今度の住まいは、海の目の前だったK県Y市の家とは対照的なロケーションの中にあった。良く言えばのどかな田園風景、悪く言えば片田舎である。
そこにポツンと建っている古い平屋の一軒家が、虹村家の新居だった。
Y市の家も古くてあちこち傷んでいたが、今度の家は一層古くて傷みも激しい。それでいて、家賃はY市の家よりも高いとくる。
伯父の千造にしてみれば、足元を見て図々しく厚かましい頼み事をしてくる弟一家に嫌がらせをしてやったつもりなのだろうが、しかし形兆にとっては、これが想定していた以上に都合の良い物件だった。
まず、雑木林に囲まれていて人目につき難く、近隣の民家とも距離がある。
空港のすぐ近くだけあって飛行機の騒音が凄まじいが、狙い通り、それが父親の上げる奇声や物音のカモフラージュになる。
そして極めつけは、離れがある事だった。
母屋と短い渡り廊下で繋がっている、10畳前後の板の間が一室だけのほんの小さなものだが、そこが父親を閉じ込めておくのにもってこいだったのだ。
トイレもあるし、渡り廊下との境目に鍵のかかる引き戸もついている。これなら鍵をかけっぱなしにしておけば、ほぼ安心して放置しておく事が出来るだろう。
そのまま飢え死にするまで放っておく事が出来ればもう最高なのだが、残念ながら不死身の化け物を相手に兵糧攻めなど通用しない、それをしたところで、凄まじく耳障りな大音量の奇声を延々ずっと聞かされ続けて、こちらの神経が参ってしまうだけである。やはりそうそう都合良くはいかないものだが、しかし今のところはこれで十分御の字と言えた。
家賃や家の状態には、この際目を瞑れる。ただ一点、トイレの古さと汚さだけはどうしても気になるので、母屋のトイレだけリフォームを入れれば良い。駅前にそういうような会社か店があると良いのだが。身支度の仕上げにマフラーを巻き付けてから、形兆は億泰の部屋との境目の襖を開けた。
「おい億泰、支度出来たか?」
「おうっ!バッチリだぜーっ!」
「じゃ、出かけるぞ。」
「おうっ!」
億泰は馬鹿みたいに上機嫌ではしゃいでいた。
環境の変化に強いタチなのか、それとも目新しい事が只々楽しいだけの馬鹿だからか。この古臭いボロ家の事も、となりの何とかいうアニメ映画に出てくる家に似ていると嬉しがっていた。
馬鹿みたいな奇声を発しながら障子を大きく開け放ち、縁側を駆け抜けていく億泰に呆れながら、形兆はその後を追って歩いていった。
「ネーちゃーん!もう行くぜー!」
「はーい!」
追いついてみると、丁度が自分の部屋から出てくるところだった。
玄関の側の洋間、母屋の中では唯一どことも続いていないその部屋が、の部屋だった。
だが、そうは言っても、室内には布団以外何も無い。
家族の一員となり、こうして新天地で新しい生活を始めた今、そろそろにも必要な物をちゃんと買い揃えてやらねばならなかった。
「行くか。」
「うん!」
全員が靴を履き終わったところで、形兆は玄関の片隅に固めて置いていた複数個の紙袋を取り上げた。
中身は全部同じ、引っ越しの挨拶用の菓子折りである。昨日、役所へ諸々の手続きをしに出掛けたついでに買って来たものだ。
民家のない港のど真ん前に住んだ前回は、近所への挨拶などする必要も無かったが、この辺りはまばらとはいえ、人の住んでいる民家が何軒かある。しかも住人は、チラッと見た限りは中年か年寄りばかり。
こんな地域に小学生と中学生が人目を忍ぶようにして住み着いたら、却って要らぬ興味を惹いてしまいそうで、今回はちゃんと近所への挨拶をする事にしたのだった。
「出掛ける前に、まずは近所の家に挨拶に回る。」
静かな緊張感を湛えた形兆の声に、と億泰はハッと息を呑んだ。
「二人共、余計な事は一切言うな。俺の言う事に調子を合わせてりゃ良い。分かったな?」
「お、おう・・・・!」
「・・・・うん・・・・」
近所の住人に挨拶をするのは、この家の秘密を守る為に他ならない。
あの父親の存在は当然欠片程も気付かれてはならないし、同じくこの家に閉じ籠り、学校へ通う事も出来ないの事もまた、怪しまれないよう上手く誤魔化す必要があった。
「の事は、時々遊びに来る俺達の従姉妹だという事にする。」
「何で従姉妹なんだよぉ?3人兄弟にしちゃダメなのかよぉ?」
「そうしちまうと、その内だけが学校に行かねぇのがバレるだろ。
その点、他所から遊びに来てるだけの親戚なら、たとえ平日の昼間に見つかったとしても、とやかく言われる事は無ぇ。
何か訊かれたって、創立記念日で休みとでも何とでも言って誤魔化せる。
登校拒否だと思われたって、ここの学校の生徒じゃねぇんだから、誰にも何とも出来ねぇ。」
「ふおぉぉぉ・・・!ホントだ、流石アニキだぜぇ・・・!」
億泰は顔を輝かせてしきりと感心するばかりだったが、の顔にはまた、寂しげな翳りが薄らと差していた。
「さっさと回って、早く出掛けようぜ。今日は色々買い物しねぇといけねぇからな。」
形兆はの肩を軽く叩いて笑いかけた。
「うん・・・・・。」
こんな見え透いた優しさで、はホッとしたように表情を和らげる。
その顔がまた、形兆の心に微かな痛みをもたらす。
ここまで来ておいて馬鹿馬鹿しい。いちいち気にしていたって悪循環にしかならない。
もうその痛みを気に留めないようにして、形兆は二人を伴い、家を出た。
まず向かったのは一番近くの民家、距離は開いているが一応は『お隣さん』という位置付けになる家だった。
呼び鈴に応答して出て来た老婆に向かって、形兆は折り目正しく頭を下げた。
「こんにちは。昨日、この向こうの家に越してきた虹村といいます。」
形兆は、億泰とにもチラリと目配せをした。
すると二人も形兆の真似をするかのように、慌てて頭を下げた。
「あらぁ、やっぱりお引越しだったのぉ?
