愛願人形 21




離れの中に入ると、形兆は戸に鍵をかけた。
外から開ける為の鍵も、ズボンのポケットの中にある。
窓は元々開かないようにしてあるので、これでこの離れは完全な密室となった。
これならば、万が一最悪の結末になったとしても、暫く露見する事はないだろう。
ひとまず安心して、形兆は父の部屋に入った。
部屋の中では、一足先に来ていた億泰が父の側に座って何か喋りかけていたが、形兆が入って来たのを見ると、恥ずかしそうに口を噤んでしまった。


「何喋ってたんだ?」
「別にぃ〜。兄貴こそ、ネーちゃんと何喋ってたんだよぉ?」
「別に。」

シレッとすっとぼけた顔をお互いに見合わせると、億泰が吹き出した。
笑う億泰につい釣られて、形兆も苦笑いをしながら億泰の横に座り込んだ。


「なぁ兄貴ィ?」
「何だよ?」
「『スタンド使い』ってよぉ、どんな奴らだった?」
「どんなって、どういう意味だ?」
「いや、見た目とかさぁ。親父みたいな感じになっちまったりとかすんのかなぁって、ちょっと気になっちまってよぉ。」
「胡散臭い連中ではあったが、見た目は別に、普通の人間だったよ。
親父はスタンド使いだったからこうなっちまったんじゃねぇ。知ってるだろうが。」
「知ってるけど、ちょっと気になっちまったんだよぉ。だって、もしかバケモンみてぇな見た目になっちまったら、彼女出来ねぇじゃん?
俺、高校行ったら、ぜってぇソッコーで彼女作るって決めてんだよぉ。ネーちゃんみてーによぉ、優しくて可愛い彼女。ヘへヘっ。」
「その前にテメーは入試の心配をしろ。あぁ、でもそういや、そいつ等も彼女出来ねぇっつって悔しがってたな、確か。」
「げぇぇっ、マジかよぉ!?」

時間の猶予は無いと分かってはいても、この他愛もない無駄話が、今に限ってやめられなかった。
親子三人、顔を突き合わせて取るに足りない事を喋っていると、遠い昔の家族の団欒を思い出して、こんな時だというのに、不思議と穏やかな喜びさえ感じていた。
億泰の成績の事、父の着ている浮かれたアホみたいな柄のシャツの事、そんなような話を少しの間笑いながらしていたが、会話が途切れると、ふと億泰がその笑顔にぎこちない緊張感を漂わせた。


「・・・・ネーちゃん、どうだった?心配してた?」
「・・・・ああ。」
「そっか。だよな、やっぱ。じゃあ早ぇとこ終わらせて、早く安心させてやらねーとなぁ。」
「・・・・そうだな。」

不覚にも、いつもと立場が逆転だ。
形兆は微かに笑ってから気持ちを引き締め直し、億泰を見据えた。


「念の為、もしも俺が駄目だった場合の行動を指示しておく。
まずはすぐにの部屋へ行って、お前の無事を伝えてやれ。
にはうちの全財産を預けて、30分経っても誰も来なかったら、それを持ってY市に帰れと指示してある。だからグズグズしてんじゃねぇぞ、時間厳守だ。
それから、弓と矢をトランクに片付けて、俺を部屋に運んで、と親父をここに隠してから救急車を呼べ。
あのジジイと連続しての事だから、不審がられて色々聞かれるだろうし、警察が事情を聞きに来たりするかも知らねぇが、落ち着いて知らぬ存ぜぬの一点張りで通せ。証拠は何も残らないんだから大丈夫だ。
ただ、親父との事は絶対に知られるな。その辺はも重々承知しているからきっと上手くやってくれるが、お前も決して油断するな。分かったな?」
「わ、分かったよ・・・・」
「弔いだの手続きだの、その辺りの事はさっき渡したノートに全部書いてある。
バカなお前でも分かるようにかなり分かり易く書いてやったつもりだが、それでももし何か分からない事があったらに聞け。
だが、表立って動くのはあくまでお前一人だ。しっかり頼んだぞ。
それから以降の事は、お前とに任せる。うちの財産を二人で分けて、後はお前らの思うようにしろ。」

指示を終えた途端、みるみる内に億泰のちんまりした目に涙が盛り上がってきた。


「・・・・兄貴ィ・・・・・」
「泣くんじゃねぇ。念の為だと言っただろう。俺達は必ずスタンド使いになる。そうだろうが。」

形兆は厳しい顔で、泣きべそをかく億泰を諌めた。
すると億泰は、拳でゴシゴシと涙を拭った。
再び形兆の方を向いた億泰は、まだ目を潤ませてはいるが、さっきと同じように覚悟を決めた顔をしていた。


「・・・・ああ・・・・・!」
「時間が無い。さっさとやるぞ。」

形兆は立ち上がり、部屋の隅に置いてあったトランクから弓と矢を取り出した。


「億泰、向こうの壁際へ行って立ってろ。」

形兆がそう指示をすると、覚悟を決めていた筈の億泰は、またあっという間に情けなく動揺した。


「ちょちょちょちょちょっと待ってくれよぉ!もしかして俺が先ぃ!?」
「後の方が良いか?なら別にそれでも構わねぇが、後の奴はどうしたって自分でやるしかねぇぞ?出来るか?」
「うえぇぇぇ!?それもちょっとぉ・・・・!!」

