良い匂いがしてきた。腹の減る匂いだ。
その匂いにそっと揺すり起こされるようにして、形兆は薄らと目を開けた。
― ああ、そうか、帰って来たんだったな・・・・
自宅の自分の部屋、自分のベッドに横たわっている事を思い出してから、形兆はゆっくりと身体を起こした。
風呂に入って汗を流し、久しぶりにの作った物を食べて腹が落ち着いたら、急に抗い難い程の強い眠気を催して、そのまま眠ってしまったのだ。
軽く昼寝のつもりだったが、気が付くと、窓の外はすっかり暗くなっていた。
漂ってくる匂いは、カレーの匂いだった。別にカレーが大好物という訳ではないが、その匂いを嗅いでいると、どんどん腹が減ってくる。きっと家に帰って来たんだという安心感が、一層食欲をかき立てるのだろう。
だが、そんな温かい安心感にぼんやりと漂っていられたのも、ほんの束の間の事だった。側に置いておいたトランクケース、それに目を向けて、形兆はまた厳しい現実に立ち返った。
― そもそも、スタンドとは精神のエネルギーが具現化したものだ。だから、スタンド使いは皆すべからく精神力が強い。そして、それが強ければ強い程、スタンドの能力もまた高い。
金と弓矢を交換し、取引を無事に終えた時のホル・ホースの言葉を、形兆は思い返した。
どうもスタンドというのは、単に暴力的だとか喧嘩が強い奴に備わっているという訳ではないらしかった。それに、精神力とは言っても、意志の強さというだけの話でもないようだった。欲望やコンプレックス、果ては嫉妬まで、とにかく人並み外れた強い思念を持つ者に、スタンドの素質は備わっているようだった。
だが、そういった人間全てにスタンドの素質があるとは言い切れない。
たとえ素質があっても、その全員がスタンド使いになれるとは限らない。
確率統計の取れるデータも無い。
そもそも、自分以外の他人が何を考え、どれ位の強さでそれを思っているかなど、知る由もない。
だから、ホル・ホースのアドバイスは、参考にはなっても根拠にする事は出来なかった。
「とりあえずは様子見・・・・か・・・・・」
ボインゴの本に出ていた予言が、本当に当たるのかどうか。
まずはそれを確かめるつもりだったが、今のところ、伯父の千造が来ている気配は無かった。電話も鳴っていなかった。
形兆はひとまずスタンドや弓矢の事を頭の片隅に追いやると、自室を出て居間に行った。
「おおー兄貴ィ!おはよっス!ちょうど良かった、そろそろ起こしに行こうと思ってたんスよ!晩飯だぜぇ!」
居間には億泰が一人でいて、食卓に就いていた。
食卓には揚げ物やハンバーグの大皿、薬味の小鉢、それに、色鮮やかなグリーンサラダと熱そうな湯気の立ち昇っているカレーが4人分、既に並べられてあった。
「今日はよぉ、兄貴の帰国パーティーっつう事で、超・豪華カレー祭りだぜぇ!
見ろよこれぇ!このトッピングのラインナップ!トンカツだろぉ?エビフライだろぉ?それにハンバーグと目玉焼き!兄貴が昼寝してる間に、俺とネーちゃんとでめっちゃ頑張って作ったんだぜぇ!美味そうだろぉ!?なぁ!」
「あ、ああ・・・・、っていうか、何で4人分あるんだ?」
まさか、千造の分だろうか?