いやねぇ、そうかとは思ってたんだけど、長いこと空き家だったし、まさかねぇと思ったりもしてねぇ〜。」
「挨拶が遅れてすみません。昨日はバタバタしてたので。これ、つまらない物ですが。」
形兆が菓子折りの紙袋をひとつ差し出すと、老婆は恐縮しながらも嬉しそうにそれを受け取った。
「あらあら、まぁどうも、悪いわねぇ〜、ご丁寧にどうもぉ。若いのにしっかりしてるのねぇ〜。高校生?」
「いえ、中学生です。弟は小学生です。」
「あらそう〜。そちらのお嬢ちゃんは?」
「僕らの従姉妹です。うちによく遊びに来るんです。」
笑顔を緊張に強張らせて、がもう一度、こんにちは、と頭を下げた。
老婆は何の疑念も抱いてなさそうな顔で、はいこんにちは、とニコニコ笑った。
「あらそう〜。まぁ〜皆良い子達だこと。」
「本当はうちの父がご挨拶に来なければいけないのは分かっているんですけど、仕事で出張が多くて、家には滅多に帰って来られないので。ご無礼をお許し下さいと言っていました。」
「あらまぁ〜、それは大変だねぇ〜。お母さんは?」
「母は何年も前に亡くなりました。」
「まぁ〜、それはそれは・・・!」
その一言を聞いた途端、老婆の表情に同情がくっきりと表れた。
「可哀想に。何か困った事があったら、いつでも言ってちょうだいねぇ。」
「ありがとうございます。では失礼します。」
全員でもう一度頭を下げてから、形兆はと億泰を伴ってその家を後にした。
「さ、次行くぞ。バスの時間があるからな。さっさと済ませちまおうぜ。」
「おうっ!」
「うん。」
母親を亡くし、保護者不在の家で暮らす子供を、大人達は可哀想な子だとすぐに憐れむ。それに一体何の意味があるのだろうか?
「腹減ってきたな。着いたら先に昼飯食うか。」
「はーいはーい!おれハンバーグがいい!」
「いいねー!あ、でも私、スパゲッティも食べたい!」
当の子供にとってはそんな同情など、腹の足しにもならないのに。
バスに乗って駅前に出た三人は、目についた洋食レストランに入った。
洋食レストランなど、随分久しぶりだった。
昔々の小さい頃には、偶に母娘で出かけた時にレストランのお子様ランチを食べさせて貰った事もあったが、Y市に住むようになってから以降は、外食の時には常に母親の『連れ』が一緒で、支払いを持ってくれるその男の好みや都合が何より優先されたので、連れて行かれるのは大人の好む店ばかりだった。
「オレこれ!このチーズと目玉焼きが乗っかってるハンバーグ!」
億泰の大きな声で、は我に返った。
「俺はビーフシチューのランチにする。お前は?」
「私?私はねぇ・・・・、え〜と・・・・・」
は頭の中を占めていた薄暗い思い出を無理矢理追い出すと、メニューに集中した。
ハンバーグも良いし、スパゲッティも食べたい。シチューやグラタンも美味しそうだ。メニューは豊富で、見れば見る程目移りするが、二人を待たせるのは悪いので、さっさと決めてしまわなければいけなかった。
「じゃあ、私はこれにしよっかな。サーモンときのこのクリームパスタ。」
「よし、皆決まったな。じゃあ店員呼ぶぞ。」
形兆に呼ばれてやって来た店員の、自分達を見る目が少し怪訝そうなのは、気のせいだろうか?
