愛願人形 13




3学期が始まった。
長い夏休み明けや進級後の春と違い、3学期の始まりというのは、同じ教室に相変わらずの顔ぶれが揃ってまたいつもの日常がとりとめもなく繰り返されていくだけで、全く何の変化も新鮮味も無いものだ。
しかし形兆のクラスには1つだけ、小さな変化があった。
の不在である。
だが、それはこのクラスにとって余りにも些細な、取るに足りない変化だったようで、登校して来ないの事を話題にする者は誰もいなかった。
の事を、まるで元からいない者のように扱うクラスの連中の反応は、正しく形兆の思惑通りだった。
だが、他人はそうやって知らん顔が出来ても、身内はそうはいかない。
3学期が始まったばかりのある日の昼休み、学校でちょっとした事件が起きた。


「だからぁ、家にも帰って来てないんですよは!」

偶々通り掛かった校長室からヒステリックな女の声が聞こえて、形兆は思わず足を止めた。


「どうしてるのかって、それを聞きたいのはこっちの方なんです!あたしだって何もほったらかしてるんじゃないんですよ!警察にだって届けに行ったんですから!」
さん、ちょっと落ち着いて下さい、ね・・・・・」

の母親だ。
そう確信した形兆は、辺りにさり気なく注意を払い、校長室の隣の資料室のドアに手を掛け、鍵が開いている事を確かめた。
そして、誰も見ていない隙を狙って資料室の中に入り込み、ドアに鍵を掛けた。


さん、最初からお聞かせ願いたいのですが、さんが家に帰って来ないというのは、それはいつからですか?」
「年末・・・・、確か2学期の終業式の日から・・・・」

資料室の中は、校長室の会話が筒抜けに聞こえた。
形兆は念の為に棚の陰に身を隠して、教師達との母親の会話に耳をそばだてた。


「それから今まで、ずっと帰って来ていないんですか?」
「ええ!」
「連絡も無く?」
「そうです!」

教師のうちの誰かが深刻そうな声で、もう3週間になりますねと呟いた。


「そうですよ、だからこっちは警察にまで相談に行ったんです!」
「それはいつ頃の事で?」
「年が明けてすぐです!最初はどうせその内すぐに帰って来るだろうと思って好きにさせてたんですけど、クリスマスや正月が過ぎてもまだ帰って来ないから、流石に心配になって・・・・!」

その瞬間、微妙な沈黙が流れた。


さん、それはどういう事ですか?」
「え?」
さんの無断外泊に、何か心当たりでも?」
「それは・・・・・」

つい今しがたまで息巻いていたの母親は、その瞬間、うって変わってだんまりになった。


さん、あなた先日の三者面談の時にも、そうやって言葉を濁されましたよね?
あの時はあまりご家庭の事情に立ち入るのも失礼かと思って引き下がりましたけど、こうして無断外泊や無断欠席が続くとなりますと、ちゃんとお話しして頂かないと。」
「・・・そ、それが・・・・」

担任の青山が厳しく問い詰めると、の母親は躊躇いがちに白状し始めた。


「・・・・あの子、好きな人が出来て・・・・、その人の所で暮らすって言い出して・・・・」
「それで?」
「それで、あたしと喧嘩になって、あたしもつい売り言葉に買い言葉で『出て行きなさい』とか言っちゃって・・・・。
勿論、本気じゃなかったんですよ!?先生方なら分かるでしょ!?」
「ええ、勿論です。分かりますよ。」
「あの年頃の女の子は恋愛に興味津々だから、初めて出来た彼氏に舞い上がっちゃってるだけだと思ってたんです・・・・!
下手に反対したり止めたりすると余計に反発しちゃうから、ほっといて好きにさせとけば、何日かして気が済んだら帰って来ると思ってたんです!だけど・・・・!」
「まあまあ、落ち着いて下さい、さん。」

よく言うぜと、思わず口から出かかった。
男に舞い上がってんのはアンタの方だろうがと内心で嘲りながら、形兆は引き続き話に耳を傾けた。


「で、警察に届け出られたと?」
「ええ・・・・・・!」
「それで、警察の方では何と?」
「捜索願は一応受理してくれましたけど、家出した時の状況がそれですし、置手紙もあったから・・・」
「置手紙?」
「あの子、私が仕事に出てる時に荷物を取りに来たみたいで、その時に、彼氏の所に行くって書いた手紙を置いてたんです。
偶々私が忘れ物して家に戻ったから、そこであの子と鉢合わせして、それで喧嘩になって・・・」