形兆はそう考えて、内心で身構えた。
「ああ、それはな・・・・」
億泰が答えかけたその時、誰かが居間に入って来た。
と、そして。
「お・・・親父!?」
に付き添われて居間に入って来た父を見て、形兆は目を大きく見開いた。
「な、何だよその格好は!?どうしたんだ!?」
父は服を着ていた。
吹き出物だらけで醜い深緑色の肥満体を、ネイビーブルーの地に大きな白い水玉模様の入ったシャツとからし色のハーフパンツが、鮮やかに覆い隠していたのだ。
しかも更に驚く事に、父は食卓に並べられている料理の数々を見ても飛び付きもせず、大人しく食卓に向かって座った。
いつもの首輪と鎖も着けられてはいるが、念の為という感じで、億泰ももその鎖の先を握ってはいなかった。
「ど、どういう事だこれは・・・!?」
呆然とする形兆の前で、億泰とは顔を見合わせ、笑い合った。
「実はよぉ、兄貴がエジプトに行ってる間に、特訓してたんだよぉ。」
「特訓だと?」
「ネーちゃんがさぁ、やりたいって言ったんだよ。親父に服着せてよぉ、皆で一緒にメシ食えるようにしたいって。」
に目を向けると、は恥ずかしそうにはにかんで、筆談帳に何か書き始めた。
「すごいでしょ?お父さん、よくがんばったんだよ!最初はひっくり返してばかりだったけど、少しずつ上手になってきて、今じゃこの通り!」
暫くして差し出された帳面には、そう書かれてあった。
読み終わって顔を上げると、はまた恥じらうように笑った。
「お前ら・・・・・」
頑張ったのはきっと、や億泰の方だった。
照れ隠しのように少し忙しない仕草で父に前掛けを着け始めたを見つめながら、形兆はここに至るまでの二人の苦労を思った。
きっと、大変という言葉では言い表せない位だった筈だ。この化け物に人間らしい生活習慣を躾けるのは、とてつもない労力を要するのだから。
ボインゴの予言の中に出ていた、『お父さんもちょっと進化したよ』というあの一文は、この事を指していたに違いなかった。
「ほらほらぁ!兄貴も早く座れよぉ!冷めない内に食べよーぜーっ!」
「あ、あぁ・・・・」
億泰に促されるがまま、形兆は腰を下ろし、食卓に向かった。
が全員のグラスによく冷えたジュースを注ぎ終えると、億泰が自分のグラスを取り上げて掲げた。
「では!!兄貴の帰国を祝って!!かんぱーい!!」
億泰がバカでかい声を張り上げると、も笑顔でグラスを掲げた。
「ほれほれ兄貴ぃ、おっかえりぃ!」
「あ、ああ・・・・・」
呆然としている内に、形兆のグラスに億泰とのグラスが次々と当てられた。
取り敢えずグラスを取り上げ、形ばかり口をつけながら、形兆は父の動向をじっと見守った。
父は乾杯にこそ応えないが、自分でちゃんとスプーンを持ち、カレーを食べていた。
予め小さくカットされているトッピングのハンバーグや揚げ物も、スプーンの先割れ部分で刺して食べていた。
多少食べ零してはいるが、それでも、猿のようにガツガツと手掴みで見境なく貪り食っていたつい一月前までの事を思えば、信じられない位の進歩だった。
「・・・・嘘だろ・・・・・」
思わず呟くと、はサラダをつついていた手を止めて、嬉しそうに微笑みながらまた筆談帳に何か書いた。
「アニキきっとビックリするぜー!って、億泰君とずっと言ってたんだ。期待通りの反応してくれて嬉しい。」
筆談帳を見せて嬉しそうに笑うの顔を、形兆は苦い思いで一瞥した。
どうして、わざわざこんな苦労をしたのだろうか。
こっちはこの化け物を殺そうとしているのに、どうしてその逆をいくような事をするのだろうか。
遠い昔に粉々に壊れた幸せを、もう一度作り直していこうとするのだろうか。
どんなに頑張ったって、この化け物は化け物のまま、もう二度と治る事はないのに。
「兄貴も食えよぉ!カレー冷めちまうぜぇ!」
億泰の声で、形兆は我に返った。
「トッピングもどれも美味いぜぇ〜!ちなみに俺は全部乗せ〜!ヘヘヘ〜っ!」
見てみると確かに、億泰の皿にはトッピングのおかずが盛りに盛られていて、カレーが見えない状態だった。
形兆は溜息を吐いて、グラスを置いた。
「ったくテメェはよぉ、相変わらずガキみてぇに汚ねぇ食い方しやがって。
とにかく乗っけりゃ良いってもんじゃねぇんだよこういうのは。バランスを考えろバランスを。」
形兆はトッピングを少しずつ取りながら、自分のカレー皿に綺麗に盛り付けていった。ひとまずは、目の前の食事を冷めない内に食べるのが先決だった。
「ほへぇ〜、さすが兄貴!店で出てくるやつみたいッスね〜!」
「フン、当然だ。」
形兆が食べ始めると、億泰も負けじと食べ始めた。