きっとそうに違いない。
この町には、自分達を知る者は誰もいないのだから。
きっと、形兆の日本人離れした風貌が気になっただけなのだろう。
そうだ、そうに違いない。は内心で自分にそう言い聞かせながら、虹村兄弟と他愛もない会話を楽しんだ。
「食い終わったら家具屋へ行くぞ。の部屋の物を揃えねぇとな。まずはベッドだろ?それからタンスと机と、ああ、ラグも要るよな。」
「アニキ、本棚は?」
「それもだな。」
「えぇぇ!?」
お前の部屋の家具を買いに行くとは聞かされていたが、そんなに買わせてしまっては凄い出費になる。嬉しさよりもその事が気になって、は慌てて首を振った。
「そ、そんなに要らないよー!お金が勿体無いから、いい、いい!」
「エンリョすんなよー!家族なのに汗くせぇじゃねーかよー、へへへっ!」
「水臭い、な。」
億泰の言い間違いを淡々と訂正してから、形兆は涼しい笑みを見せた。
「心配しなくても高ぇもんは買ってやれねぇよ、全部安物だ。遠慮する事はねぇ。」
「何言ってんの!安物ったって、家具は家具だよ!?1個100円200円の物じゃないんだから!」
形兆の気持ちは嬉しいが、こういう事にはどうも慣れていなかった。
というより、ほぼ経験が無かった。
家具を買い揃えて部屋を作るという事も、人から何かをプレゼントされる事も。
「お布団だけで十分寝られるし、机も本棚も無くたって平気だよ!買って貰ったってどうせ勉強なんかしないんだから、あはは!」
とにかく遠慮しなければという一心だった。神様に誓ってそれ以外に他意は無かった。しかし気が付くと、形兆はその白皙の顔を凍りつかせていた。
きっと、形兆には当てこすりのように聞こえたのだろう。考えてみれば、そう取られても仕方のない失言だ。は慌てて笑顔を繕い、せかせかと笑ってみせた。
「て、ていうか結局私、いつも何するにもこたつに入っちゃうんだよね〜!
ほら、こたつの方が快適でしょ?あったかいし、おやつ食べてお茶も飲めるし、疲れたらそのまま寝ちゃえるし!ね!」
「言えてるぜー!オレも勉強机ってどーもニガテなんだよな〜!かたっ苦しくてやる気出ねぇっつーかよぉ〜!」
うまい具合に、億泰がそれに同調してくれた。と言っても、助け舟を出そうと思ってしてくれたのではない。純粋に自分がそう思ったから言ったまでだ。
億泰のそんな天然の明るさに、これまで何度救われてきただろうか。
「・・・よく言うぜ。こたつで宿題してても、いつもやる気ねぇだろうがオメーはよ。」
苦笑する形兆の顔を見ながら、は安堵すると共に、自分の無力さをも感じていた。形兆の為なら何でもしようと思っているのに、どうして私は彼をほんの束の間楽しい気分にさせてあげる事も出来ないのだろう、と。
程なくして、料理が次々と運ばれて来た。
美味しそうな湯気を立てている料理を見ると、億泰は一層目を輝かせて歓声を上げた。
「うひょーっ!うまそーっ!いっただっきまーすっ!」
三人の前にそれぞれ料理が揃うと、ソワソワしていた億泰は、飛び付くような勢いでハンバーグをフォークで突き崩し、最初の一口を豪快に頬張った。
「うんまぁ〜いっっ!!」
「億泰、行儀!」
「ごめっ・・・、でもっ・・・、んんめぇ〜・・・・!」
形兆に叱られるのは分かっているが、口がどうにも止まらない、そんな様子だった。
我慢できず、はついつい声を出して笑ってしまった。
すると形兆も、吊り上げていた目を少し和らげて、また苦笑した。
「・・・まぁ、今日ぐらいは大目にみてやるか。けど綺麗に食えよ。こっちの食欲が失せるような汚ねぇ食い方すんじゃねぇぞ。」
「ふむっ・・・・!ほっへぇ・・・・!」
何を言っているのかは分からないが、左手の指で○を作っているから、OK分かった、という事なのだろう。
形兆は諦めたように溜息を吐いて、自分も食べ始めた。
億泰とは対照的に落ち着いた行儀の良い食べ方だが、食の進み具合は決して遅くない、いやむしろ早い。
自分も早く食べ始めなければと、もスプーンとフォークを取り上げた。
熱々のスパゲッティを少量フォークに巻き付けて口に入れると、程良い塩気が効いたホワイトソースの優しい味が、口の中いっぱいに広がった。
「んん!美味しい・・・・・!」
感嘆の声を上げたに反応して、億泰がらんらんと輝く目を向けてきた。
「マジで!?マジで!?どんな感じに!?」
「一口食べる?」
「良いのか!?やったーっ!」
「私にもハンバーグちょっとちょうだいね。」
「おうっ!いいぜぇー!」
