった連中の居場所は大概雲の上で、そして、大勢の取り巻きに囲まれている。
誰にも知られず近付いて矢を射るのは至難の業であるし、スタンドに目覚めず死なれてしまった場合、その死は公にされ、慎重かつ入念に精査され、ほんの僅かにでも不審な点が見つかれば、徹底的な捜査が行われるだろう。 
これから始めていこうという時に、そんなリスクの高いターゲットを敢えて選ぶのは得策ではなかった。
それに、エジプトでホル・ホースから聞き出した情報の中にも、ヒントになる話があった。
スタンド使いは大抵が元々一癖も二癖もあるような人間で、特に恐ろしい攻撃力を持つスタンド使いは、どういう訳か凶悪な犯罪者が多かった、と。
ホル・ホースがあの予言者兄弟と組む前に組んでいた男も、そのようだった。
DIOの参謀・エンヤ婆の息子だったというその男は、世界中で10代の美しい少女ばかりを凌辱しては無惨に嬲り殺していた、極めて危険な凶悪犯罪者だったらしい。正に魔女の血を引く悪魔という訳だ。
故に形兆は、大勢の人間に取り囲まれている『成功者』ではなく、その逆に位置する人間に目を付けた。
誰も寄り付かないような人間、死んだとて誰も困らない、そんな呪われた魂を持つ者に。


「・・・・片桐安十郎・・・・」

モニターに映し出されているニュース記事の画像を見つめながら、形兆はそこに書かれている名前を呟いた。
片桐安十郎、1964年生まれの現在34歳、通称『アンジェロ』。
イタリア語で『天使』を意味するその通り名とは正反対の、日本犯罪史上最低の殺人鬼である。
12歳の時から殺人や強姦の罪を重ね、人生の大半を刑務所で過ごしたというこの男は、1994年3月に14歳の少年3人を強姦・殺害して逮捕され、既に死刑が確定していた。
凶悪犯罪の前歴が多数あり、更生の余地は限りなくゼロに等しいとの見解から、一審目で死刑を求刑されていたが、アンジェロの方もそれに対して控訴せず、随分と呆気なくケリがついていたようだった。
死をもって償うより他には無いと、いよいよ観念したからか?
自らの凶暴性を自分でも持て余し、苦しんでいたからか?
いや、そうは思えなかった。
写真の顔はふてぶてしい事この上なく、反省や苦悩といったようなものは何も感じられないし、実際、裁判中の態度や言動も終始酷かったようだった。
そんな奴が、自分の犯した罪を心から悔いて死刑を受け入れる訳がない。多分もっと違う理由からだろうと形兆は考えていた。
恐らくは呆れるような下らない事・・・例えば、面倒くさくなった、とか何とか。
成功者とは対極に位置する『犯罪者』に的を絞って調査を始めてから、様々な事件とその犯人を調べたが、こんなにもピンときた奴はいなかった。
他に類を見ない残忍な手口、IQ160という高い知能、それに、年端もいかない内から命を奪う行為を繰り返してきたその暗黒の人生。
多分、この男は『当たり』だ。そんな気がしてならなかった。
アンジェロは現在、東京の拘置所に収監されているようだった。
そこまで行くのは簡単だが、さて、どうやって死刑囚の独房に入り込むか。
それを考えようとしたその時、閉めていた襖が向こう側から軽く叩かれ、遠慮がちに少しだけ開けられた。
顔を覗かせたのはだった。形兆が何だよと訊くと、は畳んだ洗濯物を見せた。
形兆はひとまず作業を中断して立ち上がり、に歩み寄って行った。
差し出された洗濯物を受け取って箪笥の中に片付けていると、背後にが近付いて来る気配がして、ごくごく軽く背中を叩かれた。


「・・・何だよ?」

振り返って見たは、何か言いたい事があるような顔をしていた。それも、言い難い事が。
何か知らないが、言いたい事があるのなら言えば良い。目でそう言ってやると、はおずおずと筆談帳にペンを走らせた。


「学校、行かなくて良いの?」

その問いかけに対して、咄嗟に返事が出来なかった。
確かに、エジプトへの旅から以降、学校には行っていない。新たな調査と自分のスタンドのトレーニングで忙しくてそれどころではないからだ。
それはも分かっている筈なのに、何故こんな事を訊くのだろうか?


「あんまり長く休んでたら、留年になったりするんじゃないの?」

父を殺せるスタンド使いを生み出す為に、人を殺める事も厭わないと決めた奴が、人並みに学校を卒業して、とんとんとその先のステップへ進んで行けると思っているのだろうか?
そんな『未来』が、この虹村形兆にあると思っているのだろうか?


「まさか、このまま中退する気?」

恐々と、躊躇うようにそう書いたを、形兆は軽く睨み据えた。


「まさか。そんな訳ねぇだろ。」
「・・・・・・」
「本当だよ。中退はしねぇ。俺の性格知ってるだろお前。」

学校には、父親が身体を悪くしていて何かと手がかかるという理由で長期欠席を申し出ていて、今のところはそれで通っている。
だがこのまま休み続けていれば、の言う通り、留年や、進退を問われる状況に陥る事は確かだ。
しかしそれでも、高校中退という選択肢は形兆の頭には無かった。
元々の性格が四角四面な形兆にとって、一度始めた事を投げ出すというのは性分的に不可能だった。
辛かろうが苦しかろうが面倒くさかろうが、最後まできっちりやり遂げなければどうしても気が済まないのだ。


「今は色々と忙しくて、学校へ行く暇も惜しいんだよ。
それに、なまじ行ったところで早く進路を決めろって追い立てられて、余計面倒事が増えるだけだ。
進学にしろ就職にしろ、今は考えている暇が無ぇし、かと言って、考えなしに適当な会社に就職したり、ましてや大金払って適当に進学なんてもっての外だからな。」

