昼食が済んだ後、形兆と億泰は早々にまた外へ出て行った。
億泰は特訓の続きをしろと形兆に命じられてさっきの雑木林へ戻って行ったのだが、形兆は一人でバイクに乗って何処かへ出掛けて行き、小一時間程で帰って来ると突然の部屋にやって来て、髪を揃えてやると言ったのだった。
「・・・・・・・」
そして今、は首にケープを巻かれて、形兆に髪を切って貰っていた。
ケープも鋏も、元々家にあった物ではなく、ちゃんとした散髪用の新品だった。形兆がさっき出掛けていたのは、この鋏とケープを買う為のようだった。
シャキ、シャキ、パサリ、シュル・・・・
小気味良い鋏の音と共に、髪の束がナイロン製のケープの上を滑り落ちていく音もする。
だが、聞こえてくる音はそれだけだった。
一言も口を利かない形兆が、今どんな顔をしているのか確かめたいのだが、の目の前に置いてある鏡は、の顔を青薔薇のステンドグラスで飾り立てて映すばかりで、後ろにいる形兆の表情を教えてはくれなかった。
けれども、の髪を扱う形兆の手付きは、優しかった。
鬱陶しそうに跳ね除けたり面倒臭そうに雑に切り落としたりはせず、少しずつ丁寧に櫛で梳いては、慎重な手付きで切り揃えていってくれた。
「・・・・・出来たぞ。こんなもんでどうだ?」
やがて鋏の音が止み、形兆の声が沈黙を静かに破った。
顎の辺りまでのボブヘア。髪をこんなに短くしたのは随分久しぶりだった。小学生の頃以来だろうか。
短い髪になった自分は、の目には何だか少し子供っぽくなったように見えた。
形兆は綺麗に切ってくれているから、きっと自分の顔立ちの問題なのだろうとは思った。
それに、鏡に施されている青薔薇のステンドグラスの効果もある。それが大人びた物憂げな雰囲気だから、映っている顔が余計に幼く見えるのだ。
は苦笑いして鏡から目を逸らし、形兆の方を向いて頷いた。
ケープを外して貰うと、身体に自由が戻った。は傍らに置いていた筆談帳とペンを手に取り、まずは『ありがとう』と書き、少し考えてから『似合う?』と書き足した。
すると、形兆は明らかに決まりの悪そうな表情になって、肯定とも否定ともつかない感じに言葉を濁した。
自分から訊いておいて何だが、誉め言葉が出てくるなんて元より思ってもいなかった。だから、これで笑っておしまい、その筈だった。
「・・・・出会った頃に、戻ったみてぇだな。」
しかし形兆は、不意にそんな事を呟いた。
驚きのあまり、は思わずポカンと形兆を見つめた。
本当に驚いたのだ。
形兆の口から、『出会った頃』なんて言葉が出てきた事に。
すると形兆は、戸惑ったような苦笑を僅かに零した。
「いや・・・、ガキっぽくなったと思ってよ。ちょっと切り過ぎちまったかな。」
もう4年も経つ。
そんなにも前の事を、形兆はまだ覚えているのだろうか。
形兆にとってはもう振り返る事もない、単なる過去の一部だろうと思っていたのに。
「今更こんな事言うのも何だが、やっぱ美容院に連れてった方が良かったか。
女の髪型の注文なんて、俺にはどう伝えりゃ良いか分かんねぇし、お前も変な目で見られたりして嫌だろうと思ったんだけどよ、でも・・」
は首を振って、形兆の言葉を遮った。
この髪に不満なんて無い。美容院に連れて行って欲しかった訳でもない。
美容院に行ったところで、形兆の言う通り、他人の好奇の目に晒される事になるのだから。
「いいの、気にしないで。どうせまたすぐ伸びるんだから。」
筆談帳にそう書いて、は形兆に微笑みかけた。
だが形兆はそれには応えず、いつものように険しい表情でを見た。
「・・・ようやく億泰の能力も分かった。後は使いこなせるようにトレーニングを積むだけだ。時間はかからねぇ。」
「・・・・・?」
「あとほんの少しだ。あとほんの少しで、約束を果たせる。そこからが俺達の本当の人生の始まりだ。だからあと少し、あと少しだけ待ってろ。」
形兆の眼差しは、思わず息を押し殺してしまう程に真剣だった。
もしかしたらこの想いに応えてくれるかも知れない、そんな勘違いをしてしまいそうになる位に。
形兆はきっと自分のスタンド能力を鍛える事しか考えていないと分かっているのに、今にも近付いてきそうなその唇に、どうしても期待してしまう。
「・・・・・トレーニングに戻る。」
けれどもやはり期待は期待のまま、儚く散って終わってしまった。
形兆はから目を逸らすと、手際良く後片付けをして出て行ってしまった。
― 形兆君・・・・・・
本当に形兆の言う通りになるのだろうか?
形兆と億泰が手に入れた『スタンド』という力が、本当に全てを解決してくれるのだろうか?
それで本当に、自分の人生を始められるのだろうか?
形兆も、億泰も、そしても。
― 私の・・・、人生・・・・
形兆には見えているのだろうか?
彼の求めている『自分の人生』というもののビジョンが。
しかしには、ほんの僅かにさえも見えていなかった。
特性さえ理解出来たならば、後はそう難しい話ではなかった。
形兆は勿論、億泰も今までになかった程のやる気を見せて積極的にトレーニングに取り組み、各々のスタンド能力を伸ばしていった。
時間が矢のように過ぎていき、それに伴って二人のスタンドもめきめきと強くなっていった。
そうしている内に、初めは何者とも分からなかったそれらの輪郭が次第にくっきりと浮かび上がってきて、自分との繋がりのようなものを感じるようになってきた。
スタンド使いとスタンドは一心同体、まさしく『分身』なのだ。
理屈を頭で考えて理解するのではなく、自分の身体でそう感じるのだ。
その本能的な感覚に気付いた頃、形兆は名前を付けた。
自分の分身、自分のスタンドに、【極悪中隊−バッド・カンパニー−】と。
「・・・今日、親父のケリをつけよう。」
夏休み最終日の朝、朝食の場で形兆はそう告げた。
億泰もも寝耳に水のような顔をしているが、はともかく、億泰にそんな顔をされるのは納得がいかなかった。
今まで一体何の為にトレーニングをしてきたと思っているのだろうか?
