時間だけが淡々と、ただ淡々と、過ぎていった。
季節が移ろい、それにつれて虹村兄弟がそれぞれ進級しただけで、他には何の変化も無かった。
は17歳になったが、声はまだ出ず、相変わらずの日々を送っていた。
変わった事と言えば、声が出なくなってから美容院へ行けなくなっていたので、髪が背中の真ん中辺りにまで長く伸びた事と、そしてもうひとつ。
『人形』として尽くす相手が、もう一人増えた事だった。
それはいつでも彼の都合で始められる。
彼の父親が落ち着いていて、かつ、億泰が留守にしている、或いは熟睡している時に限られての事ではあったが、他には何の制限も無かった。時間帯は関係なく、深夜に起こされる事もあれば、真昼間の時もある。
今日は夕方、そろそろ夕食の支度を始めようかと台所に立った時だった。
求められるかどうかは、目を見ればもう何となく分かるようになっていた。優しい微笑みも、甘い言葉もない。来いよと一言素っ気無く呟くだけの、殆ど命令のような誘いだ。
場所はいつもの部屋だった。
部屋に入ってドアを閉めると、すぐに噛みつくようなキスをされて、それは始まる。月のものに当たっている時でさえ容赦はなく、口での奉仕を求められる。
だが、に拒む事は出来なかった。
自分に出来る事は何でもするという約束を破る事は出来ないし、何よりも、の心と身体が彼を、虹村形兆を求めていたからだ。
「っ・・・・・」
形兆を愛撫する事にも、もう随分と慣れていた。
恥じらいや戸惑いは既に無く、自分から彼の足元に跪き、ズボンと下着を下ろして口付ける事さえ平然と出来るようになっていた。
口の中に含むと、形兆は瞬く間に硬く大きく張り詰めていく。
それに一生懸命舌を絡ませ、唇で扱いていると、その内に形兆が熱い吐息を零し始め、の頭や身体を撫で始める。
それはきっと、ただ単に身体の快楽に追い立てられて、無意識的に手のやり場を求めているだけの事なのだろう。
だがそれでも、形兆の手はいつもの心と身体を震わせた。
声が出なくなってから、形兆はもうに笑いかけてさえくれなくなったが、彼のその手の温もりと感触は、出逢った頃と変わらず優しいままだった。
だからはいつも、密かにそれを求めて一心不乱に形兆に尽くしていた。
「っ・・・・・!」
やがて形兆は、痺れを切らしたようにを組み敷いた。
の履いている長いフレアスカートを乱暴にたくし上げて、ショーツだけを引きずり下ろし、性急な前戯でを追い立てていく。それにあっという間に翻弄されていくのも、またいつもの事だった。
身体が火照って、弄られている部分がジンジンと痺れるようになってくる頃、形兆はベッドのマットレスの下に手を差し込む。そこにコンドームを隠してあるのだ。
形兆は取り出したそれを手早く装着し、まだ半分ぐったりとしているを躊躇いなく貫いた。
「ハァァッ・・・・・・!」
の唇から迸るのは、呼吸の音だけだった。
甘く疼く下腹部を突き上げられながら、服を乱され露出させられた乳房に吸い付かれて、喉の奥から堪え切れない声がせり上がってくるのに、それは決して『声』にはならない。
こんなにも感じているのに、どうしても『声』が出ない。
只でさえ自責の念に駆られている形兆を一層責め苛むかのように、虚しい『音』しか出ない。
「っ・・・・・!!」
そんなつもりじゃない。自分を責めないで欲しい。
その一心で必死に唇を噛み締めても、形兆は容赦をしてくれない。
敏感な部分を指や舌で刺激されて、一際奥を突かれて、また当てつけのように『音』が洩れる。
形兆を責めているのは、身体の快感か、それとも心を苛む苦痛だろうか?
昂っていく一方の快感に翻弄されて朦朧としながらも、は辛そうに顰められている形兆の顔を盗み見て、それが前者である事を願わずにはいられなかった。
「ハッ・・・!ハァァァッ・・・!!」
「ぅっ・・・くっ・・・・!」
やがて、の中で形兆が大きく爆ぜた。
胎内でドクドクと力強く脈打つ形兆を感じながら放心していると、先に落ち着いた形兆がから離れていった。
一番奥の深い所まで突き刺さっていた大きな楔がズルリと引き抜かれる刺激に、ついまた『音』が洩れてしまったが、形兆はもうには目もくれず、自分の後始末をして身なりを整え、部屋を出て行ってしまった。
― 形兆君・・・・
は、形兆が手元に投げていったティッシュの箱を取り上げた。
これに優しさを感じている自分はおかしいのだろうか?そうであって欲しいという只の願望なのだろうか?
虚しさを噛み締めながら、は後始末をして、元通りに服を整えた。
ふと、母の和代の事が思い出された。
お母さんも、好きな人にこんな扱いを受けた経験があるだろうか?