盛大にビビり上がる億泰に、呆れるといえば呆れたが、元は巻き込むつもりの無かった事だ。
このまま無理強いはせずに最後通牒を渡してやっても良いような気がして、形兆は構えかけていた弓と矢を一度下ろした。


「そんなに怖ぇんなら、やっぱりお前はやめても良いんだぜ?」
「いっ、いやっ!それは嫌だ!兄貴一人だけなんてぜってーダメだ!俺もぜってーやるぜ!」

けれども億泰は、どれだけ腰が引けていようとも、あくまでもその意志を翻そうとはしなかった。


「じゃあ先か後か、どっちかさっさと決めろ。」
「う、うぅぅ・・・・!先か・・・、後か・・・・」

先か、後か。
ずっと呟き続ける億泰に苛々してきて、形兆はカッと目を見開いた。


「ビビッてんじゃねーぞ、このダボが!時間が無ぇっつってんだろ!どっちかさっさと選びやがれ!」
「うぅぅぅぅ、じゃ、じゃあやっぱ先で・・・・!」

怒鳴られてようやく、億泰は腹を決めたようだった。
かなり苦渋の決断ではあるようだったが。


「よし。じゃあさっさと向こうへ行け。」
「お、おぅ・・・・・!」

億泰はビビり上がって青ざめた顔のまま、ヨタヨタと向こうへ歩いて行った。
そして、壁際で立ち止まると、情けない顔でまた泣きそうな声を出した。


「あ、兄貴ィ、せ、せめて後ろ向いてて良い・・・・・?」
「好きにしろ。」

億泰はその場で恐々と踵を返し、形兆に背中を向けた。
その背中に狙いを定めて、形兆は弓を構え、矢をつがえた。
その瞬間、億泰はまたクルッと身を翻して振り向いた。


「ああああああ!ちょっと待った!ちょっと待ったーーっ!!」
「何だよ!!」
「やっぱ前!!やっぱ前向くから!!」

前を向いた億泰は、顔面にこれでもかと力を込めて、固く目を瞑った。
ガチガチに強張ったその顔は、明らかにこの矢を恐れ、死の予感に怯えていた。
全く、羨ましい位に正直な奴だった。


「・・・ったく、テメェはよぉ・・・・」

形兆は溜息を吐いて、弓をその辺りに放り出した。


「分かった。もういい。ちょっとやり方を考え直そう。」

形兆のその一言で恐る恐る目を開けた億泰は、たちまちの内に顔を輝かせた。


「そ・・・、そうだよ兄貴ィッ!それが良いぜぇっ!何しろ親父はもうずっとこうなんだからよぉ、今更1日2日、1分1秒焦んなくったってさぁ、ゆっくり良い方法を考えて・・」

矢で射抜かれる恐怖から解放された億泰は、その反動で興奮し、はしゃいでいた。
それ故に、近付いて行く形兆が後ろ手に矢を隠し持っている事には、まるで気が付いていなかった。
形兆の狙いは、正にそれだった。


「か・・・・、・・・・・はっ・・・・・」

億泰が、怖がらないように。
少しでもその恐怖が薄らぐように、出来れば刺されるまで何も気付かないように。
それが目的での、作戦だった。


「兄・・・・貴ィ・・・・・・」
「・・・・・甘ったれてんじゃねぇぞ、億泰ぅ・・・・・」

形兆は億泰の背中に片腕を回して、強く抱きしめた。
その瞬間、矢じりが一層深く億泰の腹に埋まり、億泰は声にならない声を詰まらせ、咽るようにして血を吐いた。


「俺達は必ずスタンド使いになるんだ・・・・!必ず・・・・!」
「が、はっ・・・・・・!ぁ・・・・・」

億泰が形兆の腕の中から崩れ落ちてゆく刹那、目と目が合った。
涙を湛えたその目は、今この瞬間もまだまっすぐ、素直に、形兆を見つめていた。
やがて床に倒れた億泰は、もう呻き声さえ上げなくなった。
目の輝きが次第に失われてどんよりと澱んでいき、涙の粒が零れてこめかみを伝い落ちていった。


「・・・・億泰・・・・・・」

呼び掛けても、もう返事はない。億泰の呼吸は今、完全に止まっていた。
殺した?いや、違う。死んだ?いや、そうではない。
億泰は生きている。スタンドの能力を得て、必ず目を覚ます。
その筈だからこそ、敢えて何も聞いてやらなかったのだ。


「億泰・・・・・・・」

億泰に遺言を遺させなかったのは、億泰を信じたかったからだ。


「億泰・・・・・!」

億泰を、信じているからだ。


「目覚めろ、億泰・・・・、必ず目覚めろよぉッッ・・・・・!」

このまま死ぬなんて、絶対許さない。
形兆はそう強く念じながら、億泰の腹に深々と突き刺さっている矢を引き抜いた。


「ふんッッ・・・・・・!」

そしてそれを、一思いに己の腹に突き刺した。


「ぐ・・・・ぅぅぅ・・・・!」

今まで経験した事のない激しい痛みに襲われて、すぐに立っていられなくなった。
崩れ落ちて床に膝を着いた形兆は、そのままどうにか胡坐をかいて座り込むと、矢を握り締めて背中を丸め、押し込むようにして更に深く突き刺した。


「ぐぅぉぉぉぉ・・・・・・ッッ!」

冷たい汗が身体中から噴き出し、涙で視界が滲む。
腹の底から何かが急激に逆流してきて喉に詰まり、思わず咳込むと、滲んでぼやけた視界に紅い血が大量に迸るのが見えた。


「おおおおおぉぉッッ・・・・!!」

形兆は叫び声を上げながら、最後の力を振り絞って矢を引き抜いた。
そしてそのまま、力尽きて億泰の隣に転がった。


「ぅ・・・・、ぅぅ・・・・」

自分にまだ命が残っているのか確かめたくて、形兆は血塗れの手をゆるゆると伸ばし、億泰の手に触れた。
まだ目覚める気配は無いが、億泰の命はちゃんと残っているだろうか?