いやそもそも、何の為にスタンド使いになったと思っているのだろうか?
幾ら馬鹿でも、流石にこれ位は近い内に起こり得る事として予測と覚悟が出来ているだろうと思っていたのだが、まさかの反応だ。
出鼻を挫かれたような思いで、形兆は億泰を睨み据えた。
「何を間抜けたツラしてやがんだ。当然だろう?全てはこの為にやってきた事なんだぞ?」
「で、でもよぉ・・・」
「スタンドのトレーニングはひとまず終了だ。勿論、ここが頭打ちだとは思っちゃいねぇが、だからと言って、むやみに時間をかける訳にもいかねぇ。
ひとまずは満足のいくレベルにまで仕上がったんだ。今が丁度良い頃合いなんだよ。」
「わ、分かったよぉ・・・・」
億泰もようやく深刻な表情になったところで、形兆は父親の方にチラリと視線を向けた。
今この場での会話を理解していないのは、本人ただ一人だった。
これから殺されるとは露程も知らず、呑気に朝飯をパクついている父を見ていると、確かに、躊躇いのようなものを僅かに感じはした。
だがそれは、これまでの凄惨な記憶の数々と、すぐ目の前に開けている未来への憧れが、いとも容易く消し去った。
それを追い求めて何が悪いというのだろう。血反吐を吐くような思いをする為だけに生まれてきたのではないのだ。
それに父も、化け物となって無限の時を生き続けるよりも、母の元へ行きたがっている。
もう父本人の自力では叶わなくなってしまったが、もしも正気が残っているとしたら、きっと今でもそう思っているに違いないのだ。
だから、早く解放してやらねばならなかった。
「そうだな、2時間後という事にするか。2時間後、離れで決行だ。分かったな?」
「お、おう・・・・・・!」
億泰が緊張した面持ちではっきりと頷くと、形兆は次にの方を向いた。
「お前はその間、好きにしていろ。まさかその場に居合わせたくはねぇだろ。
大丈夫だ、この間とは訳が違うんだから、心配は要らねぇ。」
「・・・・・・」
は不安げな眼差しで形兆を見つめてから何か書こうとしたが、結局一文字も書かないまま、やがて諦めたようにペンを放して頷いた。
「よし。話は以上だ。」
形兆は話を終わらせると、朝食を食べ始めた。
いつもは大体億泰が下らない話題を振ってくるのだが、流石にそんな気分にはなれないのか、今日は殆どものも言わないままだった。
粛々とした雰囲気のなか朝食が終わると、形兆はひとまず自室に帰った。
しかし、やる事が何も無かった。
このところ習慣化していたトレーニングは、パワーを温存させる為に今日は敢えてやらない事にしていたし、夏休み恒例の莫大な量の課題も、学校へ暫く行っていなくてその内容が分からないから、やりようもない。
長い時間を費やし、ライフワークと化していた『調査』も、もう終了した。
そうなると、自分には何も無い事に気が付いた。呆れる位に、笑える位に、何も。
何も無い、このポッカリとした大きな部分に、これから何が埋まってくるのだろう。
そう考えると何だか少し楽しくなってきて、形兆はベッドに転がりながら、ぼんやりと考え続けた。
何か趣味でも出来るだろうか?
『友達』と呼べるような奴でも出来るだろうか?
そんなような奴等と、他の同級生達のように、どこかへ遊びに行ったりするだろうか?
そんな事を考えていると、と出逢った頃の事がふと蘇ってきた。
待ち合わせて一緒に出掛けた時の事、夜の海辺を一緒に歩いた事、毎週土曜の夜遊びの事。
それらは、汚くて重たい泥の中にほんの僅かにだけ混じっている、綺麗な宝石の欠片みたいだった。
いつかまた、そんな事が出来るだろうか?
いつかまた、宝石の欠片のような思い出を増やしていく事が出来るだろうか?
の顔を思い浮かべて、形兆は自嘲の笑みを薄く浮かべた。
出来るかどうか、それを決めるのはだ。
何もかもを奪って壊した男に決める権利は無い。
父が死に、『人形』の役目から解放されたがその時何を望むか、それはその時のにしか分からない事だ。多分、今の自身にも分からない事だろう。
それに、病気の事もある。
父が死んだ途端にコロッと治ってくれれば万々歳だが、多分、そう簡単な話ではない。父を母の元へ送ってやったら、次はの病気と真剣に向き合っていかなければならないのだ。
それなのに、の心が変わっていなさそうだからといって、すんなりハッピーエンドになれると思うのは、些か都合が良すぎる。
父の事との事とは、また別の問題なのだから。
― まずは親父の事だ。親父のカタをきっちりつける。それだけを考えろ・・・・
父を殺す事はゴールではない。終わりではなく、そこがスタートなのだ。
そこから先の事は、今はあれこれと考えても仕方がない。
ひとつ確実なのは、それを成さない事には話にならないという事だけだ。
父の息の根を止めてやる事が出来なければ、ゴールも、スタートも、何も無い。
だから今、形兆が考えるべき事は、父の事ただひとつだった。
2時間が経過し、指定の時刻になった。
いつもは何かとダラダラしがちな億泰も、今ばかりは時間ピッタリに緊張した面持ちで父の部屋に現れた。
その心構えにひとまず満足しながら、形兆は背中を預けていた壁から離れ、億泰に歩み寄って行った。
「よし、ちゃんと時間通りに来たな。やりゃあ出来るじゃねぇか。」
「ガキ扱いしねぇで下さいよ・・・」
億泰はそう言って、それこそ拗ねた子供のように口を尖らせた。
それが緊張と恐れの裏返しである事は、考えるまでもなかった。
こんな醜悪な化け物でも、いざ殺せと言われると、尻込みするのが当然の反応だ。
形兆自身も昔はそうだった。父を死なせてやろうとし始めたばかりの頃は、いつも手が震え、恐怖が吐き気のようにこみ上げてきたものだった。何度も何度も繰り返す内に、いつしか慣れて、やがては感じなくなっていったが。
だが、今度こそ終わりだ。
これでようやく、終わらせる事が出来る。
「まずは俺がやる。良いな?」
「あ、あぁ・・・・・・」
形兆は億泰を一歩後ろに下がらせると、部屋の隅にいる父を見据えた。
そこで何をするでもなく呆けている父を見ていると、ほんの僅かにだが恐れを感じた。久しぶりに、昔のように。
形兆にも億泰にも気付く事なく、あらぬ方向をボーッと見ている父は今、何を考えているのだろうか?