多分ありそうだ、そう思うと、乾いた笑いが小さく洩れた。
もしも今のこの状態を知られるような事があれば、それ見た事か、生意気を言えた義理かと、こっぴどく詰られるに違いない。
しかしそれでも形兆は、和代が付き合ってきた男達と同類ではなかった。
もう笑いかけても貰えない、他愛のない会話も交わして貰えない、生理的な欲求を発散させる為に時々抱かれるだけの、都合の良い女どころか人形のような扱いをされてはいるが、それでも形兆を憎んだり、この家を出て母の元に帰りたいとは思えなかった。
― 必ず、いつか必ず・・・・。そうだよね?形兆君・・・・・
形兆が自分の人生を始める事が出来たなら、必ず幸せな日々がやって来る。
ずっと心の支えにして信じてきたそれを、以前程には強く信じられなくなってきていても。
虹村形兆は苛立っていた。
こんな人生を余儀なくされている身としては、苛ついていない日など無いに等しいのだが、それでもこのところは特に苛立っていた。
理由は、八方塞がりとなってしまった『調査』にあった。
形兆は既に、あらゆる事を調べ尽くしていた。
ずっと通っていた東京の大学の図書館にある本や新聞は全て読んだし、参考になりそうな書籍や雑誌も片っ端から買い漁った。数ヶ月前には遂にパソコンを購入して回線を引き、インターネットも使うようになった。
7歳だったあの日から10年もの歳月をかけて徹底的に調べ尽くしてきた、そのつもりだった。だが、形兆の欲しい情報は、その何処にも無かった。
世界有数の大財閥・スピードワゴン財団や、N.Y.の不動産王と呼ばれるアメリカの大富豪・ジョセフ・ジョースターについて、その歴史や業績に関する知識ばかりが無駄に増え、肝心な情報は何も掴めないままだった。
日本人と結婚して日本に住んでいるというジョースターの娘の事も、何一つ情報が無かった。
本当に知りたい事は、不死の化け物となってしまった父親を殺す方法。
その方法を知る為の手掛かりが、父親の肉体が突如崩壊を始めたのと同じ日・同じ時刻に起きていた、エジプトでの不可解な事件。
それを紐解く為の糸口が、事件の収束に多大な貢献を果たしたスピードワゴン財団とジョセフ・ジョースター。
しかし、そこから先へ進む事が出来ない。
どこから攻めても、いつの間にか道が途絶えて行き詰ってしまう。
そもそも、エジプトの事件と関係していると考えたのが間違いだったのだろうか?
いや、そんな筈はない。あんな奇妙で凄惨な事件は、他には無かった。
しかし、こうも何も掴めないという事は、やはり見当違いだったという事なのだろうか?
「・・・・くそっ・・・・・!」
ペンを叩き置いて、形兆は立ち上がった。
苛立ちが頭の中いっぱいに詰まっていて、作業が全く捗らない。
気分がスッキリするように何か冷たい物でも飲もうと、形兆は台所へ行った。
冷蔵庫にカルピスウォーターのペットボトルがあった筈なのだが、無い。
形兆はすぐさま居間の方に目を向けた。すると、犯人はやはりそこにいた。
「チッ・・・・・」
こたつに入ってポテチを摘まみながらボケーッとTVを見ている億泰の手元に、カルピスウォーターのボトルがそびえ立っていた。
「テメェ億泰ぅ、ジュース独り占めしてんじゃねぇぞこのダボが。」
「あっ、兄貴ィ・・・・!」
形兆が居間に踏み込んでいくと、億泰はビクついた顔になった。
その側には、もいた。
一瞬合った視線を先に逸らしたのは、形兆の方だった。
「寄越せバカ。」
「ハ、ハイっす!ポテチもどぉスか兄貴!?」
「さっき昼飯食ったばっかだろ。こんなデカい袋全部開けてんじゃねーよこのバカが。」
炬燵の上に盛大に開けっ広げられているポテチを2〜3枚掴んで口に放り込むと、が微笑みながら筆談帳に何か書いて形兆に見せた。食後のデザート、と書いてある。それを読んで、形兆はごくごく小さく鼻を鳴らした。
近頃は、こういう団欒の場に加わるように誘うのは億泰ばかりで、はもうそういった事を殆ど言わなくなっていた。
誘われてもほぼ100%断っているから、誘っても無駄だと諦めたのだろう。億泰は馬鹿だからそこに思い至らないだけで。
だが当然、それだけという訳ではない筈だった。
の気持ちが変わっていくのは当然だし、形兆の方も別にそれで構わないと思っていた。形兆はカルピスウォーターのボトルを掴んで、台所に引き返そうとした。
「・・・・で、そんな紆余曲折を経てご結婚されて、今度は奥様が単身日本へ渡って来られた、と。まぁ〜、ドラマチックなお話だこと!
しかもあなたの奥様、ニューヨークで不動産王と呼ばれている大富豪のご令嬢なんですってね?」
形兆は思わず振り返った。
TVの中でとうとうと喋っている個性的な風貌の老婦人に、形兆の目は釘付けになった。
「それも一人娘でいらっしゃると。そんな凄い方が右も左も分からない極東の国に一人で嫁いでこられるなんて、まぁ余程の決心がないと出来ない事よねぇ!