久しぶりの家族揃っての食事は、美味かった。
他愛もない会話を交わしながら、暫くは穏やかで楽しい時間を過ごした。
だが形兆の頭の片隅には、ずっとボインゴのあの予言が引っ掛かっていた。
あの予言が本当に当たるのなら、もう間もなく伯父の千造がやって来る筈なのだ。
表面上は億泰の下らないお喋りに適当に付き合ってやりながらも、形兆は千造がやって来るのを心の中で待ち構えていた。
そして、食事がもうそろそろ終わろうかという頃、遂に家の呼び鈴が鳴った。
「あれ?誰だろこんな時間に。」
億泰はスプーンを置き、玄関の方をきょとんと見た。
本当に来た。予言は当たったのだ。
形兆はジュースを飲んで口元を拭うと、と億泰に目を向けた。
「、親父を部屋に連れて行ってくれ。億泰も手伝ってやれ。」
「え、でも親父まだ食ってるぜぇ?」
億泰もも、不思議そうな顔をした。
虹村家では通常、外部の者は誰一人として家の中に入れない。
学校の家庭訪問や何らかの用があって呼んだ業者などは例外だが、こんな風に予定も無く突然訪ねて来た者は、まず絶対に通す事はない。
だから、何も父を部屋に閉じ込める必要はないんじゃないかと思っているのだろう。
だがそれは、あくまでもその『通常』の場合だった。
「いいからさっさとしろ。まだ食ってんなら飯も持ってってやれ。」
「お、おう・・・・・」
と億泰は形兆に言われるがまま、父の食べかけの食事をトレーに載せて支度をし、待ちきれずにそこへスプーンを突っ込もうとする父をどうにか宥めすかしながら、離れへと連れて行った。
それを見届けてから、形兆は玄関に出て行った。
開けた戸の向こうに立っていたのは、やはり伯父の虹村千造だった。
東京の家を追われてから一度も会っていなかったが、このふてぶてしい顔はまだ忘れていなかった。
「伯父さん。お久しぶりです。」
「おお、形兆か。暫く見ん間にまた随分とデカくなったな。」
千造は形兆の顔を見上げてそう言った。
その顔に張り付いている形ばかりの笑みは、4年前、体のいい事を言って形兆達から東京の家を奪い取りに来た時のそれと同じだった。
尤も、何かなければ、この男がわざわざ自分から訪ねて来る事などありはしない。
たとえお前らの身ぐるみを剥がしに来たと言われても、何の不思議もなかった。
「どうぞ。散らかってますが。」
「うむ。邪魔するぞ。」
形兆は先頭に立って歩き、千造を居間に通した。
食卓の上にはまだ食べかけの食事がそのまま残っていて、億泰とは戻っていなかった。その食卓をチラリと一瞥して、千造はまたわざとらしい笑みを浮かべた。
「晩飯の最中だったか。すまんな、食事時に突然押しかけて来て。」
「いえ。お気になさらず。」
「・・・・3人分、か。これは珍しい。今日は万作の奴もいるんだな。」
含みのある一言だった。
気付いているのかいないのか、いや、きっと気付いている筈だった。
不死の化け物になってしまったとはまさか露ほども想像していないだろうが、弟とその一家が何らかの不穏な事態に陥っているという事に、千造はきっともうとっくに気が付いている筈だった。
形兆は千造の様子に注意を払いながらも、表面上は何気ない態度を装って、千造を座らせる場所を作り始めた。
「今片付けてお茶を淹れます。それとも、良ければ一緒に食事でも?」
「ああ、いいんだ構わないでくれ。」
千造は形兆が差し出した座布団の上にどっかりと座り込んで胡坐をかくと、また含みのある笑みを形兆に投げかけた。
「今日はちょっと折入って話したい事があって来たんだ。」
「何でしょう?」
「その前に、万作を呼んで来い。」
その言葉に、形兆は食卓を片付けかけていた手を止めた。
「・・・・父さんを、ですか?」
「そうだ。いるんだろう?今日は、珍しく、家に。」
一言一言区切って強調する言い方が、いつにも増して不穏だった。
お前達の実情など、俺は本当はとっくの昔から承知しているのだと言わんばかりで。
「いやぁ楽しみだ。まさか今日会えるとは思っていなかった。何せ10年以上会っとらんかったのだからな。」
形兆は黙ったまま、千造をじっと見据えた。
千造もまた、その含み笑いを崩さないまま、形兆をじっと見返していた。
「どうした形兆?何をしている、早く呼んで来い。お前の『父さん』をな。」
ボインゴの予言は、勿論頭の中にしっかりと残っている。
だが、あの漫画はテンポが良すぎて、というよりもあまりに大雑把で、途中の経過がまるで描かれていなかった。
まさか本当にあの漫画の通り、いきなり弓矢で射抜けというのだろうか?
