店の中に引き返した形兆は、そのままホル・ホースの元に駆け寄った。
「アンタに頼みがある!日本に来てくれ!日本に来て、その『エンペラー』の力で俺の親父を殺してくれ!頼む!」
しかしホル・ホースは、形兆の頼みを素っ気無く一蹴した。
「そいつは無理だね。」
「金なら勿論払う!アンタの納得のいく額を必ず払う!だから・・・」
「金の問題じゃねぇ。お前の親父は、DIOの肉の芽の暴走で化け物になっちまったんだろう?じゃあ無理だ。とても俺の手には負えねぇよ。」
「な、何でそう言い切れる!?他にも同じようになった奴がいるのか!?」
「さあな。少なくとも俺達は知らねぇ。無理だと言ったのは、他に同じような奴を知っているからじゃねぇよ。DIOの力が、それ程恐ろしく桁違いだという事さ。死んで10年経った今も、な。」
ホル・ホースの口調はあまりにも淡々としていて、これ以上の交渉の余地を一切感じ取れなかった。
「そ、それなら他にいないのか!?誰か、あの化け物を殺せそうな能力を持つスタンド使いが、誰か・・・・!」
「悪いが心当たりはないね。俺の知ってる連中は、10年前のあの当時に結構な数が死んじまったし、残った奴らは散り散りバラバラ、さぁて今頃どこでどうしているやら。」
ようやくここまで辿り着いたというのに、全てを諦める事なんて出来る訳がない。
痛恨の念が身体の中を駆け巡り、血が沸騰したかのように熱く滾った。
その時、ホル・ホースが形兆の肩をポンと叩いた。
「だからそこで、こいつをお前に売ってやるよ。」
形兆の目の前に、弓と矢が差し出された。
映画や歴史の教科書などで見た物とは違って、その矢の矢じりは美しい彫刻が施され、重厚だった。矢じりというよりは、まるで刃のようだった。
「・・・・これで・・・・、人を射抜けというのか・・・・?」
この矢に射抜かれた者は、自らの内に眠っていた潜在的な能力に目覚め、スタンドが発現する。
ただし、その素質が無ければその人間は死ぬと、さっきホル・ホースは言っていた。
素質があるかないかなんて、どうやって知る事が出来るのだろう?
素質のない者を射抜いてしまったら、それは即ち、その人間を殺してしまうという事になるのに。
人として決して越えてはならない線を目の前にして、形兆は恐怖を感じていた。
おぞましい化け物になってしまった父親を殺そうとする事は今まで何度も試してきたが、形兆にとって、それとこれとは全く別物だった。
「弓は只の弓だ。必ずしもこいつを使って射抜かなきゃいけない訳じゃない。
重要なのはこの矢さ。この矢じりの部分だ。とにかくこいつを突き刺せば良いのさ。
場所もどこだって構わねぇ。胸でも腹でも、刺さりゃあどこでもいい。たとえ頭を貫通したとしても、素質のある奴ならばすぐに目覚める。傷も残らない。
けれども素質がなけりゃあ、たとえ腕や足をちょいと掠めただけだとしても死ぬ。必ずな。」
ホル・ホースはまるで追い討ちをかけるかのように、残酷な説明を付け加えた。
致命傷にはならないように、力の加減をしたり急所を外したりすれば死なせずに済むのではという希望も、これで敢え無く潰えてしまった。
「一体何なんだ、この弓と矢は・・・・」
「んな事俺が知る訳ねぇだろ。あのババアなら知ってたかも知らねぇがな。」
「あのババア?」
「俺達をこの矢でスタンド使いにしたクソババアさ。エンヤ婆と呼ばれていた、DIOの参謀のような存在だった魔女さ。
DIOのスタンド能力を引き出し、使い方を教えたのは、そのババアだったそうだ。
今から10年以上も前、エンヤ婆はDIOの命令の下、世界中からスタンドの才能のある奴を捜し出してエジプトに呼び寄せては、この弓と矢で射抜いてスタンド使いを生み出していた。」
父親からは聞かされていない話だった。
勿論、これまで調べてきた新聞や書籍などにも載っていなかった。
「その中には確か日本人の男もいたなぁ。名前は確か・・・・、マンサク・ニジムラ。」
「な・・・、何!?」
「お前の名前を聞いた時、どっかで聞いた事のある名前だと思ったんだ。そうかそうか、お前はあのオッサンの息子だったのか。」
「親父の事を知っているのか!?親父の身に何があったのか、知っているのか!?」
「少しはな。聞きたきゃあ話してやっても良いぜ。DIOもエンヤ婆ももうとっくに死んじまって怖いもんは何もねぇし、このところ仕事の依頼もサッパリ無くてヒマだしな。」
「話してくれ!!アンタらの知ってる事全部、話してくれ!!」
「1000ドルだ。」
ホル・ホースは良く通る声で、きっぱりと一言、そう言った。
「ここまでの情報料として、まず1000ドル貰う。そして続きがもう1000ドル、しめて2000ドルだ。それを情報料兼手付という事にする。支払いはドルでもエジプトポンドでも、どっちでも構わねぇ。」
このホル・ホースという男は、既に『商談』に入っていた。
「弓矢の値段は100万ドル、と言いたいところだが、17歳のガキ相手にそこまで吹っ掛ける程、俺は鬼じゃねぇ。
だからそうさな・・・・、50万、いや、30万ドルでいい。30万ドルを、俺が指定する銀行の口座に振り込んで貰う。
入金が確認出来たら、すぐにブツを航空便で送ってやる。これでどうだ?」
余裕の笑みを浮かべたホル・ホースの顔を睨みながら、形兆は頭の中で計算をし、考えた。
情報料兼手付で、約28万円。
そして弓矢は、約4200万円。
かなり高額の買い物だ。払えない事はないが、これまで慎重に慎重に切り崩してきた蓄えの大半を、一気に吐き出してしまう事になる。
もしもこの話が全くデタラメの詐欺だったとしたら、取り返しがつかないなんてものじゃない。一瞬チラッと考えただけでも憤死しそうだ。
だが、動揺や迷いを見せてはならなかった。
こんな状況に立たされるのは流石に初めてだったが、それでも、相手にナメられてはいけないという事だけは分かっていた。
ほんの僅かな隙も見せないよう、形兆は厳しい視線をホル・ホースにぐっと固定した。
「・・・・その話、本当に信用出来るんだろうな?こっちが金を払ったとして、テメェらが本当にブツを送って来るという保証はあるのか?