それまでの何不自由ない生活から、あらごめんなさい、あなたに甲斐性が無いと言ってるんじゃなくてね、言葉とか生活習慣とかね、そういうのが全部変わっちゃう環境の中に一人で飛び込んでいくっていうのが、並大抵の覚悟じゃ出来ない事だと思うのよ。きっとそれだけあなたとあなたの音楽に惚れ込んでいらっしゃったのね、うふふふ。」
老婦人の会話の相手は、涼やかな品のある壮年の男性だった。
彼女に褒めちぎられて気恥ずかしそうにはにかみながら、言葉少なに、かつ真摯に受け答えをしているその男性を、形兆は食い入るように凝視した。
「あれ?兄貴どしたんだよぉ?」
億泰の呼びかけは無視して、形兆はTVに近付き、音量を上げてその会話に耳を傾けた。
だが、会話の内容は次第にその男性の音楽に対する熱意らしきものへと変わっていき、形兆の聞きたい話には戻ってくれなかった。
「・・・・おい、このTVに出てるオッサン誰だ?今まで何喋ってた?」
「へ?な、何だよ急に?珍しいっスね、兄貴がこんな番組に興味示すなんてよぉ・・・・」
「いいからさっさと教えろ。」
「や、教えろって言われてもぉ。ただボーッと見てただけだからよぉ。」
「今の今まで見てたんだろ!幾ら何でも多少の内容は頭に入ってる筈だろうがこの大馬鹿が!」
苛立ちに任せて怒鳴りつけると、億泰は顔中をクシャクシャにして竦み上がった。
「す、すまねっス!た、確か・・・・、な、何とかっていうミュージシャンで、何か結構有名なオッサンらしいっス!」
「そんなんじゃさっぱり分かんねぇんだよこのダボが!!っとにお前は使えねぇバカだぜ!!テメェ脳ミソ入ってんのか!あぁ!?犬猫の方がまだ賢いんじゃねぇのか!?あぁ!?コラ!」
「そ、そんなケチョンケチョンに言わなくたって良いじゃねーかよぉ〜!こんな下らねぇ事でよぉ〜!」
「下らねぇだとテメェ・・・!」
ぶん殴ってやろうと億泰の胸倉を掴みかけた瞬間、が形兆の腕を慌ただしく叩いた。反射的に睨みつけるようにして目を向けると、はまた筆談帳を差し出してきた。
「ジャズミュージシャンの空条貞夫って人。日本人では珍しい、世界的に有名なジャズミュージシャンなんだって。」
どうやらは、ちゃんと内容を把握しているようだった。
形兆は億泰を殴るのをやめて、さっきよりもちゃんとの方に向き直った。
すると、はその続きを書き始めた。
「若い頃にジャズの勉強をする為に単身ニューヨークに渡って、ライブハウスとかでバイトしながら音楽の勉強をしつつ、バンドを組んで活動してたんだって。
で、その時に今の奥さんと出会って、奥さんの両親、特にお父さんに猛反対されたらしいんだけれども、何とか説得して許してもらって、それで結婚して、今度は奥さんの方が日本に来たんだって。」
「その女房ってのが、N.Y.の不動産王の一人娘、そう言ったな?」
形兆の質問に、ははっきりと頷いた。
「そこから先の話は形兆君と億泰君の声でほとんど聞こえなかったけど、でも確かにそう言ってた。」
「・・・・・そうか・・・・・」
形兆は改めてTVを見た。
こんな事をしている間に番組はもうすぐ終わろうとしていて、空条貞夫の率いるジャズバンドのコンサートツアーが近く始まるという宣伝が流れていた。
「・・・・・フッ・・・・、フッフフフ・・・・・」
「あ、兄貴・・・・?何だよぉ、急に笑ったりして・・・・」
「フッ・・・、クックックックッ・・・・」
「な、何が面白ぇんだよぉ?何か笑いどころあったっけ?」
これが笑わずにいられようか。
気が遠くなるような量の本や新聞を何年もかけて読み解いてきたのに、こんな真昼間の他愛ないトーク番組であっさり見つかるなんて。
翻訳の手間さえかける事なく、呑気に菓子を摘まみながら手に入れられたなんて。
「でかしたぜ、。ありがとよ。」
礼を言うと、は一瞬驚いたように目を丸くしてから、恥ずかしそうにはにかんで微かに頭を振った。
しかし今の形兆の目に、そんなの顔は映っていなかった。
「・・・空条、貞夫・・・・」
これでまた進み出す。
必ず、今度こそ必ず、最後まで辿り着いてやる。
その執念を胸に、形兆は足早に自室へと引き返して行った。
今年もまた、梅雨の季節がやって来た。
何日か続いた雨がひとまず止むと同時に、形兆は単身、K県へと戻っていた。
と言っても、と出会ったあの海辺の街ではない。
そこから近いところにある、とある閑静な街だった。
古き良き日本の趣がある静かな街を驚かせないように、形兆はバイクをゆっくりと走らせた。
まばらに連なっている大きな邸宅の表札を1軒1軒確認しながら進んでいくと、暫くして、無事に目的の家を見つけた。
「空條・・・、ここだ・・・・」
近隣のどの家よりも一際大きい、まるで武家屋敷のような厳めしい佇まいの広い屋敷だった。
バイクを降りた形兆は、暫しその家、空条家の表玄関を仰ぎ見た。
形兆の一家が昔住んでいた東京の家も、それなりの敷地を持つ邸宅だったが、ここは更にその上をいく広さだ。
それも当然、空条家はこの地に数百年続く由緒ある旧家なのだと誇らしげに教えてくれたのは、先日東京のとあるホールで開催された空条貞夫のコンサートで知り合った年増の女だった。
一番高い席のエリアにいるのは熱心なファンばかりの筈、そんな読みが見事当たり、隣り合わせたその女は、少し愛想良く会話に付き合うと、まるで自分の自慢をするかのように空条貞夫に関する情報をペラペラと喋ってくれた。
今まで出したレコードやCDの事といった、すぐに手に入る簡単な情報ばかりではなく、熱烈な追っかけのファンしか知らないような、空条貞夫のごくプライベートな情報までも。