億泰と料理を交換していると、今度は形兆が呆れたような目を向けてきた。
「何やってんだお前ら。」
「だって気になるじゃねーかよお・・・、ぅんまあぁ〜いっ!スパゲッティもうんめぇぇっ!」
「そうそう、味見したくなるんだよねぇ・・・、んんっ!ハンバーグ美味しいっ!」
益々呆れたような顔で軽く首を捻る形兆の手元には、これまた美味しそうなビーフシチューの皿がある。
多分同じ事を考えていたのだろう、億泰がまん丸に見開いた目でそれを凝視していたので、も真似て同じ仕草をしてみせた。
すると形兆は、途端に顔を引き攣らせて、自分の皿を手でサッと庇った。
「ちょ・・・、お前らふざけんなよ、俺の飯に手ェ出すんじゃねぇぞ?」
「いいじゃねーかよー!一口だけ!一口!」
「味見だよ、味見。一口交換しようよ。ほらほら、スパゲッティもハンバーグも美味しいよ?」
「い、要らねー!テメーら、行儀悪いのもいい加減にしとけよ!食いたきゃもう一皿頼めば良いだろうが!」
「そんなには食えねーもんよぉ。なぁ?」
「ねー。」
「だからって俺のを取るんじゃ・・」
「へへっ、もーらいっ!」
「あーっ!」
「うんまぁぁ〜いっっ!この濃厚なコクがたまりませんなぁ〜!」
「てんめぇ億泰ぅぅっ!」
怒り狂う形兆の顔には、いきいきとした感情が篭っていた。
いつも自分を押し殺してばかりいる形兆が偶に見せる、素のままの表情だ。
は、形兆のそんな顔が大好きだった。
形兆と億泰と、三人でこんな風に騒いだり笑ったりするのが大好きだった。
いつかきっと、こんな事が当たり前になる日が来る。
が見据えるべきものは、それだけだった。
後ろを振り返るのではなく、只々前を、いつかやって来る筈の、明るく穏やかな未来だけを。
昼食を済ませた後、三人は駅前の家具屋に行った。
はやっぱり遠慮したが、形兆としては、いつまでも無い無い尽くしのままでいさせる訳にはいかなかった。
その状況が心苦しいという理由も勿論あったが、実のところ一番大きな理由は、の実家に対する未練を断ち切ってしまう事にあった。
何も無いガランとした部屋の中で、段ボール箱から着替えを出し入れするような生活をずっとさせていては、はいつまで経っても居候気分が抜けない。空いている部屋に泊めて貰っている他人だという遠慮や疎外感が抜けきらず、自分の家はやっぱり母親のいるあの家なのだと、心の底で実家への未練を引きずり続けてしまう。
それは決して侮ってはならない感情だった。今はほんの些細な感傷程度のものだとしても、この先積もりに積もっていけば、どうなってしまうか分からない。
だから、たとえ安物でも一通り必要な物をきちんと揃えて、安定した生活環境を整えてやらなければならなかった。そうする事によって、ここが自分の部屋、自分の家なのだと、の意識が自ずと変わっていくように。
ひたすら遠慮するばかりのをリードする形で、形兆はに好きな家具を選ばせた。
が遠慮しいしい選んだのは、白いパイプベッドとナチュラルな色合いの木のチェスト、シンプルな平机と椅子に組み立て式の小さな棚、それに、淡い桜色のラグマットだった。いずれも全て最安値の品で、デザインや好みよりも値段で選んだのが明らかではあったが、それでもは嬉しそうな顔をしていたので、それなりに気に入ってはいる筈だった。ならば形兆としても満足だった。
支払いを済ませ、店員が領収書と配送の伝票を持って来るまでの僅かな間、形兆は店の中を何とはなしに見て歩いた。
テーブルセットやソファ、大画面のTVが置けるようなボードなど、別に欲しい訳ではないのだが、見ていると良い暇潰しになった。
その途中、ドレッサーのコーナーに差し掛かり、形兆はふと足を止めた。
― ちょっと待ってね形ちゃん、もうすぐ終わるから。
そこに、母がいた。
いや、いる訳がない。とうの昔に死んだ人だ。
だが、かつての母の幻が、そこにはっきりと見えるようだった。
椅子に腰掛けて、鏡の前で豊かな髪に櫛を通し、綺麗な色の口紅を引く母の姿が。
早く早くと急かす形兆に鏡越しに微笑みかける、その優しい顔が。
― 母さん・・・・・
形兆の足は、自ずと母の元へ向かっていた。
母の幻はいつの間にか跡形もなく消えてしまっていたが、椅子にまだ温もりが残っているような気がして、形兆は座面にそっと触れた。
アイボリー色の上等なビロードの手触りは、滑らかで、冷たかった。
縁に優美な彫刻が施された鏡に映っているのも、虚ろな目をした形兆ただ一人だった。