そもそもその弓矢、本当にスタンド能力を引き出す事が出来るのか?」
「信じる信じないはお前次第さ。証拠を見せてやりてぇのは山々だが、そうそう都合良くスタンドの才能を持つ者がそこら辺を歩いている訳じゃないんでな。
こっちとしては、言葉を尽くして説明してやる事しか出来ねぇ。それが精一杯の誠意だ。
それと、俺の職業はフリーランスのスナイパー。殺しから護衛まで何でもござれの、危険な仕事だ。
それをこんなオヤジになってもピンピン元気で現役やっていられるのは、ハジキの腕やスタンドのお陰だけじゃねぇ。ビジネスに対して誠実なこの性分のお陰でもあるのさ。
お前がちゃんと金を払えば、こっちも必ず約束はきっちり果たす。
それでもどうしても信用出来ねぇというなら、人質としてボインゴでも連れて帰るかい?」
いきなり名指しされたボインゴは、目を丸くして自分を指さしてから、首と手を盛大に振りまくった。
初対面の時から何となく思ってはいたが、どうも酷く臆病な性分らしい。
子供みたいに兄に縋り付いて本気で怖がっている様子のボインゴと、そんな弟を庇っているオインゴ、そして、落ち着き払った態度のホル・ホースの顔を順番に見回してから、形兆は最後にもう一度自分に問いかけ、答えを出した。
「・・・・分かった。その取引、乗ったぜ。」
ここで引き返す事は、やはり絶対に出来なかった。
しかし、だからと言って、こんな得体の知れない連中に主導権を握られるのは危険だった。
「但し、手渡しだ。アンタはブツを持って、俺と一緒に日本に来てくれ。
金はすぐに用意出来る。日本に着いたら、空港のロビーで少し待っててくれ。すぐに届ける。そこで金とブツを交換だ。」
「ほーう?そんな大金を、そんなに早く用意出来るのか?」
「日本円でな。だから、アンタに色々手間を取らせる事にはなるが、その手間賃として3万ドル相当の額を上乗せする。それでどうだ?」
日本円にして400万以上もの大金を上乗せするのは、確実な取引と、時間の浪費を避ける為だった。安心と時間と金、この中で諦めのつくものは何かと考えれば、答えは自ずと決まっていた。
形兆はポーカーフェイスを作って余裕のあるふりをして見せながら、この男がそれなら交渉決裂だと言い出さない事を祈った。
「・・・フン、ダメだね。」
暫しの沈黙の後、ホル・ホースは鼻を鳴らした。
こっちの本心を気付かれて、足元を見られてしまっただろうか?
やっぱり100万ドルだと吹っ掛けられてしまうだろうか?
固唾を呑んでいると、ホル・ホースは再び口を開いた。
「交通費も別だ。往復の飛行機代も出して貰うぜ。」
形兆は内心でホッと胸を撫で下ろした。
セコい野郎だと呆れながらも、形兆は襟元に手を突っ込み、首から下げて服の中に隠していた財布を引っ張り出した。
「分かった、それも呑もう。まずは手付だったな。ほらよ、きっちり2000ドル。」
「これで契約成立だ。毎度あり。」
ホル・ホースは唇の端を吊り上げて、形兆の差し出した金を受け取った。
オインゴが、表のドアに『CLOSED』の札をぶら下げた。
わざわざそんな物を下げなくても、元々やっているのかいないのかはっきりしないような店だから別に大丈夫なんじゃないかと思ったが、ちゃんと人払いをしようと気遣ってくれている気持ちは伝わってきたので、口には出さずにおいた。
勧められた椅子に腰を落ち着けると、少しして、ボインゴが奥から人数分の冷たい紅茶と焼き菓子を運んで来た。
胡散臭い奴らだが、どうやら客を歓迎する気はあるようだった。
「さっきも言った通り、DIOは当時、世界中からスタンドの才能のある奴を捜していた。」
形兆の差し向かいに座っているホル・ホースは、ボインゴが運んで来た紅茶を一口飲むと、早速話を始めた。
「何の為だったのか、改めて考えてみりゃあ、よく分からねぇ。
ただ奴は異常なまでに、ジョースターという家に生まれた男達を忌み、根絶やしにしようとしていた。」
「ジョースター家の男・・・・、ジョセフ・ジョースターの事か?」
形兆が尋ねると、ホル・ホースは少し驚いたような顔をした。
「何だ、知っているのか。」
「ちょっとは調べたからな。」
この10年の間にしてきた事を、この男に語っても意味は無い。
そんな事より、早く話の続きを聞きたかった。
「そう。DIOはジョセフ・ジョースターと、その孫の空条承太郎という男を消したがっていた。自分の道を阻むものとしてな。」
「空条・・・承太郎・・・・」
ジョセフ・ジョースターの孫であり、空条ホリィの息子。
今はアメリカで暮らしているというその男も、やはり関係していたのだ。
そうだと分かると、あの事件の渦中にいてずっと正体の掴めなかった男達の事が見えた。