「・・・・億・・・泰・・・・」

起きろ。起きろ。億泰を揺さぶってみるが、上手く手が動かない。
このまま二人共死んでしまうのだろうか?
父にも伯父にもあったスタンドの才能は、俺達兄弟には無かったのか?
夜の海のような絶望の黒い波に呑み込まれかけたその瞬間、形兆の耳にドンドンという音が聞こえてきた。
ドンドン、ドンドン、忙しない音だ。
何の音だろうかと考えてみるも、回らない頭ではなかなか見当がつかず、暫くしてようやくそれが戸を叩く音だと気付いた。


「何・・・・だよ・・・・・・」

ドンドン、ドンドン、ドンドンドンドン!
次第に大きく激しくなる音は、の叫び声だった。


― 部屋で待ってろって・・・言っただろうがよ・・・・

戸を叩く音に乗って、の声が聞こえてくるようだった。
形兆君、億泰君、が必死にそう叫んでいるかのようだった。


― すぐ、行くから・・・、待ってろよ・・・、・・・・

けれどももう、形兆の身体は動かなかった。
の声はだんだん遠くなってゆき、黒い波が形兆を頭から丸呑みにして、そのまま何処かへと一気に押し流した。



漆黒の死の淵へ?

いや、そうではなかった。

遠くなって消えていった筈の音が、いつの間にかまた次第に大きく聞こえ始めていた。



「!!」

形兆はカッと目を見開き、飛び起きた。
自分が生きているのか死んでいるのかよく分からなくて、腕や脚など身体のあちこちを触ってみると、確かな手応えがあった。
血塗れになっていた筈の手や服は元通りの綺麗な状態で、矢を突き刺した腹も、何ともなっていなかった。


「億泰ッ!おい億泰ッ!」

形兆はすぐ側で倒れている億泰を揺さぶろうと、手を伸ばした。
正にその瞬間、億泰がモゾモゾと動き始めた。


「う・・・、うぅ〜ん・・・・、あ・・・あれ?兄貴・・・?」

やがて身体を起こした億泰は、何が何だか分かっていないような呆けた顔を形兆に向けた。形兆同様、億泰の身体からも、まるで何もかもが夢か幻だったかのように、一切の痕跡が消えて無くなっていた。


「億泰・・・、生きてたか・・・」
「あ・・・・、兄貴も・・・・・」

形兆と億泰は、互いに呆然とした顔を見合わせた。
その時、形兆は億泰のすぐ後ろに奇妙なものを見た。
ほんの1〜2秒前まではいなかった筈なのに今はいる『そいつ』は、人のような形をした、けれども人ではない、奇妙な奴だった。


「億泰・・・、そいつが・・・・」

お前の『スタンド』か?
そう訊こうとした瞬間、億泰は驚いて素っ頓狂な大声を上げた。


「うわぁぁぁっ!何だよ兄貴ィ!?その肩のとこのやつ!」
「あ?・・・うわっ・・・・!」

億泰が指さしている自分の左肩に目を向けて、形兆も思わず声を上げて驚いた。
そこにはアーミーグリーンの迷彩服を着た、小さな人形のような軍人が立っていた。


「な、何だこいつは・・・!?」
「うっ、うわぁぁぁっ!あっ、兄貴ィッ!ふっ、増えてる!増えてるぜそいつらぁッ!兄貴の周りにいっぱいぃッッ!何なんだよぉっ!」
「なっ・・・・!」

左肩の軍人に驚いたのも束の間、形兆の周囲にはまるでそいつのコピーのように寸分違わぬ奴等が、瞬く間に増殖していた。
億泰の『それ』と同じく、ほんの1〜2秒前までは確かにいなかった奴等が、瞬き1回する毎に続々と増えていく、その奇妙な現象に形兆は只々圧倒され、驚かされるばかりだった。
現れるのは、揃いの迷彩服を着て、手に手にコンバットナイフやライフルを構えている軍人が殆どだったが、その内に戦車や軍用のヘリコプターまでもが出現して、驚きは大きくなる一方だった。