どうしたものかと考えた瞬間、億泰とが居間に戻って来た。
「お、伯父さんじゃないスか!」
億泰は千造を見て、驚きに目を丸くした。
「億泰か。ほ〜う、こりゃあまた随分デカくなったもんだ。前に会った時は、まだほんのチビだったのに。」
「ど、どもっス。えと・・・、お、お久しぶりっス・・・・。」
突然の伯父の来訪にまだ戸惑いながらも、億泰は千造に向かってヒョコッと頭を下げた。
千造は億泰のぎこちない挨拶に尊大な様子でうむ、と頷いて応えた後、億泰の一歩後ろに隠れるようにして立っているに目を向けた。
「・・・で?そこの娘は誰だ?」
億泰は明らかに焦った顔を形兆に向けたが、形兆はそのまま少し様子を見守る事にした。
するとは、緊張した面持ちながらも、千造に向かってきちんとお辞儀をした。
しかし千造は、そんなをまるで泥棒でも見るかのような目付きで見た。
「エプロンなんぞ着けて、飯時に人の家で何をしている?まさか家政婦か?いや、そんな訳はないな。若すぎる。
形兆か?億泰か?どっちだ?全く、まだ金も稼げん脛かじりの学生の分際で、女を家に連れ込むなど10年早いぞ。
そこの小娘、お前もだ。年頃の娘がこんな時間に男の家で女房気取りでままごとだなんて、親は何も言わないのか?それとも、聞く耳を持たない不良娘か?」
千造は立ち上がり、ズカズカとに詰め寄っていった。
「とにかく、とっとと帰れ。ほら、早く。」
「・・・・・!」
千造はの腕を掴み、放り出すようにぞんざいな仕草で引っ張った。
形兆が動くよりも早く、すぐ側にいた億泰が先にを庇った。
「ちょっ・・・!お、伯父さん、そんなムチャしないで下さいよぉ!」
「無茶などしとらん。身内の話し合いの場に、赤の他人が居座るものではないのだ。
普通は察して自分から早々に退散するものだが、この小娘はどうもろくな躾をされとらんようだな。全く、親の顔が見てみたいわ。」
厭味ったらしい千造の言葉に、がショックを受けたように顔を強張らせた。
「生憎だがな、お前のような尻軽な女の考える事など、こっちはお見通しだ。
こいつ等を誑かして虹村の家に転がり込み、妻の座に就いて安泰な暮らしをさせて貰おうとでもいうつもりだろうが、そうはいかん。
こいつ等はまだほんのガキだ。この家の財産はあくまでもこいつ等の父親のものであって、こいつ等の自由に出来るものではない。
押しかけ女房を気取ったところで、お前の手にはビタ一文渡らんぞ。たとえその内に孕んだとしてもだ。よく覚えておけ、卑しいメス猫が。」
余りにも酷い侮辱だった。
目に涙を溜めて、ギュッと引き結んだ唇を微かに震わせているに、形兆はチラリと目を向けた。
「・・・・人が黙って聞いてたらよぉ、言いたい放題言ってくれるじゃねーかよぉ、『伯父さん』よぉ・・・・・」
億泰が、本気でキレた。
形兆は幼い頃から散々この毒舌を浴びせられてきているから慣れていたが、今までこの伯父とほぼ関わらずにきた億泰には、免疫がまるで無いのだ。
「何がお見通しだってぇ?テメェに一体何が分かるってんだよぉ?
ネーちゃんがよぉ、今まで俺達兄弟や親父の為にどれだけの事をしてきてくれたか、テメェに何が分かんだよぉ?」
「テ、テメェだと!?億泰お前、目上の大人に向かって何て口の利き方だ!」
「うるせーよクソジジイ!テメー何様だコラァ!?テメーこそ今すぐ帰らねーとこの俺が力ずくで叩き出して・・」
「億泰、やめろ。」
形兆は千造と億泰との間に割って入り、本気で怒り狂っている億泰を窘めた。
「止めんなよ兄貴ィ!つーか何落ち着いてんだよぉ!自分の彼女の事だろぉ!?
それをこんなボロカスに言われてよぉ、何黙ってんだよぉ!それでも男かよぉ!見損なったぜ兄貴ィ!」
「やめろ、と言っているのが分からねぇのか?」
怒りで見境が無くなってしまっている億泰を、形兆は殺気を込めた目で睨みつけた。
すると億泰は、言葉を詰まらせて黙り込んだ。
を口汚く侮辱されて、腹が立たない訳がない。
昔、母が死してなお浴びせられたのと同じような暴言をにまで吐きかけられて、落ち着いていられる訳がない。
だが、その怒りを拳に込めて、ただこの伯父の顔面に叩き付けるのではないのだ。
二度と来るなと蹴り出して、唾を吐きかけてやるのではないのだ。
「すみません、伯父さん。億泰は興奮すると手がつけられないので、ここでは話が出来そうにありません。
ここに父さんを連れて来るんじゃなくて、伯父さんが父さんの部屋へ行って貰えますか?俺が案内しますので。」
このクソッタレは、貴重な貴重な『実験台』なのだから。
「まずはちょっと億泰の頭を冷やさせて来ます。少し待っていて下さい。」
「フ、フン!早くしろよ!こっちは忙しいんだ!」
「じゃあ来るなっつーの!忙しいって言いたいのは晩飯の邪魔されたこっちの方なんだよ、ッバーカッ!!」
「億泰、いいから来い。もだ。」