「その空条承太郎という奴は、黒い服と帽子を身に着けた、背の高い男だったか?」
「ああ、そういやそうだったなぁ。いつも暑苦しい黒ずくめの格好をしていたっけなぁ。」
「そして、DIOは金髪の白人の男、だな?」
「ああそうだ。それがどうした?」
「1988年の1月、空条承太郎とジョセフ・ジョースターは、このカイロでDIOと戦ったんだな?そして、その戦いに敗れたDIOは死んだ。そうだな?」
「ま、そういうとこだ。正確に言うと、ジョースター達には他にも数人の仲間がいたがな。それに、その時俺達は全員既にリタイアした後でその場にはいなかったから、詳しい事は知らねぇけどな。」
「そうか・・・・、そういう事だったのかよ・・・・」
ならば、ジョセフ・ジョースターや空条承太郎が、言うなれば親の仇という事になるのだろう。だが不思議と、恨みや憎悪は湧いてこなかった。
彼らが『DIO』を殺さなければ、父の脳に埋め込まれていた肉の芽が暴走し、化け物になる事はなかったのだろうが、それは単なる仮定に過ぎなかった。
仮にその時DIOが死んでいなかったとしても、そんな恐ろしいものを脳に埋め込まれた状態で、父がその後いつまでも平穏無事に生きていられた保証はそれこそ無いのだから。
何より、全貌が見えた今もやはり、全て父の自業自得だという思いが一番大きかった。だから、あの空条ホリィの父親や息子を仇だとは思えなかった。
「『DIO』とは何者だったんだ?」
「吸血鬼さ。」
ホル・ホースは大真面目な顔で、そう答えた。
笑い飛ばす事も、ナメてんのかとキレる事も、どちらも出来なかった。
占いもオカルトもUFOも信じない、吸血鬼なんて只の作り話だと思っているのに、この『DIO』に関してだけは疑念の持ちようがなかった。
「奴は100年の時を海の底で眠り続け、今から十数年前、現代に蘇ったのさ。
だが元は人間で、そのジョースター家と何やら深い因縁があったようだ。
奴は集めたスタンド使い達を、刺客としてジョースター達に次々と差し向けていた。俺達も勿論、例外じゃあなかった。」
ホル・ホースは、側の椅子に座っているオインゴボインゴ兄弟にチラリと目を向けた。
ティータイムを楽しみながら話に加わっていたらしい二人は、口をモグモグさせながらも、真剣な顔でコクコクと頷いた。
「そしてその中に、俺の親父もいた・・・・・」
形兆が呟くと、ホル・ホースは菓子をひとつ口に放り込み、それを咀嚼しながら頷いた。
「そうやって集められた連中全員と会った事がある訳じゃあねぇが、お前の親父とは少しだけ面識がある。よく覚えているよ。やけに目のギラギラした男だった。そして、終始金の話しかしていなかった。」
その頃の父の顔は、思い出したくもなかった。
いや、思い出そうとしても、あまりはっきりと出てこなかった。
鬼のようなあの男が怖くて、怖くて、そう言えばいつも極力目を合わせないようにしていたのだ。
なす術なく、ただ億泰と身を寄せ合って怯えていた幼い日の自分を思い出し、形兆は膝の上で密かに拳を握り締めた。
「かく言う俺も、金の為に奴の手先になっていたクチだ。このオインゴやボインゴもそうだ。」
「それと、命惜しさとな。」
オインゴが横からそう付け加え、ボインゴもコクコクと頷いた。
「恐ろしい奴だったぜ。心底恐ろしかった。確かに金も欲しかったが、それよりもとにかく殺されたくなかったんだ。それが、俺達兄弟がDIOに従う一番の理由だった。」
「そう、俺もそうだった。というより、あの当時DIOの配下にいたスタンド使いの半分以上がそんな感じだった。
それから、DIOに心酔し、本気で忠誠を誓っている奴等がいて・・・、またそんなのに限ってクッソ強ぇとくるんだコレが。
それと、女共は皆もれなく奴の見てくれやら何やらにコロッとイッちまって、ベタ惚れに惚れ込んでたっけな。
だからまあ結局皆、我が身可愛さか奴にイカレちまったか、そのどっちかだった訳だが、お前の親父は例外だった。」
「例外?」
「お前の親父は、DIOに心酔しなかった。かと言って、奴に怯え、命惜しさに奴に付き従った訳でもなかった。
お前の親父は、見事なまでに金の事しか考えていなかった。
あのDIOやエンヤ婆を相手に、徹底して金の話しかしないんだからな。いやはや全く、大したタマだったぜ。」
ホル・ホースはハハハと軽く笑ったが、形兆はとても笑える心境ではなかった。
金に狂って鬼となったあの男が憎かったし、情けなくもあった。
そして同時に、悲しくもあった。
あの時母は、高価な新薬など望んではいなかった。
それに縋らずにはいられなかった父の気持ちが分からない訳ではないが、日に日に弱っていく母を置き去りにしてまで、どうして金など求めたのだろうか?
