愛願人形 20




形兆が出て行った後、の部屋の中はシンと静まり返った。
不吉な静けさだった。
何だか嫌な予感がして、けれどもそれが何なのか具体的にはまるで見当もつかなくて、とりあえず腰を下ろそうかという気にもならなかった。
立ち尽くしたままその漠然とした不安に耐えていると、それを曲解したのか、億泰が申し訳なさそうな顔になった。


「さ、さっきはゴメンよぉネーちゃん。あのクソジジイが嫌な事言いやがって・・・・・。
気にしねぇでくれよ、な!?あのジジイ、すぐにがっつりシメてきっちり詫び入れさせてやっからよぉ!
大体、兄貴も兄貴なんだよ!ネーちゃんがあんな言われ方してんのによぉ、何大人ぶって落ち着いちゃってんだよぉ!?なあ!?
日頃は俺がちょっと何かしただけで、すーぐ鬼みてーにブチギレんのによぉ!こういう時にこそキレるべきだよなぁ!?」

必死に慰めようとしてくれている億泰のその気持ちが、嬉しかった。
しかしが今考えている事は、さっきの侮辱ではなかった。
あれには勿論ショックを受けたし傷付きもしたが、今は形兆がしようとしている事の方が気に掛かって仕方がなかった。
は少しだけ笑って首を振り、筆談帳にペンを走らせた。


「私なら大丈夫。ありがと。それより、形兆君とお父さんの方が心配。大丈夫かな?」
「いやぁ、それは・・・・」
「伯父さんって、お父さんがああなっている事は今も知らないんでしょ?」
「ああ。兄貴はいつも、あのジジイには絶対知られちゃ駄目だって言ってたもんよぉ。」

は億泰の顔を見上げた。億泰もまた心配そうな、不安げな顔をしていた。
きっと心配のしすぎなんかじゃない、そう感じたは、筆談帳に『様子を見てくる』と書きつけた。


「マジかよぉ!?でっ、でもよぉ、兄貴はここにいろって・・・」

そう言いかけて言葉を切った億泰は、一層不安げな顔になった後、やがて腹を括ったように強い眼差しでを見た。


「お、俺も行くぜぇ!やっぱどう考えても心配だよぉ、うん!」
「・・・・!」

も億泰に頷き返し、二人ですぐさま部屋を出て、足早に離れへと向かった。
そして、離れの戸を今まさにノックしようとした瞬間、向こう側から何か叩き付けたかのように戸が大きく揺れ、呻き声も聞こえた。


「!!」
「な、何だよ今の・・・・!?」

も億泰も反射的に後退ったが、いち早く億泰が動いて、恐る恐る戸に手を掛けた。


「あ、あれ?鍵がかかってる・・・。おい、どうしたんだよ!兄貴!何があったんだよ!なあ!」

億泰は開かない戸をドンドン叩きながら、中にいる筈の形兆に大きな声で呼びかけた。すると、すぐに鍵の開く音がして、向こう側から戸が開いた。


「うるせぇ億泰。デカい声出すんじゃねぇ。」
「兄貴ィ!何やってたんだよぉ心配したぜぇ!・・・って・・・、ぎええぇぇッ!!」

億泰は一際大きな声で絶叫し、凄い速さで飛ぶようにして後退った。
の前方を塞ぐ位置に立っていた億泰がそこを離れた瞬間、にも見えた。
戸口の所に立っている形兆と、その足元に倒れている、虹村兄弟の伯父の頭が。


「・・・・・・!」

は大きく息を呑み、戸口に駆け寄ってから、覚悟を決めて戸を大きく開けた。


「・・・・お前も来たのかよ。」

苦い顔をしている形兆の足元には、やはり虹村兄弟の伯父がうつ伏せに倒れていた。
その背中には深々と矢が突き刺さっており、形兆の手には木の弓が握られていた。
その状況が示す事実は、認めたくないが一つしかなかった。


「・・・・・・!!」
「そんな顔すんな。俺はコイツを殺したんじゃねぇ。」
「・・・・・・!?」
「ど、どういう事だよ兄貴ィ!?」

形兆はうんざりしたように溜息を吐いた。


「全部済んでから説明するつもりだったが、まあ良い。説明してやるから、二人共さっさと入れ。」

形兆はそう言うと踵を返し、伯父の身体を引き摺って奥に入って行った。
とにかく、行くしかない。
と億泰はお互いに顔を見合わせてから、それぞれ形兆の後について行った。
部屋に入ると形兆と伯父がいて、更にその向こうに父親もいたが、食事を終えて満ち足りたらしい彼はいつものようにぼうっと呆けており、すぐそこに矢で射抜かれて倒れている自分の兄の事はまるで気付いてもいなかった。


「兄貴ィ、幾ら何でもマズいぜこれは〜・・・・!そりゃあ俺だってブチ殺してやりてぇぐらい腹立ったけどよぉ、だからって何もマジで殺んなくたって・・・・!」

億泰は殆ど泣きながら、形兆に縋っていった。
彼等の伯父はうつ伏せに倒れたまま、ピクリとも動かなかった。
形兆がこの人の事をずっと恨みに思っていたのは知っていたが、こんな大惨事に至ってしまった原因は自分にあるのではないかと思うと、もうどうしていいか分からなかった。
こんな報復をして欲しかった訳ではないのに。
こんな取り返しのつかない事をして、この伯父は勿論、億泰や父親や、形兆自身の人生までめちゃめちゃになってしまって、一体どうすればいいというのだろうか。
途方もない罪悪感に震え、すすり泣きながらも、は筆談帳に『早く救急車を!』と書きつけ、形兆に見せた。