「な、何だこれは・・・?まるで軍隊じゃねぇか・・・・・」

思わず呟くと、億泰が呆然としながら口を開いた。


「そ、それが、兄貴の『スタンド』か・・・?」
「みてぇだな・・・・。とすると、やっぱりそいつがお前のスタンドなんだな・・・・」
「へ・・・・・?」

億泰は、形兆が指さした方を振り返り、ぎゃあっ!と悲鳴を上げた。


「なっ、何だこいつ!?」
「やっぱ気付いてなかったのかよ・・・。さっきからずっとそうやってお前の後ろにいたんだがな・・・。」
「まっ、マジかよぉッ・・・!」

億泰のスタンドは、形兆のスタンドのように数を増やしはしなかった。スタンドというのは、サイズが大きければ単体で、小さければ群体で出現するのだろうか?
いや、そんな話でもないような気がする。ホル・ホースのスタンドは銃と弾丸だと聞いたし、ボインゴは本、オインゴに至ってはそれらしいものは何も無く、しかもまだスタンド使いでなかった形兆の目にも見えていたのだ。
きっと、形やサイズは様々なのだろう。スタンドは持ち主の精神エネルギーが具現化したものだというのだから。


「・・・・こいつが・・・、俺の・・・・」

形兆は恐る恐る左肩の軍人を掴み、自分の掌にそっと乗せてみた。
肩にいた時からそうだったが、重さも何かが乗っている感触も、全く感じなかった。
目が合うと、そいつは形兆の掌の上で直立不動の姿勢を取り、形兆に向かって敬礼をしてみせた。
まるで、形兆を指揮官だと思っているかのように。
形兆はそいつを仲間達の中に加えてやると、呆然とそれらを見つめた。


「・・・・は・・・、ははは・・、はははははっ・・・!」

自分の軍隊を。
自分の精神エネルギーが形を成した、スタンドを。


「やったぞ億泰ぅッ!!俺達は遂にやったんだぁッッ!!」
「おっ、おうっ・・・!やったぜ兄貴ィッ!」
「やったぞぉッ!!やったぁッッ・・・!!」

形兆は立ち上がって拳を振り上げ、子供のように大声ではしゃいで笑った。
さすがの億泰が、調子を合わせきれず幾らか気圧されてしまう程に。
けれども今の形兆に、そんな自分を恥ずかしく思う自制心は働かなかった。
今まで生きてきた中で、こんなにも激しい歓びを感じた事は無かったのだ。これがはしゃがずにいられようか。


「ようやくだ・・・・!ようやくこれで・・・・!!」

ようやくこれで、悲願を達成する事が出来る。
父を死なせて、母と共に安らかに眠らせてやってから、本当の自分の人生を始めるのだ。
激しく深い歓びと、初めて陽の光を浴びたような眩しい希望に思わず胸が震えたその時、形兆の耳にドンドンと戸を叩く音が煩く響いた。


「そ、そういや兄貴ィ、さっきからドンドン鳴ってるあの音、あれネーちゃんじゃねぇ?」

億泰も気付いたらしく、戸口の方を心配そうな顔で見た。
そういえば、ずっと聞こえてはいたのだ。ただ、それどころじゃなくて、そっちに全く意識が向いていなかっただけで。
まずはに無事を伝え、この素晴らしい結果を報告するのが最優先事項だった。
発現したばかりのスタンドの能力は、まだ何も分かっていない。使い方すらも。
その特訓や解明はまた後からじっくり腰を据えて取り掛かるとして、まずはを安心させ、この大きな歓びをにも分け与えてやるべきだった。


「・・・・・親父、待ってろよ。もう少しだからな。」

父はこの一連の出来事を見ていたのかいなかったのか、形兆と億泰には全く目もくれず、木箱をゴソゴソと漁って、中のガラクタをそこら中に散らかしていた。
永遠に続くかと思われていたこの無意味で残酷な時間を、もうすぐ止めてやれる。
そう思うと、いつもは目障りなだけのこの行動も、幾らか温かい気持ちで見てやる事が出来た。


「行くぞ、億泰。とにかくに無事成功した事を報告してやらねぇとな。」
「おうっ!」

離れの戸は、ずっと忙しなく叩かれ続けていた。
それに急かされるようにして、億泰が小走りで一足先を行った。


「へいへーい!今開けるよぉネーちゃん!」

億泰が鍵を開け、引き戸を全開にすると、戸口のところに必死の形相をしたが立っていた。


「いや〜悪い悪い!ビックリさせちまってよぉ!」
「・・・ったく、部屋で待ってろと言っただろうが。」

汗だくになって息を切らせていたは、離れから出た億泰と形兆を、見開いた目で呆然と凝視した。どれだけ心配を掛けていたのかが一目で分かる様子だった。
それに対して、すまないと思わなくはない。
思わなくはないが、だからといってやらない訳にはいかなかったし、もう終わった事である。
そんな事よりも、この喜ばしいビッグニュースを、早くにも聞かせてやりたかった。そうして、早くにも喜んで貰いたかった。


「まあ良い、それより見ての通りだぜ、!俺達が今、二人して無事にここを出て来たってのがどういう事か、分かるだろ!?
そうだよ、俺達は遂にスタンドの能力を手に入れたんだ!スタンド使いになったんだよ、俺と億泰は!」

当初見積もっていた予定時間はまだ経過していないが、千造のようにスタンドにエネルギーを吸い取られて病気になりそうな気はしなかった。
千造は己のスタンドに追い回されて逃げ惑っていたが、形兆のスタンドは主の命令を待つ番犬のように、形兆の側で今もじっと大人しく控えており、億泰のスタンドも億泰に寄り添ってただ立っているだけで、どちらも持ち主に害を成しそうには見えなかった。


「見ろよこいつらを!お前にも見えるか!?分かるか!?」
「・・・・・・・」

形兆は自分の軍隊を指さした。
けれどもは呆然とした顔のまま、僅かに首を振っただけだった。
やはりホル・ホースの言っていた通り、スタンドは普通の人間の目には見えないようだった。