DIOの細胞に浸食されたその脳に、幾らか昔の記憶は残っているだろうか?
その腐りきった脳ミソの中に、震えて泣いていた幼い息子達の姿は残っているだろうか?
「・・・・・バッド・カンパニーッ!!」
形兆の中には、全てが残っていた。
「全隊、突撃ィィィーーーーッッッ!!!」
何の拍子に飛んでくるか分からない、石つぶてのような硬い拳や身体が吹っ飛ぶ程の強烈な蹴り。
それだけでは飽き足りないとばかりに突き付けられた、包丁やカッターナイフやライターの火。
あの痛みと恐怖を、今、この化け物も味わっているだろうか?
あの地獄のような辛さを、その腐り爛れた脳ミソで、ちゃんと感じているだろうか?
そんな事を考えながら、形兆は己の持てるパワーを全て注いで父を攻撃した。
「死ねぇぇぇぇぇーーーーッッッ!!!!」
歩兵部隊の一斉射撃とアパッチ全機の機銃掃射による無数の銃弾が、深緑色の肉塊に次々と埋まり、貫き、ぶち抜いていく。
沼の水のような濁った緑色の体液が噴き出し、全身がくまなく蜂の巣のようになっていく。
最後に戦車隊の放つ砲弾が全弾見事に命中し、その蜂の巣を木っ端微塵に砕いて、原型も留めない程に破壊した。
「ハァッ、ハァッ、ハァッ・・・!」
遂にやった!
形兆は息を切らせながら、もうもうと舞い上がる硝煙と埃の向こうをじっと見つめた。
やがてそれが次第に散っていくと同時に、そこにあるものがはっきりと見えてきた。
流れ弾が当たってボロボロに壊れた壁や床と、その瓦礫と共に床中に散らばっている深緑色の肉片が。
おびただしい量のそれが見えた途端、億泰は嘔吐でもしそうな悲鳴を上げてそっぽを向いたが、形兆は逆にそこへ近付いて行った。パッと見でも生きていない事は確実なのだが、それをきちんと確かめずにはいられなかったのだ。
間近で見てみると、父の頭部は顔も分からない程に潰れていて、身体は細切れに千切れて消し飛んでいた。そこら中に散らばっている肉片が全部その千切れ飛んだ部分である事は一目瞭然だった。だが、幼い頃から凄惨な光景を散々見てきた形兆の精神は、もうこんなものではビクともしなくなっていた。
形兆は腰を屈めて足元に散らばる肉片をまじまじと凝視し、それが間違いなく父である事を確認した。
「・・・・・確かに死んだ、か・・・・・」
間違いなく、形兆の父は死んでいた。
その証拠をもう一つ増やすかのように、深緑色の細切れの肉片に混じって、父が着ていた服の切れ端も落ちていた。
千切れて端が焼け焦げているそれを摘まみ上げると、急に形兆の胸に感情の塊がつかえた。
吐き気を催すようなグロテスクな肉片には全く動じなかったのに、何故だろうか?ちっぽけな服の切れ端を見た途端にそうなった。
嬉しいのか悲しいのかよく分からない、訳の分からないその感情に揺さぶられて思わず涙が溢れそうになり、形兆は咄嗟に歯を食い縛った。
その時、父の身体が微かに動いたような気がした。
「っ・・・・・・!?」
形兆は息を呑んでもう一度父を凝視した。まさか、そんな筈はない、と。
だが、父はまたピクピクと痙攣するように動いた。
「なっ、何ィッ・・・・!?」
気付けば、父の全身がボコボコと蠢いていた。
「うひえぇぇぇぇーーーッ!!あっ、兄貴ィッ!う、動いてる!動いてるぜぇぇーッ!」
億泰が絶叫し、形兆の背中に張り付いた。
それを鬱陶しいと振り払う事が出来ない程に、形兆も驚き、恐怖していた。
「な、何だ!?どういう事だこれは!?」
「うっ、うわぁぁっ!!兄貴ッ、兄貴ィッ・・・・!」
億泰がガタガタ震えながら、アレ、アレ、と指をさした。
父の身体は、千切れ飛んだ部分から新しい肉がどんどん再生していた。
そうしてみるみる内に再生していった父の全身はやがて完全に元通りになり、まるでその完了サインかのように、いつも通りどんよりと澱んだ目がパチパチと何度か瞬いた。
「う、嘘だろ兄貴ィ・・・・!?親父、元通りになったぜぇ・・・!」
「な・・・・」
そんな筈はなかった。
普通のやり方では死ななくても、スタンドの力をもってすれば死なせてやれる筈だったのだ。
それなのに父は、これまでと同様に、形兆と億泰の目の前に平然と蘇っていた。
蘇って、そこら中に散らばった自分の肉片を、まるで落ち葉掃除でもするかのようにせっせとかき集めている。
更には寄せ集めたそれを、回収とばかりに次々と口の中に放り込んで食べている。
この異様極まりない光景に思わず圧倒されてしまっていたが、しかし呆然としている場合ではなかった。
「何をボケッとしてやがる!!次はテメェの番だ億泰ぅッ!!」
形兆は怒声を張り上げて、すっかり怯み上がっている億泰に発破をかけた。