「二人共泣くな。だからそうじゃねぇっつってんだろ。まずは俺の話を聞け。救急車は後だ。」

しかし形兆は全く動揺を見せず、またうんざりと溜息を吐いて億泰を鬱陶しそうに振り払った。


「この矢は只の矢じゃねぇ。『スタンド』という力を引き出す事の出来る矢だ。」
「ス、スタンド!?何だよそりゃあ!?」
「精神のエネルギーが具現化したものだそうだ。」
「ぐ、ぐげん・・・?な、何だそりゃ・・・・?」

億泰も全く訳が分かっていなさそうだったが、もそれに負けず劣らず呑み込めなかった。
それがどういうものなのか、欠片程のイメージも湧かなかった。
涙目で呆然としていると億泰を見て、形兆はまたもや溜息を吐いた。


「とにかく、特別な能力という事だ。その素質を持つ人間がこの矢で射抜かれれば、そいつは自らの能力に目覚め、『スタンド使い』となる。
これまで色々と調べてきた結果、親父も昔、エジプトに渡り、この矢で射抜かれてスタンド使いになったという事が分かった。億泰、お前は覚えてねぇだろうが、お袋が死ぬ寸前の事だ。」
「じゃ、じゃあ親父にもその『スタンド』って力があるのかよぉ!?」

億泰は驚いて、父親の方を指さした。
それに釣られてはまた彼の方に目を向けたが、彼は相変わらずぼんやりと宙を眺めたまま、今ここで起きている事に全く何の関心も示していなかった。


「分からねぇが、多分今はもう無いんじゃねぇかと思う。何せ10年もこのザマなんだからな。そんな能力があるようにはとても見えねぇだろ。」
「そ、そりゃあまぁ・・・・」
「親父がこうなっちまった原因は、『DIO』という奴のせいだという話を、覚えているか?」

初めて彼に引き合わされた時に、形兆から聞かされた話だ。それはも勿論覚えていた。


「俺はエジプトで、昔その『DIO』の手下だった奴等に会った。そして、この弓と矢を売って貰った。昼間持ち出して行った金は、その代金だ。その中の一人が一緒に日本について来て、空港で金とこいつを交換する取引だった。」
「とっ、取引って、そんな奴ら信用出来んのかよぉ!?」
「信用するしかないような力を、エジプトで見てきた。だから取引したんだ。」

形兆は険しい目で億泰をひと睨みし、そう答えた。


「そいつ等の中に、予言の力を持つ者がいた。そいつの予言に出ていたんだ。このジジイが家へ来るとな。そして、俺がこいつを矢で射抜き、こいつにスタンドが現れるとな。」
「予言って・・・・」

スタンドなるものも突拍子のない話だったが、これもまた随分と突飛な話だった。
億泰は暫くポカンとした後、ワハハハと声を上げて笑った。


「兄貴いつからそういうの信じるようになったんだよー!俺やネーちゃんがTVの心霊特集とかミステリー特集とか見てても、こんなの全部インチキだってバカにしてたのによー!」
「今でもだ。幽霊も宇宙人もノストラダムスの予言も、俺は今でも何ひとつ信じちゃあいねぇよ。けど、こいつだけは別だ。この『スタンド』の力だけは・・・・」

しかし形兆の顔は真剣そのもの、いや、鬼気迫るような深刻さを帯びていた。


「親父を殺すには、『スタンド』の力が必要だ。
スタンドの能力をもってすれば、きっと親父を死なせてやる事が出来る・・・!
もうそれしか手立てがねぇんだよ・・・・!」
「じゃ、じゃあ何か・・・?お、伯父さんに親父を殺して貰うってのかよ・・・・!?」

億泰のその質問に、形兆は渋い顔をして小さく首を振った。


「分からねぇ。勿論、試させてみようとは思ってる。が・・・・」
「ど、どういう事だよぉ!?」
「予言では、こいつは確かにスタンドの能力に目覚めはするが、その力を使う事なく病気になって死ぬと出ていたんだ。」
「えぇぇぇぇ!?!?ど、どーゆーこと!?!?」
「たとえスタンドが発現したとしても、逆にそれに自分のエネルギーを吸い尽くされて病気になり、死ぬ奴もいるそうだ。
そして素質の無い奴に至っては、射られたその場ですぐに死ぬらしい。たとえ掠り傷だったとしてもな。」
「えぇぇぇぇ・・・・・!?」

もう何が何だか、さっぱり分からなかった。
病気も何も、今現在この人は、背中を矢で深々と射抜かれているのだ。
死ぬとしたら、今この瞬間の筈ではないのか?
素質がどうのではなくて、矢で射抜かれたら普通は誰でも死ぬんじゃないのか?
そう思うとまた身体が震えてきて、は必死にペンを走らせた。


「そんなの信じられないよ!さっぱりワケが分からない!とにかく早く救急車を呼ばないと!」

の書いたその一文を読んだ形兆は、一瞬睨むようにを見据えてから、その視線を足元の伯父に向けた。


「俺はその連中のスタンド能力を、信用するしかないものを、自分のこの目で見てきたんだ。
だが正直なところ、俺だって心の底から100%信じきれている訳じゃねぇ。
だから、確かめなきゃならねぇんだ。このクソッタレが本当にスタンドに目覚めるのか・・・・」

そして、伯父の背中に突き刺さっている矢を握り締めた。


「・・・・この矢が本当に、俺の求めている力を生み出す事の出来るものなのかをな!!」

形兆が何をしようとしているのか、が気付いた時にはもう止める暇も無かった。その瞬間に、形兆は伯父の背中に刺さっている矢を一思いに引き抜いていた。


「うっ、うわぁぁぁっ!!兄貴ダメだぜぇッ!!そんな事したら・・・!」
「っっ・・・・・!!!」

たちまち傷口から血が噴水のように噴き出した。
が、それは矢の抜けた瞬間の事で、何故かすぐにピタリと止まった。
そして、息絶えたようにどんよりとしていた虹村兄弟の伯父の目に、次第に生気が蘇ってきた。