勿論、100%信用出来る情報ではなかった。だがそれでも、取り敢えずはそれに賭けてみるしかなかった。それを聞き出す為に、年甲斐もなく色目を使ってくるその女に満更でもなさそうな演技までやってのけたのだから。
全く、思い出すだにおぞましい体験だった。
コンサートの後でバーに付き合い、飲んだ事もなければ飲みたくもない酒をさも飲み慣れているかのように美味そうに飲んでみせ、ここぞとばかりにしなだれ掛かってくるその女の肩を抱いて心にもない誉め言葉を囁きかけてやり、最後は危うくホテルにまで付き合わされそうになったのだ。うまくはぐらかして何とか事なきを得たが、今思い出しても胸のむかつく体験だった。
しかし、こうして無事に空条貞夫の自宅に辿り着く事が出来たのだから、その甲斐はあったという事だ。
「・・・・よし・・・・!」
ここから先は、自分次第だ。
形兆は意を決して拳を握り締め、古めかしくも重厚な門にそれを打ち付けようとした。
正にその瞬間、門が向こう側からひとりでに開いた。
「あらまっ!」
門の向こうから出てきたのは、50代位で上品な雰囲気の、綺麗な女性だった。
これだけ頑丈そうな門が勝手に開く筈がない、この女性が開けたのだ。
女性はすぐ目の前にいた形兆に驚いて、その大きな青い瞳をまん丸く見開いた。
そう、その女性の瞳は澄んだ海のように青く、髪は太陽の光のような眩い金髪だった。
「ごめんなさい!急に開けてビックリさせちゃって。」
「い・・・いえ・・・・・」
咄嗟に言葉が出なくて、形兆はしどろもどろにそう呟いた。
幾ら何でもこうもあっさり、しかも突然に、目的の人に会えるとは想定していなかったのだ。
「もしかして、うちに何かご用かしら?」
「あ・・・、は、はい、あの・・・・」
しっかりしろと内心で自分を叱責して、形兆は何とか気を取り直した。
「俺、虹村形兆といいます。空条貞夫さんのファンで、この間の東京でのコンサートも観に行きました。
この辺りにご自宅があると他のファンの人達に聞いたので、是非お話を聞かせて欲しくて伺いました。突然不躾でご迷惑なのは重々承知していますが、どうか・・・・、どうかお願いします。」
形兆は深々と下げた頭の下で、目の前の女性、空条ホリィに願った。
どうか追い払わないで欲しい、俺はどうしてもあんたに話を聞かなきゃならねぇんだ、と。
「ごめんなさい。主人は今、レコーディングの為にアメリカへ行っているの。
この間の東京公演でツアーが終わって、その後2週間位は家でのんびりしていたんだけれども。」
それも音楽雑誌から既に仕入れている情報だった。
空条貞夫の妻、いや、N.Y.の不動産王・ジョセフ・ジョースターの娘と話をしたくて、このタイミングを狙って来たのだった。
「ほんの少しで構いません。話を・・・・、話を聞かせて頂きたいんです。どうかお願いします。」
形兆は頭を上げて、空条ホリィをまっすぐに見つめた。
すると彼女はきょとんとした後、目尻に沢山の皺を寄せて笑った。
「あなた、チェリーパイはお好き?」
「・・・は・・・・?」
「久しぶりにどうしても食べたくなって焼いたは良いんだけど、一人じゃ食べきれなくて、ちょっと困ってたの。良かったら私とお茶しない?」
そう言って笑う空条ホリィの顔は、美しいというよりはまるで少女のように無邪気に、可愛らしく見えた。
空条家の広い庭の片隅にバイクを停めさせて貰い、形兆は屋敷の中に通された。
古くてほぼ和室ばかりなのは形兆の現在の住まいも同じだが、歴史のある建造物と只のボロ家は、決して同列ではない。
凛とした趣のある和室の綺麗な畳に敷かれたふかふかの座布団の上で、形兆は背筋をピンと伸ばして正座をしていた。
不審がられて門前払いされる事こそあれども、こんな風にもてなしを受ける事は全く想定しておらず、形兆は今、大いに戸惑い、緊張していた。
呼吸さえも遠慮しながらその場にじっと座って待っていると、程なくして、空条ホリィがトレーに載せたティーセットを持って、足取りも軽やかにやって来た。
「お待たせしましたぁ〜♪」
「い、いえ・・・・」
「は〜いどうぞ〜♪足も崩して、楽にしてちょうだいね♪」
「は、ど、どうも・・・・」
ガチガチに緊張している形兆の前に、空条ホリィはいそいそと持ってきた物を並べていった。温かい湯気の上る紅茶のカップとフォークを添えたケーキの皿、それにクッキーやフルーツまである。
形兆が訪ねて来る事など彼女は決して知り得なかった筈なのに、まるで分かっていて事前にもてなしの準備をしていたかのような歓待ぶりに、形兆は益々戸惑った。
「さあさあ、どうぞ召し上がって!遠慮しないで、ね?」
「は、はぁ・・・・、では、有り難く、頂きます・・・・・」
形兆はぎこちない笑みを浮かべながら、紅茶のカップにおずおずと口をつけた。
香りの良い温かい紅茶を飲むと、緊張で固くなっていた胃袋が、ゆっくり、じんわりと、温まっていった。
「チェリーパイも食べてみて♪私の母から受け継いだ、うちの秘伝のレシピなの♪お口に合うと良いんだけども。」
「あ、有り難うございます、頂きます・・・・・」
それでもまだまだギクシャクしながら、形兆は次にフォークを取り上げ、丁寧に一口分に切り崩したチェリーパイを口に運んだ。
「どうかしら?」
「・・・・美味しいです、とても・・・・」
緊張した顔と態度でそう言っても、多分、お世辞を言っていると思われるだろう。
だが、それは決してお世辞ではなかった。
程良く優しい甘さのそのチェリーパイは、形兆にまた遠い昔の記憶を思い起こさせた。
― んん!今日も絶品だ!母さんの作るケーキは本当に美味いなぁ!