馬鹿か。鏡に映る情けない自分に、形兆は心の中でそう吐き捨てた。
東京の家を明け渡す時に処分してきた母のドレッサーに似ていたから、つい感傷的になってしまっただけだ。そんな言い訳を自分に対してしながらドレッサーのコーナーを出ると、の姿が目に留まった。
のいる所はドレッサー以外の鏡製品のコーナーで、幾つもの大きな姿見が壁に掛けてあり、陳列棚にはスタンドのついた小型〜中型の鏡が所狭しと並べられていた。
はその中のひとつを熱心に見ていた。その横顔とさっきの母の幻とが、被って見えた。まるで考えが及んでいなかったが、そういえば、女には鏡が必要なのだ。
「何か気に入るのがあったか?」
歩み寄りながら声を掛けると、は形兆の方を向いてはにかんだ。
「あ、うん、ちょっとね。綺麗だなと思って見てただけ。」
「どれ?」
「こ、これ・・・・」
が示したのは、30〜40cm程の長さの、卵型のスタンドミラーだった。
鏡の縁が青い薔薇のステンドグラスになっていて、落ち着いたアンティークゴールドのフレームに収まっている。
なるほど確かに、綺麗な鏡だった。
「へぇ、良いんじゃねぇか。欲しいんならこれも買えよ。」
「いっ、いいよ!いい、いい!」
はまた血相を変えて、盛大に首を横振りした。
「そんなつもりじゃないの!ちょっと見てただけだから!」
どうせ値段だろうと思って値札を一瞥すると、『¥35,000』という数字が見えた。
これでは確かにも首を振りまくる筈だと、形兆は小さく笑った。
何しろ、さっき買った物のどれよりも高いのだから。
「虹村様、お待たせしました。」
「あっ!ほら、お店の人が呼んでるよ、形兆君!」
はまるで逃げ出すように、そそくさと店員のいる方へ行ってしまった。
一人になった形兆は、が見ていた鏡を覗き込んだ。
縁のステンドグラスはあまり主張しすぎず、顔を映してみると、美しく咲き誇る青い薔薇の花が顔の周りを程良く彩っているように見える。
それなのにどうしてか、薔薇は哀しげに見えた。
まるで、誰かの涙で青く染まったかのように。
― 何考えてんだ、俺は。
妙な事を考えた自分を鼻で笑って、形兆もその場を離れた。しかし、この鏡の事は頭の中に残ったままだった。つまり、この鏡が気に入ったのだ。
哀しげだけれども、辛気臭い訳ではない。
哀しみに身を染めながらも凛と咲いている、その姿が、何だかに似ているようで。
新しい町で新しい暮らしを始めて、一月半が経った。
春休み真っ只中である3月30日に、は14歳の誕生日を迎えた。
「イエーイッ!ネーちゃん、お誕生日おめでとーっ!」
テンションMAXの億泰の声と共に、クラッカーの炸裂する賑やかな音が響き渡った。
「ありがとう〜!」
生まれて初めての母親に祝われない誕生日は、今までで一番楽しく賑やかな誕生日でもあった。
嬉しさが勝っているのか、寂しさが勝っているのか、正直、自身よく分かっていなかった。
しかし、億泰が折り紙の工作や摘んできた野花で飾り付けてくれた部屋の中で、形兆が用意してくれたご馳走やケーキを前にして、喜びの感情が湧かない筈はなく、は満面の笑顔で、次々と鳴らされるクラッカーの祝福を受けた。
「はい!これオレからの誕生日プレゼント!」
「えぇぇ、良いの!?ありがとう億泰君!」
誇らしげに差し出されたプレゼントの包みを受け取ったは、億泰の目の前で早速それを開けた。
中身は、可愛い動物柄のピンク色のペンと、お揃いのノートだった。
「うわぁ可愛い〜!嬉しい〜!ありがとう億泰君!」
「へへっ、だろぉ〜!?ネーちゃんぜってー喜ぶと思ったんだよ!
このペンすげぇんだぜ!ペンが4色に、シャーペンもついてんだぜ!ほらほら、黒とぉ、赤とぉ、青とぉ、緑!な!?」
「ホントだ、便利だねぇ〜!」
「だぁろ〜!!」
が喜ぶ程、億泰は誇らしげに顔を輝かせた。
その顔が可愛くて、は殆ど無意識の内に億泰の頭を撫で回した。
「ありがとね億泰君!」
「へへへっ、どういたしましてだぜぇ〜!」
「良い物貰っちゃったから、10月の億泰君のお誕生日にはしっかりお礼しなくちゃね!楽しみにしててね!」
「あっ、それなら俺もマフラー編んで欲しい!アニキとお揃いのやつ!」
「えぇぇぇ・・・・!?」
輝くような笑顔でそう言われて、は思わず動揺した。
勿論、嫌なのではない。照れくさくて、どう反応すれば良いのか分からなかったのだ。
「でも全然上手じゃないよ?」
「そんな事ねぇよ〜!それに、フワッフワですげぇあったかそうじゃねーか!