「・・・・ぅ・・・、うぅ・・・・」
「えええええええ!?!?!?!?」
「っっ・・・・・!?!?」

億泰の驚愕する声が大きく響く中、彼は遂にモゾモゾと動き出し、身体を起こしてその場に座り込んだ。


「あぁ・・・・・、な・・・・、何だ・・・一体、何が起きた・・・?」
「おおおお伯父さん!!大丈夫かよぉッッ!?!?」
「あぁ・・・?何だ億泰、小娘、お前まで・・・、何で皆ここにいるんだ・・・?」

虹村兄弟の伯父は、しかめっ面で億泰とを順に睨みつけた。
それから最後に形兆と目が合うと、ヒィッと悲鳴を上げて後退った。


「おめでとうございます、伯父さん。やはり生きていましたか。」
「な・・・・・!」
「どうですか、気分は?伯父さんはこれで、昔の親父と同じ、スタンド使いになったんですよ。」
「ス、スタンド使い・・・?」

首を捻った次の瞬間、虹村兄弟の伯父はギョッと目を見開いた。


「なっ、何だこいつは!?」

虹村兄弟の伯父は唐突にそう叫び、弾かれたように立ち上がった。
そして、何かを振り払おうとするような動きをし始めた。


「なっ、何なんだ!!何故ワシに纏わり付く!?ええい離れろ、向こうへ行けっ!向こうへ行けと言うにっ!!」

目に見えない何かから必死に逃げ惑うその動作は、とても今しがた背中を矢で射抜かれた人の動きとは思えなかった。
もう全くダメージが残っていないかのように、いや、そもそも何事も無かったかのような彼の様子に、は驚愕した。


「伯父さん、それが多分、伯父さんの『スタンド』ですよ。
どんな形ですか?どんな色ですか?俺には見えないので教えて下さいよ。一体どんなやつですか?」

形兆が声を掛けると、彼は必死の形相で形兆に縋り付いていった。


「形兆ッ!形兆ッ!助けてくれッ!!こっ、こいつを追い払ってくれッ!」
「伯父さん、落ち着いて!怖がらずにそいつを使ってみて下さい、さあ!」

形兆は縋り付いてくる伯父を力ずくで引き摺るようにして、向こうにいる父親の元へと連れて行った。


「ほら、やるんだよ!テメーのそのスタンドで、親父を殺すんだよ!早くッ!」

形兆は父親の前に、怯えきっている伯父を突き飛ばした。
足をもつれさせて倒れ込んだ彼は、異形の姿に変わり果てた自分の弟を見て悲鳴を上げ、またあらぬ方向を見て更に悲鳴を上げて、這い蹲るようにして今度は億泰に縋り付きに行った。


「おっ、億泰ぅッ!億泰助けてくれぇッ!こいつをッ、こいつを追い払ってくれぇッ!」
「そっ、そんな事言われたってよぉ!『こいつ』ってどいつだよぉ!?俺には何も見えねーよぉっ!」
「たっ、助けてくれ!助けてくれぇッ!こいつが纏わり付いてくるんだ!早くッ!早くぅッ・・・!」
「っ・・・・・!!」

虹村兄弟の伯父はとうとう、なりふり構わずにまで縋り付いてきた。
しかし、助けてくれと言われても、億泰にもにも、どうしてやる事も出来なかった。彼の言う『こいつ』というものは、にも億泰にも形兆にも、全く見えていなかったのだから。
なす術も無くて、かと言って何もせずにいる事も出来なくて、はしがみ付いてくる虹村兄弟の伯父を何とか受け止め、その腕や肩を必死に擦った。そんな事をしたって何にもならないとは分かっていたが、それでもそうせずにはいられなかった。
そうこうしている内に彼の顔が苦しげに歪み始め、やがて彼は苦悶の呻き声を小さく上げながら、胸を押さえてその場に転がった。


「っ・・・・・!!」

もすぐさまその場にしゃがみ込み、しっかりしてと念じながら彼の身体を揺さぶったが、彼はもうさっきのようには動けなくなっていた。
意識は辛うじてまだあるようだが、苦しそうな呻き声を上げるのが精一杯で、もう喋る事すら出来ないようだった。


「・・・やっぱりダメだったか。予言は絶対ってのは本当だったんだな。
だがこれで、この弓と矢も間違いなく本物だと証明された訳だ。」

形兆は落ち着き払った声でそう呟くと、の横にしゃがみ込み、胸を押さえて苦しんでいる伯父に喋りかけた。


「ご苦労だったな。『テスト』はこれで終了だ。
これから暫く苦しい思いをするだろうが、50日程経ったら楽になるだろうよ。その時にまた会おう。テメェの葬式でな。」
「うぅぅ・・・・!」