その時の事を、は何も話さないままだった。
荷物を持って戻って来た時の様子が至って普通だったから、却って少し引っ掛かっていたのだが、そういう事なら納得がいった。
多分はその時、酷く傷付いたのだ。誰にも話したくない位に、酷く、深く。


「なるほど。それで?」
「だからつまり・・・、あの子の自発的な家出だから、事件性はまず無いだろうって事で・・・。
捜してくれないのかって訊いても、事件性が無いからの一点張りで・・・。
挙句の果てには、捜索願は出したから、これで何かあったらちゃんと連絡が来ますからなんて無神経な事言って・・・・!」

それも正しく、形兆が予想していた通りの展開だった。
計画通り、は恋愛にのめり込んで自分から家出をしたと認識されている。
だから、捜索願を出されたとて、が捜索される事はまずない。今後、警察沙汰になるような事にさえ関わらなければ、はこのまま単なる家出少女として、堂々と『行方不明』でいられるのだ。
一番の懸念点が無事解消された事に、形兆は内心で安堵した。


「それで、その相手は一体誰なんですか?」
「それが分からないんです。あの子、何も教えてくれなかったから・・・。」
「名前も歳も、連絡先も?」
「ええ・・・。分かってるのは、背が高くて髪が真っ金々の不良だって事だけで・・・・」
「お会いになった事があるんですか?」
「いえ、その・・・、私が会った訳じゃないんですけど、その・・・・、うちの人が、一度家で鉢合わせた事があるそうなんです。それで・・・・」

形兆はその時の事を思い出していた。
この女は、あの時何があったのか分かっていない。
あの男の事をのうのうと『うちの人』と呼んで憚らないこの女にはきっと、分かろうとする気も無いだろう。そう思うと、が不憫だった。


「ねぇ先生、そんなような男の子、この学校にいないんですか!?それっぽい子達、ここに全員集めて下さいよ!それで片っ端から問い詰めていけば・・・!」

の母親はとうとう痺れを切らしたように、無茶な事を要求し出した。
そんな事、学校側が承知する訳がないのに。


「落ち着いて下さい、さん。そんな事は出来ませんよ。
確かに、素行の良くない生徒は何人かおりますがね、何の証拠もないのにそんな犯罪者を吊るし上げるような真似は、我々教師としては致しかねます。」
「そんな・・・・!それじゃはどうなるんです!?」

案の定、校長は毅然とその要求を断り、の母親は益々ヒステリックに語気を荒げた。


さん、失礼ですがお宅は確か、母子家庭の筈でしたよね?立ち入った事をお聞きしますが、いつご結婚されたんですか?」

その時、担任の青山がふと思い出したようにそう尋ねた。


「あ・・・、あの、いえ・・・それはまだ・・・・、正式に籍を入れた訳じゃあないので・・・・」

の母親は明らかに動揺し、言葉を濁した。


「でも、一緒には暮らしておられるのですよね?」
「え・・・、えぇ・・・・」

何と愚かな女なのだろう。嘘すらも満足に吐けないなんて。
たった一人の肉親がこれでは、も随分と苦労してきた筈だと、形兆はに同情を寄せた。


「・・・さん。大変失礼な事を申し上げますが、娘さんが家出をした原因は、本当に彼女が付き合っているというその異性の事だけなのでしょうか?」

校長はズバリと核心に触れた。
如何にも『大人』らしい、含みのある婉曲な言い回しだが、何を言いたいのかは歴然としていた。


「ど・・・、どういう意味です!?」
「中学生というのは、只でさえ難しい年頃です。実の親子でも何かと衝突します。
そこへ、血の繋がりのない大人が突然家庭の中に入って来たら、平気でいられる子供はなかなかおりません。」
「あ・・・あたしのせいだって仰るんですか!?あたしが結婚するのが悪いって、そういう事なんですか!?」
「いえ、そうではなくて。何らかの事情で不安定になった子供は、悪い誘惑につけ込まれ易いという事が・・・」