「削り取っちまえ!!テメェのスタンド、【ザ・ハンド】の能力でな!!!」
『ザ・ハンド』、それが億泰の名付けた、億泰のスタンドだった。
単純なネーミングだが、その能力はゾッとする程恐ろしいものだった。
「う、うおぉぉぉぉぉーーーッッ!!!」
億泰は怯みながらも、ヤケクソのように父に向かっていった。
「ザ・ハンド!!うおぉぉらぁぁぁぁッ!!!!」
ザ・ハンドの右手が、ガオン!と音を立てて一閃された。
その右手は、何でも削り取るのだ。
どんな物質でも、空間でさえも。
「頭だ!頭を完全に削り取るんだ億泰ゥッ!」
「おらぁっ!おらぁっ!うおりゃああっ!!」
億泰が右手を振るう度に、ザ・ハンドの右手が父の身体をごっそりと削いでいく。
弛んだ贅肉がブヨンと突き出た腹も、肩や胸も、そして、顔も、首も。
身体のあちこちが抉り取られたように次々と消えていき、やがて父はまた原型を留めないグロテスクな肉塊に逆戻りした。
「ヒィッ、ヒィッ、ヒエェェッ・・・・・!」
終わった途端、億泰はまた情けない悲鳴を上げながら、腰を抜かしたようにその場にへたり込んだ。
だが、それを叱責する気にはならなかった。
億泰に父を殺させるのはこれが初めてだったし、何より、さっきの例がある。
今度こそ死んだかどうかちゃんと確認するまでは、他の何にも気を向ける余裕など無かった。
「どけ、億泰!」
億泰を後ろに下がらせて、形兆は再び父の死体を凝視した。
動くな、動くなよ、今度こそ死んでくれ、そう念じながらじっと見つめた。
さっきも殆ど同じような状態だったが、今度は完全に頭部が消失している。
DIOの肉の芽が埋め込まれた頭部が司令塔である事はまず間違いないのだから、そこを億泰のスタンドで完全に消滅させてしまえば、身体の再生も出来まい。
あと何秒か待って、それで何事も起きなければ、今度こそ死んだと見なせる。そう思っていたのだが。
「なっ・・・、何ィィッ・・・・!?」
父の身体はまたモゾモゾと動き始めた。
さっきのようにモゾモゾ、ボコボコと蠢いて、次々と肉が再生していき、あの気持ち悪い顔がどんどん再建されていって、また目がパチパチと瞬いた。
「うげぇぇ・・・・!また戻っちまったぜ兄貴ィ・・・・・!」
「ぬぅぅぅ・・・・・・!」
澱んだ目が、ボーッと形兆を眺めていた。
まるで何の痛みも感じていないかのようなその目に激しい怒りが沸いて、形兆は拳を硬く握り締めた。
「なにガン飛ばしてやがんだよおぉーーーッッ!!!」
この10年の血反吐を吐くような苦労を、まるっきり無駄だったとコケにされたような気分だった。
今この瞬間、この瞬間を迎える事だけを支えにして、死ぬような思いでこの10年を乗り越えてきたというのに。
この10年は、一体何だったというのか。
身体中の血が沸騰してしまいそうな程の怒りと悔しさに任せて、形兆は己の拳や蹴りで父親を力任せに痛めつけた。
「ブギッ、ブギィッ・・・!」
バッド・カンパニーで細切れに吹き飛ばされても平気な顔をしていたくせに、今は如何にもそれらしい悲鳴を上げて弱々しく蹲っているのが、また一層腹立たしくて許せなかった。
「何でだよぉッ!!何で死なねーんだテメーはぁぁッ!!」
「あっ、兄貴ィッ!やめろよ兄貴ィッ・・・!」
億泰が堪りかねたように間に割って入って来て、形兆を止めようとした。
億泰など相手にならない、邪魔をするなとすぐさま振り払ってやるつもりだったのに、どういう訳か今に限って、それが叶わない程億泰の力は強かった。
「やめてくれよぉ兄貴ィッ・・・!頼むからよぉッ・・・・!」
凄い力で形兆を押し返す億泰は、悲しそうに泣いていた。
何で泣いて庇うのだろうか?
億泰とて、この為に死ぬ危険を冒してまでスタンド使いになったのに。
「・・・どうしてだよ・・・・!」
形兆は歯を食い縛り、億泰に掴み掛かった。
「どうしろってんだよぉッ!!!これ以上俺にどうしろってんだーーーッッ!!!」
億泰に掴み掛かり、しがみつきながら、腹の底から慟哭した。
お前は好きにしていろと言われたが、本当にそうしていられる筈もなく、は自室の中を無意味にウロウロしていた。
この間とは違うという事は分かっている。形兆と億泰の身に危険が及ぶような事はまず無いだろう。
昔は鬼のように暴力を振るったという彼等の父親は、今は逆にどれ程の暴力を浴びせられてもただ震えて蹲っているだけの、至ってか弱い存在となっている。二人のスタンド能力で攻撃されたとしても、とても反撃など出来はしないだろう。
ただ、彼は本当に死ぬ事が出来るのだろうか?
そして虹村兄弟は、本当に自分達の父親を殺してしまうのだろうか?