形兆は立ち上がり、父親の側にあったふきんで矢に絡みついている血を拭い取り、弓と共に元通りトランクケースにしまい込んだ。


「億泰、手ェ貸せ。このジジイを居間へ運んで、救急車を呼ぶ。」
「お、おう・・・・!」
は事が落ち着くまでここにいろ。親父の事頼んだぞ。」

虹村兄弟は両側から伯父の身体を支えて何とか立ち上がらせ、引き摺るようにして居間へ運んで行った。
彼等が出ていく後ろ姿を、はただ見送る事しか出来なかった。


















盆が終われば夏ももう終わり、とは言うが、秋の涼しさがやって来るのはまだまだ先のようだった。
今日も今日とてうだるような暑さの中、形兆は盆飾りの片付けをし、盆供養の為に出していた母親の骨壺を、普段の通りに金庫へしまった。遺骨を安置する場所として、そこは決して相応しくないと分かってはいるが、他に適当な場所が無いのだ。
本来ならば、とっくの昔に墓を建てるなり寺に納骨するなりしていなければならないところだが、形兆の父はそれをしないまま、化け物になってしまった。
けれども形兆は、その点に関してだけは、昔も今も父を責める気にはならなかった。
金庫の中で金と共に眠らされている母に済まないと思わなくはないが、それでもここにいてくれれば、ずっと一緒にいられる。
何処にも逃げ場のない不安や恐怖と必死で闘っていた幼き日の形兆にとっては、たとえ骨壺でも、抱きしめる事の出来る母親が必要だった。
そして今では、父と母を同じ場所で眠らせてやりたいと思っている。虹村家の墓を建てるのはその時だと。
もう少しだけ待っててくれ、母に心の中でそう告げて、形兆は静かに金庫の扉を閉めて鍵をかけた。
扇風機が送ってくる風は生温く、窓の向こうには色だけ涼しげな夏空が広がっていた。
形兆は深呼吸をして立ち上がり、机の上に置いていた1冊のノートを手に取って、億泰の部屋に続いている襖を開けた。
畳の上に寝転がってヘラヘラ笑いながら漫画雑誌を読んでいた億泰は、形兆を見るなり慌てた顔をして飛び起きた。


「あっ、兄貴ィ!わ、分かってるって!今から!今からやろうと思ってたんだよ宿題!」

呆れてものも言えなかった。
あまりにも呆れすぎて、つい吹き出してしまう程だった。
てっきり怒鳴られるとばかり思っていたのだろう、億泰は調子が狂ったように呆然とした。


「な、何だよぉ・・・・?」
「別にお前の宿題をチェックしに来た訳じゃねぇよ。誰がそんなヒマな事するか。」
「じゃ、じゃあ何の用だよぉ・・・?」

まだ少しビクビクしている億泰に向かって、形兆は持って来たノートを差し出した。


「な、何だよこれ?まさか代わりに宿題やっといてくれたの?」
「な訳ねーだろ。」

形兆はそのノートを億泰の脳天にバシッと叩き付けてから、改めて億泰に手渡した。


「そのノートに大事な事を色々と書いておいた。金庫の鍵の開け方とか、印鑑や書類の用途や内容とか、色々な。」
「ほへ?」
「まぁお前には何から何まで分からねぇ事ばかりだろうが、まずは金庫を開けりゃあ良い。大事な物は全部そこに入っているから、金庫を開けてみて、そのノートを見ながら必要な物を探せ。分かったな?」
「・・・って・・・、っていうか、何だよいきなり??」

まずそこが分かんねぇんだけど、と呆然と呟く億泰を、形兆は厳しい目で見据えた。


「・・・今から俺は、あの弓矢を自分に使う。」

そう告げた瞬間、億泰の間抜け面がそのまま固まった。
そして、点のようになっていた目が、だんだんと大きく見開かれていった。


「兄貴・・・・・・!」

流石の億泰でも、こればかりはすぐに意味が分かったようだった。


「何言ってんだよ!兄貴まで千造伯父さんみたいになる気かよ!」
「落ち着け億泰。静かにしろ。に気付かれる。」
「落ち着いてなんかいられるかよ!そんな事言われて『はいどうぞ』って俺が言うとでも思ったのかよ!
伯父さん、あれからずっと入院したままなんだろ!?まだ治ってねぇんだろ!?」

億泰の言う通りだった。
あの夜、ここから救急車で搬送されていった千造は、そのままずっと予断を許さない状態で入院中だった。
千造が乗りつけてきた車を引き取りにやって来た千造の妻から話を聞いたところによると、千造は原因不明の病気で、昏睡状態とはいかないまでも意識が混濁していて、深刻な状態に陥っているとの事だった。
何か心当たりはないのかと、まるで責めるようにして随分しつこく問い詰められたが、しらを切り通すのは赤子の手を捻るより簡単だった。
矢で射抜いた背中の傷は跡形も無く消え去っており、服に血1滴分の染みすら残っていなかったのだから。
仮に千造が何かを口走ったとしても、証拠が無いのだから、誰が聞いてもそれは只の病人のうわ言にしか過ぎない。
形兆にとって千造の事はもう、ほんの僅かにさえも気に掛ける必要の無い事、既にケリのついた過去の事となっていた。


「兄貴まで・・・・、兄貴までああなっちまったら、俺どうすりゃ良いんだよぉ・・・・!」

情けなく泣きべそをかきながら縋り付いてくる億泰の頭に、形兆は殆ど力を入れていない拳骨を落とした。


「・・・バカ言うな。テメェ、この俺があのクソッタレの伯父貴の二の舞になるとでも思ってんのか?見くびってんじゃねぇぞ。」
「・・・・へ・・・・?」
「俺をあんなどんくせぇジジイと一緒にすんな。俺は絶対にスタンド使いになる。今まで俺が口に出して実現しなかった事が、ひとつでもあるか?」

唇を吊り上げてみせると、億泰は涙に濡れた目を幼子のようにキョトンとさせた。
幼い頃に散々使った手が今もまだ通用するのが、情けないような擽ったいような、妙な気分だった。


「・・・・ない・・・・。兄貴の言う事は、いつも絶対だもんよ・・・・」
「そうだ。俺は言った事は必ず実行に移す。それを誰よりも一番良く分かっているのは、弟のお前だ。だろ?」
「・・・だったら・・・、何でこんなノート寄越すんだよぉ・・・・」