何から何まで筋書き通りに事は運んだ。
家庭環境の悪い少女が男にのめり込んで家出をした、そこら中にありふれた話だ。
誰もが原因はの母親にあると思い、の事はよくいる非行少女として、幾らかの同情は寄せつつも、実質は見捨ててしまうだろう。
これでは完全に、この世界から消えた。
ここから先の醜い自己弁護と通り一遍の教育論とのぶつかり合いは、下らなさすぎて聞く必要もない。
形兆はまた人目につかぬように資料室を出て、何食わぬ顔で他の生徒達に紛れてそこを後にした。
しかし、騒動はこれで終わった訳ではなかった。
形兆が教室に戻って自分の席に着いた直後、血相を変えた中年の女が教室に駆け込んで来たのだ。
姿を見たのはこれが初めてだが、の母親だと直感的に悟った。
その瞬間、教室の中を血眼になって見回していた彼女と目が合った。


「いた!金髪!」

の母親は形兆を指さして不躾にそう叫ぶと、周囲の生徒達を弾き飛ばすように押し退けながら駆け寄って来た。


「ちょっとアンタ、立ちなさいよ!」

腕を引っ張られた形兆は、小さく溜息を吐いてから、言われた通りに立ち上がった。
するとの母親は、形兆の顔をしげしげと見上げて、益々必死の形相になった。


「背も高いわ・・・・!アンタ・・・、アンタじゃないの!?の彼氏ってのは!」
「・・・・・何の事ですか」
「とぼけんじゃないわよ!アンタでしょ、前にうちに来た男って!うちの人と鉢合わせしたでしょ!?
ねぇ返してよ!どこやったのよぉ!家に帰るように言ってよぉ、ねぇ!!」

の母親は形兆の胸倉を掴み、ガクガクと揺さぶった。
だが、小柄な中年女に幾ら締め上げられたって、痛くも痒くもない。
振り払うのも面倒で、形兆はされるがままになりながら、泣き出しそうに歪んでいるの母親の顔をぼんやりと眺めていた。
歳は四十に届くか届かないか位だろうか。思った程には化粧の厚くないその顔に、の面影がはっきりと浮き出ている。
ガクガク揺さぶられながらそんな事を呑気に考えていると、周囲にいた女子が何人か、猛然と割って入って来た。


「ちょ・・・ちょっとオバさん!!やめて下さい!!」
「もういい加減にして下さい!!」

彼女達は、頼みもしないのにの母親の手を払い除け、形兆の前に並んで壁のように立ちはだかった。


「何よアンタ達!?」
「虹村君がさんの彼氏な訳ないですよ!だって喋ってるところも見た事ないのに、ねぇ!?」
「そうそう!っていうかあの子誰とも口利かないし!」
さんはいっつもそうですよ。彼氏なんて本当にいるんですかぁ?」
「とにかく、虹村君は関係ないのに、変な言いがかりはやめて下さい!迷惑です!」
「な・・・・・!」

生意気で口の立つ女子達に矢継ぎ早に言い返されて、の母親は凄い形相になったが、何かを思い当たったかのように、今度は彼女達の方に詰め寄っていった。


「そ、そうだわ!アンタ達、お兄ちゃんいない!?」
「はぁ!?」
「何ですか急に!?」
「いいから答えなさいよ!お兄ちゃんいるの!?いないの!?」

騒ぎはあっという間に大きくなり、担任の青山が慌てた顔をして駆けつけてきた。


さん!!困ります、このような事をされては!!」
「先生!違うんです、あたし思い出したんですよ!」

青山に取り押さえられながらも、の母親は騒ぎ続けた。


「あの子確か、様子がおかしくなる直前に、学校で友達が出来たって言ってたんです!いつだったか、その子の家に泊まりに行って、その子のお兄ちゃんの服を借りて帰って来た事もあったんです!
が嘘を吐いて彼氏の家に泊まりに行ってたと思ってたんですけど、もしかしたらそれ本当の事だったのかも知れませんよね!?
学校で本当に女の子の友達が出来て、泊まりに行った時にその子のお兄ちゃんと知り合って、それから最近になって付き合うようになったのかも・・・・!」
「とにかく教室を出て下さい、さあ!」
「ねぇ誰か、と友達になった子いるんでしょ!?夕飯ご馳走してくれたり、家に泊めてくれたでしょ!?テスト勉強も一緒にしたでしょ!?ねぇ返事してよ!返事しなさいよ!!ねぇってば!!」
さん・・・!」

青山に引き摺られながら、尚も諦めずになりふり構わず喚き続けるの母親の姿は、凄まじかった。
彼女の事を皆、狂人を見るような目で見ていた。
だが形兆には、その姿は何処か物悲しく見えていた。
そんなにを失いたくないのなら、何故もっと大事にしなかったと、訊けるものなら訊いてやりたかった。
だが、もう手遅れなのだ。