そう答えた形兆を、は少しの間心配そうな顔で見つめていたが、ふとその視線をモニターに向けた。


「・・・・・・」

つけっぱなしていたモニターには、稀代の凶悪犯罪者・片桐安十郎の顔写真とその犯罪歴が映し出されている。
は不安げな表情でそれをじっと見つめ、その忌まわしき記録を目で追っていた。
見てんじゃねぇよとを追い払う事は出来なかった。下手に隠し立てされると、人は否応無しに悪い想像を掻き立ててしまうものだから。
これからやっていこうとしている事は、には何の関係も無い。
とは全く関係の無いところでなされて、終わっていくのだ。
さっきよりも一層不安の色を濃くして再び形兆を見つめてくるその瞳を、形兆は躊躇わずにまっすぐ見つめ返した。
やがてはそっと視線を逸らし、また筆談帳にペンを走らせた。


「分かった。余計な事言ってごめん。そうだよね、形兆君なら私に言われるまでもなく、ちゃんと考えてるに決まってるよね。」
「いや。」
「晩ご飯、あと30分ぐらいだから。」
「分かった。」

はぎこちない微笑みを口元だけに形作って、形兆の部屋を出て行った。
が決して安心も納得もしていない事は分かっている。
分かっているが、どうしようもなかった。
これ以外に、辿るべき道が無いのだから。


















計画を立て、着々と準備を進めていき、それを決行したのは、11月に入って間もない夜だった。
月の光がやけに鮮やかな夜だった。
片桐安十郎が収監されている拘置所の建物を目の前に、形兆は呼吸を整え、自身のスタンド、バッド・カンパニーを発動した。
拘置所の周辺は事前に下見をしてあるが、内部まで入り込むのはこれが初めて、つまりぶっつけ本番という訳である。
内部に関する情報は何も無い。だからここから先は、自分の勘とスタンドだけが頼りだった。
形兆は慎重に、かつ迅速に行動していった。
幸い、形兆のスタンド能力は、こういう事に有効な性質だった。
誰にも見えない小さな軍隊は、内部各所の厳重なロックや監視カメラをものともせずに自由自在に動き回り、鍵を開け、カメラの角度を変えるなどして監視の目を欺き、見回りの看守を誰にも気付かれないように気絶させた。
事前に潜入に関する戦術をみっちりと勉強し、訓練しておいた甲斐もあって、形兆は順調に拘置所内部を進んで行く事が出来た。
そして遂に、死刑囚達が収監されている独房のフロアまで辿り着く事が出来た。
ここまで来れば、後はもう難しくはなかった。
独房の扉の覗き窓、鉄格子の嵌められたその僅かな隙間を兵士達に覗かせれば、目的の男はすぐに見つけられた。
形兆は『当たり』の扉の前に立ち、ここに辿り着くまでにしてきたのと同様に、その扉の鍵を開けた。
忌まわしき凶悪殺人鬼、『アンジェロ』に会う為に。


「・・・・・」

形兆は音を立てないように気配を殺して扉を開け、狭い独房の中に足を踏み入れた。
壁際に布団が敷いてあって、アンジェロはそこに寝転がっていた。
だが、眠ってはいない。奴の目はぼんやりと天井を眺めていた。何か熱心に考え込んでいるのか、それとも只々ボーッとしているだけなのか、形兆の存在にはまるで気付いていない。
形兆はアンジェロの方へ静かに歩み寄っていき、その枕元に立ってやった。すると流石に気付いたようで、アンジェロは驚いて飛び起きた。


「うっ、うわぁっ・・・・!テ、テメェ、いつからいるんだ!?どこから入った!?」

看守を気絶させてあるとはいえ、騒がれるのは厄介だった。
早い内にやってしまわなければならない。
形兆は沈黙を保ったまま、矢を弓に番えた。


「なっ・・・・・!」

その動作で、これから自分が何をされるか悟ったのだろう、アンジェロは顔を凍りつかせた。
独房の中は真っ暗だったが、窓から入る鮮やかな月光が、それをはっきりと照らして見せてくれた。


「なっ、何しやがる・・・・・!?」

弓を引き絞る形兆を見て、アンジェロは滑稽な事を口走った。
自分は散々これよりももっと残忍な手口で何人もの人間を殺してきたくせに、いざ自分が獲物の立場になると、途端に怯えて顔を引き攣らせて『何しやがる』だなんて。
思わず浮かんだ笑みもそのままに、形兆は矢じりをアンジェロの顔に向けた。
躊躇いも罪悪感も、一切無かった。
形兆は些かも心を揺らす事なく、アンジェロに向かって矢を放った。
至近距離から放った矢は光のような速さでアンジェロの口中を貫き、まるで標本の虫の如く、後ろの壁に刺し留めた。
全てが一瞬の事で、アンジェロは悲鳴を上げる暇さえなく絶命した。
微かな痙攣を小刻みに繰り返し、右目から涙を流しているが、それは口内を射抜かれた身体的ショックによる生理的な反応で、命はひとまずもう無かった。
そう、ひとまずは。
流れる雲が月を覆い隠し、一時訪れた完全な闇の中、形兆はアンジェロの動向をじっと見守った。


「・・・・ぁ・・・・、あがが・・・・・!」

やがて、雲が通り過ぎて再び月が顔を出すと同時に、白目を剥いていたアンジェロの目に黒目が戻り、矢に射抜かれたままの口から不明瞭な声が洩れ始めた。
やはり、この男は『当たり』だった。


「・・・生きてたな。おめでとう。」

形兆はここへ来て初めて口を開き、アンジェロにまず闇の祝福を与えた。


「お前には素質がある。素質が無ければ死んでいた。」
「お・・・・、おぁ、がぁ・・・・・!」
「お前は今、ある才能を身に着けたんだ。」

それから、前髪の生え際が後退しているアンジェロの頭を左手でしっかりと押さえて、右手で矢を掴んだ。


「いや、お前の精神から引き出されたと言った方が良い。」
「が・・・・、ぁがが・・・・・」

アンジェロの頭を軽く貫通し、後ろの壁に深々と突き刺さっている矢は、そう簡単には抜けてくれず、ギシギシと揺するようにして引き抜かなければならなかった。
その度にアンジェロは涎を垂らし、両の目から涙を流して痛そうに呻いたが、そんな事は形兆の知った事ではなかった。
こいつは14歳の男子中学生の肛門をその汚らわしい一物でぶち抜き、殺した上に局部を切り取って死体の傍の柱に釘で打ち付けるという事までしたのだ。その残忍無類な凶行に比べれば、この程度の事は指先に刺さった小さな棘を引き抜くようなものだった。