馬鹿でも中3、流石にそこまで幼くはなかったかと、形兆は微かに苦笑いを浮かべた。


「バカ、そうじゃねぇよ。良いか?テメェももう義務教育が終わる歳なんだぜ?いつまでもガキのつもりでいられると、俺が迷惑なんだよ。
いつまでも何から何まで手取り足取りテメェの世話焼いてられる程、俺はヒマじゃねぇんだよ。逆にそろそろ書類の書き方ぐらい覚えて、俺を手伝えるようになって貰わねぇと困るんだ。
だから、いい加減にちったぁ自分で大人になる勉強でもしやがれ。そういう意味で書いただけだ。」
「ほ・・・ホントに・・・?」
「本当だよ。」
「ホントのホントに・・・?」
「本当の本当だよ。しつけーぞ。」

形兆はうんざりした顔をして、深々と溜息を吐いた。
今まで大勢の人間を欺いてきたが、形兆が一番多く騙してきたのは、たった一人の弟であるこの億泰だった。
母親の事。父親の事。の事。その都度その都度、その時の状況に応じて隠したり嘘を吐いたりして騙してきた。
そんなに騙され続けたら、普通ならすっかり不信感を持つところなのに、しかし億泰はそうならなかった。


「・・・分かった・・・。兄貴がそう言うなら・・・、俺は兄貴を信じるよ・・・。いつも・・・、いつだってそうしてきたんだからよ・・・・」

何度騙しても、億泰は形兆を信じ続けてきた。
疑いも怒りもせずに、馬鹿みたいに頭から信じてきた。
馬鹿で単純でお荷物な億泰は、昔からずっと、形兆にとって一番の心の支えだった。
絶対に口には出せないその言葉をしっかりと噛み締め、薄く笑って誤魔化して、形兆は億泰に背を向けた。


「その代わり、ひとつ頼みがある。」

形兆が部屋を出て行きかけたその時、億泰は再び口を開いた。


「・・・何だ?」
「その矢・・・・、俺にも撃ってくれよ。」

億泰の声は、もう情けなく震えてはいなかった。
形兆は足を止め、億泰を振り返った。


「億泰、テメェ・・・・」
「お?駄目だって言うか?危ねぇからって?そりゃ兄貴だって一緒だろ?」
「億泰・・・・」
「口答えするなって殴るか?良いぜ、殴りたきゃ殴れよ。
でもひとつ教えてくれ。俺ぁ兄貴を信じてるから止めねぇんだ。なのに兄貴はそう出来ねぇってのはどういう事なんだよ?
兄貴は俺を信じてねぇのかよ?俺ばっか兄貴を信じて、兄貴は俺の事全然信じてくれねぇのかよ?」

馬鹿のくせして、いっぱしの説得力がある口上だった。
さっきまでの情けないべそかき顔が嘘みたいな、強い眼差しだった。


「俺も兄貴と一緒にスタンド使いになる。絶対になってみせる。
止めたって無駄だぜ。兄貴に刺さってる矢を引っこ抜いて、自分でブッ刺すだけだかんな。」

いつの間にか一丁前の顔になっている億泰に、もう子供騙しの嘘は通用しそうになかった。
億泰はきっと覚悟をしている。自分と同じ事を覚悟している。
そう思えてならないのは、血の繋がった兄弟の勘だろうか。


「・・・・念の為に訊くが、お前、こないだの俺の話を覚えてんだろうな?
もしお前にスタンドの才能が無ければ、あのジジイみたいに病院送りどころか、その場で死ぬんだぜ?」
「覚えてるよ。けどそりゃ兄貴も一緒だろ。つーか俺絶対才能あるもん。親父にも兄貴にも伯父さんにまであるものが、俺にない訳ねぇよ。つーかそんな仲間外れゼッテー許さねぇし。」

いつも通りのバカ丸出しな言い草に、思わず笑いが洩れた。
冷静を保っているつもりでもいつの間にかついつい緊張に強張っていた心が、程良い感じに緩んでいくようだった。
こいつのこういう所はある意味才能だ、そう思いながら、形兆は少しの間笑った。


「・・・・分かった。そこまで言うなら一緒に来い。」
「どこ行くんだよ?」
「離れだ。ここじゃを怖がらせちまうだろ。」
「あ・・・ホントだ。」

素直に頷いた億泰は、さっき渡したノートを机の上に置いて部屋を出て行きかけてから、何かに思い至ったかのように足を止めた。


ネーちゃんに挨拶してきた方が良いかな?ガキの頃からずーっと世話になってきたしよ。」

ついさっき、自分には絶対才能があると力いっぱい断言しておきながら、遺言の心配かと突っ込みかけたが、全く同じ事をしようとしていた立場で言えた義理ではなく、形兆はまた微かに笑った。


「・・・必要ねぇよ。どうせ引き続き世話になるんだ。だろ?」
「・・・だよな。」

形兆が笑うと、億泰も笑った。
スッキリとした、もう何一つ思い残す事などないような、そんな晴やかな顔で。


「けど、話は通しておかなきゃいけねぇな。お前、先に離れに行って待ってろ。」
「分かった。」

億泰は今度こそ出て行きかけて、ふとまた形兆を振り返った。


「兄貴ィ、早く来てくれよぉ。長々チューとかしてあんまり待たせないでくれよなぁ。」
「さっさと行けバカ!」
「うひゃっ!」

足元の漫画雑誌を投げつけるふりをすると、億泰はすばしっこく逃げるようにして出て行った。形兆は溜息を吐くと、漫画雑誌を億泰の机の上に片付けてやり、一度自分の部屋に帰った。