それが気になって、不安で、やはり居ても立ってもいられなくなり、は部屋を出て離れに向かった。
― 形兆君、億泰君・・・・・
とて、ずっとこのままの生活で良いと思っている訳ではなかった。
決して好き好んで虹村兄弟の父親の『人形』になっている訳ではなく、いつかその役目から解放される日を、ずっとずっと待ち侘びてはいた。
だが、いざ本当に彼が死ぬ、形兆と億泰が彼を殺してしまう、となると、解放される喜びよりも言い様のない不安の方が大きく感じられた。
彼は本当に死ねるのだろうか?
彼が死にさえすれば、形兆も億泰も自分も、本当に『自分の人生』というものを始められるのだろうか?
― お願い、早く出て来て、早く・・・・!
とにかく、この不安な時間が一刻も早く過ぎ去って欲しかった。
形兆と億泰が出て来てくれるのを今か今かと待ち侘びながら閉ざされた戸を見つめていると、突然、戸の向こうから形兆の叫び声が聞こえてきた。
いつもの怒鳴り声のような、けれどももっと悲痛にも聞こえるような、そんな声だった。
何があったのだろうか?思わず戸を叩きかけたが、それをすれば今度こそ本気で形兆を怒らせてしまいそうな気がして、この間のように迷わず叩く事が出来なかった。
しかし、それでも気になるものは気になる。ノックするべきか否か、戸の前で迷い続けていると、やがて向こうから足音が聞こえてきて、鍵が開けられた。
「・・・・・・・・!」
程なくして、戸の向こうから形兆が出て来た。
どうなったのだろうか?
は形兆の顔を見上げ、目で問いかけた。
しかし形兆はいつも通りの仏頂面、いや、いつにも増して険しい表情でを見返した。
「・・・・・?」
「・・・・駄目だった・・・・」
押し殺したような声で一言そう呟くと、形兆はの横をすり抜けて足早に去って行った。
駄目だったという事は、彼の父親は死ななかったという事なのだろうか?
それとも、いざとなると殺せなかったという事なのだろうか?
まだ出て来ない億泰の事も気になって、は形兆を追わず、そのまま離れの中に入った。
部屋を覗くと、隅の方の壁や床がボロボロに壊れていて、その瓦礫と凄まじい量の深緑色の体液とで、酷く汚れて散らかっていた。
その体液は間違いなく虹村兄弟の父親のもので、こんな状態になるからには相当な目に遭った筈なのだが、彼本人はただ着ていた筈の服が無くなっているだけで、それ以外は至っていつも通りの様子でゴソゴソと木箱を漁っていた。
そしてその様子を、億泰が床に座り込んで眺めていた。
背中を丸めて力なく肩を落としているその後ろ姿は、見るからに気落ちしている感じだった。
「・・・ネーちゃん・・・」
が近付いていくと、億泰は振り返って顔を見せた。
後ろ姿の雰囲気通りの、落ち込んだ表情だった。
は筆談帳に、『どうなったの?教えて。』と書いて見せた。
すると億泰は、蚊の鳴くような声で、やったんだよ、と呟いた。
「やったんだぜ、ちゃんと。兄貴も俺もよぉ。確実に殺したんだよ。
けど、駄目だった。どんなにメチャクチャのグチャグチャにしてもよぉ、そうなった端から身体が治っていくんだ。
ニョキニョキ〜ってよ、凄ぇ勢いで生えてくんだよ、手とか足とか、頭までよぉ・・・・。
もうビックリだぜぇ・・・・。バケモンだバケモンだとは思ってたけどよぉ、まさかここまでバケモンだったなんてよぉ・・・・。」
「・・・・・!」
「さっきまでさぁ、この辺に親父の肉がいっぱい落ちてたんだ。
でも今はもう無ぇだろ?食っちまったんだよ、親父が自分でよぉ。信じらんねぇだろ・・・・。超気持ち悪ぃぜ・・・・。もう今日は飯食える気しねぇよ・・・・」
何と返せば良いか分からなかった。
話自体が胸の悪くなるほど気持ち悪くて衝撃的なせいでもあったが、気が抜けたように弱々しく意気消沈してしまっている億泰が可哀想で。
「・・・でもよぉ、俺な、ちょっとだけ、ホッとしたんだ・・・。」
「・・・・・?」
「本当は・・・怖かったんだ・・・。親父、殺すのさ・・・。」
掠れた低い声でそう呟いた億泰は、まるで小さな子供のようだった。
「兄貴の言ってる事は分かるんだぜ・・・・。このままいつまでもこんなバケモンの犠牲になんかなってらんねぇんだってよぉ・・・。
そりゃあ兄貴の言う通りなんだよ。俺だってさっさとダチや彼女作って、ルンルン楽しい人生送りてぇよぉ・・・・。
でもよぉ、いざ死ぬとか殺すとかってなったら、何つーか・・・、やっぱビビッちまってよぉ・・・。
だから・・・・、こうなって・・・・、実はちょっとだけ、ホッとしてる・・・・。兄貴にこんな事言ったらブッ殺されそうだけどよぉ・・・・。」
形兆が悪い訳ではない。
けれども、億泰が甘ったれている訳でもない。
命を奪うという行為に恐れを抱くのは、何も間違った事ではないのだから。
きっと、誰が悪い訳でもないのだ。
は手を伸ばして、億泰の頭をそっと撫でた。
子供扱いしねぇでくれよと嫌がられるかと思ったがそうはならず、少しして、億泰が鼻を啜る音が小さく聞こえた。
「・・・・・・」
そう、誰が悪い訳でもない。
ただ、どうしようもないのだ。
これからこの家の者達がどうなっていくのか、きっともう、形兆でさえも分からないだろう。だからせめて、少しでも側にいて、独りではないと思って欲しかったし、独りではないと思いたかった。
黙ったまま鼻を啜り続ける億泰の頭を、はそのままずっと撫で続けた。
安全ピンをライターの火で暫く炙り、冷ましてから一思いに耳朶を刺し貫いた。
痛みが無い訳ではないが、これしきの痛みは、形兆にとっては痛みの内にも入らなかった。
開けたばかりのごくごく小さな穴から滲む微量の血を、消毒液を含ませた脱脂綿で消毒がてら丁寧に拭き取ってから、ピアスを着けた。
下を指し示す矢印の形をした、金メッキのピアス。エジプトを発つ時に、あのボインゴとかいう予言者の男から貰った物だ。
金は魔除けになるから、悪魔に魂を食われないよう肌身離さず身に着けていると良いと言われて貰った、というより半ば無理矢理押し付けられたのだが、あれは高額の取引をした特別な顧客に対するサービスのつもりだったのか、それとも、あの怪しい予言書にまた何らかの予言が出ていたのか。
あの男はこうなる事が分かっていたのだろうか?