母はきっとそんなものより、父にずっと側にいて、最期を看取って欲しかった筈だった。残された僅かな時間を、家族全員に囲まれて過ごしたかった筈だった。
あの男は、どうしてそんな事が分からなかったのだろうか?あんなにも仲睦まじい夫婦だったのに。
遺書を託された時の母の儚い微笑みを思い出すと、思わず感情が揺れそうになったが、形兆はそれを抑え込んで平静を保った。
「俺の親父は、DIOの下で何をやっていたんだ?」
「奴は資金調達を担っていたようだった。」
「資金調達?」
「如何に吸血鬼とはいえ、今日びは乙女の生き血だけじゃあ生きていけねぇのさ。
この世知辛い現代に生きる以上、人も吸血鬼も金は必要だってこったよ。」
ホル・ホースは皮肉めいた軽口を叩き、ハハンと笑った。
「当時、一番ギャラが良かったのは刺客だ。ジョースター達を殺れば、一生遊んで暮らせるような莫大な報酬が約束されていた。
だがお前の親父は刺客にはならず、ひたすら金や金目の物を集めてはDIOに提供するっていう裏方の仕事に徹していたのさ。
んでもって、上手くテメェの懐にも放り込んで、ちゃっかり私腹を肥やしてた。」
「だから親父はDIOに信用されていなかったのか?DIOの金を盗むか何かしたせいで、肉の芽を埋め込まれたのか?」
「というより、根本的に最初から全く信用されてなかったんだろうよ、お前の親父は。まあ尤も、DIOは結局誰の事も信用しちゃあいなかっただろうし、お前の親父も、何も気にしていなさそうだったがな。
いや、気にしてねぇっつーより、ありゃ開き直ってたって感じだったか。」
「開き直ってた?」
「ああ。金は十分運んでやってるんだから問題ねぇだろって態度だったぜ。
DIOの恐ろしさが分からなかった筈はねぇから、単に虚勢を張ってただけなんだろうが、それにしても大した根性の据わりっぷりだったよ。
DIOの方も、それで構わねぇとばかりに奴を好きにさせてた。
肉の芽の事はお前の話を聞くまで知らなかったが、それでもDIOはそれなりにお前の親父を気に入っていたみたいだったぜ。信用はしてなくてもな。」
「何?」
意外な話に、形兆は少し驚いた。
「お前の親父は、本っ当に金の事しか頭になかった。
あのDIOに対して、まるでビジネスパートナーみたいに対等に接していた。
他は皆、奴隷か信者のように絶対服従を誓っているのにだぜ?
そんな奴を、DIOは意外と評価していたようだった。
まあ、そんだけはっきりした態度を取られたら、却って清々しく感じるものかもな。仕事も出来たようだしよ。」
今、聞かされているのは、形兆の父親の話ではなかった。
浴びるように酒を飲んでは鬼のような形相で暴力を振るったあの憎い父親ではなく、『虹村万作』という、一人の男の話だった。
初めて知ったその男に、形兆は興味を抱かずにはいられなかった。
「親父のスタンドは?どんなスタンドだったんだ?」
「さあなぁ。見た事も聞いた事もねぇ。奴は誰とも組まなかったからなぁ。DIOやエンヤ婆は知っていたんだろうがよ。」
「・・・・そうか・・・・」
あの愚鈍な化け物にかつてどんな能力があったのか、出来る事なら知りたかったが、こう言われては諦めるより仕方がなかった。
それよりも聞いておかなければいけない重要な事が、まだ他にあった。
「アンタさっき、スタンドの能力は素質のある者にしか現れないと言っていたな。
DIOやエンヤ婆は、どうやってその素質を持つ者を見抜き、呼び寄せていたんだ?
アンタらの方も、それが自分にあるという自覚はあったのか?」
「エンヤ婆がどうやってスタンドの素質がある奴を呼び寄せていたのかなんて俺は知らねぇし、この矢でブチ抜かれて目が覚めるまで、自分にそんなモンがあったなんて事も知らなかった。」
「お、俺もだ・・・・」
「僕もです、ハイ・・・・」
ホル・ホースも、オインゴボインゴ兄弟も、何の情報も持ってはいなさそうだった。
だとしたら、やはり一か八かでやるしかないのだろうか?
何の関わりもない普通の人間を、無差別に殺してしまう事になるのを覚悟の上で。
「・・・じゃあ、手当たり次第にやるしかねぇって事かよ・・・」
思わずそんな独り言が、形兆の口をついて出ていた。
日本語だったから何と言ったのかは分からない筈だったのに、それを聞いたホル・ホースは、小馬鹿にするような笑みを形兆に向けた。
「怖気づいたかい?坊っちゃんよ。」
「・・・何だと?」
そんなつもりは更々無かった。
そんな危険な道具は使えないと怖気づけば、この10年が丸ごと無駄になる。
人としての良心に従い、決して越えてはならない線を越える事を恐れれば、それは自分の未来を、人生を、自らの手で捨てる事になる。
自分一人の人生だけではなく、億泰の人生も、の人生も、一緒に。
「そんな訳あるか。手付はきっちり払ったんだ。その弓と矢は何が何でも譲って貰うぜ。」
今更退く気など、更々無い。
ナメられて話を覆されないよう、形兆はホル・ホースを厳しく睨み据えた。
「勿論売ってやるさ。ボインゴの予言に出ているんだからな。ボインゴの予言は絶対だ。」
ホル・ホースはその憎たらしい笑みを崩さず、自信たっぷりにそう言い切った。
実際に自分の目で見たから、この連中の能力は一応信じているが、そうでなければ鼻で笑っているところだ。
「予言は絶対、か。信じてねぇ訳じゃねぇが、少し引っ掛かるぜ。アンタらの方が、その『予言』の通りに行動しているだけじゃねぇのか?」
「弟の予言は絶対だ。予言と違う行動を取ったとしても、結果的に必ず予言の通りになるのさ。」
「そう。たとえ俺達が今ここでお前との取引をやめたとしても、いずれ俺達は必ずお前にこの弓矢を売る事になるという訳だ。」
「ぼ、僕のトト神の予言は絶対なんです、ハイ・・・・」
ますます胡散臭い。信じてはいるが、それでも胡散臭い事この上ない連中だと、形兆は内心で思った。
そもそも、DIOにとって非常に重要なアイテムだった筈の弓と矢を、何でこんな連中が持っていたのだろうか?