「・・・予定が狂っちまったな・・・・」

予定では、億泰にだけ打ち明けて、一人でやるつもりだった。
絶対、当然、スタンド使いになれると確信しているから、別にわざわざにまで遺言を伝えるような真似をする必要はないと思っていたのだ。
それでも万が一、もしもの事があれば、その時は後の事を億泰に託すつもりだった。
大いに頼りなくはあるが、それでも億泰にはそれなりの根性と、何より優しさがある。
億泰ならばきっとの事を守り、たとえ二人の関係がどのように変化しようと、の気持ちを汲み取って大切にする事が出来るだろう。
父の事も、もしかしたらいずれ、億泰らしくバカみたいにぶっ飛んだカタのつけ方を思い付くかも知れない。
さっきまではそう考えていたのだが、その予定はガタガタに狂ってしまった。
予定通りにいかないってのは嫌なもんだぜ、などと心の中でぼやきながら、形兆はさっき閉めたばかりの金庫をもう一度開けた。
そして、中に残っている現金を適当な紙袋に全部詰めていき、最後にクレヨンの箱を取り出した。
蓋の隅に『さくらぐみ にじむらけいちょう』とサインペンで書かれているそのクレヨンの箱は、形兆が昔幼稚園で使っていた物だった。
但し、中に入っていたクレヨンはもう無い。
今この中に入っている物は、母親の形見の品だった。
形兆は蓋を開け、箱の中の物を見つめながら、また遠い昔の記憶に思いを馳せた。


― いい?形ちゃん。これを誰にも内緒にしてずっと大事に持っていてちょうだい。お父さんにも内緒よ、絶対に。


母がそう言ってこの箱を形兆に託したのは、いよいよ入院するその前日の事だった。
中身を見て、僕のクレヨンじゃないよと不思議がった幼い形兆に、母はそれが何なのか、それをどうして欲しいのかを説明して、優しく微笑みかけた。


― だから・・・、ね?お願いよ、形ちゃん。お母さんとの約束、必ず守ってね?
― うん、わかったよ。


何も分かっていなかったくせに『分かった』と答えたのは、とにかく母が大好きで、母の言う事は何でも信じられたからだった。
その行為が母にとってどういう意味を持つものだったのかなんて、まるで考えもしなかった。お母さんは少し具合が悪くて、病院に何日かお泊りしてくる、そんな子供騙しを信じきっていた。
あの時の母もきっと、こんな気持ちだったのだろう。
疼くような切なさを暫し噛み締めた後、形兆は金を詰めた紙袋とクレヨンの箱を持って部屋を出た。



















退屈な昼下がりの一時を、はベッドに寝転んで、ぼんやりと本を読んで潰していた。もう何回も読んだ本で、内容はすっかり覚えてしまっているから、文字通り『暇潰し』だった。
昼食とその片付けは終わり、夕食の支度にはまだまだ早い。
特にしたい事もなければ、行きたい所もない。
声が出なくなってすぐの頃は一生懸命発声練習をしたものだったが、どんなに頑張っても一向に回復の兆しが見えてこないと自覚してしまってからは、それもやめてしまった。
ポカッと空いた時間を何に使えば良いのか分からなくなってしまったのは、いつからだろうか?空虚な気持ちで、ただ機械的に文字を目で追っていると、部屋のドアがノックされた。
は本を置いて立ち上がり、ドアを開けに行った。
ドアの向こうに立っていたのは、形兆だった。
その瞬間は、いつものだろうかと反射的に考えたが、そうではなかった。
目が違っていたのだ。
今の形兆の目は、以前のようにまっすぐを見つめていた。


「ちょっと話がある。入っても良いか?」

急に改まってそんな事を言われると不安になるのだが、頷くより他になかった。
が招き入れると、形兆は部屋に入ってドアを閉めた。
は机の上に置いてあった筆談帳を取り、『何?その荷物』と書いた。
形兆は片手に紙袋を下げ、もう片手に何故かクレヨンの箱を持っていたのだ。


「この紙袋には、うちの有り金が全額入ってる。もうかなり少なくなっちまったけど。」

それを、何故紙袋に入れてここに持って来たのだろう?
いつもは金庫に大切にしまってあるのに、何故それを。
その理由を訊こうとした瞬間、形兆は紙袋を床に下ろして、次にクレヨンの箱を差し出した。


「それからこっちは、うちのお袋の形見だ。」

手渡された箱を受け取り、恐る恐る形兆の様子を窺うと、形兆は口元だけをほんの僅かに微笑ませて、開けてみろと言った。
促されるままに、クラスと形兆の名前が書いてある蓋を開けてみると、中に綺麗なレースの縁取りがついた白いハンカチ包みが入っていた。
クレヨンの色が少し移ってしまって、所々赤や青に薄く染まっているそのハンカチをそっと開いてみると、大粒のダイヤモンドの指輪と、白い真珠のネックレスが出てきた。
どちらも息を呑む程美しく、豪華で、が今まで見た事もないジュエリーだった。の母親もアクセサリーは色々持っていたが、それらとは明らかに格が違って見えた。
は思わず顔を跳ね上げ、目でこれは何なのかと問いかけた。


「親父に貰った婚約指輪と、お袋の母親、つまり俺の祖母さんの形見のネックレスだそうだ。お袋の宝物だった。」

そんな大切で明らかに貴重な品を、何故古いクレヨンの箱になどしまっているのだろう。そしてそれを、何故私に差し出すのだろう。
それを訊こうとした瞬間、形兆が先に口を開いた。


「昔、お袋が入院する直前に、俺に預けていったんだ。誰にも内緒で大事に持っていてくれ、親父にも絶対に内緒で、ってな。
こうやってガキの玩具に紛れさせていたら、親父に売っ払われずに済むと思ったんだろうな。ま、実際その通りだった訳だが。
あの親父は、ガキの物になんて一切興味が無かったからな。完全にノーマークだった。」