アニキもすげぇ気に入ってんだぜあれ!俺がどんなに頼んでも、ぜってー貸してくんねぇもん!」
「テメェ億泰、余計な事言うんじゃねえっ!」
「いってぇっっ!!」
形兆の拳骨をまともに受けた億泰の頭は、実に痛々しく硬そうな音を鳴らした。
「あぁぁぁ・・・!だ、大丈夫、億泰君!?頭ゴツッっていったよ今!?」
「だ、だいじょぶじゃない・・・・、いぃってぇぇぇ〜・・・!!」
脳天を抑えて畳の上にひっくり返り悶絶する億泰を一瞥して、形兆はフンと鼻を鳴らした。
「余計な事をベラベラくっ喋るからだ。」
「ほ、ホントの事だからって、そんなマジで殴んなくてもぉ・・・!」
「あぁ?」
「ひぃっ・・・!何でもないッす・・・!」
もう一度拳骨を振り上げて見せる形兆の眉間には、沢山の皺が寄っていた。
肌の色が白いから、顔の赤らみがはっきりと分かる。
痛い目に遭った億泰には悪いが、は形兆のその表情が嬉しかった。
気付かれないようにその喜びを噛みしめていると、形兆は苦々しい顔をしたまま、にプレゼントの箱を差し出してきた。
「・・・俺は・・・これ」
包装紙とリボンで綺麗にラッピングされているその箱は、さほど重くはないが、両手で持たなければならない位の大きさだった。
こんなに大きな箱に収めないといけないようなプレゼントとは一体どんな物なのか、皆目見当もつかない。
は箱を畳の上に置いて、注意深くラッピングを解いていった。
「これ・・・・・・!」
中から出てきたのは、鏡だった。
ここへ越してきた直後に、形兆と億泰と三人で買い物に行った駅前の家具屋で見かけた、あの鏡だった。
鏡の縁にあしらわれた青い薔薇のステンドグラスが綺麗で印象的だったからよく覚えていたのだが、それを形兆が覚えていた事に驚いて、は呆然と形兆を見つめた。
すると形兆は、その険しい顔をとうとうプイと背けて、他に思い付かなかったんだよ、と呟いた。
「うおわぁ〜〜っ!すっげぇ〜!高そうな鏡じゃ〜ん!」
の横からヒョイと覗き込んだ億泰の、目を真ん丸に見開いた顔が、憂いを帯びた青い薔薇に彩られた。
勝ったのは億泰の方だった。
青薔薇の物憂げな雰囲気は、今はもう、億泰の表情のひょうきんさを際立たせているだけだった。
「あははっ!億泰君すごーい!なんか王子様みたーい!」
「そう!?そう!?似合う!?」
「似合う似合う〜!」
鏡に向かって決め顔をしてみせる億泰を笑いながら誉めていると、形兆も小さく吹き出した。
「確かに、ある意味似合ってんな。バカ面が一層バカっぽく見えるぜ。」
「んなっ!?ひでぇぜアニキぃ〜〜!」
「はははっ!」
億泰をからかって笑う形兆の顔が、心から愛しかった。
そうやって笑ってくれるのが一番嬉しいと言ったら、形兆は気を悪くするだろうか?
何より欲しいものは、こうやって三人で笑って過ごすのが当たり前になる日々だと、そう言ったら。
楽しいパーティーが終わると、静かな夜が訪れた。
億泰はもう眠っている。
風呂から上がった途端に、電池が切れたように眠りに落ちたのだ。
の誕生会の支度をするのに今日一日せっせと働いていたから、無理もない。
今日一日の億泰のはしゃぎっぷりを思い出して、形兆は小さく笑った。
本当に、お祭り騒ぎが好きな奴だ。
をこの家に引き摺り込もうとしていた時も、億泰は、アニキが楽しい事をしてくれるのが嬉しいと喜び、礼まで言っていた。全く、馬鹿みたいに能天気な奴だ。
にしてもそうだった。
何も知らなかった時ならばいざ知らず、全てを知り、こうなった今もまだ、毎日ニコニコと笑っている。ちょっとした事でいつも億泰と楽しそうに笑ってはしゃいで、相変わらずの軟禁生活には文句ひとつ言わずに。
しかしきっと、誰より馬鹿なのは俺だと、形兆は自嘲した。
外食だの誕生会だの、そんな程度の事で大喜びしてはしゃぐ億泰との笑顔を見ていると、ついもっと多くを求めてしまいたくなるのだから。
人生を楽しむのはあの化け物を殺してからだと重々承知しているくせに、この位なら別に構わないだろうと、また甘い事を考えてしまっているのだから。
形兆は部屋の襖を静かに開けて、自室を出た。
古い平屋造のこの家は、離れとの部屋以外は全て襖やドアを隔てて隣室と続きになっている為、あちこちに抜けられる。
形兆の部屋からの部屋へ行くルートは、大きく分けて2通りあった。
ひとつは自室から廊下に出て台所を抜けて行くルート、もうひとつは億泰の部屋を通り抜けるルートだ。
もう寝ている億泰を起こさないよう、形兆は台所を回って移動した。
台所と引き戸を隔てて続いている居間の中は、まだ楽しいパーティーの余韻を残していた。汚れた食器やゴミは残っていないが、壁に飾った折り紙の輪っかだの空き瓶に生けた野花だのは、勿体無いから暫く飾ろうと言って、億泰とがそのまま残したがったのだ。
まだ浮かれた雰囲気のままの居間を通り抜け、形兆はの部屋の前に立った。
ドアを軽くノックすると、すぐに返事があって、中からドアが開いた。