3人共、どう見ても腹心の部下という感じではないのに。
さっきは他に驚く事が多すぎて気が回っていなかったが、色々と話を聞いた今、そもそも何故こいつ等が弓と矢を持っていたのかが気になった。
「ところで、アンタらは一体それを何処で手に入れたんだ?」
「DIOのアジトだった館さ。昔、このすぐ近くにあったんだ。」
ホル・ホースはまたひとつ、菓子を摘まみながらそう答えた。
「DIOが死んだ時、俺とボインゴはこのすぐ近くの病院に入院していた。
奴が死ぬ直前に、ジョースター達との闘いで瀕死の重傷を負っちまったんだ。」
「へぇ。そいつは意外だな。」
今でもオドオドと兄貴の後ろに隠れているような奴が10年前にどんな子供だったかなんて、わざわざ想像してみるまでもない。
そんなガキがよく戦えたものだと形兆は感心したのだが、ホル・ホースは笑ってそれを否定した。
「ああ、違う違う。こいつは犬にケツを噛まれたんだ。」
「は?」
聞き間違いだろうか?
犬にケツを噛まれたと聞き取れた気がしたのだが、慣用句かスラングだろうか?
そう思った瞬間、ボインゴが顔を赤らめて、これまでで一番大きな声を出した。
「バ、バカにしないで下さい、ハイ・・・・!とってもとっても、酷い目に遭ったんです・・・・!今でも傷が残ってるんですから、ハイ・・・・!
しかもあの犬は、ジョースター達の仲間だったんです!だから僕もちゃんと、ジョースター達にやられた訳です、ハイ・・・・!」
「お、俺もジョースター達との闘いで重傷を負って、そん時ぁアスワンの病院に入院中だったんだぜ!
爆発に巻き込まれてよぉ、いやぁ全く、大変だったんだぜ!何日も生死の境を彷徨ってよぉ!死ななかったのは奇跡だったぜ!」
どうやら聞いたまんま、犬に尻を噛まれたらしかった。
それだけでも馬鹿馬鹿しいのに、兄貴のオインゴの負傷自慢までいちいち聞いていられない。
形兆は鼻を鳴らし、分かった分かったとオインゴボインゴ兄弟を適当にあしらった。
「それで?」
「それでだ。そんなこんなで入院していたある夜、ボインゴの本に予言が出た。俺達がこの弓と矢を手に入れるとな。
当時俺は歩けるかどうかも怪しい位の重傷を負っていたが、ボインゴの予言は絶対だ。動かねぇ身体を何とか奮い立たせてボインゴと共に病院をこっそり抜け出し、予言に導かれるままDIOの館へ行った。」
「ぼ、僕も、お尻を包帯でグルグルに巻かれていて、歩くのがとても大変でした、ハイ・・・・」
「お前のケツの話はもういい。それで?」
「館は激しく損壊し、DIOはもうそこにはいなかった。
館には他に門番や執事や小間使い共、それにいつも影のようにDIOに付き従っている側近もいた筈なんだが、もう誰の姿も見えなかった。
俺達は予言に従って奴の部屋に入り、そこでこの弓と矢を見つけたのさ。
そしてその夜が明けた時、DIOが死んだ。」
10年前のあの昼下がりの悪夢が、形兆の脳裏に蘇ってきた。
みるみる内に身体中に増殖していく醜いイボ、崩れ落ちていく顔、濁った緑色に変色していく肌。
泣きじゃくる億泰の声と、苦悶する父の声。
DIOが死んだ。肉の芽が暴走した。
繰り返されるあの時の父の断末魔の叫びは、形兆の耳の奥にこびりついたまま、10年経っても消えていなかった。
「それから俺達は今日までずっと、こいつをこうして手元に保管してたのさ。」
形兆は、ボインゴが開いている本の表紙を見つめた。
見れば見る程ふざけた絵だ。こうして表紙だけを見ていると、やはりそれが予言書だとはとても思えない。思えないけれども、疑う余地もない。じっと考えていると頭が混乱してしまいそうになる。
とにかく落ち着かねばと気持ちを鎮めていると、不意にボインゴが驚いたような声を上げた。
「ま、また新しい予言が出ました、ハイ・・・・!」
ボインゴはその場の全員に見えるよう、本をテーブルの上に広げて置いた。
覗き込んでみると確かに、そこにはまた新しい話が浮かび上がっていた。
『明日の夕方6時の飛行機で、形兆はホル・ホースと一緒に日本へ帰ります。
形兆は弓と矢を手に入れられてハッピー!ホル・ホースも大金をGETしてハッピー!
家で形兆の帰りを待っていた弟と彼女もハッピー!お父さんもちょっと進化したよ!
彼女と弟が形兆の帰りを喜んで、美味しいご馳走を作ってくれるよ!羨ましすぎるぅー!クキィィー!』
お父さんもちょっと進化したという謎めいた一文も気になったが、の事も気になった。
の顔が思い浮かんで、元気だろうか、今頃何をしているだろうか、などと月並みな事を考えたら、ここに来て初めて郷愁のようなものに駆られて、ふとに会いたいと思ってしまった。
その一瞬後で我に返って内心で動揺し、何考えてんだと自分を叱りながら、形兆はページを捲った。
『虹村一家が形兆の帰国パーティーをしていると、形兆の伯父さんがやって来ました。形兆は早速、伯父さんに矢を使ってみる事にしました。すると・・・・』
形兆は固唾を飲みながら、更にページを捲った。
『パンパカパーン!何と伯父さんにスタンド発現!』
そのページには、伯父の千造によく似た感じの中年男が描かれていた。
その背後に纏わりつくように描かれている不気味な物体、それが千造のスタンドなのだろうか?