形兆は、まだ千造に向かって悪態を吐いている億泰を引きずるようにして、居間から連れ出した。
も目元をサッと手で拭って、その後をついて来た。
二人を従えた形兆は、の部屋に入り、ドアをピタリと閉めた。
部屋の中が三人だけの密室になるや否や、億泰はまたぞろ怒りを爆発させた。
「兄貴ィ!何なんだよあのクソジジイは!?何であんなクソダボに言いたい放題言わせて・・」
「黙れ億泰、静かにしろ。いい加減にしねぇとブチ殺すぞ?」
「ぅぐっ・・・・!」
もう一度億泰を黙らせてから、形兆は声を潜めて二人に喋りかけた。
「いいか二人共、よく聞け。俺は今からあのジジイを離れに連れて行く。俺が戻って来るまで、二人でここにいろ。分かったな?」
「兄貴まさか、本当にあのクソジジイに親父を会わせる気かよぉ!?」
「大事な用があるんだ。とても重要な、大事な用だ。」
「だ、大事な用・・・・?って何だよぉ・・・・?」
「今は説明している時間がねぇ。後で必ず全部話してやる。いいな二人共?ここで大人しくしてろ。分かったな?」
形兆が念を押すと、が不安げな眼差しを向けてきた。
その瞳には、さっきの侮辱を受けた跡がまだ少し残っていた。
傷つけてすまなかったと謝って、気にするなと慰めるべきだと頭では分かっているが、今更恋人面をして優しくする事など、どうして出来ようか。
そういう役は、さっき瞬間的に怒り狂う事が出来た億泰が引き受けた方が、まだ幾らか効果がありそうだった。
「じゃあな。」
形兆は億泰とに背を向け、部屋を出た。
そして、千造のいる居間を通らないようにして自分の部屋へ行き、弓と矢の入ったトランクを持ち上げた。
― やってやるぜ、必ず・・・・
トランクのハンドルをしっかりと握り締めて、形兆は己を奮い立たせた。
居間へ戻ると、千造が見るからに苛々とした様子で煙草を吸っていた。
「すみません伯父さん、お待たせしました。」
「この家には灰皿がないのか。」
「すみません。誰も吸わないもので。」
「万作は?あいつも吸っていただろうが。」
また、含みのある言い方だった。
だが、もう間もなく全てが分かる。
形兆は微かに笑って、少しだけ首を振った。
「やめたんです、もう随分前に。さあ、こっちです。」
「・・・・フン」
形兆は千造を促して居間を出た。
台所を通り抜ける間際に、壁のフックに掛けてある離れの鍵をさり気なく取って、手の中に隠し持った。
千造はそれには気付かず、形兆の提げている大きなトランクの事を指摘してきた。
「おい、何だそのトランクは?」
「ああ、これは別に、もののついでです。父さんの部屋に運んでおかなきゃいけない物なので。」
千造はその答えで一応納得したようにフンと鼻を鳴らし、煙草の煙をもうもうと吐き出した。
「あの小娘はお前の女か。見たところ、ろくな家の娘ではなさそうだな。着ている服は安物だし、躾も悪い。
ああいう女は適当な遊び相手と割り切るものだ。迂闊に家にまで入れて、押しかけ女房みたいな真似を許すな。ああいうタイプの女は、当然結婚して貰えるものと思い込んで厚かましく居座るぞ。
その内に子供でも出来てみろ、それこそ厄介だ。
それなりの手切れ金を握らさねば、子供を盾にいつまでもしつこく付き纏ってくるし、かと言って結婚などもっての外だ。
あんな何処の馬の骨とも知れん娘、持参金どころか嫁入り道具もろくに揃えられんのが目に見えておるからな。」
何処の馬の骨とも知れない娘、その言葉が形兆の古傷に爪を立てた。
だが形兆はその痛みを敢えて受け流し、への暴言の数々について、その許し難い侮辱に対して、反論も激昂もせず、千造に背を向けて離れの戸の鍵を開けながら、ただ淡々と尋ねた。
「ところで、話というのは何です?」
「その前にまず訊きたい。万作の奴は、本当にそこにいるのか?」
千造は指に挟んだ煙草で、離れをさした。
「形兆。お前今、その戸の鍵を開けたな?ワシが見落としているとでも思ったか?」
「・・・・・」
「何故鍵を外から開ける?中に万作がいるのなら、呼びかけて万作に開けて貰うのが普通だろう。何故声もかけずに、お前が外から鍵を開ける?」
「・・・・何が仰りたいのですか。単刀直入にどうぞ。」
一気に核心を突いてやるつもりで、形兆はズバリと訊いた。
すると読み通り、千造はその誘導に乗ってきた。
「良いだろう、率直に訊くぞ。万作は、もういない。もうずっと前から、恐らくはお前達の母親の死後さほど経たない位から。違うか?」
千造の口ぶりには、確信が篭っていた。
「・・・・何故、そう思うのですか?」
「ワシが万作と最期に会ったのは、お前達の母親が死んで間もなくの頃だ。
実に妙だった。様子がおかしかった。
あの女が入院していた頃には、金を貸してくれと何度も泣きつきに来ておったのに、それからものの数ヶ月でどうして急に羽振りが良くなった?