― 悪いな、俺もアイツを失いたくねぇんだ。だから、アンタの元には返さねぇ。

教室から連れ出されて行くの母親に一瞥をくれて、形兆は心の中でそう断った。


「やだぁ、何あれぇ?信じらんなーい。」
「大丈夫ぅ?虹村君?」
「怖かったよねぇ、大丈夫?」

の母親の姿が見えなくなった途端、女子達がここぞとばかりに形兆を取り囲んで騒ぎ始めた。


「いきなり乗り込んで来て人の胸倉掴むなんて、アッタマおかしいんじゃないのあのオバさん!?」
「あれさんのお母さんなんだよね?」
「あたしあの子と小学校一緒だったんだけどぉ、あの子のお母さん水商売してて、めっちゃ男好きなんだって。
昔クラスメイトだった男の子のお父さんが、あのオバさんと浮気したらしくって、それで親が離婚になって、その子転校して行ったんだから。」
「うわー何それ!サイテー!」
「あー私もその話知ってる!私昔、親にあの子と遊ぶなって言われたもん!」

けたたましい声で面白おかしく騒ぐ女子達に、虫唾が走った。


「でもさ〜、あんな地味で暗い子と付き合う男なんて本当にいるのかな!?」
「えー!?ないないー!あのオバさんの勘違いじゃないのぉ!?」
「そーだよー!あの子に彼氏なんか出来る訳ないじゃん!クラスの男子も全員嫌ってんのに〜!」
「彼氏じゃなくて、何かヤバい人に騙されてたりして!」
「あーそれっぽい!!ちょっと優しくされたらすぐ騙されそうだよねあの子〜!」

普通の幸せな家庭に生まれ育ったこの女達を妬む筋合いは無いが、幸せなこの女達が、の生まれ育った環境を蔑む筋合いも無い。


「虹村君、あんなの気にしちゃダメだよ!忘れて忘れて、ねっ!?」
「ねぇねぇ、次美術室に移動だよね!虹村君も一緒に行かない?」
「あっ、それいいー!一緒に行こうよー!」

同じ痛みを知らないこの女共に、を嘲笑う権利はない。


「・・・うるせぇんだよブス共。井戸端会議なら他所でやれ。」

そう吐き捨てた瞬間、女子達は揃って唖然とした。
そんな彼女らを押し退けて、形兆は教室を出て行った。


















形兆は用心深い性質だった。
また、楽観的な方でもなかった。


『何ぃ?引っ越したいだと?』

従って、この決断は当然の事だった。


「はい。ここはやっぱり不便だと、父さんが。」
『・・・殆ど帰って来ない奴がか?』
「だからこそです。ここは空港からも新幹線の駅からも遠いから、帰り難いんだそうです。」

嘘を吐くのは得意だった。
初めの内はいちいち動揺したり、罪悪感に苛まれたりしていたが、今はもう無い。
この伯父相手ならば特に。


「只でさえ帰れないのが余計に帰れなくなるから、伯父さんに空港か新幹線の駅の近くに新しい家を探して引っ越しの手配をして欲しいと言っていました。」
『今の所に引っ越してまだ半年も経っとらんのに、また引っ越しをさせろと言うのか?』
「すみません、父さんがどうしてもと言うので。東京の家に戻っても良いんなら、うちでやりますけど。」

千造がそれを許す筈がないと知っての上での打診、いや、脅迫だった。
元の家はきっと今頃とっくに売り払われているか何かして、千造の懐に入っている。
帰る家などもう無いし、千造の方も、弟一家の家屋敷を不当に奪い取っているのだから、断る事は出来ない筈だった。


『・・・分かった。じゃあ、空港の近くで良いな?』

予想通り、千造は渋々ながらも承諾した。
場所に関しても、利便性が良くて土地価格の高い新幹線の駅周辺か辺鄙な空港周辺、この2択の中から千造がどちらを選ぶかは、分かりきっていた。


「それなら羽田より成田に近い方が良いです。
あと、アパートやマンションじゃなくて、一軒家で。どんなにボロくても良いので。」
『注文付きか。贅沢だな。』
「すみません、それも父さんの希望なんです。本当は元の家に帰りたいみたいなんですけど、それこそ伯父さんに余計な面倒をかけてしまうから、と。」