― イチゴぉ!もっとぉ!
― あーっ!おくやすぅっ!おかあさぁん、おくやすがぼくのイチゴとったぁ!
― あらら・・・・!ダメでしょおっくん、お兄ちゃんのイチゴとっちゃあ。
形ちゃんも許してあげて、ね?代わりにお母さんの分のイチゴあげるから。ほら。
「本当?良かったわ、うふふっ。」
目の前にいる空条ホリィの優しい笑顔が、記憶の中の母親の笑顔と被って見えた。
もしも母が今も生きていたら、こんな事にはなっていなかっただろうか?
遠い昔のあの頃のように今もまだ、家族でテーブルを囲んで、母の手作りのケーキでお茶の時間を楽しんでいただろうか?
「・・・・本当に・・・・美味いです・・・・・」
声が情けなく震えてしまわないように、形兆は柔らかいチェリーパイをしっかりと噛み締めた。
「そのお洋服カッコいいわねぇ!打ち合いのデザインが凄く個性的だわ!学生服でしょそれ?特注したの?」
気付かれたのかそうでないのか、空条ホリィはごく自然な感じに形兆の着ている制服に目を留め、話題を変えた。
学生服を着て来たのは、ひけらかしたかったからではない。
ファンだなんて嘘を吐いて見ず知らずの他人の家に入り込み、情報を盗んでいく身として、せめてそれ以上の失礼がないように正装をしてきたつもりだった。
「・・・・はい・・・・」
「ふふふふっ、分かるわぁ。うちの息子もねぇ、高校生の時、制服を特注していたわぁ。
こぉ〜んな、膝の下まであるような長さの学ラン、長ランって言ったかしら?あれを着ていたのよ。それでね、襟のところにこぉ〜んなおっきな鎖つけて!うふふふっ!
あなたのは丈が短いのねぇ。今は短いのが流行りなの?」
彼女の明るい笑顔に釣られて、形兆もぎこちなく笑った。
「はぁ、まぁ・・・・。今は短ランが主流ですね・・・・。」
「へぇ〜、そうなのねぇ!あなた高校生?」
「はい。」
「何年生?」
「3年です。」
「そう。良いわねぇ、今が青春の真っ只中ねぇ!学校へ行って勉強したり部活したり、セーラー服のガールフレンドとデートなんかもしちゃったりして!うふふっ!」
形兆は黙ったまま、膝の上で密かに拳を握り締めた。
青春を楽しむどころか、自分の人生すらまだ始められていない。
セーラー服のガールフレンドは、化け物の檻に閉じ込めて人形にしてしまった。
だから。
「あなたを見ていると、息子が高校生だった10年位前を思い出して懐かしいわぁ。
今はアメリカで結婚して暮らしているから、この家には滅多に帰って来なくて寂しくってね、ふふふっ。
あなたのような若い人が主人のファンになってくれたなんてとても嬉しいわ。主人もきっと喜ぶわ。」
だから、何としても必ず、この空条ホリィから情報を引き出さなくてはならなかった。
「・・・・すみません・・・・」
「どうしたの?何故謝るの?」
「すみません。俺・・・・、嘘を吐いていました。」
嘘を吐く位、朝飯前だった。
嘘を吐いて他人を利用する事なんて、日常茶飯事だった。
だが今、形兆は、在りし日の母のような優しい笑顔を向けてくれる彼女を欺く事に、罪悪感を抱いていた。
まるで自分の母親を騙しているような、そんな罪悪感を覚えて、それに耐えきれなくなっていた。
「嘘?」
「俺は、貴女のご主人のファンなんかじゃありません。
俺が会って話をしたかったのは空条貞夫さんじゃない、貴女です。
N.Y.の不動産王、ジョセフ・ジョースター氏の娘である貴女なんです、空条ホリィさん。」
驚いたように丸く見開かれた彼女の青い瞳を、形兆はまっすぐに見つめた。
「どうして私の名前を?それに、私の父の事まで・・・・」
「ご主人のファンのふりをしてコンサートに行き、熱心なファンから色々と話を聞きました。
4月に入ってすぐの頃、ご主人が出ていたTVのトーク番組を偶然見たんです。」
「ああ、あの番組・・・・・。でも、それでどうして私と話をしたいと思ったの?