「そうか・・・、まあそれなら仕方がねぇ。だがここに俺のスタンドがいるんだ!
何でか知らねぇが、軍隊なんだ!人形みてぇに小さい兵士が沢山いて、ラジコンみてぇなサイズの戦車やヘリまである!
それから、そっちには億泰のスタンドもいる!億泰のスタンドは単体だ!俺達よりも頭ひとつ分位デカくてガタイの良い奴で、色は白と青で、普通の人間の顔じゃねぇが、でも人間の形をしていて・・・!
あんま上手く説明出来ねぇが、まあとにかく、そんな奴等なんだよ!能力も使い方もまだ何も分からねぇから、これから早速・・」

突然、凄い力で頬を張り飛ばされて、形兆は呆然とした。
完全に想定外だったせいでもあるが、とにかく吃驚する位に痛くて。


「な・・・・・・・」

が今まで見た事もないような顔をして、形兆を睨んでいた。
咄嗟に言葉も出なくて呆然とその顔を見つめていると、は次に億泰の方を向き、億泰の頬も思いきりビンタした。


「ぶべっ・・・!え、えぇぇぇ・・・!?」

だが、これだけでは済まなかった。
1発ずつのビンタだけでは飽き足らず、は固く握り締めた拳で、億泰の肩や腕を叩き始めた。


「いたっ!いたたたっ!ちょっ・・・、い、いてーよネーちゃん!」

そして、反対側の手も同じように握り締めて、形兆の肩や胸に叩きつけた。
今まで見た事もない程に激怒しながら、何度も、何度も。


「っ・・・・・・!」
「なぁちょっと・・・、ネーちゃん・・・、ネーちゃんってばよぉ・・・・!」

形兆は内心で困惑しながら、億泰は目に見えてオロオロしながら、互いにそれを受け止め続けた。
どうすれば良いのか分からず、女に殴られるのも意外とマジで痛いものなんだな、などと妙な事を考えながらひたすら耐えていると、二人を交互に殴りつけていたの手が、だんだんと止まりがちになってきた。


「・・・・っ・・・・・・!」

やがて完全に手を止めたは、吐息をか細く震わせ始めた。
唇を噛み締めても堪えきれていない涙が、ポロポロ、ポロポロと零れてきて、はとうとう両手で顔を覆い、その場に崩れ落ちるように座り込んでさめざめと泣き始めた。


「ごっ・・、ごめんよぉネーちゃん!心配かけて悪かったよぉ!泣かねーでくれよぉ、なぁっ!?」

の泣き顔を、きっと今まで見た事が無かったのだろう。億泰はすっかり動揺して慌てふためき、一緒にしゃがみ込んで必死にを宥め始めた。
けれどもはしっかりと両手の中に顔を埋めたまま、只々身を震わせて咽び泣くばかりだった。


「泣き止んでくれよぉ、なぁってばぁ!ちょっ・・・、兄貴も知らん顔してねーで、一緒に謝ってくれよぉっ!つーかぜってー兄貴のせいだぜぇっ!?兄貴が空気読まずに何かワケ分かんねー事ばっかベラベラ喋るからぁっ!」

そうではない。ただ、を喜ばせたかったのだ。
出口の無いトンネルみたいな暗闇から、もうすぐ一緒に出られると、早く教えてやりたかっただけなのだ。
今は多分、言っても聞いて貰えないだろうが。
形兆は小さく溜息を吐き、おずおずと伸ばした手での肩にそっと触れた。


「・・・・・悪かった。」

何とか出せたのは、ぶっきらぼうなその一言だけだった。
躊躇いながらぎこちなく肩を撫でると、は暫し呼吸を止めた後、今までよりも一層激しく嗚咽を漏らした。


「ちょっ・・・!兄貴ィッ!何やってんスかぁッ!余計泣かせてどーすんだよぉッ!あっちょっ待っ・・・!ひ、一人だけズリいーーーッッ!」

泣きじゃくると困り果てている億泰をその場に残して、形兆は一人で先にその場を離れた。
こんなにまで心配されていた事に戸惑って。
まだこれだけの気持ちを持ってくれていたに、どう応えて良いか分からなくて。


















それから以降、は何も出来なかった。
億泰が謝り続ける声を聞きながら、ただひたすら泣いて、泣いて、泣き続けて、少し落ち着いたところで何とか自分の部屋に帰って、それから後は抜け殻のようにベッドに転がっていただけだった。
頭が回らなくて、身体にも力が入らなくて、時折揺り返してくる感情にまた昂っては少し泣いて・・・という事を繰り返している内に、いつしか疲れ果てて眠り込んでしまい、気が付くと外はもう暗くなっていた。
目が覚めてもまだ頭にも身体にもだるさが残っていて、そういえば夕食の支度が全く出来ていない事に思い至っても、起き上がる事は出来なかった。
まるで電池の切れてしまった玩具みたいに、何もする気が起きなかった。
夕食の支度もお風呂の用意も洗濯物の片付けもまだだし、預かっていたお金と宝石も、早く形兆に返しに行かないといけないのに。
ベッドの側に置いてある紙袋に目を向けた時、部屋のドアが小さくノックされ、暫くの間を置いて遠慮がちに開けられた。