会社も潰れ、莫大な借金を抱えていた筈なのに、何故だ?
それなのに新しく会社を興して再起を図るでもなく、かと言ってただ飲んだくれてばかりなだけでもなく、いつも仕事仕事と言って、なかなか居所を掴ませなかった。
あの当時、奴は一体何をしていた?どんな手段で金を稼いでいた?ええ?」
まるで尋問のような千造の問いかけを、形兆は背を向けたまま軽く一笑に付した。
「俺はその頃、6歳や7歳でした。どうしてと訊かれても、知らないとしか答えようがありませんよ。」
「フン、そうだろうな。まだ幼かったお前達には分かるまい。ワシにも結局詳しい事は分からず終いだった。どれだけ調べてもな。
だが万作はきっと、何か余程の危ない橋を渡っていたんだろう。でなければ、お前達が今まで食い繋いでこられる筈がない。
大方、裏の世界にでも首を突っ込み、欲に任せて荒稼ぎした挙句に、消された。
百歩譲ったとしても、お前達を捨てて何処かへ行方をくらました。そんなところじゃないか?」
「それで?何が仰りたいのです?」
「奴は幾ら遺した?今幾ら残っている?ええ?」
「何故そんな事を教えないといけないのですか?」
形兆が間髪入れずにそう返すと、千造は下卑た感じの笑い声を小さく上げた。
「そう警戒するな。資産の運用の仕方を、お前達に教えてやろうというのだ。」
「資産の運用?」
「そうだ。金というものは只の物体じゃない、生き物だ。ボロ家の金庫にコソコソ貯め込んでいたって、減る一方で決して増えはせん。
そうなったら困るのはお前達だろう?お前達の頼みの綱は、親父の遺産だけなんだからな。」
声を潜めた千造の含み笑いが、形兆の背中に厭らしく纏わり付いた。
「・・・・それで、俺にどうしろと?」
「この家の財産の管理をワシに任せろ。上手く運用して確実に増やしてやるぞ。
どれだけきっちり管理しているつもりでも、所詮は子供の小遣い帳レベルだ。その内に財産を食い潰して終わりだ。
そうなっては困るだろう?だからこのワシが万作に代わって、お前達の親代わりとして・・・」
「つまり、金を貸してくれという事ですか。」
形兆は千造の話を途中で遮ると、振り返って千造を見た。
「なるほど、大分お困りだというのは分かりました。けれども、お断りします。」
「・・・・何ぃ・・・・?」
「確かに、不景気も年々深刻になってきている。伯父さんもさぞかし色々と大変でしょう。お気持ちはお察しします。
散々お世話になってきてますから、お力になれるものならなりたいですが、生憎そんなに期待される程、うちには財産なんてものはありません。
強いて言えば東京の家と土地位のものですが、何ならあれを売って金を作りましょうか?どうせもう住んでいませんし。
そう言えば、あそこもずっと伯父さんに『管理』をお任せしたきりでしたが、売るとなると一旦お返しして頂かないといけませんね。」
それを言われると困る事を承知の上でわざと言ってみると、案の定、千造は決まりが悪そうに顔を引き攣らせた。
「い、いや、そうではない。勘違いをするな、何も金を貸せと言っとるのではないのだ。
ただ、お前達がこの先みすみす間違った金の使い方をせんように、万作に代わってこのワシが親代わりとして色々と手助けをしてやろうと・・」
「勘違いをしているのは伯父さんの方ですよ。親代わりも何も、俺達の親父はちゃんといます。ここにいると言っているじゃないですか。さあどうぞ、お入り下さい。」
形兆は離れの戸を、千造の為に大きく開けてやった。
ひっそりと静まり返っているその向こうに待つものを、きっとあれこれ想像しているのだろう。千造は怯んだように立ち尽くしていた。
肝っ玉の小さい奴だと内心で揶揄しながら、形兆は軽く笑った。
「大丈夫ですよ。中で親父の死体が腐っているとかミイラになっているとか、そんなB級スプラッター映画みたいな事はありませんから。
親父は元気でピンピン生きています。まあ尤も、伯父さんの読みは満更外れという訳でもなくて、実は少し身体を悪くしてしまったので、色々と介助の必要な状態にはなってしまっていますけれども。」
「ぬう・・・、そ、そうなのか・・・・?」
形兆がそう言ってやると、額に脂汗が滲む程緊迫していた千造が、少しだけ安堵したように身体の力を幾らか抜いたのが分かった。