私の父は確かにそんな風にも呼ばれている人だけれども、私にとっては只の普通の父親よ。
あなたのお父さんだってそうでしょう?どんなお仕事をしていようと、どんな立場の人だろうと、あなたにとっては只の普通のお父さん・・」
「俺の親父は只の普通の父親なんかじゃありません。」
形兆はその一言で、ホリィの話を遮った。
「え・・・・・?」
「今から10年前、1988年の1月、俺の親父は普通の父親では・・・、いや、普通の人間ではなくなりました。」
「どういう、事・・・・?」
「その同じ年、同じ月、同じ日、同じ時刻にエジプトで起きた奇妙な大事件。
その収束や街の復興に貴女の父親のジョースター氏が非常に大きな貢献を果たしたあの事件を、貴女は知っている筈です。知らないとは言わせません。」
生意気を軽く通り越す程の無礼を働いている事は、重々承知していた。
しかし、ここまで来ておいて、何の収穫もなく帰る訳にはいかない。何としても、たとえこの女性を力ずくで脅してでも、情報を手に入れるつもりだった。
「教えて欲しいんです、あの事件の事を。一体何があったのか、そこにいた二人の男は誰なのか。」
「二人の・・・男の人・・・・?」
「ちらほらと目撃情報のあった、背の高い若い男です。一人は黒服に黒い帽子の、恐らくはアジア系の男。もう一人は金髪の白人の男。
そのどちらかが、恐らくは金髪の男の方が、『DIO』という奴の筈。」
ここへ来るまでは、関係のない話から婉曲に聞き出そうと考えていたが、形兆は急遽その作戦を変更した。
下手な小細工は一切無しに、訊きたい事を直球で投げ掛けてみよう、と。
すると、空条ホリィはハッと息を呑んだ。それは明らかに何か心当たりがあると言っているようなものだった。
「・・・ご存知なんですね、その男達の事・・・・!」
青い瞳を悲しそうに伏せる彼女を見て、形兆は、これまで自分が組み立ててきた仮説は正しかったのだと確信した。
彼女は間違いなく何か知っている。出口の無い闇からの突破口となるものを、必ず。
そう思うと居ても立ってもいられず、身体が勝手に動いた。
形兆は彼女の側に転がり出て、その白くて柔らかい手に強く縋り付いた。
「俺が知りたいのは『DIO』という奴の事だ!その事件の時にそいつは死んだんだろう!?何者だったんだそいつは!?どんな力を持っていた!?
教えてくれ、あんたの知ってる事を全部教えてくれ!!」
空条ホリィは驚き、怯えた表情をしていたが、形兆の手を振り払おうとも、助けを求めて大声を出そうともしなかった。
「・・・・私も・・・詳しい事は知らないわ・・・。父も、息子も、何も教えてくれないから・・・」
形兆に強く手を握り締められているその状態のまま、彼女はポツポツと答え始めた。
「でもその人には、不思議な能力があったの・・・。普通の人には分からない、とても奇妙で、恐ろしい程強い力が・・・・」
「それは何なんだ!?どんな力だ!?」
「分からないわ、私には、何も・・・・」
「なら、あんたの父親に会わせてくれ!会うのが無理なら、電話でも、手紙でも良い!あの事件の話を聞かせて欲しい、『DIO』に関する事を教えて欲しいと頼んでくれ!」
「父は高齢になって、もうすっかり衰えているわ。近頃は少し記憶が曖昧になってきたりもしているの。だから、とてもお役には立てないと思うわ。」
「なら息子は!?あんたさっき、『父も息子も何も教えてくれない』って言ったよな!?あんたの息子も何か知っているんじゃないのか!?」
「息子は、私がその話に触れるのを本当に嫌がるの。私がこれまで何を訊いても、そんな話どうでもいいだろ、関係ねぇって、いつもそう言うばかりだった。私を苦しませまいとしているのよ。
それに多分息子自身も、誰にも言いたくないのだと思う。とてもとても、悲しい事を経験してしまったみたいだから。」
そんな事知った事かと、形兆は心の中で叫んだ。
見ず知らずの男の悲しみなど知った事ではない、こっちは自分の人生と弟の人生が懸かっているのだ。その為に好きな女まで巻き込んで、踏みつけにして、壊してしまったのだ。そう叫んでいた。
だがそれは、声にはならなかった。
悲しそうに瞳を伏せている空条ホリィのその顔が、時折盗み見た母の悲しそうな顔と重なって、これ以上彼女に詰め寄る事がどうしても出来なかった。
「・・・・なら・・・、何か無いのか・・・、他に何か・・・手掛かりになりそうな事は・・・・」
絶望に打ちひしがれ、形兆は項垂れた。
自分の両肩が、重くて重くて仕方がなかった。
このままこの重みに押し潰されて俺の人生は終わるのか、始まる事なく終わるのかと悲観しかけたその時、空条ホリィは躊躇いがちにまた口を開いた。
「・・・・その能力は・・・・、『DIO』という人だけのものではなかったわ・・・・・」
その言葉に、形兆は顔を跳ね上げた。
「他にも・・・いるのか・・・?その奇妙で恐ろしい力を持つ者が、他にも・・・・」
「その力が恐ろしいものになるのかどうかは持ち主によると私は思うわ、だって・・・!」
空条ホリィは、まるで誰かを必死に庇うかのようにそう言いかけて、言葉を切った。
誰を庇っているのだろうか?彼女は今、誰の事を思っているのだろうか?