「凶悪な犯罪者程持っている。それはかつて『DIO』という男が『スタンド』と呼んでいた才能だ・・・・!」

形兆はお構いなしに矢をギシギシと揺すり、力に任せて思いきり引き抜いた。


「がぁぁぁっ・・・・・!」

矢と共に引きずり出されるようにして発現したのは、紛れもなく、アンジェロのスタンドだった。
人の形をした水の塊に見えるそれは、恐らく水に関する能力を持っているのだろうと思われた。


「ガッ・・・!ゲヘッ、ゲヘッ・・・・!クワァ〜ッ、カハッ・・・・!」
「おい。お前のスタンドの力を見せてみろ。」

苦痛は無い筈なのに大袈裟な咳払いを繰り返しているアンジェロを静かにさせる目的もあって、形兆は早速にもそう命じた。


「あ・・・・・!?ス、スタンドの力・・・・・!?」
「そうだ。お前に纏わりついている、そのスタンドの力だ。」

指を指してやると、アンジェロはようやく、自分の首に巻き付いているスタンドの存在に気付いた。


「うっ、うわぁっ!な、何だこれは・・・・・!?」

アンジェロが驚いたその時、すぐ側の洗面台の蛇口から水が1滴、ポチョン、と滴り落ちた。
その瞬間、アンジェロのスタンドはその水滴を目掛けて流れるように動き、そして消えた。


「うっ・・・・・!な・・・・、何だ・・・・?この、奇妙な感覚は・・・・・?」

アンジェロの様子が途端に変わった。
ビクリと肩を震わせたかと思うと、今度は戸惑うように息を潜めてじっとしている。
その様子は、何かを感じ取ってそれに神経を向けているように見えた。


「そうだな、まずは動かしてみろ。」

そう言ってやると、アンジェロはまだ怯えているような目だけを一瞬ギョロリと形兆に向けてから、また恐々と身体を硬直させた。
すると、洗面台の中で何かが動いた。


「こ・・・、こうか・・・・?」

それは、水だった。
洗面台についている水滴が集まって小さな水溜りとなり、ひとりでにピチャンと跳ねて、洗面台の上部にある小さな窓へと飛んだ。
そして、そこに嵌っている脱走防止の金網を濡らしながら、いとも容易くそれをすり抜けて向こう側に出た。つまり、脱獄を果たしたのである。成功とは言わないまでも。


「・・・・ヒ、ヒヒヒ・・・・、ヒヒヒヒ・・・・!」

自分が何をやってのけたのか分かったのだろう。
アンジェロは肩を小刻みに震わせながら、声を潜めて禍々しく笑った。


「・・・なるほど。お前の能力は、水に同化出来るのだな。」
「・・・・こりゃあ良い・・・・・」

身体ごと形兆の方を向いて笑うアンジェロは、もう怯えてはいなかった。
自分が得たものに気付き、喜んでいるのだ。
邪悪な笑みに歪んでいるその顔はやはり、己の罪を悔い、死をもって償おうとしている者の顔ではなかった。


「アンタ誰だ?『スタンド』といったか、こりゃ一体何だ?何故俺にこんな力を与えた?」

アンジェロはリラックスした様子で布団の上に胡坐をかき、形兆に淡々と質問した。当然ながらまだ何も分かってはいないだろうが、この状況自体はもう既に受け入れて理解しているようだった。
さっきまでの自分とは全く違う自分、『スタンド使い』になったのだと。
ヘドが出るようなクソ虫以下の奴だが、たった一つ、IQが高い事だけは好ましく思えた。話が早くて助かるからだ。


「お前に名乗る名は無い。スタンドというのは、自分の精神エネルギーが具現化した力だ。お前には、その力を使ってある事をやって貰う。」
「何だ?俺に出来る事っつったら、レイプや盗みや人殺し位のもんだが?ヘヘッ。」
「そう、その『殺し』だ。」

『殺し』という言葉を聞いた途端、また滑稽な事に、アンジェロはそれまでの人を食ったような笑みを消して真顔になった。
まさか今更その行為に恐れを抱く事はないだろうが、一応悪い事だという認識ぐらいはあるのだろうか?実に滑稽だった。


「・・・・こんなとこへ平然と忍び込んで来られる程の奴なら、そんぐれぇ、わざわざ人に頼まなくても楽勝じゃねーのか?」
「スタンド能力は千差万別だ。俺の能力とお前の能力は、違う。」
「フン・・・・、誰を殺れってんだ?」
「今はまだそれを教える時ではない。それにこのままではどのみち、教えたところで無駄になる。お前は死刑になるんだからな。さて、刑が執行されるのは1年後か、1ヶ月後か、それとも明日か?どうだろうな?」

発破をかけてやると、アンジェロは口惜しげに小さく呻いた。
手間暇を掛けてこんな事をしている以上、本当に死んで貰っては勿論困る。
折角身に着けたそのスタンド能力を何としても使いこなせるようになり、かつ、こちらの役に立って貰わなければならないのだ。


「まずはお前のその能力を使いこなせるようになる事だ。そしてここを出て来い。話はそれからだ。
言っておくが、窓の外へスタンドを出せた位で喜んでいるようでは話にならんぞ。
スタンドにはそれぞれ射程距離があり、それを越えるとスタンドが消えて働かなくなる。本体のお前自身が外に出なければ、幾らスタンドだけを外に出したところで、脱獄成功とはならん。」

アンジェロはまた口惜しげに呻いたが、すぐに『分かった』と答えた。


「良いだろう、やってやるよ。良いものをくれた礼に、アンタの頼みを聞いてやろう。
まずはアンタの言う通り、ここを抜け出すとしてだ、それから俺はどうすりゃ良い?どうやってアンタとコンタクトを取る?」