別に逆恨みをする気は無いが、もしも分かっていたのなら、先に言っておいてくれたら良かったのに。
終始オドオドと陰気だったあの男の顔を思い出して胸の内でぼやきつつ、形兆は全く同じ作業をもう片方の耳にも施した。
「・・・・・よし。」
形兆の両方の耳に、矢のようなピアスがぶら下がった。
貰った時には、誰がわざわざこんな変なピアスを着けるものかと内心で小馬鹿にしていたが、今となってはこれ以上自分に相応しいものはないと思えていた。
あの矢を使って、スタンド使いを増やしていこうとしている、虹村形兆にとって。
それが悪魔の所業にも等しい事は、百も千も承知している。
あの矢に射抜かれた者にスタンドの才能が無ければその者は死ぬ、つまり、殺人を犯すという事だ。
何をしたって死にやしない化け物や、積もり積もった恨みとスタンドの才能があった伯父の千造や、当事者である自分達兄弟とは訳が違う。
見ず知らずの、全く何の関係も無い赤の他人を、身勝手な理由で殺す事になるのだ。
だが、身勝手は全人類皆同じ、いや、生きとし生けるもの全てが皆同じである。
誰だって皆、結局は己の身を優先させて生きている。
だから形兆は、決意したのだ。
父を殺せる能力を持つスタンド使いを作り出すまで、あの矢を射続ける、と。
「さて・・・・」
ピアスを着け終わると、形兆は机の前に座り、PCの電源を入れた。
ここ暫くの間は、一通りのニュースをサラッと読み飛ばす程度にしか使っていなかったが、これからまたみっちりと長時間使う事になる。今日からまた新たな『調査』を始めるのだ。
赤の他人を殺す覚悟は出来たが、だからと言ってそこら中に向けてめくら滅法に乱射する気は無い。
犠牲者の数を少しでも減らしたいからではなく、そんな事をしたってリスクが跳ね上がるばかりで、肝心の効率は全く上がらないからだ。
だから『調査』とはその為のもの、スタンドの素質を持っている可能性がありそうな奴を幾らかでも絞る為の作業だった。
絞り込みの条件は、人並外れた強い精神力。
意志だけではなく、欲望やコンプレックス、嫉妬でも良い。とにかく強い思念を持つ者を探さなければならなかった。
このところ急速に普及し始めたインターネットというものは、こういう調べ物をするのに非常に便利なツールだった。
せっせと図書館へ通って、莫大な量の本や新聞を必死で読み解いていたのが馬鹿らしくなる程、簡単に、幾らでも、情報が出てくる。
ただその分、嘘も多い。
もっともらしい顔をして紛れ込んでいる嘘と本物の真実とをちゃんと判別出来なければ、押し流されて訳の分からない処を漂う破目になるのだ、このネットの海という場所は。
「・・・強い精神力、か・・・」
次なる目的は、それを持つ者。
何処を目指せば辿り着けるだろうか?
着けたばかりのピアスを指先で弄ぶと、形兆はカタカタとキーボードを打ち始めた。
形兆が新たな『調査』に乗り出して3週間程が経過した頃、虹村家に1本の電話が入った。
伯父・虹村千造の訃報である。
数えてみると、丁度あの日から50日後の事だった。
「あ、兄貴ィ、本当に大丈夫なのかよぉ・・・・?」
「オドオドすんじゃねぇ。堂々としてろ。」
通夜の夜、形兆は億泰と共に、都内のとある葬儀場にやって来た。
無論、『病死』した伯父の弔問の為である。
だというのに、億泰は家を出た時以上にビクついた顔になっていた。
「で、でもよぉ、あのジジイが死んだのは・・・」
「あのジジイが死んだのは、テメェのスタンドのせいだ。
スタンドをコントロールする力が無かった、あのジジイ自身のせいだ。
俺にもお前にも親父にも出来た事が、あのジジイには出来なかった。ただそれだけの事だ。」
「う、ん・・・、そっ・・かぁ・・・。そう言われりゃあ、そんな気もするような・・・。あのクソジジイ、ネーちゃんの事もボロクソに言いやがったし、天罰って事かなぁ・・・」
「とにかくビクビクすんな。シャキッとしてろ。」
億泰を諌めておいてから、形兆は目の前の真新しくて立派な建物を眺めた。
また随分と無理をしたものだ。きっと内情は火の車だろうに。
胸の内でそう呟いてから、形兆は行くぞと億泰を促して、建物の中に入って行った。
記帳を済ませ、香典を出してから、会場へと入って行く。
場内には、恐らく大半が千造の仕事関係であろう弔問客が大勢いて、誰も彼も形兆と億泰を見るや否や、ギョッと驚いたように目を見張った。受付にいた連中も同じ反応だった。確かに、大人の目には異質に映るのだろう。その自覚は勿論あった。