それは分からないが、ひとつ確実なのは、彼女はその能力を持つ者を複数人知っているという事だった。
「・・・・あんた、知っているんだな?その力を持つ者を、他にも・・・・」
「・・・・・・」
「何者だそいつは!?どこにいる!?やっぱりエジプトに関係のある奴なのか!?
何でも良い、どんな些細な事でも良いんだ、あんたの知ってる事を答えてくれ、頼むから、頼むから・・・!」
藁にも縋る思いとは、正にこの事だった。
空条ホリィの柳のようなほっそりした手を強く握り締めて、形兆は彼女が何か答えてくれるのを待った。
「・・・・私の父が一度・・・、エジプトの方をうちに連れて来た事があったわ・・・・」
「エジプト・・・・・!?」
「ええ、エジプト人の若い男の人。父の友人で、占い師だと紹介されたわ。
エジプトの首都・カイロのハンハリーリという所で、占いのお店を出していると言っていたわ。とても強くて、正しい心の持ち主だった。」
「それはいつの事だ!?」
「あの事件が起きる50日程前よ。父とその人は、その時うちに数日間滞在していったの。それっきり、私は彼に会う事も、彼の話を聞く事もないわ。」
そのエジプト人の占い師が今どうしているのか、生きているのか、死んでいるのか、この話だけで判断する事は出来なかった。
「・・・・彼や、父や、息子は、その力を『スタンド』と呼んでいたわ。」
「・・・・スタンド・・・・・」
だが形兆には、突破口が見えた気がしていた。
あのエジプトの事件は、やはり父親の事と深い関係があった。
そして、『DIO』の持っていた能力と同じ力を持つ者が、かつていた場所も分かった。
エジプトの首都・カイロのハンハリーリ。
その能力の名は、『スタンド』。
「・・・有り難うございました。突然押しかけて来て不躾な真似をして、すみませんでした。」
形兆は空条ホリィの手を放し、立ち上がった。
一礼をし、出て行こうとすると、形兆の背中に彼女の『待って!』という声が飛んで来た。
「あなたのお父様、普通の人間ではなくなったって言ったけど、それはどういう意味なの!?」
空条ホリィは、赤の他人だった。
虹村形兆にとって、赤の他人というものは、利用するだけの存在だった。
身の上話を聞かせる義理もなければ、同情される筋合いも、ましてや責任を感じて苦しまれる謂われもなかった。
「・・・・貴女には関係のない事です。忘れて下さい。」
「そんな事出来ないわ!だってあなたのお父様がそうなってしまったのはきっと私の・・」
「貴女には関係のない事です。」
形兆は毅然とそう言い放って空条ホリィの震えている声を遮り、もう一度彼女の方を振り返った。
「俺の親父は、金の亡者でした。
外見は普通の人間でも、中身は最低最悪の鬼畜だった。
俺の親父は自業自得です。貴女は何も関係ない。何も気にする事はない。全部忘れて下さい。」
空条ホリィの綺麗な瞳から、一筋の涙が静かに零れ落ちた。
かつて母もこんな風に、幼い自分達の知らないところで悲しい涙を流していたのだろうか、そう思うと堪らなかった。
もうどうしたって叶わない事だが、泣かないで、悲しまないでと、抱きしめてあげたかった。
「・・・ご馳走様でした。チェリーパイ、本当に美味かったです。死んだお袋が昔よく作ってくれたケーキと同じ位に。」
抱きしめる代わりにそう言い置いて、形兆は空条家を後にした。
「兄貴まだかなぁ・・・・・」
揚げたてのトンカツをじぃっと見つめながら、億泰はそうぼやいた。
「行き先も言わねぇ、何時に帰るかも言わねぇで、プイッと出掛けて行っちまってよぉ。俺が同じ事したら鬼みてーに怒るくせによぉ。
ったくぅ、もう晩飯の時間だってのに、どーこほっつき歩いてんだよぉ。」
随分と低くなった声でブツブツ文句を言っている億泰に、は苦笑いした。
初めて出会った頃の億泰はまだ小学5年生で、よりずっと小さく、声もキンキンと甲高かったのに、いつの間にか兄の形兆よりも少し低くハスキーな声になり、身長も170cmを超えて、それでも止まらず日々ぐんぐんと成長している。流石、成長期だ。
そんな億泰に、揚げたてのトンカツを前にしながら、いつ帰って来るのか分からない兄を待てと言うのは可哀想だった。
「先食べちゃおっか?」
は筆談帳にそう書き込み、億泰に見せた。
すると、億泰はニカッと笑った。
「いっか?いいよな?何も言わずに出掛けてった兄貴が悪ぃんだもんな?な?」
笑って頷いて見せると、億泰は益々嬉しそうな顔になって、箸を取り上げた。
「んじゃ、いっただっきまー・・・」