こんな凶悪殺人鬼に、まさか自宅など教えられる訳がない。
いずれこの男の能力に可能性が見えてきたら父を殺させるつもりではあるが、その時は父の方を何処かへ連れ出す気でいる。億泰と、何よりを、こんな危険極まりない男の目に触れさせる訳には断じていかないのだから。
かと言って、脱獄後ずっと東京に潜伏していろというのもまずかった。
脱獄が知れた瞬間、当然すぐさま指名手配され、大ニュースになり、厳戒態勢を布かれて、鼠1匹抜け出る事も出来ないような包囲網を張り巡らされる事だろう。
そうなる前に、こいつには何処か遠くへ行っておいて貰う必要があった。


「お前の故郷、M県の杜王町・・・・、だそうだな?」
「ああ。何で知ってんだ?」
「今時はインターネットで検索すれば、何だって出てくる。」
「フン、インターネットなぁ。」
「ひとまずはその田舎町に帰ってろ。身を隠す場所ぐらいはあるだろう?」

形兆は学ランのポケットから茶封筒を取り出した。
何も書いていない、素っ気無いその封筒の中には、10万円の現金を入れてある。
それをポイと放ってやると、アンジェロは早速手に取って中を覗き、ニヤニヤと機嫌の良さそうな笑みを浮かべた。


「勿論。クソ田舎だからな。シーズンオフの今は、金持ちの別荘なんか入りたい放題だ。何ならホテトルだって呼べるぜ?ヘヘヘッ。」
「1ヶ月やる。1ヶ月後の今日、杜王町で会おう。夜11時、国見峠霊園のすぐ側にある空き家で。」

東北地方の太平洋沿岸部に位置するM県S市杜王町。
その町については、既に地図を頭に叩き込み、実際に出向いて町の中を一通り見て回ってもいた。
駅から離れ、民家もまばらな場所にある国見峠霊園は、脱獄囚と落ち合うにはうってつけの場所だった。
只でさえ人通りが少なく、最終のバスもとっくに行ってしまった時間帯ならば車も通り掛からない。
夏ならば下らない馬鹿共が肝試しに来てキャーキャー騒ぐ事も考えられるが、幾ら何でもクソ寒い冬の夜にそれをしようという奴はまずいないだろうというのが、形兆の見解だった。
それに、杜王町にはごく僅かばかりではあるが、縁があった。
金庫の中の現金と母親の形見の宝石以外、財産と呼べるものは全て失ってしまった虹村家ではあるが、父・虹村万作の個人名義で1軒だけ家を所有しているのだ。これまでそこに住んだ事も、訪れた事さえ一度も無かったが。
その杜王町がアンジェロの生まれ故郷だと知った時に、形兆は奇妙なシンパシーを感じていたのだった。


「1ヶ月後・・・・、て事は12月3日か。夜11時、国見峠霊園のすぐ側の空き家だな?分かった。」
「期待しているぞ。」

形兆はアンジェロに背を向け、独房を出た。
今すぐ連れ出せとついて来られる事も想定していたが、アンジェロはそれをしなかった。
余程自分に自信があるのだろうか?発現したばかりのあの能力を使いこなせるようになり、1ヶ月以内に必ず自力で脱獄出来ると。
それとも、向こうもまだ一切何も信じておらず、ひとまずは様子見のつもりなのか。
何にせよ、今日直ちに連れ出すつもりは無かったので、余計な面倒を掛けずにいてくれた事は幸いだった。
独房の扉を閉め、元通りに鍵をかけると、形兆は廊下に昏倒している看守の側を悠々と通り過ぎて行った。


その翌朝から、形兆はいつにも増してニュースを入念にチェックするようになった。
しかし、東京の拘置所内部の死刑囚の独房に何者かが侵入したというニュースは出なかった。
気絶した看守や、ほんの短時間不調を来たした監視カメラなど、侵入の痕跡はどうしても幾ばくか残ってしまっているのだが、結果として何も起きていないのに下手にそういった事を公にすると、却って面倒な事態に陥るという判断でも下されたのだろう。
ともかく、これといって何事も起きない、いつも通りの日々が何日か過ぎていった。
やれるだけの事はやったが、必ずうまくいくという保証は勿論無かった。
結局はあの能力を使いこなす事が出来ないかもしれない、使えるようになっても大した能力ではないかもしれない、脱獄が失敗するかもしれない、そもそも奴は最初から何一つ言う事を聞く気が無かったかもしれない、そういう懸念は幾つもあった。
後はもう神のみぞ、いや、悪魔のみぞ知る、というところだろうか。
形兆は運を天に任せるような気持ちで、ひとまずはアンジェロの事を頭の中から切り離し、いつもの日常を淡々と過ごしていった。
その結果、遂に事が起きたのは、アンジェロに遭った日から半月程が経ったある日だった。
朝起きてみると、稀代の殺人鬼、『アンジェロ』こと片桐安十郎の絞首刑が執行されたが、何故か失敗し、更にその直後に脱獄したというニュースで、TVでもネット上でももちきりになっていた。

『アンジェロ死刑囚 脱獄 密室状態の独房より逃走』

『絞首刑失敗してた』

そんな物騒な見出しで賑わっているニュースのページを見つめながら、形兆はあの夜遭ったアンジェロの顔を思い浮かべた。
犯した罪を悔いるどころか、それを『罪』とも思っていない、呪われた魂を持つ男。
この先、助けて貰った恩を感じて大人しく言う事を聞き続けるだろうと甘く見積もるのは、やめておいた方が良さそうだ。
だがひとまず今の段階では、アンジェロは指示通りに行動する筈だった。何となく、勘のようなものだが、その確信が形兆にはあった。
奴は来る。
確実に杜王町に来る、と。


