駄目押しのようにそう言ってやると、千造は微かな唸り声を上げた。


『・・・・で、時期は?』
「出来るだけ早く。何なら今月中でも構いません。宜しくお願いします。」
『分かった。手配してやる。』
「どれ位で目途がつきますか?電話を引いていないままなので、またこっちから連絡します。」
『・・・じゃあ、1週間だ。来週中にでもまた連絡を寄越せ。』
「分かりました。」

そう返事をした途端、電話が切られた。形兆は受話器を置き、電話ボックスを出た。
自宅までの道を歩きながら考えるのは、今頃機嫌を悪くしているであろう伯父の事などではなく、の事だった。
この街に住んでいるのも、もうあと僅かだ。その事をいつ告げるべきだろうか、と。


「あ、お帰りなさい。」

その答えが出たのは、家に帰り着き、の顔を見た時だった。


「ご飯もう少しで出来るから、もうちょっと待っててね。」
「シシシシッ、何かネーちゃん、アニキのお嫁さんみてーだな。」
「なっ・・・!何言ってんの億泰君てば・・・!」

ふざける億泰を叱るは、もうすっかり虹村家に溶け込んでいるように見える。


「ん〜、アナタ〜ん、お帰りなさ〜い♪♪」
「うるせえバカ」
「あいてっ!」

身体をクネクネさせながら唇を突き出してくる億泰の頭に拳骨を1発落とすと、の明るい笑い声が上がった。
あれから父親の状態は至って穏やかに安定しており、も落ち着いた暮らしをしている。きっちり食事をして、ゆっくり眠って、億泰と他愛のない遊びに興じたりして、それなりに楽しそうにやっている。
だが、どんなに楽しそうでも、どんなに馴染んでいるように見えても、形兆はまだ心からを信用する事は出来なかった。
はあの夜、私は騙されてなんかいない、自分の全部を利用されても構わないと言い切ったが、それを心から信じて安心する事など、やはり出来なかった。


「どうしたの、形兆君?ボーッとして。」
「・・・・何でもねぇ。手ェ洗ってくる。」

だから、今はまだ言えないし、言うべき時ではなかった。
近い内に縁もゆかりもない土地へ引っ越しをするなどと言えば、それが引き金となって、やはり逃げ出そうとするかも知れないと考えずにはいられないのだから。
そして、もしそれが現実となった時、それを許す訳には断じていかないのだから。



















形兆が突然にその事を告げたのは2月最初の土曜日、学校から帰って来てすぐの事だった。


「あ・・・・、アニキ、今・・・・、何て・・・・・?」

昼食が済んだ後の席でそれを聞かされて唖然としている億泰に向かって、形兆はもう一度、噛んで含めるように繰り返した。


「来週の金曜、引っ越しをすると言ったんだ。今日これから引っ越し屋が見積もりに来る。段ボールも持って来るっつってたから、受け取ったらすぐにでも荷造り開始だ。分かったな?」
「・・・ちょ、ちょっと・・・、待ってくれよぉアニキィ・・・・。そんな話急に言われてもよぉ・・・・」
「何を困る事があるっていうんだ。荷物なんざ大してねぇだろ。」
「そ、そりゃあそう・・・だけどよぉ・・・・、でも、学校とか、どうすんだよぉ・・・・」
「それも心配ねぇ。学校への手続きはとうにしてある。」

全てをことごとく言い返された億泰は、ぐうの音も出なくなったように口籠った。
兄貴に反抗するつもりはないが、すんなり納得も出来ないといった顔だ。
億泰は今の学校を、この街を、気に入っているのかも知れない。
友達を作るなと形兆に厳しく命じられているらしいが、もしかしたら、気の合う子が一人二人でもいるのかも知れない。
それとも単純に、こんなギリギリになるまで秘密にされていた事が面白くないだけかも知れない。


「分かったらとっとと始めるぞ。まずは親父をあの箱の中に閉じ込める。手伝え、億泰。」
「ふ、ふぁ〜い・・・・・」

だが何であれ、形兆に逆らう事は、億泰には許されていなかった。
そして当然、にも。
しかしそうと分かっていても、やはり黙ってはいられなかった。


「ま、待って、形兆君・・・!」
「あ?何だよ?」

3階へ上がりかけていたところを呼び止めると、形兆はを振り返った。
多分、何かを感じ取ったのだろう、形兆は億泰だけを先に行かせ、に歩み寄って来た。


「・・・何だよ」
「・・・あ、あの・・・・、その・・・・」
「・・・・・・」
「な、何から訊いたら良いのか分かんないんだけど、その・・・」

驚きは大きかった。大きすぎたのだ。あまりにも大きすぎて、訊きたい事がありすぎて、頭の中が上手くまとまらなかった。
が途方に暮れていると、形兆は呆れたように小さく鼻を鳴らした。