形兆のバイクの音が聞こえてきたのは、億泰が最後の『す』を発音するかしないかの瞬間だった。
「あ、あれ・・・・?兄貴帰って来た?」
は頷いて立ち上がり、形兆の分のご飯と味噌汁をよそいに台所に立った。
帰って来た形兆は、ものも言わずにの側を素通りし、洗面所へ手を洗いに行った。
この後は黙って食事を済ませ、億泰とさえろくに会話もしないままさっさと部屋へ引き揚げて行くのが、大抵のパターンである。
しかし今夜の形兆は、食卓に着くと、珍しく自ら口を開いた。
「食事の前に、先にお前らに報告しておく事がある。」
「な、何だよぉ。急に改まって、どしたんだよぉ兄貴ぃ?」
億泰が戸惑いながら、が心の内に思っている事と全く同じ事を口にした。
「近い内、俺はエジプトに行く。まずはパスポートを取らなきゃならねぇし、チケットの手配だの何だの色々と準備もあるが、遅くても一月後かそこら位には出発するつもりだ。」
「一月後って兄貴ぃ、その頃ってテストがあるんじゃねぇのか!?」
もコクコクと頷いた。
形兆が出発を予定している時期は7月頃、1学期の期末テストを間近に控えている大事な時期だった。
これまでテストの類は抜かりなくきっちり押さえてきていた形兆が、突然それを投げ出すような事をするなんて信じられなかった。
「エジプトって、あの外国のエジプトの事だろぉ!?」
「他のどこにエジプトがあるんだ。」
「そんな時期に海外旅行って、テストどーすんだよぉ!?まさか期末ブッチする気かよ兄貴ぃ!?」
「お前の口からそんな真面目な発言が飛び出すとはな。俺の心配よりテメェの心配しろ、受験生。」
それは高3の形兆とて同じだった。
形兆ならば、きっと大学への進学だって十分望める。
これ以上は進学しないというのなら、就職を考えないといけない、いや、多分もう就職活動を始めていなければならない時期の筈だった。
余計な口出しをするなと怒られるかも知れないが、それでも引き止めずにはいられなくて、は筆談帳にペンを走らせた。
「それならせめてテストが終わるまで、出発は待った方が良いと思う。延期って言ったって、どうせ1週間か2週間位じゃない。
テストはサボらない方が良いよ。今まで一生懸命勉強してきたのにそんな事しちゃったら」
「俺には学校よりも大事な事がある。学校なんぞとは比べもんにならねぇ位の、大事な仕事がな。」
形兆はの訴えを遮って、そう言い切った。
はその続きを書くのをやめ、その下に、急にどうしたの?と書きつけた。
形兆がずっとエジプトの事件を調べている事は知っていたから、エジプトと聞いた瞬間に彼の目的は読めてはいたが、それでも、こんなに唐突にそこへ行くと言い出した理由が知りたかった。
「・・・手掛かりを掴んだんだ。これでようやく親父を殺す方法を見つける事が出来る・・・」
形兆は押し殺したような低い声で、そう答えた。
「マジかよ兄貴ぃ!?手掛かりって、どこでどうやって掴んだんだよぉ!?」
「色々調べ回った。いちいち説明するのも面倒くせぇよ。
とにかく、大きな手掛かりがようやく見つかったんだ。本当なら今すぐにだって飛んで行きてぇ位なんだ。呑気に期末テストなんて受けてる場合じゃねぇよ。」
「じゃ、じゃあどん位ぇ行ってんだよぉ!?つーか俺も一緒に行きてぇよぉ!」
「お前は留守番だ。旅費がかさんで勿体無ぇし、何より、お前まで家を空けちまったら、口の利けねぇ一人で親父の面倒みながらどうやって暮らせって言うんだ。」
「そ、それは・・・・・!」
「半月か、1ヶ月か、或いはもっとかかるかも知らねぇ。とにかく親父を殺す方法を見つけるまで、俺は帰らねぇ。たとえ不法滞在してでも、必ず見つけて来る。」
「見つけるまでってそんなぁ・・・・!」
不安を露にする億泰を、形兆は厳しい顔付きでまっすぐに見据えた。
「俺は今年で18、億泰、お前は15になる。もういい加減にケリをつけなきゃならねぇんだよ。このままいつまでもあのクソッタレ親父の犠牲になんかなってられねぇんだよ、そうだろ?」
「そ、そりゃあ・・・・・、そうだけどよ・・・・・」
「話は以上だ。」
億泰が渋々ながらも納得した様子を見せると、形兆は話を終わらせ、食事を始めた。
その心がここにないのは、様子を見ていれば分かった。
きっと、すぐにでもエジプト行きの準備に取り掛かりたいのだろう。
思いつめたような目をしている形兆に、は不安を抱かずにはいられなかった。
エジプトへ行ってしまったら、形兆はそれっきりもう二度と戻って来ないような、そんな気がして。