形兆はまるで昔を懐かしむかのような口ぶりでそう言って、目を細めて笑った。


「俺達兄弟がよ、将来結婚する時に、嫁さんになる女にそれぞれあげるんだって、それが夢なんだって、お袋そう言ってた。」

思わず心臓が跳ねた。
それはどういう意味なのだろうか?
そういう意味だと、受け取って良いのだろうか?
形兆の母親が、将来息子の妻となる女性にあげる事を夢見ていたジュエリーを、自分が受け取って良いというのだろうか?
ペンを持つ手を動かす事も出来ずに、は呆然と形兆を見つめた。
すると形兆は、穏やかなその顔に優しげな苦笑を浮かべた。


「悪いな。こんな紛らわしい事言われたら、誰だって誤解するよな。」
「・・・・・・・?」
、よく聞いてくれ。今から俺と億泰は、あの矢を使う。」

また、心臓が跳ねた。
高い所に舞い上がってしまうような跳ね方ではなくて、今度はそこから突然突き落とされたような、全身に寒気の走る跳ね方だった。


「エジプトで聞いてきた話と伯父貴の例を合わせて考えると、矢が刺さってからスタンドが現れるまで精々数分、まあ長く見積もって10分としよう。
もしも伯父貴のようになっちまうとすると更にあと10分、それから、事前に何だかんだ手間取る事も考慮してもう10分。だから、30分だ。」

『あの矢を使う』とは、どういう意味なのだろう。
その『30分』とは、何の時間なのだろう。
聞きたくもない話の続きを、は息を殺して待った。


、お前はひとまずここで30分待機してろ。
それで、もし30分経っても俺も億泰も来なかったら、その時はこの金と宝石を持って、すぐにY市へ帰れ。」
「・・・・・!!」

予感というものは、悪いもの程当たりやすい。
身体が震え出しそうなショックを必死で堪えながら、は何度も何度も首を振った。


「救急車も警察も、絶対に呼ぶな。勿論、近所の奴らに助けなんかも求めるな。
落ち着いて、素知らぬ顔をして出て行くんだ。出来るだけ人目につかないようにして。いいな、分かったな?」
「・・・・・・・!!」

は激しく首を横に振った。振り続けた。
それなのに形兆は、これで話は終わったとばかりに背を向けて、出て行こうとしている。の話を何一つ聞かないままに、行ってしまおうとしている。
それを許す訳には断じていかなかった。


「・・・・・!!!」

は幼い子供のように形兆の腕にしがみ付き、全体重をかけて引き止めた。
なりふりなど構っている場合ではなかった。子供みたいだろうがみっともなかろうが、このまま形兆を行かせる訳にはいかなかった。
書いている間に腕を振り払われて出て行かれてしまうんじゃないかと思うと書く事も出来なくて、は必死に出ない声を振り絞った。
待って!待って!
何度もそう繰り返し叫んでいると、形兆は苦い顔をして、渋々のようにもう一度の方に向き直った。


「・・・・何だよ?」

形兆がやっと、話を聞く姿勢を見せてくれた。
これでようやく、ずっと言いたかった事が言える。
彼の気が変わらない内にと、は震える手を励まして、可能な限りの速さでペンを走らせた。


「お父さん、知能が戻ってきてるよ!形兆君がエジプトへ行ってすぐの頃、お父さんしゃべったの!私に『リサ』って呼びかけたの!それお母さんの名前なんでしょ!?」

それを読んだ形兆の目が、驚いたように少し大きく見開かれた。


「お父さん、お母さんの事覚えてる!ちゃんと分かってる!知能が戻ってきてるんだよ!だから、練習したら服を着ていられるようになったし、ご飯だってちゃんと食べられるようになってきたんだよ!」

あの時感じた希望を、は形兆にも感じて欲しかった。
それを感じる事が出来たなら、きっと形兆も気が付く筈だと信じていた。
たとえこれまでの苦労や時間やお金が無駄になるとしても、それに値するだけの幸せが、より良い道が、あると気付いてくれる筈だと。


「今はまだまだ不十分だろうけど、このままがんばっていったら、もっと出来る事が増えると思う!
言葉だって、意味のある言葉をしゃべったのはそれ1回きりだったけど、でもおいおい練習していったら、しゃべったり書いたりして、意思を伝える事が出来るようになるかも!
見た目も何もかも完全に元通りに治るってわけにはいかないかもしれないけど、でも、たとえこの家の中だけだとしても、普通の生活をしていけるようになるかもしれない!形兆君の手を煩わせずに、普通に生きていけるかも」
「それでどうなるっていうんだ?」

それまでの書く事を黙って読んでいた形兆が、不意にそう呟いた。
静かな落ち着いた声だったが、その一言は怒鳴るのと同じ位の激しいショックをに与え、書く手を止めさせた。


「服を着て、ちゃんと行儀良く飯が食えるようになって、俺の手を煩わせないように普通に暮らしていける?
それで?いつまでだよ?
その『普通の暮らし』とやらは、いつまで続くんだ?
俺や、億泰や、お前が、歳取ってジジイやババアになって、死んでいってもか?
それで最後にあの化け物が1匹残ってジ・エンド、そういう事か?」
「っ・・・・・・・!」

はそれに反論する事が出来なかった。
何もかも全て、形兆の言う通りだったからだ。


「・・・・無駄なんだよ。」

が呆然と立ち尽くしていると、形兆は諦めきったような哀しい目をしてそう言った。


「お前の言いたい事は分かる。だがな、そんな次元の話じゃねぇんだよ。
世話をしてくれる奴が誰もいなくなったら、飢えて弱って勝手に死んでくれりゃあ、確かにそれでも構わねぇだろうさ。
けど親父は死なねぇ、いや、死ねないんだよ。
ただその日その日を暮らし続けていって、最終的に俺達が全員いなくなった時、誰がどう親父の始末をつけてくれるんだ?
普通の方法じゃ絶対死なねぇあの化け物を、永遠に世話し続けてくれる神様みたいな奴がいるとでもいうのか?」