「・・・ちょっとは落ち着いたか?」

向こうから顔を覗かせたのは、形兆だった。
が微かに頷くと、形兆は次に、入っても良いかと訊いた。
それにも頷くと、形兆は部屋の中に入って、静かにドアを閉めた。
こうなっては、もう流石に起きなければならない。
はまだだるさの残る身体を追い立てるようにしてどうにか立ち上がり、机の上の筆談帳とペンを取った。
いつものように首から下げてペンを握り、何からどう切り出すべきか、暫し迷った。
疲れ果ててエネルギーが尽きて、それで随分鎮まったつもりでいたが、決まりの悪そうな顔をしている形兆とこうして向き合っていると、また心にさざ波が立ち始めた。
そう、はまだ、形兆に対しての腹立ちが治まっていなかった。
承諾してもいない約束を勝手に取り決められて、突然独りぼっちで放り出されそうになって、本当に生きた心地がしなかったのだ。
待てと言われたあの時間、結局30分などとても耐えきれなかったが、その時間をどんな思いで待っていたか。
どんなに、どんなに、怖かったか。
それを思うと、感情に任せて力いっぱい叩いてしまった事を素直に謝る気にもなれなかった。


「・・・・・飯、出来たぜ。風呂も沸いてる。」

俯いて立ち尽くしているに、形兆は静かな声でそう告げた。
今に限って、どうしてそんな風に優しく喋りかけてくるのだろうか。
またジンと痺れてきた瞼を誤魔化す為に奥歯を噛みしめて、はお金と宝石の入った紙袋を形兆に差し出した。形兆も黙ってそれをすんなりと受け取った。
用はこれで済んだ筈だった。しかし形兆はまだ出て行かず、と向き合ったままだった。


「・・・あれはどうしても必要な事だった。」

形兆は唐突にそう言い放った。
意味を量りかねてそっと顔を上げてみると、形兆の真剣な眼差しがをまっすぐに見つめていた。


「俺はたとえ死ぬリスクを負ってでも、あの矢を使うしかなかった。理由はお前もよくよく分かっているだろう?」
「・・・・・・」
「・・・・・そう、思ってた。お前はちゃんと理解していて、そこは何の心配もしていなかった。
もしも俺に万が一の事があったとしても、お前が背負わなきゃいけねぇものは何も無いんだから、大丈夫だと思ってた。
もしも、俺も億泰も両方死んじまったとしても、こいつさえあればお前は自分の人生を始められる、そう思ってた。」

そう言って、形兆は少しだけ紙袋を持ち上げてみせた。


「部屋を借りて、病気を治して、学校へ通い直して。これさえあれば、お前はお袋やお袋の男に振り回されずに、自分の人生を生きていける。
お前はウジウジ弱そうに見えて、意外と強いからな。金の問題さえ解決出来れば大丈夫、お前ならきっとやっていける、そう思ってた。
大事にされてたんならともかくも、散々酷ぇ目に遭わされてばかりだったんだから、こんな男の事なんざすぐに忘れられるだろうと思ってた。でも・・・・」

何か続きがある筈なのに、形兆はそれっきり黙り込んだ。
翳りのある眼差しをから逸らして黙り込んでいる形兆を見ていると、切なさに胸が締め付けられた。


「・・・・・・」

形兆はどうして分からないのだろうか?
こちらの気持ちは何一つ変わっていないのに、どうしてそれを分かってくれないのだろうか?
あんなにも心の深いところまで分かり合えていた筈なのに、どうして、いつから、二人はこんな風になってしまったのだろうか?


「・・・・・・」

は再びペンを取り、筆談帳に『ごめん』と書いた。


「・・・・何が?」

はそっと自分の頬に触れた。
意味はそれで充分通じたらしく、形兆は微かな苦笑を洩らした。


「ああ・・・、別に。気にしてねぇよ。」

痛かった?と続けて書くと、形兆はまた小さく笑って頷いた。


「全く効いてねぇよ・・・、と言ってやりてぇところだが、意外とマジで痛かった。
あんないい攻撃喰らったの、久しぶりだった。お前案外力強いんだな。」

からかわれて反射的に恥ずかしくなったが、次の瞬間には、抑えきれない愛しさがこみ上げてきた。
は笑っている形兆の顔に、おずおずと手を伸ばした。


「・・・・・・・」

肉付きの薄い頬に指先でそっと触れると、形兆はピクリと肩を震わせたが、の手を跳ね除けようとはしなかった。
もう少しなら許されるだろうか?そんな欲が出てきて、今度は掌全体で形兆の頬を包み込んだ。


「・・・・・・・」

形兆は何も言わなかった。
ただと同じように息を押し殺して、じっとを見つめているだけだった。
がゆっくりと顔を近付けていっても、微動だにしなかった。


「・・・・・・・」

やがて、唇が触れ合った。
拒まれもしないが求められもしない、哀しい位に穏やかな口付けだった。


「・・・・・早く来いよ。飯、冷めちまうぞ。」

形兆はに背を向け、先に部屋を出て行った。
その背中が一層遠くなったように感じたのは、形兆が『スタンド』なる力を手に入れたからだろうか?
の目には見えないそれを手に入れた形兆は、この先どうなっていくのだろうか?
形兆が閉めていったドアを見つめながら、は今、得体の知れない漠然とした不安を確かに感じていた。

