「落ち着けよ。ひとつずつ訊きゃあ良いだろ。」
「・・・え、と、あの・・・、その話・・・、いつ決まったの・・・・?」
「2週間位前だ。」
「ど、どこに引っ越すの・・・?」
「C県。空港のすぐ側だ。」

は今まで一度も訪れた事のない土地だった。それは恐らく虹村兄弟にとっても同じ筈だった。
その辺りに引っ越すに至りそうな理由、例えば、親戚がいる等というような話は、今まで一度も聞いた事がなかったのだから。


「C県って・・・・、何で?」
「伯父貴を納得させる為の口実が必要だったんだよ。」
「え、ど、どういう事・・・?」
「ここへ越して来る事になったのは、うちの家屋敷を手に入れたいという伯父貴の都合だった。
けど、今度の引っ越しは奴の意思じゃねぇ。だから、納得させるにはそれなりの口実が必要だったんだよ。
で、ここじゃ遠くて親父が家に帰り難ぇから、空港か新幹線の駅から近いとこに引っ越させてくれと頼んだんだ。」

なるほど、納得のいく話だった。
口実としての辻褄は合っているし、伯父を納得させて手配して貰わなければ、中学生だけでは新居を用意して引っ越しをするなど、とても出来ない。ここまでは大いに納得がいった。
だが、分からない事はまだあった。


「で、でも、そもそも何で急に引っ越しなんて・・・・。何かあったの・・・・?」

3つの誓いを、忘れたとは言わないで欲しい。
その思いを込めてじっと見つめると、形兆は小さく溜息を吐いた。


「・・・・3学期に入ってすぐ、学校にお前のお袋が来た。」
「え・・・・・・?」
「血相変えてお前の居所を知りたがってたよ。警察に捜索願も出したって言ってた。」

は思わず息を呑んだ。
母親が警察にまで届けに行って自分を捜し回っていると聞いて、平然としてなどいられる訳がなかった。


「お母さんは・・・・?何て言ってたの・・・・?」

自分を抑えられず、は形兆に問い質すようにして尋ねた。


「教えて形兆君!お母さん何て言ってたの!?どんな状況だったの!?あの人も一緒に来てたの!?ねぇ!?」
「落ち着けよ。」

腕に縋り付いたを、形兆は素っ気無く振り解いた。


「それを聞いてどうするんだ?聞いて何か変わるのか?」
「っ・・・・・!」

形兆の冷ややかな視線がを貫いた。その衝撃で、は我に返った。


「それを聞いたところで、何も変わりはしねぇ。
たとえお前が今すぐ家に帰ったとしても、お前のお袋は、あのオッサンと別れる事はしねぇ。そんな様子だったよ。」
「・・・そんな・・・様子・・・?」
「校長室でお前のお袋が先公達と話してたのを、偶然通り掛かって立ち聞きしたんだ。
お前のお袋、あのオッサンの事を先公共に堂々と話してたよ。
お前の家出の原因はその男じゃないのかって暗に言われてよ、自分が結婚するのが悪いってのかって、盛大にブチギレてた。」

その時の様子が、目に浮かぶようだった。
家を飛び出した夜の事が否応無しに思い起こされて、はそれから逃げるように俯いた。


「お前の家出に不信感を持ってる奴は誰もいねぇ。捜索願を出したとは言っても、警察もまともに取り合ってはくれなかったらしい。
けど、用心するに越した事はねぇ。家に閉じ籠るったって限界はあるしな。だから思い切って引っ越しを決めたんだ。」
「・・・・そう・・・・」

形兆の言う通りだった。
つい動揺してしまって一瞬心がぐらついたが、考えてみれば、結局何が変わる訳でもない。


「何も心配は要らねぇよ。俺と億泰も一緒だ。俺達がずっとお前の側にいる。な?」
「・・・・うん・・・・」

穏やかに微笑む形兆に、も微笑みで応えた。
すると形兆は安心したように、億泰を追って3階へ上がっていった。
それから間もなく、3階が少し騒々しくなった。
暴れるような物音と、用事が済むまであの木箱の中で大人しくしていろと父親を『躾けて』いる形兆の怒声を聞き流しながら、は昼食の片付けを始めた。
まだ密かに揺れている自分の心から目を背ける為には、何かしていないといけなかった。