1998年も残りあと僅かになり、今年もまた、形兆の誕生日がやってきた。
この日、は億泰と共に、形兆の誕生会の準備に奔走していた。
とは言っても、現在期末テストの真っ只中である億泰をあまりこき使う訳にはいかないので、買い出しに付き合って貰ってから以降の事は、全てが一人で担っていた。
部屋を片付け、形兆の好物を色々と作り、ケーキや飲み物の用意もして、一通り終わった時にはもう夕方になっていた。
最近はすっかり日が暮れるのが早くなって、外はもう夜のように暗いが、それが却って部屋の中の温かさを強調しているかのようで、ここにいられる事にしみじみとした安心感を覚えた。
形兆はいつもの如く自室でずっと調べ物をしていて、何か手伝おうかと結構いつまでも居間や台所をウロウロしに来ていた億泰も、流石にもう諦めたらしく、今は大人しく自室でテスト勉強をしている筈だった。
賑やかな雰囲気の、静まり返った部屋に一人でいると、幸せなような、寂しいような、何だか不思議な気持ちになった。
去年の誕生日はこうだったとか、一昨年の誕生日はああだったとか、色々な事が次々と頭の中に浮かんできては過ぎてゆき、その不思議な気持ちが一層強くなっていった。
思い出がいつの間にかこんなにも増えていた事が、自分でも驚きだった。
もうそんなにも長い時間を形兆と億泰と共に過ごしてきたのだという実感が不意に湧いて、少し戸惑ってしまう位だった。
形兆の誕生日を祝うのは、これが4回目になるのだろうか?それとも、5回目とカウントするべきだろうか?
出逢って初めての形兆の誕生日の事を思い出して、は知らず知らずの内に顔を曇らせた。
初めて形兆と結ばれた、あの雨の夜。恐ろしい目に遭い、ズタズタになった心を身体ごと形兆に抱きしめられたあの時。今から思えば、あの日を境に人生が一変した気がする。
別に後悔をしている訳ではない。ただ、今後自分がどうなっていくのかが、本当に全く、欠片程も分からなくて、途方に暮れていた。
声を失くし、虹村家の人々以外との関わりを一切断ち、この家の中で『家族』として『人形』として人知れず生きていく、そんな人生がこの先も永遠に続いていくのだと、神様か誰かに宣告されたような気がして。
かと言って、あの時形兆の手を取っていなければ、それこそ今頃どうなっていた事だろう。
もうずっと連絡さえしていないが、母は今頃どうしているだろうか?
まだあの男と暮らしているだろうか?
それとも、もうとっくに別れて、今頃はまた別の男と付き合っているだろうか?
母の顔を思い出しかけたその時、不意に居間の襖が開いて、億泰が騒々しく入って来た。


「んぬあぁぁぁぁ〜!もーダメだ〜!もー勉強ムリ!全然ムリ!もー頭働かねぇ!腹減って死にそう〜!」

2時間かそこらのテスト勉強で瀕死の状態に陥った億泰が、の憂いを一瞬にして吹き飛ばした。
は苦笑いしながら、筆談帳に『じゃあちょっと早いけど、そろそろ始める?』と書いて見せた。


「おうっ!やろうぜやろうぜぇ!俺兄貴呼んでくらぁ!」

億泰はパァッと顔を輝かせて、また騒々しく居間を出て行った。
あのあっけらかんとした明るさに、これまで何度救われてきただろう。
そう、たとえこの先ずっと『人形』として生きていかねばならないとしても、この家には、愛があった。
は億泰の事が心から好きだったし、今でもまだ、形兆を愛していた。
だから、彼等と離れる事などとても考えられなかった。たとえ何があろうとも。
は努めて頭を切り替え、離れにいる彼等の父親を迎えに行った。
彼を連れて居間に戻って来ると、虹村兄弟が既に食卓に着いていて、億泰がいそいそとグラスにジュースを注いでいるところだった。
人数分のジュースを注ぎ終わると、億泰はグラスを高く掲げ持った。


「んじゃ、始めるぜぇ!第18回虹村形兆生誕祭!!おめでと〜っっ!!」

億泰の取った乾杯の音頭に、形兆は『大袈裟なんだよ』と顔を顰め、は笑って、それぞれグラスを触れ合わせた。
彼等の父親は、相変わらず食べ物以外には無関心だったが、服を着て大人しく食卓に着いて、スプーンやフォークを使って食べられるようになっただけ、飛躍的な大進歩だと言えた。
去年の形兆の誕生会の時には、まだ離れに閉じ込められていて、裸のまま、差し入れられた食事を見境なく手掴みで貪り食っていたのだから。


「兄貴も遂に18かぁ〜。デカくなったよなぁ〜。」
「フン、誰に向かって口利いてやがる。何様だテメェ。」
「冗談だよぉ冗談。ちょっと言ってみたかっただけだよぉ、へへへっ。でもよぉ、遂に18って事は、いよいよ車の免許取れんじゃん!」
「そうだな。それも考えねぇとな。」
「免許取って車買ってさぁ。良いなぁ兄貴ィ〜!俺も早く18になりてぇよ〜!なぁなぁ、車何買うの!?俺の意見も聞いてくれる気ある!?」
「知るか。そん時になってみねぇと分からねぇよ。」

目を輝かせている億泰とは対照的に、形兆は至ってクールで素っ気無かった。
彼が素っ気無いのはいつもの事だが、それでも、バイクの免許を取る時にはもう少し乗り気になって、億泰と色々話し込みながら盛り上がっていたのだ。その時と比べると、今回は何だか随分と冷めているように思えた。関心が無いという事はない筈なのだが。
少しの違和感を覚えながらも、は食べるのを一段落させて筆談帳に会話を書き込み、皆に見えるように見せた。


「え?それはそうと億泰君、テスト勉強はかどってる?はかどってるわけねーじゃんー!もー勘弁してくれよぉ〜!
え、なになに?・・・・これで志望校がいよいよ決定するんでしょ?あぁぁぁ〜〜もう聞きたくねーよぉー!そんな事考えたくねーよぉー!」

そうはいかない。形兆のように上位校へ行けとは言えないが、どこかの高校には何が何でも入って貰わなければ。
は思わず母親のような気持ちになりながら、形兆も何か言うだろうと彼に目を向けた。
しかし形兆は何も言わず、厳しく引き締まった表情で淡々と食事を進めるばかりだった。


「・・・・・?」

どうしたの?
そう訊こうとした瞬間、形兆は箸を置いてジュースを飲み干し、ご馳走さんと呟いて、そして立ち上がった。
誕生会の主役が早々に食事を終えて席を立った事に戸惑って、億泰がおずおずと形兆を見上げた。


「な、何だよ兄貴ィ。もっとゆっくり食やぁ良いじゃねーかよぉ。折角の誕生会なんだからさぁ。」
「すまねぇが、これから出掛けてくる。」
「ちょ・・・、えぇっ!?何だよそれぇ!そんなの聞いてねーよぉー!」