「形兆君。どうしたの?」
「ちょっとな。入っても良いか?」
「うん、勿論。」
久しぶりに入ったの部屋は、もうすっかり落ち着いた様子だった。
越してきたばかりで何も物が無かった時の寒々しさは消えていて、ふんわりとした温かみのある、女の子の部屋になっていた。
何処からともなく仄かな良い香りさえしてきて、形兆は密かに戸惑った。
もで、笑顔が何となくぎこちなかった。
形兆がこうしての部屋に入るのは、引っ越しとその直後の部屋作りの時以来だから、互いに多少ぎくしゃくしてしまうのも無理からぬ事だった。
「あ・・・、あのよ。さっきちょっと思い付いたんだけどな。」
「う、うん、何?」
「この近くに大きな桜の木があるんだ。今、結構咲いてきててよ。明日か明後日あたりが満開になりそうだから、三人で花見に行かねぇか?弁当でも持ってよ。」
「お花見?」
は一瞬目を丸くすると、嬉しそうに笑った。
それこそまるで花が開く時のように、優しく、柔らかく。
「本当!?良いの!?」
「そ、そんな大袈裟に喜ぶなよ。その辺ブラついて弁当食うだけだ。すぐ帰るしよ。」
そう、ただそれだけだ。
たったそれだけの事なのだから、それ位ならば別に構わないだろう。
そんな言い訳を自分に対してしている形兆に向かって、は益々嬉しそうに笑った。
「ううん、それでも十分だよ!嬉しい!」
「そ、そうか・・・・?」
アニキはネーちゃんと出会ってから優しくなった、自分にも優しくなってきた、そんな億泰の声と幸せそうなの笑顔が、形兆の心を切なく締め付けた。
別に優しくなったんじゃない。少し、甘くなっただけだ。
が無事に家族の一員になり、遠く離れたこの町に越して来て一安心する事が出来たから、今は少し気が緩んで甘くなっているだけなのだ。
そう自分に言い聞かせていると、は恥じらうようにその笑顔を俯かせた。
「・・・本当に、嬉しいんだ。私の事、喜ばせようと思ってくれる事自体が、本当に・・・・・」
「・・・・・」
は傍らにある机に目を向けた。
さっき形兆が贈った鏡が、大切そうにそこに置かれていた。
「物とか場所とか、値段とかじゃなくてね。形兆君が私の事、ちょっとでも考えてくれてるんだって思える事が、私にとっては凄く嬉しいんだ。」
そんな事を言われたら、益々胸が苦しくなる。
それを誤魔化す為に、形兆はわざと斜に構えて笑ってみせた。
「何だそりゃ。折角奮発したのに、プレゼントし甲斐のない奴だな。」
「ごっ、ごめん!そんな意味で言ったんじゃないの!これ凄く気に入ってるんだよ本当に!折角綺麗な鏡なのに主に映すのが私の顔だなんて、ホント勿体無くて悪いんだけど本当に!」
は慌てふためきながら、そんな事を大真面目に口走った。
喜びを表すのにこんな言い回しをする奴がいるだろうかと呆れたら、また笑い声が出た。わざと作った嫌味な笑いではなく、今度は素直な、本当の笑い声が。
「ははっ、何だよそれ。卑屈にも程があるだろお前。」
「うぅ、で、でも・・・・」
「そんなに言う程、別に酷くもねぇよ。」
の頬を指でつつくと、白かったそこがほんのりと桜色に染まった。
考えてみれば、こんな風にと接するのは久しぶりだった。
作戦は無事に成功した。恋愛ごっこはもう必要無い。
頭ではそう分かっているのに、自分を止める事が出来なかった。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
戸惑い、息を潜めていると見つめ合いながら、形兆はゆっくりと顔を近付けていった。
触れた唇の柔らかい感触は、形兆に一時のめり込んだ悦びを思い出させた。
何もかもを忘れて、の温もりに包み込まれる悦びを。
形兆はをそっと抱きしめ、もう一度口付けた。
「形兆・・・君・・・・・」
ふわりと良い香りがした。
シャンプーも石鹸も、皆で同じ物を使っているのに、どうしてこんなに良い香りがするのか不思議だった。
そのうちに、形兆の背中にの腕が回された。
遠慮がちにおずおずと、でもしっかりと抱きしめてくるその腕が、喩えようもなく心地良かった。
それを求めてはいけないと、今はまだその時ではないと、頭ではちゃんと分かっているのに、の温もりに身を委ねようとする自分を止める事が出来ず、形兆はを抱きしめたまま、傍らのベッドにゆっくりと倒れ込んでいった。
ほっそりとした首筋に顔を埋め、そこに唇を押し当てると、の肩が微かに震えた。
「お、億泰君は・・・・・?」
「もう寝てる。」
形兆がそう答えると、が身体の力を少し抜いたのが分かった。も同じ気持ちでいるのだと、感覚的に分かった。
形兆は顔を上げ、吐息が混ざり合う程すぐ間近からを見下ろした。
黒く潤んだの瞳も、形兆をまっすぐに見上げていた。
今だけ、ほんの少しだけ。
引き寄せられるように、また唇を触れ合わせた。
その時。
「・・・・・ォォォ・・・・・」
何かが聞こえた。
夜風が吹き抜ける音だろうか?