パッと見た限りでは、何なのか分からない絵だった。
もっとよく見ようと、形兆は目を凝らして千造の背後に描かれているスタンドらしき物体を注視しようとした。
しかしその瞬間、オインゴの手によってまたページが捲られてしまった。
まだ読んでるんだ、前のページに戻せと反射的に文句を言いそうになったが、それは口から出る事なく消えて無くなった。
予言にはまだ続きがあったのだ。
『だけど伯父さんは、病気になって倒れてしまいました。
伯父さんは折角手に入れたスタンドを使う事なく、50日後にこの世を去りましたとさ。』
そのページには、点滴やら医療機器らしき機械に繋がれてベッドに横たわっている伯父が描かれており、その次のページは白紙だった。
思ってもみなかった衝撃的な結末に、形兆は絶句した。
「ああ・・・・、そういう事か。」
ホル・ホースが、訳知り顔でそう呟いた。
「どういう事だ?」
「うっかり言い忘れていたが、ひとつ付け加えておく事がある。スタンドの才能を持つ者全てがスタンド使いになれる訳じゃあねぇんだ。」
「な、何だと!?」
それは、後出しされるには余りにも重大すぎる補足情報だった。
「どういう事だそれは!?」
「スタンドの才能はあっても、どうもそれを使いこなす事が出来る奴ばかりじゃないらしい。発現したテメェのスタンドに殺されていく奴を、俺は過去に何人か見た。
そういやジョースター家の女も、その一人だったみたいだぜ。
10年前、その女も自分に発現したスタンドによって死にかけていたようだった。」
形兆は思わず息を呑んだ。
ジョースター家の女と言えば、心当たりは一人しかいなかった。
「ジョースター家の女?それはもしかして、空条ホリィの事か?」
「名前までは知らねぇが、ジョセフ・ジョースターの娘で、空条承太郎の母親だ。」
形兆は、先日空条ホリィと会った時の事を思い出していた。
つい最近の事だから、あの時のやり取りは勿論全て覚えていたが、そんな話を聞いた記憶は一切無かった。
「具体的にどうなるんだ?そのスタンドに自分が襲われるのか?」
「いいや、傍から見りゃあ病気さ。昏睡状態に陥った病人だ。但し、原因は不明。様々な病気を併発したような状態になっちまうんだ。
要するに、スタンドに自分のエネルギーを吸い尽くされちまうんだよ。肉体のエネルギーも、精神のエネルギーもな。そして50日程で死んじまう。
だからジョセフ・ジョースターと空条承太郎は、その女を救う為に、DIOをブチ殺しにこのエジプトまで来たのさ。数人の仲間と共にな。」
自らのスタンドに殺されるという事がどういう事なのか、どういうプロセスで死に至るのかは理解出来た。
分からないのは、自分のスタンドに殺されようとしていた空条ホリィを救う事が、何故『DIO』を殺す事に繋がるのかという事だった。
「何故だ?空条ホリィを救う事とDIOを殺す事に、何の関係があった?」
「DIOの肉体は、ジョセフ・ジョースターの祖父の肉体だったそうだ。
DIOはジョセフ・ジョースターの祖父の肉体を奪って、海底で100年の眠りに就いていたらしい。その肉体にスタンドが発現した事によって、ジョースター家の血を引くジョセフ・ジョースターや空条承太郎にもスタンドが発現したみたいだった。そのホリィとかいう女にもな。
そもそも『スタンド』というものは、持ち主の精神エネルギーが具現化したものだ。つまりは一心同体。だから、片方が傷付けばもう片方も傷付く。片方が死ねばもう片方も死ぬ。DIOを倒してそのスタンドが消えれば、女のスタンドも消えると考えたんじゃねぇのか。」
「・・・・なるほどな・・・・」
だから空条ホリィはあの時、誰かを庇うように必死になっていたのだ。
庇うようにではなく、庇っていたのだ。我が息子を、父を、その仲間達を。
彼等が戦った理由が、スタンドの発現によって死にかけていた彼女を救う為だったから。
だから彼女はあの時、涙を流したのだ。
全く関わりのない赤の他人の話なのに、あんなに悲しそうな顔をしたのは、それが自分のせいだと思ったからなのだ。
あの時の空条ホリィの涙を思い出し、形兆は苦い気持ちになった。
彼女は、恨まれていると思っているだろうか?
あの時告げた本心を、彼女はちゃんと信じてくれただろうか?