神様なんて、この世にはいない。
救いの手なんて、何処からも伸びてこない。
そんな事は自身百も承知していた。
それでも、どうしても、小さな希望に縋らずにはいられなかった。
自分の力で、形兆の背負っている重荷を少しずつでも減らしていけるかも知れない、そして皆で幸せになれるかも知れない、そんな夢を見ずにはいられなかった。


「・・・・だから、スタンドの力が必要なんだよ。あの不死身の化け物を殺す事の出来る、特別な力が。」

けれどもそれはやはり、叶わぬ夢のようだった。
結局、自分の力では、形兆の背負っている重荷を下ろしてやるには足りなかった。
認めたくなかったそれを認めてしまった瞬間、が縋り付いていた希望は粉微塵に砕け散った。


「・・・・そんな顔するな。泣くんじゃねぇぞ、縁起でもねぇ。」

支えるものが無くなって、崩れ落ちてしまいそうになった瞬間、形兆が嫌そうに顔を顰めた。


「俺は死なねぇ。必ずスタンド使いになる。スタンドの能力を身に着けて、親父のカタをつけて、自分の人生を始める。昔そう約束しただろうが。
俺はずっと、あの時お前と交わした約束を守り続けてきた筈だぜ。お前に対して嘘を吐いた事はねぇ。違うか?」

嘘を吐かれたと感じた事は、確かに無かった。
話してくれない事は色々とあっても、嘘偽りで騙された事はなかった。
形兆は確かに、との約束をずっと守り続けてくれていた。


「その金と宝石は念の為だ。俺に万が一の事があった場合に、お前に対して責任を取るっていう約束を守れなくなるのが嫌だから、念の為に渡しただけだ。
俺がこういう性格なのは、お前も良く知ってるだろう?
もしも万が一って事になっちまった場合、俺に取れる責任っつったら、せめて家にある金目の物を全部お前にやる位しかねぇからな。」

頭が良くて、生真面目で、用意周到で、厳しい人。
その厳しさを他人以上に自分へ向ける、本当に厳しい人。
そんな人だからこんな事をするのだと、は呆然としたままの頭の片隅で思った。
絶対的な自信を持ちながらも、最悪の事態が起こる万が一の可能性を客観的に認めて、そうなった場合に果たし得る最大限の責任をと考えた結果が、このお金と母親の形見なのだ。
それを考えている最中の形兆を思うと心が大きく揺れそうになったが、それに任せて泣いてしまったら、形兆の言う通り、縁起でもない。
その『万が一』が本当に現実のものになってしまいそうな気がして、怖くて、は絶対泣かないようにぐっと歯を食い縛った。


「ああでも、1つカッコ悪い事頼んでも良いか?」
「・・・・・・?」
「もし億泰が無事だったら、金も宝石も、半分はアイツに返してやってくれるか?
ケチくせぇ事を言って悪いけどよ、俺達の約束に億泰は関係ねぇし、そもそもお前をこの家の事に巻き込んじまったのは、億泰じゃなくて俺だからよ。」

こんな変な事を気にするのも、生真面目すぎるその性格故だ。
が頷くと、形兆は安心したように穏やかな微笑みを浮かべた。


「・・・・・お前もずっと、約束守り続けてくれたよな。今更俺がこんな事言えた義理じゃねぇけどよ、感謝してる。
ついでと言っちゃ何だけどよ、1つ保留になってた約束があったの、覚えてるか?」

こうして言われるまで全く意識はしていなかったが、忘れていた訳ではなかった。


「あれ、今決めたから、それもついでに守ってくれ。」
「・・・・・・?」

『何?』と目で訊いたに、形兆は優しく微笑みかけた。


「・・・・もしも俺が死んだら、俺の事は忘れろ。
俺の事なんぞ何もかも綺麗さっぱり忘れて、お前はお前の人生を始めてくれ。」

昔、まだ二人の関係が歪んでいなかった頃の、優しい微笑みだった。


「じゃ、そろそろ行くぜ。30分だ、いいな?」

それがずっと欲しかったのだ。
金目の物なんかじゃない。ただずっと、そうやって笑いかけて欲しかったのだ。
けれども形兆は、そんなの気持ちに気付いていなかった。
形兆はもういつもの厳しい表情に戻っていて、いつもの通りを顧みる事なく、その毅然とした背中を向けて出て行ってしまった。
エジプトへ旅立って行った時と同じように、何の迷いも躊躇いもない足取りで。


「っ・・・・・・・!」

ドアが閉まると、身体に震えがきた。
虹村兄弟の伯父の事が否が応にも思い出されて、また同じ事が起きるのではと不吉な事を考えずにはいられなかった。
泣いたらそれが現実になる、そんな強迫観念に囚われて、泣くまい、泣くまいと唇を噛み締めるが、じわりじわりと涙が滲んでくる。
仮に『スタンド』とかいう能力の素質を持っていたとしても、ああなる可能性がある。
その素質が無いとすれば、それこそその場ですぐに死ぬ。
形兆の話していた事を思い出すと、正気を失いそうになる程、怖くて堪らなかった。
は震える手で涙を拭い、時計に目を向けた。
30分とは、こんなにも長かっただろうか?
待機していろと形兆は言ったが、まるで地獄のようなこの永い時間を、どうやって過ごせというのだろうか?
全く進まない時計を食い入るように見つめながら、は只々、滲む涙が零れないように拭い続けた。




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後書き

次回がいよいよ・・・・!のシーンになります。
そこを書くのをずっと楽しみにしてきたのですが、いざようやくとなると、楽しみすぎて書く手が止まるという・・・(←高いドレッシングとか出し惜しみするタイプ 笑)
しかしながら、これで本当にストックが尽きてしまったので、いよいよ書く時が来たようです。
さあ書け!書くんだ、私!