逆立てて長い襟足を編んだ金髪に、矢印のデザインの金のピアス。
ポイントに色物のベルト2本を腰で交差させ、元々打ち合いのデザインを改造していた短ランの学生服には、最近また新たに改造を施して、文字を入れた。
白文字で右肩に『兆』と左袖に『TRILLION』、そして詰襟の喉元の部分に、自分のスタンド名『BADC.O』の金文字を。
一方、億泰の方も、形兆と揃いのような格好をしていた。
髪型は、少し襟足を伸ばして、剃り込みと気合をガッツリ入れたリーゼント。
飾りのベルトを腰に1本無造作に巻き、学生服は、受験生のくせに形兆の物と良く似たデザインの改造短ランだ。
但し、刺繍の文字は違う。右肩と左袖の白文字は『億』と『BILLION』、襟の金文字は2本線の『ドル』マークと『¥』マークである。スタンドの身体にも、同じマークが同じ位置にあるのだ。そして同じく金文字で、同じドルマークが胸にも大きく入っている。
そんななりをした目付きの悪いのが2人、オラオラと肩で風を切って入って来たら、普通は誰でもギョッとする。だが、形兆も億泰も制服はこの1着しか持っていなかったし、この為だけに礼服を2人分買う気も無かった。
周囲の人々の奇異の目をものともせず、形兆は億泰を従えて祭壇の方へとズンズン歩いて行った。
そこには喪服の着物姿の千造の妻がいて、涙ながらに数人の弔問客に挨拶をしていたが、形兆と億泰の姿を目に留めると、夜叉のように目を吊り上げてせかせかと歩み寄って来た。
「まあ何なのあなた達・・・・!その格好は一体何!?ここをどこだと思ってるの!?」
「何って、学校の制服ですよ。俺達学生にとってはこれが一番の正装です。場を弁えているからこそ、こうして正装をして来ました。何かご不満でも?」
「制服って・・・!嘘をおっしゃい!一体どこの学校がそんな品の無い派手派手しい服を制服にするものですか!
分かってるの!?あなた達の伯父さんが亡くなったのよ!?あなた達にとっては実の親以上に何かと気に掛けて面倒を見てくれた、親以上の恩人でしょう!?その葬儀の場によくもまあそんな格好で・・」
「お焼香、させて貰えますか?」
形兆はそう言い放って、グチグチと続きそうな鬱陶しい小言を問答無用に遮った。
「まさか小言を言って聞かせる為に、俺達を呼んだ訳ではないでしょう?
伯母さんの方こそ、状況と立場を弁えた方が良いですよ。喪主なんですから。
大勢の弔問客の前で身内相手にヒステリーなんか起こしていたら、伯父さんが恥をかかせるなと怒るんじゃないですか?」
「っ・・・・!」
形兆がそう言ってのけると、千造の妻はワナワナと口元を震わせながらも、道を譲るように引き下がった。
形兆は億泰を引き連れて彼女の前を涼しい顔で素通りして行き、祭壇の前に立った。
「あ、兄貴ィ・・・、お、おショーコーってどうやるんだよぉ・・・?」
形兆の隣に並んで立った億泰が、声を最小限に小さくして訊いた。
「俺のやる事を真似ろ。」
形兆はそう答えて、一足先に焼香をした。億泰も見様見真似でそれに続いた。
棺の窓は閉められていたが、わざわざ千造の妻に頼んで開けて貰おうと思う程、千造の死に顔には別段興味は無かった。
堂々と厳めしい表情で写っている千造の遺影を見上げて、形兆は胸の内で一言、良かったなと呟いた。
形兆と億泰の母には、何も無かった。
遺影も、位牌も、読経も、戒名も、花や供物も、悼んでくれる弔問客も。
それらが何もかも全部、有料だからだ。
世の中というものは、何もかもにいちいち値段がついている。
人の冥福を祈るにも手ぶらでは行けないが、来て貰った方も手ぶらでは帰せない。酒とご馳走を振舞い、受け取った『心遣い』に対して十分な『気持ち』をお返しなければならない。
そういった出費と手間をとことん渋った千造により、形兆と億泰の母は法に則って必要な手続きを取られ、荼毘に付されただけだった。
それに引き換え、千造の葬儀は立派だった。
広くて綺麗なホールに、溢れんばかりに供花や供物を飾って貰って、それぞれの胸の内はどうであれ沢山の弔問客に来て貰って、行けるかどうかはともかく坊主に極楽浄土へと導いて貰って、恥ずかしげもなくデカデカとした顔写真を飾って貰って。
どうして、あんなにも優しくて愛情深かった母が独り寂しく旅立って、この冷酷な守銭奴はこんなにも盛大に送り出されるのだろうか?