「どうぞ。さあ。」
千造を更に安心させるべく、形兆は先に離れの中に入った。
部屋の戸を少しだけ開けて中を覗いてみると、父はまだ食事の最中だった。
派手な柄物の服を着て、前掛けなど着けて、下手くそな握り方でスプーンを握り、一心不乱に食べている父の姿は、何だかまるで幼い子供のように見えなくもなかった。
これまでの凄惨な姿の数々を見てきた形兆の目には、今の父親の姿は、何となく微笑ましく、ある意味可愛げがあるようにさえ見えた。
だが、千造の目には。
形兆は唇に冷笑を浮かべて、その場から父に呼びかけた。
「親父、千造伯父さんが来たぜ。久しぶりだろ。」
仕上げに下らない小芝居をひとつ打ってから、形兆は横にずれ、千造を通す為に場所を空けた。
「どうぞ。中に入って、会ってやって下さい。」
「う、うむ・・・・・・」
千造は緊張して口籠りながらも、形兆に誘われるまま恐る恐るやって来た。
形兆は千造に場所を譲るような素振りでジリジリと後退し、さり気なく離れの戸口に立った。
それに気付かず父の部屋に入って行った千造は、それから程なくして、形兆が想像した通りの反応を示した。
「ひっ・・・、ひぎゃああああーーーッッ!!」
千造の絶叫が聞こえた瞬間、形兆は後ろ手に離れの戸を閉め、鍵をかけた。
それからトランクを持って、自らも父の部屋に入った。
その丁度同じタイミングで、千造がこけつまろびつ飛び出して来そうになったので、咄嗟に支えてやるふりでそれを阻んだ。
「けっ、形兆っ!形兆っ!何だアレは!?あの化け物は!?一体何なんだ!?」
千造は形兆の腕にしがみつきながら、そう喚き立てた。
形兆は穏やかな微笑みを浮かべて、取り乱している千造をやんわりと部屋の中に連れ戻した。
「何って、決まってるじゃないですか。うちの親父でありアンタの弟である、『虹村万作』ですよ。」
「バッ・・・、バカ言うな!!あんなモノ・・・・、に、ににに、人間じゃないじゃないか!!!」
千造はガタガタと手を震わせながら、形兆の父を指差した。その手からはいつの間にか煙草が無くなっており、見てみると、伯父の足元に落ちていた。
全く、ろくな躾をされていないのはどっちなんだかと心の中でぼやきながら、形兆はそれを拾い上げた。
「ああそうさ。親父はもう人間じゃなくなったんだよ。」
「何だと・・・!?ど、どういう事だ!?」
「お袋が死ぬ直前、親父は密かにエジプトへ渡り、そこで悪魔に・・・、いや、吸血鬼に魂を売った。その結果がこのザマだ。今から10年前、親父は化け物になっちまったんだよ。不死身の化け物にな。」
「な、何を言ってるんだ、お前・・・・!?」
「今、ちょっとした証拠を見せてやるよ。」
形兆は呆然と立ち尽くしている千造から離れて、父に歩み寄った。
そして、ようやく食べ終わり、満ち足りたように呆けている父親の額に、おもむろに煙草の火を押し付けた。
その瞬間、千造はまた怯えたようにヒィッと悲鳴を上げた。
父に対しても千造に対しても積もりに積もっていた憎しみが刺激されて、形兆はわざと千造に見せつけてやるように、煙草を更に強く、グリグリと父の額に押し付けた。
父は子供がベソをかくように小さく呻いていたが、逃げたり暴れたりはせず、煙草が折れてボロボロに崩れてしまうまで、されるがままにじっとしていた。
「ウ、ウゥゥゥ〜・・・・」
父の額には、形こそ小さいが酷い火傷が出来ていた。
千造はそれこそ化け物でも見るような目で、形兆を見つめた。
「お・・・、恐ろしい・・・・、何て残酷な事をするんだ、形兆、お前という奴は・・・・!」
「残酷?俺や億泰はまだうんとガキの頃に、コイツにこれと同じ事を散々されましたがね。傷痕だって身体中に残ってる。
けど、コイツの傷はすぐに治る。ほら、よく見て下さいよ。」
喋っている内にも父の額の火傷はみるみる治っていき、やがて何事も無かったかのように、元通り不気味な深緑色の皮膚に戻った。
それが千造にもちゃんと見えたのだろう、千造は益々怯えたような顔になった。
「ひっ・・・・!ど、どういう事なんだ、これは・・・・!?」
「だから言ったでしょう。コイツは不死身の化け物なんですよ。傷付けようが毒を飲ませようが、こいつは死なねぇ。何したってすぐに治っちまうんだ。」