億泰も慌てて箸を置いて立ち上がり、まるで抗議するように形兆を引き止めた。


「お楽しみのプレゼントタイムだってまだこれからだし、ケーキもあるんだぜぇ!?主役がいねぇでどーすんだよぉ!?誰がろうそくフーするんだよぉ!?」
「用事があるんだよ。」
「何の用だよぉ!?そんなの今度にしろよぉ!俺達折角用意したのに・・」

億泰の抗議の声は、形兆の一睨みで敢え無くフェードアウトしていった。


「帰りはかなり遅くなる。明日の朝方になるかも知れねぇ。二人共、俺の事は気にしねぇで戸締りして寝てろ。分かったな?」
「あ、明日の朝って・・・、どこ行くんだよ兄貴ィ!?」
「心配すんな、必ず帰る。」

形兆は答えになっていない答えを返して、居間を出て行った。
このまま放っておいてはいけないような気がして、はすぐさまその後を追いかけた。
そして、玄関で愛用の革のライダースジャケットを着込んでいる形兆の腕に縋りつくようにして、彼を振り向かせた。


「何だよ?」

どこへ行くの?
筆談帳にそう書いて見せると、形兆はの目をまっすぐに見た。


「・・・・今はまだ言えねぇ。少し遠い所とだけ、答えておく。」

何しに行くの?新しいスタンド使いを探す調査?
そう質問を重ねると、形兆は小さく、ああ、と答えた。
父親を殺す事に失敗してしまったあの日以来、形兆は新しい『調査』に乗り出している。
学校は欠席したままで、ずっと自室で何かを調べていたり、かと思うと突然バイクに乗って何処かへ出掛けて行き、2〜3日帰らない事もあった。
それに、つい先日にも、夜中に出掛けて行った気配があった。
どんなに足音を忍ばせ、静かにしていても、玄関横すぐの部屋に寝ているの耳には、廊下の軋む音や僅かな戸の開閉音がちゃんと聞こえていた。
バイクも、いつもならすぐにエンジンをかけて乗って行くのに、その時はどこかある程度の所まで押して行ったらしく、エンジンの音が聞こえなかった。

そう、嘘は吐いていない。
形兆は約束通り、嘘は吐かない。
だが、何も話してくれないのだ。
『調査』とは一体何をしているのか具体的に教えて欲しい、いや、そもそも行かないで欲しいと言ったら、形兆は聞き入れてくれるだろうか?
そう考えて形兆の目を見つめてみたが、何の迷いも無さそうな意志の強いその眼差しは、無駄な事を期待するなと言っているかのようだった。


「・・・・・・」

しかし、期待せずにいる事など、どうして出来ようか。
ジャケットにほぼ隠れて見え難いが、形兆の首には、出逢って初めての誕生日にがプレゼントしたマフラーが巻かれてあった。
慣れない手編みで不器用に編んだそれを、形兆は未だに冬になると身に着けてくれている。
いつもは冷たく背中を向けるか、一時の欲望をぶつけてくるだけなのに、頑なに約束を守り続け、不意に昔と変わらない眼差しや微笑みを向けてくれる。
そんな彼を嫌いになる事など、どうして出来ようか。


「・・・・・」

気をつけて。
そう書くと、形兆はまた『ああ』と呟いて、に背を向けて出て行った。




















杜王町という所は、長閑で小洒落た感じの、良さそうな環境の町だった。
町全体が何となく西欧風で、同じ田舎町でも、今住んでいる所と随分雰囲気が違う。
駅前はそこそこ拓けていて、デパートやカフェ、商店街などもあって人通りも多いが、少し離れると、ゆったりとした一軒家の建ち並ぶ閑静な住宅街になっていき、更に離れると、民家もまばらな田園地帯が広がっている。
同じ田園地帯でも、町の東側に当たる海沿いは、立派な別荘が連なり豪華なホテルがあるリゾート地になっているが、西側の方はこれといって何も無く、緩やかな丘陵がただ何処までも続いているばかりだった。
国見峠霊園は、そんな中にあった。
天気の良い昼間ならば、何ならピクニックでも出来そうなのんびりとした田園風景だが、小雨のそぼ降る深夜には、正しく死者の国のような、陰鬱とした気味の悪い場所でしかなかった。
もしも億泰を連れて来ていたら、きっとビビリ上がってヒイヒイ泣き言を垂れていた事だろう。ついそんな事を考えてフンと鼻で笑ってから、形兆はバイクを降りてヘルメットを取った。
霊園のすぐ側にある、煙突のついた赤い屋根の家。家屋のデザイン自体はまるでドールハウスのような可愛らしさがあるのだが、もう長らく空き家なのだろう、あちこちに傷みが見受けられる。
薄ぼんやりとした外灯に不気味に照らし出されているその家を一度眺め上げてから、形兆は玄関のドアノブに手を掛けた。
鍵は開いていた。待ち合わせの相手がもう来ているという証拠だ。
そう、今この家の中には、脱獄してきた凶悪殺人鬼がいる。
だが、形兆に恐れは無かった。形兆は躊躇いなくドアを開け、家の中に入った。


「よぉ。」

アンジェロは、やはりそこにいた。
堂々と落ち着き払った様子で埃の積もった床に立て膝で座り、ウイスキーをボトルから直に呷って、それを形兆の方へ突き出した。


「どうだい?アンタも。」

無視していると、アンジェロは薄く笑ってもう一口酒を飲んだ。


「こっちの冬はやっぱ寒ぃわ。もう長ぇ事こっちには帰ってなかったから、久しぶりに帰って来ると寒さが堪えるぜ。酒でも飲まなきゃ凍え死んじまいそうだ。」
「フン、凍える位で死にはしないだろう。絞首刑を生き延びた奴が。」

アンジェロはまるでそれを誉め言葉と受け取ったかのように、禍々しくも嬉しそうな笑みをニィッと浮かべた。
この間着ていた鼠色の囚人服はもう着ておらず、普通の服を着てスニーカーを履き、ちゃんとジャンパーまで着込んでいた。