形兆と億泰がスタンドの能力を得てから、2日が経った。
その2日間、形兆と億泰は家の周りの雑木林に篭り、一日中スタンドを操る特訓に励んだ。
スタンドに関して全く何一つと言って良い程何の知識も無い状態からのスタートだったから、それなりに時間はかかるだろうと覚悟していたが、意外にもそうはならず、形兆はその2日の間に、自分のスタンドをある程度自在にコントロール出来るようになっていた。
出したり引っ込めたりするのは勿論、兵士達に隊列を組ませたり戦車やヘリを動かしたりといった基本的な動作は、既にマスターした。
肝心の攻撃においても、初めは木の細枝1本折るのが精々といったレベルだったのが、隊列を整えて攻撃の陣形を組む事が出来るようになると飛躍的に攻撃力が増し、中木の幹をあっという間に蜂の巣にして砕き倒せるまでになった。
形兆のスタンドは、やはり群体というものの特性なのか、個々の単独攻撃よりも集団になって初めてその真価が発揮されるようだった。戦術を学び、陣形のバリエーションをもっと増やしていく事が出来たら、攻撃力ももっと上がるだろう。
自分のスタンドの特性を早々に掴んだ形兆は、益々特訓に身が入っていったのだが、対して億泰の方は、決してはかどっているとは言えない状態だった。
基本的な動作は一応問題無く出来るようになったのだが、肝心要の能力が一体何なのか、全く分からないのだ。
人型をしていて、攻撃力もそれなりにありそうな風貌をしているから、恐らく戦えるタイプのスタンドである事は間違いない筈なのだが、その戦いが実に凡庸なのである。
戦い方にしても攻撃力にしても、この程度なのかと拍子抜けしてしまう程ごくごく普通のレベルで、これこそがこのスタンドの特性だと思えるようなものは何も無かった。
となると、元々が面倒くさがりで不勉強な性分をしている億泰が特訓に飽きてきてしまうのは必然であり、3日目に突入する頃には、億泰はもう半分形兆の特訓を見ているだけというような状態になっていた。


「あっちぃ〜・・・・!なぁ兄貴ィ、もうそろそろ休憩しねぇ?」

休憩休憩と、もうこれで何度目だろうか。
確かに暑いし、何より忙しいので、何回かは聞き流してやったし、1〜2回は実際に許してもやったが、もう限界だった。
形兆は億泰の方を振り向きざま、練習を兼ねてスタンドの機銃掃射をその足元に浴びせてやった。


「うわぁっ!ちょっ・・・、いきなり何すんだよぉ兄貴ィッ!」
「やかましいっ!テメェいい加減にしろよ億泰ぅ!サボってばっかいやがるんじゃねぇ!」
「だってぇ!」
「だってじゃねぇ!」

形兆は自ら億泰にツカツカと歩み寄り、自身の拳骨も頭に1発落としてやった。
すると億泰は、大袈裟な悲鳴を上げて痛がった。


「いってぇ〜・・・・・!何すんだよぉっ!」
「テメェは一体いつになったら真面目に特訓するんだ!そんなんじゃいつまで経っても進歩しねぇだろうが!」
「進歩はしてるよぉ!今の攻撃ちゃんと避けたじゃねーかよー!」
「さっきのは避けれて当然のレベルだ!威張って言う程の事か!」

形兆は更に億泰を怒鳴りつけ、尻に蹴りを入れた。
不快な暑さにも苛々してはいたが、何よりも、この期に及んで簡単に挫けている億泰が不愉快だった。
命懸けでようやく手に入れた能力なのに、何故もっと向き合おうとしないのだろうか?
このまま持ち腐れても構わないとでも思っているのだろうか?


「億泰。俺がガキの頃から何度も言ってきた事、覚えているか?」

そんな事は、断じて許せなかった。


「無能な奴は側の者の足を引っ張る。人は成長してこそ生きる価値があるんだ。」

母が死に、父が化け物となったばかりの頃、幼かった形兆にとって、更に幼い億泰は、心の支えであると共にそれ以上の大きなお荷物でもあった。
そんな億泰にこの台詞を繰り返し浴びせかけては、身の回りの事や家の事を厳しく仕込んできた。
そうしなければ、とてもやっていけなかったのだ。
一人だけいつまでも赤ん坊気分のままでいられては、あの時点で兄弟共倒れになっていたのだから。
時が流れて億泰も一通りの事が出来るようになってからは暫く言う事も無かったが、今またこの台詞で追い立てなければならない状況になっていた。


「お、覚えてるけどよぉ・・・。でも、じゃあどうすりゃ良いってんだよぉ・・・。思い付く限りの事はもうやってんだからさぁ・・・。」
「そういう所だ。何でもすぐに俺を頼るな。簡単に答えが出てくると思うな。見方を変えるなり何なり、自分で色々と模索しろ。そういう努力を惜しむんじゃねぇ。」
「ど、努力・・・・・」
「その努力こそが成長の原動力だ。何としてもそのスタンドの能力を解明しろ。良いな?」

出来ないでは済まない。
命懸けで手に入れたこのスタンド能力、何としてでも解明し、使いこなせるようになって貰わなければならないのだ。
そんな形兆の執念がようやく伝わったのか、億泰はだらけきっていた態度を、渋々ながらも多少引き締め直して、分かったよぉ・・・と呟いた。
しかしその次の瞬間、生い茂る草を掻き分けながら遠慮がちに近付いて来るに気が付いて、また緊張感を欠いてしまった。