確かめに行く事などとても出来ないが、それが気掛かりだった。
「た、大変お気の毒ですが、僕の予言は絶対ですので、ハイ・・・。す、すみません、ハイ・・・」
形兆の心境を誤解したらしく、ボインゴが申し訳なさそうに謝った。
形兆が哀しく思うのは、空条ホリィが自分を責めて苦しむ事だった。伯父の死など、1ミリたりとも悲しいとは思わなかった。むしろ、予言が本当に当たるのなら、この弓と矢の試し撃ちになって丁度良いとさえ思っている位だった。
いきなり無関係の普通の人間を射抜く事を思えば遥かにやりやすい上に、傷も残らず時間を置いて病死してくれるのなら、世間の疑いの目が自分に向く事もまず無い。テスト用の実験台としてこの上ない適材だと言えた。
「別に。テメェが謝る事はねぇよ。」
形兆はボインゴにそう返して、アイスティーを一口飲んだ。
氷が融け始めていて少し水っぽくなってしまっていたが、何だか胸がスッとした。
長年つかえていたものが流されていくような、そんな清々しさを感じた。
「親父さんに伯父さんまで・・・、か。お前も若いのに色々苦労するなぁ。まあコレでも食って元気出せよ、な?」
オインゴが、いつの間にか残り少なくなっていた焼き菓子を、形兆の前に差し出した。
胡散臭くてセコい連中だが、多分、根はそんなに腐っている訳でもないのだろう。
形兆は少しだけ笑い、そうでもないさと答えて、菓子をひとつ口に放り込んだ。
「あぁっちぃ〜〜〜!!」
タンクトップにハーフパンツ姿の億泰が、扇風機の前に張り付いている。
齧っているアイスキャンディーは、が知っている限り、本日3本目だった。
確かに暑い。8月の、真夏の盛りなのだから。
とはいえ、あまり冷たいものを飲み食いし過ぎたら、億泰はすぐにお腹を下す。
は筆談帳に『アイス食べすぎ。またお腹ピーピーになるよ。』と書きつけて、億泰に見せた。
すると億泰は、口を尖らせて不満げな顔になった。
「分かってるよぉ〜。でもあちぃんだもんよ〜。何でこんな毎日毎日あちぃんだよぉ〜。」
が苦笑いしながら頷くと、億泰は益々辛そうに顔を顰めた。
「あぁ〜・・・・。もうやんなっちゃうよなぁ〜。毎日あちぃし、宿題は多すぎだしよぉ。」
暑さはどうにもしてやれないし、中2の2学期終了以降学校へ行かなくなったには、中3の宿題を見て教えてあげる事も出来ない。
今のにしてやれる事と言ったら、夏バテ気味でも食欲が湧くよう、せいぜい億泰の好物を作ってあげる事位しかなかった。
「・・・・兄貴も全然帰って来ねぇし・・・・・」
今日の夕飯カレーにしようか?と書きかけた手が、その一言で止まった。
エジプトへ旅立ってからそろそろ一月が経とうとしているが、形兆はまだ帰って来なかった。
ハガキの1枚も届かなければ、電話もかかってこない。
父親を殺す方法を見つけるまでは帰らないなんて言ってはいたが、事故とか病気とか、何かあったんじゃないだろうかと心配になる位、本当に何の音沙汰も無かった。
「・・・・いつ帰って来んのかなぁ、兄貴・・・・」
声はもう低いのに、まるで幼い子供のように心細そうな億泰の呟きが、の不安を駆り立てた。
形兆がもう二度と帰って来ないような、そんな気になって。
この一月、何度同じ事を考えただろうか。
だがはその度に、それを否定してきた。
本当に一人で逃げてしまうような人ならば、もっと早くにそうしている。
形兆は必ず帰って来る。何か掴んで、必ず帰って来る。
そして、帰って来てこっちの話を聞いたら、きっと喜んでくれる。
そう自分に言い聞かせて、励まして、形兆を信じてきた。
心から形兆を信じているとは言い切れない状態の自分に薄々気付いてはいても、それには敢えて目を背けて。
「今日の夕飯、カレーにしようか?」
は筆談帳にそう書きつけて、億泰に読ませた。
すると億泰は狙い通り、パァッと顔を輝かせた。
「マジすか!?やったぁー!リンゴとハチミツのバーモントカレーの甘口だぜぇっ!?」
勿論だ。億泰はそれしか食べられないのだから。
が笑って頷いたその瞬間、玄関の戸が勢い良く開く音がした。
初めは空耳かと思ったが、そうではなかった。その音に続いて、古い廊下を急いで歩いて来る少し重い足音までもが聞こえてきたのだ。
「んぁ?・・・あああ兄貴ィッッッ!!!」
程なくして居間に入って来たのは、形兆だった。
「・・・・・!!!」
億泰も目をまん丸にして驚いていたが、も勿論大いに驚いていた。
本当に、何の連絡も無かったのだ。こんなに急に帰って来るなんて、全く想像もしていなかった事だった。
だが、急でも何でも、無事に帰って来てくれたのは本当に嬉しかった。
それに、形兆が留守にしていた一月の間にこの虹村家にどんな変化があったのか、彼に報告するのをずっと待ち侘びていたのだ。
は急いで筆談帳にペンを走らせ、その事を書き始めた。
「何だよぉっっ!!全っ然帰って来ねぇと思ったら急に帰って来て、ビックリするじゃんかよぉっ!!帰って来るなら来るで、連絡ぐらいくれたって・・」
「やかましいっ、どけっ!!」
ところが、早速まとわりついて行った億泰を、形兆はまるで虫でも追い払うが如く鬱陶しそうに払い除け、居間を通り抜けて自分の部屋に行ってしまった。
ただいまの一言もなく、旅行の荷物もその辺に放り出し、几帳面で綺麗好きな彼にしては珍しく、手も洗わないで。
「な、何だよぉ、感っじ悪ぃ・・・!人がどんだけ心配してたと思ってんだよぉ・・・!」
億泰は思いっきり口を尖らせて文句を言ったが、その声は小さかった。
形兆に聞こえるのを恐れての事だろうが、多分、形兆の方はそんな事に構う気は無さそうだった。
形兆が居間を通り抜けていくほんの一瞬だったが、その瞬間に見た彼の顔には緊張感と切迫感が漲っていた。長旅で疲れて家に帰って来た人の顔とは、とても思えなかった。
何かあったのだろうか?