「お陰で快適な旅だったぜ。新品の服は気分が良い。飯も美味い。やっぱシャバは最高だな。
あの日よぉ、朝っぱらから連れ出されて、これが俺の人生最期の飯だってステーキとケーキが出されたんだけど、不味くて食えたもんじゃなかったぜ。肉は焼き過ぎで固い上にちょっと冷めてやがるし、ケーキの生クリームは甘ったるすぎて重てぇしよぉ。
そんなもんが人生最期の飯だなんて、冗談じゃねぇよな。こっち帰って来てから、口直しに駅前のレストランで食い直したよ。やっぱ肉はレアに限る。皿一面が血の海になるようなレアがな。だろ?」
「好き好きだな。」

この男がどのようにしてこの杜王町まで来たのか、今までどう過ごしていたのか、詳しく聞く気は別に無かった。
確かめなければならない事は只一つ、この男のスタンド能力だった。


「それで?スタンドは使いこなせるようになったのか?」
「まぁ、何とかな。」
「ほう。で、どんな能力だ?」

冷たい雫が、不意に形兆の額にポツリと落ちてきた。雨漏りの水だ。
それが額や頬を伝い落ち、上唇にまで流れ着いた瞬間だった。


「こんな能力だよぉぉーッッ!!」

アンジェロは突然、狂気じみた眼を見開いて立ち上がった。


「今見せてやるよ!尤も、分かった時にはテメェはもう死んでるけどなぁーッッ!」
「ぬうっ・・・・!」

阻む事は出来なかった。
アンジェロのスタンドの動きの滑らかさは正しく水の流れそのもので、それはいとも容易く形兆の唇の間に滑り込んできた。


「殺れ!!【アクア・ネックレス】!!」

口の中に潜ったそれが、喉の奥へと滑り下りて行こうとするのが分かった。
となれば、奴が行き着く先は。そしてそこで奴は何をするつもりか。形兆は全てを一瞬の内に悟った。


「・・・・フン」

形兆はアンジェロに向かって不敵な笑みを投げかけた。


「バッド・カンパニーッ!」

形兆の精神力が具現化した小さな軍隊は、形兆の細胞、形兆の命そのものでもあった。
それは外に出て戦う事しか出来ないという訳ではない。『内部』に侵入してきた敵と戦う事も、勿論可能だった。


「ぐわぁぁぁっ!!!」

アンジェロが悲鳴を上げた瞬間、形兆の身にも幾ばくかのダメージが襲ってきた。
小さな兵士を更にもっともっと小さくイメージし、それを身体の外側ではなく内側、喉の中に発現させてアンジェロのスタンドを迎え撃たせ、自身の体内には深刻な被害が及ばない程度に、火炎放射器の炎で炙ってやったのである。
形兆の方は一瞬催した嘔吐感と口の中を少々火傷したという程度のダメージで済んだが、アンジェロの方は苦悶の表情を浮かべて埃だらけの床にのたうち回り、それでも堪らずといった様子で外に転がり出て行った。
それから毟り取るように服を脱いで、天を仰いでしとしとと勢いの弱い雨を乞い、遂には地べたの水溜りの上に転がり回って暫くもがき苦しんでから、ようやく峠を越したように少し落ち着きを取り戻した。
外灯がぼんやりと照らし出しているアンジェロの半裸の身体には、重傷ではないが暫くは痛みそうな真っ赤な水膨れが無数に浮かび上がっていた。


「心配するな、加減はしてある。大した怪我じゃない。但し次は無いぞ。次は確実に殺す。」

形兆が歩み寄って行くと、アンジェロは地べたに尻を着いたまま、怯えたように後退った。


「ぐぅぅっ・・・・!な、何だ、アンタのスタンド能力は、一体・・・・!?」

こいつにそれを教えて、得になる事は何も無い。それどころか、要らぬリスクを負うだけだった。
只の狂人ではない、知能はめっぽう高い男なのだ。余計な情報を与えては、いずれ弱みでも握られかねない。
故に形兆は、自分に関する情報を極力この男に明かさずにおくつもりだった。スタンド能力も、自分の本名も、年齢も、住まいも、何もかも。


「お前の能力は、水に同化出来る。そして人の体内に入り、人を内部から食い破って殺す、・・・といったところのようだな。」
「ああ、そうだ・・・・。どうやらアンタには通じねぇようだがな・・・・。」

アンジェロは火傷の痛みに顔を顰めながらも、ヘラヘラ笑って少しだけ姿勢を正した。
その首の周りには、完全蒸発を辛うじて免れたスタンドが巻き付いていて、その全身にびっしりとついている目が全て、媚びるようにニヤニヤと形兆を見ていた。


「俺のスタンド能力は『水』。液体は、壊す事も縛る事も出来ねぇ。
コイツを首にクルリと巻き付けて挑んでやったのよ。ウォーターベッドってあるだろ?俺は実際に使った事はねぇけどよ。アレみたいなもんだよ。沈み込まず、かかる圧力が一点に集中せず、うまぁ〜く分散させてラク〜にしてくれる。
コイツのお陰で、首縊りの縄も、肩凝り改善用の磁気ネックレスみたいに心地良かったぜ。だから『アクア・ネックレス』と名付けたんだ。なかなか良い名前だろう?」
「フン、なるほど。」
「殺すだけじゃねぇ、人を操る事だって出来るんだぜ、へへへッ。しかも結構遠くまで操れる。
脱獄もその手を使ったのよ。看守の体内に入り込んで、操って、自ら鍵を開けさせてやった。実に簡単だったぜ、フヘヘッ。
いや全く、こいつは便利な能力だよ。こいつさえあれば何でもやりたい放題だ。わざわざ強盗しなくても、服も靴も財布も車も向こうから差し出させる事が出来るし、ツンと澄ましてお高く止まってやがる美人に自分から股開かせて、俺のチンコを咥え込まさせてやる事も出来る。
いや全く、アンタのお陰だよ。お陰でもうどうでも良くなってた人生が、楽しいものになってきた。」
「その礼が、さっきの不意打ちという訳か。」

ジリ、と一歩前に出てやると、アンジェロはまた怯んだように笑みを引き攣らせて後退った。


「そ、そんな怒んなよ。ちょっとした力試しみてぇなもんじゃねぇか。もうやらねぇよ。アンタには通じねぇって事が分かったからな。死刑になるところを折角助かって、思いがけず人生楽しめるようになったんだ。殺されたかねぇよ。」