この差を見ていると、『地獄の沙汰も金次第』という言葉をつくづく痛感した。
「・・・行くぞ、億泰。」
「お、おう・・・・」
だが、全てはもう済んだ事だ。
形兆は再び億泰を従えて、千造の妻の方へと歩み寄って行った。
「伯母さん方もこれから色々と大変でしょう。今後はどうぞ、うちの事はお構いなく。うちも自分達家族の事で精一杯なので、こう言っては何ですが、この先何のお力にもなれません。
明日の告別式も、今後の法事も、申し訳ありませんが参列は一切出来ません。こちらの事でそちらに迷惑は掛けないようにしますので、そちらもどうぞ、そのおつもりで。」
「まあ、何て言い草かしら・・・!人の恩も忘れて・・・!」
「お、恩知らずな野良犬みたいな連中だな・・・・。」
弔問客の目を気にして静かに怒り狂っている千造の妻の側には、形兆よりも5〜6歳年上の夫妻の一人息子がいたが、形兆が軽く睨み据えると、怯えたようにヒッと息を呑んでオドオドと顔を背けた。
「恩なら4年前に十分すぎるぐらい返した筈だぜ。ああでも、もしかしたらアンタらには内緒で、あのジジイが一人で使い込んだかもな。何処ぞの女に入れ揚げたりなんかしてよ。」
「なっ・・・!何ですって・・・!?」
「あばよ。」
「じゃあな。」
形兆と億泰はそれぞれに捨て台詞を吐き、会場を出た。
外に出ると、億泰はホッとしたように肩の力を抜き、両腕を上げて大きく伸びをした。
「あ〜、かったりぃ〜!終わった終わったぁ!さ、帰ろうぜぇ兄貴ィ!」
「ああ。だがその前に、ちょっと寄って行かねぇか?」
「あん?寄るってどこにだよぉ?」
億泰のその質問に、形兆は微かな笑みで応えた。
また億泰をバイクの後ろに乗せ、10分程走って着いたのは、4年前まで住んでいた自分達の家だった。
「あ、あれ・・・・?何か、建て替わってねぇ・・・・?」
そこはもう、形兆と億泰が生まれ育った家ではなかった。
庭も、ガレージも、門も、外壁も、もう何もかもがこの4年の内に全く別のものに替わっていて、見知らぬ誰かの家になっていた。
全く覚えのない苗字が刻まれている洒落たデザインの表札を、形兆は幾らかの寂しさと共に眺めた。
大体こういうような結末になるであろう事は、この家を出る時から予感して諦めてもいたが、いざ現実のものとなって目の前に突き付けられると、やはり割り切れないものがあった。
「あ、誰か出て来たぜ兄貴ィ・・・」
玄関のドアが開いて、家の中から人が出て来た。
家人に不審がられないよう、急いでバイクを押して家の敷地の曲がり角の所に身を隠すと、まだ小学校にも上がらないような小さな子供が2人、母親らしき女と共に門扉を開けて出て来た。どちらも男の子だ。
嬉しそうにはしゃいでいるのを、上品に着飾った母親が窘めて大人しくさせている。
やがてガレージから白い高級車が静かに滑り出て来た。運転しているのは子供達の父親だろう。
母親が子供2人を次々と車の後部座席に乗せ、最後に母親自身が助手席に乗り込むと、一家の乗った車は閑静な住宅街を静かに走り去って行った。
「・・・・どこ行くんだろうなぁ・・・・」
「さぁな・・・・・・」
「メシでも食いに行くのかなぁ・・・・・」
「かもな・・・・・・」
幸せそうなあの一家は、かつての自分達のようだった。
「なぁ兄貴ィ、俺達もよぉ、あんな風に外にメシ食いに行ったりとかした?」
「ああ。お前はチビだったから覚えてねぇだろうけどな。」
「うん。全っ然覚えてねぇ。」
億泰はヘヘヘと笑って、車の走って行った方向にふと眩しげな眼差しを投げ掛けた。
「良いなぁ、あいつら。これから父ちゃんと母ちゃんと、美味い物いっぱい食うんだろうなぁ。
けどさ、俺別に羨ましくねぇぜ。だってよ、うちだってまたじきにあんな感じになりそうじゃん?」
「・・・あ?どういう事だよ?」
形兆が訊くと、億泰はそのちんまりとした目を丸くしてニカッと笑った。
「兄貴とネーちゃんが結婚してさぁ、子供が生まれたら、またあんな感じの家族になるじゃねぇか!
小っちぇの2〜3人連れてよぉ、ワイワイ言いながら皆でメシ食いに行くんだよ!
モチロン俺も連れてって貰うぜぇ!何たって俺は兄貴の子供達のアニキ的存在になるんだからな!
俺オジさんとかそんなジジくせぇのは嫌なんだよ。億泰アニキって呼ばせてさ、ベッタベタに可愛がんの!兄貴が厳しいから、俺は甘やかし担当になるんだよ、へへへ〜っ!」
当の本人達を差し置いて、億泰はめでたい夢を楽しそうに語った。
「・・・親父もさ、見た目アレだけどよぉ、服とか帽子で誤魔化したら、一緒に連れてってやれるんじゃねぇかな。
飯の食い方、随分マシになってきたしよぉ。もう少し上手になったら、行けるんじゃねぇかな。兄貴とネーちゃんに子供が生まれる頃ぐらいにはよぉ。」
何を寝ぼけた事言ってやがんだとこき下ろすには、億泰の笑顔はあまりにも優しかった。
「お袋はもう戻っちゃ来ねぇけどよぉ。でも、俺はいる。兄貴もいる。ネーちゃんもいる。アレだけど、親父もいる。
そう考えるとよぉ、うちも結構、これでなかなか、世間一般のよその『家族』に負けてねぇんじゃねぇか?」
新たな『調査』を始めた事は、億泰やには決定事項として伝えてあった。
相談はしていない。迷う余地など無かったからだ。
それに対して、二人も何も反論しなかった。当然だ。単純な正義感を振りかざして反論したところで、代わりの解決策を提示する事など出来やしないのだから。
だから多分、これが億泰の精一杯の意思表示なのだろうと思えた。
「早く結婚して子供作れよぉ兄貴ィ。俺すんげぇ楽しみにしてんだぜぇ。
2〜3人と言わず、5〜6人?7〜8人?何ならサッカーチームが作れる位とか?きっと毎日賑やかで楽しいぜぇ。」
ヘヘヘと笑う億泰の顔は、本当に楽しそうな笑顔だった。
現実的な事は何一つ考えてもいない能天気なその笑顔は、怒る気にもならない位に只々楽しそうだった。
「・・・メチャクチャ言うんじゃねぇよ。そんな人数どうやって養うんだ。下らねぇ事言ってねぇでさっさと乗れ。帰るぞ。」
「へいへーい。へへへっ。」
幸福に輝くその明るい未来は、億泰の目には近くにあるように見えているのだろうか?
しかし形兆にとっては、遥か遠くに揺らめいている蜃気楼のようだった。