気になって、は形兆の後を追った。そのすぐ後ろを億泰もついて来た。
彼の部屋の襖を軽く叩いてから開けると、形兆は金庫から札束を出しては、銀色のアタッシュケースに次々と詰め込んでいた。
「な、何してんだよ兄貴ィ!?そんな大金どうする気だよぉ!?っていうか帰って来るなり何なんだよぉ!説明してくれよぉ!」
億泰の隣で、もコクコクと頷いた。
しかし形兆は億泰とには目もくれず、何かに取り憑かれたように札束をアタッシュケースに詰め込み、数を数え、終わるとケースを閉めて金具をしっかりと留めた。
「なぁってばよぉ兄貴ィ!無視すんなよぉ!」
「うるせぇ!!急いでんだ、説明は後だ!!」
形兆はアタッシュケースを持ち、立ち上がった。
「ちょっ・・・、どこ行くんだよぉ!?」
「うるせぇっつってんだろ!!すぐに帰る!!」
「うわっ!」
「!!」
何をそんなに急いでいるのか、形兆は引き止めようとする億泰を無理矢理突っ切って出て行こうとした。
億泰も随分とガッシリしてきたが、体格はまだまだ形兆の方が大きく、当たり負けした億泰は大きくよろけ、すぐ側にいたを巻き込んで畳の上に倒れ込んだ。
「っ・・・・・!」
形兆はその時ようやく、の顔を見た。
ハッとしたようなその顔を、も見つめ返した。
しかし形兆は、声を掛けてくれる事も助け起こしてくれる事もなく、そのまま部屋を出て行ってしまった。
「な、何だよぉ〜・・・・・って、うわわわわっ!!」
我に返ったのは、億泰の焦った声が聞こえた時だった。
一緒にひっくり返った時に、億泰がの胸に顔を埋めるような体勢になっていたのだ。
「わっ、悪いっ・・・・!!」
あたふたとから離れていった億泰の顔は、真っ赤になっていた。
しかし、それを笑ってからかう気にはなれなかった。
何があったのだろうか?
どうしたのだろうか?
すぐに帰るとは言っていたが、何処に行ったのだろうか?
あんな大金を、どうする気だろうか?
「・・・考えたって仕方ねーよ。」
の心を読んだかのように、億泰がそう呟いた。
「すぐ帰るっつってたんだから、とりあえず帰って来るの待とうぜ。な?」
確かに、億泰の言う通りだった。
は少しだけ微笑んで頷き、形兆の部屋を出た。
居間に戻り、形兆が放り出して行った荷物を片付けてあげようかどうか考えたが、勝手に鞄を開けては怒られるかも知れないので、荷物には手を付けず、すぐに帰ると言った形兆の言葉をひとまず信じて、長旅帰りの彼の為に風呂を沸かし、軽食を作り始めた。
形兆が帰って来たのは、それから30〜40分程しての事だった。
再び居間に入って来た形兆は、さっきよりは随分と落ち着いていたが、その顔に満ちていた緊張感はそのままだった。
それに、気になる事はもう一つあった。
形兆は今、さっき持ち出して行った銀のアタッシュケースとは別のトランクケースを持っていた。
訊きたい事は色々あったが、ひとまず筆談帳に『おかえりなさい』と書いて見せると、形兆は決まりが悪そうに少しだけ視線を逸らして、ただいまと答えた。
「で?帰って来るなりどこ行ってたんだよぉ?さっきの金は?んでその荷物は?今度こそちゃんと説明してもらうぜぇ、兄貴ぃ。」
億泰は多少なりとも本気で怒っているらしく、珍しく強気な態度に出ていた。
だがそれも、調子に乗るなとばかりに形兆に睨まれるまでの、ほんの短い間の事だった。
「説明はちゃんとしてやるが、今は勘弁しろ。流石に疲れてんだ。ちょっと休ませてくれ。」
「う゛・・・、わ、分かったよぉ・・・・」
虹村兄弟の力関係は、やはり兄が圧倒的に優位だった。
尤も、そうじゃなくても、長旅から帰って来たばかりの人に休憩するなと言うのは酷である。訊きたい事は色々とあるのだが、まずは一休みさせてあげるのが先だった。
「お風呂沸かしたから、入ってくれば?サッパリするよ。
お昼ご飯はもう食べた?おにぎりと卵焼き作ったから、お腹空いてるんだったら食べて。」
は筆談帳にそう書き込み、形兆に見せた。
それを読み終わった形兆は、その視線をようやくまともにへ向けた。
「・・・ああ。風呂入ってから食う。腹減ってんだ。」
間近で見る形兆の顔は、少し痩せて疲れた感じがした。
だが多分、病気や怪我はしていなさそうだった。
取り敢えずは無事に帰って来てくれた事に安堵しながら、はまた筆談帳にペンを走らせた。
「旅行の荷物、私が開けて良いんなら片付けとくよ。」
「・・・ああ、頼む。」
そう返事をした後で、形兆は不意に厳しい視線をと億泰に向けた。
「けど、このトランクには触るな。訳はまたちゃんと説明するから、今は絶対に触るな。二人共、絶対だ。良いな?」
形兆の様子には、鬼気迫るものがあった。
何が入っているのと軽く訊く事すら憚られるような、そんな雰囲気だった。
ましてや、見られて恥ずかしいものでも入っているんじゃないかとからかう事なんて、とんでもなかった。
は頷き、億泰も『わ、分かったよぉ・・・・・』と返事をした。
それで得心したかのように、形兆はトランクを持って居間を出て行った。
「な・・・、何だよぉ・・・・。何入ってんだろうな、アレ・・・?」
独り言のような億泰の呟きに、は軽く首を傾げる事しか出来なかった。
けれども、嫌な予感がしていた。
きっと、見られて恥ずかしいという類の物ではない。
そんな笑い話になるような物ではない。
この一月、形兆はエジプトで何をしていたのだろうか?
その嫌な予感は、見て見ぬふりが出来るどころか、じわじわと高まっていく一方だった。