引っ越しの準備は着々と進んでいった。
元々ここへ越して来る時に大半の物を処分していたから、荷物が少なかったのだ。
小学校・中学校共に、転校の手続きもつつがなく済んだ。
結局、保護者が一度も出て来なかった事を幾らか不審がられはしたが、それも父親が仕事で留守がちの父子家庭という事を強調すれば、割とあっさり押し切れた。役所も同様だった。
準備はほぼ全て完了し、後は明日の朝、引っ越し屋が来るのを待つだけだった。
決行の日に金曜日を選んだのは、引っ越し先での手続きをその日中に済ませて週明けの月曜日から新しい学校へ登校する為でもあったが、誰にも知られずこの街を出て行きたいからでもあった。
平日の朝ならば、同級生達は学校、の母親は店から帰って寝ている頃で、人目に付き難いからだ。
計画通りに事が進んでいる事にひとまず満足しながら、形兆は1階のの部屋を訪ねた。


「形兆君・・・。億泰君は?」
「もう寝たよ。どうだ、もうすっかり片付いたか?」

一応訊いてはみたが、わざわざそうしなくても、見ればすぐに分かる事だった。
部屋の隅に置かれている2つの段ボール箱、それがの荷物の全てだった。
一方には僅かばかりの衣類と日用品が入っていて、もう一方には学校の制服や通学鞄、教科書の類が入っている。
そのように分けて荷造りするよう指示をしたのは、言うまでもなく形兆だった。


「うん。言われた通りにしておいたよ。」
「よし。」

形兆はそれぞれの中を簡単にチェックしてから、衣類と日用品の段ボールにガムテープをしっかりと貼った。そして、持参してきた何枚かの洋服を、学校用品の入った段ボールの中に入れ始めた。
それを見たは、不思議そうに小首を傾げた。


「あれ?それ、形兆君のTシャツと億泰君の服だよね?何で?」
「ああ、これか?首の所がヨレヨレに伸びちまってんだよ。億泰のも、もう全部小さくなって着られねぇんだ。」
「そう・・・。でも、何でそれをここに入れるの?」
「この箱は、ごみとして業者に処分して貰う。」

そう答えた瞬間、部屋の中に沈黙が満ちた。
張り詰めるようなその静けさを背中に感じながら、形兆は黙って自分達兄弟の古着を箱に納めていった。
自分達の抜け殻で、という存在の痕跡を完全に覆い隠すようにして。
作業が済むと、形兆はその箱にもガムテープを入念に貼った。そして、油性のマジックで大きく『ゴミ 古着・本』と書き付けた。


「・・・・そ・・・だよね・・・・」

やがて、が微かに笑う声が聞こえた。


「私は、学校通えないもんね。転校とか、そういう手続きみたいなの、出来ないし・・・・」

立ち上がって振り返ると、は笑っていた。
全てを捨てて見知らぬ土地へ引っ越す事に不安と躊躇いを感じていながらも、それを気にするまいと無理をしているのが一目瞭然の、ぎこちない笑顔だった。


「その代わり、ここにいるよりかは自由が利くぜ。
明日はバタバタするから無理だけど、土日のどっちか、億泰と三人で出掛けよう。
新しい町探検だ。ゆっくり買い物でもして、外食もしよう。な?」
「・・・うん。楽しみだね。」

楽しげな事を語って聞かせると、の笑顔が幾らか明るくなった。
まるで、いたいけな少女を騙して攫おうとする悪い大人になったような気分だった。


「・・・・楽しくやれるよ。俺達三人、きっと楽しくやっていける。」
「うん。」

白々しいと、我ながら思った。
母親のいるこの街から少しでも遠く離れた所へを連れ去ろうとしているくせに、小手先の甘言で釣ってまでして励ますなんて。
を優しく抱きしめながら、形兆は滑稽なまでに白々しい自分を内心で嗤った。

















翌朝、引っ越し業者は予定通り虹村家にやって来て、テキパキとトラックへの積み込み作業を始めた。家具や電化製品は最低限、その他の荷物も少ないので、積み込みは呆気に取られる位早く終わった。