「そ・・・、そんな事が・・・・あるわけ・・・・」
千造はすっかり怯えきっていた。
恐怖に凍りついてしまっていて、身体が動かないようだった。
形兆はトランクをその場に下ろし、自分もどっかりと床に座り込んだ。
「俺はね伯父さん、この10年、必死で調べてきました。そしてようやく掴んだんですよ。」
形兆はトランクの留め具を外し、千造には見えない程度に少しだけ開けてみた。そして、そこにちゃんと納められている、鈍い光を放つ銀色の矢じりをじっと見つめた。
これまで弓を引いた経験は無かったので、エジプトでホル・ホースに協力して貰い、少しだけ練習はしてきてある。
しかしそれはこの弓と矢ではなく、普通の弓と矢を使っての事だったので、この矢を射るのはこれが初めてだった。
「な・・・、何をだ・・・!?」
「親父を殺す方法を、ですよ。」
「な・・・、何だと・・・!?」
「親父は普通のやり方では死にません。死ねないんです。親父を殺すには、ある特別な力が必要だ。」
「特別な・・・力・・・!?」
「そう。普通の人間にはない特別な精神の力、『スタンド』というものの力が。」
形兆は目線を弓と矢から千造へと向けて、唇の端を吊り上げた。
「伯父さん、アンタの長年の疑問に答えてやるよ。
お袋の死後、親父の金回りが急に良くなったのは、その『スタンド』の力のお陰さ。
親父はその力で、普通じゃ考えられないような短期間で莫大な金を稼ぎ出したのさ。」
「ス、スタンド・・・・?」
「そう。そしてそれは、恐らくアンタにもある。」
「な、何だって・・・・!?」
「そこでね伯父さん。俺も折入って頼みがあるんですよ。
アンタにもそのスタンドの力を身に着けて貰いたいんです。それで、親父を殺してやって欲しいんですよ。
そうしたら、うちの財産でも何でも好きにしてくれて良い。
というか、その能力が手に入ったら、アンタも昔の親父と同じように、短期間でとんでもない大金を稼げるようになるんじゃないですかね。」
その誘い文句に千造の目が一瞬ギラリと光ったのを、形兆は見逃さなかった。
スタンドの力を持つ者は、精神力の強い者、強い思念を持つ者。
ならば確かに、この千造にも素質が備わっている可能性は十分にあった。
金に対するこのおぞましい程の執着心は、間違いなく人並み外れていると言えるのだから。
「フ・・・、フン、下らん。誰がそんなバカげた話を・・・・・。
だ、大体、そのスタンドとやらを身に着けるというのは、どうやってやるんだ?資格試験でもあるというのか?ええ?」
「・・・まあそうですね。ある意味では『資格試験』と言えるでしょうね。」
さあ、『テスト』の始まりだ。
形兆は心の中でそう呟いて、トランクから弓と矢を掴み出した。
形兆の取り出したそれを見て、千造はギラついた目を大きく見開いた。
「な・・・・、何をする気だ、形兆!?」
「この矢で射抜かれて死ななければ、アンタは試験に『合格』だ。」
「な・・・・!!」
形兆は立ち上がり、千造に向かって弓を構えた。
練習に使ったちゃちな矢とは違って、本物の矢はズシリと重い手応えだった。
「この矢は、スタンド能力を引き出す事の出来る矢だ。但しそれはスタンドの素質を持つ者のみ。素質が無ければ死ぬ。」
「そ・・・、そんな・・・・!」
「親父も昔、この矢で射抜かれたそうですよ。兄弟だから、伯父さんにも同じ才能があるんでしょう。期待していますよ。頑張って下さい。」
「そ、そんな無茶苦茶な!じょ、冗談じゃないッッ・・・・!!」
千造は足をもつれさせながら、部屋を転がり出て行った。
だが、こんな狭い部屋の中、狭い離れの中で、逃げ切る事など不可能だ。
形兆はすぐに後を追い、ものの数秒と経たぬ内に千造の背後に立った。
離れの戸をどうにか開けようと必死になっていた千造は、戸に鍵がかかっている事に今頃気付いたようだったが、もう手遅れだった。
強い恐怖に囚われて完全なパニックに陥り、酷く震えている手でどうにか戸の鍵を開けようと四苦八苦している千造に向かって、形兆は弓をしっかりと引き絞った。
美しい彫刻の施された鈍い銀色の矢じりが、静かな殺気を帯びて千造の背中に狙いを定めた。
そして次の瞬間、形兆の手を離れた矢は微かな音を立てて空を切り裂き、千造の背中に深々と突き立った。