「おお〜っ!ネーちゃ〜ん!」

億泰は天の助けとばかりに顔を輝かせて、に駆け寄って行った。
の側でスタンド攻撃の特訓は出来ないから、実質はこれで億泰の望みが叶った訳である。
無駄に運の良い奴め、と苦々しく思いながら、形兆もその後をついて行った。
特訓に夢中になってつい失念していたが、考えてみれば丁度昼飯時だったのだ。
思った通り、の筆談帳には『ご飯できたよ』と書かれてあった。
それを読んだ億泰は、ヤッホーウ!と歓声を上げて飛び上がった。


「昼メシだってよ兄貴ィッ!早く食わねーと冷めちまうぜぇっ!・・・え?素麺?じゃあ伸びちまうぜ!早く早くぅっ!」

要するに、特訓から逃げ出せるなら何でも良いのだ、億泰は。
いつもの2割増し位にはしゃぐ億泰の顔を見て、形兆はうんざりと溜息を吐いた。
上等だ、昼休憩が終わったら、これまでの2割増しでしごき倒してやると心に決めたその時、突然億泰が叫び声を上げた。


「うわぁぁっ!!ネーちゃん頭っ!!頭のとこっ!!」

の頭のすぐ側に、大きな蜂が飛んで来たのだ。
億泰の叫び声でそれに気付いたは、悲鳴こそ上げられないが、一瞬でパニックに陥った。
刺されたら大変だと、形兆は急いでを自分の側に引き寄せようとしたが、同じくパニックになっている億泰の方が、形兆より僅かに早く動いた。


「危ねぇッッ!!」

蜂を追い払おうとしたのだろうか、それとも、出来る訳ないのだが蚊のように握り潰そうとしたのだろうか、どちらとも分からなかった。
きっと億泰自身、咄嗟に手が動いただけで、自分が何をするつもりだったのかは分かっていなかっただろう。
とにかく億泰は、蜂を掴み取るような動作をした。


「っ・・・・・・・!」

その瞬間、飛び回っていた蜂が忽然と消え、は何故か億泰の腕の中にいた。


「・・・・・・?」

は何が起きたか分かっていない様子だった。
しかし、本人には見えていなくても、周りにいる者にはちゃんと見えていた。
背中を覆う程長いの髪は、何故か片側の横髪だけが肩に着かない程短くなっていた。


「・・・・・え・・・・・・?」

億泰もそれに気付いたのか、只々呆然と目の前のを凝視した。


「・・・・億泰、テメェ・・・、今・・・、何した・・・・?」

形兆がそう呟くと、億泰はみるみる内に顔を青ざめさせた。


「うっ・・、うわぁぁぁっ!なっ、何だよそれぇ!!も、もしかして俺がやったのか・・・!?うわわわわ・・・!どっ、どーしよー!?ごめんよネーちゃん!おっ、俺っ、俺っ、そんなつもりじゃなかったんだけどよぉっ・・・!」
「っっ・・・・!」

億泰が血相を変えて騒ぎ始めて、もようやく自分の髪の異変に気が付いたようだった。
形兆は慌てふためく億泰を押し退けて、の前に立った。
短くなった部分の髪に触れると、突然で驚いたのか、は微かに肩を震わせて硬直した。


「・・・・・これは・・・・・」

足元に髪は落ちていない。
つまり、切られたり、引き千切られたりしたのではなかった。
ただ『無くなって』いるのだ。
何処かへ消え失せてしまったかのように、その部分だけが綺麗さっぱりと。


「・・・・・・・」

蜂の死骸も落ちていなかった。
それもまた、何処かへ消えてしまったかのようだった。
そして、さっきのあの瞬間、何故か億泰の腕の中にいた
億泰が抱き寄せた訳でも、が飛び込んでいった訳でもなく、ただいきなり『そこにいた』というあの状況。
それが意味するところは。


「・・・億泰・・・、分かったぜ・・・・」
「・・・へ・・・・?な、何が・・・・?」

それが意味するところは、たった一つだった。


「これが・・・テメェのスタンド能力だ・・・・・・」
「これが・・・・・!?・・・・って、ど、どれが?」

馬鹿な億泰は、まだ分かっていなかった。
自分がどれ程の能力を手に入れたのか、自分のスタンドがどれ程恐ろしいものか。
しかし、形兆にはもう見えていた。


「・・・『削る』んだよ、テメェのスタンドは・・・・」
「け、削る?」
「蜂でも、髪でも、空間でさえも、その手で掴み去ったものは何でも削り取って消滅させちまうんだよ・・・!」

相変わらず訳が分かっていない様子のと目が合うと、うだるような暑さが一瞬にして凍りつく程の寒気に変わった。
一歩間違えていれば、はさっきの一瞬で首無し死体になっていた。
キョトンとしているの顔を見つめながら、形兆は噛み締めてしまったその恐怖に身震いをした。




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後書き

フ〜ッ・・・・・!(達成感の溜息)
ずっと書きたかった部分をやっと書き上げて、今私は大変清々しい気分でおります。
が、話としてはまだ続く、むしろここからが『虹村形兆』ですからね。
杜王町を目指して、ばく進していきますよー!(←執筆速度はカタツムリ並ですが 笑)