「荷物の積み込み終わりましたー!こちらのお部屋に置いてある分は、全部引っ越しゴミって事で宜しいですね?」
「あ・・・、は、はい!」

作業員に声を掛けられたは、慌てて振り返って返事をした。
自分の部屋として貸して貰っていた1階の事務所、形兆との大切な思い出が沢山詰まっているこの部屋にいたのは、感傷に浸る為ではなく、出発前の最後のチェックを兼ねた待機の為だったのだが、気付けばついついこれまでの事を色々と思い出してしまっていた。


「んじゃ、こちらに置いてあるものは、全部処分させて頂きますので!」
「は、はい、宜しくお願いします。」

母・和代への決別の手紙を書いた事務机と椅子も、形兆と結ばれ、何度も甘い時を過ごした黒い革張りのソファも、全てゴミとして置いていく事に、はまだ寂しさと躊躇いを感じていた。
形兆は、全部元々ここにあった物だから別に勿体無くも何ともない、むしろ何でそれをうちが金出して処分しなきゃならねぇんだと怒っていた位で、全く思い入れは無さそうだった。その事に対しても密かに寂しさを、いや、悲しさを感じていた。


「・・・・あの、これ、全部どうなるんですか?」

は自分の足元の段ボールを見つめて、思わずそんな事を訊いていた。


「え?ああ、このまま全部ゴミ処理場に持って行きますよ。ちゃんと責任持って運びますんで、ご安心下さい!」
「いえ、そうじゃなくて。すみません、疑ってる訳じゃないんです。その処理場に持って行かれた後、どうなるのかなぁって、ちょっと気になって。」
「え?さぁ〜、それは〜・・・。処理場へ持ってった後の事まではちょっと・・・。うちでやらせて頂いてるのは、その場で引っ越しゴミを引き取ってお客様の代わりに出す、ってところまでなので。」

の質問を曲解したらしい作業員は、少し困ったように笑いながら、言い訳めいた答えを返してきた。
そんな事を訊きたいのではなかった。ましてや、サービスに不服がある訳でもない。
もうこれ以上何か重ねて言えば余計に誤解されそうな気がして、は慌てて笑顔を作り、この話を終わらせようとした。
しかし、それより一瞬早く、作業員がもう一言付け加えた。


「まぁでも多分、最終は全部燃やされるんじゃないですかね。」

何気なくしれっと言われたその一言が、に重く圧し掛かった。


「・・・・そう・・・ですか・・・・」

あんな学校、大嫌いだった。
居場所も楽しい思い出も無く、離れたくない大切な友達もいない。
あんな場所、捨ててしまったところで全く惜しくはない。
家も同じだった。
あの男が居座っているあの家にはもはや、の居場所は無い。
あの男と結婚する事が自分の幸せだと頑なに信じている、信じようとしている母親とはもはや、心を通わせ合う事は出来ない。
それなのに、何故なのだろうか。
自分の全てが燃えて灰になり、何も無くなってしまうような気がするのは。
それがとても怖くて、酷く悲しいのは。


「あ、気になるんでしたらもう一度チェックされますか?間違って大事な物が入ってたら大変ですもんね!」

大事な物は、『家族』だ。
同じ痛みを知り、同じ傷を持つ、虹村兄弟だ。
彼等と支え合って生きていくと、何があっても虹村形兆を信じ抜くと、そう決めたのだ。
もう今更後には退けない、いや、退かない。
は唇を噛み締めて、滲みそうになっていた涙をどうにか食い止めた。


「・・・いえ、大丈夫です。じゃあ、あとお願いします。」
「はい!じゃあそろそろ出発しますんで、宜しくお願いしまーす!」
「はい。」

は手荷物のバッグを持ち、振り返らずに部屋を出た。
今頃、赤茶けた大きな重い木箱を苦戦しながらトラックに積み込んでいるあろう、虹村兄弟を手伝う為に。
彼等と共に、見知らぬ遠い町で、新しい暮らしを始める為に。




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後書き

この作品、元は本当にちょっとした妄想だったのですが、膨らみに膨らんで(汗)、何かもの凄い長丁場になっています。
虹村兄弟はジョジョ4部開始とほぼほぼ同時に出てきていますが、そこに至るまでが長ぇーよ!みたいな(笑)。
兄貴がアンジェロと出遭うのはまだ先です、すんません。