「オオオオ・・・・・!」
いや、違う。
「・・・・形兆君・・・・」
にも聞こえたようだった。
その不安げな眼差しは、今が考えている事をそのまま表しているかのようだった。
そしてそれは多分、形兆の考えている事と一致している筈だった。
形兆は黙ったままベッドから下りた。すると、もすぐさま起き上がった。
「形兆君、あれもしかして・・・」
「様子を見てくる。」
「わ、私も行く・・・・!」
ここにいろとは言えなかった。
形兆が何も言わずに歩き出すと、もすぐ後ろをついて来た。
進むにつれて、音ははっきりとしてきた。
父を閉じ込めてある離れに近付くにつれて、どんどん大きく、明瞭に。
「フォォォ・・・!オオオォォ・・・!」
音はやはり、離れの戸の向こう側から聞こえてきていた。
その音を、いや、声を出している奴の様子を思い浮かべて、形兆はしっかりと閉ざされている戸を睨み据えた。
分かっている。本能的な欲求なのだから、完全に消えて無くなる事はまず有り得ない。そんな事は最初から分かっている。
正月以来、平穏な日々が続いていたから、少し甘くなっていただけだ。
知能が次第に回復してきていて、その本能的な欲求や衝動を理性で抑えられるようになってきているのではないかなんて、都合の良い解釈をしたくなっていただけだ。
そう、全ては己の甘さが悪いのだ。
気を緩ませ、甘い方に楽な方に傾きかけていた、愚かな自分が悪かったのだ。
憎い己を一思いに殺して葬り去り、形兆は踵を返した。
そして、不安げな表情で立ち尽くしているの横を素通りして渡り廊下を引き返し、台所から離れの戸の鍵を取って来た。
開錠して戸を開けると、遮るものが無くなったせいで、おぞましいその声がフルボリュームで響き渡った。
空港のすぐ側という土地柄、大音量の騒音が発生するのはいつもの事だが、獣の咆哮のような父のこの声は、飛行機の発する機械音とはまるで種類が違う。
飛行機の飛んでいない時に垂れ流していては、近隣の住民に気付かれて不審がられる恐れが大いにある。
「黙らせてくる。ここ閉めてくれ。」
「う、うん・・・・・!」
形兆は戸締りをに任せると、急いで父の部屋に乗り込んだ。
部屋の中ではやはり、父が猛り狂いながら汚らしい粘液を撒き散らしていた。
「・・・静かにしやがれこのクソ野郎が!!」
形兆は渾身の力で父の頭に蹴りを入れた。
「フゴオォォォッ!!」
蹴り転がされても、この化け物はその汚らわしい行為を止めない。
腹を立てて反撃する事はおろか、そもそも蹴られた事にすら気が付いていない。
このどうしようもない欲がひとまず枯渇するまで、それを放出し続ける事しか考えられないのだ。
だから、殴ろうが蹴ろうが全て無駄なのだ。力も、怒りも、何もかもが。
形兆は心を押し殺し、棚の鍵を開けて、いつもの道具を出した。この化け物の五月蠅い口を封じる為の、野球ボールと手拭いを。
形兆は淡々と父にボールを噛ませ、手拭いで口をきつく縛り上げて塞いだ。
不愉快極まりない唸り声がトーンダウンしたところでふと気配に気付いて振り返ると、そこにが立っていた。
「・・・・・」
何で入って来た、とは言えなかった。
入って来る事を予測していなかった訳でもなかった。
それどころか、は恐らくこうしてくれるだろうと心の片隅で当て込んでさえいた。
「・・・私の出番・・・、だね。」
微笑んでいるの顔は、穏やかに落ち着いていた。
2度目だからだろうか。きっとそうなのだろう。
「着替えとバスタオル用意して来るから、ちょっと待っててね。」
は落ち着いた足取りで部屋を出て行き、ものの何分とかからずに必要な物を持って戻って来た。
「お待たせ。後は私に任せて。」
「・・・・ああ・・・・・」
は落ち着いていた。きっと2度目だからだ。
一度経験しているから多少の慣れがあるし、もう逃れられないと諦めてもいるのだろう。
「終わったら、お花見行こうね。」
「・・・・ああ・・・・・」
微笑んで小さく手を振るに送り出されるようにして、形兆は父の部屋から、そして離れから出た。
引き戸を閉めて鍵をかけると、もう何の音も聞こえなくなった。
心配は要らない。前回もは無事に生きていた。
前例があるから、どんな感じになるのかもう予測がつくし、どれ位の期間になるかも大体見当がつく。
それなのに、どうしてだろうか。
「・・・・馬鹿か、俺は・・・・」
どうして、こんなにも心の中に嵐が吹き荒れているのだろうか。
あの化け物の愛玩人形となる事を、本人はもう受け入れているのに、をそうさせた張本人が何故、こんな気持ちになっているのだろうか。
この戸をもう一度開けて、今すぐを取り戻したくて堪らないなんて。
「っ・・・・・・!」
形兆は固く拳を握り締めると、離れに背を向けて歩き去った。
心配は要らない、どうせまた3日か4日もすれば落ち着くと、自分に言い聞かせて。
しかし結果として、その読みは外れた。
今回は治まりがつくまでに1週間以上の期間を要し、が務めを終えた頃にはもう桜は盛りを過ぎており、咲ききった花が春雨に打たれて儚く散り始めていたのだった。