アンジェロは自分が今までやってきた事を棚に上げて、ぬけぬけとそうほざいた。
奴の言う事を100%信用する事は勿論出来ないが、しかし、この先再び仕掛けてくる事は恐らく無いだろうという気はした。
もしそれが出来るのなら、さっきの一撃で簡単に退きはしない。幾ら何でももう少し足掻いた筈だ。アクア・ネックレスは恐らく、パワー自体は強くないのだろう。少なくとも、外側からの攻撃で殺傷出来る程の力は無い。
尤も、仮にパワーが強かったとしても、残念ながらアンジェロのスタンドは『不合格』だった。


「それより、そろそろ本題に入ろうじゃねぇか。アンタは俺に、殺しをやって欲しいと言ったな?その件について話を聞こうじゃねぇか。」
「それはもういい。」

形兆がそう答えると、アンジェロは当然ながら驚きを露わにした。


「もういいって、そりゃどういう事だ!?」
「お前のスタンドでは出来ない事が分かったからだ。」
「なっ、何だと!?」

アンジェロは憤慨したように立ち上がり、形兆に詰め寄って来た。


「俺のスタンドで殺せない奴はいねぇ!あ、いや、勿論アンタは別だが、だがアンタは特例じゃねぇか!俺やアンタみてぇな能力を持つ者はまず他にはいねぇ!そうだろ!?それ以外の奴なら、俺に殺せねぇって事は・・」
「それがそうでもない。」
「何ィッ!?ほ、他にもこんな力を持っている奴がいるってのか・・・・!?
そ、そういえばあの矢・・・・、独房で俺を射抜いたあの矢、あれは一体何だったんだ!?」
「あの矢は、スタンド能力を引き出す事の出来る矢だ。但し、素質のある者に限っての話だがな。」
「そういやアンタあの時、素質が無ければ死んでたと言ったな・・・・。」
「ああそうだ。」

アンジェロのスタンドでは、父は殺せない。
これとは比べ物にならない程強いパワーを持つバッド・カンパニーやザ・ハンドでほぼ消滅させても、父は再生を果たしたのだ。
体内から内臓を食い破る程度の事しか出来ないスタンドでは、試させるだけ時間の無駄というものだった。


「俺はスタンド能力を持つ者、『スタンド使い』を探している。
但し前にも言った通り、その能力は人によって違う。残念ながら、お前の能力は俺の求めているものではなかった。」
「俺は用無しって事か・・・・?まさかアンタ、俺を消す気か・・・・!?」

警戒して身構えるアンジェロに、形兆はポケットから取り出した黒い携帯電話を差し出した。
プリペイド式の携帯電話。これを選んだのは、この男が逃げた時やいずれ繋がりを断つ時に、足がつかず使い捨て出来るという理由からだった。


「な、何だこれは?」
「携帯電話だ。と言っても、調子に乗って好き放題に使うなよ。これは今後の俺との連絡用ツールだ。」
「こ、今後・・・・・?」
「殺しの依頼はキャンセルだが、お前にはまた別に、ある仕事をして貰いたい。」
「何だ・・・・・?」
「ひとまず、暫くの間はこの町で良い。このままこの杜王町に留まって、スタンド能力のありそうな奴を探して欲しい。
可能性のありそうな奴を見つけたら、そいつの事を調べて俺に連絡しろ。この電話に1件だけ番号を登録してある、その番号だ。」

本来の目的から考えれば『不合格』でも、手駒としては使える。
折角手間暇をかけ、リスクを冒して作り出した『アンジェロ』というスタンド使いを、何にも利用しない内から『処分』してしまうのは、流石に勿体無い。
形兆は電話機を操作して、登録してある番号をアンジェロに見せてやった。


「それさえしてくれれば、後は好きにしろ。お前のその能力で、好きに人生を楽しめば良い。」

アンジェロは、『XXX』という名で登録してあるその番号を、食い入るようにじっと見つめながら呟いた。


「・・・・スタンド能力のありそうな奴ってのは、どんな感じの奴なんだ?アンタあの時、凶悪な犯罪者程持っていると言ったがよ、自分で言うのも何だが、俺以上の凶悪犯罪者はそうはいねぇぜ?」
「勿論だ。お前みたいな呪われた魂の持ち主がそうそういて堪るか。
別に犯罪者でなくても構わん。欲望やコンプレックス、嫉妬でも良い、とにかく精神力の強い奴だ。」
「フン・・・・、精神力の強い奴、か・・・・・」

アンジェロはその鋭い目を形兆に向けてから、電話を受け取った。


「良いだろう。その話、乗ったぜ。」

この瞬間、悪魔との契約が成立した。
形兆は唇の片側を吊り上げ、頼んだぞと言い置いて、アンジェロに背を向けた。
その背中に投げかけるようにして、アンジェロが不意に独り言を呟いた。


「・・・・呪われた魂の持ち主、か。アンタが何者かは知らねぇが、そりゃあきっとお互い様なんだろうな。」

だから何だというのだろう。
たとえ魂が呪われたとしても、無限に続く地獄から、億泰とを連れて這い上がらなければならないのだ。
形兆はアンジェロの独り言を鼻で笑い飛ばして、冷たい雨に濡れている真っ暗な道をバイクで引き返して行った。
死者の国から、生きとし生ける者の世界へと。




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後書き

このところ、アンジェロ関係の妄想をしまくっていました。
来る日も来る日もアンジェロの事ばかり考えていましたが(笑)、基本的に発想力が貧困なので、残念ながらこれが限界です(汗)。

各ポイント、それぞれ難しかったです。
まず形兆兄貴の、アンジェロの独房への侵入。
アンジェロの、絞首刑からの生還。
それと、形兆兄貴とアンジェロとの関係性。

色々、色々、妄想もしたし、調べもしました。
その結果、私のネット検索の履歴が、何かヤバい感じになりました。


『拘置所 内部 構造』
『脱獄』
『気絶 方法』
『絞首刑』

・・・・いや違うんですそうじゃないんです私善良な一般市民なんです、みたいな(笑)。